五輪(2)~ルールとフェアネス

ルールが変わっているかもしれない。リレハンメル当時は、スキージャンプ競技ではスタンバイ信号が赤から青に変わってから15秒以内に滑走を開始しなければならなかった。スピードスケートのスタートも用意の合図からスタートまでの2秒間微動だにしてはいけなかった。

ジャンプで失格となった選手、スピードスケートで二度失敗した選手。両者とも、気の毒なことに、はるばるノルウェーまでやって来て、スタートを切ることなく去っていった。情状酌量の余地は、微塵もない。しかし、この二例とは対照的に同大会で再試技が認められた選手がいた。覚えている方もいるだろう、フィギュア選手トーニャ・ハーディング、その人である。スケート靴の紐にトラブルがあったらしく、フリーの演技中に審査員に泣きついたのである。

これを認めてしまった。認めるということは、ルールの未熟性を暴露することに等しい。フェアネス(公平性)とは正々堂々の精神であり、つまるところ「潔さ」でもある。再試技はフェアネスに反する。


これがルールとして許されるのなら、トリプルアクセルで転んだのは目に埃が入ったからだの、フィニッシュが決まらなかったのは脚が疲れたからだのと申し立てればよい。屋外のスキージャンプでは風や天候という外的要因と闘わねばならない。それでもルール違反は大目に見てもらえない。屋内の、しかも選手自身の人的コントロールが可能な競技に例外があってはならない。

例外なくルールが適応されるからフェアネスが保たれる。そこにスポーツの潔さを垣間見る。昨日・一昨日とアメリカの金メダル候補の有力選手が、水泳・陸上の最終選考会で落ちた。十回に一回の敗北かもしれないし、出場させてやりたいという人情も働くが、ルールはルールだ。

人はやみくもにフェアであることはできないだろう。しかし、一つの例外を許せば、その他のすべての約束体系をモデルチェンジしなければならなくなる。フェアであるためには万人に平等なルールが必要なのだ。もちろん実社会では杓子定規にはいかない。いかないからこそ、ルールは厳格であるよりも、まずは明快であることを優先すべきだろう。

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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