年末、メモの読み返し

いつかブログで取り上げるつもりで残してある箇条書きの雑文メモ。瑣末なことが大半を占める。今年もずいぶん溜まっている。見切りをつけて捨ておけばいいが、まったく未練がないわけでもないので読み返す。ページを繰って5つだけ拾ってみた。


📍 「夕食を食べる」と言ってもおかしくないが、書いてみると奇異に見える。「食を食べる」がしっくりこない。なので、夕食をべるとか洋食をべるというふうに、「食べる」を「たべる」と書く。「文書を書く」も同様で、表記がしっくりこない。だから「文書をかく」とか「文書をつくる」と表わす。

📍 「みんな違っていいんだよ」に同意する人は多いはず。しかし、そうであっても、人にはそれぞれ事情がある。相田みつをが言うような、他人と違う生き方やあり方は容易ではない。みんなと同じほうが安心で、安心は平凡ではあるけれど、同じだと気が楽だ。「みんな同じでいいんだよ」にも一理ある。

📍 「天ぷらは親のかたきのように食え」と池波正太郎はよく言っていた。一品ごとに揚げたてを熱いうちに食べてこその天ぷらだ。したがって、出されてからすぐに食べずに、スマホやデジカメを構えて撮影しているうちに冷める。インスタ映えの演出は天ぷらの敵である。

📍 先日、コラムを依頼されて書いた。時間があったので、何度も読み直し何度も推敲した。最後に仕上がった文章は洗練されていたと思うが、伝える熱意を失っていた。

文章や詩に何度も手を入れて納得するまで磨きをかけることを「彫琢ちょうたく」という。適度に練り直せば最初に書いた文章よりもよくなる。ただ、この「適度」が微妙。やり過ぎると修飾語ばかり増えて、最初の文意から遠ざかってしまう。少々拙くて粗っぽくても、最初に書いた文章の息づかいを消してはいけない。

手書き原稿と推敲の跡(小林秀雄『真贋』)

📍 予定にない急ぎの仕事がいろいろ入ってきた一年だった。知識の持ち合わせがないテーマもあって、連想を広げるのに少々苦労した。とにかく急かされているから、調べてヒントを探すしかない。一つの課題に対して一つの調べものという、効率の悪い学習を強いられることが少なからずあった。

これを繰り返していると、考える前に調べるという、その場しのぎの悪い癖がついてしまう。当面の課題のためだけに間に合わせの知識や情報を仕入れるのは情けない。願わくば、ふだん日常的に気の向くままに学んでいることが、いざと言う時に自然と役に立つのがいい。このような知の形成が本物の力になるのだと思う。


今から大掃除に取り掛かるが、掃除も同じ。毎日軽くやっておけば年末に意気込むこともない。

麺に関するコンセプト雑談会

「迷たら麺、迷わんでも麺。ノーメン、ノーライフや!」

個性と言うか、コンセプトと言うか、麺にもいろいろある。そんな話をしよう」

「麺の個性? うまいの一言で十分やろ」

「それは粗っぽい。饂飩うどんはうまい、蕎麦そばはうまいだけでは特徴が言えていない」

「全種類の麺で特徴探しは無理。うどんとそばとパスタでどうや?」

「似て非なるライバル関係のうどんとそばは比較しやすいが、種類の多いパスタは絞らないとダメだろう」

「パスタ代表としてマカロニを指名!」

「いいねぇ。饂飩と蕎麦も相手に不足はないはず」

「饂飩と蕎麦とマカロニ。三つ並べたら、饂飩が普通と違うか」

「勝ち負けじゃないから、ノーマルでいい。現実的で常識的で親近感があるのが饂飩の良さ」

「マカロニはお調子もんやな。笑わせる。対して蕎麦はクソ真面目」

「言い換えると、マカロニはドラマチックで、蕎麦はドキュメンタリー」

「蕎麦は知的やなあ。どこまでも理性的。データもエビデンスも持っとるような感じ」

「マカロニは正反対。感情的で印象を重視している」

「マカロニはちょっとセクシーや。さすがラテンの血を引いとる。蕎麦はプラトニックに命を賭けとる。人として見たら面白味に欠ける」

「なんだかマカロニと蕎麦の対抗戦みたいになってきた。饂飩の話が出てこない」

「それが饂飩のええとこや。夢ばっかり見てるマカロニは幼いと饂飩は思とるはず」

「饂飩の良さは中庸にあり、か。愉快と真面目の間、理性と感性の間、硬派と軟派の間……という具合」

「硬派と軟派の比較なら、蕎麦が硬派でマカロニが軟派で決まりや」

「饂飩と蕎麦の類似性って、ブレない型があることだな。マカロニは型破りだから」

「いやいや、型を破って何百年も経ったんやから、型破りがマカロニの型なんや」

「なるほど。マカロニは熱い生き方をしてきたわけだ。それなら蕎麦はクールに生きてきた。で、饂飩はどっちにも偏らず中道を歩んできた」

「蕎麦打ちの性格が蕎麦を作ってきたのとは違う。蕎麦の個性が蕎麦打ちを育ててきたんや」

「饂飩の打ち手は饂飩の影響を受け、マカロニ職人はマカロニから学んだ……こういうことかな?」

「知り合いにマカロニみたいなやつがおるわ」

「コンセプト雑談、そろそろこのあたりでまとめとするか。一覧表作って、蕎麦でも食いに行こう」

「そやな。軽く一杯となると、饂飩もマカロニも蕎麦には勝てん」

 

抜き書き録〈2022/12号〉

相変わらず隙間の時間に特に意図もせず乱読や併読をしている。ここ一カ月のうちに手に取った数冊の本にたまたま「感情(または感性)と理性(または論理)」を取り上げた記述があったので、まとめて抜き書きしてみた。


📖  『世界名言・格言辞典』(モーリス・マル―編)を繰っていたら「感情」の項を見つけた。ついでに「論理」をチェックしたら、その項もあった。いろいろ紹介されている格言から一つずつ選んだ。どちらもスペイン由来の格言。

とっさに心にわく感情は、人間の力ではどうにもならない。

ある物が黒くないからといって、白だと結論はできない。

感情は人の心にわく。しかし、とっさにわくとコントロールできない。人は自分の予期せぬ感情に押されてしまう。だから論理的に考えるべきだということになるが、その論理も生半可に使うと誤謬を犯す。「黒くない⇢白だ」というのもとっさの感情的判断に近い。感情と論理はよく似た間違いをやらかしてしまう。

📖  『不思議の国の広告』という本がある(尾辻克彦選/日本ペンクラブ編)。広告批評のコラムニストだった天野祐吉が『大急ぎ「広告五千年史」』というコラムを書いている。

ヒットラーの演説は、文字で読んでも、人を感動させるような深いものはありません。それどころか、子供だましみたいなことを言っている。が、彼の演説を録音したものを聞くと、うまいんですねえ、その語りっぷりが。彼は、人を動かすのは論理じゃなくて感情だ、言葉じゃなくて音楽だ、ということを、ちゃんと知っていた。演説の中身を吟味したりするのは、ひとにぎりのインテリだけだということをちゃんとわかっていて、それで見事に大衆操作をやってのけたんだと思います。

あなたは感性派、それとも理性派? などと聞かれて、「あ、感性派です」と答える人がいるが、実際は二択のどちらかに厳格に自分を置いているわけではない。感性も理性も持ち合わせているのが人間である。感性のほうがウケがいいと信じて実践してもうまくいかない。理性は一般を扱うが、感性は個別的である。「感情にはすべて、自分だけが体験する感情と思わせる独特な面がある」とドイツ人のジャン・パウルは言う。感情は自惚うぬぼれが強いのだ。

📖  茨木のり子著『詩のこころを読む』の一節。

詩は感情の領分に属していて、感情の奥底から発したものでなければ他人の心に達することはできません。どんなに上手に作られていても「死んでいる詩」というのがあって、無残なしかばねをさらすのは、感情の耕しかたがたりず、生きた花を咲かせられなかったためでしょう。

このあと著者は感情と理性を比較し、感情的な人よりは理智的な人のほうが一般的に上等と思われるふしがあると言う。しかし、「感性といい、理性といっても、右折左折の交通標識のように、はっきり二分されるものではないようです」と結んで、感情と理智を同時に満足させてくれる詩がありうることを示す。

📖  安斎育郎著『人はなぜ騙されるのか』にも理性と感性の違いについてのくだりがある。

教育には、二つの違う方法がある。第一は「理性」に訴えかける手法、第二は「感性」に訴えかける方法である。とりわけ未知の現象に対する科学的態度、要するに「分からないことは引き続き調べる」ということによって、批判的・客観的な態度を培う必要がある。

著者は超常現象に対する人の取るべき態度について語っている。人は不思議な印象から強い衝撃を受け、理屈よりも心の動きに支配されてしまう。衝撃はずっと続き、目の前で見た「ありえない現象」をありえるのだと信じ、理性よりも感性が優位的になるのである。


抜き書きをしているうちに、十数年前に私塾で話したことを思い出した。カントの『純粋理性批判』の一節がそれ。

人間の認識には二本の幹がある。それらは共通の〈未知の根〉から生じる。感性が素材をもたらし、悟性がこれを思考する。

カントの術語である悟性を大雑把に理性と呼ぶならは、人は感性と理性を動的に協調させたり統合したりして思考力や構想力を築き上げている。別の言い方をすれば、そのつど感性と理性にうまく役割分担させるほど人は器用ではないのである。

年賀状レビュー(2022年版)

毎年今頃は、前年暮れに差し出した年賀状をレビューすることにしている。したためた時の思いと今の心境を照らし合わせて自己検証するために。あるいは、苦し紛れや手前勝手な心変わりがあったなら自己批判するために。


ものを考えること、ことばを操ることに苦労はつきもの。苦労から解き放たれようとしてなけなしの知恵を絞り創意工夫に努めても、その過程で別の苦労を背負うことになるものです。

アイデアが首尾よくひらめくことに、また上手に読んだり書いたりできることに手っ取り早い道がないことを知っています。けれども、ただひたすら試行錯誤の場数を踏み続けるうちに、あれこれと心得るべきことに気づくのではないか……甘い考えと承知の上で、そんなあれこれの気づきを「きみ」への助言という形式でしたためてみました。

🖋 あの時、きみは「考えています」と言った。でもペンもノートも手元になかった。何も書かずにただ腕組みしている状態はおおむね思考停止中のサインだ。
どんなことを考えたの? と聞いたら、きみは口をつぐんだ。アタマの中は見えないし、考えていることはわからない。だから、ことばで伝えるしかない。たとえ拙くてもいいから、考えにはことばを添える必要がある。考えていると言う人はいくらでもいるが、考えていることを語れる人は少ないものだ。

🖋 ことばで考える。そして、考えたことをことばにするなんて無理。そう思っているのではないかな。「はい、難しいです」ときみ。やっぱり。真摯にことばに向き合っていないと余計難しく感じるのだろうね。ことばにしづらいことを敢えてことばにすること。それが言語的生き方というもので、とても面倒くさい。でも、非言語的な以心伝心よりはよほど確かに思いが伝わるはず。

🖋 ことばを知り、ことばを聞いたり読んだりする。諸々の感覚はことばと連動する。あるいは、ことばを誘発する。

🖋 ダメだなあと言われたらどんな気分になる? 「もう慣れました。でも、これもダメ、あれもダメ、全部ダメの波状攻撃を受けると滅入ります」ときみ。ダメづくしは非難のことば。自己嫌悪に陥る。他方、「これはダメ、あれはよい」というのは批判のことば。反省と工夫を促す。非難と批判は紙一重。厳しい自己批判を経てこそ、紙一重の違いがわかるようになる。

🖋 感情の起伏が激しいと、考えることが――ひいてはことばが――不確実で不安定になる。思いつきやその場かぎりの気分が支配的になり、「何となく」が口癖になる。「あ、それ口癖です」ときみ。「何となく」を連発する人間に世間は信頼を置かない。気をつけよう。

🖋 考えることに不安が募ると情報に依存する。手に入れた情報で視界が広がればいいけど、新しい情報と既存の情報が葛藤して前途が曇ることもある。

情報頼りでは行き詰まる。時々「タブラ・ラサ(tabula rasa)」の状態にリセットするといい。外界の印象を受けない、白紙のような心の状態のことだ。「あ、空っぽアタマはわりと得意」ときみ。いや、空っぽアタマじゃなく、満タンのアタマを敢えて空っぽにすることだよ。

🖋 本をよく読むようになったときみは言うけど、創造的思考が高まる保証はない。膨大な情報が思考受容器を刺激するとはかぎらない。情報多くして人ものを考えず。情報が枯渇気味のほうがよく考えるのが人の習性。

🖋 ベストなアイデアを望んではいけない。求めるべきはベターなアイデアなのだ。最善の解決法などないと割り切ろう。あるのは今よりも少し良さそうな解決法であり、その解決法もいずれ淘汰される。今日よりもほんの少しましな明日がいい。そう思わないか? 「ちょっと気が楽になりました」ときみ。

🖋 きみは相手に合わせて表現や話法を変えるね。思いと裏腹なことも喋る。「お見通しです」ときみ。計算高くホンネとタテマエを使い分けるのは労多くして功少なし。ずっとホンネで通すほうが思考とことばにムダがなく、長い目で見ればコストパフォーマンスがいい。

🖋 最後に本について。好きなテーマについてやさしく書かれた本は読みやすい。でも、そんな本だと読者の負荷が小さいので、忍耐強く深読みしようとしなくなる。いろいろなジャンルや難易度の本を読んでこそ、考える力、ことばの機微、語感が研ぎ澄まされる。本と読書については、これまでの考え方を一度見直してみるのがいいと思う。


本文の「きみ」は誰の中にもいるもう一人の自分。小難しいお説教を垂れたわたしたち自身がいつも感じるもどかしさの象徴として登場させました。
当たり前のような穏やかな日々と小さな幸せを感受できる時間を取り戻せますようにと祈念しています。

値決めと買い方

月に一度か二度ひいきの古本屋に行く。脇目もふらずにそこを目指して行く。目指すのだからすでに買う気満々、たいてい56冊買う。自宅から歩いて20分ほどの所なので、散歩や所用のついでに寄ることもある。その時は手ぶらで店を出ることが多い。

さらに近い、徒歩わずか56分の所に古書店がもう一店ある。日常生活圏の道沿いにあるので、そばを通ると必ずチラ見する。三度に一度は店に入る。前述のひいきの古本屋ほど利用しないが、たまたまセールの日だと品定めする。ある日、セールのPOP広告が目に入り足が止まった。

結論から書くと、セールの仕掛けに見事に釣られてしまった。書名をいちいち紹介しないが、文庫本を10買ってしまったのである。POPには「文庫本1100円(税込)」と書いてあり、これだけならセールと銘打つほどのことはない。ポイントは値決めの方法だった。

1100円、2200円、3300円、4400円、5500円と、ここまでは当たり前の単純掛け算。ところが、6冊買いの値決めが600円ではなく、5冊買いと同じ500円。それどころか、7冊でも8冊でも9冊でも500円。なんと10冊でも500円。つまり、5冊から10冊なら何冊買っても同じ500円なのである(ちなみに11冊なら600円)。

と言うわけで、ぼくは10冊買った。読んでみようと思った5冊はすぐに選べたが、その5冊ほど気が進む本がなかなか見つからない。しかし、悩むことはない。10冊買うつもりなら5冊は無料になるのだから。自分は読まないかもしれないが、オフィスの本棚に並べておけば誰かが読むだろうという感じで残りの5冊を選んだ。

こんな値決めをしている古本屋で10冊買ったという話をしたら、知人が「考えられない」と言った。値決めのことではなく、読むか読まないかわからない本を5冊手に入れたぼくのことをそう言ったのである。「読みたい本が5冊しかないなら、あと5冊が無料でも読みそうもない本なら絶対に持ち帰らない」と彼。「いやいや、そのほうが変だろう。たとえば自分が読まなくても、歴史小説を5冊選んで好きな人にあげればいいし」とぼく。

議論を深めると厄介な「要不要論」になりそうなのでやめた。ぼくはミニクロワッサンが5個でも10個でも同じなら10個にする。イタリアに旅行した時、3泊すれば4泊目無料というホテルに4泊した。知人もそうするだろうと思うが、本だとそうはならないようで、たとえ無料でも読まない本はいらないのだ。本にはそういう思いにさせる何かがあることは認める。

勝ちと負け

一度や二度やった覚えのある心理診断のYES/NOのチャート。質問にイエスかノーかの二者択一で答えていくと、最後に性格や将来の診断が出る仕掛け。あのチャートの選択と分岐に似た勝ち負け(WIN/LOSE)の岐路が人生の大小様々な場面にもあると考えられる。

生きていく上で勝ち負けはつきものであり、勝ち負けの決まる過程や結果をシミュレーションするゲームがいろいろ存在する。勝敗があるからゲームが展開する。スリルとサスペンスを欠く引き分けばかりだとゲームは動かない。サッカーでは決勝トーナメントで引き分けになると、何が何でも決着をつけるために延長戦をおこない、それでも決着しない時はPK戦をおこなう。他のスポーツやゲームもおおむねそうなっている。

勝敗の意味について知らない子どもや意味をわかっていても潔くない大人は、ゲームで負けると極端に悔しがる。ゲームボードを引っくり返したりルールがおかしいなどと言いだしたりする。負けを認めようとしないのだ。勝敗という決着の方法や「勝って奢らず負けて倦まず」の意味を理解するには、ある程度の成熟が求められる。


勝ち負けと言えば、2016年の米国大統領選挙を思い出す。大統領選挙はゲームではないが、あの時、米国の若い世代の一部はゲームのように見ていた。ドナルド・トランプの支持者は自分がゲームを勝った子どものように歓喜し、ヒラリー・クリントンの支持者はゲームで負けた大人のように絶望し、トランプの勝利を受け入れられなかった。そして、ゲームのリセットを要求し反トランプデモを繰り広げた。

選挙直前も開票時も、専門家もメディアも選挙をスポーツ観戦するかのように見ていた。大方の良識は戦う前からヒラリー推しだったし、トランプはゲームの未成熟なキャラとして扱われ、選挙では勝ち目がないと考えられていた。隠れトランプが大勢いた? それもある。意見には隠れているものと露わになるものとがあるのが常。ホンネとタテマエの二重構造はどの文化にも誰の価値観にも潜んでいるものだ。

閑話休題――。人間も含めた生物界には勝ちと負けがある。原則は優勝劣敗だが、稀に「劣勝優敗」が起こる。勝敗が決するのを嫌がる向きも少なくないが、勝ちも負けもつかず、ずっと来る日も来る日も引き分けばかりの人生を想像してみればいい。退屈でしかたがなく、こんなことならいっそのこと負けてしまいたいと思うに違いない。

ラーメンのレシピ再現物語

たまに行くいつものラーメン店でいつもの一番人気のラーメンを食べた。会計時に「これ持って帰って食べてみて」と店主が言い、インスタントラーメンを差し出した。パッケージを見ると、いま平らげたラーメンと同じ名前が……。「これ、ひょっとして」と言いかけたら、「話せば長いのでまた今度」と返された。

ラーメンマニアではないので、さすがにその日の夜には食べず、二日後の休日の昼に作ってみた。店の麺は生麵、インスタントの方は蒸して乾燥させているだろうから、口当たりが違う。生麺に比べてやや細い。しかし驚いたのはスープのほうである。店のスープとの味の違いがぼくの舌ではわからなかった。

後日、客がひけた頃合いを見計らって店に行き、同じラーメンを注文し、スープを味わい、あらためてインスタントのスープの出来に感心した。だいたい見当はついていたが、「いったいどういう経緯でインスタントができたのか」と尋ねた。以下、店主の話。


数カ月前にうちのラーメンがこの地区でグランプリを受賞したのは知っての通り。それ以来、並ぶ人の列も長くなった。常連さん以外の見慣れない客も増えた。新しい客でよく通ってくれる人が何人もおり、その中にいつもスーツを着た若い女性がいた。

女性は昼のピーク時間を避けて遅めに来る。閉店の30分前くらい。ゆっくり食べ,スープもじっくり飲む。食べ終わる頃にメモ帳を取り出してすばやく何かを走り書きする。「ごちそうさま」とだけ言って店を出ていく。他の客とは雰囲気が違う。女性の一人客は多くないので目立った。

最近特によく来るなあと思っていたある日の会計の時に、「いつもありがとうございます。気に入っていただいているなら何より。それにしても、よく来られますねぇ」と聞いてみた。他店の偵察などと思っていたわけではない。ここまでよく足を運んでくる理由を単純に知りたかったから。

女性は恥じらうように「実は……」と言って名刺を差し出した。大手食品会社の商品開発担当者だった。仕事柄いろんな店で食事をし、これぞと思うメニューを味わい、うま味のもとや成分を想像するという。そして、こう切り出した。「いつもいただいているこのラーメンをインスタント商品として当社から発売したいと考えています」。

麺もスープもレシピと作り方は教えられないと言うと、「承知しています」。飲み残したスープの持ち帰りもお断りと言えば、「当然です。こちらのお店の名前と商品名を拝借するのですから、合格と言っていただけるまで試作してお持ちします。なにとぞよろしくお願いします」と女性は深く一礼した。オファーを受けることにした。


以上がおおよその店主の話。店で十数回食べ、記憶とわずかなメモを頼りに、麺とスープを再現する。店では化学調味料を使わないが、食品メーカーは材料に調味料や添加物を使って同じ味を作り出す。女性は何度も何度も試作品を持参した。店主は妥協せず厳しく品評したという。ついにある日、店主とスタッフは納得のスープを味わうことになる。「麺は生麺ではないから80点どまりでしかたがない。しかし、スープのほうは……うちの味に近づいた。すごい再現力だと驚いた」と店主。

その後ぼくもインスタントのほうを何袋か買って食べた。かれこれ20年前の話。店主は数年後に一身上の都合で別の仕事に就いたため、店は今はもうない。ちなみに、店主はぼくの実弟である。