けちをつける愉しみ

「人は忘れる。だから生きていける。」 

缶コーヒーの車内広告である。缶コーヒーの宣伝に「忘却と人生」? なかなか凝ったものだ。商品写真横のキャプションには「強く、香る。強く、生きる。」とあって、このコピーライターが「生」をコンセプトにしたのは間違いない。生きることに強くこだわるような事情があったのだろうかと勘繰ってしまう。コーヒーとはいえ、ちょっと焙煎過剰な表現に場違い感を受けた。

たかが広告ではないか。こんな些細なことにけちをつけることはあるまい。けれども、ぼくはけちをつけ毒舌を吐くことを愛情もしくは関心の一表現または一変形だと思っている。そもそも人はどうでもいいことに対して肯定も否定もしないだろう。また、眼中にすらないことをわざわざ話題として拾わないだろう。それゆえ、言いがかりやイチャモンをつけるのは、対象を批評に値すると承認している証にほかならない。反証されることは自慢すべきことなのである。

(……)役所に猛烈な苦情や文句をぶつけるばかりで、みずから解決のために奔走することを考えもしない「クレーマー」たち。(……)「クレーマー」は他者の責任を問いつめるが、そのクレームが「もっと安心してシステムにぶら下がれるようにしてほしい」という受け身の要求であることに気づいていない。(鷲田清一著『わかりやすいはわかりにくい?――臨床哲学講座』)

ぼくは上記の引用にあるようなクレーマーではない。広告の文章にけちをつけはするが、苦情や文句をメーカーにぶつけてはいないし、責任を問いつめもしていない。ぼくは真摯かつ臨床哲学的かつ愉快に広告コピーを検証しようとしているのだから。


クレーマーがつけるけちは理不尽であり、相手が弱いと見るや際限なく垂れ流され増長し続ける。ぼくは、消費者があまり見向きもしない車内の小さな広告を気に留めて、「ダメだ!」などと声を荒げもせずに、静かにけちをつける。このコピーライターは、そしてゴーサインを出した広告主は、なぜ「人は忘れる。だから生きていける。」などという大胆な命題を見出しにしたのか、いったいその真意はどこにあるのだろうか……というふうに。この広告のヘッドラインになっている命題の真偽を、あるいは蓋然性を問うてみるのはおもしろいと直感した。

生きていくうえで忘れることが時々たいせつであることを認める。しかし、「忘れるから生きていける」は論理の飛躍だ。前提が少なくとも一つ足りない。よろしい。論理の飛躍をオーケーとしよう。たしかに、忘れるそいつは平気で厚かましく生きていけるだろう。しかし、忘れる当人の周囲がどれだけ迷惑していることか。ぐいっと缶コーヒーを飲んで何もかも忘れて、そいつは今日も明日も生きていくだろう。だが、やっぱりそんな記憶力の乏しい者は仕事ができるはずもないから、また人さまに迷惑をかける。

「人は忘れる。だから生きていける。」は、「人は忘れる。だから生きていけない。」という反対命題によって揺らぐだろう。もしかすると、命題は崩されてしまうかもしれない。また、「人は忘れない。だから生きていける。」という思い出重視派からの反論も有効になるだろう。いずれにしても、缶コーヒー一本で嫌なことを忘れて生きていこうというのがメッセージなら、そこで消し去ろうとしている記憶そのものが取るに足りないものであることは間違いない。

現在日本社会が抱えている大半の問題が、人々が忘れることによって繰り返されているのを見るにつけ、とりあえず安易な忘却に異議申し立てしておく。「ぼくは忘れない。だから生きていける。」

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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