理屈を通すべき時

口うるさいオヤジが見当たらない。なるほど、軽い気持で若者に注意したら、車中やコンビニの前で逆切れされて身に危険が及びかねないご時勢だから、誰彼ともなくやみくもに注意したり説教を垂れたりするわけにはいかない。彼らにも人を諭しにくい事情がある。いまここで言う「口うるさい」とは、そんな見ず知らずの、わけのわからぬ連中への小言のことではない。ここぞと言うときの筋の通し方についての話である。

旧勉強会で幹事を務めてくれたS氏のブログにおもしろい話が載っていた。おおよそこんな話である。ある機構の巡回指導員が会社にやって来て、ひとしきりチェックをした後で「だいたいは出来ているので、特に指導する内容はない。今後も引き続き重点的にコンプライアンスに取り組んでいただきたい」という所感があったという。その会社の代表であるS氏は、「だいたい」ということばに鋭く反応して、「『だいたい』の意味がわからない。判断は出来ているか出来ていないかのどちらかのはずだ!」と少々語気を荒げて、「だいたい」ならばどこかに改善の余地があるはずだから教えてほしいと食らいついたのだ。

「ことばのアヤじゃないか、大人気ない」と言い放つのは簡単である。ぼく自身はS氏のようにアグレッシブには反応しないと思うが、彼の「事は出来ているか出来ていないかのどちらか」という言い分には筋が通っている。なるほど100パーセントなどというものはなかなかないだろう。だから指導員が90点と判断して、それが自分の合格基準を満たしていれば、「よく出来ています」と総括すべきなのである。「だいたい出来ている」という寸評に対して、真面目に取り組んでいる職場であればあるほど、その「だいたい」ということばで示された足りない部分を聞きたくなるのは当然のことである。


指導員の「だいたい」は、責め立てるには気の毒な、あどけないことばの弾みなのか。そうではない。何事に関してもそんなふうに物事を中途半端に片付ける性向をもつ人なのだ。「70点です。足りない30点はこれこれのポイントです」と言うのが良識というもので、「だいたい」ということばは何か奥歯にモノを挟んでいる。実際、このような灰色的言動で御座なりに生きている連中がそこらじゅうにいる。誰かを紹介するときに「こちら、○○さん、一応・・本会の会長です」などと平然と言ってのける者がいる。失礼もはなはだしい。人を「とりあえずビール」のように扱っているではないか。その人を紹介した男に対して、ぼくは即刻「一応などという言い方はやめなさい!」と叱責する。

繰り返すが、ちょっとしたことばのアヤだとか舌が滑ったのではない。それは口癖であり、口癖は長年の習慣によって形作られた性格、ひいては人間関係の処し方をありのままに反映するものなのだ。何かにつけて「そう、変ですよねぇ~」と言う知人に「何が変?」とぼくが聞き返して、まともに返事が戻ってきたためしはない。それはただの場つなぎ、または同調目的の口癖であって、何かをよく考えた結果の相槌などではない。軽はずみにこのような形骸語をつい洩らしてしまうのは責任感の欠如にほかならない。

しかも、不幸なことに、こういう連中に一言注意しようとする理屈を通すオヤジがめっきり少なくなった。そっぽを向かれたり嫌われたりするのを恐れるオヤジどもが増えたのだろうか。それとも理屈派が棲息しにくい世の中になったのか。ところで、一世を風靡した「だいたいやねぇ~」をトレードマークにしていた評論家がいたが、冷静に考えれば「だいたい」ということばには反論を未然に防ごうとする思惑が隠されている。なにしろ「だいたい」なのだから、反論しようにも狙いが絞り切れない。「だいたいやねぇ~」を怒りではなく笑いの対象にしたのはしたたかな老獪ぶりだ。しかし、S氏の前に登場した男の「だいたい」には笑えない。イエスかノーしかない場面で「だいたいイエス」という発言に怒りを覚えるのは正常なのである。

ただ、理屈を通す側も自制を忘れてはならない。自らの品格をおとしめてまで激昂しないことである。理屈にはエスプリが欠かせない。叱りつけても最終的には笑い話として仕上げるのが小言オヤジの生き残り方法であると思う。「理屈がだいたい通った」と判断したら、さっさと切り上げるのが正しい。

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proconcept

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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