二項対立であぶり出される意味

あることばの意味を調べようとして辞書を引く。そのことばの見出しの下に語義が書かれている。読めばわかったような気になるが、実はことばは単独で意味を持っているわけではない。ことばは別のことばと対比されてはじめて意味を持つ。仮に二つのことばをABとするなら、〈AB〉という対義や対立の関係にしてみると意味が鮮明になってくる。

「長い」「多い」「高い」「表」「右」「開く」などは単独では何のことかわからない。「そんなことはない。わかってる」と反論されそうだが、「長い⇔短い」「多い⇔少ない」「高い⇔低い」「表⇔裏」「右⇔左」「開く⇔閉じる」などと、〈AB〉として対義させてきたから徐々に意味が明快になったのである。

ABは同時に成立しない。つまり、「AでなければBであり、BでなければAである」という対義語の関係にある。よく似た関係が〈二項対立〉だ。上記の長短、多少、高低、表裏、左右、開閉のような正反対の関係ではない。たとえば教師と生徒は同時に成立することもあるし、「教師でなければ生徒、生徒でなければ教師」ともかぎらない。こういう関係が二項対立。但し、対義語と二項対立のどちらにも顔を出すABもある。

誰が見ても二項が矛盾または対立している普遍的な二項対立もあれば、価値観によって敢えて二分化する特殊な二項対立もある。白の対義語は黒だが、赤も対義語だ。では、赤の対義語は白かと言えば、たしかにそうだが、黒もありうる。つまり、白と黒と赤は三つ巴の関係でもある。白⇔黒、黒⇔赤、赤⇔白の背後には固有の価値観が見え隠れする。

以前、人間の資質や性向を自分なりに二項対立の関係でとらえたことがある。定番的なものもあれば、強引な創作だが二項を見る視点を変えてくれたのもある。ここにリストアップしておく。

臆病 ⇔ 勇気
不安 ⇔ 自信
他力 ⇔ 自力
甘え ⇔ 責任
反応的 ⇔ 主体的
寡黙 ⇔ 多弁
儀礼的 ⇔ 親密的
見栄 ⇔ 潔さ
待つ ⇔ 動く
我 ⇔ 無我
怠惰 ⇔ 勤勉
遅疑 ⇔ 拙速
思いつき ⇔ 熟慮
一つの答え ⇔ 複数の問い
こだわり ⇔ 柔軟性
聞き流し ⇔ 傾聴
先送り ⇔ 即実行
鈍感 ⇔ 気づき
遠慮 ⇔ 踏み込み
タテマエ ⇔ ホンネ
分裂 ⇔ 統合
慌てる ⇔ 落ち着く
迷い ⇔ 決断
ポーズ ⇔ 自然体
情報依存 ⇔ 思考主導
蒙昧 ⇔ 教養
対立 ⇔ 対話
承認願望 ⇔ 批判受容
人の振り見る ⇔ 我が振り直す
自分世界 ⇔ 生活世界
一人称 ⇔ 二人称

サインプレートの”NO!”

オフィス近くのシーン。公道とマンションの境界をマンション側の敷地内に少し入ったところにサインプレートがある。言うまでもなく、散歩する犬に向けたものではなく、犬を散歩させる飼主に「ここで犬にトイレをさせるな」と注意を促している図である。

手作りだと思っていたが、ネットで売られていた。「ステーク付きの庭のサイン」という商品。ステークだから、地面に杭か支柱を打ち込んであるタイプ。キャッチコピーは「犬があなたの芝生の上でウンチやオシッコをするのを止めます」。犬が自発的に「止める」わけがないから、正しくは犬に「止めさせる」。

犬が今まさにウンチかオシッコをしようとしている瞬間がリアルだ。そこにNOの文字。しかも犬の背中にである。ところで、Noは質問や依頼に対しての否定の返事で、一般的には「いいえ」を意味する。しかし、NOと感嘆符を付けると強い主張が込められる。「絶対ダメ!」と言っているのである。

単発で発するNOには、場面に応じて「まさか!」とか「なんてこった!」などのニュアンスが出る。「まさか、こんな所でもよおすとは……ああ、なんてこった!」と、NOを背負った犬自身の思い? ダメだとわかっていても、つい習性が出てしまった? と読めなくはないが、考えすぎだろう。反対側にはNOの文字はない。つまり、公道側からやってくるよそ者の飼主へのメッセージなのだ。

ところで、ネットの商品説明の続きを読んでみた。「庭や庭で・・・・広く使用されています」(傍点ママ)とか「頑丈な・・・鋳鉄製で、頑丈・・です」(傍点ママ)と念には念を入れて繰り返しているのは、かなり商品に自信があるからか。ぎこちない日本語なので、どうやら日本製ではなさそうだ。「それは、犬と隣人がそのエリアが糞が禁止されているエリアであることを知るための微妙な方法を提供します」という一文で、中国製か近隣のアジアの国で作られたと確信した。

地面に立てられた小さなサインの類にはほとんど気づかずに通り過ぎる日々。NOという一言の小ネタで文章が書けた。サインプレートの効果のほどを知りたいが、誰に聞けばいいのか。

机上に置いている辞書

事務所にどれだけの辞書があるか。全部数えてこのブログで書いたことがある(『辞書、辞典、事典、百科……』)。約90冊だった。それが7年前。あっちの本棚、こっちの本棚とばらばらに置いてあったので、4年前に辞書類を一つの本箱にまとめた。

何とか全集というのをいろいろ揃えているが、未読のまま本棚に収まっているものが多いし手に取る機会も少ない。辞書も全集のように出番が少ない。全集や辞書は場所を取るのが難点。その不満を誰かにこぼしたら、電子辞書で済ませればいいと言われた。おいおい、あんなものでは調べた気にならないのだよ。おまけに、紙を繰ったり傍線を引いたりする楽しみもなくなる。と言うわけで、たまに使ってささやかに楽しむために辞書に少なからぬスペースを割いている次第。

席と辞書の本箱は離れているので、使用頻度が比較的高い56冊を机上に置いてある(写真は年明けからのラインアップ。英語の仕事が入ると、ここに英和辞典が加わる)。よく使うのが国語辞典。長らく使っていた『広辞苑』は本箱に入ったまま。数年前からは『新明解』一筋。自宅では第七版、オフィスでは第八版の青版を使っている。『コロケーション辞典』というのも机上組の一冊で、これは名詞と動詞の結びつきが調べられる活用辞典。動詞がなかなか思い浮かばない時に役に立つ。暇な時に当てもなく適当にページを繰って読むこともある。

ことわざと四字熟語の辞書は一種の読み物である。覚えてやろうなどとは思わない。何かを見たり聞いたりして、気になったら調べる。たとえばきれいな夕焼けを見た時に、さて夕焼けのことわざがあるかどうかチェックしたりする。先日コインケースを買い替えた折に、「財布」を引いてみた。財布をわざわざ辞書で調べるのは今回が初めてだ。

🏷 「財布の紐を握る」(『明鏡ことわざ成句使い方辞典』)
収支の管理をつかさどることを財布で象徴しているが、紐の握り手は主婦ということになっている。ところで、最近は握る紐が付いた財布は見かけないので、「財布のファスナーの開け閉めをする」とか「クレジットカードの暗証番号を夫に洩らさない」とでも言うか。

🏷 「財布と心の底は見せるな」(『世界の故事名言ことわざ』)
イタリアのことわざだ。人は中身が見えないもの、見づらいものを見たがる習性をもつ。その典型が財布と心の底だという。

🏷 「財布の底をはたく」(『明鏡ことわざ成句使い方辞典』)
有り金をすべて使ってしまうこと。新明解によれば、叩くとは「中に入っている物を全部外に出す」という意味。それなら、わざわざ財布の底を叩くと言わずに、「財布を叩く」と言えば済みそうだ。しかし、それではありきたりの成句で、値打ちがない。ことわざっぽくするなら、やっぱり「財布の底を叩く」なのである。

動けば気づき、出合う

この3年間出張が激減し、仕事のスタイルが大きく変わった。2019年までは毎月34都市へ1泊か2泊で出張するのが常だった。ところが、昨年は宿泊出張はわずか2件、日帰りの仕事も月に1件あるかないかである。働き方は二足のわらじから一足のわらじになった。

机に向かう時間が長くなると考えは深くなるかもしれないが、地上のことに気づきにくくなる。ひらめきの回路が閉じてしまうような感覚に陥る。正確に言うと、座る作業ならではの気づきがないわけではない。しかし、気づくのは守備範囲内のことばかりで、想定外の気づきにはなかなか到らない。

平日は脳が膠着し、尻が椅子に膠着し、視野が膠着する。そこで、面倒くさがらずに頻繁に席を立ち、何回かに一度は用の有無にかかわらず外に出る。つまり、動いてみる。半時間か小一時間程度だが、見えるものが一変し、それまでと違う景色が目に入り、何かに気づき、その気づきに触発されて新しいことを浮かべたり考えたりするきっかけになる。そんなに首尾よく結果が変わるわけではないものの、見通しがよくなってくるような気はするのだ。


戻ってくると、メモを取ったりノートを書いたりしやすくなっている。じっとしているよりも忙しく動いている時のほうが、言語的な働きが旺盛になっていることがわかる。コロナで出掛けず、人と会わずに話もしないことのツケは大きいなあと思う。

ルーチンとして日々よく歩いていた哲学者のエピソードを聞く。カントは毎日同じ時刻になると散歩に出掛けた。西田幾太郎が思想に耽った散歩道には「哲学の道」と名づけられた。散歩は運動だから、健康が効用であることは間違いないが、部屋でじっとしているよりも感覚が受ける刺激の強さと変化が違う。ものの見方が変われば思考の行き詰まりを少しは解消してくれるのだろう。

年末に古本屋で『書斎曼荼羅 本と闘う人々➋』を買った。後で出版された➋を先に手に入れて➊がないのは不自然。どこにも出掛けずに➊を求めようとしたら、Amazonや楽天で本を探して注文して配達してもらうしかない。運よく見つかれば23日で手元に届く。しかし、欲しいものを外に出ずに手に入れることに、入手すること以外の付加的な行為や意味は伴わない。引きこもりは機械的な効率を求めて良しとしておしまい。

年明けから平日も――仕事を中座してでも――外へ出るようにしている。先週、➋を買った古本屋とは別の古本屋にたまたま立ち寄り、探したわけではないのに、偶然にして➊を見つけたのである。こういう、まるで用意されたかのような出合いが、在宅ネット注文との決定的な違いなのである。外に出る、場を変えてみる。望外の、脱目的の気づきと出合いの時間が生まれる。

抜き書き録〈2023年1月〉

最近あまり本が読めていない。正しく言うと、未読の本と新着の本が読めていない。空き時間に拾い読みする本はほとんどが以前読んだものばかり。負け惜しみで言うのではないが、一冊の本を一度だけ完読するよりも同じ本を何度か拾い読みするほうが気づきが多いような気がする。一見よりもリピーターのほうが店の料理の諸々によく気づくように。

📖 『橄欖の小枝 芸術論集』 辻邦生

この種の論集では、本の題名と同じエッセイが本文のどこかで綴られているものだが、見当たらない。最後の最後に見つけた。題はあとがきに付けられていたのである。

私がはじめて橄欖オリーヴの林を見たのは、一九五九年夏にイタリアの南端ブリンディシ港から船でギリシアに渡ったときでした。(……)
橄欖はギリシアでは聖なる樹木であり、その小枝は平和の象徴でした。それは、高貴な古典的な作品を生みだした古代ギリシアの風土に似つかわしい、気品に満ちた、偉大な象徴でした。(……)
橄欖の小枝は(……)二重の意味として考えることができるでしょう。一つは芸術家の内面の闘争の激しさへの暗示として、もう一つは激情を浄化した高らかな歌として。

二十年前、南イタリアの旅行中にブリンディシを経由したことがある。ブリンディシはアドリア海に面し、その先にギリシアがある。港は港でもぼくが経由したのは空港で、ローマ行きだった。ところで、この一文を読んでから、オフィスで育てている鉢植えの小さなオリーブの木に変化が生じた。ギリシアや芸術や歌のイメージが浮かび上がったのではない。他のグリーンと一線を画する存在としのイメージが浮かび上がったのだ。

文章以上に凝っているのが装幀である。本を保護するはこが二つ。ダンボール色の「スルー型」の函が外函。そこから濃いグリーンの「スリップ型」の函が出てくる。箔押しされた白い本がそこに入っている。こんな本を手にしてしまうと、書物の文化性の大半を失っている電子書籍に頼りなさを覚える。一冊の本の部位には何十という専門的な名称が付いている。名称は長年培ってきた文化にほかならない。

📖 『パンセ』 パスカル

『橄欖の小枝』のすぐ上の棚に、これまで折に触れて引用してきた文庫本の『パンセ』がある。あるアイデアを思いついたのに、メモしなかったために記憶から消えたのが数日前。その時の思いとそっくりなことを断章の三七〇番にパスカルがすでに書いている。

(……)逃げてしまった考え、私はそれを書きとめたかったのだ。その代わりに、「それが私から逃げてしまった」と書く。

考えそのものを書かないといけなかったのに、「考えを書けなかった」と書く情けなさ。「さっきまで覚えていたのに、いまこうして書こうとしたらすっかり忘れてしまっている」と書くことにも意味があると思うしかない。日記のその日の天気もそれに近い。何も書くことがないけれど、日記の習慣を続け、そこに意味を持たせるために「○月○日 晴れ」とわざわざ書いたのに違いない。

牛ステーキの焼き加減は?

焼肉とステーキは同じ料理の別の言い方か? ソースや調味料に違いがあっても、どちらも肉を焼いている点では同じか? しかし、「焼肉を食べに行こうか」と「ステーキをおごるよ」は同じではない。さらに言えば、焼肉と呼ぶ時の肉は通常は牛、豚、羊だが、ステーキはその他に鶏や鴨や魚、さらにはコンニャクやシイタケだったりすることもある。

牛肉に限ると、焼肉とステーキはよく似ているが、特徴的な違いがある。外食の場合、たいてい焼肉は客自らが好みの加減で焼く。一方、ステーキは店側が焼くので、店の調理人は客に好みの焼き加減を聞いてくる。客はおおむねレア、ミディアム、ウェルダンのいずれかを告げる。

ユッケ、ミンチ肉のタルタルステーキ、牛刺しなどは、まったく火を通さずに生のまま食す。鉄板であれ網であれ、ステーキには火を通す。薄い肉だと焼き加減は3段階が限界。焼き加減を微妙に調整するためには肉に厚みがいる。厚さが2センチ以上の牛肉なら上図のように、さらに好みの加減で焼くことができる。

レアは肉の表面だけを強火でさっと焼くか炙る。火は中までほとんど通らないので、ナイフで切ると断面は赤い(時に血が滲み出る)。ミディアムはレアの断面にピンク色が残るが、生焼けという状態ではない。ウェルダンは表面もよく焼けていて、切った断面からも赤みがほぼ消えている。

30代前半に勤務していた会社近くに良心的なステーキハウスがあった。同僚のアメリカ人と月に23回足繁くランチに通ったものだ。同僚はミディアムレア一辺倒。ぼくはいろんな焼き具合を試して、その店が仕入れている肉にはレアが合うと判断。その頃から今に至るまで、焼いてもらう場合も自宅で焼く場合もステーキはほぼレア仕上げだ。

そもそもレアの定義が「表面を強火でさっと・・・焼く」と曖昧だ。「さっと」は15秒なのか30秒なのか、肉質と肉厚を見て直感で判断するしかない。裏側の焼き方も焼き時間も悩ましい。いい感じのレアになっているだろうと思って切ってみるとミディアムになっていたりする。

年末に黒毛和牛のステーキ肉を買い、サランラップで包んで数日間寝かせておいた。冷蔵庫から取り出して常温に戻してからクロアチア産のハーブ塩をまぶして、厚めの鉄板で一気に焼いた。頃合いを見て端を一切れカットして焼き具合をチェック。レアの手前のブルーレア状態。すべて切り終えて皿に盛りつける頃に、余熱で理想的なレアに仕上がった。満悦至極。

迂回ルートを辿る

元日、例年通り、自宅から近い真言宗の寺に参った。檀家ではないが、護摩焚きの様子を眺めるのが気に入っている。二日、来客があって終日在宅。一歩も出ないで暖まっていると身体がなまる。翌三日、外へ出て動きたい衝動に駆られる。住吉大社に出掛けることにした。

谷町界隈に住むので、メトロで天王寺に出て路面電車の阪堺線に乗り換えれば大社の鳥居前に着く。所要時間40分弱。しかし、勝手をよく知るルートなので面白味がない。新鮮味を求めて迂回することにした。最寄りのメトロ中央線の堺筋本町から本町へ。四ツ橋線に乗り換えて玉出へ。初めて歩く界隈から年季の入った商店街を通り抜ければ、ぶらり鳥居まで20分。

途中、「水木しげる先生  生誕の地」の碑に初めて気づく。境港ではなく、住吉の粉浜の人だったのか。令和43月とつい最近の建立だから、初見なのも無理はない。商店街に入り、たこ焼きを買う。10250円は昭和の値付けである。公園のベンチに腰掛けて熱々を食べる。新年3日目なのに参詣道はかなり賑わっている。

往路と帰路に分かれている。往路側に松尾芭蕉の句碑を見つける。迂回ルートならではの発見だ。芭蕉没後170年の1864年に建てられた碑、彫った文字が劣化していて読みづらい。碑の横に立つ説明板をカンニングする。

升買て分別かはる月見かな

字も難読だが、背景を知らなければ意味も難解。住吉の市で何日か前に升を買った翁が気分が変わって、句会に出なかった、つまり月見の夜に月見をしなかった……。体調が思わしくなかったが、そうは言わずに、気が変わったということにしたという意味らしい。芭蕉はこの後、御堂筋の久太郎町あたりで病の床に伏し、ついに没した。水木しげるが大阪で生を受け、芭蕉が大阪で亡くなった。

さて、住吉の本殿。鳥居を過ぎてからそこに達するまでずっと混み合っていて時間がかかった。この比ではない元旦はさぞかし凄まじいはず。そそくさと賽銭を放り投げ、二礼二拍一礼して後ろの人に場を譲る。おみくじの列も長い。もっともみくじを引く気は当初からないので、誰も並んでいない「清塩」を選ぶ。清めに用いてもいいが、もちろん調理にも使える。出来上がった一品は聖なる味がするかもしれない。

帰路も玉出まで歩いたが、さらに20分ほど先まで歩いて天下茶屋へ。そこでメトロに乗り、起点となった堺筋本町まで戻ってきた。あまりなじみのない迂回ルートを辿ってみると新しい発見と気づきがある。たまにはいい。