結果論から学習すべきこと

有名タレントを起用してさんざんコマーシャルを流してきたけれど、今期にかぎって言えば、ほぼすべての有力家電メーカーは赤字計上することになる。テレビ画面の美しさを訴求してきたカリスマロック歌手もカリスマ美人女優も、コマーシャルメッセージがここまで色褪せるとは想像しなかっただろう。変調経済は因果関係を狂わせる。

「しこたま金をつぎ込んでバカらしい。タレントのコマーシャル効果について見直すべきだ。企業は大手広告代理店に踊らされている」という具合に、結果論を繰り出すのは簡単である。言うまでもなく、結果論とは原因を無視することだ。なぜそうなったのかを棚上げにして、いま目の前にある現実のみを議論する。因果関係の「因」を無視して「果」のみを、すごいだとかダメだとか論うのである。

結果論は楽な論法である。「結果論で言うのじゃないけれど、金本は敬遠すべきだったねぇ」とプロ野球解説者がのたまう――あれが結果論。人は結果論を語るとき、「結果論ではないけれど」と断る習性を見せる。


結果論から言えば、タレントに巨額のコストをかけてもムダだったということになる。くどいのを承知で繰り返すと、原因と結果の関係を無視して結果だけを見るならば、大物歌手も大物俳優も宣伝効果がなかったことになる。こうした結果論がまずいのならば、いったいどんなすぐれた別の方法がありうるのかをぜひ知りたいものである。結果論で裁かれるのもやむなしだ。

ぼくは大企業、中堅、中小企業のすべての規模の企業に対して、広告やマーケティングや販売促進の仕事をしてきた(話を簡単にするために、まとめて粗っぽく「広告」と呼ぶ)。景気の良い時も悪い時も、つねに感じていたことが一つある。それは、広告費は効果とは無関係に膨らむということだ。「消費者への情報伝達機能」としてすぐれた広告にするための知恵は投資に見合う。それ以外はすべてコストなのである。

知名度が導入時や一時的な客寄せパンダ効果につながることは認める。しかし、よくよく考えてみれば、知名度を利用する広告ほど知恵のいらないものはない。ほんとうの広告の知恵とは、無名タレントで有名タレント効果を生み出すことであり、極力コストを抑えて広告費を消費者に押し付けないことなのだ。有名タレントのギャラの十分の一、いや百分の一の費用で編み出せるアイデアはいくらでもある。

結果論による批判を真摯に受け止めようではないか。かつての「負けに不思議の負けなし」にすら疑問を投げ掛けねばならなくなった時代だ。そう「勝ちも負けも不思議だらけ」。人類の洞察力の危うさが問われている。結果論から学習すべきこと――それは、いつの時代も、知恵でできる可能性を一番に探ることなのである。 

「何々屋」の誇らしげなまなざし

昨日は軽い風邪だった。大事をとって在宅勤務とした。体調不良のせいか、集中力に欠けブログも尻切れトンボだった。告白すれば、まだ書き続けるつもりだった。かつての「代書屋」、そしてぼくの提唱する当世「企画修繕屋」と「文書推敲屋」から、実は「何々屋」という話へと展開したかったのだ。あまりにも話が長くなるのでいったん終えた。今日も在宅。昨日の風邪を、やや悪い方向に引きずっている。別の日に書いてもいいのだが、もうアタマの中で話が出来上がっている。


風呂屋、散髪屋、金物屋、駄菓子屋などの「何々屋」が現代人の耳にどう響いているか。見下したようなニュアンスがあるのか。呼び捨てにしてはいけないから「さん」でも付けておこうかという感じか。言っておくが、「さん」を付けても尊敬の念が込められるわけではない。「馬」→「お馬」→「お馬さん」と同様、「風呂屋」→「お風呂屋」→「お風呂屋さん」という順番で愛嬌が増し、可愛く聞こえるだけである。

「何々屋」についてぼくは次のように考えている。かつて何々屋は町内に密着していた。住民は親しみのまなざしで接し、何々屋は誇らしげなまなざしで応じた。さすが職人という、技と個性が見えた。お客さんの無理を聞き、信頼関係が生まれた。何々屋は原則として町内に一職種一軒であった。いや、一職種一人というのが正しい。何々屋は店ではなく職人そのものだったのだ。

それだけではない。何々屋は街並みに風情を添えた。仕立屋、庖丁屋、道具屋などが軒を並べる街には落ち着きがあった。自然に乏しい密集地の路地であってもかまわない。視線の先にある軒先の屋号や看板が、職人のいい仕事ぶりの代名詞であると同時に、絶妙の格好をつけていたのである。

まだある。「エコ」という便利なことばのお陰で環境へのマクロな関心は高まったかもしれない。だが、地球をどうするか以前の身近なエコは、かつて何々屋がお手本を示してくれていた。何々屋は、新品を売ったり注文に応じてくれもしたが、同時に修理屋であり、古物屋としても機能していた。「これはまだ使えるよ」――このことばが商いの節度と矜持を表していた。


ここからは一つの仮説である。商売を承継しなくなった風潮を背景に、便利のみを求める住人が何々屋を潰してしまった。「屋」が「店」と呼ばれるようになり、その「店」が会社組織になった頃から、「町内経済」が狂い始めた。一職種一軒の原則が崩れる。商売人どうしが共生論理から競合論理に走る。かけがえのない職人が消え、いつでも交代可能な人材で店が構成される。「酒屋」は自動販売機を設置する。酒のみならず、商品一般や暮らしの知恵にまつわる会話を交わさなくなった。何々屋が消え外来種の資本が幅をきかせるようになり、地域社会の生態系に狂いが生じ、まったく異質のものになってしまった。

フィレンツェの「蛇口屋」には何百何千という、中世から今日までの水道蛇口が在庫されていた。懐古的な蛇口のモデルに固執する客も客だが、品揃えしている職人も職人である。イタリア半島の踵にある街レッチェで仕立屋をガラス越しに覗いていたら、「ウゥ~、ワン!」と犬のマネをして睨みつけられ、あっちへ行けと手で追われた。偏屈なオヤジなんだろうが、眼鏡の奥の目は誇らしげに笑っていた。何々屋の復権。まずは自分自身からなのだろう。 

企画と表現のリノベーション業

アメリカ大統領のスピーチ原稿ライターで思い出した。看板は一度も掲げたことはないが、ぼく自身も企画書の代筆をしたりプレゼンテーションの代行をしたりしたことがある。

どんな提案項目を含めればいいのか、どのように構成すればいいのかがわからないという外部のプランナーが助言を求めてくる。但し、助言でどうこうなるものではないので、場合によっては「一から書きます」ということになり、小一時間ヒアリングをして資料をもらって書き上げる。まだパソコンを使っておらず、書院というワープロでペーパーを仕上げていた。もう二十年も前の話である。

もちろん報酬はいただいた。その報酬が菓子の詰め合わせやディナーのこともあった。関西ではよくあることだ。報酬が金銭であれ菓子であれ食事であれ、れっきとした「企画書代行業」であった。注意していただきたい。これは「企画書」の代行業であって、「企画」の代行業ではない。

そもそも企画と企画書は似て非なるものである。企画は発想や教養や情報や才覚などの総合力だが、企画書のほうは純然たるテクニックだ。そして、不思議なことに、企画よりも企画書のほうが金額設定はしやすいのである。企画は下手をするとタダにさせられてしまうが、企画書をリライトしたり編集したりすれば、値切られたり菓子で賄われたりするものの、報酬は期待できる。


世間は企画書という「型と形」を有するものには予算を用意するが、企画という「無形のアイデア」への出費を渋る。以前大手薬品会社の研究所長が「ディベート研修の相談」でアポイントメントを取り、わざわざ来社された。しこたまヒアリングされ、気づけば3時間経過。その所長の大学ノートにはメモが何十ページもびっしり。「当社でぜひ研修を導入したいと思う」とおっしゃってお帰りになった。それっきりである。アイデアはミネラルウォーターよりも安い。というか、タダになることさえある。

落語にも登場するが、「代書屋」というれっきとした商売があった。識字率の低い時代、口頭で伝えて書いてもらう。おそらく字が下手な者にとっては「清書屋」の役割も果たしただろうと想像できる。ぼくに関して言えば、講演や研修の閑散期に、提案書やカタログやパワーポイントの資料をチェックして欲しいと依頼されることがある。これまで無償でおこなってきたが、考えようによっては、看板を上げてもいいのではないか。たとえば、「企画修繕屋」とか「文書推敲屋」はどうだろう。

アイデアのある企画で食えないのなら、誰かの企画を修理するほうが手っ取り早いのではないか。自分でオリジナルの文章を工夫して書き下ろすよりも、下手な表現や壊れた文法を見直すほうが報われるのではないか。もちろん本意ではないが、そういう可能性も検討するのが自称「アイディエーター」の本分である。    

イタリア紀行28 「傾斜角3.97度の実感」

ピサⅠ

田舎からやってきて都会にたまげるのが「御上おのぼりさん」。だから、御上りさんということばは、大都会の大阪からトスカーナの人口9万人弱の街を訪ねる人間には、本来なら当てはまらない。

しかし、都会度を示す指数は人口だけではない。ぼくの知るかぎり、イタリアの人口10万都市よりも日本の人口5万都市のほうがはるかに都会度が高い。つまり、ほとんどの日本人観光客の目には、イタリアの有名観光地は「こぢんまりとしたアコースティックな街」に映っていなければならない。にもかかわらず、日本人の誰もが小さなイタリアの街にあって御上りさん気分にさせられてしまうのはどういうわけか。

たしかに、絵葉書や書籍などで見慣れた名所旧跡を眼前にして御上りさんに変身していくことがある。その名所旧跡に入ると、魔法にかけられたように中世やルネサンス期にタイムスリップしてしまう。そして、いったん時代を遡ってしまうと、イタリアの街は歴史的に成熟した都会に見えてくる。ピサもそんな街の一つだ。そのうえ、ここには見覚えあるすごいのが建っているのだ。驚嘆の声を発したのち、斜塔を支えるポーズで写真に収まりたくなる御上りさんの気持はよくわかる。

残念ながら、ぼくが撮った写真に人間と斜塔のお茶目なコラージュはない。当時は大ぶりの一眼レフを愛用していたし、おまけにその日は強めの雨が降っていた。数年ぶりにアルバムを見たら、被写体のバリエーションの少ないこと! 撮り収めた写真のうち半分が斜塔ではないか。やっぱり御上りさんと化していたようだ。

バスで10分くらいのところだったらいくらでも歩く。鉄道駅からピサの斜塔までもちょうどバスで10分。だが、バスに乗るともったいないほど、雰囲気のある道すがらの市街地だ。「どこかで見た覚えのある川だ」と思ったら、それがフレンツェを上流にするアルノ川。もう一本、セルキオ川がここに合流して、リグリア海につながる。ピサは海に面した街であり、古来から軍事的・商業的海洋都市としての映えある歴史が長い。

フィレンツェから列車でピサへ向かったその日、イタリア滞在通算20数日目にして初めて経験する雨だった。駅で降りてバスを待った。あいにくの雨、バスもやむをえない。不安そうにぼくの前を行き来する夫婦。夫のほうが「このバス停はタワー行きか?」と英語で尋ねてきた。「タワー」、もちろん「斜塔」のことを言っている(塔はイタリア語では「トーレ」という)。こっちだって、初めて来た街、待っているバス停が正解という確信などない。が、不思議なものだ、自分より不安そうな異国の人が聞いてくると、結構自信が湧いてくる。「ええ、ここです。ぼくも乗ります」と答える。十数分後、無事ドゥオーモ広場前に到着した。

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ピサーノ親子が設計に携わった洗礼堂。少し先の斜塔の影響で撮影の構えが斜めになっている。
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初めて見る実物だが、見慣れた懐かしさがこみ上げる。
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荘厳な大聖堂内部。10世紀のパレルモ海戦の戦利品で装飾されている。
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斜塔に登るつもりも、塔内見学は一回40人ずつ。1時間以上の待ち時間を告げられあきらめた。洗礼堂のドーム上部へ上がり、雨中の大聖堂と斜塔を眺める。
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想像以上に傾いている斜塔。釣られてカメラも傾くので、実際の傾斜角3.97度の倍くらいに思える。脳が錯覚を修正しようとしてざわめき、少し乗り物酔いしたような気分になる。

結局、本をどうすればいいのか?

用語の定義にあたっては、「定義される用語が定義することばの中に含まれてはいけない」という法則をパスカルが示している。読書を「本を読むこと」とした時点で、「読」ということばが使われているので、パスカル流の定義法則に反する。とは言え、この厳密な法則を適用していくと、「天使の辞典」はほとんど成り立たなくなる。

それにひきかえ、「悪魔の辞典」は楽だ。何でもありである。世間で異端視されているだけに、余計に気楽である。「なるほど」という妥当性を実感する回数は、言うまでもなく、悪魔のほうが天使よりも多い。

ここ数週間のメモを繰ってみた。読書に関しての気づきはさほど多くない。「読者にとって本は二種類に分かれる。傍線を引くか、引かないかである」という意見を書き、別のところでは、「本は編集視点で物語と非物語の二つに大別できる」と記している。自宅の書棚もオフィスの書棚も、まだこんなふうに分類して並べてはいないが……。


読書についてぼくの最新の定義を紹介しておく。

【読書】 本の体裁に編集された外部の情報と、自分のアタマの中に蓄えられている内部の情報を照合すること。

この中の「照合」がわかりにくいかもしれない。老舗の天使の辞典である広辞苑によれば「照らしあわせ確かめること」。えらく差し障りなく定義するものだ。そのくせ、さきほどのパスカルの法則には堂々と反している。

不満はさておき、本の情報と自分のデータベースを照らし合わせるのが読書である。まったく重ならないこともある。取り付く島がないほど面倒見の悪い本か、自分のデータベースが貧弱すぎるかのいずれかだ。たいていの書物と読書家の知識は、程度の差こそあれ、重なるものである。重なる部分を確認したり記憶を新たにしたり、本に攻められて一方的に情報を刷り込まれたり、何とか踏ん張って持ち合わせの知識で対抗したり、コラボレーションしたり完全対立したり、好きになったり嫌いになったり……。照合とは、縁の捌き方でもある。


出張中の三日間、読書について書いてきたが、キリがない。けれども、今月からスタートした書評会は「本をどうするのか」への一つの方向性を示すものになるだろう。「本は買ったり読んだりするものではなく、書くものである」というユダヤ格言がある。まったく同感であり、これまで売れない本を二冊書いているが、この十数年間は読者側から修行をだいぶ積んだので、三冊目を書いてみようという気になっている。 

読書の「非天使的な」定義

実際に読んだ人もいるはず。ピアスが著した元祖『悪魔の辞典』(The Devil’s Dictionary)はおよそ百年前にアメリカで出版された。一般の辞書同様アルファベット順に編纂されているが、すべての用語が再定義されている。再定義と言うものの、通常の発想ではない。すべて逆説的で諧謔的、人間の凡庸な発想をことごとく皮肉っている。ふだん使っている『広辞苑』や『新明解』やその他の国語辞典が「天使の辞典」と思えばよい。

時代的差異もさることながら、日米の文化的差異があるので、まったくおもしろくない定義もある。その時々の世相のフィルターに通さないと新鮮な風刺的定義になってくれない。しかし、心配無用、ピアスの思いを汲んでオリジナルの悪魔の辞典を編んでくれる人たちがいる。告白すると、ぼくの本棚には天使の辞典よりも悪魔の辞典のほうが多い。秀逸な悪魔の辞典から二冊紹介しておこう。


『ビジネス版悪魔の辞典』(山田英夫著)。本も読書も再定義してくれていないのがちょっと残念。さて、書評会のメンバーが報告・連絡・相談、いわゆる「ほう・れん・そう」をバッサリ切る仕事術を紹介した。この悪魔の辞典の定義はこうだ。

自分で主体的に意思決定できない社員を育成する日本的システム。

なるほど。真実は天使側の定義だけにあらず、悪魔側も真理の光を当てているではないか。

にんまりと笑ってから少ししんみりした定義が「中小企業」だ。

(1) 小さい企業のうち、大きくならないほうの企業群。
(2) 倒産したら、自腹で補てんしなくてはならないほうの企業群」。

さらに、ウソのようなホントが「プロジェクター」である。

研修中にパソコンとうまくつながらないことにより、誰がパソコン・スキルが高いかを教えてくれる機器。

ぼく自身、実際に何度か体験した。うまくつなげた受講生に送られる拍手は、講師への感謝の意を込めて送る拍手よりも、もちろん大きい。

別役実の『当世悪魔の辞典』は魅せてくれる。読書について「はじめに」でいきなりこう説明する。

読書というものがおおむね気詰りなのは、あらかじめ入口と出口が示されている点であり、自由に「出たり入ったり」出来ない点にある。

続いて、本編では「読書」を次のように定義する。

食事中の、排便中の、通勤電車の中での、やることがなくて退屈している目に与えられた、片手間仕事。従ってそのための本は、小さなものに限られる。最近「読書」が「文庫本を読むこと」と同義になりつつあるのは、そのためである。

「本」はどう定義されているか。

既に我々は、生涯をかけても読み切れないほどの量の本を抱えこんでおり、これは更に増加し続けつつある。「人類は滅びて、膨大な本だけが残った」という予感を、我々は感じとりつつある。


ふつうの天使の辞典が、読書を「本を読むこと」と定義し、本を「書物、書籍」と定義する想像力の乏しさにあらためて呆れ果てる。書かれた通りに文字を理解し、著者が意図した通りに 本を読むほどつまらぬことはない。ひとまず「悪魔の辞典的な読書」が批評眼を培ってくれることを指摘しておく。

本読みにまつわる雑感

初回の書評会が終わって、大いに成果のある試みだったと評価している。同じ本を読んで「同感、同感」と納得するのではなく、みんなが違う本を読んで臨むのがミソである。書評会の後の食事会でも軽く質問したりジャブを打ち合うとさらにおもしろい。

準備のために、本を買い、本を読み、本を選び、抜き書きし、まとめたり再編したりし、検証し、書評を書く。これだけの作業がある上に、当日に発表し、他人の書評に耳を傾け、書物間に対角線を引く……。まあ、思いつくだけでこのくらいの多彩な知的活動が伴うわけだ。ある意味、仕事より負荷がかかる。自分が選んだ一冊の書評開示もさることながら、他に6冊の書評を吟味する。わずか2時間。これは高密度な脳活性であると同時に、とても効率のよい啓発機会なのではないか。

口頭説明としては大阪の地名について書評したK氏がすぐれていたが、書評会は話術の会ではない。読書の内容と所感を書いてプレゼンテーションすることに意義がある。ペーパーに記録が残っているから、評者さえ間違いなく引用して的確にコメントしてくれていたら、そのまま使えるし、いかにもその本を読んだかのように振る舞うこともできる。

K氏の話はおもしろかったが、一ヵ月後には忘れてしまっているかもしれない。だが、よき教訓になった。ぼくは、研修でも講演でも配付資料・掲示資料ともに質量両面で充実させ、つねに最新の話題を盛り込んで刷新するよう努めている。だが、時間との格闘に疲れ果てると、資料を一切使わずに「喋りオンリー」でやってみたいと思うことが時折りある。実際、そういう時代もあったし、今でもやればできると思っている。しかし、聴きっぱなしはやっぱり効果に乏しいのである。一回きりでは深い記憶領域まで情報は届かないのだ。後日資料を振り返ることによって刷り込みが可能になる。K氏の愉快でわかりやすい話しぶりは、逆説的に言えば、かなりアタマのいい聞き手かメモ魔によってのみ成立するのである。


読書にまつわるおびただしい格言がある。手元の名言・格言辞典を覗いてみた。思想的背景とは無関係にことばだけ拾うので、誰の弁かは伏せておく。

読書は量ではなく、役に立つように読むことが問題である
本はくまなく読んでも不十分で、読んだことを消化するのが必要である

そうそう、教養だけでなく、どこかで活用しようと企んでいるのならば、自分の不足を埋めるように読まねばならない。

君の読む本を言いたまえ、君の人柄を言おう

読書好きの知人も同じようなことを言っていた。「誰かのオフィスに行くだろ。応接室か会議室に通される。書棚の背表紙をざっと見れば、思想から性格まで見通せるよ」。同感である。但し、書棚を埋め尽くしている書物は複数の人間が読んだものを並べているかもしれないので、勇み足をしないよう。

書物から学ぶよりも、人間から学ぶことが必要である。
新しい書物の最も不都合な点は、古い書物を読むのを妨げることだ。

上記は書物に対する批判的な教えである。ぼくは常々「人は人からもっとも多くを学ぶ」と思っているので、前者に賛成である。ただ、人からの学びは偏愛や畏敬の念をベースにすることがあるので、幅広く書物を読んで偏りを是正することも必要だ。後者は、目先のベストセラーや話題・時事を追いかけすぎて、読もう読もうと思っている古典に親しめないということ。最近は痛切にそう感じている。 

米国というジレンマ

たしかソクラテスだったと思う。誰かに「結婚すべきか、独身であり続けるべきか?」と問われて、「いずれを選んでも、後悔する人生になるだろう」と答えたという話。三段論法の一つ、「ジレンマ」である。「もし結婚すれば後悔するだろう。また結婚しないで独身を貫いても後悔するだろう。人生は結婚するかしないかのどちらかである。ゆえに、「どちらを選んでも後悔する人生になる」という推論だ。

これは演繹的なアームチェア論理の結論である。可能性としては後悔しない結婚生活もバラ色の独身生活もありうるし、現にそうして生きている人々が大勢いるだろう。言うまでもなく、机上のジレンマが必ずしもそのまま実社会のジレンマになるわけではない。


歴史的事実として、あるいは現実として、米国が政治的、社会的、経済的、国際的にジレンマを抱えてきたかどうかは諸説分かれる。ぼく自身、米国のジレンマ性について政治的、社会的、経済的、国際的に考えることはあるが、めったに誰かと意見交換をしようとは思わない。ぼくにとって語るに値する米国のジレンマは、ぼくの青春時代から今に至る心象風景に浮かび上がるそれである。

「米国に期待したら裏切られる。また失望しても裏切られる。米国への心理は期待するか失望するかの極端な二択である。ゆえに、米国はぼくを裏切り続けている」――これが、ソクラテス的演繹による、ぼくにとっての米国というジレンマである。

小学校でのローマ字学習を英語学習と錯覚していた。日本語をローマ字(アルファベット)で書いたら、そのまま「外人」に通じると思っていた。ここでいう外人とはアメリカ人である。中学に入って、ローマ字と英語が違うことを知って愕然とした。何のためにローマ字を学んだのか。二歳上の姉は中学一年のときに鼻高々でぼくに英語を見せびらかした。どうせ“Are you a boy?” 程度のことだったのだろう。中学の遠足では、奈良公園に観光に来ていた外人に近づき、サインをねだる同級生がいた。外人は「アメリカ人」であって、英語は「英国人」の言語ではなく「米国人」の言語であった。

日本が米国の州になればいいとジョークを装いながら、実は本心でそう思っていた連中がいた。帰国子女のネイティブばりの英語に度肝を抜かれ、国際派商社マンでなく土着商人のオヤジを恨んでいた友人もいた。そうそう「ああ、いっそのことアメリカ人に生まれたかった」という嘆きも聞いたことがある。ぼくが二十歳前後の頃、急激なアメリカ化が進み、生活も街も文化もアメリカ色で彩られていた。米国至上主義で幸せかに見えた時代だった。


米国への期待と失望がいずれも裏切られるからといって、それは米国自体のジレンマではない。タイトルの「米国というジレンマ」は正しく表すと、「米国にまつわる、日本人のジレンマ」である。米国に夢や希望を一極集中させすぎたのである。ぼくのように英語とアメリカンカルチャーに精通しようと励んだ者ほど反動も大きい。自分勝手に期待して自分勝手に裏切られたのである。かつて米国に恋焦がれたぼくだが、未だにアメリカ大陸の土を踏んでいない。

米国に対してはやや失望気味のほうがジレンマに悩まなくてすむことをぼくは学習した。世界には多様な価値観が存在するのだ。大企業が苦戦するように大国も苦悩に喘ぐのである。警察官だって犯罪に手を染めるのである。正義も誤るのである。当たり前だ。

米国との関係性におけるジレンマにうろたえるよりも、そろそろ国家も個人も自分自身が直面している日本社会のジレンマを何とかすべきだろう。「欲望を強くすればやがて身を滅ぼす。また節度を守れば土足で踏みにじられる。欲望に走っても節度を守っても危うい生き方になってしまう」。さあ、どうする?

万歳! vs 頑張ろう!

オバマ大統領の就任演説を耳から聞いたのはニュース番組。もちろん、全文ではない。出張先のホテルでもらった夕刊に載っていた演説は25%くらいに凝縮した要約であった。あくる日、朝刊には全文が掲載されていた。翻訳のこなれ具合が気になった。その日、他の二紙も読んだ。微妙に翻訳文が違う。その二紙はいずれも英文も載せてくれていたので、英文も読んでみた。

ある大学教授が「具体策に乏しい」と批判していた。少し酷だ。所信演説なら方策が語られるべきだろうが、就任演説だからやむをえまい。むしろ、就任演説特有のステレオタイプな鼓舞がなく、真摯でさらりとした論理性を垣間見た。日本人にはなかなか共有しづらい多民族性、異質文化性を踏まえねばならないくだりにはやや高揚感を伴うことば遣いもある。だが、総じて冷静でありメッセージの論理は明快である。


ぼくが指摘するほど、オバマ大統領が冷静で論理明快だと思わない人もいるだろう。ぼくの受けた「静かな理性」という印象がずれているのなら、それには思い当たる原因がある。就任演説の前週の金曜日に開催されたわが国の二つの政党の党大会を見たからである。その日、自民党と民主党は同日に党大会を開催した。時代が変わっても、攻守それぞれ相変わらず紋切り型のシュプレヒコールで閉会していた。一方が「万歳」、他方が「頑張ろう」。どちらの党にも「政治時代劇」に嫌悪する若手代議士も大勢いるはずだが、仲間内でそんなに鼓舞し合って何を考えている? と首を傾げた。

万歳。それは大勢で両手を勢いよく上げる動作を伴う。そして大勢で唱えることばである。ぼくの言語的知識からすれば、祝福の表れ、または勝負に勝利したときの雄叫びである。いったい自民党は何を祝福したのか、あるいはどんな勝負事に勝利して「万歳! 万歳! 万歳!」と三唱したのか?

頑張ろう。余力を残さずに持てる力を十分に出して努力するときの決意である。前途に困難があるかもしれない、しかし、それにめげずに最後までやり通すという意志の表明だろう。チャレンジャーとしてはいいし、「万歳」よりはましかもしれない。でも、「頑張ろう! 頑張ろう! 頑張ろう!」などという三唱はスマートではないのだ。発想も体質も古いのである。


オバマ大統領の演説の締めくくりは、よく耳にする「神の祝福あれ」だった。だが、それに先行する最後のメッセージは感嘆符がつくような「空っぽのテンション」とは無縁だった。次のように自分流で訳してみた。

「子どもたちのそのまた子どもたちへも語り継ごうではありませんか――試練に直面しても、わたしたちは(建国以来の長い)旅路を終わらせなかったと。わたしたちは後戻りもせず、挫折もしなかったと。地平線と神の慈悲に目を据えて、自由という偉大なる贈り物を引き継いで、続く世代にしっかりと届けたと。」

どう解釈しても、そこに居合わせた200万人の人々に対する空元気なシュプレヒコールではない。「万歳! 頑張ろう!」なんて泥酔状態でも叫べるではないか。ぼくはアメリカのジレンマについてどちらかと言えば批判的だし、そのテーマについてブログで書こうと思っていた矢先だった。しかし、「万歳と頑張ろう」の国にとっては、お手本にせねばならないことがまだまだ多いと言わざるをえない。  

イタリア紀行27 「歴史が描き出す風景」

ベルガモⅡ

この街を訪れた前年に、ベルガモが生んだガエターノ・ドニゼッティ (1797-1848)の歌劇 “L’Elisir d’amore” (愛の妙薬)を偶然にもCDで聴いた。また同時期にNHKラジオイタリア語講座でも歌詞を読んでいた。少しは親近感があったわけである。CDではアディーナという娘に心を寄せるネモリーノを偉大なテノール歌手ホセ・カレーラスが演じている。このオペラの舞台はバスク地方の村で、北イタリアの都市とは関係がない。さきほど久々に聴いてみた。ベルガモにも合っているような気がしたが、もちろん勝手な連想である。 

風景というのは地形がつくり出す。しかし、自然に任せた地形だけなら、ぼくたちが目にする風景はさほど変化に富むことはないだろう。塔に登れば地上とは異なるパノラマが広がる。見えざる地形を塔が人為的に演出してくれるのだ。同じように、城塞や城壁跡の遊歩道は歴史が置き忘れていった風景を描き出す。ベルガモがヴェネツィア共和国に支配されていなかったら、城塞は生まれなかったかもしれない。すると、ベルガモの小高いチッタ・アルタの街もきっと別の姿に見えたに違いない。

「ベルガモは偏屈な街である。よそものにひどくよそよそしい。あんまりよそよそしいのでかえって面白い。住むとなると大変だろうが、よそよそしさを味わいに訪れてみるのも見聞を広めるのにいいと思う」(田中千世子『イタリア・都市の歩き方』)。こんなベルガモ人像があるらしい。これはイタリア人全般、とりわけ店舗の女性スタッフには当てはまる気がする。イタリア人には陽気で愛想がいいというイメージがつきまとうが、意外に人見知りをするというのがぼくの印象だ。

しかし、塔に登るまでに会話を交わしたベルガモ人は、フレンドリーで饒舌なまでに親切だった。レストランで給仕をしてくれた女性と、塔の下で切符を売っていたおじいさんだ。さらに塔から下りてきて、コッレオーニ礼拝堂を地上から眺めて以降も何人かのベルガモの人たちと接点があったが、誰一人としてよそよそしくなかった。むしろ街全体が気位の高いよそよそしさを感じさせるのかもしれない。

小高い丘に繰り広げる颯爽とした風景を歴史が刻んだように、ベルガモの凛とした空気も都市国家興亡の歴史の残り香に違いない。 《ベルガモ完》

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博物館で買った4枚綴りの絵はがき。中央のドニゼッティとゆかりの人物が一枚に一人配されている。
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地上から見上げると別の圧倒感で迫るコッレオーニ礼拝堂。白とピンクの大理石をふんだんに使ったファサードが見事。
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建物の玄関や柱の台などに見られる獅子の像。獅子はヴェネツィア共和国の象徴。ベルガモが1428年以来ヴェネツィアに支配されていた証である。
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しばし歩を止めて歴史が描く風景のノスタルジーに浸ってみる。
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地形に沿って蛇が這うようにくねる城壁の曲線。眼下にはベルガモのもう一つの顔、チッタ・バッサの街並みが見える。