文字にしてわかること

目を閉じて腕を組み考えている。傍からは考えているように見えるだろう。だが、目を開けて腕組みをほどくと、明瞭な考えを巡らしていた痕跡が何一つないことに気づく。何だか渺茫びょうぼうとした平原をあてもなくさまよってきたかのよう。つかみどころのないイメージはおびただしく現われては消え、消えては現われた。ことばの断片だって見えたり隠れたりもした。一部の語は響きもした。しかし、考えていたつもりのその時間のうちに豁然かつぜんとした眺望が開けていたのではなかった――ということが後でわかる。

考えるということは雑念を払うことではない。むしろ、雑多なイメージや文字の群れを浮かばせては、その中に紛れ込み、そこから何かを拾い出して結んだり、ひょいとどこかへ飛び跳ねたりすることだろう。ぼくは沈思黙考という表現を好むが、現実の思考にはそんな落ち着いた趣はない。もちろん瞑想とはさらに距離が隔たる。雑念を払おうとする瞑想は、ものを考えるという行為の対極に位置すると言ってもよい。

考えているプロセスは、実はぼくたちにはよくわかっていない。また、考えたことと紙の上に書いていることはまったくイコールではないのである。腕を組んで考えたことのある部分は漏れこぼしているし、いざ書き始めたら考えもしていなかったことを綴っていたりする。考えたことを書いていると思っているほど、考えたことと書いていることが連動しているのだろうか。むしろ、書いている今こそが考えている時間であり、次から次へと現われる文字の群れが思考を誘発している気さえする。


あることばや漢字がなぜこのように綴られ発音されているのかが急に気になり出すことがある。さっきまでふつうに使っていたのに、ふと「ぬ」という文字が変に見えてきたり、「唐辛子」が人の名前のように異化してきたりする(「変」という文字が変に見えてくる話を以前書いた)。今朝は「一」が気になり、これを「いち」と読むことがさらに気になり、その一に「人」や「品」や「点」や「匹」がつくことがとても奇妙に思えてきた。それで、目こそ閉じはしなかったが、ぼんやりと「一」について考えていたのである。

ふと我に返れば、まっとうなことを考えてなどいなかったことがわかった。考えているつもりの大半が「ぼんやり時間」なのだろうと思う。試みにノートを取り出して「一人」と適当に書けば、何となくその文字に触発されて「一人でも多くの人」という表現が浮かんだので、そう書いた。そして、「一人でも多くの人に読んでほしいと語る著者の本心が、一人でも多くの人に買ってほしいであったりする。読まれなくても買ってもらいさえすればいいという本心。では、ぼくたちは、一人でも多くの人に本心からどうしてほしいと思い、どうしてあげようと思っているのか。明文化は一筋縄では行かない」と続けた。

ペンを持って紙の上を走らせるまではそんなこと考えてもいなかった。いや、考えていたかもしれないが、言語的には何一つ明快ではなかった。おそらく、「一」という対象に意識が向けられて、かつて考えたり知ったり経験したりした脳内のことばやイメージが起動したのだろう。そして、リアルタイムで書き、その書いている行為がリアルタイムで考えを形作ったと思われる。「下手の考え休むに似たり」に通じるが、文字化せずに考える時間は凡人にとっては無駄に終わる。とりあえず書く。書くという行為は考えるという行為の明快バージョンと見なすべきかもしれない。

書きたいこととタイミング

非売品を別として、ぼくが公に上梓した本は二冊。二冊目を書いてからすでに10数年が経過する。「なぜ本を書かないのか?」と聞かれること頻繁であり、「なぜ書けなくなったのか?」と失敬な詰問を浴びせられたこと一、二度ではない。本が書けないならブログも書けないはずではないかと反論したいところだが、これは反論になっていない。なぜなら、本を書くこととブログを書くことの間に緊密な連鎖関係があるとは思えないからだ。

わが国のブログ投稿数は世界一。しかし、本も同時に書いているブロガーはごく一部だろう。また文筆・著作で飯を食っているプロの誰もがブロガーであるわけでもない(あれだけ多忙で自著の多作な茂木健一郎が英文も含めて34種類のブログを毎日午前7時台に更新しているのは驚嘆に値する)。それはともかくとして、ぼくは本を書かないと決めたわけでもなく書けなくなったわけでもない。事実、こうして綴っているブログ記事を発想ネタとして原稿を編集したり推敲しているし、まったくブログで公開する意図のない文章もせっせと書いてもいる。書く気は大いにあるし、いつでも書けるようスタンバイしている。ただ、心理や経緯はどうであれ、ここ10数年書いていないというだけの話である。

この10数年編んできた研修・私塾用テキストの総数は、書籍にすれば優に30冊に達するだろう。何でも出版すればいいというわけではないが、気に入ったものだけを厳選しても確実に56冊にはなる。実を言うと、見えない読者を想定して本を書くよりも、目の前にいる聴き手に語るほうに力を入れてきたまでである。語りと著作は両立するのだが、一方的に語りに傾いたという次第だ。なぜそうなったのか。二冊目の後に書き始め、原稿が半分以上完成した時点でストップした一件がきっかけになっている。


出版社も決まっていた。テーマも仮題ではあるが方向性は明確になっていた。それは、当時世間を騒がせていたカルト宗教や霊感商法や詐欺などで素人を罠に嵌める悪人ども、さらには今で言うパワーハラスメントや業者泣かせの企業や詭弁・屁理屈で弱者を虐げる連中に負けない「強い論理と賢い眼力」にまつわるテーマである。ぼくがディベートを熱心に指導していた頃なので、とある出版社がやって来て、「実践的なディベート技術の本を書きましょう」ということになったのだ。

手元の原稿には仮題が二案記されている。一つは、『眼力を鍛えるサバイバル・ディベート』(帯の案として「悪徳商法、強引な勧誘、ゴリ押し説得を論破するテクニック」)。もう一つは、『世紀末を生きるディベート武装術』。後者のほうが最終案になったような記憶がある。なにしろ全ページ分の素材がメモ書きしてあるし、章立ても詳細な目次も出揃っていて原稿も半分できているのだ。章だけ紹介すると、第1章「是非を見分けるディベート発想」、第2章「あなたの近くに忍び寄る世紀末症候群」、第3章「悪意や虚偽に負けない看破と論破のテクニック」、第4章「人生の歯車を狂わせない自己危機管理」。

今なら絶対に用いないと思われる表現が目次の小見出しで踊っている。少々ではなく、だいぶ気恥ずかしい。ともあれ、計画は中止になった。出版側が挫折したからでもなければ、原稿が遅延したからでもない(ぼくは決して遅れない。足りない才能を納期遵守力でカバーするタイプである)。出版社の社長と話をして、「この本は時節柄ちょっとまずいのではないか」ということになったのである。恫喝や脅迫、場合によっては物理的嫌がらせすらありうると考えたのである。さほどその類の恐怖の影に怯えることはないが、結果的に断念することにした。前後して、「正論」を吐いた人たちが悪意ある連中に威嚇された事件が相次いだので、中止は賢明な判断だったのだろう。

その出版企画の話をしたら、「完成させましょう」と言ってくれた人がいる。もう結構、一度外したタイミングへの未練は禁物である。人はなぜいともたやすく騙され、疑うよりも信じることに走り、誰が見ても胡散臭い人物に傾倒し、ありえないほどうますぎる話に乗っていくのか……正直言って、今も関心のあるテーマだし、いつの時代も「旬」であり続けるだろう。しかし、寝食忘れてまで執拗に追いかけてこそテーマが意味を持ち、書くに値し書きたくてたまらないテーマへと昇華する。今はこのブログを書きながら、「よし、これだ!」というテーマとタイミングを狙っている。そして、タイミングがテーマよりも重いことを痛感している。 

話すことと考えること

シネクティクスという創造技法がある。本格的な実施方法について語る資格はない。おおよそ説明すると、あるテーマについてコーディネーターが数人のメンバーを対象に質問を投げ掛け、「イメージ優先」でアイデアを引き出していく。まるで何のよう? と尋ねたり、それと反対のものは? と聞いてみる。参加者は前言者の意図を汲んだり思い切ってジャンプしたりと縦横無尽……。精度の高さを求めるような深慮遠謀を極力避けて、やや軽薄気味にアイデアの量を求める。

この技法を実践するにあたって「考える前に話せ」という心得がある。〈話す前に考えるのは批評のモットー、考える前に話すのが創造のモットー〉というのがそれだ。もちろん、この話はシネクティクスだけに限らない。どこかの国の大臣のように、無思考で舌を滑らせるのは論外だが、「下手の考え休むに似たり」という謂もある。よい知恵もなくムダに考えるくらいなら、とにかく話してみようではないか――これがシネクティクスの精神。「下手なトークも数打てば当たる」に近い。

「話すと考える、どっちが先?」というテーマについては以前も取り上げた。このことに関しては定期的に書いて考えている。そうせざるをえない状況に最近よく遭遇する。そもそも話すことと考えることを切り離すことはできないし、「後先の関係」に置くことすらできない。ことばに結晶化していないうちは、考えはボンヤリとしてつかみどころのないものであって、ことばにして初めて概念や意味や筋道の輪郭がはっきりしてくる。つまり、ことばにするからこそ思考が体感できると言い換えてもいい。もちろん異論、異見はあるだろう。


クオリアのような鮮明な感覚とは違って、脳内で生起しうごめいている思想や概念はなかなかあらわになってくれない。たとえば、ぼくは今キーボードを叩いて文章をしたためている。すでにタイトル欄には「話すことと考えること」と書き入れた。だから書くべきテーマはわかっているつもりである。上記の三つの段落もだいたいイメージしていた通りに綴ってきて、この段落に至っている。但し、論理・筋道は、書く前よりも書き上がってからのほうが確実にはっきりしている。全文書き終わってから推敲してみるので、さらに自分の考えていることを明瞭に確認できるかもしれない。

話し書くことに高いハードルを感じている人たちがいる。能力があるのにもったいないと思う。話すことでも書くことでもいい、中途半端に考えている暇があったら、とにかく話し始め書き始めればいいと助言したい。少々の粗っぽさや言い間違い・書き間違いくらい構わないではないか。まず話し書くことのフットワークを軽くしてみるのだ。音声にしても文字にしても不思議なもので、口をついて出る情報やペン先から滲み出す情報が思考を触発してくれる。それが稀ではなく、頻繁に起こる。

ネタがなければ考えられない。そう、思考の源泉は情報である。見たり聞いたりして外部から入ってくる情報が刺激を与えてくれる。しかし、情報のことごとくが外部からやって来るわけではない。自分のアタマの中にだって大量の情報がストックされている。だから、音声を発したり文字を書いてみれば、その行為が内なる情報を起動させ、その情報からことばが派生して思考を形づくってくれるものなのだ。無為に考えても時間が過ぎるばかり……。そんなとき誰かに話しかけてみる、あるいは紙にペンを走らせてみる。中毒症状が出てくるほど、「考える前に話し、考える前に書く」を実践すればいいのである。

結局、本をどうすればいいのか?

用語の定義にあたっては、「定義される用語が定義することばの中に含まれてはいけない」という法則をパスカルが示している。読書を「本を読むこと」とした時点で、「読」ということばが使われているので、パスカル流の定義法則に反する。とは言え、この厳密な法則を適用していくと、「天使の辞典」はほとんど成り立たなくなる。

それにひきかえ、「悪魔の辞典」は楽だ。何でもありである。世間で異端視されているだけに、余計に気楽である。「なるほど」という妥当性を実感する回数は、言うまでもなく、悪魔のほうが天使よりも多い。

ここ数週間のメモを繰ってみた。読書に関しての気づきはさほど多くない。「読者にとって本は二種類に分かれる。傍線を引くか、引かないかである」という意見を書き、別のところでは、「本は編集視点で物語と非物語の二つに大別できる」と記している。自宅の書棚もオフィスの書棚も、まだこんなふうに分類して並べてはいないが……。


読書についてぼくの最新の定義を紹介しておく。

【読書】 本の体裁に編集された外部の情報と、自分のアタマの中に蓄えられている内部の情報を照合すること。

この中の「照合」がわかりにくいかもしれない。老舗の天使の辞典である広辞苑によれば「照らしあわせ確かめること」。えらく差し障りなく定義するものだ。そのくせ、さきほどのパスカルの法則には堂々と反している。

不満はさておき、本の情報と自分のデータベースを照らし合わせるのが読書である。まったく重ならないこともある。取り付く島がないほど面倒見の悪い本か、自分のデータベースが貧弱すぎるかのいずれかだ。たいていの書物と読書家の知識は、程度の差こそあれ、重なるものである。重なる部分を確認したり記憶を新たにしたり、本に攻められて一方的に情報を刷り込まれたり、何とか踏ん張って持ち合わせの知識で対抗したり、コラボレーションしたり完全対立したり、好きになったり嫌いになったり……。照合とは、縁の捌き方でもある。


出張中の三日間、読書について書いてきたが、キリがない。けれども、今月からスタートした書評会は「本をどうするのか」への一つの方向性を示すものになるだろう。「本は買ったり読んだりするものではなく、書くものである」というユダヤ格言がある。まったく同感であり、これまで売れない本を二冊書いているが、この十数年間は読者側から修行をだいぶ積んだので、三冊目を書いてみようという気になっている。