逆説の眩しい光

1975年、新潮社が読者向けに録音テープを流すサービスを始めた。読者が電話をかけると、作家の肉声による作品紹介が聞けるという仕組みである。その後30年間続いたらしい。残っているテープのうち星新一の肉声が何年か前にテレビで紹介された。「アポロ以来、宇宙がしらけてしまって書きにくくなった。これからは日常の異常に……云々」と言って、当時の新作『たくさんのタブー』の案内が流れた。

アポロが月面着陸したのが1969年。この頃を境に、知らなくてもいいこと、知らないほうがいいことまでもが広く伝達されるようになったような気がする。それでも、現在の情報過剰に比べればまだまだ大したことはなかった。当時、何かを知ろうとして調べものをするにはかなりの覚悟が必要だった。欲しい情報が見つかる保障がまったくなかったからである。

宇宙もそうだが、未来や過去の魅力と不思議に触れるのは愉快である。想像の限りを尽くしてもなかなか見えない。しかし、もし何もかもがはっきりと見えたりわかったりすると、おそらく想像力は出番を失い、ロマンティシズムの芽も摘まれるだろう。リアリズムだけの世界は殺風景である。


日常の種々雑多な現象や動向に目を向けると、「何かが違う、何かが変」という感覚に陥ることがある。そう感じるのは、自分のありようが常態で当たり前だと信じているからだ。現象や動向を不可思議だ不条理だと感じる時、実は、こちらの見方がまともだという前提に立っている。「?」を投げ掛ける側もまた、投げ掛けた相手からすれば「?」の付く存在であり、異様な発想をしているように映る。しかし、逆説を唱える側は逆説がタブーなどとは考えていない。

日常の異常にケチをつける。異常をもたらしている張本人は異常と思っているはずがない。そういう連中が多数派を占めると、ケチをつける少数派が異常だと見なされるが、何が正常で何が異常かはそもそも多数決で決まる話でもなければ、判断基準があるわけでもない。だから、「そうじゃないだろう」と逆説を示そうと意地を張る。

一見真理に反しているようであるが、真理の一面を表わすのが逆説。しかし、あくまでも説であるから、反真理的考え方や言い回しの真理性については決着を見ないし、仮に証明できたとしても、真理の一面などはいくらでもあるから、別の逆説を提起されることになる。であるなら、逆説に意義などないのではないか。いや、そうではない。逆説は眩しい光を放つ。結果としての正邪は別にして、日常の価値観をご破算にして見つめ直す機会を授けてくれる。だから、そう簡単に逆説癖を改めるわけにはいかないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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