「だから?」と言いたくなる時

誰が言ったか忘れたが、「人は頭で納得して動くわけではない」という発言が耳にこびりついている。いつもそうとはかぎらないし、人それぞれなのではないかと反発した。だが、冷静に考えてみれば、「ぼくたちは必ずしも・・・・頭で、あるいは理性的に納得して行動するとはかぎらない・・・・・」と丁寧に――つまり、現実に即して部分否定的に――読み下せば、このコメントは間違いではないだろう。問題は、この発言に続くべき「だから……」が抜け落ちている点だ。

「人は頭で納得して動くわけではないから、説得する側はこうせよ」と言いたいのか、「人は頭で納得して動くわけではないが、そんなことではダメだぞ」と言いたいのかが語られていない。素直に尋ねてみよう、「人は頭で納得して動くわけではない。だから?」 もう一つ聞いてみよう、「では、人は何に納得して動くのか?」 さらにもう一つ。「人は発作的に動いたり思いつきで動くのか?」 これらの問いにまっとうな答えが返ってくる気がしないのはぼくだけだろうか。

相手に頭で納得してもらおうとする人は、おそらく論理的説得を試みる。したがって、この発言は「論理的説得で人を動かせるわけではない」と置き換えられる。しかし、そこで終えてはいけない。それはやむをえないと言うにせよ、ハートに訴えかけよと言うにせよ、前言をつなぐ意見を明らかにしなければ、ただの評論的な独り言で終わってしまう。「人は頭で納得して動くわけではない」という言説に分があるのなら、誰も頭を説得しようとしなくなるだろうが、適当な説得や衝動的な納得でいいわけでもないだろう。


定期的に送られてくるメルマガに次のようなくだりがあった。

「日本人は情緒的な民族でロジックが苦手です。理詰めで考えることに違和感を持つ人が多いのではないでしょうか。」

「人は頭で納得して動くわけではない」と似通っている。論理や情緒の話になると、なぜこうもステレオタイプな一般論が平然とまかり通るのか、不思議でならない。「あなたは情緒的で、ロジックが苦手、おまけに理詰めで考えることに違和感を持っているだろ?」と言われて、どんな気分になるか。これは「あなたはバカです」と言われているに等しいのである。

「日本人は論理は苦手だが、繊細で感性にすぐれている」などという論評は通俗的にすぎるし、かなり認識不足と言わざるをえない。仮にこの主張が現実を正しく言い当てているとしても、それでいいのかと問うのが論評する者の義務である。そう問い掛けて、このままでいい、いや、このままではいけないと意見を述べてもらわねば、時間を割いてメルマガを読んでいる意味がない。

深刻化する原発問題を見て、わが国の世論が情緒的解決を望んでいるのか。まさか。論理的思考に違和感を強めているとはとても思えない。仮にロジックが苦手であっても、この局面で「理詰めで考えることが苦手です」などと言っている場合ではないのである。それはそうと、世界の民族を情緒優位系と論理優位系などに二分することはできるのだろうか。もしできるのならば、アメリカ人などはどちらに属するのか、聞いてみたいものである。

たとえば米軍の「トモダチ作戦(Operation Tomodachi)」は情緒的なのか論理的なのか。情緒的動機から生まれた論理的行動なのか、それとも論理的判断に基づいた情緒的行動なのか。こんなことは永久にわからないし、問う意味もないだろう。なぜなら、どう考えるかは定義次第だからだ。ついでに言えば、米軍は壊滅された東北の街を救済する作戦も立てるし、リビアの市街地を破壊する攻撃作戦も立てる。両方を同時にやってのける。この状況を見て、「だから……」という意見や論拠を持つべきだろう。ぼくには頭以外の納得も説得の方法も思い浮かばない。

時間の目測感覚

「時間がわかる」のは大人の証である。時間という、見えない何か――おそらく概念――についての感覚を子どもたちに語り教えることははなはだむずかしい。毎日食べて遊んで学び、何年もかけて他者とともに生きていくうちに、生活と心身のリズムが一つになって時間を認識するようになる。ぼくたちは時計によって具体的に時間を認識するが、時計がなくても時間感覚は身に染みついてくるようになる。やがて瞬間瞬間の連なりを時間の流れとして感じる。

今日が月曜日だとしよう。そして、仕事の期限が金曜日の正午だとしよう。このとき、四日間と数時間という時間の目盛は万人に同じである。しかし、こと時間の目測ということになると、能力や段取りとも相まって、人それぞれの感覚が生まれてくる。あまり仕事上手でない人間が「まだだいぶ時間がある」と考えたり、処理能力の高い者が期限の目印をごく間近に見ているということがありうる。

歩いて5分の距離を「遠い」と感じたり、何十キロメートルを「近く」と感じたりする。誰かが言っていたが、オーストラリアで隣の牧場でパーティーがあるから行こうと誘われたので気楽に応じて出掛けたら、車を飛ばして1時間もかかったらしい。ぼくも、10年ほど前に帯広に滞在した折り、帯広の知人の「もう一泊して陸別の別荘に行きませんか」という申し出にオーケーしたことがある。とても近いと言われたからだが、実際はたぶん100キロメートル以上で、2時間半ほどかかったような気がする。


二段一気に上がれると見込んだ階段なのに、実際には一段半しか足が上がっていない。若かりし日々の駆け上がりの記憶、老いかけている硬い足の筋肉という現実。身体的な運動神経の現実を脳が目測違いしているのである。人柄がよくて人懐こいAさんに気軽に親しく声を掛けたら、怪訝な顔をされた。親近感と礼儀の目測を誤ったらしい。テリトリー感覚の相違かもしれない。距離と同じく、時間の目測感覚も人によってだいぶバラつきがある。

時間の目測間違いには想定間違いという甘さも含まれる。3日後にできると思っていた仕事だが、ふいの来客とクレーム対応に追われて、結果的に5日後になったなどというケースだ。さらに、リズムも時間の目測に影響を与える。生活リズムと仕事リズムである。そして、このリズムは性格、ひいては楽観主義や悲観主義などの人生観によって大いに左右されると思われる。新幹線にギリギリに乗り込む者はいつもたいていそうなるし、半時間以上余裕をもって喫茶してから早めに指定席に着く人はいつもそうしている。

「楽観主義者はドーナツを見るが、悲観主義者はドーナツの穴を見る」という表現がある。時間感覚に置き換えるとき、時間を少なめに感じるほうが仕事のミステイクや遅延は少ないだろう。実際、時間はたっぷりあるようで、あっという間に過ぎていく。ゆったりと過去を回顧したり未来に想いを馳せるのも悪くないが、こと仕事に関しては身を引き締めるように時間を目測すべきだろう。なお、楽観主義者がドーナツを、悲観主義者がドーナツの穴を見るが、ドーナツをさっさと食べてしまうのが現実主義者である。

流れと成り行き

流れと言えば、つい最近では「立ち合いは強く当たって、後は流れでお願いします」が傑作だった。完全なシナリオを作ると八百長がバレる。かと言って、まったくの白紙状態では想定外の変化に対応できない。というわけで、「初期設定」だけしておいて、「後は流れ」になるのだろう。ゼロの状態から流れは生まれない。最初の動きや方向性を踏まえてスムーズに流れてもらわなくては困る。

流れで行くのも様子を見るのもいいだろう。だが、往々にして、「流れでいきましょう」と発言する張本人が流れも様子も読めないから滑稽である。会合に遅れてきて、それまでの経緯がまったくわからないまま、流れに乗れていると錯覚する御仁。「ちょっと様子を見てきます」ということばなどほとんど信用できない。そもそも流れや様子という表現で場を凌ごうとする魂胆が見苦しい。

頭が状況についていけていないのに、舌だけが空回り気味に滑るアナウンサーが、びわこマラソンの実況放送の冒頭でつまらぬことを口走った。先頭集団が競技場をちょうど出たあたりで、「昨年はここで若干アクシデントがありました」と言ったのだ。当然続くはずのアクシデントの中身を待っていたら、話はそれきりで、レース実況を平然と続けている。何が若干のアクシデントなのか。みなまで言わないのなら、こんな話を持ち出す必要はなかった。同じ場所を走る選手たちを見て昨年の光景が浮かび、流れで喋った。しかし、昨年のマラソンを見ていない視聴者はその流れに乗れない。


何もかも予定通りに運ぼうとすれば、発想は硬直化するし手順はマニュアル化する。だから、流れや様子を見る余裕――あるいは経過観察――があってもいいし、成り行きを見て臨機応変に振る舞うのも悪くない。しかし、成り行きには功罪がある。臨機応変という〈功〉になればいいが、主体性の放棄という〈罪〉もある。

仕事でも生活でも一度決めたことを変更せざるをえないことがある。たまにはいいが、のべつまくなしでは主体性はおろか自分をも見失ってしまう。日々の先約や主体的な計画が、いとも簡単にふいの来客や雑用によって潰れてしまう。崩れるような意思は意思ではなかったと言わざるをえない。趣味にしてもメセナなどの企業活動にしても、やろうと決めたなら外的な変化に右往左往して断念してはいけないのである。

「忙しくて、◯◯したくてもできない」という愚痴をこぼしているうちに、人生はあっと言う間に過ぎてしまう。流れや成り行き任せは多忙の原因の一つである。そして、多忙ゆえにできなかったことは、しなくてもよかったことに違いない。やろうと思っていてやらなかったことなどは、強い意思に支えられた、真に欲することではなかったと見なすべきだろう。平然と流れに棹差す生き方を目指すなら、桁外れの才能と決断力を身につけるのが先だ。

休日のぶつくさ

「今年のゴールデンウィークのご予定は?」と聞かれ、「どこにも出掛けない。たぶん散歩と思索三昧」と答えたのが先月の下旬。思索三昧などと言っているが、別に大したことを考えるわけではない。考えることと話すことはぼくの仕事の中核だから、休日でも仕事をしていると言えばしていることになる。本を読んだり美術館に出掛けたり散歩をするのは趣味であるが、仕事につながると言えばつながるかもしれない。「いいですねぇ。羨ましいですねぇ」などと言われるが、いいも悪いもない。もう30年以上そうして生きてきた。

連休が始まる前に「ゴールデンウィークはカレンダー通りですか?」とも聞かれ、「そのつもりだけど……」と答えてカレンダーを見たら、見事な飛び石であることがわかった。先月29日から3日間休み、今月2日に一日だけ出社して、3日・4日・5日と3連休。そして、6日に出社すると、続く土・日がまた休みである。誰の仕業でもあるまいが、休日が煩わしい並びになったものである。というような次第ゆえかどうか知らないが、2日と6日を休みにした企業がある。そうなると10連休だ。一ヵ月足らずしか働いていないのに、新入社員にはご褒美過多ではないか。


根は飽き性なのだが、三日坊主の空しさを何度も痛感してきたから、一度決めたことは決めた期間中継続するよう強く意識している。一番果たされない約束は自分との約束である。自分でやろうと決めたが、仮に反故にしても誰にも迷惑がかからない……こんな思いから平気で三日坊主を演じてしまう。「まあ、いいか」が終りの始まりなのである。ところが、こんな人間ほど「継続は力なり」を座右の銘にしているから開いた口が塞がらない。

ぼくのような大した実績もなく権威でもない者がいくら諭しても聞いてくれない。そこでよく持ち出すのが孟母の話だ。孟母がらみの教えは二つある。

一つはよく知られたエピソード、「孟母三遷の教え」である。墓地の近くに住めば葬式ごっこ、市場の近くに済めば商人ごっこ。これでは教育にならぬと学校のそばへ引っ越せば、孟子は礼儀作法をまねた。今なら職業差別沙汰になるが、まあ大目に見ることにして、〈環境と刷り込みの関係〉を読み取ろう。環境要因を抜きにして学びを語ることはできない。

もう一つの教え。実はこちらが三日坊主への直接的な戒めになる。「孟母断機の教え」がそれ。断機の戒めとも言われるが、学業を途中でやめてはいけないという教訓だ。学業だけでなく、いったんやろうと決めたこと全般に通じる話である。この断機の機は「機織はたおり」の機のこと。勉強を中途半端に放棄するのは、織っている機の糸を断ち切るのと同じことだと孟母は言う。


リラクゼーションも捨てがたいし、日頃できない遊びにも打ち込みたい。孟母三遷流に言えば、休日だからこそ環境を変えてみるのは良さそうだ。その一つが旅である。旅がままならないなら、一日の生活環境を変える工夫もあるだろう。ぼくは休日が断機にならぬように配慮する。せっかくの休日だからと緩めすぎては、せっかくの継続的習慣に終止符を打ってしまう。休日だから休めばいいというものではない。休日の過ごし方は実に悩み多いのである。

思い通りにならない……

まだクレジットカードもあまり普及していない時代、財布の中に入っている現金の範囲内でしか使えなかった。現金が一万円なら、いくら贅沢しようにも一万円が限度であった。したがって、財布に一万円ぽっきり入れるということは、「今日は一万円以上使わない」という決意の表われでもあった。ところが、財布の中にカードも収まっている現在、一日の予算が膨らんでしまった。要するに、予定外出費や衝動買いの可能性が高まっているのである。

まったく経験がないのでわからないが、大金を持つがゆえの悩みがあるらしい。正確に言うと、「持ち過ぎるがゆえ」である。過去にそんな知り合いがいないこともなかった。まだバブルがはじける前の80年代、三十歳前にして財布に一万円札がいつも十数枚入っている後輩がいた。それだけ入っていれば、ほとんど入っていない連中と飲食に出掛けるたびに、必然ご馳走する側を受け持つことになる。「いつもたかられる」と、持つがゆえの悩みを吐露していた。「悩みたくなければ、万札を持たなければいい」とよく彼に言ったものだ。

持たないゆえの悩みもある。しかし、持っていないのだから、少なくとも失う悩みはない。これに対して、持っていれば不安はないが、失うかもしれないという恐れと悩みはつきまとう。「ないものを失うことはできない。しかし、あるものは失うかもしれない」は真理である。それゆえ、持たない悩みも持つがゆえの悩みも存在する。持たない悩みは所有によって解消できるが、なかなか実現しづらい。だが、持つがゆえの悩みを解決するのはむずかしくない。持っているものを捨ててしまえばいいからである。捨てるときは辛いが、一度だけ思い切れば、金輪際悩むことはなくなる(髪の毛が抜け始めて少なくなってきたら、スキンヘッドにするのが正しいとぼくは思っている)。


「思い通りにならない」とうなだれるくらいなら、いっそのこと「思い」を捨てればいいのではないか。思いがあるから、思い通りに事が運ぶことを期待するわけだ。思いは独りよがりな目論見であるから、外れれば当然がっかりする。だから、最初から思いなど抱かなければいいのである。そう、ハズレ馬券が嫌なら、馬券を買わなければいいのと同じ理屈である。

ただ、これで「すべて世は事も無し」という具合にはいかない。たしかに、思い(または思惑)を捨てれば、思い通りにならない切歯扼腕と無縁でいられる。しかし、同時に、思い通りにいくという快感体験も放棄することになる。しくじるという感覚もない代わりに、思い通りの成り行きにほくそ笑むこともできないのである。両者を天秤にかけて、どちらを取るか。その取捨選択ぶりで性格がわかるかもしれない。思い通りにならない悔しさとおさらばするか、思い通りにいく愉しさを放棄するか……。

ややトリッキーに二者択一の答えを迫ったが、律儀に一方のみを選ぶ必要などない。世の中には、思い通りになることもあるし、思い通りにならないこともあるのだ。複雑なことに、思い通りに事は運んだが結果が思い通りでなかったということもありうるし、思い通りの展開ではなかったが結果には満足しているということもありうる。月並みな結論になるが、その思いが自分自身の意見に裏打ちされているかぎり、思い通りにならない悔しさと思い通りにいく喜びのいずれにも意味がある。長いものには巻かれろ式に生じた思いでは、悔しさも喜びも体験できないだろう。

粉飾するイメージ、言い訳する言語

JRのチケットをネットで買うが、あれを通販とは呼ばないだろう。予約の時点でカード決済するものの、手元には届けてもらえない。出張時に駅で受け取るだけである。注文したものが宅配されるという意味での通販は、最近ほとんど利用していない。ただ一つ、お米だけホームページ経由で買っている。そんなぼくが、デパートに置いてあったチラシを見て、衝動的にオンラインショッピングしてしまった。お買い得そうなワインセレクションである。カード決済はすでに終わっているが、手元に届くのは一カ月以上先だ。

会員登録したついでにメルマガ購読欄にチェックを入れた。それから10日も経たないのに、あれやこれやとメルマガが送られてくる。数えてみたら9通である。読みもせずにさっさと「削除済みアイテム」に落としていったが、件名に釣られて「珍味・小魚詰合せセット」のメルマガを開いてみた。重々わかっていることだが、見出しが注意喚起の必須要件であることを「やっぱり」という思いで確認した次第である。

さて、そのメルマガ情報だ。一つずつ順番に珍味と小魚の写真と文章を追った。そして、カタログなどでよくあることだが、あらためてそのよくあることが奇異に思えてきたのである。北海道産鮭とば、北海道産函館黄金さきいか、国内産ちりめんじゃこ、ししゃも味醂干し、国内産うるめ丸干しの五品が写真で紹介され、それぞれの写真の下に注釈がある。商品個々の特徴はレイアウトの真ん中から下半分のスペースにまとめて書かれている。


個々の写真の下の注釈を見てみよう。鮭とば――「画像は200gです」、さきいか――「画像は250gです」、じゃこ――「画像はイメージです」、ししゃも――「画像はイメージです」、うるめ――「画像は150gです」。いずれも画像に関しての注意書きになっている。「実際は異なりますよ」が暗示されている。

では、実際はどうなのか。鮭とば――200gではなく100g、さきいか――250gではなく125g、じゃことししゃも――実物がイメージとどう違うのか不明、うるめ――150gではなく100g。要するに、写真は実物をカモフラージュしているのである。実際の売り物とは違う写真を見せ、しかも「これらの写真は虚偽です」と種明かしをしている。あまりいい比喩ではないが、超能力者が空中浮遊してみせ、自ら「これはインチキです」と言っているようなものだ。

パソコンやスマートフォンの画面でも「画面ははめ込み」という注がついていることがある。上記の「画像はイメージです」も不可思議で、イメージには日本語で画像という意味もあるから、「画像は画像です」または「イメージはイメージです」と言っているにすぎない。ここで言うイメージとは何なのか。「実物ではないが、実物らしきもの。実物を想像してもらうためのヒントないしは手掛かり」という意味なのだろう。では、なぜ実物通りの写真を見せないのか。これが一つ目の疑問。次に、実物とは異なる写真を掲げておいて、なぜ実物の説明をするのか、つまり、なぜ相容れない要素を同一紙面で見せるのか。これが二つ目の疑問。

一つ目の疑問への答えはこうだ。実物が貧相なのである。だから実物よりもよく見える写真や実物の倍程度増量した写真を見せるのだ。これはイメージの粉飾にほかならない。二つ目の疑問への答え。格好よく見せることはできたが、注釈不在ではクレームをつけられる。だから「本当は違います」と申し添える。次いで、「本当はこうなんです」と実際の量を明かす。嘘をついた瞬間「すみません、ウソでした。本当は……」と告白しているだらしない人間に似て滑稽である。

写真もことばも嘘をつくが、広告においてはイメージの上げ底を文章が釈明することが多い。信頼性に関しては、文章に頼らざるをえないのだ。もっとも、こんなことを指摘し始めると大半の広告は成り立たなくなってしまうのだろう。だが、自動車の広告で写真を見せておきながら、「画像はイメージです」とか「画像はタイヤが四輪です」などはありえない。実物が超小型車でタイヤが二輪だったら、それは自転車であってもよいことになる。珍味・小魚だからと言って大目に見るわけにはいかない。ぼくには、「画像はイメージです」と言われっ放しの「ちりめんじゃこ」と「ししゃも味醂干し」の実物がまったく想像できないのである。だから、そんなものを注文したりはしない。

生活と仕事の密接な関係

理論武装できるほどの論拠を持ち合わせていないが、生活の現実はおおむね仕事ぶりに反映されると考えている。ダラダラと生きていたらダラダラと仕事をしてしまう。だらしない日常はだらしない仕事に直結する。無為徒食の日々を送っていれば、ろくな仕事をしないで給料をもらうことに平気になる。明けても暮れても遊んでいる者は仕事すらしないだろうし、流されるような惰性的生き様は、左から右へとただ流すだけの仕事に直結するのではないか。

生活を置き去り等閑なおざりにしたままで、いい仕事ができるはずがないのである。休日に運動し過ぎて身体を壊す。かと思えば、別の日には昼過ぎまで爆睡。アフターファイブは元気溌剌と友人と暴飲暴食、翌日はぼんやり頭で遅々として進まぬ仕事に向き合っている。暮らしぶりを見たらぞっとする、しかし表向きだけプロフェッショナルを装っている人間は結構いるものだ。「遊びは芸の肥やし」などと、まったく実証性のない自己弁護でふんぞり返っている芸能人もそこらじゅうにいる。二十代半ばで放蕩三昧から足をきっぱり洗って聖職に就いたのはアッシジのフランチェスコだ。悪しきライフスタイルとの決別は、一気にやり遂げねばならない。凡人にはなかなかむずかしいことだが、実は、少しずつ変革するほうがもっとむずかしいのである。

やわらかい発想を身につける方法やアイデア脳の育て方について、講演もしているし相談もよく受ける。ぼく自身、決して威張れるような日常生活を送っているわけではないが、〈クオリティオブライフ〉と〈クオリティオブビジネス〉を一致させるべく努力はしている。ふだんぼんやり暮らしているくせに、仕事の場だけ上手に頭を使おうというのは虫のいい話なのである。相談してきた人には「恥じないようなライフスタイルへと向かいなさい」と言う。素直な人は「わかりました。明日からそうします」と決意を示すが、すぐさま「ダメ! 今すぐ!」と追い打ちをかける。今日できることを明日に先延ばしするメリットなどどこにもない。決断と行動は同時でなければ意味がない。


様子を見てから、状況に照らしながら、相手の出方次第で、諸般の動向を睨んで、などはすべてペンディング動作にほかならない。「アメリカの動きを見て……」などと言っているから先手で意思決定もできず政策も打ち出せないのである。自分が自分でどうするかをなかなか決めない。状況や条件ばかり気にして、自発的かつ主体的に動かない。条件にあまり縛られない日常生活でこんな調子なら、本舞台の仕事では身動き一つ取れなくなるのが当たり前だ。

杜撰なライフスタイルは脳を怠惰にする。怠惰な脳は意思決定を躊躇する。反応的にしか働かなくなるのである。頭を使う仕事がはかどらなくなるとどうなるか。人は考えなくてもいい作業ばかりに目を向け、無機的な時間に異様な執着を示し始める。その最たる作業が会議だろう。「昼過ぎて まだ朝礼中 あの会社」という川柳を冗談で作ったことがあるが、あながち非現実的なジョークでもない。緊張感のない生活価値観は必ず仕事に影響を及ぼす。顧客と無縁な作業――社内の人事考課、業務レポート、朝礼、その他諸々の管理業務――ばかりがどんどん増えていく。

かつて公私混同するなとよく言われた。その通りである。しかし、精神性や脳の働きに公私の区別がつくはずもない。気持ちも頭もゆるゆるの生活者が、家を出て会社に着くまでの間にものの見事にきびきびとした仕事人に変身できるわけがないのである。〈私〉の姿をいくら包み隠そうとしても、〈公〉の場で仕事の出来や姿勢に本性が露呈してしまうのだ。ビジネススキルの前にヒューマンスキルがあり、さらにヒューマンスキルの前に胸を張れるようなライフスタイルを築かねばならない。要するに、「生活下手は仕事下手」と言いたかったのだが、はたして大勢の人々に当てはまるだろうか。

仕事上の能力開発のアドバイスをするために、生活態度や日々の暮らしぶりにまで介入して口はばったいことを言わねばならなくなった。必ずしも歓迎材料ではないが、日常の習慣形成を棚上げしたままでは、ぼく自身の教育へのコミットメントが完結しないのである。こんな姿勢を示すと、都合の悪い人が去ってしまうことになりかねないが、それもやむをえない。

“Fixed match”

時事的には少々旬が外れたが、ちょうどよい振り返り頃ではある。英字新聞には ” fought a fixed match with (against) ……” などと表現されている。他に “fixed game” という言い方もあるし、レースなら “fixed race” と呼ぶ。スポーツ全般、古今東西で存在してきたのが、この “fixing” という行為である。英語で表現すると何だかスマートに見えてしまうが、ずばり「八百長」のことだ。八百長は八百屋と囲碁に由来するが、子細は省く。

昭和30年代のスポーツと言えば、大相撲にプロレスにプロ野球だった。大阪市内の「ディープな下町」で8歳育ったが、当時町内でテレビを置いていたのは金物屋の爺さんの家だけだった。爺さんは大の相撲好きで、足の踏み場もないほど隣近所を集めては一緒に観戦するのだった。場所中は連日の十五日間、人が集まった。サラリーマン家庭が少なかった地域だったから、夕刻の早い時間でもテレビの前にやって来れたのだろう。駆けつけるのが遅いと玄関から遠目に見なければならなかった。

今にして思えば、爺さんたちはぼくたちにわからぬよう賭けていたのかもしれない。それはともかく、千秋楽の日には、力士のどちらが勝つかよく当てていたものだ。自前の星取り表を見ては、「七勝七敗のこっちが八勝六敗のあっちに勝つ」などと一番前に予想する。時には「この二人は同部屋みたいなもんだからな」とも言っていた。最近の千秋楽もそうらしいが、当時も、勝ち越しのかかった力士が大負けしている相手や優勝争いから脱落しているが星のいい相手に見事に勝つケースが多かった。子どもだったが、何かがありそうなことに薄々気付いていた。


「フィックスされたマッチ」とは、戦う前から結果が仕組まれている試合のことだ。「出来レース」とも言う。八百長に語弊があるのなら、単純に「出来」と呼んでおこう。閉じた勝負事の世界に出来はある。『侠客と角力』という本にも博打と相撲世界での出来について書いてある。出来はある意味で環境適応の本能かもしれないと思う。15歳やそこらでその道に入り、世間一般とは異なるルールやしきたりを刷り込まれる。当然、適応のための知恵もつく。ルールの中に反社会的な要素があることに気付くためには、入門前に社会の常識をわきまえておかねばならない。天秤の一方の台座に「世間の常識」、他方の台座に「土俵の常識」を載せれば、ふつうは世間の常識が重いはずだが、あいにくそちらの台座が空っぽだから、つねに土俵の常識(=社会の非常識)側に天秤が傾くのである。

ところで、強者がこの一番でどうしても勝ちたい時、通常の力関係で勝てそうな相手にわざわざ大枚をはたいて負けてもらう必要があるのだろうか。ふつうに考えればありそうにない。大人が幼児に小遣いを渡して腕相撲をすることはないのである。だが、万が一に備えて、念には念を入れて、優勝や昇進のかかった大一番では出来が仕組まれることもあながち否定できない。

「もし大相撲がなくなったら……」と聞かれたら、「そりゃ困るよ」と言うほど身近だった時代があったし、誰もが熱狂した時代があった。しかし、時代は変わった。スポーツは多様に人気が分布し、スポーツ以外のエンタテインメントも何でもありだ。文化や伝統を盾にしても、相撲でなければならない理由は見当たらないのである。消失して困る人よりも困らない人のほうが多くなれば、やがて慈悲に満ちた救済の声も消え入るだろう。人気とはよく言ったもので、対象を取り巻く人の気が弱まれば対象の存在価値も失せるのである。

さあ、どうする、大相撲? 階級制にするのか、部屋を解体するのか、ハンデ戦にするのか。あくまでもスポーツとしての道へ向かうのなら、儀式性や旧態依然としたしきたりと決別しなければならないだろう。いやいや、伝統的芸能ないしは興行的見世物としての要素も残すのか。いま、こんなふうに問うても、論争の対象にすらならないほどの死に体なのかもしれない。どうやら「業界の、業界による、業界のための存在」が最善の選択になりそうである。

指示に従わない人たち

プロ野球が開幕した。ご多分にもれず、自宅で購読している全国紙の一つが「順位予想」を掲載した。同紙のスポーツ記者5名がセ・リーグの順位、別の記者5名がパ・リーグの順位をそれぞれ1位から6位まで予想している。スポーツ記者の予想に格別の関心があるわけではないが、「どれどれ」とばかりに目を通してみた。朝食のトーストを齧りながら、ボールペン片手に少し遊んでみた。

1位に予想されたチームに5ポイント、以下、2位に4ポイント、3位に3ポイント、4位に2ポイント、5位に1ポイント(6位は0ポイント)を配分して、各リーグを予想した5人の記者の合計ポイントを足してみたのである。結果は次のようになった。

【セ・リーグ】 巨人21ポイント、中日19ポイント、阪神17ポイント、ヤクルト13ポイント、広島4ポイント、横浜1ポイント。昨年同様に、ペナントレースの予想は三強の様相を呈している。

【パ・リーグ】 楽天17ポイント、ソフトバンク16ポイント、日本ハム15ポイント、西武13ポイント、オリックス7ポイント、ロッテ7ポイント。拮抗した評価であるが、楽天予想に首を傾げ、昨年の日本シリーズの覇者の最下位予想にも少し驚いた。

ここ数年、ぼく自身の中でプロ野球離れが少しずつ起こっているので、各チームの新戦力もよく知らないし、球団勢力図もわからない。では、プロ野球の記者たちならよくわかっているのだろうか。そう思って、各記者の二行寸評を読んでみた。多分にセンチメンタル気質に突き動かされているコメントにがっかりした。優勝予想の根拠はほとんどなく、特定チームのファン心理に近い願いがあるのみだ。応援の一票を強引に正当化するために、後付けで寸評を書いたかのようである。


セ・リーグ予想を担当しているA記者は「層の厚い巨人が本命」と書いている。どの層が厚いのかよくわからないが、まあいいとしよう。問題はその次である。「開幕問題で経営者が下げたファンの支持を、選手がプレーで取り戻して」。これは巨人を優勝だと予想する根拠にまったくなっていない。まるで巨人ファンの願いそのものではないか。このA記者は2位に阪神を挙げているが、巨人ファンなのだろう。「選手がプレーで取り戻して」などという応援メッセージは、ファンでなければ絶対に書けない。

同じくセ・リーグ担当のT記者も「ヤクルトがダークホース。元気が出る好ゲームを期待します」と書いている。「期待など書くな、予想を書け」と言いたい。

いや、この二人のセ・リーグ担当記者の、予想よりも期待に傾いた程度はまだましだ。これに比べればパ・リーグの5人はひどいもので、戦力分析による予想をしていないのである。全員に占師か応援団員に転職するように勧告したい。

専門編集委員でもあるリーダー格らしきT記者: 「今年ばかりは楽天に頑張ってほしいので」。
別のT記者: 「がんばろう東北の合言葉のもと、楽天には躍進を期待したい」。
M記者: 「楽天には星野新監督効果と選手の発奮を期待します」。
O記者: 「楽天の意地にも期待したい」。
極めつけはW記者: 「予想ではなく、切望です。だって、プロ野球って夢を追うものでしょ。がんばろう! 日本」。

何たる「予想ぶり」だろうか。もう一度書くが、そのコラム中の一覧表には「プロ野球順位予想○○」というタイトルが付いているのである。「プロ野球順位希望× ×」なのではない。すなわち、パ・リーグ担当記者の全員が、順位予想という「指示=業務」を不履行しているのである。特にW記者など確信犯である。よくもぬけぬけと「予想ではなく、切望です。だって」と書けたものだ。だってもヘチマもない! 切望を書きたいのなら、本紙の読者欄に投稿すればいいのである。

こんなふうに指示に従わない連中がそこかしこに増えてきた。もしかすると、指示の意味がわからないため従えないのかもしれない。たとえばプロフィールの「趣味」という項目に、「趣味というわけではないですが……」と断りを書く連中がいる。そして、「少々演劇をやっています」と続ける。それを趣味と言うのだ。「氏名欄」には氏名を、住所欄には住所を、生年月日欄には誕生日を素直に書けばいいのである。

職業人であるならば、編集委員が記者たちに指示したであろう「プロ野球順位」の予想の根拠を記せばいいのである。仮にぼくが「たかがプロ野球」と見下げれば、記者たち全員が大声で「されどプロ野球!」と反論するに決まっている。それならば、読者のためにもう少しまっとうな分析と予想に励もうではないか。まあ、こんなことくらいで、購読を中止して他紙に乗り替えるつもりはないが……。

利を捨て理を働かせる

喉元過ぎれば熱さを忘れると揶揄される国民性だ。立ち直りの見事さは、そこそこ反省が済めばケロリとしてしまう気質に通じることもある。凶悪犯が手記を書けば、あれだけ煮えくりかえっていた怒りや憎しみをすんなりと鞘に収め、節操もなくその手記を読んで涙する。そして、まさかまさかの「あいつもまんざらではない」という評価への軌道修正。最新の記憶が過去の記憶よりもつねに支配的なのである。楽観主義と油断主義が紙一重であること、寛容の精神が危機を招きかねないことをよくわきまえておきたい。

推理について書いてからまだ二十日ほどしか経っていない。現在遭遇している危機を見るにつけ、真相はどうなのか、いったいどの説を信じればいいのか、ひいてはしかるべき振る舞いはどうあるべきなのかについて、いま再び考えてみる。原発にまつわる事象を、現状分析、対策、権威、専門知識、情報、はては文明と人間、科学、生き方など、ありとあらゆることについて自問する機会にせねばならない。いま考えなければ、二度と真剣に考えることなどないだろう。

推理とは何かをわかりやすく説いている本があり、こう書いてある。

「理のあるところ、つまり真理を、いろいろの前提から推しはかること。(中略)推理の結果でてきた結論は、推しはかりの結果ですから、100パーセントの信頼性をもたないのです」(山下正男『論理的に考えること』)

前提を情報と考え、結論を真実と考えればいい。いったい事実はどうなっているのかと推理する時、ぼくたちは様々な情報を読み解こうとするのである。


一般的には、一つの情報よりも複数の情報から推しはかるほうが、あるいは主観的な情報よりも権威ある客観的な情報から推しはかるほうが、推理の信頼性は高くなると思われている。ぼくもずっとそう思っていた。多分に未熟だったせいもある。だが、現在は違う。毎度権威筋の証言を集めて推理するまでもなく、まずは自分自身の良識を働かせてみるべきだと思うようになった。極力利己を捨て無我の目線で推理してみれば、事態がよくなるか悪くなるか、安全か危険か、場合によってはどんな対策がありうるかなどが素人なりに判断できるのである。

原子力推進派であろうと反対派であろうと、原発がエアコンのように軽く扱えるものでないことを承知している。また、原発から黒煙が出ていたという事実を目撃した。さらに、つい先日まで放射能の汚染水が海へ流れ出ていたという情報を同じく認知している。放射能基準値の数倍が百倍になり千倍になった。何万倍と聞かされて驚き、数日後には電力スポークスマンが「億」とつぶやいた。「嘘でしょう?」と誰もが思っただろうが、たしかに瞬間そんな数値を記録したようである。やがて七百五十万倍だったかに訂正されたものの、数値が尋常ではないことは明らかだ。

利を捨てて見れば、上記の情報を前提にして好ましい結論を導けるはずはないのである。推理の結果、安全か危険かの二者択一ならば、「危険」と言うのが妥当だ。しかも、高分子ポリマーは権威的で信頼性が高そうに見えるが、おがくずと新聞紙のほうはやむにやまれぬ、自暴自棄の対策に見えてしまう。たとえ専門的に効果的な処理であるにしても、知り合いの銭湯のオヤジさんと同じ材料を使っていてはかなり危ういように思われる。

流言蜚語や噂などと権威筋のコメントが似たり寄ったりだと言う気はない。しかし、推理と伝播の構造にさしたる大差はないようにも思われる。しかるべき情報から信頼性の高い推理をおこなおうとする責任者なら、まず第一に利害や利己から離れてしかるべきである。もし専門家の意見に私利がからむとすれば、これはデマと同種と言わざるをえない。自然のことわりがもたらした惨事に対して、人類がを働かせて方策を打ち立てるべきだろう。