考えられないことを考える?

時々エッシャーのだまし絵のことを思い出す。高い所から落ちてくる水をずっと辿っていくと、いつの間にか低いところから高いところに上がっていって一回りしてしまう。なぜこうなるのかを考えることはできそうだ。なにしろ絵なのであるから、「もっとも信頼できると勘違いしている視覚」によって確かめられそうなのだ。けれども、だまし絵なのだから、謎解きなどやめてしまって、やすやすとだまされるのが正しい鑑賞方法なのかもしれない。

メビウスの輪または帯にもだまし絵に通じるものを感じる。ある地点から出発して帯を辿っていくと元の地点に戻ってくる。目の前に輪を置かずに頭だけでイメージすると苦労する。しかし、実際に紙で帯を作り、ひとひねりして端どうしをくっつけて輪にすればよくわかる。ボールペンでなぞって確認もできる。ちなみに、ボールペンで記した線の一箇所にハサミを入れて線に沿って切ってみれば、二度ひねられた倍の大きさの輪ができる。

まだある。ヘビが自分の尻尾を噛んでいる様子である。いや、噛んでいるだけではなく、尻尾の先から順番に胴体を飲み込んでいくところを想像してみる。途中まではイメージしていけるのだが、首あたりまで飲み込んだ時点から、まるで追跡していた車が忽然と消えて見失うように、想像停止状態になってしまう。それ以上見えにくくなってしまうと言うか、考えられなくなってしまうのだ。飲み込んでいった尻尾の先から胴体部分はいったいどこに行ってしまったのだろうか。尻尾を噛み始めた時に比べて、ヘビの体長は縮んでしまっているのだろうか。


もちろん素人考えである。どんなジャンルの学問になるのかよく知らないが、その道の専門家ならいくらでもイメージし、なおかつ説明できるに違いない。ところで、素人でも、目の前に絵があったり手で触れたりできれば、想像するのは大いに楽になる。だから仕事中も腕組みをして下手に考えるよりも、いっそのこと紙とボールペンを用意して、とりあえず何かを書いていけば小さな突破口くらいは開けるかもしれない。視覚や聴覚や皮膚などの身体じゅうの諸感覚は考えることを助けてくれる。

ところが、ことばや概念でしか考えられないこともある。時間は過去からずっと流れているのか、それとも瞬間の連続なのか。人類はいつから人類になったのか。カジュアルな哲学命題には「ハゲはどの時点からハゲなのか」というのもある(これは純粋の概念思考ではなく、人体実験が可能かもしれない)。いずれにせよ、ことばや概念の領域だけで抽象命題を考えるのは精神的にも肉体的にも負荷が大きい。要するに、ものすごく疲れるのである。「そんな考えられないことを考えて何になる?」とも思う。ただ、考えられないこと、考えてもしかたのないこと、考えればわかるかもしれないこと――これらの違いを「どう見極めるか、どう考えればいいのか」がわからない。

でも、ぼくは思うのだ。知っている漢字や地名をふと忘れたとき、すぐに辞書やウェブで調べるのではなく、たとえ思い出せなくても、ひとまず自力で思い出してみようとするべきだと。思い出せないことを思い出すことはできないのだろうか。いや、そんなことはない。思い出せないのは今であって、そこに時間経過があれば思い出す可能性は出てくる。結果的に思い出せなくても、思い出そうと努力したことに意味がないとは思えない。ならば考えることにも同じことが言えそうか……残念ながら、そうはいかない。なぜなら、思い出すことと考えることは同じではないからだ。

「考えられないことは必ずある。考えてもしかたのないことも必ずある」――少なくとも今はそうだ。しかし、考える時間と努力が報われるか報われないかも知りえない。そして、「何が何だかよくわからないから考えない」と「何が何だかよくわからないから考える」のどちらにも一理あるように思えてくる。明日の私塾ではこんなテーマも少し扱い、頭を抱えてもらおうという魂胆である。 

聴き取りと文脈再現

誰かが誰かの話を真剣に聴いているとする。この時、二つの「けいちょう」が考えられる。一つは〈敬聴〉で、謹んで聴く状態である。ことさらに容儀を正して真摯に聴いている様子が見た目にわかる。但し、この態度のうわべだけで、よく聴きよく理解していると早とちりしてはいけない。よく目を凝らしてみれば、多くの場合、敬聴が耳を澄ましている振りや儀礼であったりすることがわかる。

もう一つの「けいちょう」、すなわち〈傾聴〉こそが一所懸命に聴くことを意味する。傾聴に関してはこんなエピソードがある。

十年近く前になるが、対話における傾聴の意義をこれでもかとばかりに語った講演終了後、ぼくと同い年くらいの女性が「質問してもいいですか?」と近寄ってきた。快くうなずけば、彼女はこう切り出した。「あのう、私ね、傾聴が苦手なんです。どうすればいいでしょう?」 内心思ったのは「ついさっきまで、その話をしていたつもりです。何を聞いていたんですか!?」だったのだが、「傾聴が苦手な人」にそうたたみかけるのは酷だと感じた。そこで逆にぼくから尋ねてみた。「もう少し詳しく聞かせてください。何が聞けないのか……」 そうすると、彼女はこう言ったのである。「先生、私、少し難聴なのです。相手の言っていることがよく耳に入ってこないのです。」

「傾聴のアドバイスはできますが、難聴のアドバイスはできません。ディベートの先生ではなく、耳鼻科の先生の所に行ってください」と丁重に答えた。この話を誰かにすると、作り話だと言って信用してくれない。ぼく特有のジョークだと思われてしまうのだが、これは正真正銘のノンフィクションである。


彼女の話は教訓的である。難聴でなくても、物理的に音声が聴き取れないことがある。相手の発音の問題や騒音によって音声がかき消される場合などだ。先日、インド人が経営するレストランで連れの男性が「今日の日替わりカレー」を尋ねたら、「ホヘントーチケン」と返ってきた。彼は聴き取れていない。こんな時、何度も聞き返して物理的音声だけをキャッチしようとすればするほど、意味から遠ざかってしまう。

ぼくは即座に理解した。インド人の英語の発音に慣れているからではない。インドカレーのレストランなのである。カレーのメニューの一つなのである。カレー以外のイタリアンやフレンチや中華の品名を喋っているはずがないのである。ゆえに「ほうれん草とチキン」でしかありえないではないか。実際その通りであった。物理的な音声ということになれば、外国語にかぎらず、母語でも慣れない音声だと聴き取り障害が起こる。

幼児の母語習得過程や外国語の初心者に見られるように、語学力不十分な段階では、何を差し置いても音声に注力する。しかし、この先に進むと、ありとあらゆる想像力をかき立てて、音以外のコンテクストを解読せねばならない。文脈や状況に照らして音声をうまく認識できれば聴き取れる。だから、手も足も出ないジャンルの話には勘すら働かない。関心のない話に対しても文脈と連動するように聴覚は機能しない。ことばを聴き取るとは話を追うことだ。話し手側の文脈を聞き手側で再現することなのである。

問いと答えの「真剣な関係」

面接でも会議でも対話でもいい。面接ならインタビューアーが、会議ならメンバーの一人が、対話ならいずれか一方が、相手や別の誰かに質問する。お愛想で、たとえば「元気?」などと尋ねる場合を例外として、それぞれがある意図をもって問いを発していることは間違いない。「なぜ当社を希望したのか?」は理由を聞いている。「問い合わせは何件か?」は事実を聞いている。

おなじみの〈5W1H〉は文章を構成したり企画を起こしたりするときの基本。これらWHOWHATWHENWHEREWHYHOWは質問と応答の関係にも当てはまる。これに「PQか?」というイエスかノーかで答える質問と、「PQのいずれか? 」という二者択一で答える質問を加えれば、すべての質問パターンが出揃う。「その愛犬の名前は?」と尋ねたのに、「わたし? ヨーコで~す」と返してしまったら、聞いた方の意図からそれてしまう。但し、その愛犬に付けられた名前が〈わたし? ヨーコで~す〉ならば的確な答えになっている。

PQか?」という二者択一型で問うているのに、「いろんな考え方があって、たとえばですね……」と切り出した瞬間、もはや答えになっていない。「はい(いいえ)」で即答し、許されるなら理由を述べればよい。「Aランチ? それともBランチ?」とご馳走してくれる相手が希望を聞いてくれたのに、「お任せします」は的確ではない。意図があって尋ねたのに、期待通りの答えが得られない―対話習慣に乏しく、質疑応答を御座なりに済ましているこの国では日常茶飯事の体験である。


今朝のテレビ。民主党の専門家が新型インフルエンザのテーマのもとゲスト出演していた。聞きたいことを街で拾ってきて質問する。「新型インフルエンザのワクチンはどこで・・・打てるのか?」と尋ねる。5W1HのうちのWHEREである。ところが、その議員はWHENを答えたのである――「若干遅れるかもしれませんが、本日から・・・・打てるよう手配をしています」。「いつから」とは聞いていない。場所を聞いているのだ。「場所? 病院に決まっている」とでも思ったのだろうか。「病院で打てるのはわかっているけれど、どこの病院でも、たとえば小さな医院でも打てるのか?」と聞いている意図を汲んであげなければならない。まさか居酒屋や駅の構内で打ってくれると期待して聞くはずがない。

「月曜日と火曜日にどれだけ仕事がはかどったのか?」と尋ねてみた。仕事については暗黙の了解があるので、これはHOWの問いである。しかし返ってきた答えは「水曜日に○○をやるつもりです」だった。この応答は質問に対する二重の「背信行為」になっている。月曜日と火曜日から別の曜日にWHENを転化し、おまけに聞かれもしていないWHATで答えたのである。「最近、社会の動きであなたが特に気づいたことは?」に対して、「先週□□という本を読みまして、社会現象としての△△が書かれていました」と答えてしまう無神経。WHATの意図に答えてはいるが、「あなたが気づいたこと」を知りたいのであって、「本に書かれていたこと」を聞いたのではない。

アタマの悪さも若干影響しているのだろうが、的外れの最大の理由は、(1)集中して質問を聞いていないこと、(2)不都合から逃げることの二つである。つまり、「いい加減」と「ずるさ」なのだ。こんなふうに対話を右から左へと流す習慣がすっかり身についてしまっている。講演会なら適当に話を聞き流してもいいだろうが、少人数の集まりや一対一のコミュニケーションでこんなていたらくでは能力と姿勢を疑われてしまう。質問一つで、答える人間がある程度わかってしまうのだ。質疑応答を真剣勝負だと見なしている硬派なぼくの回りから、厳しい質問を毛嫌いする「ゆるキャラ人間」がどんどん消えていく。それで別に困ったり寂しくなったりしているわけではないが……。

必勝法と適用能力

成功法則があるのかないのかは微妙な問いである。「万人に当てはまる絶対的な成功法則」はたぶん存在しない。世間には「成功の何とか法則」とか「何々をダメにする悪しき習慣」などの本があり、そういう類のセミナーも開かれる。かく言うぼくの講座やセミナーにも「成功法則20」と副題のついているものがある。きっちり20という数字になること自体が怪しくて嫌なのだが、主催者側が「このほうがいいですよ」と主張するから逆らわない。「数ある法則のうち主な20」と読んでもらえればありがたい。

江戸時代の剣術の達人だった松浦静山まつらせいざん。そのあまりにも有名な「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」に従えば、おおよそ勝利の方程式は不確実であり、敗北の原因は特定できることになる。ぼくのような凡人は、はっきりしやすい敗因に学び反省するのが一番と割り切っている。一桁も二桁も能力上位の人間が成し遂げた成功に憧れて真似てみても、いったい成功要因のどれを学べばよいのかわからない。いや、もとより不思議な成功に要因があったのかどうかすら定かではない。松浦静山には「一時の勝ちは終身の勝ちにはあらず」という格言もある。勝利や成功には一過性の要素があり、ゆめゆめ美酒体験に安住してはならないと肝に銘じておきたい。

一方が勝ち他方が負けるという一対一の敵対関係において必勝法は存在しないように思われる。必勝法が発見された瞬間、ゲームであれビジネスであれ、もう誰も負け側に立って戦おうとはしないだろう。ところが、理屈はそうなのだが、現実世界では戦いは続けられる。お互いが必勝法のさらに上を行く絶対必勝法に向かおうとするからである。「意見の相違がなければ競馬は成立しない」と言ったのはマーク・トウェインだ。プレイヤー全員が一頭の馬に賭けたら、その馬が勝っても妙味がなくなるから、もはや馬券を買わなくなる。しかし、必勝法が一着になる馬の予想に限定されているかぎり、プレイヤーは二着馬や三着馬の組み合わせに賭けるから、おそらくゲームは続けられる。


必勝法について考えているとおもしろいことに気づく。どこかのサイトに掲載されていたが、ジャンケンの必勝法を考えている人が少なからずいて驚いた。「最初はグー」と掛け声してからジャンケンをすると、「パー」が出やすくなる。ゆえに「チョキ」にすれば勝ちやすいというのだ。この勝利の確率がパーやグーに比べて高いのならば、必勝とまではいかなくても勝利の方程式の一つにはなりうるかもしれない。但し、この必勝法を公開すれば、みんなが「最初はグー」の後にチョキを出すようになるから、チョキでおあいこになる可能性が高くなる。決着がつかず、やがてはチョキでおあいこの次の法則を見つけなければならなくなる。

宝くじの必勝法はありえない。一等当選の数が限定されているのだから、必勝本を読んだすべての人が当選するわけにはいかない。つまり、宝くじは必勝法以外の、「神のみぞ知る法則」によって支配されている。実際、宝くじのコマーシャルでは神が登場しているではないか。同様のことは、必勝法を伝授するセミナーにも当てはまる。「絶対に成功するプレゼンテーションの秘訣」を学んだ二人がコンペに挑み、いずれか一方のみが採択されるとき、他方は失敗することになる。「絶対に成功する秘訣」は一方で証明され、他方で否定される。これが「矛盾」の由来でもあった(最強の矛と最強の盾は同時成立しない)。

必勝法にすがっても別の要素が入り込んで勝敗を決する。同じ専門知識をもつ二人の人間に差がつくのは、専門知識自体によってではなく、その他の要素との掛け合わせによってである。とりわけ、運用する能力や技術が鍵を握る。そうなのだ、必勝法や絶対成功法則が存在したとしても、すべての学び手が完璧に運用する能力と技術を備えているわけではないのである。必勝法や絶対成功法則と呼べなくとも、世の中には「うまくいくだろうと思われるヒントや事例」はいくらでもある。同じように学んでいても、うまく活用できるかどうかは本人次第。したがって、普遍的な必勝法や絶対成功法則はないが、個別的にはありうるということになるかもしれない。 

総意誤認する人々

「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況で「あなたは◎◎◎◎どういう行動をとるでしょうか?」 こう質問されると、ほとんどの人は「たぶん落ち着いて行動すると思う」と答える。周囲を見渡し冷静に判断したのちに非常階段を探すのだろうか。それとも、地下街にいてシェルターになりそうな場所に身を潜めるのだろうか。いずれにしても「慌てふためくと思います」と回答する人はまずいない。

ところが、同じ質問の主語を変えて尋ねてみる。「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況で、他の人たちは◎◎◎◎◎◎どういう行動をとると思いますか?」 この問いに対して、尋ねられた個人は「慌てて非常出口に向かうだろう」と答える傾向が強いというのだ。「この私を除くみんな」がパニックに陥るのである。自分だけがすました顔をして集団心理の外にいる。

詳しいことは知らないが、この種の話はその分野のいろんな本で取り上げられているに違いない。書名は忘れたが、ぼくもだいぶ前にパニックか心理学かの本で上記の事例を読んだ。コメントをする。総意はこうだろう、但し私は例外――というのはよくあることだ。「ユダヤ人差別を論じる著者のほとんどが、自分だけは差別とは無縁だと決めてかかっている」(オーウェル)ということばもそれを示している。「われわれみんな」という一人称複数で誰かが何かを語る時、当の本人を含めているか除外しているかを聴き分けてみれば、話に違った含みが感知できる。


おもしろいことに、この逆もあるのだ。そして、そこにも人間のエゴイストぶり、我田引水の生き様が見え隠れする。それは他人の態度分析における〈総意誤認〉である。「ある大阪のオバチャンが自分の着ている服の豹柄が全国区であると信じ、それが誤まった認識であることに気づいていないこと」と言えばわかるだろうか。「デパートで午後3時にタイムサービス。奥さん、あなたは行かれますか?」と尋ねたら、「もちろん! みんな大勢行かれますよ」と、先の地下街とは違う答えが返ってくる。「私の思いは総意を反映している」という確信がそこにある。

あることについて感想を述べる時、人は自分の感想をコメントする。「私は〇〇だと思う」というように。同時に、その個人的感想なり意見は、暗黙のうちに「他の人たちも自分と同じように考えている」と推論している。一般的に、自分の考えは総意に近いと思っている。自分の常識は世間でも常識だと信じる傾向が強いのだ。個人の見方が総意と重なれば常識人なのだろうが、周囲を見渡すかぎり、そんなに常識人が大勢いるとも思えない。むしろ総意誤認している人だらけである。ぼくが総意誤認グループの一員かどうかは自己診断しにくい。そういう類のものなのだろう。

「私が考えること」と「他人が考えること」が同じなのか違うのか――当てずっぽうでは困る。ここはちゃんと冷静に弁別しておく必要がある。つまり、持論が少数派なのか多数派なのかを知っておくことは、人間関係や組織力学のバランスをとるために欠かせない。フランソワ・ラブレーの「汝の欲することを成せ」を鵜呑みにしていると、総意誤認が起こってしまうから気をつけよう。他人はあなたの善行を迷惑がっているかもしれないからだ。

人と人のなりはわかるのか?

テレビで中之島公園のマルシェをPRしていたから行ってみた。パリのバスティーユの朝市には何度か足を運んだ。まさかあの規模の再現はないだろうが、そこらじゅうで年がら年中開かれている物産展や産地直送店の集まりとは違う「プラスアルファ」または「本場マルシェの雰囲気」があるのかもしれない。しかも、ぼくがちらっと見たその番組では本場フランス人がマルシェの精神について語っていたので、少しは期待していたのである。

開催していた人たちには悪いが、がっかりだった。場所もわかりにくく、現在開催中の水都イベントのスタッフに尋ねる始末。そのスタッフはトランシーバーで本部に問い合わせ、しばらくしてやっと「市役所の南側」ということがわかる。午前9時過ぎ。特定産地の物産を並べたテントが五つ六つあるだけ。野菜と米以外に目ぼしい食材は見当たらない。「マルシェ」とは看板に偽りありだ。応援の気持で三種類ほど野菜を買ったが、早々に帰路についた。帰りにハンバーガーの店でコロッケバーガーを食べ、一杯百円のカフェラテを飲んだ。マルシェと銘打っておいて、チェーンのハンバーガー店に客を取られているようではまずい。


イベントの名称や趣旨だけでイベントがわかるはずもない。実際にイベントの現場へ行ってみて実体がわかる。部分で全体を見極めるのは容易ではないのである。とすれば、昨日見たヤフーのトップページの広告も同類だ。そこには一つの道具で人格まで判じようとするメッセージが謳われていた。「腕時計を見れば、その人となりがわかる!?」というのがそれ。「?」が付いているから、そう言い切る自信がないのかもしれないが、この命題はかなり古き時代のステレオタイプである。

一つの小さな情報から全体に及ぶ大きな結論を導くことを〈小概念不当周延の虚偽〉と呼ぶ。わかりやすく言えば、腕時計ごときで人間や人間のなりを導いてはいけないのである。時代が明治ならともかく、「猫も杓子もロレックスやブルガリ」の昨今、流行の腕時計を見て個々の人やなりがどうやってわかるのだろうか。たしかに非ブランド非デザイン系のふつうの腕時計の持ち主であるぼくを見れば、ぼくがブランドに無関心であり時計に凝らない人間であることはわかるだろう。しかし、ブランドものの腕時計から持ち主の性格やライフスタイルや職業を推理することなど不可能である。センスがあるとかないとかもわからない。だいいち誰かにプレゼントされた時計かもしれないではないか。まだしも「人を見ればその人が好む腕時計がわかる」のほうが成立しそうだ。

道具ごときで人間を推理するようなばかげたことをいい加減にやめようではないか。買ってきて身につけただけのものが人を象徴するはずがない。身にまとっているもので人はわからない。むしろ、その人に染みついた習慣や振る舞いや手の捌き方などが人を表象しているのだろう。時計そのものではなく、時計への視線のやり方や人を待っているときの所作が人を表わす。高級な箸よりも、箸の持ち方や扱い方のほうが正直に人と人のなりを示す。一つの持ち物、たとえば腕時計や鞄やメガネや手帳などで、人間が判断されてたまるものか! と反骨心をむき出しにした次第である。 

常識を懐疑する話

出張先で私塾の10月講座の資料を作っている。ほとんど持論を展開するメモだ。しかし、『思考の手法』というテーマだけに、いろんな見方を提示したいので、これまでに読んで抜き書きした諸説も参考にしている。ここ二、三日はだいぶ没頭していて、「考えるということ」について考えを巡らしているところである。

息抜きに塾生のブログを覗いてみたら、「常識を疑う」という記事が更新されていた。二十ほど年齢差があるのだが、たいへんよく勉強している彼からヒントをもらうことも稀ではない。ぼくの講座や読書会を通じてテーマの指向性の波長が合うことも多い。ぼくは褒めるし批評もする。彼はディベートも経験しているから、批判や検証に耐えるだけの度量も備えている。ぼくの今日の話は批判でも検証でもなく、新たな問題提起である。近々に会って大いに論じ合ってみたい。

さて、その記事だ。ぼくが講座のために考えている一章「主観と客観」に関係しているので興味津々に文章を追った。関心がおありならぜひ原文を読んでいただきたい。本文中に次のようなピーター・ドラッカーの引用がある。

「世の中の常識はえてして間違っている。それを知るためには、常識の根拠を探り、それが本当に信頼に足る妥当なものか見極めることだ。そのためにはタマネギの皮をむくようにして、おおもとの根拠にたどり着く必要がある。


タマネギの比喩がおもしろい。タマネギそのものが「常識」で、皮が「常識が定着してきた過程」で、最後の最後に残るものが「常識の発生源となる根拠」なのだろう――そんなふうに愉快がった。しかし、意地悪なぼくは想像をたくましくする。ちょっと待てよ、タマネギには薄茶色の表皮があるけれど、それを剥いたあとには食用部分の「本皮」が何枚か重なっている。剥いていけば何も残らなくなってしまうではないか。そんな剥き方でタマネギを調理することがないので確証はないが、表皮を取って半分に切ってパンパンパンと包丁を入れてシチューや鍋に放り込んでいるかぎり、そこに「芯らしき根拠」は見当たらない。

それはともかく、ドラッカー先生が「世の中の常識はえてして間違っている」と言い切るからには、そう判断するドラッカー流の「ものの見方」があるはずだ。そのものの見方も別のタマネギの「芯らしきもの」ではないのかとぼくは考えた。人は常識を疑ったり怪しんだりする時点で、ある主観的な価値基準を起動させるはずである。その主観の中には常識を疑い怪しむエネルギーの源、あるいはテコとなる「確信」があるに違いない。その確信がなければ、タマネギを剥いて辿り着く「芯らしき根拠の危うさ」との刷り合わせができないのだ。

アマノジャクという、へそ曲がりなイチャモンにしても主観の一変形だろう。その主観と常識という客観が対立する。あることに「?」を感じる時、別の「!」が必ず存在する。素朴な「わからない」というクエスチョンマークであっても、「自分の中のわかる構造」とぶつかって生まれている。その別の「!」も主観的常識なのかもしれない。つまり、ぼくたちが常識を懐疑する時、その懐疑のテコに自分の常識を用いているのである。常識・非常識、主観・客観――思考の手法にとっては恰好の素材である。もう少し掘り下げてみる気になっている。

ところで、およそ一年半前、ぼくは『マーケティングセンスを磨こう』という講演で、マービン・バウワーによる、世界一短いマーケティングの定義を紹介した。たった一言。「客観性(objectivity)」がそれだ。Tさんもその講演を聴いてくれていたと記憶しているが、ぼくは鬼の首を捕ったかのように解説した。今は違う。今は「マーケティングの客観性」に懐疑し始めている(但し、一世を風靡したポストモダン的な主観主義ではない)。その懐疑のテコになっているのはたぶんカントの『純粋理性批判』だと思う。そのカントも疑い、その疑いの信念も疑いみたいなことを延々とやっていると、愚かな懐疑主義に陥るかノイローゼになりそうなので、今月最後のブログはここでピリオド。

語彙の磁場が動く

語彙のありようについても再考してみた。ことばには聴いたり読んだりしてわかる〈認識語彙〉と、話したり書いたりできる〈運用語彙〉がある。運用を「活用、生産、発表」などと言い換えてもいい。だから語彙を考える時、わかることばと使えることばに分けて論じることができる。

聴き取りにくい発音や判別しにくい手書き文字などの例外を除けば、自ら口頭や文書で使えることばなら、通常は聴いたり読んだりもできるはずである。「私はブログを書いています」と話せる人は、誰かが「私はブログを書いています」と言うのを理解する。また、「拝啓 貴下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」と、文例を丸々引用するのではなく、自筆で書いた人ならば他人が書くその冒頭の挨拶文を難なく読み取るだろう。つまり、認識語彙は表現語彙よりも多い。

したがって、仮に難解とされている一冊の本を読了できたとしても、そこに書いてある用語や表現のすべてを読者が使えることは稀である。いや、正確に言うと、著者自身はその一冊の本の中で書いただけの用語や表現を運用できた。そして、おそらくその著者はそこで用いた用語や表現の34倍の認識語彙を有しているはずなのである。わが国の大半の成人の認識語彙力が35万語の間に分布しているようだが、実際に使えるのはそのうちの3分の14分の1とされている。


語彙の体系はそれまでの学習、環境、文化、専門、職業などによって決まる。クイズの得意・不得意分野などの性向とよく似ていて、社会一般は得意だが科学や工学は苦手、政治経済には詳しいがスポーツ音痴などのように偏っている。いろんなジャンルが均等に散らばっていることは逆に珍しいかもしれない。〈スキーマ〉と呼ばれる、会話・文章を理解するときに用いる知識体系がそこにあり、同時に階層構造状に〈フレーム〉が広がっている。得意分野になると、場面設定と行為がさらに詳細になって〈スクリプト〉を形成している。

語彙体系においては、その時々のお気に入りのことばが主導的になる。同義語を緻密かつ精細に使いこなしていた人でも、たとえば「人生いろいろ」や「ぶっ壊せ」のような大雑把な用語が気に入って多用し始めると、ことば遣いもアバウトになり偏ってくるものだ。ある分野の語彙の使用頻度が高まれば、相対的にその他の分野の語彙の出番が少なくなってしまう。

とりわけ要注意なのが、口癖や常套句である。口癖はその直後に続く表現を固定させてしまう。たとえば、「やっぱり」と言った後に「重要です」と続ける知り合いがいる。「雨降って地固まる」や「貧乏暇なし」などの常套句は使用文脈を限定してしまう。使う本人たちはほとんど気づいていないが、常套句を境にしてステレオタイプな方向へと話が展開していく。何万語の語彙を誇っていても、一つのことばが語彙体系の磁場をそっくり変えてしまうのだ。宝の持ち腐れにならないためには、多種多様なことば遣いを意識し、時には少々冒険的な新しい術語にも挑んでみるべきだろう。

「有用」よりも「手がかり」

3日前のブログの続編。今年7月に開講した私塾大阪講座の冒頭で、ぼくは「力を込めて」目指すべき学習の方向性をおおむね次のように伝えた。

現在の自分が容易に越えられるバーの位置がある。何度か跳んで習熟すれば、次にバーを高めに引き上げなければ意味がない。従来の跳躍能力ではいかんともしがたい高さにバーを設定する――ここに知の学びの真価がある。学習時に体験していない高さのハードルに仕事で遭遇しても、十中八九こなすことはできない。練習以上の成果を本番ではめったに発揮できないのだ。閾値しきいち越えは難題に挑戦する習慣形成の賜物である。

難問であれ奇問であれ、自ら発した問いにせよ提示され遭遇した問題にせよ、問うことと解こうとすることによって知力は引き上げられる。解けたかどうかは別問題である。解けなければ快感法則が崩れるだろうが、そんなことは現実の仕事にあっては日常茶飯事のことではないか。とにかく問い続け解き続ける。考えたことのないことを考えてみる。このような学習の連続によってのみ知は現実へとスタンバイする。


えらく硬派な話をしたわけだ。ぼくの言いたいのは、「わかりやすさ」を重んじているかぎり、学習効果などまったく芽生えないということである。たとえば、わかりやすい説明を受ける。当然理解しやすい。あるいは理解したという気にはなる。しかし、この理解は現在の知力においておこなわれたのである。知力は背伸びもしていないし、汗もかいていない。やがてそんな説明内容は脳内で埋没するか消えてしまう。「わかりやすさ」は快感法則を満たすだけであって、アウトプット能力にはほとんど役立たない。

書店で「〇〇入門」という本を手に取る。ところが、読んでみると手も足も出ない。「何が入門だ!?」と腹立たしくなる。だが、「難しい入門」、おおいに結構だと思う。その〇〇というテーマには奥行きがあるのだろうし、〇〇というテーマに関して現在の自分があまりにも未熟だと痛感すればいいだけの話。それでこそ学習の意義がある。学習とは学習のためにあるのではなく、しかるべき現実世界の本番のための鍛錬の役を担っている。

人類の歴史には有用と手抜きの工夫を求めてきた流れがあるが、考えることすらも手抜きし始めているようである。学ぶことに関しても有用ばかりを求める風潮が加速してきた。そこには「早く身につけたい」という願望が潜んでいる。早く身につけたいから「わかりやすさ」が必須条件になる。その結果、「わかった、満足した」で終わる。気がつけば能力自体は何も変わっていない。そろそろ「悪銭身につかず」を真剣に肝に銘ずるべきだろう。学習を有用目的の内に留めてはならない。それは知の停滞を意味する。

学習とは本番に向けた「手がかりの模索」である。手がかりは答の手前にあって、答らしきものをほのめかすヒントに過ぎない。使えるかどうかすらわからない。しかし、それでいいのである。教えられてわかるのは所詮他力依存であり、本番では役に立たない。誤解を恐れずに言えば、「わかりにくい手がかり」が自力理解と自力思考を促す。いつの時代も仕事で有用になるのはこちらのほうである。  

難易の別を超えて

難易度ということばを聞くと、受験テストの問題集を思い浮かべてしまう。星印が三つ付いていたら難度が高く、一つだったら易しい。星一つばかりの設問を解いていたら簡単だ。途中で易しい問題ということを忘れて、解ける快感だけを覚えていく。できた気になるから、学習心理上のストレスはほとんどたまらない。しかし、本番で少々難度が上がればたちまちアウト! リハーサル段階では少々難度の高いものに挑戦しておかねばならないのだ。

少々何度の高い問題というのが微妙である。半分くらい解けるのがいいのだろうが、解けるか解けないかは現在の力量にかかわる。完全な全問正解にはほとんど学習効果がない。かと言って、全問解けないようではやる気も出ない。しかし二者択一なら、手も足も出ないことを何度も体験しておくほうが現実世界の問題解決には役立つ。リハーサルだからこそオール不正解でも許される。要は、解こうとしたプロセスの質だろう。

語学を例に取ればわかりやすい。たとえば英会話学習のゴールをあいさつやショッピングに置いていても、学習した範囲内で現実の会話が収まることはまずない。自分が話す分には知っていることだけ伝えればいいが、相手は自分がわからないことを話し伝えてくる。認識という点では、入門も基礎もない。ぼくたちは学んだ範囲内でコミュニケーションを統御することはできない。相手は難易の別などおかまいなしなのである。すべての幼児は家庭内および社会的コミュニケーションの場で、自分の力以上の困難な状況を乗り越えて成人していく。すべての人間は、ヒナが羽ばたきを覚えるように、大人世界のことばに齧りついて生きている。


語学を始める人にぼくは中上級から始めよと助言する。いや、正確に言うと、現在の母語の語学力と知識に見合ったレベルで学習すべきだと教えてあげる。知識には未知の事柄を想像する機能がある。ことばや概念の何から何まで知らなくても、行間や文脈を読む想像力が働くものだ。ぼくは英語もイタリア語も中上級からスタートした。CDは倍速にして聴いた。こんな早口のネイティブはいないだろうと思えるくらいのスピードに食らいつく。それで本番はちょうどよい。初めてイタリアに行ったとき、バールのバーテンダーは第二次世界大戦の話を持ちかけてきたが、理解できた。「はじめまして」「こんにちは」程度の学習しかしていなかったら手も足も出なかったはずである。

話は語学だけにとどまらない。一般的な学習(つまり、リハーサル)は易から難へと想定しているが、本番には難易が混在している。いや、すでにそこにはそんな区別すらない。ぼくはいま、社会人のためにこの記事を書いている。社会人になって何事かについて学ぶのと学生で学ぶのとは大違いである。社会人にとっては目的は明日の行動と一体化しなければならない。どこか遠くにある目的などではなく、明日の仕事で学びが現実的な効果を発揮してもらわねば困るのだ。悠長な猶予期間はない。

「難しい」という泣き言をほざくのをやめよう。現実世界は、ある意味ですべて難しいのだ。唯一、現実のハードルを低くできるとすれば、リハーサルでのハードルを自分の現在の能力よりも高く設定するしかない。「あのセミナーは易しかった、わかりやすかった」と感想をもらすのはよい。しかし、それが現実世界を生き抜く糧になったかどうかこそが問われるべきである。そして、易しく身につく糧よりも苦労して身につけた糧のほうが実践では役に立つ。「良薬は口に苦し」という常套句を引くまでもない。苦いとか難しいとコメントをする暇があったら、黙って口に放り込むべきなのだ。