ちょうどいい数字

咲き誇る吉野のシロヤマザクラがテレビの画面に映し出されている。「その数、なんと3万本!」とナレーターが言い切っている。えらく正確に数えたのだと皮肉る気はないが、もし賭けの対象にするなら「ぴったり3万本」に賭ける気はしない。あらためて言うまでもなく、3万本というのは概算に決まっている。

「沿道には1万人の見物客が集まっている」と報道されても、ちょうど1万人だとは誰も思わない。おおよそ1万人である。では、約9,950人でも約10,180人でもよさそうなものだが、決してそんな「中途半端な数字」を発表することはない。報道する側も報道される側も「ちょうどいい数字」のほうが落ち着くのである。
 
「今年でちょうど40才になりました」と言う人はいるが、「今年でちょうど37才になりました」とは言わない。そう、40がちょうどいい数字なら37はちょうどいい数字ではない。その40にしても、1050100に比べると「ちょうど感」がやや薄まってしまう。
 

 十進法では1210よりも中途半端なのに、一日の時間は十二進法であるから、12時がちょうどいい時刻に見えてくる。1時間や60分がちょうどよく、1分や60秒もちょうどよい。時を十二進法で刻み、分秒を六十進法で刻むという使い分けにぼくたちはすっかり慣れていて、器用に1260をちょうどいい数字として使いこなし、しかも違和感を覚えないのである。
 
ぼくが生まれてから60余年を経たが、これまで同様に、また、これから先、何万年も何百万年も地球の歴史は46億年であり続けるのだろう。こんな気の遠くなる数字に精度を求める気はしない。46億分の60は「ほぼゼロ」であるから、これでいいのである。中国の歴史もずっと四千年で来ているが、こちらは微妙だ。四千年に占める60年は1.5パーセントに相当するから、これを黙視していいのかどうか。
 
同じ文化圏にいる人々の間では、ちょうどいい数字や中途半端な数字に対する共通観念がある。それでも、人それぞれの都合で微妙にズレが生じる。「777」などは700よりも中途半端だが、ある人たちにとってはこれが「ちょうどいい」。区切りのよさだけではなく、並びのよさもちょうどいい数字の要件を満たす。一万円札を渡す。レジ係が「お釣りのほう、ちょうど1,219円になります」と言えば、かなり不自然である。しかし、レジ係の誕生日が「1219日」だったら、これ以上のちょうどはない。偶然の一致もちょうどいい数字になるからおもしろい。
 
自然や社会を理解しやすいように言語で分節するのが人間の習性である。数字を言語の仲間あるいは変種と見なすなら、数字には時間や価値や変化を都合よく解釈する分節機能が備わっている。ちょうどいい数字は人間の編み出した分かりやすい表現方法なのである。

旅先のリスクマネジメント(6) トイレ問題

学生の頃からの個人的な理由があって、ぼくの旅先はほぼヨーロッパ、とりわけイタリアとフランスに集中している。たわいもない理由なのでここで公にするほどでもない。何かの機会があればいつか書いてみるかもしれない。ともあれ、他の国へも少々旅はしている。イタリア語と英語はまずまずなので、語学が苦手な人に比べれば危機回避の術は少しは長けているはず。それでも、独学で少し齧ったフランス語、ドイツ語、スペイン語のほうは、絶対的なリスニング量が少ないから、たかが知れている。出掛ける直前または現地に行ってから、使う可能性の高そうな表現のみを集中的に覚えて凌いでいるのが実情だ。

旅行会話集の類は場面を幅広く網羅しているから、何もかも覚えようとしても無理である。挨拶と道や場所の尋ね方、それに料理の注文方法の3章だけを押さえておけばいい。買物好きにとっては数字の聴き取りはかなり難しいが、必須だろう。また、会う人のほとんどが初対面なので、「お元気ですか?」に出番はほとんどない。

ところで、語学はまったくダメという人でも、絶対に覚えておくべき必須表現が一つある。それは、「すみません、トイレはどこですか?」である。街中であろうとカフェやレストラン内であろうと、この言い回しの頻出機会はとてつもなく多い。
 
欧州の旅ではトイレ探しにかなりの時間とエネルギーを費やすことになる。ぼくは決して頻尿ではないが、あちらの連中に比べると日本人はトイレが近いような気がする。外出すると喉がよく渇くのは、湿度が低くて空気が乾燥しているせいかもしれない。ミネラルウォーターが安いから部屋にいてもよく飲むし、食事の折にも当たり前のようにワインと水を飲む。水分摂取は間違いなく増える。加えて、公衆便所が極端に少ない。モールやデパートでさっさと用を済ませるわけにもいかない。広い駅でもトイレの場所は一ヵ所にしかなかったりする。しかも、そのトイレの場所を探すのが一苦労なのである。探し当てたと思ったら、そこが有料トイレ。そう、だから「トイレはどこ?」とセットにして小銭をいつも携えておかねばならない。紙幣をくずすために売店で水を買って飲むと余計にトイレが近くなってしまう。
 

有料トイレのレシート.jpgこの写真は50ユーロセントと手書きされた有料トイレの領収書である。スタンプで番号を押してあるが、単なる事務処理用であって、その番号のついた便器へ行けという意味ではない。入口で当番しているおじさんかおばさんにお金を先払いし、レシートを受け取って改札を通過する。駅に改札がないくせに、トイレにはちゃんと設けてある。こんな領収書をもらっても申告できるわけでもあるまいが、いつもの癖で財布に入れてしまう。半月も旅したら56枚はたまる。なお、男性よりも女性のトイレ代のほうが料金が高い場合もある。
 
急に尿意をもよおした。長時間探しているうちに漏らしそうになる……大いにありうる話である。こうなると、フランスならカフェに、イタリアならバールに行ってコーヒーを注文するしかない。現地の人は店のどこにトイレがあるか知っているから、店に入っても飲み物を注文せずにさっさと用を済まして出て行く。旅の異邦人はそういうわけにもいかない。我慢の限界であっても、エスプレッソを頼んでぐいっと一杯飲み干し、バリスタに「トイレはどこかな?」と聞く手順を踏まねばならない。
「そこ」とか一語で指を差されて「そこ」を目指しても、推測した「そこ」にトイレが見つからないことはよくある。隠れ家みたいになっていたりする。「突き当りの左に階段がある。そこを降りて正面だよ」などと説明されるのはありがたいが、語学オンチにはこれがまた大きな負荷になるだろう。やっと無事にトイレに入ったら、今度は鍵のかけ方がわからない、水を流すボタンの位置がわからないなどは当たり前。おまけに、怪しい先客がいないかの用心も欠かせない。天井から釣り下がっている紐などを下手に引っ張るとブザーが鳴るから要注意だ。
 
有料トイレ スイスフラン.jpg
イタリア語圏のスイスの街に行った時の話。言葉は困らなかったが、トイレで困った。外出中はめったにないことなのだが、その時は便意をもよおした。トイレの場所を聞いて駆け込んだ。係はいないが、ドアのノブの下に硬貨を入れて中に入る有料トイレだった。数字が書いてあるので、ユーロ硬貨を入れるが返却口に戻るばかりで、ドアは開いてくれない。ノックをしたが中はどうやら空いている。血迷った眼でよく見たら、ユーロではなくフランだった。そうか、イタリア語圏だけれど通貨はスイスフランなんだ……。
 
限界を感じながらも息せき切って両替カウンターへ走り込み、50ユーロ紙幣を差し出してフラン紙幣に替えた。その紙幣を握りしめて売店へ行き、キャンディか何かを買って小銭でお釣りを受け取った。再びトイレに戻り、震えの来ている指先をもどかしくも制御して硬貨をつまみ、投入口に狙いを定めて放り込んだ。ドアが開いた。まるで「開けごま」と祈る思いであった。スイスフランなど手元にあっても仕方がないから、乗り物と飲食に使いきった。手元に残ったのがこのコインである。帰国後しばらくは、このコインを見るたびに条件反射的に便意を催したものだ。

数字に一喜一憂

学力テストの成績順やFIFAランキングが上下しただの、業績がどうのこうのだのと、数字に一喜一憂する根強い国民性。どんなことでもそうだが、頑張って順位を上げようとしているのは自分だけではない。他人も他社も他国も頑張っているのだ。たとえば超一流どうしが最大限の努力をしてぶつかり合っても、一方が上位になり他方が下位になる。同様に、広い世界で様々なジャンルで凌ぎを削れば、ランキングの順位が変動して至極当然なのである。

「負けられない試合がある!」などと川平慈英がいくら叫んでも、負けるときは負ける。その試合は相手にとっても「負けられない試合」なのであり、相手も必死なのである。企業だって同じだろう。シェアナンバーワンを目指すかどうかはともかく、どんな会社も負け組であってもよいとは考えない。企業努力に応じた成果を期するのは当たり前である。会社は数字に一喜一憂する場ではなく、「よい仕事」を実践する場でなければならない。その結果としての数字であり順位であるはずだ。

にもかかわらず、「中国に抜かれた」だの「43年ぶりに3位に転落」だのとがっかりするのはどういうわけか。時事通信が214日に配信した、「日本の名目GDPが世界2位から3位に転落して、中国に2位の座を明け渡した」というニュースのことである。居直るわけではないが、抜かれて何がまずいのか。真にまずいのは、他国にGDPで抜かれたことではなく、デフレ傾向で経済が長期的に低迷している状況であり、政府も国民も方策を講じる熱気に包まれていないことである。


よく考えてみるいい機会だと思う。世界一の人口133千百万の国が、世界10位の人口127百万の国をGDPで上回ったという事実がそこにあるのみ。よくぞこんな小さな国土の日本が43年間もドイツやフランスや英国よりも上位の2位を維持してきたものだ。驚くべきはむしろこちらのほうである。去る22日に更新されたFIFAランキングで日本は過去最高の17位となったが、この数字を誇らしく思うのなら、GDP世界3位を百倍以上誇っていい。いや、GDPなどどうでもいいと割りきっても別にかまわない。

人口相応に世界の10位くらいの経済力で結構、生活の質や幸福度さえ高ければそれでよし、という価値観もありだ。「2位じゃダメなんですか?」と問うた蓮舫女史は、このGDPの結果に対して「2位でなければいけないんですか? 3位じゃダメなんですか?」と言ってくれるだろうか。与謝野氏が記者会見で「中国経済の躍進は隣国として喜ばしい。地域経済の一体的に発展の礎となる」と語ったが、負け惜しみでないことを希望する。

「数字に強くなれ」とか「数字に弱い経営者は失格」などと説教するコンサルタントがいる。数字信奉者のほとんどは、数字以外の諸要素で価値判断ができないから、明々白々の数字に「逃げている」のである。数学は楽しい学問だが、数学と数字は違う。プロセスなどに見向きもせずに、結果としての数字だけに一喜一憂するのは幼いと言うべきだろう。質の話をするたびに、それを数字で示せと驕り高ぶられるのはやるせない。

時代は重厚長大ではなく軽薄短小と言われて久しい。これは、GDPに象徴される量から、数値化不能な質への転換を意味したはず。わかってはいるけれど、頭の中で数量が依然と支配的なのは、質の指標を示す側の想像力不足にほかならない。世界幸福度ランキングや住みやすい街ランキングのような、質の表現を数字に依存しているようでは話にならない。脱ランキング発想して初めて見えてくるものを探求せねばならないのだ。

単位や数字の奇妙

最近めっきり行かなくなったが、銭湯には体重を測定する秤が置いてある。ほとんど電子体重計に置き換わったようだが、ぼくが幼少の頃はもちろんアナログ。おまけに「かんもんめ」で目方を表示する尺貫法名残りの秤だった。ちなみに貨幣単位では円の下の位のせんも使っていた。昭和31年に生まれた弟を産院に見に行った帰りにポン煎餅を買ったら、差し出した十円硬貨のお釣りが白く輝く5枚の一円玉だったので驚いた記憶がある。つまり、それまでは一円札を使っていたのだ。

親の世代は尺や寸に馴染んでいたが、長さに関してはぼくの世代ではすでにメートル法だった。とは言え、普請や着物の裾上げの際に、専門家と客が尺寸で会話を交わすのを聞いていた。やがて貫と匁はキログラム・グラムに移行する。慣れないうちは、3.75キログラムを1貫に「翻訳」したものである。こうして、いつの間にか、メートルと同じくキログラムが自分の世界を測る長さと重さの基準になっていった。

ところが、単位の変換作業はこれで終わらなかった。英語を学習し始めると、ドルという通貨があって、どうやらそれが世界の基準になっていることを知る。変動為替相場ではなかったから1ドル=360円を覚えた。もっとも海外とは無縁な環境ゆえ、そんな話題はハワイに嵌まっていた叔父の話に出てくる程度だった。次いでヤードやフィート、それにポンドという単位の存在も知る(ポンドはボクシングの試合で「145ポンド5分の1」と独特の節回しで告げるので聞き慣れてはいた。ただ何分の一というのが奇妙に響いた)。


世界にはおびただしい通貨の単位がある。同時に固有の計測体系が相変わらず存在している。知られざる様々な呼称もあるに違いない。わが国の一羽、一個、一匹などもその類である。学問としての数学の世界に限定すれば、そこには客観的な統一表現があるように思われるが、日常生活世界ではものの見方がいかに文化的慣習的に多様かがわかる。本日の会読会で取り上げるマイケル・ポランニー(『暗黙知の次元』)のことばに「私は科学を感覚的認識の一変種と考える」というのがあるが、まさに「単位や数字は人々の感覚的認識の一変種」と言えるかもしれない。

ドルとユーロの価値を「1ドル、1ユーロ」という情報だけによってぼくたちは評価しえない。円という基準に照らし合わせないかぎりどれほどの価値なのかを理解できないのだ。1ドル=91円、1ユーロ=135円(今日の正午現在)と相対化して初めて価値を知る。もちろんこの価値は変動するから、明日になると価値に変動が生じるだろうが、それも円換算によってのみ感じることができる。しかし、国際比較を必要としない個々の市場にあっては、1ドルは1ドルであり、1ユーロは1ユーロである。わが国にあっても100円は100円である。

話を元に戻す。単位や数字というものは主観的な世界観の反映らしい。比較文化的視点だけではなく、一人の人間がある対象を数字でとらえるのも主観的であることがわかる。たとえしっかりした評価基準が設けられていても、フィギュアスケートや体操競技は審査員の主観によって点数化される。数字は物事の多様な見方のうちの「一変種」にすぎないのだ。ペットボトルの水を500mlととらえたり硬度29mg/Lと表記しているのも一つの見方、富士山3776メートルも台風985ヘクトパスカルもマグニチュード4.5というのもすべて主観的な認識の一つなのである。「駅から1キロ」と「徒歩12分」には視点の違いがある。給与や業績やテストはなぜ数字至上主義を貫いているのか……。   

明日は続編として「数字信奉の危うさ」をテーマに書いてみようと思う。

数字がかもし出す奇異

「イタリアからアメリカへ行って、もうイタリアには戻らないのですか?」

ふつうのことばだが、よく練られた文章である。これは、おおむね日曜日に更新してきた『週刊イタリア紀行』がNo.43のローマ(1)を最後に途絶えていることへの問い合わせである。もちろんローマには戻る。まだまだ素材もある。ただ残念なことに、13ヵ月前の写真をセレクションする時間が少し足りない。ただ、それだけ。


今日午後1時から京都で私塾。そのパワーポイント資料の最終編集がさっきやっと終わったばかり。あまり仕事上で追い込まれることはないのだが、久々に期限間際の集中と緊張を味わった。期限に追われている人たちは毎度こんな調子なのか。それはそれで、一撃の鞭の効果もあるに違いない。


閑話休題――

今日の講座には、悪しき文化と良き文化の話が入っている。連想するのは、〈グレシャムの法則〉だ。「悪貨は良貨を駆逐する」というのがそれ。単純に悪貨が良貨より強いという意味ではない。人は良貨を貯めこもうとする。また、(たとえば銀貨を)溶かして物に流用する。あるいは、そっくりそのままどこかの外国に転売する。そのため良貨が金融市場から消えて、悪貨ばかりが流通する。こういう話である。良き文化の香りを少しでも失うと、企業は金儲け主義という悪しき文化へと向かう。良き文化は自己抑制として機能する。

先週だったろうか、テレビでバーゲンだかアウトレットだかの特集をしていた。つい昨日まで定価5万円だったバッグが、今日から「な、な、なんと70%オフ!!」と叫んでいた。そう、一晩明けて5万円から15千円に。店側はこれを「お買い得」とアピールする。すなわち昨日買った客にとっては「お買い損」。

これは「昨日まで70%上乗せしていた」と考えるものだろう。「本来なら」「元々は」「実際には」などで表現される価値とは何ぞや? 価値について人間はよくわからないから、尺度の一つである価格で判断する。「用の不用、不用の用」をしっかり考えよう。

「経営者なら数字に強くなれ」というのもあるが、かなり怪しい教えだ。これは「商品の値段に強くなれ」と教えているのに近い。重要なのは、「経営に強くなれ、商品に強くなれ」である。だが、いずれも「見にくい」から、「よく見える数字」に視点をすりかえる。力のある人はのべつまくなしに「数値目標」とか「数字で証明」などと言わないものである。