過剰なグローバリズム

「世界に開かれる」などと言うが、摑みどころのないのが世界であってみれば、いったいどこに開かれると言うのだろうか。グローバル化の前は長らく国際化という表現が使われてきた。「国際の」や「国際的」はインターナショナル(international)の訳だから、二国間でも国際、数ヵ国でも国際だ。たとえば国際関係と言う時、国は不特定多数の匿名ではなかった。名のある国との関係を意味していたはずである。

幕末から維新の時代、日本は世界に開かれた。当時、世界とは世界の隅々という意味ではなく、イギリスでありアメリカでありドイツであった。日本は政治、経済、教育、技術をそれぞれの国の方法や制度に倣ったのである。江戸時代以前は朝鮮、中国、ポルトガル、オランダの各国と「国際関係」にあった。概念的な世界ではなく、具体的な国々に開かれていたのである。

時代を経て関係は複雑を極め、国際と呼ぶにしても、国はおびただしい。したがって、いちいち国名を挙げることはなく、抽象的で一般的な表現になってしまった。そして、ついにグローバルになる。文字通り地球的なのだから、さらに個々の国の存在感は希薄になった。いったいグローバル化とは何だろう。日本企業のグローバル化、グローバルな視点、人々のグローバル感覚……ますます摑みどころがなくなったような気がする。


閉じた社会よりも開かれた社会のほうが未来が明るそうに見える。窓のない部屋よりは窓のある部屋のほうが開放的であり、開放感は自由と希望の可能性を約束してくれそうだ。だから、たとえば「暗黒の中世」に終止符が打たれ、近世以降、近代、現代と国々は世界に開かれてきた。ところが、異種の価値に寛容であり続けようとしても、度量には限度がある。昨今の保守主義、反移民などの流れを見ていると、国も組織も人もグローバリズムが手に負えなくなったかのようである。

鎖国から開国へ、一国から外国へ。誤解を恐れずに言えば、開国や外国指向は、自力で補えない部分を他力に依存することでもある。自力でやりくりするのも容易ではないが、その自力と他力の兼ね合いにはいっそう心を砕かねばならない。経済の基盤を輸出に頼り過ぎても輸入に頼り過ぎてもうまくいかない。グローバル化に適応すべく机上で立てる概念戦略と、諸々の人々や国々が入り混じる国境なき一つのステージでの実態は同じではないのである。

過剰なグローバリズム現象から、ウェブにどっぷり浸かっている人間の姿もあぶり出されてくる。ウェブのグローバル化は経済のそれの比ではない。外部の情報への依存過多になると、自力思考を失う。知のグローバリズムでどのように自他の間の線引きをするかが問われている。知りたいと願い、知らねばならないと強迫観念にとらわれる情報症候群は、すでに1980年代に危惧されていた。当時と違って、定数的要素が減り、変数的要素が累乗的に増えている現在、ぼくたちは大きく開かれた世界に投げ出されてしまった格好だ。泳ぎきる能力はありそうもない。溺れる前に身の丈に応じた知の保守主義策を講じるべきだろう。つまり、情報に依存せず、情報をなかったことにしてしまう知恵である。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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