言及の有無について

言及とチェック.jpg話し手(書き手)が何について語り(書き)、何について語っていない(書いていない)のかを見極めるのは、話し手(書き手)の意図を理解するうえで重要である。言及されていることとされていないことを読み分け聞き分けるからこそ、わからないことについて問うことができる。問い下手はだいたい聞き下手・読み下手と相場が決まっている。書名を忘れたが、以前読んだ本に言及について次のような例があった。

「この町では肉を煮て食べることを住民に禁じる」という町長の通達が出た。この通達文を読んだ旅人が次のように推論した。「わたしは住民ではなく旅人だから、この禁止事項は当てはまらないだろう。それに、煮て食べなければ、たとえば焼いて食べるのであれば、肉を食べても罰せられないはずだ」。
さて、この旅人の推論は妥当だろうか。
 
残念ながら、妥当ではない。この町長の通達で言及されたことだけがすべての禁止事項とはかぎらないからだ。いろいろある禁止事項のうち、「肉を煮て食べること」だけに言及したと考えるべきなのである。もとより、「煮て食べることの禁止」が「焼いて食べることの容認」になるはずがないから、早とちりの推論と言わざるをえない。同様に、「住民に禁じる」というくだりから「旅人には禁じない」という結論は導けない。要するに、町長の通達で言及されたことだけが禁止事項であると勝手に解釈してはいけないのである。
 

 自分が話し手(書き手)であるときを思い出してみればいい。何について語っているのか、何かを語っていてもすべてについて一気に語れているのか……そんなことはできない。たとえば象について語るとき、脳裡で象のイメージが一目瞭然的にはっきりしているとしても、これをことばによって説明するときは順序制御的にならざるをえない。象が大きいという描写から入るか象は鼻が長いという描写から入るかなど順番がある。そして、描写しているうちに、象が灰色であることを言い忘れるかもしれない。時間に制約があれば、話の予定に入れていたはずの餌や棲息環境、人間との共生については言及できなくなってしまうだろう。
 
いまぼくはものすごく当たり前のことを書いている。つまり、人は何もかも話したり書いたりなどしていないし、することもできないということだ。だから文脈や行間に目を向けないで額面通りに解釈してしまうと曲解・誤解まみれになる。人の話を真剣に聴くことを「傾聴」と言うが、語られたことだけを聴いて理解して終わらない。むしろ、語られなかったことを聞き分けて推論し、許されるならばヒアリングにまで踏み込んでこその傾聴なのである。
 
最後に身近な言及の例をご紹介しておく。大阪名物の串カツの店には「ソースの二度づけお断り」という注意書きがある。この注意書きを見て、「二度づけはダメでも、三度づけならいいだろう。だって、三度づけお断りと書いていないんだから」と推論すると吉本系のギャグになってしまう。「二度」とは「二度以上」のことであり、「二度およびそれ以上の回数」の禁止を意味する。なお、串カツをソースにつけて食べるのは自明であるから、一度だけつけるのは推奨され容認されている。「もしかして一度だけでもダメなのではないか」と不安になる人は、ソースにつけないで食べるしかない。

外国語のこと

議論・交渉・教育と、英語に関しては二十代からかなり高密度に接してきた。併行して20年以上英文ライティングのキャリアを積んだので、書くことと話すことにはあまり不自由を感じることはない。但し、読むことになると、現地で生活しながら学んだわけではないので、慣用句てんこもりの文章やディープな文化的テキストは苦手である。もちろん、知識のないテーマについて書かれた文章には相当手こずる。但し、これは英語に限ったことではなく、日本語でも同様である。精通していないことは類推するしかない。

『英語は独習』という本を書いた手前、外国語独習論を撤回するわけにはいかない。単なる意地ではないことを証すために、その8年後にイタリア語を独習してみた。イタリア語には若干の素養があったものの、五十の手習いである。凝り性の飽き性なので、短期集中あるのみ。一日最低1時間、多いときは56時間欠かさずにCDを聴き音読を繰り返した。文法は英語の何十倍も難解で嫌になってしまうが、ほとんど文字通りに発音できるので音読には適した言語だ。

だいたい3ヵ月の独習でおおよその日常会話をこなせるようになった。現地に行くたびイタリア語で通すことができる。しかし、イタリア語から遠ざかってからおよそ3年後に中上級レベルの物語のCDを取り出して聴いてみたが、だいぶなまっていた。語学のブランクはリズム感から錆び始める。取り戻すためには、原点に戻ってスピード感のあるCDを聴き音読に励むしかない。


学生時代にほんの少しドイツ語とフランス語を勉強した。旅の直前に半月ほど頻度の高いフレーズを読み込み、現地で必要に応じて使う。貧弱な語学力であっても、少しでも郷に入っては郷に従いたいと思うからである。けれども英語やイタリア語のようなわけにはいかないので、結局ほとんどの場面を英語で穴埋めすることになる。

覚えたての外国語を教本のモデル会話のように使えば相手に通じる。通じてしまうと、つい質問の一つもしてみたくなる。すると、相手は流暢に答える。今度は、その答える内容が聴き取れないのである。聴き取るのは話すよりもつねにむずかしい。「これいくらですか?」などの表現はどこの言語でもやさしい。使えば通じるが、数字がよく聴き取れない。「最寄りのバス停留所はどこ?」とフランス語で通行人に聞いたら、場所を指差してくれると思いきや、聞き返されている。やっとのことで「あなたはどちら方面に行きたいのか?」と聞かれていることがわかった。

と言うわけで、レストランに入ってもめったに尋ねない。「これとこれをくれ!」と言うだけ。「お薦めは何?」などと聞くと、さっぱりわからない料理の名前を言われるからだ。あまり得意でないドイツ語やフランス語ではぼくの使う疑問文は「トイレはどこ?」だけである。たいていの場合、「突き当りの階段を降りて右」などと言いながらも、トイレの方向も指差してくれるのでわかる。

11月にバルセロナとパリに行くことになったので、スペイン語をざっと独習し、フランス語をやり直している。イタリア語からの連想でスペイン語は何とかなりそうだが、フランス語のヒアリングは難関である。昔からずっとそうだった。あと一ヵ月少々でどこまで行けるか。

映画の思い出いろいろ

今はもう長時間観る馬力はないだろうが、昭和の二十年代から四十年代にかけて父親はよく映画館に足を運んでいた。ぼくの父親に限ったことではない。子ども目線から見た街中の大人の娯楽と言えば、映画かパチンコだったはずである。あとは喫茶店にたむろしてコーヒーにタバコ(昭和には「珈琲と煙草」と表記するのが似つかわしい)。

小学校時代、父親にずいぶん映画に連れて行かれたが、よく覚えているのは『アラモの砦』と『荒野の七人』、それにジョン・ウェイン主演の西部劇シリーズくらい。ヒッチコックの『裏窓』など、子どもにはわかりづらい作品も観せられた。ストーリーを覚えているのは、後年になってテレビで観たからにほかならない。ビデオが発明される前であり、テレビで放映するのはマイナーな映画ばかり。そんな時代だったから、中学生までは自主的に映画を観ようとしたことはない。いろいろと映画は観たのかもしれないが、決して映画マニアだったわけではない。

高校も二年の後半になると受験勉強期に入るが、ひょんなきっかけから時折り映画鑑賞するようになった。遊び半分で試写会に応募したら当たったのがきっかけだった。たしか最初の試写会はスティーブ・マックイーン主演の『砲艦サンパブロ』。そのあとにウォルター・マッソーとジャック・レモンの『おかしな二人』なども当選した。いや、実を言うと、応募したら必ず当たったのである。だから、劇場で実際に何を観たのかをすべて覚えてはいないが、結構よく試写会に行っていたのだ。


試写会通いは大学生の頃まで断続的に続いた。これだけ映画を観ていたのに、映画が三度のメシより好きなわけではなかった。ぼくは本性的に映像派ではなく活字派だったので、視聴覚的効果をあてがわれ、ともすれば受身的になってしまう映画をいつも醒めて鑑賞していた。大学生時代の映画鑑賞の目的は純粋に英語のヒアリング強化のためであったし、後日シナリオを手に入れて表現の勉強もした。この頃『ペーパー・ムーン』や『ラブ・ストーリー』で知った英語表現を今も覚えている。

本がなくなると困るが映画がなくなっても困らない。テレビで放映される映画をチェックするわけでもなく、たまたま縁と時間があれば観る程度だし、途中でさっさとチャンネルを切り替えることもある。社会人になってから映画館に行くのはせいぜい年に一回。数年間まったく映画と無縁の時期も複数回あった。そのぼくが、今年は三度も映画館に足を運んでいるのである。

まず『アリスインワンダーランド』(原題“Alice in Wonderland”)。原作ルイス・キャロルの小説がどう映像化されるかに興味があった。この種のメジャーな作品を観るのは例外的だ。あとは、『オーケストラ』(フランス映画、原題“Le Concert”)と『ボローニャの夕暮れ』(イタリア映画、原題“Il Papa di Giovanna”)の二作。いずれも原題と邦題が違う。前者は「コンサート」、後者は「ジョヴァンナのパパ」だ。ここのところ、年に一度か二度観る映画はだいたいミニシアターで上映される、人生をちょっとばかり考えさせる作品である。エンターテインメント的にもてなされるだけの作品はもういい。読書傾向に近くなったのかもしれない。

と言うような次第で、映画ファンから見れば、とてもなまくらな鑑賞をしている。ぼくは映画愛好家などではなく、時々美術館に行くように映画館に行く。直感的に行く。そして、少しいいものに出合ったら大いに満足して帰ってくる。数を絞っているせいか、ハズレがほとんどない。