まねるべきお手本

いろんなテーマについて数え切れないほどの研修テキストを著して今に到っている。主義として苦手なことや不案内なことは書かない。自分が理解していること、実際に習慣として実践していることだけを文章にする。しかし、それだけでは独りよがりになることがあるので、なるべく象徴的な事例やエピソードで自論を補う。学び手にとってサプライズがあるかどうかが選ぶ基準である。

以前、ブランドをテーマに取り上げたことがある。小さな会社にとっては、羨ましくもなかなか手にしづらい品質と信用の記号である。商品やサービスはおおむね「機能的価値」と「記号的価値」を併せ持つ。たとえば、喉を潤すだけなら水は機能的価値を有していればいい。無性に渇いているならペットボトルの天然水であるか水道水であるかはひとまず重要ではない。天然水と水道水の間には飲料水としての機能的価値に大差がないのだから。

ところが、健康や安全、あるいはボトルのデザイン要素やネーミングやメーカー名などの記号的要素が加味されると、そこに無視できない差が生まれる。ペットボトルに入った天然水なら150円になるが、水道水にそんな値段はつかない。機能的価値に加えて記号的価値が大きくなればなるほど「ブランド力がある」ということになる。但し、水道局が作る「うまい水道水」がペットボトル詰めされてテイストの良いデザインのラベルが貼られたら、これはブランドへの道を一歩踏み出したことになる。

この種のブランドの話をわかりやすく説明するには、小さな会社や商品のブランド事例のほうが身近で参考になる。それでも、意表をつく発見や驚きはいる。手を伸ばせば届く範囲のお手本や同規模・同業種の先行事例を学べば確かによくわかるだろうが、学習効果には見るべきものがない。だから一流ブランドの事例であっても、そこに想定外の題材があるならば積極的に取り上げるべきなのだ。


ウィリアム・A・オールコットは『知的人生案内』の中で次のように語る。

自分の行動の基準を高すぎるところに置くのは危険だという考え方がある。子供には完璧な手本を習わせるよりも、やや下手な手本を与える方が、ずっと速く字を覚えるという教師もいる。完璧な手本を与えられると生徒はやる気をなくしがちだが、生徒よりちょっとうまいという程度の手本なら、自分もすぐにこのくらい書けるようになると思って、やる気を出すというのである。しかし、その考え方は絶対まちがっている。手書きのものなら、子供にはできるだけ上手な手本を与えた方がよい。子供は必ずそのお手本をまねるはずである。どんな子供でも、少しでもやれる可能性のあることなら、自分でやってみようという向上心をもつはずである。 

ぼくの意見とはだいぶニュアンスは違うが、できるだけよい手本を目標にすべきという主張には賛同する。ぼくの考えはもっと過激だ。選択肢が二つある時、まねできる可能性がまったくなくても、また、手本と自分の実力の差に愕然としてショックを受けようとも、レベルの高いほうをつねに手本にすべきである。自分に少し毛の生えた程度の手本に満足してはならない。

初心者だから先輩の素人が描いた絵をお手本にするのがいいのか、初心者と言えども古今東西の一流の作品を見せるべきか。「わかりやすく、まねしやすい」をお手本選びの判断基準にしてはいけない。構図であれ色調であれタッチであれ、太刀打ちできない印象を与えるものをお手本にするべきだろう。二流を参考にして上達しても一流にはなれない。結果的に一流になれずとも、目指すべきは一流でなければならない。そうでなければ二流にもなれない。

手本に学ぶ。手本通りにいかないし、手本のレベルにも到達できないことが多い。それでもなお、手本を一流のものにしておけば御手並拝見できる「眼力」はつく。絵は上手に描けなくとも一流の鑑賞眼を身につけることができる。料理が作れなくても味覚を研ぎ澄ますことはできる。チャーチル首相は言った、「私は卵は産めないが、卵が腐っているかどうかはわかる」と。 

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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