企画のことば

企画を読み下せば「たくらむ」になる。画とは構想の図であり、大まかなイメージと言ってもよい。樹木そのものであって、枝葉ではない。そのようなアイデアをことばとして編み出し、ことばで紡ぐのが企画案ということになる。

ところで、企画案の大半が現状分析に費やされ事実の羅列に終始することがよくある。そうなると、もはや企画と呼ぶにふさわしくなく、むしろ作業は調査に限りなく近づく。精度を重んじる調査のような企画は型通りの文章で綴られるのが常だから、きわめて事務的になり、面白味や創意工夫に欠ける。

生活実感のある生身の人間として個性と創意を発揮してこそ企画に味が出る。毎年何十何百という企画に目を通すが、そのほとんどが現状分析から導かれた事実を踏まえている。しかし、妥当かつ論理的に現状の問題を分析したまではいいが、出来上がった企画案は二番煎じであり、見覚えのある陳腐なアイデアの寄せ集めになっている。

現状を見るなと言うつもりはない。現状を観察しすぎるとアイデアが発展しづらくなるから注意を促しているのだ。現状分析はじめにありきの企画は、たいてい現状に産毛が生えた程度に終わる。要するに、構想不足のまま進めた企画には展望がないのである。どんな企画でも、企画者個人の願望が出発点になる。小さいかもしれないその願望を叶えようとする情熱から構想が生まれる。


現状分析から出発して立案したものの、やっぱりつまらない、ありきたりだと企画者自身が感じる。これまでの時間を無駄にしないために後付けで表現の衣装を着飾るのが常套手段。内容に応じた表現探しである。このような、思考の翻訳作業をしているかぎり、企画のことばが力を発揮することはない。すべての作業に先立って、まずコンセプトという、ことばの概念を編み出す必要がある。

不確かで形の定まらないコンセプトを、ひとまずことばとして仮押さえする。そこから可能性をまさぐり、ああでもないこうでもないと考える。その過程で事実を参照し不足する情報を仕入れる。必然、ラフなコンセプトのことばは徐々に論理的に強化され、企画のことばとして完成形に近づく。

コンセプトのことばが論理のことばを触発するのであって、その逆ではない。現状分析から入れば論理のことばが優勢になり、後付けのコンセプトのことばが取って付けたように浮き足立つ。企画とはことばに始まってことばで完結する。便宜上、コンセプトのことばと言い、企画のことばと表現してきたが、企画とはことばそのものであると言っても過言ではないのである。

和える編集

一口に「情報をべる」と言ってみるが、背負う荷は軽くはない。性分ゆえか、小難しく「知の統合」などと表現するものの、この言い回しに満足しているわけではない。統合とは「すべる」と「あわせる」、要するにまとめて集めることだ。無作為的な寄せ集めで功を奏することも稀にあるが、いつも無作為に頼るわけにはいかない。統合作業には、編集の「編」に近い意図が働いているような気がする。

手元に集まった情報をつぶさに眺めていて、要素が似ているとか異種なのに共存するとかいう以上に、ある情報と別の情報の相性の良さを発見することがある。相性。わかったようでわからないが、何がしかの化学反応が起こって、まったく新しい「味」が生まれる。無理に「合わせる」のではなく、勝手に「合う」という感覚。「える」という表現がぴったりくる。ほうれん草のごま和えのような編集。


ちょっと前に『本の大移動』と題して一文を書き、その中でオフィスに設けたブックカフェ風のスペースを紹介した。生涯現役のつもりゆえ、これからどのように仕事と関わっていくかは私生活以上に重みを持つ。必然それは、オフィスをどうするのかというテーマにもつながる。最後の任務になるかどうかはわからないが、仕事場をアイデアと情報の「え場」として、あるいは人と人の和合の場として、オフィスらしくない空間を作り上げたいとずっと思っていた。

本の大移動は道半ばだが、ようやく自宅書斎の蔵書の半分をここに運び込んだ。グリーンやインテリアも少しずつ場になじんできた。有料音楽アプリのカフェミュージックBGMチャンネルを選び、WORK & Jazz Pianoをシャッフルして聴きながら、来月のあれこれを考えペンを走らせた。ペンは期待以上によく動いた。

さっきまで自分の机に向かってキーボードを叩いていたのだが、思うようにはかどらなかった。部屋を変えてくつろいでみた。なかなかいいではないか。マインドと本と音楽とその他もろもろが編集されたかのようである。これも一つのえる編集に違いない。相性の良い人たちとの出会いも楽しみである。

派生の愉しみ

独立してから30年が過ぎた。食べていくだけなら独立することはなかった。ぼくにとって独立は、食べていくことの他に生きることの意味を見い出すことであった。必然、生活のみならず、仕事が愉しめているかどうかが重要になった。そして、したい仕事、できる仕事、すべき仕事の一致を貪欲に求めた。

仕事と学び、新しいことへの好奇心を矛盾なく一体化するよう努めた。この考え方に共感してくれる人たちと様々な勉強会を主宰して今に到っている。創業直後に立ち上げた雑学勉強会〈Plan+Netプランネットは、ほとんどのトーク番組がアマチュアによるものであった。次いで、〈関西ディベート交流協会(Kansai Debate League Association)〉を発足させ、その直後にこれら二つの特徴を併せ持つ〈談論風発塾〉を創始した。

さらに、本を読んで論評し意見交換する〈書評輪講りんこうカフェ〉、お題に対して機知とユーモアを発揮するオンライン投稿サイト〈知遊亭ちゆてい〉、手作り料理とトークの〈釣鐘美食倶楽部〉等々、仕事とは別に――しかし、仕事とまったく無関係ではなく、むしろ仕事から派生した――様々な勉強会を主宰し運営してきた。


これまでの足跡を単なる終活とせず、もうひと踏ん張りして将来に波及するような形で編集したいとかねがね思っていた。幸い、オフィスに一部屋を確保することができた。手狭になった自宅の書斎の蔵書をここに持ち込み、本を読み談論する場とトークショーやミニイベント番組を編集することにしたのである。空間と活動の試みを〈Spin_offスピンオフと命名した。ひとまず趣意を簡単にしたためてみた。

この場からさまざまなテーマのレクチャー、トーク、イベントなどの集いが派生し、共鳴し合って知と体験を紡ぎます。場と機会を求める主宰者が、テーマのジャンルを超えてつながり協同する、それが〈Spin_off〉です。〈Spin_off〉は主宰者と参加者の相互サポートによって成り立ちます。

それぞれの本業や本筋から愉快なことを「派生スピンオフ」させたいと思う。異なるテーマが相互に共鳴し合って、新しいテーマを紡ぐ。何が生まれるかはわからない。わからないからおもしろい。トークやイベントの主宰者、参加希望者はお問い合わせいただきたい。引き続きぼくもいくつかの主宰番組を受け持つ。順次オープニング案内をお送りする予定である。

知をつくる

『パンセ』の369番の断章で「記憶は、理性のあらゆる作用にとって必要である」とパスカルは言う。これに倣い、理性を知に置き換えて知をつくる話を記憶力から書き始めたい。記憶力の問題は、インプット時点とアウトプット時点の二つに分けて考える必要がある。

注意力、好奇心、強制力の三つが働く時、情報は取り込みやすい。あまり受けたくないテストに臨む時の好奇心は小さい。だが、強制力があるので一夜漬けでも覚えようとする。普段より注意力も高まる。ゆえに覚える。ぼんやり聞いたり読んだりするよりも、傾聴・精読するほうが情報は入ってくる。注意のアンテナが立っているからだ。好奇心の強い対象、つまり好きなことはよく覚える。

言うまでもないが、覚えたことをいつでも思い出せるとはかぎらない。特に、取り込んでもいない情報を取り出すことはできない。「思い出せない=記憶力が悪い」と思う人が多いが、そもそも思い出せるほどしっかりと記憶していないのである。

記憶エリアは〈とりあえずファイル(一次記憶域)〉と〈刷り込みファイル(二次記憶域)〉とに分かれていて、すべての情報はいったん〈とりあえずファイル〉に入る。これは記憶の表層に位置しており、しばらくここに置きっぱなしにしているとすぐに揮発してしまう。数時間以内、数日以内に反芻したり考察を加えたりして他の情報と結び付けるなど、何らかの編集を加えてやれば、情報が〈刷り込みファイル〉に移行する。こちらのファイルは記憶の深層に位置するので、ちょっとやそっとでは忘れない。ここにどれだけの知を蓄えるかが重要なのだ。


さて、〈刷り込みファイル〉からどのように知を取り出して活用するか。これが次の課題になる。工夫をしなければ、蓄えた情報は相互参照されずに点のまま放置される。点のままというのは、たとえば、「喧しい」という字を見て「かまびすしい」と読めるが、このことばを使って文章を作れる状態にはないことを意味する。つまり、一問一答の単発的雑学クイズなら解答できても、複雑思考系の問題を解決できるレベルに達していない。一つの情報が他の複数の情報とつながっておびただしい対角線が引けるなら、一つの刺激や触媒でいもづる式に知をアウトプットできる。

〈刷り込みファイル〉内で知の受容器が蜘蛛の巣のようなネットワークを形成するようになると、これが情報を感受し選択し取り込む〈受容体レセプター〉として機能する。一を知って十がスタンバイするようなアタマになってくるのだ。

考えてみてほしい。レセプターが大きくかつ細かな網目状になっていたら、初耳の情報でも少々高度で複雑な話であっても、何とか受け止めることができる。蜘蛛の巣に大きな獲物がかかるようなものだ。ところが、レセプターが小さくて柔軟性に乏しいと、情報を摑み取るのが難しくなる。スプーンでピンポン玉を受けようとするようなものだ。バウンドしてほとんどこぼしてしまうだろうし、あわよくばスプーンに乗ったとしても、そのピンポン玉(情報)は孤立しているから、知のネットワークとして機能してくれない。

少しでも知っていることなら何とか類推も働くが、あまりよく知らないと手も足も出ない。これでは知的創造力が期待できない。知らないことでも推論能力で理解し身につける――知のネットワークが形成できていればこれができる。そして、ネットワークは雪だるま式に大きくなる。

知は外部にはない。知を探す旅に出ても知は見つからないし、知的にもなれない。外部にあるものはすべて「どう転ぶかわからない情報」にすぎない。それらの情報に推論と思考を加えてはじめて、自分のアタマで知のネットワークが構築できる。知の輪郭こそが、ぼくたちが見る世界の輪郭だ。周囲や世界が小さくて霞んだような輪郭に見えるなら、その視界の狭さ、ぼんやり感が現在の知の姿にほかならない。 

まねるべきお手本

いろんなテーマについて数え切れないほどの研修テキストを著して今に到っている。主義として苦手なことや不案内なことは書かない。自分が理解していること、実際に習慣として実践していることだけを文章にする。しかし、それだけでは独りよがりになることがあるので、なるべく象徴的な事例やエピソードで自論を補う。学び手にとってサプライズがあるかどうかが選ぶ基準である。

以前、ブランドをテーマに取り上げたことがある。小さな会社にとっては、羨ましくもなかなか手にしづらい品質と信用の記号である。商品やサービスはおおむね「機能的価値」と「記号的価値」を併せ持つ。たとえば、喉を潤すだけなら水は機能的価値を有していればいい。無性に渇いているならペットボトルの天然水であるか水道水であるかはひとまず重要ではない。天然水と水道水の間には飲料水としての機能的価値に大差がないのだから。

ところが、健康や安全、あるいはボトルのデザイン要素やネーミングやメーカー名などの記号的要素が加味されると、そこに無視できない差が生まれる。ペットボトルに入った天然水なら150円になるが、水道水にそんな値段はつかない。機能的価値に加えて記号的価値が大きくなればなるほど「ブランド力がある」ということになる。但し、水道局が作る「うまい水道水」がペットボトル詰めされてテイストの良いデザインのラベルが貼られたら、これはブランドへの道を一歩踏み出したことになる。

この種のブランドの話をわかりやすく説明するには、小さな会社や商品のブランド事例のほうが身近で参考になる。それでも、意表をつく発見や驚きはいる。手を伸ばせば届く範囲のお手本や同規模・同業種の先行事例を学べば確かによくわかるだろうが、学習効果には見るべきものがない。だから一流ブランドの事例であっても、そこに想定外の題材があるならば積極的に取り上げるべきなのだ。


ウィリアム・A・オールコットは『知的人生案内』の中で次のように語る。

自分の行動の基準を高すぎるところに置くのは危険だという考え方がある。子供には完璧な手本を習わせるよりも、やや下手な手本を与える方が、ずっと速く字を覚えるという教師もいる。完璧な手本を与えられると生徒はやる気をなくしがちだが、生徒よりちょっとうまいという程度の手本なら、自分もすぐにこのくらい書けるようになると思って、やる気を出すというのである。しかし、その考え方は絶対まちがっている。手書きのものなら、子供にはできるだけ上手な手本を与えた方がよい。子供は必ずそのお手本をまねるはずである。どんな子供でも、少しでもやれる可能性のあることなら、自分でやってみようという向上心をもつはずである。 

ぼくの意見とはだいぶニュアンスは違うが、できるだけよい手本を目標にすべきという主張には賛同する。ぼくの考えはもっと過激だ。選択肢が二つある時、まねできる可能性がまったくなくても、また、手本と自分の実力の差に愕然としてショックを受けようとも、レベルの高いほうをつねに手本にすべきである。自分に少し毛の生えた程度の手本に満足してはならない。

初心者だから先輩の素人が描いた絵をお手本にするのがいいのか、初心者と言えども古今東西の一流の作品を見せるべきか。「わかりやすく、まねしやすい」をお手本選びの判断基準にしてはいけない。構図であれ色調であれタッチであれ、太刀打ちできない印象を与えるものをお手本にするべきだろう。二流を参考にして上達しても一流にはなれない。結果的に一流になれずとも、目指すべきは一流でなければならない。そうでなければ二流にもなれない。

手本に学ぶ。手本通りにいかないし、手本のレベルにも到達できないことが多い。それでもなお、手本を一流のものにしておけば御手並拝見できる「眼力」はつく。絵は上手に描けなくとも一流の鑑賞眼を身につけることができる。料理が作れなくても味覚を研ぎ澄ますことはできる。チャーチル首相は言った、「私は卵は産めないが、卵が腐っているかどうかはわかる」と。 

アイデア探し

「アイデアというものはな、いつどこからやって来るかわからないぞ」と教えられたピエール。その日から毎日、アパートのドアも窓も開けっ放しにして眠ることにした。アイデアがやって来る気配はまったくなかったが、数週間後、泥棒がやって来た。そして、家財道具一式が盗み出された。ピエールは悟った。

「泥棒はどこからでもやって来る。でも、アイデアはどこからもやって来ない。」

よく悟ったものだ、ピエール。その通り。アイデアはどこからもやって来ない。アイデアは自分の頭の中で生まれる。そこでしか生まれない。しかも、何百回か何千回に一度くらいの確率で。

アイデアは誰かに授けられたり教えられたりするものではない。アイデアの種になるヒントや情報は外部にあるかもしれないが、実を結ぶ場所は頭の中だ。アイデアと相性のよい動詞に「ひらめく、浮かぶ、生まれる、湧く」などがある。どれも自分の頭の中で起こることを想定している。アイデアを「天啓」と見る人もいるが、天啓という見方も他力本願だ。

デスクに向かい深呼吸をして「さあ、今日は考えるぞ」と自分を鼓舞する。ノートと筆記具を携えてカフェに入って「よし、ゆっくり構想を練ろう」と決意する。時と場所を変え、ノートや紙の種類を変え、筆記具をいくつか揃え、ポストイットまで備えても、アイデアは出ない時には出ない。準備万端、「さあ」とか「よし」と気合いを入れれば入れるほど、ひらめかない。出てくるのはすでに気づいていることばかりで、何度も何度も同じことを反芻しては、あっという間に数時間が経ってしまう。


ところが、本を二、三冊買ってぶらぶら歩いているだけで、どんどんアイデアが浮かんでくることがある。まったく構えずにコーヒーを飲んでいる時にも同じような体験をする。だが、そんな時にかぎって手元にはペンもメモ帳もない。記録するまでに時間差があると大半のアイデアは揮発する。いったんスルーしてしまったアイデアは、よほどのことがないかぎり、もう二度と芽生えてくれない。

意識を強くすると浮かばず、意識をしないと浮かぶ。いや、意識とエネルギーが強い時に浮かぶこともある。アイデアは気まぐれだ。しかし、本当に気まぐれなのは、アイデアではなく、自分の頭のほうなのである。

ノートと筆記具を用意して身構えた時点で、既存の発想回路と情報群がスタンバイする。頭は情報どうしを組み合わせようと働き始めるが、意識できる範囲内の「必然や収束」に向かってしまう。これとは逆に、特に狙いもなくぼんやりしている時には、ふだん気にとめない情報が入ってきたり頭の検索も知らず知らずのうちに広範囲に及んだりする。つまり、「偶然と拡散」の機会が増える。

アイデアは情報の組み合わせだ。その組み合わせが目新しくて従来の着眼・着想と異なっていれば、「いいアイデア」ということになる。考えても考えてもアイデアが出ない時は、同種情報群の中を弄っていることが多い。新しさのためには異種情報との出会いが不可欠だ。だから場を変えたり、自分のテーマのジャンル外に目配りすることに意味がある。

アンチテーゼで発想する

「うちの社員は型通りな発想しかできないんですよ。何か妙案はないでしょうかね?」 一年に何度かこんな質問がある。「たとえ型通りであれ、発想できるならひとまず良しとすべきでしょう」と答えることにしている。

何かを思い浮かべることができる、しかし、出てくるアイデアはどこにでも転がっていて平凡。こんなことはアイデアマンと呼ばれる人にもしょっちゅう起こる。何十回、何百回発想してもほとんどは型通りの結果になる。だが、アイデアマンが凡人と違うのは、粘り強く型を自ら崩したり壊したりするのを繰り返して、やがて新しい発想に転換できる点である。

二十代から発想法や創造技法をいろいろと試してみた。試してみたうえで実際の企画研修でも演習に使ってきた。ブレーンストーミング、チェックリスト法、強制連想法、シネクティクス、NM法……。収束向きと拡散向きがあるので、何でも使えばいいというわけではない。ほとんどすべての技法に共通するのは、「いま知っていること」から「未だ知らないこと」を導くという点。既知から未知を導く、あの手この手の人為的仕掛けの法則化である。


手っ取り早く発想を鍛える方法がある。それは、たとえ共感するテーゼに対してでも、敢えて”?”を投げ掛ける〈アンチテーゼ発想〉である。ある種の常識、価値観、慣習、意見、視点に対して対極からアマノジャクな揺さぶりをかけたり茶化してみたりするのである。ホンネは棚上げしておく。

たとえば、メダルに手が届かなかった五輪選手が、この四年間苦しかったこともあったと振り返る。「辛かっただろうなあ」といったんはこのコメントを素直に受容する。そして、しばし腕を組んでから「ちょっと待てよ、過去四年間を振り返ったら、誰だって苦しいことくらいあるさ。ぼくにだってあった。ただマスコミがその苦しみを聞いてくれないだけ」とひねくれてみる。

菜食主義者がいる。他人に自説を押しつける偏狭な心の持ち主ではない。豆腐と野菜を巧みにアレンジして仕立てた「ハンバーグ」が好物だと言う。「鰹節でダシをとった味噌汁もタマゴも口にしない徹底した菜食主義。忍耐強いなあ」と褒めてあげる。そのうえで、「肉食をとことん断つのなら、わざわざハンバーグ風にしなくてもいいじゃないか。やっぱりまだ肉に未練があるに違いない」と皮肉ってみる。


たわいもない「くすぐり」または「ツッコミ」であって、高等な批判精神とは無縁だ。ちょっと口を口をはさむだけの話。しかし、それを意識してやってみるうちに、絶対と思えたものが絶対でなくなり、ダメなものがダメではなく、時代遅れが実はオシャレだったり……というようなことが浮かび上がってくる。

ぼくたちがふだん見聞きしているものは、どんなものでもたぶん偏っている。立場によって、思想によって、好みによって。極端に言えば、コインの表側だけしか見ていない。振り子が左右に思い切り振れている様子が見えていない。アマノジャクなアンチテーゼ発想は、実は見えないところを無理に見ることを促し、想像力の源泉になることがある。 

ひらめきのページめくり

考えごとが飽和状態になると、手っ取り早く本でも読もうということになるが、これが案外役に立たない。むしろ悪循環を招くことさえある。仮に本からヒントの種を得たとしても、自分の脳内畑で育つ見込みは小さい。その脳内畑がすでに行き詰まっているのだから。

本は他力。他力は早晩自力に変換する必要がある。軸足はやっぱり自分の方に置かないといけない。本の前にもう一頑張り自力で試みる。一番手っ取り早いのは自分自身が気づきを書いた過去のノートである。本のページをめくる前に、自家製ノートのページをめくるのだ。今の自分と過去の自分には脈絡がつきやすい。

ことばを抜きにしては何を考えて何を成すべきかがなかなかわからないゆえ、ことばを日々の生活と仕事の原点に置いている。癖と言えば癖、性分と言えば性分、そんなふうに生きてきた。行動が重要だとわかっていても、まずはことばからということになる。

お前からことばを消せば何になる この世にあっても生けるしかばね /  岡野勝志

世界はタテマエとホンネでできていて、両者の間に喜怒哀楽が織り込まれて紡がれている。

言うべきことや言いたいことを言う人生は、おおむね64敗。言うべきことや言いたいことを見送ったり我慢したりする人生は、おおむね46敗。一見、大きな差ではない。しかし、タテマエの処世術よりはホンネで生きるほうがうまくいく確率が高い。但し、自分本位のホンネは19敗で、自己保身のタテマエの28敗よりも劣る。数字に根拠はない。アバウトな観察経験にすぎない。

空きテナントの多いビルを想像してみる。活気がない。客がまばらで閑散としている。それに流れもない。売手は客待ちするばかり。余力がありながら徐々にパワーダウンしていく。たまたま店を覗いた客を逃さないようにしつこく追いすがる。ちっぽけな知識にしがみつく脳のようだ。こんなふうに脳を使っているとアイデアは枯渇し、持ち合わせの知識も色褪せて錆びてしまう。

無間地獄ならぬ、無言地獄というのがある。その深みにはまると、無機的なノイズが顔を覗かせる。

おはようとまたねの間にことば無し ごく稀に出る「ええっと」と「あのう」 /  岡野勝志

青インクの魅惑

筆記具は眠っている欲望を刺激する。ただ見るだけで、新たに手に入れたくなる。使うのか持つだけなのかはその際どうでもよく、少し贅沢かもしれない筆記具に手を伸ばしてしまう。

何十本もの万年筆やボールペンを買い込んでおきながら、ろくに出番も与えないで目新しいペン類に目を向ける。これはもう病気である。誰もが一度は患い、生涯にわたって治癒しづらい病である。

文具店やデパートの筆記具売場に足を向けないのが唯一の対処法だが、その意識と反比例するように無意識のうちに売場に近づいていく。


万年筆を使い始めた十代、まずまず使っていた二十代は黒インクだった。有名作家の青インクで書かれた原稿用紙を見てから、シェーファーに青を充填した。そこから青インクに憑りつかれてしまった。万年筆の数が増えると、青インクの種類が増える。困ったことに青だけでも、肉眼では違いが判別できないほどの多種のインクが売られている。

紙によって滲みや発色が異なって見える。デジタルで再生しても、同じ名称のインクの色が変わる。青びいきとしては、紙を変えペンを変えて色味を試してみたくなる衝動に駆られる。そして、性懲りもなく、よく似た色のボトルを買ってしまうのだ。

文字ではなく、ベタッと塗れば違いはわかる。写真の左上はプルシアンブルー。右上がフロリダブルー。左下はコバルトブルー。そして、最もよく愛用しているのが右下のロイヤルブルー。これ以外にもやや緑がかったブルーもいくつか引き出しに入っている。いやはや、青インクは魅惑的で罪な存在である。

窓と窓的なもの

ある日のオフィス。窓を拭く清掃人と目が合った。ガラスを隔てて寒い側に清掃人がいて、こちらが暖房が入った部屋の中にいるという構図。ぼくは目くばせもせず、声も掛けず、相手から目をそらした。視線を清掃人の作業する手元へ移し、机の方へ向き直った。

翌日、大通りで信号待ちしていた。所在なさそうに正面のビルの高層階に目を向けると、壁にへばりつくようにして清掃人が窓を拭いていた。命の安全を保障するロープが風で揺れているような気がした。信号が変わって道路を渡る。ビルの真下を歩きながら、ロープが切れる光景が浮かんだ。清掃人は窓枠にしがみつき命拾いした。想像の世界だったが息詰まりそうな時間だった。


窓は、開けて採光したり風を入れたりする以外にも役割を担う。十年以上前のこと。場所はフィレンツェのジョットの鐘楼。ガラスのない明かり窓が塔の階段の踊り場にあり、街並みを枠の面積の内に切り取っていた。とても鮮やかな仕掛けだった。ここから中世の面影を覗き見よ、と窓が命じた。

窓はどこかに通じる起点になる。開けたり閉めたりできるが、開閉の権利は建物内に帰属する。どこかに通じる窓の外に出た瞬間、その権利を放棄することになるが、建物から解放されれば、どこかには行けそうな期待が生まれる。窓は内と外の世界を分け隔てながら、しかし二つの世界を繋いでいる。

窓は光の比喩だ。雪が光を反射すれば「窓の雪」になる。窓の雪は勉学を暗示させる。ある朝カーテンを開けて窓が目になっていたら驚くが、確かに窓は目に似ている。

「入口の左右の壁には、煤竹を二本横に渡した楕円形の小窓が開けられていたが、その窓はあたかもこの家のふたつの眼のように見えた」
(加能作次郎『世の中へ』)

窓は開閉の比喩でもある。社会の窓と言えば、ズボンの前のファスナーのことだ。布で隔てたすぐそこが社会であり、しかも一日に何度か社会に開かれる……もっと責任と緊張感を自覚せねばならない。

Katsushi Okano
Something like a window
2018

Pastel