抜き書き録〈2023年11月〉

語感を磨き語彙を増やすという、骨のあるテーマで話をすることになった。音読に適した文章は前々からいろいろと収集している。他に何かないかと本棚をずっと眺めていたら、何度か読んだ一冊に目が止まる。これがいいと即決。『教科書でおぼえた名文』(文春ネスコ編)がそれ。その一冊から抜き書きしてみた。


📖 「よい文章とは」(金田一京助『心の小径』より)

(……)どうしたら、よくわかる文章が書かれるであろうか。
よくわかる文章を書くには、文章だからといって、特別に角ばらず、「話すように」書くことである。

国語の専門家にこう助言されては真向から反論しづらい。しかし、そもそも誰もがきちんと話すことに苦心している。特別に意識せずに毎日話しているが、適当に話しているようなことを書いてわかりやすい文章になっても自慢できるとは思わない。話すように書くのは、書くように話すよりも難しい。

📖 「文章とは何か」(谷崎潤一郎『文章読本』より)

人間が心に思うことを他人に伝え、知らしめるのには、いろいろな方法があります。(……)泣くとか、うなるとか、叫ぶとか、にらむとか、嘆息たんそくするとか、なぐるとか言う手段もありまして、急な、激しい感情をと息に伝えるのには、そう言う原始的な方法の方が適する場合もありますが、しかしやや細かい思想を明瞭めいりょうに伝えようとすれば、言語にる外はありません。

この文章を読んで「ことばじゃない、心なんだ!」と力説した講演者を思い出す。あれから30年かそこら経ったが、未熟なせいか心で伝えるすべを今も知らない。言語によって今もなお下手な鉄砲を打っている、谷崎先生の後押しを味方につけて。

📖 「美を求める心」(小林秀雄『美を求めて』より)

近頃の絵や音楽は難しくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるには、どういう勉強をしたらいいか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。(……)
極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。ず、何をいても、見ることです。聞くことです。

コンサートでは聴衆の中から評論する声を聞いたことはないが、美術館では二人連れや三人組が絵の構図や描かれた時代背景などを小声で語り、すでに本で仕入れた知識に基づいてああだこうだと言っているのを耳にする。絵は好きかそうでないか、快いかそうでないかが基本。この絵は難しいなどと評するのは、鑑賞者が小難しく考えるからだ。

📖 「春はあけぼの」(清少納言『枕草子』より)

春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。

万葉集や古今集も「五感」に響く表現の宝庫だが、和歌は意味を汲むのに苦労する。その点、少々語彙が不足していても、古典随筆はある程度意味がわかり、声に出して読むと「語感」の良さが伝わってくる。

📖 「安寿と厨子王」(森鴎外『山椒大夫』より)

水がぬるみ、草がもえるころになった。あすからは外の仕事が始まるという日に、二郎が屋敷を見回るついでに、三の木戸の小屋に来た。

だらだらと書くのを戒め、切れ味よく直截的に表現しようとするなら、森鴎外を手本にするのがいい。無駄な婉曲をせず、動詞がテンポがよく文章をつむぐ。なお、語彙は文章の中で語感の響きをともなって増えていく。単語だけを増やそうとしても意味がないし、だいいち増えない。

抜き書き録〈2023年10月〉

読書の秋だが、仕事の秋でもあるので、悠長に本を読む時間があまりない。だいぶ以前に読んでノートに抜き書きしていた箇所を、原典に還って再読した。楽だと思ったが、初めて読むのと違いはない。と言うわけで、取り上げるのはわずかに2冊だけ。


📖 『論語』

子貢問曰、「有一言而可以終身行之者乎」。
子曰、「其恕乎。己所不欲、勿施於人」。

子貢しこう問ひて曰く、一言いちげんにして以て終身これおこなき者有りや。のたまはく、じょか。己の欲せざる所、人に施すことなかれ。)

孔子の弟子の子貢が「生涯おこない続けるに値する一言のことばがあるでしょうか?」と尋ねた。世にある万言の中からたった一つというのはちょっと無理がありそうだが、孔子は「それは恕だろうな」と即答した。そして、「自分がされたら嫌だと思うことは、他人にしてはいけないのだよ」と言った。

「恕」という漢字を知ったのはこの時が初めて。恕は見るからに「いか(り)」や「うら(み)」に似ているから、よからぬ意味だろうと直感した。実は、「他人の心情に対する思いやり」の意だった。直感はまったくハズレていた。

「あなたがパワハラされるのが嫌なら他人にパワハラをするな」と教えるのは、「己の欲せざるところを他人に施すなかれ」に即している。対照的なのは『新約聖書』の「己の欲するところを他人に施せ」だ。「パンを分け与えて欲しいなら他人にもパンを分け与えよう」が一例。この例なら思いやりがあるから恕の精神と同である。しかし、自虐的な人の場合だと「あなたがイジメられたいのなら他人もイジメてあげよう」になってしまう。マゾヒストのあなたがサディストに変身しなければならなくなる。

📖 『知的複眼思考法』(苅谷剛彦著)

書名からハウツー本と勘違いされそうだが、いろいろと考えさせられる、中身の濃いテーマを扱っている。

• ほかの人の意見に対し、「そんなものかなあ」と思って、自分で十分に納得しているわけではないけれど、「まあいいか」とやり過ごしてしまった。
• 本当は、ちょっと引っかかるところもあるのだけれど、「そういわれれば、そうかなあ」と、人の意見を消極的に受け入れた。
• 「あなたの意見はどうですか」と聞かれた時、少しはいいたいことがあるのに、はっきりと自分の考えがまとめられずに、結局は「とくにありません」と答えてしまった。

著者は、上記の反応をする人たちを発想に乏しい人の典型と見なす。この種の人たちがこのような振る舞いを延々と続けることは想像に難くない。「自分で十分に納得しているわけではない」「ちょっと引っかかるところもある」「少しはいいたいことがある」というホンネは心にずっと居座り続けるが、斟酌してもらえることはない。

「言いたいことが言えない」という日々を送っているうちに、人前では話さないぞ、なぜなら話したってわかりっこないからだと自己説得してダンマリを決め込んでしまう。やがて言えない能力は言わない能力のことであって、言える能力よりもすぐれていると考え始める。こうして問題はすり替えられて、言える人はただの口達者な技術屋にされてしまうのだ。

抜き書き録〈2023年9月〉

まだまだ残暑が厳しい。夏場の読書は苦行である。部屋を涼しくしても、この時期はすでに6月頃からの高温多湿の積算に心身が嫌気をさしている。仕事は他人様との約束なので何とかこなせるが、読書は自分ごとなので、夏場は読書量がかなり減る。中座したり未読したりしている本を本棚から引っ張り出しはするが、今月もあまり読んでいない。

📖 『人生の実りの言葉』(中野孝次)

題名よりも先に「美しい〈老い〉を生きるための珠玉の名句・名文40選」という帯文に釣られて、古本屋で手にした一冊。

閑吟集かんぎんしゅう』の「しゃっとした・・・・・・こそ人はよけけれ」という歌謡が新鮮に響く。関西でよく使われる、スマートさを意味する「しゅっとした」とは異なる。

この句は女の目から見て好ましい男の姿を言ったもので、いかにも頼もしげできりりとした態度ふるまいの中に、ねちっこくないさっぱりした愛情表現をする人のことを言ったもの。(……)中世の女の美意識を単純な言葉でみごとに表現してみせた。

どうやら能力があっても、さわやかさや粋に欠けていては日本男子の理想像にはなれないらしい。とは言え、男の理想像になろうとして生きるつもりがないのなら、好ましいと思われなくても別に困ることはない。

📖 『はずれ者が進化をつくる 生き物をめぐる個性の秘密(稲垣栄洋)

個性、ふつう、区別、多様性、らしさ、勝つ、強さ、大切なもの、生きる……などの生物界のキーワードを見直して新しく意味づけしているのが興味深い。「境界を引いて区別する」の項から引用。

皆さんはクジラを知っていますか?
イルカは知っていますか?
クジラとイルカは同じ海にすむ哺乳類の仲間です。
それでは、クジラとイルカはどこが違うのでしょうか。

「クジラは大きくて、イルカは小さい」
そんな単純なものではありません……と言いたいところですが、じつはそれが正解です。

専門的な分類学によると、3メートルより小さいのをイルカ、それよりも大きなのをクジラと呼んでいるらしい。とても単純なので驚く。この伝で言うと、3メートル1センチがクジラで、2メートル99センチがイルカということになる。その差はわずか2センチ。人間は「区別したいという、ただその理由で分類している」ようなのだ。

📖 『辞書から消えたことわざ』(時田昌瑞)

辞書からまだ消えていないことわざなら結構いろいろと知っているが、すでに消えて久しいものをよく知っているはずがない。本書で知っているのはわずか3つだけだった。消えたことわざの中にあって、記憶にかろうじて残り、ぎりぎり生き長らえている希少種である。

「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」

わからないことはその道のプロに聞いて教わるのがいいという意味。このことわざを知ったのは先輩が口癖だったからだ。何十回も聞いた。あの人、お前より頭のいいオレに聞け、オレに学べと言っていたような気がする。

「三つ叱って五つ褒め七つ教えて子は育つ」

文字通りのわかりやすいことわざだが、こういう道徳観のことわざは消える運命にある。これも文字で見たのではなく、耳から何度か入ってきたと思う。七五調なので覚えやすい。日本のことわざは抽象的な語句を避けて比喩や具体的な表現を使うので数詞の出番が多いと、著者は言う。

「雨の降る日は天気が悪い」

辞書からは消えたかもしれないが、おなじみのフレーズなので稀に今も使う人がいる。

「晴れの日は天気がいい」と言ったらどうなるだろう。たぶん、当たり前なことを言うな、とでも言われるのがせいぜいだろう。(……)類語は特に多くないが、比較的よく知られるのが「犬が西向きゃ尾は東」。その他、「鶏は裸足はだし」「北に近けりゃ南に遠い」「親父は俺より年が上」(……)

当たり前のこと言って、小馬鹿にされる時と、おもしろおかしく感心してもらえる時がある。ウケるためには、当たり前の中に新しい発見の仕掛けがいるのだろう。

抜き書き録〈2023年8月〉

この半月で古本を十数冊買った。まだほとんど目を通していない。それどころか、ここ数年で買い求めた本の半数すら読み通していない。将来読む気のある未読本はオフィスでも自宅でも机に向かう背中側の棚に無分類のまま積んである。仕事の手が止まったので、何冊か引っ張り出してことば遊びのページを拾い読みしてみた。

📖  『誹風柳多留』は「はいふうやなぎだる」と読む。江戸時代中期から幕末までほぼ毎年刊行されていた川柳の句集。全部で167編が刊行されたという。川柳なので季語はないが、この時期にありそうなユーモラスなものを二句。

本降りになって出ていく雨宿り

今だ! と踏ん切りをつけて雨中に飛び込めば、さっきまでの雨のほうがずっとましだったということがある。夕立やゲリラ豪雨時の雨宿り。小降りになるタイミングを見極めるのは容易ではない。

かみなりをまねて腹がけやっとさせ

腹掛けは昔の職人の仕事着の一つだが、自宅で子どもにさせる腹掛けは夏場の寝冷えを防ぐ肌着だった。暑いから子どもは嫌がる。「腹掛けしないと雷様にへそを取られるぞ」と親父は脅したのである。冬よりも夏によく腹巻をさせられた覚えがある。

📖 『街頭の断想』というエッセイ集に河合隼雄の「ふたつよいことさてないものよ」と題した一文がある。

ふたつよいことは、さて、ないものです。ひとつよいことがあると、ひとつわるいことがある。どんなによいことでも、その裏には、あんがい、わるいことが含まれています。
そのかわりに、ふたつわるいことも、あまりないものです。どんなにわるいことでも、よくよく見ると、それは何かよいことをあわせてもっていることが、わかってきます。

この話のもとは次の七七七五調の都々逸である。

〽 二つ良いこと さて無いものよ 月が漏るなら 雨も漏る

月が漏るとは、夜に月の光が板葺き屋根の隙間から射してくること。貧乏長屋のイメージだが、光が入ってくるならその隙間から雨も漏るだろう。月の光は良いこと、雨漏りは良くないこと。良いことはめったに二つない。河合は悪いことも二つないと言うが、悪いことは平気で二つ三つと重なるものである。

📖 『不思議な日本語 段駄羅』(木村功)。段駄羅は俳句や川柳と同じ五七五。上の五音をA、中の七音をB、下の五音をCとすれば、Bの七音は同じだが二つの異なる意味になって、「A-B1」と「B2-C」とつながるように駄洒落の掛詞を遊ぶ。一句引用する。

古都の旅(A)   

大和路やまとじ線か(B1)
山と自然が(B2)

そこかしこ(C) 

奈良への旅人が「JR大和路線」を利用し、窓外に「山と自然」をそこかしこに眺める様子である。ABCの記号を抜いてもう一作。

寝苦しい  

不快な蚊なり

深い仲なり

花と蝶

抜き書き録〈2023年7月〉

コロナ前に途中まで読んで最後のページまで到らなかった本からの抜き書き。本は無作為に読んでいるが、引用箇所はたまたま言語が共通テーマになった。


📗 『エッフェル塔のかけら――建築家の旅』(岡部憲明)

夕日を背にしたエッフェル塔は光の中に溶解し、風とたわむれ、空の織物となる。エッフェル塔は限りなく透明な構築物だ。なめらかにのびる四本の足から加速度的に空の一点へと収斂していく。透明な軽さは重力を感じさせない。

靴がかなりくたびれるほどパリを歩いた日がある。石畳が多いから靴底のクッションは重要だ。歩くリズムの中に街を感知しながら、予定以上に歩いてしまう。一休みはカフェで、フランスのエスプレッソ「エクスプレッソ・・・・・・・」を注文し、舗道と通行人をぼんやり眺めて午後のひとときを過ごす。パリ市内ではどこにいてもエッフェル塔が見える。パリに三度訪れ、合わせて20日以上滞在したが、エッフェル塔は見飽きない。エッフェル塔は空間的存在のみならず、変幻自在な言語的存在でもある。表現が尽きない。

📗 『言葉とは何か』(丸山圭三郎)

言葉は、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有の概念化・構造化であって、外国語を学ぶということは、すでに知っている事物や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得すること(……)

国際広報の仕事をしていた20代、30代の頃、日英の翻訳も業務の一つだった。「これ訳しておいてもらえる?」と気軽に依頼されたが、気楽にできるものではなかった。翻訳とは二言語間の単なる文字面もじづらの置き換えではない。ものの見方、感情や生活様式、慣習、風俗など、何から何までそっくり照らし合わせなければならないのだ。AIがどこまで概念化・構造化としての言語を分析できるようになるのか、興味津々である。

📗 『言語の科学――ことば・心・人間本性』(チョムスキー)

言語は6万年前、突然変異で人間の脳が再配線され、それを契機に生まれた能力である。言語が人間を人間にしたのだ。

人間を人間たらしめているのが言語なら、言語のどの要素が最も決定的なのか。言語は人間どうしの意味の共有を可能にした。今ここにないモノをその名によって伝え、見えない時間や感情を記号化して分かり合えるようになった。この6万年間、ホモサピエンスの他にこの能力を獲得した動物はいない。しかし人間は、言語と引き換えにそれまで駆使していたはずの固有の能力のほとんどを失ったはずである。

抜き書き録〈2023年5月〉

「風景」という響きと文字が気に入っている。風景の類語はいろいろあり、意味もニュアンスも微妙に違い、使い分けが難しい。

「情景」と「景観」は人の思いや感情とつながっていて、対象を「すぐれている」とか「きれい」というふうに眺める。自然の眺めは一般的に「景色」という。風景は景色よりも上位の概念で、自然の他に街や人の活動も含めた眺めを含む。「光景」は風景や景色に比べてやや無機的で、目の当たりにしている状況、場面、様子は何でも光景になる。

古来、風景は考察の対象になってきたが、もちろん人が自然を意識してからずっと後に創られた概念である。風景をテーマにした本を3冊、読み比べてみた。

📖 『風景との対話』 東山魁夷(著)(「日月四季」の章より)

太陽や月、雲や山が幾度となく浮動して位置を変えた。それは、金色の幻想となって、夜昼となく私の頭の中にあらわれた。春の山、太陽、夏の虹、秋の山、冬の山、月、それらを連ねる雄大な雲の流れ――  

東山画伯は実際に風景を見たのではない。ある主題に対して風景が浮かんだのだ。浮かんだ風景は自分にしか見えないから、便宜上ことばでスケッチ・・・・する。宮内庁が、1960年代に新築中だった東宮御所の壁画制作を画伯に依頼したエピソードである。

「風景画的な主題」という題材だけが唯一の条件で、あとはお任せだった。画伯は実際の壁を見に行く。その時、「日月じつげつ四季図」の構想がひらめいた。壁の大きさは横22.5メートル、高さ2メートル。一目では目配りできないその長大なスペースに、動く風景があぶり出されるように見えたに違いない。

📖 『風景画論』 ケネス・クラーク /  佐々木英也(訳)(「象徴としての風景」の章より)

われわれの周りには、われわれが造ったものではなく、しかもわれわれと異なった生命や構造をもったもの、木々や花や草、川や丘や雲がとりかこんでいる。幾世紀にもわたって、それらはわれわれに好奇心や畏怖心を吹きこんできた。歓びの対象ともなってきた。われわれはそれらを、自分たちの気分を反映させるよう、想像力の中で再創造してきた。  

地球規模の自然ではなく身近な自然の場合、ぼくたちは雲や樹々、起伏のある山なみ、浜辺などを想起する。人々はこの自然を畏れ多くも自分なりに解釈し、想像上の自然を作り上げたり再構築したりしてきた。それが風景画を生みだしたというのである。「風景画は、人間が辿ったさまざまな自然観の段階をしるす指標である」と著者は言う。

自然の中に風景を見出したのは西洋ルネサンスの頃だという説がある。その話を――まったく偶然だが――次の一冊がリレーしてくれる。

📖 『風景の誕生――イタリアの美しき里』 ピエーロ・カンポレージ/ 中山悦子(訳)  (「土地の姿から風景へ」の章より)

風景を描いた絵画の黄金時代はおそらく、まだ風景というものが自立した形としてもジャンルとしても存在しなかった時代ではなかったか(……)
風景はまだ背景に追いやられる「習作」の段階にあって、観察と解釈の対象に過ぎなかった。(……)
十五世紀また十六世紀初期の美術や論考において、風景はまだ十分な自立に達しておらず、絵画としての美的規律ももたされていない。 

「まだ十分な自立に達しておらず」というのだから、概念としての風景は中世ヨーロッパでは未熟だったのである。当時の人々はあるがままの自然を拒否していた。他方、自分たちの生活に役立つ自然には大いに関心を示した。すなわち、金や銀などの鉱物と農産物を産出し、牧畜を可能にしてくれる利用価値の高い「土地」こそが自然だったのである。

ルネサンス以降、野性の自然(土地)から風景を導き出すのに時間がかかった。今、自然と風景の関係はどうなっているのだろうか? 功利優先の土地や戦場で風景画が描かれるとは思えない。

本の帯文をじっくり読む

稀に帯文が本を買うきっかけになるが、所詮「PRのうたい文句」だと内心思っている。本体の書物以上に真剣に読むことはない。図書館では本の函を捨て表紙カバーも取っ払う。帯文を付けたまま本が棚に並べられることはない。

本を買って帯文を付けたまま読むこともあるし、読む前に外すこともある。先日、十数冊溜まった読書に関する本に目を通した折りに、数冊に帯文が付いたままだった。「そうだ、帯文をじっくり読んでみよう」とふと思った。

📘 『本の世界をめぐる冒険』(ナカムラクニオ)

なぜ、本は生き残り続けたか
日本一、詳しい著者が「つながり」でひも解く教養としての本の世界史
2時間で読める! シリーズ累計16万部

本の生き残りを問うのは「本が読まれなくなった危惧」ゆえだろう。本を救済し絶滅させないために世界史や世界観が必要になった。読書論だけでは本を語ることにならない。本は紙であり印刷であり書店であり教養であり世界なのである。なお、2時間で読めるとかシリーズ累計16万部といううたい文句には惹かれない。

📘 『読書からはじまる』(長田弘)

自分のために。次世代のために。
「本を読む」意味をいま、考える。

読書から「何が」はじまるのだろうか? 意味深であり、それゆえに読書の意味を考えるというわけか。アマノジャクなので、ぼくは「本を読まない」意味も考えたことがある。本は読む対象だけではなく、買って棚に入れて読まない存在にもなりうる。読む本にも読まない本にも意味があると思うのだ。

📘 『読書とは何か 知を捉える15の技術』(三中信宏)

本を読む、それは「狩り」だ――

読書は狩猟に似ていると思ったことがある。情報や知識は獲物で、読書をする時に人は狩人になるというわけ。狩猟民族としての読書人は、獲物をさばいて知欲を満たす。読書を狩りとするなら、獲り損ないも少なくない。したがって、上手に読むためのワザは、たぶんあるほうがいい。

📘 『私の本棚』(新潮社編)

私の本棚は、私より私らしい。
23人の愛書家が熱く綴る名エッセイ!

誰が言ったか忘れたが、「きみの読んでいる本を言いたまえ。きみの性格を言い当てよう」というような文言があった。背表紙が見えると、自分の本性が見透かされるような気がするので、外から見えない本箱に格納していた読書家の知人がいた。最近読んだ10冊の書名を聞けば、興味の傾向が見え、ある程度性格がわかるかもしれない。しかし、本棚が自分よりも自分らしいのなら、類推は外れることになる。ぼくの本棚はあまりぼくに似ていないと思うが、似ていると言う人もいる。

📘 『読書会という幸福』(向井和美)

わたしがこれまで人を殺さずにいられたのは、本があったから、そして読書会があったからだと言ってもよいかもしれない。

本を所蔵し読書をしていた殺人者はいくらでもいるはずだから、一般論ではない。本があるがゆえに賢くなった人もいれば、バカになった人もいる。本には功罪があるのだ。ぼくが主宰していた読書会は、メンバーが最近読んだ本の書評をおこない、出席者から質問を受ける。みんなが別々の本を読んでくる。他方、よくある読書会では、みんなが同じ一冊の本を読んできて感想を言い合う。感想が食い違ってケンカにならないかと心配する。大人は読書感想ではなく、本の批評をするべきだというのがぼくの自論である。

抜き書き録〈2023年4月〉

あっと言う間に4月が過ぎようとしている。3月末から4月いっぱいは何かと慌ただしく気忙きぜわしい。未読本に真剣に向き合う時間が取れない。隙間があれば何度か読んだエッセイや創作を拾い読みする。全体の筋を追うわけではない。どちらかと言うと、新聞雑誌の記事をクリッピングするような感じ。

📖 夏目漱石『草枕』

山路やまみちを登りながら、こう考えた。
に働けばかどが立つ。じょうさおさせば流される。意地をとおせば窮屈きゅうくつだ。とかくに人の世は住みにくい。

何度も読んでいるので引用した文の後もそらんじることができる。いつ読んでも簡明で調子のよい名文だと思う。冒頭でいきなり「智(知)、情、意」が対比される。それぞれがアリストテレスの〈ロゴス、パトス、エトス〉に偶然対応しているのがおもしろい(講演のネタとして何度か使った)。
人の資質の3点セットだから、偏ることなくバランスよく用いるのが望ましいが、それができないからみんな苦労するのである。

📖 吉田篤弘/フジモトマサル 『という、はなし』

逃月逃日
都会の埃が
――決して誇りにあらず――体の中にしんしんと降り積もって、いまにも警戒水位を超えそうになっている。

黄砂がニュースになる前に書かれた本だから、黄砂のことではないだろう。しかし、黄砂が取り上げられる前から、都会ではいろんな埃が飛び舞い上がり、そして降り注いでいた。「東京砂漠」という歌もあった。先日、NHKの気象予報士が「洗濯物を取り入れる前に三度はたいてください。サンドだけに」と言っていた。
ところで、これがどんな本かを説明するのは難しい。別のページの次の一文がヒントになるかもしれない。

逃月逃日
朝食、菓子パン一個。昼食、菓子パン一個。夕食、菓子パン二個。

……という(ような)、はなしが多い。これではヒントにならないか。

📖 中野孝次 『人生の実りの言葉』

薔薇ばらはなぜという理由なしに咲いている。薔薇はただ咲くべく咲いている。薔薇は自分自身を気にしない、ひとが見ているかどうかも問題にしない。

アンゲルス・シレジウスという17世紀ドイツの詩人のことば。こうして読んでみると、5月頃に訪れるバラ園のバラのすべてがただ咲きたいから咲いているように思えてくる。
続いて、著者は次の北原白秋の「薔薇」と題した詩を紹介する。

薔薇バラノ木ニ
薔薇ノ花サク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

バラの木にバラの花が咲いているのは何百回も目撃している。一度も不思議に思ったことがない。バラの木にバラの花が咲く。これほど完璧な描写はないが、これを写実と呼ぶのかどうか、よく知らない。

抜き書き録〈2023年2月〉

今月の抜き書き録はコーヒーにまつわる既読本から3冊をピックアップ。

☕ 『人生で大切なことはコーヒーが教えてくれる』(テレサ・チャン 著/佐々木雅子 訳)

コーヒーを最も美味しく楽しむ方法は、直前に豆を挽くこと。豆は、挽かずに密閉した容器で保存しておくと、新鮮さが長持ちする。
豆を挽くと、コーヒーの風味である芳香油が、豆から放出される。同時にコーヒーの新鮮さを失わせる最大の敵、酸素にもさらされることになる。

自宅では飲む直前にコーヒー豆を挽くのが以前からの習わし。他方、消費量の多いオフィスでは市販の挽いた粉を使っている。時間に余裕がある時はオフィスでも今年から豆を挽くことにした。直前に挽けば強く香りたつ。粉になるとは、劣化のきっかけになる酸素とふれあうこと。手際よく淹れ、出来上がりをすぐに啜るのが美味しい作法である。

☕ 『バール、コーヒー、イタリア人 グローバル化もなんのその(島村菜津 著)

しっかりと目覚めているように、
日に四〇杯のコーヒーを飲む。
そして、暴君や愚か者どもといかに戦うかを、
考えて、考えて、考えるのである。
(ヴォルテール『コーヒー、神話と現実』)

「暴君や愚か者どもといかに戦うか」という一節が、ロシアの現在進行形の不条理な侵攻を連想させる。それはともかく、ヴォルテールという哲学者/詩人はコーヒー中毒だったようだ。四〇杯とは度を越すにもほどがある。体験的には、コーヒーを飲んでも思考力にはあまり効果がない。ぼくは日に34杯飲むが、眠気覚ましのためではなく、ホッと一息つくためだ。

☕ 『珈琲のことば 木版画で味わう90人の名言(箕輪邦雄 著)

収録されている著名人のコーヒーにまつわる名言を半数ほど紹介したいくらいだが、そこまで一言一句抜き書きするくらいなら、買っていただくほうが手っ取り早い。渋沢栄一の一編も捨てがたかったが、悩んだ挙句、下記の一編を選んだ

すぐそこの角を曲がれば、空に虹が見える。
だから飲もうよ、一杯のコーヒー、そしてパイをもう一切れ。
(アーヴィング・バーリン“Let’s Have Another Cup of Coffee”

この一編にはコーヒーの蘊蓄もなく、作法の小難しさもない。コーヒーを飲む理由や動機はなくてもいい。あるにしても、別に何だっていい。「雨が降っている。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」、「春の風の匂いがする。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」、今日は喜怒哀楽の一日だった。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」……。そして、その一杯のコーヒーのおともだが、それもまたパイでもカステラでもクッキーでもいい。

判読不能な読書

いきなりで恐縮だが、少々長い下記の引用文をお読みいただきたい。

一九六二年に『開かれた作品』を出版したとき、私は、どのようにして芸術作品が、一方で、その受信者の側に解釈による自由な参加を要請しながらも、他方で、その解釈の次元を刺激すると同時に統制する構造特性を提示するのかと、自問した。もっと後で知ったのだが、当時私はテクストの実用論を、そうと知らないまま実践していた。いや少なくとも、今日のいわゆるテクストの実用論のひとつの側面、つまり共同作業行為に取り組んでいたわけだ。受信者はこの行為によって、テクストが語らないもの(前提し、約束し、含意し、ほのめかすもの)をテクストから引き出し、空所を埋めるよう仕向けられるのであり、またこの行為こそが、テクストに存在するものをテクスト相互性の織物へと連結するよう仕向けるのである。当のテクストがそこから生まれ、そこへと合流していくテクスト相互性の織物へと。共同作業の動き、のちにバルトが示してくれたように、これこそがテクストの快楽を、そして――特権的な場合には――テクストの悦楽を生みだすものなのだ。

引用は、ウンベルト・エーコの『物語における読者』の序文の第一段落。序の序からしてこの難解さ。と言うか、判読不能の極み。書かれているテクストに読解力が及ばないせいか、イタリア語からの翻訳に問題があるせいかはわからない。これは古本屋で500円ほどで買った一冊だが、すでに数ヵ所に付箋紙が貼ってあった。この本の前の所有者が最初から最後まで読んだのかざっと見ただけなのか、これまたわからないが、付箋紙が貼れたのだから、ぼくの判読能力よりも上と思われる。

文章の判読性が低いと、読者に意味がすっと伝わってこない。しかし、読者がそこに書かれている事柄をある程度読み解く知識があれば、読み続けることができる。古本屋で買うのをためらわず、今ぼくの手元にこの本があるという事実、長編小説『薔薇の名前』で名の知れた著者のウンベルト・エーコはすでに何冊か読んでおり、「テクスト」というテーマにも関心があるという事実を踏まえると、ぼくはこの一冊をある程度読めなければいけないはずである。しかし、さっぱりわからないのだ。

これほどさっぱりわからない読書はかなり久しぶり、と言うか、初めてのことかもしれない。「さあ、ここまで上がってこれるかい? 悪いけれど、こっちからきみの所へは下りていくつもりはない。この本で引用している実在の人物や彼らの著書について、きみが承知しているという前提でこの本を書いた。妥協は一切していない……」。ページをめくりながら、そんなエーコの(あるいは翻訳者の)つぶやきが聞こえてきた。

意味がよくわからないまま本を読み続けることができるかと問われれば、できそうもないと答える。しかし思い起こせば、学生時代に哲学や経済の翻訳書を何冊も読まされた経験がある。何もわからずに読んだふりをした記憶もある。今はどうか。脳はただ朦朧とし目は虚ろに文面を追っている。先週の水曜日から土曜日まで仕事に追われていた。一段落して読書でもと思って手にした本を間違ってしまったようである。

あちこちのページを飛び石伝いに眺めてきて、次の『7 予想と推考散策』という章の冒頭を最後に本を閉じた。

7・1 蓋然性の離接
それをとおして読者がファーブラを顕在化するマクロ命題は、恣意的な決定に依拠するのではない。それらの命題は、テクストが担うファーブラをほとんど顕在化するはずなのだ。生産されたかぎりでのテクストに対するこの「忠実性」の保証は、経験的なテストをとおしても検証できる意味論的な諸規則によって与えられる。(……)

ファーブラがわからない。最後の「テスト」が正しいのかテクストの誤植かどうかすらわからない。ここに到って、声なき笑いが込み上げてきた。わからなさすぎると読者は、パニックに陥るのではなく、諦観するかのように笑う。ある程度読めるが一部だけわからない人は苦しむが、さっぱりわからずに読み続ける人は判読不能の快さを感じ始める。エーコの言う「テクストの悦楽」が生まれてくるのだ。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、読書の悦楽は増幅する。ぜひ試していただきたい。