クローズドな街歩き

午前11:30~午後2:30Open、午後2:30~午後5:30Closed、午後5:30~午後10:00がOpen、そして午後10:00~翌朝午前11:30Closed。これを平均的な食事処は営業/非営業時間帯としている。

居酒屋や焼肉店のほとんどはだいたい午後5:30~深夜がOpen、深夜~午後5:30Closed。バーになるとおおむね午後8:00~深夜2:00Open、他の時間帯すべてがClosed。繁華街や商店街をそぞろ歩きすると、ドアに掛けられた〈Open/Closed〉のサインプレートと時間帯で「街の顔」がある程度わかることがある。

ところで、closedは動詞closeの過去分詞で、形容詞として単独で使われると「閉まっている」という意味になる。発音は[klóuzdクローズド]。なお、closeは動詞以外に「近い」や「似ている」という形容詞でもあり、その時は[klóusクロース]と発音する。

営業中や開店というopenの明快さに比べると、closedのサインは休み、閉店、休憩、営業時間外、準備中のどれを意味しているのかわかりづらい。多義なので一語で何とか伝えようとすることに無理がある。わざわざ行ってみたがclosedのサインが掛かっていたのであきらめて帰る客もいる。実は「只今準備中、まもなく営業開始」のつもりだったのに。


いつぞやの土曜日。早めのランチを終えてから、賑やかな商店街から枝分かれする飲食街に入り込み、どのくらい街が変わり店が変わったのかチェックしながら歩いてみた。狭い商店街ではあるが、外部に「開かれているオープン」。ところが、開いている店と閉まっている店は半々だった。

土曜日だから終日休みの店が多いのだろうか。それとも、夕方から営業を始めるのだろうか。サインプレートの情報だけではわからない。大文字だけのCLOSEDには容赦のない「閉まっている感」が強い。同じ大文字だけのサインでも鉢植えのグリーンがあれば少しは救われる。救われてどうにかなるものでもないが……。ドアに斜めに掛けられたサインはメッセージ性があって謎っぽい。

営業中の店と閉まっている店。前者よりも無言の後者のほうに視線が向く。そうしてClosedづたいに商店街を通り抜けた時、このあたりは一見向きではなく、店の営業日や営業時間を知る常連が通う飲食街だと悟ったのである。

抜き書き録〈2023年9月〉

まだまだ残暑が厳しい。夏場の読書は苦行である。部屋を涼しくしても、この時期はすでに6月頃からの高温多湿の積算に心身が嫌気をさしている。仕事は他人様との約束なので何とかこなせるが、読書は自分ごとなので、夏場は読書量がかなり減る。中座したり未読したりしている本を本棚から引っ張り出しはするが、今月もあまり読んでいない。

📖 『人生の実りの言葉』(中野孝次)

題名よりも先に「美しい〈老い〉を生きるための珠玉の名句・名文40選」という帯文に釣られて、古本屋で手にした一冊。

閑吟集かんぎんしゅう』の「しゃっとした・・・・・・こそ人はけれ」という小唄が新鮮に響く。関西でよく使われる、スマートさを意味する「しゅっとした」とは異なる。

この句は女の目から見て好ましい男の姿を言ったもので、いかにも頼もしげできりりとした態度ふるまいの中に、ねちっこくないさっぱりした愛情表現をする人のことを言ったもの。(……)中世の女の美意識を単純な言葉でみごとに表現してみせた。

どうやら能力があっても、さわやかさや粋に欠けていては日本男子の理想像にはなれないらしい。とは言え、男の理想像になろうとして生きるつもりがないのなら、好ましいと思われなくても別に困ることはない。

📖 『はずれ者が進化をつくる 生き物をめぐる個性の秘密(稲垣栄洋)

個性、ふつう、区別、多様性、らしさ、勝つ、強さ、大切なもの、生きる……などの生物界のキーワードを見直して新しく意味づけしているのが興味深い。「境界を引いて区別する」の項から引用。

皆さんはクジラを知っていますか?
イルカは知っていますか?
クジラとイルカは同じ海にすむ哺乳類の仲間です。
それでは、クジラとイルカはどこが違うのでしょうか。

「クジラは大きくて、イルカは小さい」
そんな単純なものではありません……と言いたいところですが、じつはそれが正解です。

専門的な分類学によると、3メートルより小さいのをイルカ、それよりも大きなのをクジラと呼んでいるらしい。とても単純なので驚く。この伝で言うと、3メートル1センチがクジラで、2メートル99センチがイルカということになる。その差はわずか2センチ。人間は「区別したいという、ただその理由で分類している」ようなのだ。

📖 『辞書から消えたことわざ』(時田昌瑞)

辞書からまだ消えていないことわざなら結構いろいろと知っているが、すでに消えて久しいものをよく知っているはずがない。本書で知っているのはわずか3つだけだった。消えたことわざの中にあって、記憶にかろうじて残り、ぎりぎり生き長らえている希少種である。

「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」

わからないことはその道のプロに聞いて教わるのがいいという意味。このことわざを知ったのは先輩が口癖だったからだ。何十回も聞いた。あの人、お前より頭のいいオレに聞け、オレに学べと言っていたような気がする。

「三つ叱って五つ褒め七つ教えて子は育つ」

文字通りのわかりやすいことわざだが、こういう道徳観のことわざは消える運命にある。これも文字で見たのではなく、耳から何度か入ってきたと思う。七五調なので覚えやすい。日本のことわざは抽象的な語句を避けて比喩や具体的な表現を使うので数詞の出番が多いと、著者は言う。

「雨の降る日は天気が悪い」

辞書からは消えたかもしれないが、おなじみのフレーズなので稀に今も使う人がいる。

「晴れの日は天気がいい」と言ったらどうなるだろう。たぶん、当たり前なことを言うな、とでも言われるのがせいぜいだろう。(……)類語は特に多くないが、比較的よく知られるのが「犬が西向きゃ尾は東」。その他、「鶏は裸足はだし」「北に近けりゃ南に遠い」「親父は俺より年が上」(……)

当たり前のことを言って、小馬鹿にされる時とおもしろおかしく感心してもらえる時がある。ウケるためには、当たり前の中に新しい発見の仕掛けがいるのだろう。

食事の前、後、間のこと

いつ、どのタイミングで薬を飲むかに神経質な人たちがいる。ぼくはと言えば、あまり薬のご厄介にはならないが、予防的に処方してもらうことがある。処方されたのが漢方薬の場合、昼食前の服用をよく忘れる。食前に比べれば食後は飲み忘れはあまりしない。とにかく食べた後に飲めばいいのだから。食べ終えたが、その後にデザートのつもりなら、デザートの後に飲めばいい。

かかりつけ医に聞いたことがある。食後とは「食べてから230以内」のこと。「薬は正しく服用」などと言うが、「230分以内」という言い方がかなりアバウトではないか。20分と30分では10分の誤差がある。いちいち気にしたくなければ、食べ終えたらすぐに飲むのがいい。実際、食事処では薬オタクっぽい人ほど箸を置いて即服用しているようだ。

ほとんどの漢方薬は食前の服用が推奨されている。漢方薬をよく服用していた父は忘れずに飲み、几帳面に15分ほどしてから食事を始めたものだ。食後の目安を聞いたさっきの医師に食前のことも聞いたら、これまた食事の230分前という返事。食事の1時間前でもいいとのことだった。

要するに、食後とは食べてから(できれば)半時間以内、遅くとも1時間後までに服用すること、また食前とは(できれば)食べる半時間前、場合によっては1時間前までに服用することのようである(諸説あるかもしれないが、気にしていてはキリがない)。


ところで、食後とは何時間経っていても食後だから、飲み忘れたのに気づいたのが仮に2時間後でも食後には違いない。問題は、先に飲まねばならない食前服用を忘れて、食べた後に思い出した時である。これも医師に聞いたら、「1回パスするよりも、思い出した時点で飲めばいい」ということだった。思い出して1時間後に食前の薬を飲めば、食後の薬と同じことになるが、それも可なのである。

食間は「食事と食事の間」だが、朝食と昼食(または昼食と夕食)のど真ん中という意味ではない。もしど真ん中なら、午後7時の夕食と翌日午前7時の朝食のど真ん中は午前1時ということになる。目覚ましで夜中に起きて飲まねばならなくなる。正しくは、食後2時間以上経っていれば食間扱いである。

食間を「食事中」と勘違いする話はギャグだと思っていたが、実際にいるらしい。食前、食後、食間についてきちんと説明してもらっている患者がそれほどいないのかもしれない。知人は10数種類の薬を服用していたが、食前と食後と食間の薬が重なり、すでに飲んだかまだ飲んでないかわからなくなり、ついに毎日記録する破目に陥った。一日中薬を飲み続けて薬漬け状態になっていた。努力空しく、残念なことに数年前に亡くなった。

夏のレビュー

埼玉で結婚式があって招かれたのが10年前の7月中旬。記録的な暑さに頭が朦朧とし会話もままならないほど消耗した。披露宴が終わって式場から礼服のまま乗ったタクシーが駅に着く。ドアが開いて降り立った時のあの灼熱と呼吸困難の苦痛が今もよみがえる。

京都伏見の4年前の8月。研修先から駅まで徒歩での帰路。この日もスーツ姿での日帰り出張。上着を着ようが脱ごうがほとんど差がない。容赦のない陽射し、38℃前後の猛烈で残酷な10分間だった。「駅まで車で送りましょうか?」という申し出に甘えておけばよかったと後悔した。

2023912日の今日も32℃超えでまだ夏の真っ只中。ギラギラ太陽の炎天下が7月からずっと続いている。体感的には埼玉や京都のあの暑さには及んでいないかもしれないが、ぼくはあの頃よりも加齢しているのである。50日も真夏にさらされてくたばっているのである。ここ数年、6月~9月の4ヵ月が夏の季節となり、秋の担当は10月と11月だけになった。

 

ローマ字表記すれば“a-tsu”nを付ければ“na-tsu”になる。「なつ」と「あつ」は似ていて、同源説があることにも頷ける。天気や天候の話などは社交辞令の最たるものだと思っているが、こと今夏に限っては常套句の「暑いですね」以外の選択肢が思い浮かばない。

一雨が欲しいと思っていたら強いにわか雨があった。あっという間に止んだ。気象予報士は複雑な気分だろう。雨が欲しいけれど、おぞましいほど降る地域があるのだ。週に一、二度バランスよく降れば言うことないが、ぼくの生活域では雨は少な過ぎる。

「今日も青い空が広がりそうです」という天気予報は、暑さを棚上げして爽やかな天気を強調するかのような言い回し。違和感を覚える。晴天であっても、今夏の空模様の表現を喜ばしく「晴れ」と言ってはいけないのではないか。高温多湿の熱中症を心配しながら、同時に豪雨も恐れるという困った夏が、まだしばらく居座るらしい。

創作小劇場『中華料理、一喜一憂』

〈プロローグ:私と中華料理〉

私は幼少の頃から中華そばや餃子になじみ、酢豚の定食を好んで食べた。学生時代には、ライスと相性のよい濃い味のレバニラ炒めや肉団子をよく注文した。私の食生活は中華料理とともにあった。私は中国人ではない。だが、中華料理に目がなく、一日三食すべてが中華でも大歓迎する口なのである。

〈Ⅰ 私流の格付け〉

私が今住む街は中華街ではない。だが、中華料理店が競い合う激戦区だ。正確に数えたことはないが、歩いて五分圏内に十店は下らないはず。圏外にも出てあちこちの店を食べ歩きし、料理別に味比べをしてきた。炒飯はA飯店がおいしく、五目そばはB園が抜きんでており……麻婆豆腐はC家自慢の売りで、D閣はどれも普通だが回鍋肉だけはとてもよい……値段高めだが八宝菜ならE軒で決まり青椒肉絲チンジャオロースはF門の味付けが一番……という具合に格付けができている。

〈Ⅱ 一喜一憂〉

そもそも嗜好というものは、気に入れば入るほど高じてくるもの。逆に、好みの料理が期待外れだったりすると後々まで口惜しさが尾を引く。料理そのものだけでなく、料理を提供する店員や店の雰囲気や皿一枚や箸一膳にも良し悪しがつきまとう。「一喜一憂」は中華料理店の専売ではないが、中華料理店でよく経験するのである。

〈Ⅲ 具材の多少〉

店ごとの料理の格付けがかなりできてきたので、がっかりする味に出合うことはめったにない。しかし、味付けに不満はなくても、具材の多少とバランスに一喜一憂することがある。ある日のとある店で指名した私の昼ご飯は「豚肉ときくらげの卵炒め」であった。

以前、別の店で注文した天津麺の、麺とスープをすべて覆い尽くして器から溢れんばかりの卵にも驚いたが、この卵炒めはそれといい勝負ができるほど圧倒的な量の卵を使っていた。卵の下には甘みのある脂身の豚肉が埋もれていた。町中華、侮れない。

これだけですでに十分な「一喜」なのだろうが、食すのは他でもないこの私だ。遺憾ながら、四字熟語の残り二文字を受け持つ「一憂」について触れなければならない。復習しておこう。私が注文した料理は「豚肉ときくらげ・・・・の卵炒め」である。漢字で「木耳」と書かれていたら読めない、あの黒いキノコ。それが他の具と比べるとかなり控えめなのだ。きくらげ愛食家としてはっきり言っておくが、豚肉と卵は半分の量にしてもらってもよかったのである。きくらげを重ね積みして料理が黒く見えるほど溢れさせる心遣いがほしかった。

〈Ⅳ テーブル〉

新型コロナ以降、中華料理店では一人客なのに四人席テーブルに案内されることがあった。こんな空間的贅沢にすっかり慣れた三年間。ところが、今年の連休明け頃から知らぬ客との相席を強いられるようになった。テーブルのこちら側に私一人、斜め向かいに一人の客ならまだいい。先日は私一人に対して三人組が配席された。憂いを通り越して拷問状態になった。テーブルは三人組の会話に支配され、注文した油淋鶏ユーリンチーの味をほとんど覚えていない。

テーブルの上に透明のマットが敷かれている店がある。そこに自前の各種リーフレットを挟んである。「食べ放題3,980円の夜の宴会メニュー」、季節限定の「柚子焼酎」、昼席では注文できない「前菜三種盛り」、イチオシなのか自信作なのか、唐突に「麻婆茄子」。カラフルなリーフレットが何枚も敷き詰められたテーブル。そこに注文した八宝菜の一皿が置かれて、料理はまったくえなかったのである。

〈エピローグ:デザート〉

中華定食4種と週替わりサービス2種を用意している店。すべての食事に杏仁豆腐が付いてくる。杏仁豆腐と言うよりも、缶詰から取り出した寒天のような代物である。半数以上の客が手を付けない。ある日、どうしたことか、見た目本物の杏仁豆腐に替わっていた。うまい! 一流ホテル級の味に私は満悦至極だった。その半月後にも入店した。どうしたことか、杏仁豆腐は元の寒天のような代物に戻っていた。別に驚きも落胆もしなかった。中華料理店にはよくあることだし、何よりもデザートはサービスのつもりなので、私流の格付け対象にしないことにしている。

語句の断章(44)「つままれる」

半世紀以上前の話。大阪郊外の国鉄ローカル駅近くに住んでいた伯母おばは踏切を渡るたびに電車の音が聞こえたと言う。それが当たり前ではないかと思って聞き返したら、「それがね、電車が走らない時でも聞こえるのよ」。人を化かすために狸が電車の音を真似ていると伯母は信じていた。

狸の場合は「化かされる」がしっくりくる。「狐に化かされる」もよく見聞きする。実際ぼくも、若かりし頃は狸と狐のどちらにも「かされる」と言うのだと思っていた。ある時、狐には「つままれる」が慣用だと知った。つままれる? 首をひねっても即座に分からず、化かされたような気分になった。

調べてみた。動詞「まむ」は、つまま(ない)、つも(う)、つまみ(ます)、つまむ、つまむ(とき)、つまめ(ば)と活用し、云々……未然形の「つまむ」に受身の助動詞「れる」がくっついて「ままれる」になる、云々……という文法の知識を仕入れた。辞書も調べた。それでもまだ、「狐につままれる」の意味とニュアンスがすっと入ってこなかった。

狸は人を化かしたり騙したりする。狐もそうなのだが、狐の場合は化かされることを「つままれる」と言う。そして、「予期せぬことが起きて、わけが分からなくなってぼんやりとする」という意味をいっそう強く感じさせる。狐は狸よりもしたたかなようなのだ。

狸に化かされるのも狐につままれるのも比喩表現である。ぼくの伯母は実際に狸に化かされたと信じたが、普通は現実にあるはずもないことだと知っていて、「狸に化かされたような」とか「狐につままれたような」とたとえて、ぼんやりとした気分を現わそうとするのである。

なぜ狐には「つままれる」というちょっと手の込んだ言い回しをするのか。調べたが分からなかった。もしかして「狐き」と関係している? 狐には霊があって、それが人にとり憑いて常軌を逸するような言行をさせるという、あの狐憑き。お祓いする祈祷師のばあさんが幼少の頃に同じ町内に住んでいた。さっきあのばあさんを思い浮かべたら、狐には「つままれる」以外の表現はふさわしくないと確信した次第である。

懐かしさと追想

夜も遅い帰り道、年恰好80歳前後の老人がふらふら状態で立っていた。酔っ払っていたのか気分が悪くなったのかわからないが、まもなく座り込んだ。急いで駆け付けた。「大丈夫、ありがとう」と言うが、どう見ても大丈夫ではない。家を尋ねたら「すぐそこ」と指を差す。そこは天ぷら料理の店。身体を支えて店先まで送った。

二男の体験談で、23年前に聞いた話である。二男と拙宅は近い。そしてその現場も徒歩圏内だ。だから店が老舗の天ぷら割烹「H」だとすぐにわかった。会社を創業してまもなくの頃、知り合いに連れて行ってもらい、その後何度か夜席にお邪魔したことがある。

その頃も今もオフィスは同じ場所。当時は大阪の郊外に住んでおり、オフィスからでも徒歩15分ほどの場所でも土地勘はまだあまりなかった。職住近接を考えて引っ越してきたのが17年前。自宅から「H」は67分という近さだが、店とは疎遠になって久しいし、二男から話を聞くまで思い出すこともなかった。

いや、この話を聞いた直後も「あ、以前行ったあの店か」という程度の反応で、久しぶりに行ってみようとは思わなかった。仕事がらみの接待でよく利用した店はほとんど廃業しているし、ひいきの飲食処のリストはそっくり更新している。

他にも理由がある。ここ何年か、天ぷらを食べに行こうとあまり思わなくなったこと。天ぷら割烹の夜席は一品ずつ揚げて出される。接待したりされたりの機会ならまだしも、プライベートでは少々面倒くさい。同じ揚げ物なら串カツのほうが気取らずに済む。

ところが、一昨日の土曜日の昼、久々に天丼か天ぷら定食を食べたくなったのである。日中は暑いので、なるべく近場という条件を付けたら必然「H」に辿り着いた。店内はスマートに改装されていた。そしてカウンター向こうにはすべての注文を一人で揚げる主人がいた。かつて通った時のあの主人であり、二男の話に登場したあの人物である。懐かしさを覚え断片的な追想が巡り始めた。接待相手のいない昼の天丼は一味違った。

マイナス転じてプラスに

「ピンチの後にチャンスあり」と励まされても、危機は突然好機に変わらない。現実は甘くない。ピンチはピンチであってチャンスではない。ピンチはマイナスであり、プラスではない。マイナスは勝手にプラスにならない。一縷の望みがあるとすれば、マイナス状況をプラスとして解釈しようという心の持ち方である。

どう見ても厄介なことだが、視点や方法を変えて対処すればうまく好転するかもしれない。これを「わざわいを転じて福となす」という。こういう類の諺はいろいろある。「苦は楽の種」もその一つ。冷静に考えれば、苦はさらなる苦の種になる可能性が大きい。リンゴの種がリンゴの木になりリンゴの実をつけるように、苦の種は苦の木になり苦の実をつけるはず。「小苦は大苦の種」のほうがおおむね正しい。

アスファルト化された都会では雨が降って地が固まることはなく、大雨は冠水をもたらす。「雨降って地固まる」は今もなお、結婚式の主賓が雨の日の結婚式をポジティブに演出しようとする常套句。色褪せた諺の唯一の出番は結婚式である。「雨降って地がゆるむが、時間が経って地は乾き、やがて地は固まる」という論理だが、省略して「雨降って地固まる」。

ハレの儀の日の「雨降り」がよくないという前提に立っている。では、今夏のようなカンカン照りでいいのか。そうとも言えない。「日が照って熱こもる」という、プラス転じてマイナスの図はもっと困る。余談になるが、「雨降って空気冷やす」に期待できないから、ついに先週日傘を手に入れた。日傘が灼熱の苦を鎮静するのを期待して。


マイナスを「逆縁」、プラスを「順縁」として表現した仏教哲学者の中村はじめのエピソードには励まされる。

中村は20年の歳月を費やして、3万語を収録した『佛教語大辞典』を200字詰め原稿用紙で4万枚書き上げて出版社に手渡した。ところが、出版社はあいにく引越しの最中で、中村の原稿はゴミと間違えて捨てられてしまったのである。涙を流して謝罪に来た出版社に対して、中村は「怒っても原稿は出てこない」と平然を装って言うしかなかった。そうは言っても、さすがに中村は1ヵ月以上呆然としていたらしい。しかし、妻の「やり直してみたら」の一言に奮起した。そして、この日からさらに8年をかけて完成させた。紛失した原稿に取り掛かってから数えて27年が過ぎていた。中村は言った。

「やり直したお陰で収録語は3万から45千に増え、ずっといいものができました。逆縁転じて順縁となりました。人生において遅いとか早いということはございません。思いついた時、気づいた時、その時が常にスタートですよ」。

ストレスが溜まってもストレスと闘ってはいけない。困難な仕事を課されても弱音を吐いてはいけないのだ。もちろん、祈りは通じないし、偶然や他力にも期待できないが、実は逆縁こそが、逆縁そのものを順縁に変える力を貸してくれるのである。

意見の相違と議論の余地

感熱紙に印刷された50編ほどの原稿が出てきた。文字の3分の1が消えかけている。奥付用の原稿もあって、19943月の日付がある(小冊子を発行するつもりだったと思う)。書いたのはずいぶん前だが、文責は自分だから類推しながらある程度は読める。

先日、たまたま会話にのぼったテーマと同じ一編があったので、ここに転記することにした。紙も内容もほとんどが色褪せているが、この話は30年前も今もあまり変わっていない。


後に引けないほどののっぴきならない意見を述べなければならない場面がある。意見とは責任を負った主張のこと。意見が通らなければ引き下がることになり、他の意見に与することになる。他方、意見が通っても万事オーケーではなく、通ったら最後まで責任を果たさなければならない。意見には覚悟がいるのだ。責任回避が当たり前の昨今、覚悟のあるのっぴきならない意見を耳にすることが少なくなった。

マイケル・スプロールというアメリカの言語教育学者が著した“ARGUMENT  Language and Its Influenceという本がある。訳せば『議論 言語とその影響』という書名になるが、残念ながら邦訳は出ていない。議論にまつわる5つの通念が紹介されている。

 エリートのもの
 政治のためのもの
 非友好的なもの
 基本的に理性的なもの
 主観(自己本位)に基づくもの

著者はこれらの議論の通念が間違っていると言う。どうやら議論がしっくりこないのはわが国特有の風潮ではないらしい。好んで議論をしているように見える欧米でも、議論は理屈っぽいもので、それゆえにケンカになるリスクにいつも脅かされているようなのだ。

さて、誰かがあなたにポツンと一言、「花」と言ったとする。議論の余地はあるだろうか。非言語的な伝達手段もなく、たった一言の発話だけで議論は始まらない。では、どんな場合に議論は生じるのか。

「この花は美しい」と言ってみよう。ポツンと「花」とだけ言うのではなく、「この」と「美しい」をくっつけてみた。たったこれだけのことで議論の芽が吹き始める。ある語が他の名詞や修飾語と合体するだけで意見の相違が生じることがある。

議論そのものはエリートや政治家の専売ではなく、また非友好的性質のものでもない。理性ばかりでなく、当たり前のように感情も入る。主観と主観がぶつかる時に議論が生じることは事実だが、本来の議論は主観の衝突をやわらげて客観的合意を目指すもの。議論はよく決裂する。特に、上記の「この花は美しい」のような形容詞を含む命題は主観対立しやすい。

議論は言語の本質に根ざしている。つまり、ことばで何かを表現する際に議論はつきまとうのである。それを避けて通ろうとしても、いずれはそのツケが回ってくる。今が議論のタイミングだと判断したら、たとえ勇み足になろうとも、躊躇せずに踏み込むべきである。遅疑逡巡した意見や先送りした議論はこじれることが多い。

夏は豚肉料理

中華の庶民的なスタミナ料理と言えば、豚肉のレバニラ炒め(ぼくは「ニラレバ」と言う)。レバニラは、酢豚定食や回鍋肉定食と並ぶ人気の豚肉料理だ。豚肉や豚ホルモンに夏野菜やニンニクの芽などを加えて炒めた定食は元気もりもりになりそうな気がする。

鰻もいいが懐にやさしくない。牛肉の焼肉やすき焼きもいいが連日というわけにはいかない。夏のスタミナ源はやっぱり豚肉がお手頃だ。レシピが豊富なので週に23度食べても飽きない。

7月末からランチで食べ歩きした豚肉料理8品を紹介する。なお、エピソードがあれば書くが、いちいち「うまい」というコメントは入れない。


レバニラ炒め

若い頃、夏場に街中華に入ったらレバニラ炒めか酢豚かだった(店が珉珉ならジンギスカン定食)。写真は最近たまに行く中華の店の一品だが、ニラが少なく見えるほどレバーがこれでもかというほど入っている。注文時に「ライス少なめ」と告げる。

焼豚とレアチャーシューの鶏・魚貝ラーメン

焼いたチャーシューとレアのチャーシューを使うラーメン店。チャーシューの切れ端も無料でトッピングしてくれる。豚肉は牛肉よりもスープとの相性がいい。

トンテキ

一度きりだが、厚切りトンテキと薄切りトンテキをそれぞれ200グラム注文したことがある。さすがにきつかったので、今は厚切りと薄切り合わせて300グラム、しかも年に1回で十分。焼き上がった肉を濃いめのソース鍋にどぼんと漬ける。揚げて煮込んだニンニクは好きなだけ盛ってくれる。

カツ丼

定番のカツ丼。所望すればカツとじとライスを別盛りにしてくれる。麺類一式の店の人気のご飯ものはカツ丼と親子丼。これにミニうどんかミニそばが付く。

生ハム

休日はたまに昼飲みする。たいてい白のスパークリング、それに生ハムを合わせる。ゆっくり噛みしめるように食べ、ハムのあとはパスタかピザをシェアしていただく。

月見焼豚丼

焼きとんの店の〆ご飯。焼豚の下に月見が隠れている。生卵を見るとテンションを上げてかき混ぜるお方がいるが、かき混ぜ過ぎると味がわからなくなる。箸で黄身を崩したら、黄身の流れにまかせてご飯と肉をいっしょに食べるのがいい。

満州風酢豚

普段食べる酢豚はライスと合うが、この酢豚はビールでいただく。さらっとさっぱりした甘みのあるたれが薄切りの肉にまつわりつく。街中華では出ないが、中国の延辺や東北の料理店ではメニューに出ている。

イベリコ豚のロースト

豚肉のローストは脂と赤身のバランスと焼き加減で味にかなりの変化が出る。イベリコ豚という語感と厚切りした断面の視覚が食味に大いに影響する。