牽強付会の説

最初通読して「なるほど」と感じ入った見解だったが、もう一度読み直してみたら「ちょっと待てよ」と再考したくなることがある。そのつど、一度だけではわからないものだと痛感する。もう一度読んでみて「やっぱりそうなんだろう」と思えば、知の度合はともかく、暫定的に納得しておくしかない。逆に、「おかしい」と感じたことを二度目に読んで「間違いなくおかしい」と思い至ることもある。

煉瓦

ある建築史家の講演での話を引いた新聞記事があった。「日本人がなぜ赤レンガの建物が好きなのか」という理由が二つあるという。一つは縄文時代以来、日本人が延々と土を焼いてきて、焼き物や瓦が生活の原風景にあり、レンガで心が休まるというもの。もう一つは、日本のレンガ建築の多くは英国にルーツを持ち、近代日本人の英国への思いが愛着の背後にあるというもの。この話を読んで、ぼくは最初に「何か変」と直観的に反応し、もう一度読み直しても「変」という思いは変わらなかった。

まず、縄文時代以来土を焼いてきた日本人の生活の原風景にレンガはずっと存在してなどいなかった。もしレンガへの憧憬があったのなら、メソポタミア文明のようにレンガで建造物を作っていたはずである。わが国がレンガ工場を作ってレンガを生産し始めたのは1870年になってからのことだ。次に、仮に縄文時代以来の「レンガDNA」を唱えるのなら、わざわざ近代になってからの英国の影響を引き合いに出すこともない。もし確かに英国の影響を受け、それがDNAと相まってレンガ建築好きを助長したのだとしても、では、日本人はなぜ明治・大正期の数々のレンガ建築を解体して、代わりに無味乾燥な建築物を量産していったのかという説明がつかない。経済成長はDNAを駆逐する?


縄文時代と英国という二つの事象を一つにまとめ、本来相互に関係がないのに、無理にこじつけているかのようだ。これを「牽強付会けんきょうふかい」と言う。なぜこういう話になってしまうのか。おそらく最近東京駅がレンガ造りに再現されたり、古いレンガの建築物を一部でも保存しようという動きがごく稀に出てきたりするからだろう。個人的には赤レンガが好きである。しかし、赤レンガの家を建てようとは思わない。観賞者として赤レンガを好むことと、それを生活に自ら取り込むこととは別のものである。赤い色をこよなく愛しても赤いスーツを着ることにつながらないように。

土を焼いて器や瓦を作りはしたが、レンガによって住まいを囲おうとしなかった日本人。他方、レンガを積んで住居や周辺の壁を固めた民族がある。この相違点にこそ考察に値する妙味があると思うのだ。この点については、たとえば芦原義信『続・街並みの美学』の次の一節に興味を覚える。

オットー・ボルノーやハイデッガーはその実存主義的立場から、建築における壁の存在の重要性を強調している。そして堅固な人為的な壁によって内部に庇護性ひごせいのある空間をつくりだし、そこに人間が住むことによってのみ自己の本質の実現に到達する(……)

空間とは、言うまでもなく、「場」である。人が生活する場である。もし人がそこに居合わせないなら、それは場にはなりえない。その場を堅固にレンガの壁で固めることを「生きること、命を守ること」としたヨーロッパの人々がいたのであり、いるのである。英国の話を持ち出すのなら、“An Englishman’s house is his castle.”(英国人の家は彼の城である)こそがレンガの意味を説くのにふさわしい。強くなければ家ではない、というわけだ。赤レンガが好きだからレンガを積んだのではなく、庇護性のある空間のために居住空間を囲ったのである……と考えるほうが素直ではないか。最後になるが、ぼくは居住者ではあるが、建築の素人である、念のため。

ユーモアの哲学、哲学のユーモア

プラトンとかものはし

Thomas Cathcart & Daniel Klein “Plato and a Platypus Walk into a Bar…” Understanding philosophy through jokes

たまに読み返す本。2008年に翻訳され、『プラトンとかものはしバーに寄り道――ジョークで理解する哲学』が邦題。主宰する書評読書会で取り上げて解説したことがある。

哲学の大半は〈アポリア〉を取り扱う。行き詰まりや解決不能性のことである。だから〈無限後退〉などという概念も顔を出す。たとえば、アトラスの神が地球を持ち上げる。アトラスは何に乗っかっているかと言えば、カメの背中だ。でも、そのカメは何の上に? もう一匹別のカメの上だ。それじゃ、そのカメは……。もちろんさらに別のカメ。こうして延々と問いは続く。

本書が扱うテーマは、著者の次のことばに凝縮されている。

哲学とジョークは同じ衝動から生まれている。物事のあり方にかかわる感覚を混乱させたい、世界をひっくり返したい、隠された人生の真実をあばきたててバツの悪い思いをさせたい……などという衝動である。哲学者が洞察力と呼ぶものを、悪ふざけをする連中はシャレと呼んでいる。

まったく同感である。どちらも理解できないとストレスがたまる。さて、哲学と笑いのはざまと言うべきか、融合の形と言うべきか、ジョーク満載のこの一冊から拾い読みして紹介することにする。もし笑えなかったら哲学的思索力の不足かもしれないし、もしむずかしいと感じたらユーモアセンスの欠如かもしれない。


形而上学けいじじょうがく

見ることも確かめたりすることもできないことを考えること。「宇宙に目的はあるか」などはその代表的テーマであるが、身近なところでは25万本ある頭髪の一本一本を抜いていったとき、いつからハゲになるか」なども俎上に乗る。

(^’^) 目的論
あるおばあさんが二人の孫を連れて歩いていた。そこに知り合いがやってきて尋ねた、「お孫さんはおいくつですか?」 おばあさんは答えた、「お医者さんのほうが5歳で、法律家のほうが7歳です」

もし人に達成しなければならない〈テロス内的目標)〉が備わっているのならば、おばあさんの答えは必ずしも間違いではない。孫の実名であるジョンやニコラスなどよりも、達成すべき将来のプロフェッショナルの呼び名が妥当かもしれない。

(^’^) 本質論
「ゾウはどうして大きくて、灰色で、シワだらけなの?」
「小さくて、白くて、丸かったら、アスピリン錠になっちゃうからさ」

すべての存在の本質は、他の存在の本質との差異を持つ。こんなに簡単に説明されてしまうと、大きい、灰色、シワはゾウの本質的な特質としては十分ではないような気がしてくる。


〈論理学〉

論理に筋道が立たなければ、いくら理屈をこねてもムダである。論理は導き方であって、結論の是非を問うような野暮なことをしない。

(^’^) 虚偽の論理
「ヘロインに溺れる多くの人はマリファナから始めたのだ」という主張がある。しかし、「ヘロインに溺れる人のうちほとんどすべての人がミルクから始めたのである」という反論も成り立つ。

(^’^) ゼノンのパラドックス
セールスマン「奥さん、この掃除機を使えば、仕事量が半分になりますよ」
主婦「まあ、すてき! それを二台ちょうだい」


〈認識論〉

あなたが知っていると思っていること、それをあなたはどうやって知るのか? 「知っているから知っているんです!」とあなたが答えないなら、残るは認識論である。

(^’^) 認識論に対する経験論の反発
三人の女性がテニスクラブのロッカールームで着替えているところに、顔を隠した素っ裸の男が走り抜けた。一物は丸見えだった。
「うちの主人じゃないわよ!」
「たしかに。おたくの主人じゃないわ」
「このクラブの会員じゃないわ」

クリントン大統領のネタで、よく似たのがある。
100人の女性に「クリントン大統領と寝たいか?」と聞いた。
二人がイエスと答え、98人が「二度と寝たくない」と答えた。


〈倫理学〉

よいことと悪いことを分類するのが、倫理学の領域である。しかし、分類をする時点で、どこか「えいやっ!」と無理をしている可能性がある。

(^’^) ストア哲学
「よい」ということばにはいろんな意味がある。ある男が500ヤードの距離から母親を銃で撃ったら、わたしは彼が腕のよい射撃手と言わざるをえない。だが、必ずしもよい男ではない。(チェスタートン)

(^’^) 功利主義
「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」という黄金律がある。しかし、人は違う好みを持っているからもしれないから、人にしてもらいたいと思うことを人にしてはいけないことがある。あなたがいじめられたいタイプだからといって、人をいじめてはいけないのである。マゾとサドの切り替えはそう簡単ではないのだから。


〈言語哲学〉

「日本は近い将来どうなるでしょうか?」と聞かれて答えられないとき、「日本も近い将来も意味はわかります。でも、お答えする前に『は』の定義を教えてもらいたい」と、逆に相手を困らせる手がある。

(^’^) 日常言語哲学
「フレディ、ぼくはきみに100歳まで生きてほしい。そして、できればさらに3ヵ月……」
「ありがとう。でも、アレックス、どうして3ヵ月なんだい?」
「ぼくはきみに突然死してほしくないんだ」

(^’^) ファジー哲学
自然史博物館での話。一人の見学者がガードマンに尋ねた。
見学者 「この恐竜の骨はどれほど古いかご存じですか?」

ガードマン 「2億と46ヵ月です」
見学者「やけに細かい数字ですね。なぜそんなに正確な年代がわかるんですか?」
ガードマン 「わたしがここで働き始めたときに、この骨が2億年前のものと聞きました。それから46ヵ月経ちましたから、そうなります」


〈相対主義〉

相対主義のもと、われわれは何が正しいと断言できるのだろうか。いや、そもそも相対主義という術語自体が、ぼくとあなたとに対して違う意味を持っているのではないだろうか。

(^’^) 時間の相対性
ドアがノックされたので女性が出てみると、カタツムリしかいなかった。
カタツムリをつまみあげた彼女は、庭の向こうに投げ捨てた。
その2週間後に、またノックの音が聞こえた。
女性がドアを開けると、またあのカタツムリがいた。カタツムリは言った。
「いったいどういうつもりなんですか?」

哲学はやさしくない。考えることもことばもむずかしい。だが、それならジョークも同じことだ。哲学嫌いはユーモアセンスに恵まれないだろう。笑うためには、そして考えるためには、いろいろと知らねばならないことがたくさんあるのだ。そして、知っていれば人生はいくらかでも楽しくなるはずである。

時は流れているのか

(a) ある事件が起こったのは一か月前なのに、それがつい先週のことのように甦る。
(b) ある人物と再会した。10年ぶりくらいかなと直感したが、実は2年ぶりだと知って驚いた。

(a)は現実の時間よりも感覚的時間のほうが短く、逆に(b)は感覚的時間よりも現実の時間のほうが短かったという例である。

「歳をとるにつれ時間(月日)の経つのを早く感じるのはなぜ?」 歳をとったと自覚する人なら一度は自問したり誰かに尋ねたりしたことがあるだろう。このことについてぼくは過去何度か考えたことがある。本ブログでも《いま・ここ》の明快さというタイトルで書いたことがある。そして、時間のことを考えるたびにいつも繰り返し問うている、「はたして時間は流れているのか?」と。

人々が時の流れのあまりにすみやかなことに罪を着せて、時の逃れ去るのを嘆くのは、見当違いだ。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

螺旋状の時計2

ダ・ヴィンチは「時の流れ」という表現を用いている。天才が言うのだから素直に従えばいいのかもしれないが、ぼくには時が流れているようには感じられないのである。過去の瞬間や断片的体験を記憶の中でつなぎ、あたかも動画のように再生しているだけではないのか。時間が流れているように感じるのは、記憶を過去から現在へと呼び寄せ、現在から未来へと想像を馳せるからである。つい「時の流れ」などと言ってしまうが、実は「時間とは瞬間である」と思う。


いま思い返しているのが過去であり、いま洞察しているのが未来である。過去も未来も現実の内にしかない。

「現実は生命にかかわるもの、触れることのできるもの」
(大森荘蔵『流れとよどみ』)

もしそうならば、現実以外に〈いま・ここ〉の時間など存在しない。過去も未来も現実ほど明快ではないし、過去や未来が現実を凌ぐほどの説得力で迫ってくることは稀である。

にもかかわらず、いまビジョンを描いているうちに、人は現実よりもビジョンに軸足を置いてものを考えてしまう。今日が終わらないうちは明日は来ないのだが、今日よりも明日に期待してしまったりする。あるいは、過去を回顧しているうちに、人は現実よりも過去の経験を甦らせて懐かしさに酔いながら――時には後悔に苛まれて――人生を眺めてしまう。

昨夜見た夢も数年先を見据えたビジョンも、今という現実の中でしか実感できないはずだ。そして、過去も未来も、手で触れられるような現実感覚に比べて曖昧であり、輪郭のはっきりしない表象でしかない。過去や未来を起点として発想するなどと言えば何だか体裁が良さそうだが、現実直視が後回しになるのが常である。〈いま・ここ〉から逃れて行き着ける場所などない。逃避したくても、時間は流れてなどいないのだから、流れを遡ってもそこに過去はないし、下流へと辿って行ってもそこに未来はないのである。

断片への偏見

「点をつないで線に」とか「部分を統合せよ」などという主張をよく耳にする。ぼくも時々言う。点をばらばらにして途方にくれたり、部分を単純に足し算してけろりとしている人に言う。そう言いながらも、絶対真理として「全体が部分よりすぐれているから」などとは思っていない。

断片

総体や全体に比べたら断片は劣っているように扱われる。「全体は部分の総和にまさる」(アリストテレス)という名言にはちょっと抵抗しにくい。実際、適当にではなく、調和的に部品を組み合わせれば、全体は単なる足し算以上の力や機能を発揮する。ところが、その部品の一つが精密なネジだとして、そのネジのお蔭でロケットも飛ぶではないか。はたしてネジあってのロケットなのか、ロケットという全体構想があったからネジが生かされたのか……正直なところ、よくわからない。

物事は全体を把捉するから理解できるのか、それとも全体では理解しにくいから分けていって小部分にすれば理解できるのか……かなり悩ましい問いである。全体ゆえの部分なのか、部分ゆえの全体なのかと言い換えてもいい。レヴィ・ストロースが『野性的思考』で語った「いろんな出来事の残片ざんぺんを組み合わせて構造をつくる」というメッセージは、全体設計図以前の、試行錯誤的な断片の組み合わせの重要性を暗示している。


総体や全体、場合によっては体系などが語られた後に、断片のことなどを言い出すのは勇気がいる。しかも、ろくに全体構想できない者が、各論や部分を蔑視するから滑稽である。断片への偏見は根深い。しかし、アメリカの作家ドナルド・バーセルミは「断片だけがわたしの信頼する唯一の形式である」と吠えた。この作家の短編小説を最初に読んだのは二十代半ばだったが、どう形容すべきか戸惑った。論理や物語や全体に一瞥もくれずに、句読点もなく、ひたすら断片をつなぐのである。ちょっと長いが、『アリス』から引用してみる。

ぼくはかつてハンマー投げの頑丈な男だった 余暇の時間のため余分のハンマーがあってしかるべきじゃなかろうか?
アリスの大腿部はすばらしい黄金色のワニスをかけた木製のオールみたいだ もちろん他にそんなものを見たことはない
混沌とは味がよくてしかも有益なものだ
色染めの衣装 紙製ハンカチ 絶妙な諷刺漫画 ちょっとしたさわやかさ 伝導中の教皇のラバが 種々さまざまなプジャード運動の声明 濃い色調の黒人 権利放棄証明書と一緒になってとてもまずい作用を起こし ツェントラル・ビブリオテク・チューリッヒ・ガソリン 彼女の裸のお尻に合わせ アリゲーターの背中を切りとった文鎮で伸びきった宙吊り状態に保たれた縫いぐるみの熊のがらがら紐と一緒にたわむれる
きみだってそれがやれるんだ 見かけ通りのたやすいことさ
そうした特別の遊び手にとって定法なんかありはしない エアブラシをにぎって生け垣や溝に吹きかける白色と菫色 まだ独身だけれども指輪をはめて 乾燥 まったく無意識にやってるようなふりをして働かせるいっそうすぐれた感情 魚の群れ ハンマー投げの長いでっかい脚 濡れて美しい水中ダンサー 音楽の調べ スイス飛行の情緒の費用 透明で 希薄で アルカリ性で 白い風どもにとって非常に滑りやすい流体の危険 いなかの小さな電話ボックス 口づてにもたらされた辛辣な侮蔑 有名な事件
(……)

こんな調子がずっと続くのである。全体理解に比べたら部分など簡単だと思っていたぼくはちょっと困ったのである。ナンセンスと片付け、奇妙な作家だという烙印を押して退けたらよかったのだろうが、断片侮るべからずと思ってしまったのである。論理の助けがあるから分かることが、論理の骨を抜かれると難解になる。それまでは、非論理的だとして取り計らわなかった構造以前の寄せ集めなのに、一つの形式としてあってもいいのだろうと寛容になった。

そして今、部分に対して全体が重要だと発言する機会が多いものの、断片に偏見を抱いていたらぼくの仕事などは成り立たなくなるということも心得ている。もっとも、バーセルミのように、断片を「唯一の形式」だとは信奉していない。思考形式であれ表現形式であれ、多様な形式があるほうが凡才には生き延びやすいと思うのである。

アヴァンギャルドな頑固

身体はともかく、脳内の論理回路が疲れ切っていたので、今夜は読書ではなくテレビにしようと思った。なまくらに見流せる類がいいが、今夜の番組欄にはその類のお気に入りがない。ふと、録画していた『世界ふれあい街歩き』を思い出す。「パリ――冬のマレ地区へ」。これなら思考疲れした脳への負荷は少なそうだ。

マレ地区

三年前に歩いた見覚えのある通りや建物が画面に映し出される。博物館、入場料無料がうれしかった……このカフェは、ええっと、前を通った記憶がある……あ、ヴォージュ広場だ……ここはフラン・ブルジョア通りかな……という具合に映像に無言の字幕を付けていた。

マレ地区には16世紀や17世紀の貴族の館が残る。華やかさはないが、渋くてエレガントな雰囲気を醸し出す地区だ。最近では北マレ地区にトレンドの最前線をゆく店も増えてきて、観光客が足を運ぶようになった。一軒のアーティストショップらしき店のオーナーが言う、「新しいことはいいこと。それを目指さないと、ホコリをかぶってしまうからね」。


古き過去、ひいてはその延長線上にある今を、たとえそれが良きものだとしても、それを守り通すだけでは前へ進めないのだろう。人は経験を通して時折り過去を振り返るだけでなく、到着したばかりの現在の足元も見ないといけない。いや、足元に気を取られていると今度はそこから目を離せなくなる。過去もいい、今もいい、だからそれで万事がいいというのは一つの生き方ではあるが、ほんとうにそれでいいのだろうか。

「過去がよくて今がよくて不安がないというのは、きみ、ちょっと無神経じゃないのかい?」と指摘されたら、その指摘にも一理あるかもしれないと思うのは、決して恥ずかしくない良識である。先のオーナーアーティストの言うように、無神経はぼくたちを埃まみれにしてしまいそうな気がする。

通り過ぎてきた過去の道で過去の経験ばかりを謳歌するような頑固は遠慮願いたい。いや、頑固そのものは否定的な資質などではない。頑固であってもいいし、こだわりが強くてもいい。でも、できることなら、いつも新しいことを歓迎する気分でいたいものだ。これを「アヴァンギャルドな頑固」と名付けよう。

ふと気付いたら、番組の後半の途中から視線をテレビから離して、考えごとを始めていた。「埃をかぶってしまう」という一言がきっかけだった。思考疲れした脳は、休ませてもらえるどころか、本棚から取り出した『パリ二十区の素顔』という本を読まされ始めている。

信と疑の再考

イエスのほうがノーよりも聞こえがいい。述べた意見に「その通り」とうなずかれると快く、「違う」とか「賛成しかねる」ときっぱり言われたら気持ちは穏やかではない。人は否定されるよりも肯定されるほうを好む。そして、肯定されるためには、自らが他人を肯定せねばならないから、みんなが互いに褒め合うようになる。そんなやわな褒め合いが昨今の風潮である。

思考のどこかには、「既にあるもの」への疑問や、他人の意見や常識を単純になぞってたまるかという意識が潜むものだ。ほどよい懐疑と自覚が理性的思考の前提にある。懐疑するには、懐疑する対象を動かす「テコ」を持たねばならないのである。だが、テコがなければ、反証できずに泣く泣く受容せざるをえない。褒め合う風潮の背景には、このテコを持ち合わせない人が増えてきたこともあるのだろう。

神々の支配下にあった古代末期から中世初期にかけて、ヨーロッパでは神に従ってさえいれば万事無難という生き方が趨勢であった。ところが、そうしているにもかかわらず、生活も良くならず生きがいもない。ならば、人が人として生きてみよう、考えてみよう……ギリシアやローマの古典古代に生きた人々のような人間性を復興させよう……そんな気運になってきた。この人間復興が文化復興へと発展し、ルネサンスと呼ばれる時代を迎えることになる。危機への意識は、イエスや肯定などの信によってではなく、ノーや否定などの疑によって芽生えるものだ。常識を疑う批判精神が創造への道を切り拓いたのである。


ここで「シャルリーエブド」の話を持ち出すつもりはない。風刺の話ではなく、あくまでもぼくたちが縛られている信と疑のありきたりな観念を見直してみたいというのが動機である。疑が信よりも重要だという幼い主張をするつもりもない。無思考的に〈信〉に流れている風潮に対して、〈疑〉というものの本来的な力にも目配りをすべきではないかという問題提起である。

明暗信疑2

そこで、先人の知恵を渉猟することにした。そして、信と疑について、さらにポジティブとして、あるいはネガティブとして語る言説を分類してみたのである。

信と明をつなぐもの。すなわち、信への信。

自分自身を、自分の力を信じることが才能である。(ゴーリキー)
自分自身を信じてみるだけで、きっと生きる道が見えてくる。(ゲーテ)

信と暗をつなぐもの。すなわち、信への疑。

誰でも恐れていることと願っていることを易々と信じてしまう。(ラ・フォンテーヌ)
物事は確信を持って始めると、疑惑に包まれて終わる。(ベーコン)

疑と明をつなぐもの。すなわち、疑への信。

まず疑う、次に探究する。そして、発見する。(バックル)
初めに疑ってかかり、じっくりそれに耐えれば、最後は確信に満ちたものになる。(ベーコン)

疑と暗をつなぐもの。すなわち、疑への疑。

自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。(渋沢栄一)
惚れていて疑い、怪しみつつ愛する男は、呪われた月日を送る。(シェークスピア)

言うまでもなく、偉人の言を鵜呑みにしてもいいし、それらに首を傾げてもいい。これらを統合的に眺めてみれば、疑と信のいずれも、一本槍では済まないということが学べるだろう。相手関係や世間の価値観の呪縛から逃れて、疑も信も使いこなせというわけだ。これが基本である。ポアンカレの次の言が結語にふさわしい。

すべてを疑う、またはすべてを信じるというのは都合のよい解決法である。どちらにしても、われわれは反省しないで済むからだ。(ポアンカレ)

人間学について

カント『人間学』

カントの『人間学』に「認識能力における諸才能について」という項がある。才能とは天賦にほかならず、卓越した認識能力のことだと言う。どう学んで身につけるかなどという話ではない。「その人の生来の素質によるものである(……)それは生産的機知、聡明及び思惟における独創性(天才)である」と断定されてみると、凡人は無駄な抵抗を諦めるしかない。

うまくいく方法やよくなる方法を学びたがるのが人の常。しかし、そのような方法を学ぶのは容易ではない。学ぶべき要因が複数であり、しかも複雑に絡み合っているからである。成功要因が一つであることは稀なのだ。料理をおいしく仕上げる秘訣がたった一つでないのと同じである。他方、一つだけミスすればまずい料理が出来上がる。失敗要因は一つにして必要かつ十分な条件を満たす。

うまくいかなかったこと、悪くなったことの原因のほうが絞りやすいのである。成功要因は突き止めにくいが、失敗要因は見つけやすい。大いに反省して謙虚になれば、己の失敗要因も見えてくるだろうし、そうすれば同じミスを防ぐべく未然に手も打てるようになる。才能を磨き上げて天才に到らしめようとするよりも、せめておバカさんにならないよう努めるのが手っ取り早いのである。


冒頭の所見に先立って、カントは「認識能力に関する心の弱さ及び病気」について十数ページにわたって書いている。心の弱さや病気と言うよりも、性向に近い話であり、カントならではの様々な分析がおこなわれている。あらかじめ断っておくが、ぼくに差別的意図などはまったくない。本書の文中には今日的時流からすれば危なっかしい表現がいくつかあるが、カントに悪意があるはずもない。さて、そこに書かれているのは「ダメな人」の本質的特性についてである。

単鈍たんどん〔愚鈍〕とは、鋼のついていない包丁や手斧のように、何ごとも覚え込ませることのできない人、すなわち学ぶことのできない人のことである。単に真似だけの巧みな人が鈍物と言われる。

単鈍を「単純」と読み違えないよう注意。「たんじゅん」ではなく「たんどん」。覚えない・学ばない人をこう呼んでいる。A君はバカではないのに覚える気がない。Bさんは学んでいるのだけれど、学び方を工夫しない。学んでも身につかなかったやり方なのに、懲りずに今度も同じやり方をしている。C君はこれはまずいと自分で気がつくこともあるが、自己流で工夫するのは荷が重く、結局中身を伴わない型だけを模倣しておしまい。つまり、鈍物どんぶつ

遅鈍ちどんとは、判断力を持っていないために、用務に使うことのできない人のいいである。

D君を見ていて、判断力のない頭の良さなどはまったく役に立たないと思う。二者択一の岐路で悩みに悩み、ジレンマに苛まれた挙句、決断せずに岐路から引き返してくる。判断しようとした時間と労力だけが無駄になってしまう。優柔不断なEさんも、機械的マニュアル的な作業しか与えられず、臨機応変が求められる仕事を任せてもらえない。

馬鹿とは、無価値な目的のために、価値のある目的を犠牲にする人のことである。(……)馬鹿のくせに他人を侮辱的にするのは阿呆と呼ばれる。(……)おしゃれとかうぬぼれとか呼ぶことも、阿呆が利巧でないという概念にもとづいている。前者は若い阿呆であり、後者は年をとった阿呆である。

カントはズバッとものを言う人である。極論かもしれないが、当たっているのだから仕方がない。Fさんは誰が見ても右へ行くのが正しく、しかも賢慮良識の先輩がそのように助言しても、悩んだ挙句に左へ行く判断をしてしまう。G君はそのことを棚に上げて、他人の判断を小馬鹿にする。もっとも、阿呆は自分以上の阿呆を探さなければ立つ瀬がないから、そうするしか道はない。

A君からG君までの性向は誰の内にも潜んでいる。いったいどうすれば愚鈍、遅鈍、馬鹿、阿呆にならずに済むのか。この『人間学』を読んでも、現実の生き方に応用しなければ話にならない。人は人からもっとも多くを学ぶ……結局ここに尽きるのだろう。人の振り見てわが振り直すことから始めるしかない。

再生のために解体は必然か

オフィスから徒歩3分、大通りに面した一角で古いビルが解体されている。かなりの資産家のビルで、このあたり一帯の土地と複数のビルを所有していると聞く。古色蒼然としたあのビル、今も解体途中なのか、それとも新しいビルの基礎工事が始まっているのか、囲われているのでわからない。見えるのは、囲っている壁に掲げられた「解体は再生の一歩」という企業スローガンのみ。

そのスローガンをネットで調べてみたら、あるブログに行き当たった。「再生の意味の一つは、衰えまたは死にかかっているものが生き返ること……解体はばらばらにすること、壊すこと……さあ、衰えたもの、古いもの、いらないもの、すべて解体して再生しよう……」などと書かかれている。「解体は再生の一歩」を心にぐっと来たことばとして大絶賛している。

こういう発想が、建てては壊し、壊しては建てるという、戦後高度成長時代から続く「土建立国」としての発展を助長してきたのは間違いない。単純に欧米と比較できないのは、欧と米がまた違うからだ。経済大国であるアメリカと日本は建造物の新陳代謝によってGDPを底上げしてきたふしがある。


解体ということばからアメリカの詩人カール・サンドバーグの『シカゴ(Chicago)』という散文詩が思い浮かぶ。かつてシカゴが悪名高き都市であった頃に紡がれた詩である。その一節。

(……)
Shoveling,
Wrecking,
Planning,
Building, breaking, rebuilding
(……)

「掘る、解体する、設計する、建てる、壊す、再び建てる」。建造物の解体と構築の無限連鎖を思わせる。くだんのスローガンもブログの一文も、再び建てることを再生と名付けているようだ。建物を取り壊して更地にしてそこに新しいビルを建てる。もし新しいビルの建築を再生と呼ぶなら、その前提に解体を置くのは当然だろう。しかし、この発想が寄り掛かっている精神は、実にさもしい。

衰えさせたり死なせたりする建築思想への反省がまったくない。再生とは衰え死にかけた建物を修復して生かすこと、あるいは、ルネサンスということばにあるように、元の姿を復活させることではなかったのか。再生の前提に保全を置いてきたのがヨーロッパ的な考え方であった。解体するしかないと踏ん切りをつける前に、修復保全の可能性を徹底的に追求するのである。そのような情熱を持ち合わせもせず、土建的経済主義を優先させて、保全価値などないと見切るのは現代による身勝手な過去の裁きにほかならない。

バルセロナの修復工事2

バルセロナはゴシック地区のサンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂の修復現場を見学したことがある。何一つ解体されてはいなかった。修復して再生するから解体の出番がない。もっともこれは由緒ある教会、寺院、神社では当然のことであり、わが国でも希少遺産については正しい意味での「再生」をおこなっている。

重要なことは、庶民のアパートであれ商業施設であれ、古くは中世の、近年では18世紀から19世紀の建物に対しても、ほぼ同じような扱いで保全しているという点である。衰え死に絶えた過去を安易にリセットしない。歴史に対して辛抱強いのである。遠い未来を見据えられた建造物と、たかだか半世紀程度先に焦点を合わせた建造物の大いなる違いがここにある。「解体は再生の一歩」というスローガンを都市の宿命と言いたげだ。そんな都市に馴らされてしまうと、作る、壊す、また作る、また壊す……というふうにものの考え方も生き方も変貌していくに違いない。原理がなかなか定着しない風土でぼくたちは生きている。

間違いのトポス

「なぜきみはこんなミスをしてしまったのか!?」と詰問されても、即答できるはずもない。ミスを意図したのでないかぎり、ミスしてしまった本人はうまく事を運ぼうとしたはずである。そして、うまくいったと確信している者が、ミスを指摘された直後に素早くその原因を突き止められそうもない。自ら見つけたにせよ誰かに指摘されたにせよ、ミスに対して冷静であることは難しい。

あの珈琲豆店の店主はミスに気づいているだろうか。本人が自発的に気づくことはない。気づくとすれば、注文と違う焙煎豆を手渡された客からクレームがある場合のみである。では、その客はその場でミスに気づいただろうか。自宅に帰ってコーヒーを淹れようとして気づいたのだろうか。もしかすると、未だに気づいていないかもしれない……顛末を知るすべはぼくにはない。

「間違いのトポス」とは、間違いが生じた場所のことであり、ぼくは比喩的に「原因のありか」という意味で使っている。

経緯はこうである。先々週の日曜日、珈琲豆の焙煎所で「コスタリカ産スプリングバレーマウンテン」を300グラム買った。税込みで1,560円。それに先立つ一カ月前、あるカフェで飲んだ一杯のコスタリカがとても気に入り、同じコスタリカだが、地域違いの豆を焙煎してもらったのである。「焙煎待ちがすでに三人いらっしゃいます。半時間後にお越しください」と言われたので支払いを済ませ、時間を潰してから店に戻って商品を受け取った。

モカマタリ

てっきりコスタリカ産スプリングバレーマウンテンだと思っているぼくは、パッケージに書かれた手書きの品名を確かめもせずにコーヒーを淹れ、う~ん、さすがにうまいと満悦至極であった。翌日パッケージを見て驚いた。「イエメン産モカマタリアルマッカ」。ぼくの買った100グラム520円のほぼ倍額の100グラム1,050円の豆。つまり、その店の最高額の豆を300グラム分ぼくが手にし、別の客は注文したモカマタリではなく、ぼくが受け取るはずだったコスタリカを手渡されているのである。

こんな高級な豆を買うことなどめったにないから、ぼくからこの間違いにクレームをつけることはない。ありがたくいただいている。飲みたかったコスタリカのことは当面どうでもいい。


さて、間違いのトポスはいったいどこにあるのだろうか。店主が、注文して料金を支払った客の名前を聞き、注文商品の横に名前を正しく記していたのならば、ここに間違いのトポスはない。そうすると、手渡す時に間違いが生じたことになる。

間違いのトポスは、①名前とレシートの両方で確認しなかった、②注文順に商品を並べていなかった、③(ありそうにないが)モカマタリの購入者がぼくと同姓であった……のいずれか。これらの間違いのトポスを消したいのであれば、先払いにするのではなく、商品を手渡す時点で料金を徴収するしかない。但し、間違いとは別に、注文だけしておいて取りに来ないというリスクの可能性が生まれる。

ここまで書いておきながら、それでも問題のトポスは生じるのではないかと思う。ちょうど昨日の昼のことだ。とてもお世話になった知人を高級天ぷら割烹でおもてなしした。注文したメニューの料金は分かっている。当然、食後の後払いである。知人がデザートを終えるか終えないかのタイミングを見計らってレジに立ちお勘定をお願いした。勘定書きを手にした会計の女性がぼくに告げた金額は、想定の60パーセントであった。「はい、そうですか」と言って支払えば、かなりの得になる。「それ、間違っていますね」とぼくは指摘した。相手のミスで昼食代を節約しようなどという魂胆はない。

この間違いのトポスに潜むのは一因だけではない。勘定書きの並べ方、カウンター席番号との照合、お客の顔ぶれ、注文内容の記憶など複数の原因がある。このように、〈多因一果たいんいっか〉が常であるならば、間違いのリスクはつきまとう。ミスを防ぐのは、おそらくシンプルな対策なのに違いない。王貞治の「プロはミスをしてはいけない」がずしりと響く。

単一問題と問題群

何事も考えず、どんなことにも気づかなければ、問題などは生起しない。幸か不幸か、あいにくぼくは問題に知らん顔できる神経を持ち合わせていない。職業的な性かもしれないが、いつも問題を抱えながら、あるいは問題を突き付けられながら生きてきた。問題を問題としない、あるいは問題を見ないことにする人生もあれば、他方、別にそこまで問題にしなくてもいいことまでを『問題群』(中村雄二郎)として徹底的に考察する人生もある。

問題がたった一つであるのと、問題がおびただしく集合して群を成すのとでは天と地ほどの差がある。問題の数の単なる足し算が問題群になるわけではない。問題群を見てしまったら最後、解決に向けて集中と統合というエネルギーを費やすことを運命づけられる。これが現実だ。そう、生きている世界は問題群世界なのである。ところが、問題群の渦中にあるにもかかわらず、「問題などないさ」と言ってはばからないP君がおり、たった一つの問題しか見えないQ君がおり、一見平穏無事の状況の中からでさえ現象を抽出しエキセントリックに問題に仕上げてしまうR君がいる。

落葉群

ふと以上のようなことを考えたきっかけは、一枚の落葉をしげしげと眺めた後に、落葉群に巡り合った時だった。ぼくは落葉を問題に見立てて上記のようなことを考えたのである。落葉と問題、落葉群と問題群を類比してしまうのは、ぼくの内にR君があるからだろうと思う。一枚の落葉を見るのとおびただしい落葉の集まりを見るのとでは、落葉の印象が激変する。同様に、単一の問題に気づくのと問題群に気づくのとでは雲泥の差がある。思考にコペルニクス的転回が起こるのだ。


「左右」ということばがある。「左」について思いを巡らす時には「右」が前提され、「右」について意識する時には「左」が前提される。では、古代人がある日、ある概念に基づいてそれを「左」と命名した……しばらくして、別の概念を思い浮かべてそれを「右」と呼んだ……そうして共同体で「左右」という概念と名称が完成した……などということがありえただろうか。左と右は二項対立的関係にある。左と右は対立しながらも、左は右に、右は左にもたれかかっている。別々の日に生まれたなどとは思えない。同時に生まれなければならない。

左右という二つの概念のセットに限った話ではない。すべての基礎概念は、少なくとも個々の共同体が育んできたカテゴリー内にあって、複雑に絡み合って類似と差異のネットワークを形成しているのである。概念とことばがそうであるように、一見異なって見える問題もこんなふうに影響し合い関わり合っている。ある一つの問題は他の大小様々な問題から孤立して発生したり露出したりしているわけではない。

ちょうど一本の木から一枚ずつ葉が剥がれて地上で落葉群になるように、同一カテゴリーの問題は同じ根から派生した枝から落ちてくる。問題を単独にとらえ、その問題の原因だけを明らかにしていくというのは、机上の便宜上の方便に過ぎない。楽そうだからそうしているだけの話で、結局は解き切れないのである。単一問題だけを炙り出しているかぎり、一過性の対処療法の愚を繰り返すばかりだ。すべての問題は問題群の中で発生している。だからこそ、問題群としてとらえてはじめて根腐れが見つかるのである。