議論についての問答

議論に絶対に負けない法

『議論に絶対負けない法』という本がある。「絶対負けない」からと言って「絶対勝つ」わけではない。「引き分け」は負けないことであるから、連戦互角であってもかまわない。ここで話題にしたいのは「絶対」というものが、数学世界ならともかく、議論の世界にありうるかという点だ。「議論が上手になる方法」なら絶対という約束ではない。しかし、「絶対負けない」と言い切ってしまっては一つの例外も許されない。この種の本は議論に勝つ――あるいは五分に持ち込む――テクニックを指南しているが、はたして有効なのだろうか。


「こういう類の本って、ある程度役に立つのですか?」

「ちょっとずるいけれど、本によりけりと言うしかないね。でも、ディベートを何十年も指導してきたぼくの経験からすると、こと議論に関しては有効と言えるかもしれない気がする。なぜって、議論の巧拙は技術に関わることが多いからね。それよりも何よりも、どんな議論をするかによると思うんだ」

「へぇ。Aというテーマの議論には役立ち、Bというテーマの議論だとあまり役立たない、というようなことですか?」

「いやいや、議論のテーマのことじゃなくて、場のことさ。議論には大きく二種類の場があるんだ。当事者どうして決着をつける交渉という場と、第三者が判定を下す裁きの場。交渉には勝ち負けがつきものだけれど、同時に〈WIN-WIN〉や〈LOSE-LOSE〉などというのもある。交渉では利害をぶつけ合いながら、理想の着地点を目指すわけ。どちらも自分の言い分がある程度叶って満足することもあるし、どちらも不満足だけど手を打つという場合もある。交渉が成立してもいろんな結末があるんだね。もっとも決裂のほうが常ではあるけれど……。いずれにせよ、当事者どうしでは勝った、負けた、引き分けたという雰囲気は分かるものなんだ。裁判やアカデミックディベートのように第三者が議論を裁く場合には、判定結果と当事者の思惑が異なることがよくある。自分で勝ちを確信しても、あんたの負け! と言われるからね」

「では、当事者どうしで決着する交渉において、この『議論に絶対負けない法』などという本に期待してもいいんですね?」

「さっきも言ったように、知らないよりも知っているほうがいいという点で、そして、あくまでも議論を技術としてとらえるなら、ある程度有効だと思うね。但し、その当事者二人が仮にこの本をよく読んで交渉に臨むとしよう。著者は『絶対負けない』と言っているのだから、勝ち負けがあってはいけないはず。互角でなければならない。しかし、そんなことは稀で、ふつうは一方が勝ち、他方が負ける。なぜ勝ち負けが生じるかと言えば、こんなことは当たり前のことだけど、二人の読者が持ち合わせている知識や経験、場数が差になるわけさ」

「ありえない想定だと叱られそうですが、この本で習得した知識も同じ、他の知識や経験、場数もすべて同じと考えたら、どうなるんでしょう?」

「そうすると、声の大きい方やコワモテや余裕のある方が勝つかもしれない……」

「いえいえ、もう何もかもすべてが同じ条件を備えた二人が、同じ理解度でこの本を読み、交渉のテーブルに就けば……と仮定すれば?」

「となると、その二人は完璧に同一人物ということになるね。つまり、きみが仮定しているのは、自分と自分が議論したらどうなるかってことだ。きみがXYという二者択一の岐路に立つ時のことを考えてみたらいい。XYは同時に叶わない。そう、引き分けはない。Xを選べばYを捨てる、Yを選べばXを捨てる。一人議論の挙句、X支持のきみかY支持のきみのどちらかの意見が通り、他方が却下される。きみは勝利し、同時に敗北する。XYを選んだ瞬間、きみは議論に関して自ら判定を下したのだよ。そして、ここがたいせつなのだけれど、その判定をするためにはもはやきみは一人二役の当事者であり続けることはできない。すでに冷静な第三者になっていなくてはならないんだ」

「ちょっと頭が混乱してきました……」

「話を出発点に戻して、以上の話を整理してみよう。必勝テクニック系の議論の本は、技術的には有効である。しかし、勝敗などとは無関係ということだよ。そもそも議論というのは勝ち負けに意味があるのではない。議論をするという時点で、よい議論をすることが重要であり、なぜよい議論が重要なのかと言えば、より精度の高い意思決定をするためなんだ。議論の技術というのは自分のレベルを上げるためにある。相手がこうだからああだからなどというのは副次的なものさ。もっと言えば、人は言語によってものを考える、ものを考えるときに沈思黙考するよりは、声に出して議論するほうがうんと本質が鮮明になる。ぼくたちは議論を勝ち負けの道具のように思い、そして、この種の本に振り回されるけれど、言語の精度を高め、本質理解をするために議論の場というのは欠くべからざるもの、というわけなんだよ」

「議論は交わすものであって、勝つためのものではないということか……」

「そう、よりよく議論を交わすこと。それでもなお、結果は勝ったり負けたりだから。勝つための議論を志すよりも、よりよい議論を志すほうがうんと度量の大きい人物になれるとぼくは思うね」

ドーナツ、あるいは言い換え問題

『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本は書評で知っていた一冊。書店で「ちら見」だけして買わずに帰ってきた。答えの分からない問題――あるいは既存の答えが存在しない問題――に対して、自ら解を捻り出そうという話。決して嫌いなテーマではないが、まあ読まなくてもいいだろうと判断した次第。

この命題は「ドーナツに穴があること」を前提にしている。ドーナツとは「小麦粉に砂糖、バター、卵などを加えてね、球形にして油で揚げる洋菓子」であり、穴の有無は枝葉末節のバリエーションに過ぎない。したがって、正確を期すならば、「リングドーナツの穴だけ残して食べる方法」とすべきである。昨日の朝にぼくがつまんだクリームドーナツには穴がなかった。最初からないものを残すことはできない。この本を買わなかった理由は、この命題に先立って「ドーナツとは何か?」が問われるべきだと思ったからである。

情報は、深層においてではなく、表層で受発信されるから、定義、すなわちことばの言い換えや表現に強く依存する。「太陽」と言うか「お日様」と言うか……社長と言うかCEOと言うか……「信号は赤だった」と点情報をぽつんと言って終えるか、それともその点情報から次の展開である「車は止まった」に目を付けるか。ことばの目の付け方がイメージを左右する。「つちやたび店」→「月星ゴム」→「ムーンスター」という社名の変遷は、情報の衣替えでありイメージの変容でもある。モノには拡張の限界があるが、ことばはいくらでも融通がききイメージを広げてくれる。

どんなことばにも多義が備わっているので、一語によって複数のよく似たモノや思いや状況の表現をある程度まかなうことができる。しかし、類語辞典をひも解けば、おびただしい類語が掲げられている。手元の類語辞典で【終わる】を引けば、品詞変化も含めて60ものバリエーションが紹介されていた。このような言い換え(あるいはパラフレーズ)が起こるのは、よく似た概念グループをわずか一語で束ねることがままならないからである。もちろん、類義語には共通の概念が横たわっている。たとえば空想と想像という二語には「いま知覚できていないことを思い浮かべる」という概念の重なりがある。その一方で、相互に代替不可能な固有の意味がある。たとえば、想像は経験を踏まえるが、空想は経験を必要としない、等々。その意味を使い分けねばならないからこそ、いずれの語も存在するのである。


ドーナツ

話をドーナツに戻そう。

「物事を体系的に扱おうとするなら、定義から始めよ」(キケロ)にならえば、まずはドーナツの言い換えに挑むことが問題解決の端緒になるはずだ。ドーナツを指し示して「これは何?」と無作為に人を選んで尋ねてみよう。

「ドーナツです」(現実主義的な一般人)
「あ、穴だ!」(異端児)
「輪以外の何物でもない」(抽象論者)
「穴が空いている洋菓子」(合理主義者)
「いわゆる一つのリングドーナツですねぇ」(長嶋茂雄)
「ドナーツ、大好き」(幼児)
「これはUFOに間違いない」(妄想家)
「周縁存在と中心不在」(懐疑的形而上学哲学者)
「○○堂の商品だね」(オヤツオタク)
「甘いもの、苦手なんですよねぇ」(意思疎通不全者)
「ドーナツという言語と写像関係にある世界の要素」(ヴィトゲンシュタインの末裔)

「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」と聞いて最初に浮かんだのが、何十年も前の中田ダイマル・ラケットの漫才の一コマである。

ダイマル 「ぼくはレンコンの穴が苦手でねぇ」
ラケット 「ほう、そしたらレンコンは食べへんのか?」
ダイマル 「いや、穴だけ残して食べてる」

正確ではないが、だいたいこんな感じのボケとツッコミだった。これで十分に答えになっているではないか……というのがぼくの直感である。穴が苦手であるなら、「ドーナツの穴だけ残して(ドーナツを)食べる」という命題自体がすでに一つの方法を示唆している。だが、穴が好きでたまらない人間にとっては穴を残すのは忍び難いに違いない。ドーナツも好き、穴も好きという者にとっては証明意欲に火がつく命題なのであろう。言うまでもなく、ドーナツにも穴にも関心のない者にとってはまったく響かない命題である。

時間とお金

時は金なり

「時は金なり」がテーマではないが、人口に膾炙かいしゃしたこの諺から話を始めることにする。

通常の感覚では時と金は別ジャンルである。別の概念なのに、同じだと言って知らん顔している。ベンジャミン・フランクリンが“Time is money.”と言ったらしい。ポツンとつぶやいたのか、ある文脈の中で語ったのかはわからない。仮に後者であったとしても、独立した主張として一人歩きして今日に到っている。

「時は金なり」に限らず、そもそも諺のほとんどは主張しか唱えない(「良薬は口に苦し」、「急がば回れ」、「雨降って地固まる」、等々)。もし諺に理由や説明を加えたら簡潔性が失われて野暮ったくなる。諺は覚えやすいのがいい。証拠も論拠も伴わないで言いっ放しだから、必然人によって解釈も変わる。シンプルな主張ゆえに、かえって明解性を欠く。したがって、どのように解釈されてもしかたがない。

「時は金なり」とは、①時間は貴重である、②時間は金銭と同等に価値がある、③金銭を浪費してはいけないように時間も浪費してはいけない、④ゆえに、時間を有効に使うべきである……こんなふうに解釈しなければならない理屈はない。時と金をイコールで結ぶことに馴染めないので、ぼくはこの命題には諸手を挙げて賛成しかねる。

諺に親しむのはいいことだ。しかし、主張だけ言い放って証拠や論拠に言及しない癖をつけてしまうのは考えものである。経験と知識が有機的に熟成もしていないのに、いかにも何事かがわかったかのように短文にメッセージを凝縮させるべきではない。また、若い頃は、諺のような切れ味を自分の弁舌に求める必要もない。冗長であることに居直ればよい。明快さには冗長さがつきまとうものだ。論理的に明快であるために、まずくどいほど多くを語らねばならないのである。


閑話休題――。「時は金なり」ではなく、冷静に順接の接続助詞「と」で時と金をつなぎたい。つまり、「時間とお金」である。冒頭で時と金は別ジャンルと書いた。但し、特徴的な共通点が一つある。時間もお金も約束事によって成り立っているという点だ。時に目盛りなどないが、みんなで「時を刻むこと」を取り決めた。こうして時間は時計や表示板というモノで認識できている。お金も紙幣や硬貨というモノで認識できるが、実は、これも価値につけた目盛りにほかならない。時も価値も見ることも触ることもできない抽象的な概念なのである。

「時=金」という主張が成り立つとするならば、いずれも取り決められた概念であるということ、そして、社会的に取り決めたのであるから、そこに何がしかのルールがあるということ、したがって、そのルールを守らなければ信用基盤が崩れるという点においてこそである。

日程を決める、期限を守る……ぼくたちは未来の時間を今日取り決める。未だ見ぬ将来の約束を今日結ぶのである。双方が同じ時間感覚を持つことはきわめて重要なのだ。約束を破れば双方の関係がひずむ。同様に、価値交換の単位であるお金は、支払う側にとっても受領する側にとっても、生活や仕事を成立させるための糧となり信頼の記号として機能する。時間とお金はつねにトラブルの原因をはらむと同時に、幸福や善にとって欠くべからざる要素なのである。

時間にルーズな者はお金にルーズである。お金にルーズな者は時間にルーズである。「決められた日に支払わない」という言い方には、時間とお金のルーズさが同時に表れている。この点においてのみ、「時は金なり」が成り立ち、同時に「金は時なり」とも言い得るのだろう。

無反応、つまり無責任

「責任」ということばはてっきり和製漢語だと思っていた。ところが、近代以降の翻訳語を調べてみたらそうではなかった。中国語には「责」ということばがある。ただし、わが国で使われた目ぼしい形跡はなさそうだ。

多数の和製漢語が明治以降に生まれたのはよく知られている通り。英独仏語の概念的な術語をやまとことばに置き換えずに、せっせと漢語に翻訳したのである。自由、哲学、恋愛などは和製漢語の代表格だ。

英語の“responsibility”やフランス語の“responsabilité“の訳語として新たに造語せずに、「責任」という語を拝借したのだろう。英仏語ともにラテン語の“respondere”という動詞に由来し、元々は「(何かに)応じる、答える、反応する」という意味だった。現代イタリア語にはほぼそのまま残っているが、二つ目のアルファベットが”e“から”i“になって”rispondere“と綴られる。

すべての英和辞典で“responsibility”という見出し語の筆頭に「責任」という意味が挙がっている。研究社の新英和中辞典は「自分が引き受けたり与えたりした仕事の義務を遂行する責任」と懇切丁寧な解説を付けている。しかし、遂行責任でいいのか。よくよく考えてみれば、責任という漢語には強さはあるものの、“responsibility”の定義としてはちょっとアバウトな気がする。「責任をとる」や「責任感」などという表現では、いっこうに責任という概念が鮮明になってこない。それが証拠に、「きみの言う責任とはいったい何か?」と尋ねてみればいい。ほとんど満足のいく答えは返ってこないだろう。


responsibility

まさしく今書いた「答えを返す」のが”responsibility“の本来の意味だった。これは「レスポンスする能力」のことである。反応する能力とは、打てば響くさまを示す。対話や行為にともなう人間関係において、相手の言動をしっかりと感受して何がしかの反応をしてみせることなのだ。それは一つの能力であり、その能力を発揮することを責任と呼んでいるのである。

常識レベルで言えば、プレゼントされたら「ありがとう」と反応するのも能力。能力がなければお礼の挨拶もできない。仕事上質問を受けたら、その問いに適切な応答を返すのが能力。相手が自分に働きかけてきているのに、御座なりな対応で済ませたり、不言や不実行という無反応でやり過ごしたりするのを無責任と言うのである。テニスや卓球でサーブを打ち返さなければ試合はおもしろくないが、それよりもまず、あのプレイヤーは能力がないと評価される。

他者からの依頼や問いや指示を包括して「刺激」と呼ぶならば、一つの刺激に対して必ず一つの反応を返すのが良識というものである。しかも、誰に対してもどんな刺激に対しても機械的な反応であってはならない。その刺激にのみ有効な反応をしてみせるほどの覚悟がいる。覚悟だからコミットメントであり責任なのである。この話は「他者―自分」という関係だけに止まらない。決意したにもかかわらず自分との約束を守らずに三日坊主に終わるのも、決意に対する無反応を決め込んでいるからである。

眺める

観測データは観測のための光や観測者の存在によって変化を被る。

元々は誰かが言ったことばなのだろうが、あいにく覚えていない。〈観察者効果〉と呼ばれる現象のことである。真っ暗だと何も見えない。何かを見るためには光が必要である。その光を照射した瞬間、観測対象は変化する。同様に、観察しようとしてぼくがそこにいることによって対象はすでに変化を受けている。つまり、観測環境がつねに一定することなどありえない。

野生動物の生態を調査するという目的で、小屋を作って人が入りずっとカメラを回し続ける。そこに棲息する野生動物が小屋の存在に気づかぬはずはない。小屋ができた時点から彼らの生態は変化を被る。自然な生態というものは、観測装置や観測者不在のもとでしか存在しえないのである。


湯治村3

風景を眺める。繊細な色合いで落ち着き払っている。青系統の色が連続的な変化を織り成し重なり合う。ぼくの好む青系統の風景であってみれば、惚れ惚れと見入ってしまう。その風景にはすでにぼくの感覚的な観察視点が入り込み、他者の眺めとは違う印象と効果が生まれている。

一朝一夕にしてしつらえられた風景ではない。この眺望の一瞬のために、長い年月にわたって風土的条件が用意されてきた。そして、そこに今という時の気象条件やぼくの眺めの諸条件が加わっている。しかし、観察者としての自分がその風景の見方を「歪めている」などとは誰も思わない。お膳立てされた風景をただ堪能するだけである。対象内に人や人工的な介在物がない時、ぼくたちは一切の過去への推察から解き放たれている。理性的に理解しようなどという動機は芽生えず、ただ無意味にそこに佇んで忘我の境地で眺めるのである。

シネリーブルから地上

街中にあって窓外を眺める。先日こんな光景を目にした。自然がお膳立てしたような風景はそこにない。コンクリート空間の中に造形されたモノがあり、複数の人々がいて独特のシーンを描き出している。人々は目的があってそこに居合わせたり行動したりしている。

詮索することなしにこの光景には向き合えない。この都会的な構図における「点景」は状況理解を迫ってくる。観察時間を増やして点景を線として手繰ってみれば、意味を探れるかもしれない。しかし、この観察は疲れる。風景を眺めるのとは違って、街、人、造形物を眺める時、無意味だと片付けて知らん顔できないのである。都会に生きる者はそういう宿命を背負って生きる。

牽強付会の説

最初通読して「なるほど」と感じ入った見解だったが、もう一度読み直してみたら「ちょっと待てよ」と再考したくなることがある。そのつど、一度だけではわからないものだと痛感する。もう一度読んでみて「やっぱりそうなんだろう」と思えば、知の度合はともかく、暫定的に納得しておくしかない。逆に、「おかしい」と感じたことを二度目に読んで「間違いなくおかしい」と思い至ることもある。

煉瓦

ある建築史家の講演での話を引いた新聞記事があった。「日本人がなぜ赤レンガの建物が好きなのか」という理由が二つあるという。一つは縄文時代以来、日本人が延々と土を焼いてきて、焼き物や瓦が生活の原風景にあり、レンガで心が休まるというもの。もう一つは、日本のレンガ建築の多くは英国にルーツを持ち、近代日本人の英国への思いが愛着の背後にあるというもの。この話を読んで、ぼくは最初に「何か変」と直観的に反応し、もう一度読み直しても「変」という思いは変わらなかった。

まず、縄文時代以来土を焼いてきた日本人の生活の原風景にレンガはずっと存在してなどいなかった。もしレンガへの憧憬があったのなら、メソポタミア文明のようにレンガで建造物を作っていたはずである。わが国がレンガ工場を作ってレンガを生産し始めたのは1870年になってからのことだ。次に、仮に縄文時代以来の「レンガDNA」を唱えるのなら、わざわざ近代になってからの英国の影響を引き合いに出すこともない。もし確かに英国の影響を受け、それがDNAと相まってレンガ建築好きを助長したのだとしても、では、日本人はなぜ明治・大正期の数々のレンガ建築を解体して、代わりに無味乾燥な建築物を量産していったのかという説明がつかない。経済成長はDNAを駆逐する?


縄文時代と英国という二つの事象を一つにまとめ、本来相互に関係がないのに、無理にこじつけているかのようだ。これを「牽強付会けんきょうふかい」と言う。なぜこういう話になってしまうのか。おそらく最近東京駅がレンガ造りに再現されたり、古いレンガの建築物を一部でも保存しようという動きがごく稀に出てきたりするからだろう。個人的には赤レンガが好きである。しかし、赤レンガの家を建てようとは思わない。観賞者として赤レンガを好むことと、それを生活に自ら取り込むこととは別のものである。赤い色をこよなく愛しても赤いスーツを着ることにつながらないように。

土を焼いて器や瓦を作りはしたが、レンガによって住まいを囲おうとしなかった日本人。他方、レンガを積んで住居や周辺の壁を固めた民族がある。この相違点にこそ考察に値する妙味があると思うのだ。この点については、たとえば芦原義信『続・街並みの美学』の次の一節に興味を覚える。

オットー・ボルノーやハイデッガーはその実存主義的立場から、建築における壁の存在の重要性を強調している。そして堅固な人為的な壁によって内部に庇護性ひごせいのある空間をつくりだし、そこに人間が住むことによってのみ自己の本質の実現に到達する(……)

空間とは、言うまでもなく、「場」である。人が生活する場である。もし人がそこに居合わせないなら、それは場にはなりえない。その場を堅固にレンガの壁で固めることを「生きること、命を守ること」としたヨーロッパの人々がいたのであり、いるのである。英国の話を持ち出すのなら、“An Englishman’s house is his castle.”(英国人の家は彼の城である)こそがレンガの意味を説くのにふさわしい。強くなければ家ではない、というわけだ。赤レンガが好きだからレンガを積んだのではなく、庇護性のある空間のために居住空間を囲ったのである……と考えるほうが素直ではないか。最後になるが、ぼくは居住者ではあるが、建築の素人である、念のため。

ユーモアの哲学、哲学のユーモア

プラトンとかものはし

Thomas Cathcart & Daniel Klein
“Plato and a Platypus Walk into a Bar…” Understanding philosophy through jokes

たまに読み返す本。2008年に翻訳され、『プラトンとかものはしバーに寄り道――ジョークで理解する哲学』が邦題。主宰する書評読書会で取り上げて解説したことがある。

哲学の大半は〈アポリア〉を取り扱う。行き詰まりや解決不能性のことである。だから〈無限後退〉などという概念も顔を出す。たとえば、アトラスの神が地球を持ち上げる。アトラスは何に乗っかっているかと言えば、カメの背中だ。でも、そのカメは何の上に? もう一匹別のカメの上だ。それじゃ、そのカメは……。もちろんさらに別のカメ。こうして延々と問いは続く。

本書が扱うテーマは、著者の次のことばに凝縮されている。

哲学とジョークは同じ衝動から生まれている。物事のあり方にかかわる感覚を混乱させたい、世界をひっくり返したい、隠された人生の真実をあばきたててバツの悪い思いをさせたい……などという衝動である。哲学者が洞察力と呼ぶものを、悪ふざけをする連中はシャレと呼んでいる。

まったく同感である。どちらも理解できないとストレスがたまる。さて、哲学と笑いのはざまと言うべきか、融合の形と言うべきか、ジョーク満載のこの一冊から拾い読みして紹介することにする。もし笑えなかったら哲学的思索力の不足かもしれないし、もしむずかしいと感じたらユーモアセンスの欠如かもしれない。


形而上学けいじじょうがく

見ることも確かめたりすることもできないことを考えること。「宇宙に目的はあるか」などはその代表的テーマであるが、身近なところでは25万本ある頭髪の一本一本を抜いていったとき、いつからハゲになるか」なども俎上に乗る。

(^’^) 目的論
あるおばあさんが二人の孫を連れて歩いていた。そこに知り合いがやってきて尋ねた、「お孫さんはおいくつですか?」 おばあさんは答えた、「お医者さんのほうが5歳で、法律家のほうが7歳です」

もし人に達成しなければならない〈テロス内的目標)〉が備わっているのならば、おばあさんの答えは必ずしも間違いではない。孫の実名であるジョンやニコラスなどよりも、達成すべき将来のプロフェッショナルの呼び名が妥当かもしれない。

(^’^) 本質論
「ゾウはどうして大きくて、灰色で、シワだらけなの?」
「小さくて、白くて、丸かったら、アスピリン錠になっちゃうからさ」

すべての存在の本質は、他の存在の本質との差異を持つ。こんなに簡単に説明されてしまうと、大きい、灰色、シワはゾウの本質的な特質としては十分ではないような気がしてくる。


〈論理学〉

論理に筋道が立たなければ、いくら理屈をこねてもムダである。論理は導き方であって、結論の是非を問うような野暮なことをしない。

(^’^) 虚偽の論理
「ヘロインに溺れる多くの人はマリファナから始めたのだ」という主張がある。しかし、「ヘロインに溺れる人のうちほとんどすべての人がミルクから始めたのである」という反論も成り立つ。

(^’^) ゼノンのパラドックス
セールスマン「奥さん、この掃除機を使えば、仕事量が半分になりますよ」
主婦「まあ、すてき! それを二台ちょうだい」


〈認識論〉

あなたが知っていると思っていること、それをあなたはどうやって知るのか? 「知っているから知っているんです!」とあなたが答えないなら、残るは認識論である。

(^’^) 認識論に対する経験論の反発
三人の女性がテニスクラブのロッカールームで着替えているところに、顔を隠した素っ裸の男が走り抜けた。一物は丸見えだった。
「うちの主人じゃないわよ!」
「たしかに。おたくの主人じゃないわ」
「このクラブの会員じゃないわ」

クリントン大統領のネタで、よく似たのがある。
100人の女性に「クリントン大統領と寝たいか?」と聞いた。
二人がイエスと答え、98人が「二度と寝たくない」と答えた。


〈倫理学〉

よいことと悪いことを分類するのが、倫理学の領域である。しかし、分類をする時点で、どこか「えいやっ!」と無理をしている可能性がある。

(^’^) ストア哲学
「よい」ということばにはいろんな意味がある。ある男が500ヤードの距離から母親を銃で撃ったら、わたしは彼が腕のよい射撃手と言わざるをえない。だが、必ずしもよい男ではない。(チェスタートン)

(^’^) 功利主義
「人にしてもらいたいと思うことを人にもしなさい」という黄金律がある。しかし、人は違う好みを持っているかもしれないから、人にしてもらいたいと思うことを人にしてはいけないことがある。あなたがいじめられたいタイプだからといって、人をいじめてはいけないのである。マゾとサドの切り替えはそう簡単ではないのだから。


〈言語哲学〉

「日本は近い将来どうなるでしょうか?」と聞かれて答えられないとき、「日本も近い将来も意味はわかります。でも、お答えする前に『は』の定義を教えてもらいたい」と、逆に相手を困らせる手がある。

(^’^) 日常言語哲学
「フレディ、ぼくはきみに100歳まで生きてほしい。そして、できればさらに3ヵ月……」
「ありがとう。でも、アレックス、どうして3ヵ月なんだい?」
「ぼくはきみに突然死してほしくないんだ」

(^’^) ファジー哲学
自然史博物館での話。一人の見学者がガードマンに尋ねた。
見学者 「この恐竜の骨はどれほど古いかご存じですか?」

ガードマン 「2億と46ヵ月です」
見学者「やけに細かい数字ですね。なぜそんなに正確な年代がわかるんですか?」
ガードマン 「わたしがここで働き始めたときに、この骨が2億年前のものと聞きました。それから46ヵ月経ちましたから、そうなります」


〈相対主義〉

相対主義のもと、われわれは何が正しいと断言できるのだろうか。いや、そもそも相対主義という術語自体が、ぼくとあなたとに対して違う意味を持っているのではないだろうか。

(^’^) 時間の相対性
ドアがノックされたので女性が出てみると、カタツムリしかいなかった。
カタツムリをつまみあげた彼女は、庭の向こうに投げ捨てた。
その2週間後に、またノックの音が聞こえた。
女性がドアを開けると、またあのカタツムリがいた。カタツムリは言った。
「いったいどういうつもりなんですか?」

哲学はやさしくない。考えることもことばもむずかしい。だが、それならジョークも同じことだ。哲学嫌いはユーモアセンスに恵まれないだろう。笑うためには、そして考えるためには、いろいろと知らねばならないことがたくさんあるのだ。そして、知っていれば人生はいくらかでも楽しくなるはずである。

時は流れているのか

(a) ある事件が起こったのは一か月前なのに、それがつい先週のことのように甦る。
(b) ある人物と再会した。10年ぶりくらいかなと直感したが、実は2年ぶりだと知って驚いた。

(a)は現実の時間よりも感覚的時間のほうが短く、逆に(b)は感覚的時間よりも現実の時間のほうが短かったという例である。

「歳をとるにつれ時間(月日)の経つのを早く感じるのはなぜ?」 歳をとったと自覚する人なら一度は自問したり誰かに尋ねたりしたことがあるだろう。このことについてぼくは過去何度か考えたことがある。本ブログでも《いま・ここ》の明快さというタイトルで書いたことがある。そして、時間のことを考えるたびにいつも繰り返し問うている、「はたして時間は流れているのか?」と。

人々が時の流れのあまりにすみやかなことに罪を着せて、時の逃れ去るのを嘆くのは、見当違いだ。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)

螺旋状の時計2

ダ・ヴィンチは「時の流れ」という表現を用いている。天才が言うのだから素直に従えばいいのかもしれないが、ぼくには時が流れているようには感じられないのである。過去の瞬間や断片的体験を記憶の中でつなぎ、あたかも動画のように再生しているだけではないのか。時間が流れているように感じるのは、記憶を過去から現在へと呼び寄せ、現在から未来へと想像を馳せるからである。つい「時の流れ」などと言ってしまうが、実は「時間とは瞬間である」と思う。


いま思い返しているのが過去であり、いま洞察しているのが未来である。過去も未来も現実の内にしかない。

「現実は生命にかかわるもの、触れることのできるもの」
(大森荘蔵『流れとよどみ』)

もしそうならば、現実以外に〈いま・ここ〉の時間など存在しない。過去も未来も現実ほど明快ではないし、過去や未来が現実を凌ぐほどの説得力で迫ってくることは稀である。

にもかかわらず、いまビジョンを描いているうちに、人は現実よりもビジョンに軸足を置いてものを考えてしまう。今日が終わらないうちは明日は来ないのだが、今日よりも明日に期待してしまったりする。あるいは、過去を回顧しているうちに、人は現実よりも過去の経験を甦らせて懐かしさに酔いながら――時には後悔に苛まれて――人生を眺めてしまう。

昨夜見た夢も数年先を見据えたビジョンも、今という現実の中でしか実感できないはずだ。そして、過去も未来も、手で触れられるような現実感覚に比べて曖昧であり、輪郭のはっきりしない表象でしかない。過去や未来を起点として発想するなどと言えば何だか体裁が良さそうだが、現実直視が後回しになるのが常である。〈いま・ここ〉から逃れて行き着ける場所などない。逃避したくても、時間は流れてなどいないのだから、流れを遡ってもそこに過去はないし、下流へと辿って行ってもそこに未来はないのである。

断片への偏見

「点をつないで線に」とか「部分を統合せよ」などという主張をよく耳にする。ぼくも時々言う。点をばらばらにして途方にくれたり、部分を単純に足し算してけろりとしている人に言う。そう言いながらも、絶対真理として「全体が部分よりすぐれているから」などとは思っていない。

断片

総体や全体に比べたら断片は劣っているように扱われる。「全体は部分の総和にまさる」(アリストテレス)という名言にはちょっと抵抗しにくい。実際、適当にではなく、調和的に部品を組み合わせれば、全体は単なる足し算以上の力や機能を発揮する。ところが、その部品の一つが精密なネジだとして、そのネジのお蔭でロケットも飛ぶではないか。はたしてネジあってのロケットなのか、ロケットという全体構想があったからネジが生かされたのか……正直なところ、よくわからない。

物事は全体を把捉するから理解できるのか、それとも全体では理解しにくいから分けていって小部分にすれば理解できるのか……かなり悩ましい問いである。全体ゆえの部分なのか、部分ゆえの全体なのかと言い換えてもいい。レヴィ・ストロースが『野性的思考』で語った「いろんな出来事の残片ざんぺんを組み合わせて構造をつくる」というメッセージは、全体設計図以前の、試行錯誤的な断片の組み合わせの重要性を暗示している。


総体や全体、場合によっては体系などが語られた後に、断片のことなどを言い出すのは勇気がいる。しかも、ろくに全体構想できない者が、各論や部分を蔑視するから滑稽である。断片への偏見は根深い。しかし、アメリカの作家ドナルド・バーセルミは「断片だけがわたしの信頼する唯一の形式である」と吠えた。この作家の短編小説を最初に読んだのは二十代半ばだったが、どう形容すべきか戸惑った。論理や物語や全体に一瞥もくれずに、句読点もなく、ひたすら断片をつなぐのである。ちょっと長いが、『アリス』から引用してみる。

ぼくはかつてハンマー投げの頑丈な男だった 余暇の時間のため余分のハンマーがあってしかるべきじゃなかろうか?
アリスの大腿部はすばらしい黄金色のワニスをかけた木製のオールみたいだ もちろん他にそんなものを見たことはない
混沌とは味がよくてしかも有益なものだ
色染めの衣装 紙製ハンカチ 絶妙な諷刺漫画 ちょっとしたさわやかさ 伝導中の教皇のラバが 種々さまざまなプジャード運動の声明 濃い色調の黒人 権利放棄証明書と一緒になってとてもまずい作用を起こし ツェントラル・ビブリオテク・チューリッヒ・ガソリン 彼女の裸のお尻に合わせ アリゲーターの背中を切りとった文鎮で伸びきった宙吊り状態に保たれた縫いぐるみの熊のがらがら紐と一緒にたわむれる
きみだってそれがやれるんだ 見かけ通りのたやすいことさ
そうした特別の遊び手にとって定法なんかありはしない エアブラシをにぎって生け垣や溝に吹きかける白色と菫色 まだ独身だけれども指輪をはめて 乾燥 まったく無意識にやってるようなふりをして働かせるいっそうすぐれた感情 魚の群れ ハンマー投げの長いでっかい脚 濡れて美しい水中ダンサー 音楽の調べ スイス飛行の情緒の費用 透明で 希薄で アルカリ性で 白い風どもにとって非常に滑りやすい流体の危険 いなかの小さな電話ボックス 口づてにもたらされた辛辣な侮蔑 有名な事件
(……)

こんな調子がずっと続くのである。全体理解に比べたら部分など簡単だと思っていたぼくはちょっと困ったのである。ナンセンスと片付け、奇妙な作家だという烙印を押して退けたらよかったのだろうが、断片侮るべからずと思ってしまったのである。論理の助けがあるから分かることが、論理の骨を抜かれると難解になる。それまでは、非論理的だとして取り計らわなかった構造以前の寄せ集めなのに、一つの形式としてあってもいいのだろうと寛容になった。

そして今、部分に対して全体が重要だと発言する機会が多いものの、断片に偏見を抱いていたらぼくの仕事などは成り立たなくなるということも心得ている。もっとも、バーセルミのように、断片を「唯一の形式」だとは信奉していない。思考形式であれ表現形式であれ、多様な形式があるほうが凡才には生き延びやすいと思うのである。

アヴァンギャルドな頑固

身体はともかく、脳内の論理回路が疲れ切っていたので、今夜は読書ではなくテレビにしようと思った。なまくらに見流せる類がいいが、今夜の番組欄にはその類のお気に入りがない。ふと、録画していた『世界ふれあい街歩き』を思い出す。「パリ――冬のマレ地区へ」。これなら思考疲れした脳への負荷は少なそうだ。

マレ地区

三年前に歩いた見覚えのある通りや建物が画面に映し出される。博物館、入場料無料がうれしかった……このカフェは、ええっと、前を通った記憶がある……あ、ヴォージュ広場だ……ここはフラン・ブルジョア通りかな……という具合に映像に無言の字幕を付けていた。

マレ地区には16世紀や17世紀の貴族の館が残る。華やかさはないが、渋くてエレガントな雰囲気を醸し出す地区だ。最近では北マレ地区にトレンドの最前線をゆく店も増えてきて、観光客が足を運ぶようになった。一軒のアーティストショップらしき店のオーナーが言う、「新しいことはいいこと。それを目指さないと、ホコリをかぶってしまうからね」。


古き過去、ひいてはその延長線上にある今を、たとえそれが良きものだとしても、それを守り通すだけでは前へ進めないのだろう。人は経験を通して時折り過去を振り返るだけでなく、到着したばかりの現在の足元も見ないといけない。いや、足元に気を取られていると今度はそこから目を離せなくなる。過去もいい、今もいい、だからそれで万事がいいというのは一つの生き方ではあるが、ほんとうにそれでいいのだろうか。

「過去がよくて今がよくて不安がないというのは、きみ、ちょっと無神経じゃないのかい?」と指摘されたら、その指摘にも一理あるかもしれないと思うのは、決して恥ずかしくない良識である。先のオーナーアーティストの言うように、無神経はぼくたちを埃まみれにしてしまいそうな気がする。

通り過ぎてきた過去の道で過去の経験ばかりを謳歌するような頑固は遠慮願いたい。いや、頑固そのものは否定的な資質などではない。頑固であってもいいし、こだわりが強くてもいい。でも、できることなら、いつも新しいことを歓迎する気分でいたいものだ。これを「アヴァンギャルドな頑固」と名付けよう。

ふと気付いたら、番組の後半の途中から視線をテレビから離して、考えごとを始めていた。「埃をかぶってしまう」という一言がきっかけだった。思考疲れした脳は、休ませてもらえるどころか、本棚から取り出した『パリ二十区の素顔』という本を読まされ始めている。