書いて考える

才能の無さゆえか、ペンを手にせず紙も用意せずに考えることはできない。宙にまなざしを向けて腕組みをして考えようとしたことはあるが、まともに考えたためしがない。書きながら考え、書いたものを読んでもう一度考え、書き終わったものを繰り返し読んで何度も考える。ぼくにあっては書くことは考えることである。すでに考えたことを文章として書いているのではない。書いて考えるという行為は、先人たちの言に裏付けられ、今ではこれこそが本筋であるという確信に変わった。

言語は内なる思考の外的表出などではなく、思考の完遂である。
(メルロ=ポンティ)

「考える」ということばを聞くが、私は何か書いているときのほか考えたことはない。
(モンテーニュ)

拙く書くとは即ち拙く考える事である。(……)書かなければ何も解らぬから書くのである。
(小林秀雄)

正確に言えば、書いていない時――たとえば誰かと話をしている時――でも考えているのかもしれない。けれども、書いている時にもっともよく考えが巡っている実感がある。よく考えているとは、深い掘り下げのみならず、眺望点に立って四囲を見晴らすように広がる状態である。ことばと別のことばが、イメージと別のイメージが繋がっていく感覚が満ちてくる。ぼくの仲間が話していても、よく考えているかどうかわからない。しかし、その人が書いているものを読めば考えの程度はわかる。

okano note original

二十歳前から、何も考えずに雑文を書いてきた。書いた結果、少しは考えた足跡を認めることができた。三十歳前から定番のノートを用意し、主題を意識して書く習慣を続けてきた。その延長線上に本を書く機会に巡り合えたし、大量のオリジナルの研修テキストを著す機会を得た。書くことは考えることである。そして、考えることには苦しみが伴う。だから書けば書くほど苦しくなる。しかし、ずっと続けているうちに、やがて苦しさと楽しさが対立せずに一つの行為の中で矛盾しなくなった。つまり、苦しくかつ楽しくなった。

滑稽かもしれないが、自分のノートをOKANO NOTEオカノノートと呼んで、書くことと考えることに関するアイデンティティの紋章としている。体裁を変えサイズを変えて今に至り、書棚には何十冊も並ぶ。今年に入って、以前愛用していたバイブルサイズのシステム手帳に変え、気分も新たにして日々書き、日々読み返し、日々異種テーマと別々のページを相互参照している。趣味でも仕事でもなく、考える習慣として。


「何について書くか」についてめったに深慮遠謀しない。いろんなことに関心があるから、素材やテーマに困ることはない。在庫は増える一方、書いても書いても捌き切れないのが現実だ。などと偉そうに言うものの、いざ「なぜ書くか」という問いには少し困惑する。だらだらと気まぐれ日記を自分のために書いているのではなく、書いたものをこうして公開しているのであるから、誰かに読まれることがわかっている。書いたものを晒して読まれる状態に仕上げるだけでなく、最初から読んでもらうことを意識して書くこともある。たった一人の仮想読者の場合もあり、仲間や知人の場合もあり、テーマに関心を示してくれそうな人をプロファイリングしている場合もある。

ぼくの手書きノートは思いつきから始まる未熟でレアな文章の束だ。それでも、誰かのために書くという意識を強くして文字を連ねる。哲学者野矢茂樹は言う。

「自分の文章を読む相手をリアルに感じることだ。あなたは自分でよく分かっていることを書く。しかし、読む人はそうではない。(……)自分が分かっていることを、それを分かっていない人の視線で見つめながら、書かねばならない」(『哲学な日々』)。

ここまで言い切れるほどの自信はないが、読み手をある程度想定しなければ、文章が独りよがりになることを心得ている。時々わけのわからない術語を使ったり難文を綴るのは、まだまだぼくがテーマの難度に釣られてしまうからで、文才未だ熟していない証である。

宙ぶらりんな「なぜ書くか」にけりをつけたい。誰かに向けて書くことによって、考えるきっかけを摑めるからである(拙文を読んでもらえればささやかな考えるきっかけを摑んでいただけるからと厚かましく思っている)。書かなければ、自分も他人も見えないからである。書いて、そこからまた考えることが始まる。渡り鳥が飛び続けるように、マグロが休みなく泳ぎ続けるように書ければいい。書かなければ生命が脅かされるような気になればいい。とは言え、誰のことも意識せず、書きもせず、したがって考えもしない時間と行為は一日のかなりの部分を占めている。だから、そういう時間と行為については何も書くことがない。テーマにならないし、書くに値しないからである。

考えたいという一心で書けば書くほど、しかし意に反して、カオスに向かう。脳内が混沌としてますますわからなくなる。それでもなお、もがくようにして性懲りもなく書く。書くことをやめれば、平穏な秩序が戻ってくることを承知している。すっきりとした部屋でくつろぐように知は落ち着くだろう。しかし、これが知の劣化の始まりなのである。

カオスが常態になり習性になってしまった。手書きのノートを推敲して公開しようと思い立ったのが20086月。以来、七年半の歳月を経て、本ブログは今日1,000回という節目を刻んだ。のろまであったか、まずまずのペースであったかはどうでもいい。四百字詰め原稿用紙に換算して約4,500枚。新書サイズに換算すれば15冊に相当する文章の集積である。万感こみ上げるものなどないが、これまで書いてきた文章の巧拙がぼくの思考の巧拙にほかならない、と冷ややかに振り返っている。

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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