無個性な風見鶏トーク

昨日、橋を渡って対岸の遊歩道へ行ってみた。風がかなり強く、後でチェックしたら風速6メートルだった。せわしなく動くビルの上の風向計。別名「風見鶏かざみどり」。風向きに応じて向きを変える。転じて「相手に応じて自らのスタンスを変える者」。今はすっかり縁が切れたが、旧知の仲だったX氏を思い出した(なお、X氏は中曽根元首相ではない)。

相手によって話しぶりや話す内容が変わる「風見鶏トーク」。話しぶりをそのつど変えているうちに、キャラまで七化ななばけしてしまう。首相へと上り詰めたらアイデンティティになるが、一般人ではそうはいかない。一般人のX氏は話も考えもいい加減になった。集団の中で没個性的な存在になった。八方美人よろしく誰にでも調子を合わせて喋っているうちに、誰にも焦点を合わせることができなくなり、やがて黙りこくるようになった。

「風の方向を知る? いいことではないか」と考え、風見鶏を「臨機応変」の意に解するむきがある。そうではない。風見鶏はむしろ「日和見ひよりみ」に近い。『新明解』で比較した。

【風見鶏】その時どきの情勢に応じて自分にとって有利な側につこうとする人の意。
【日和見】どちらが優勢になるか情勢をうかがって、自分がどちらにつくかすぐには決めないこと。
【臨機応変】あらかじめ決めた方針に囚われず、その場合場合の状況に応じた対処のしかたをすること。

風見鶏と日和見のニュアンスはよく似ていて、「無責任な自分視点」が内蔵されている。しかも、行き当たりばったりでポリシーが窺えない。たとえば、ある時ある場所でA氏のa〉という主張に賛同し、別の時別の場所で〈b〉を主張するB氏にも取り入る。しかし、A氏とB氏が同席する場では右往左往するか沈黙するしかない。他方、臨機応変は、人への対応ではなく、局面への対応である。新しい局面を迎えて、自分視点や型にとらわれずに応用問題を解くことである。

X氏およびその仲間は臨機応変ができないから、風見鶏になり日和見になって生き残ろうとする。ステレオタイプな解法を持ち出してはその場の空気に合わせて意思決定に関わっている「振り」をするのだ。風見鶏トークは中身のない社交辞令だけで終わらない。人格まで空っぽにしてしまう。

X氏はどこにでもいる。そして、大義名分なく利を得ようとしたりずるく振舞おうとしたりする時、わたしたち一人ひとりの中にも現れることがある。気をつけよう。

あれもこれもポルトガル

最近はカタカナ語が溢れているので、モノが国産か外来かの区別はつきにくい。以前は、カタカナで表記されていると外来語だろうと察したものだ。たとえば、あの化学実験用の容器「フラスコ」。元が“frasco”で、仮にそれが何語か知らなくても、外国由来だと見当がつく(実際はラテン語/ポルトガル語起源)。

ところが、モノと同時に外来語が紹介された江戸時代、比較的発音に忠実に漢字で表記されてそのまま明治大正昭和と使われたから、歌留多かるた煙草たばこ襦袢じゅばん合羽かっぱも元々日本語だと思われてきた。それぞれがまさかポルトガル語の“carta” “tabaco” “gibão” “capa”であるとは想像できなかったのである。

今では情報が流布して、カタカナで表記される食べ物、特にヨーロッパ起源のものはよく知られるようになった。フランスやイタリアやドイツまで取り上げるとキリがないので、ポルトガル語が出たついでにいくつか拾ってみた。パン(pão)、こんぺいとう(confeito)、ビスケット(biscoito)はすでにおなじみ。鯖寿司には、その形状からの連想でポルトガル語で「小舟」を意味する“bateira”てられた。カステラも「城」を意味するポルトガル語の“castella”由来である。

つい昨日のこと。懐かしい「丸ぼうろ」が売られていた。どこにでもあるお菓子だが、袋に佐賀の伝統銘菓と書いてあった。知らなかった。ところで、丸ぼうろなどは、何のことか知らぬままてっきり日本のものだ思っていた。調べてみたら「ぼうろ」は乳ボーロの「ボーロ」と同じで、焼き菓子の意の“bolo”。これもまたポルトガル語である。

かつて外来語に工夫を凝らして日本語に訳したり漢字を充てたりしたが、今となっては漢字ではなく、原語の発音に近いカタカナで表記するようになった。コンピュータをわざわざ電子計算機と訳してはみたが、モノになじむとその名称の翻訳や漢字が必要でなくなる。「葡萄牙」などはテレビの雑学クイズ番組以外で見ることはなくなった。

語句の断章(36)多々益々弁ず

「多々益々弁ず」の意味を正しく知っている人は少なく、ほとんどが知らないか誤って解釈している。誤って解釈するのは少々教養があるためで、弁術や弁論に使われる弁という漢字から連想して「話すこと言うべきことが増えれば増えるほど弁が冴えてくる」という意味に解してしまう。

実際、ぼくもそんな一人だった。いちいち辞書を引かなかった若い頃、初見の表現や成句なのに適当に類推だけで済ませて、我流の解釈のままで放置していた。その最たる例がこの「多々益々弁ず」。ある日、この表現が弁論に関わるものではないことを知る。さすがに今は、分かったつもりにならぬよう、面倒臭くても調べるようにしている。

弁論や弁護の弁は「話す」の意で旧字の「辯」には言が入っている。一方、多々益々弁ずの弁の旧字は「辨」のほうで、「わきまえる」の意。すべきこととそうでないことの区別やけじめをつけて、物事を巧みにコントロールしたりマネジメントしたりすることだ。多々益々弁ずは「仕事や物事が多ければ多いほど処理能力が高まるさま」を表わしている。

言語や表現が豊かというのではなく、仕事や物事の「事」にまつわる成句なのである。あの人は多々益々弁ずと言えば、仕事や物事が増えても次から次へと片付ける、手腕や能力のある人物のことにほかならない。なお、由来についてはここでは書かないが、たいていの故事名言・諺辞典には記述があるので参照していただきたい。

ちょうどいい加減の説明

先日、かなり譲歩して理解につとめたが、その短い説明文の意味がさっぱりわからなかった。いったい説明にどれだけのことば数を費やせばいいのか。ことばを多めに尽くすにしても少なめに抑えるにしても、内容に応じてわかりやすくほどよいことば数に調節するのは一筋縄ではいかない。

本を解説する無料の小冊子が出版各社から出ている。たとえば手元にある『新潮文庫の100冊』。読ませどころのさわりを23行の見出しで示し、内容を66文字以内で解説している。無駄なく見事にまとめられている。こういう簡潔な書き方のほうが、好きなだけことばを蕩尽するよりも時間がかかる。

翻って、思いつきで適当に書いたり話したりした説明は、読み手や聞き手に負担をかけてしまう。説明者のことば足らずや饒舌ぶりを読み手や聞き手が忖度することになる。説明者のことば足らずにはことばを補い、ことば過剰なら引き算しなければならない。

いま、「書いたり話したり」と書いたが、目の前で話されたことなら、わかりにくさはほぐすことができる。意味や意図を直接尋ねることができるからだ。しかし、書いた本人がそこにいない時――本などがその典型だが――聞きたくても聞けない。下手に書かれていたら、パズルを解くような覚悟で歩み寄るか、あきらめて投げ出すしかない。


力のないことばを吐かないようにしよう……ダラダラと説明したり言い訳したり独り言のようにブツブツ言うのはやめよう……いま目の前にいる相手――目の前にいなくても想定する読み手――に伝えよう……書いて伝えるなら論理を整えよう、そして説明をきちんとやり遂げよう……説明責任を果たそうとすればことば数は増えるものだ。迷ったら、不足よりは過剰を選ぶ。

理解のもどかしさは、突き詰めていくと、ほとんどことばの拙さに辿り着く。ことばによるコミュニケーションは人間だけに付与された特権なのに、修行不足のせいで誰もがことばでつまづく。言い得ぬもどかしさ、伝えづらいもどかしさ、思い通りに伝わらないもどかしさに苦しむ。これらはうまくいかない人間関係のもどかしさにつながる。

そんなことで苦しむくらいなら、思いつくまま話したり適当に書いたりしておけばいいと、つい思ってしまう。そして残念なことに、多くの人がそう思う時代になって、意味不明な短い文章ばかりが垂れ流されている。

今時のことば感覚

つい先日、あるテレビコマーシャルを初めて見た。「今はやめてよ、アポなし頭痛!」というのがそれ。頭痛は突然やってくるから、元来アポなしである。アポあり頭痛があったら気持ち悪い。だから「今はやめてよ、頭痛」でいい。「アポなし」を思いついたコピーライターがひとり悦に入り、「それいい!」と周囲が同調した様子が見えてくる。

よく練られたキャッチコピーほど一つのことばが感覚を研ぎ澄ます。しかし、調子に乗ってことばの力に頼りすぎると、アポなし頭痛のような意味なき駄作になってしまう。取って付けたようなことばはデジタル部品のようなもので、イメージや感覚の凹凸を奪うのである。

ことば遊びというのは文脈から切り離すと面白味が消えてしまう。たとえナンセンスでも、唐突ではなく、その場や状況とうまく絡むことがポイント。目の前に鰹のタタキがないのに「親のかたき、鰹のタタキ」と言っても不発である。鰹のタタキを注文するリアル場面があってこそ成り立つことば遊びだ。


イメージを思い浮かべるのはたいせつだが、思いつきだけではことばに切れ味は生まれない。計算も求められるのだ。

気に入っている都々逸があり、それを計算式にしたのが上の図だ。ちなみに、都々逸は「七七七五」でできている。4つのハートから3つの壊れたハートを引き算すれば答えは何?

〽 惚れた数から振られた数を 引けば女房が残るだけ

いやあ、目の付け所が粋である。行間がある。意味が深い。すべての愛妻家はやむをえずそうなったのだろう。都々逸のほか川柳や狂歌もそうだが、いい作品では表現が計算され尽くされている。


とある行政の夏のイベント告知の案内に「この夏、○○川に出掛けませんか?」と書いてあった。誘ってはいても不特定多数への平凡な呼びかけに過ぎず、キャッチコピーとして物足りない。「出掛けませんか?」は悠長だし、そんないざないでは距離感が生まれる。まるで他人事だ。

もし「○○川の夕涼み散策」がテーマなら、「出掛けませんか?」では訴求不十分である。しかし、「夕暮れどき、○○川の岸辺のそよ風はすでに秋」と書けば、これも不特定多数向けのコピーには違いないが、新しい情報が提供されることになる。

ありふれた名詞の羅列だけでも十分に新鮮に響くことがある。「浴衣とうちわと○○川」と並べ、わざと動詞を抜く。どうなるか、どうするかは自分で想像してもらう。このほうがスマートに物語を暗示できるのである。飛んだり跳ねたりするだけがキャッチコピーの作法ではない。

処暑迎えてなお残暑

「暑と署」を書き間違いする成人を見受けるが、「暑」は小学3年生で教わる漢字という。よく見ると、上から下へ「日+耂+日」という要素で組み合わされている。この一字がいかにして「気温が高い」という意味になったのか。

「日」は太陽である。太陽の下に柴の意の「耂」があり、それがもう一つの「日」の上に積まれている。者は「煮」に通じている。上からも暑く、下からも熱い。大暑、極暑、炎暑など並べて声に出してみると、見た目も響きも焼きつきそうな熱を感じさせる。

暑中見舞や残暑見舞のハガキは減っているが、今年もいろいろ届いた。一枚一枚あらためて眺めていると、暑の文字が体感温度を少しずつ上げていく。78年前だったか、三重県のセミナー担当者からいただいた、松阪牛を象った礼状兼暑中見舞が記憶に残っている。ペーパーの松阪牛に続いて暑を制する焼肉用の松阪肉の宅配を期待したが、届かなかった。


暑をエアコンでなだめようと頑張ると闘争になってしまう。人が暑と闘っている図が浮かぶ。近年は一夏を過ごすために暑を打ち負かさねばならなくなった。今ほど激暑でなかった半世紀前までは、「冷やす」という高コスト手段ではなく、「涼をとる」という省エネが夏の過ごし方の標準だった。

風鈴、かき氷、団扇、西瓜、夕涼み、打ち水、金魚すくい……。これらは夏に勝つ手段と言うよりも、今風に言えば「ウィズコロナ」に近い。「ウィズ暑さ」という共存の知恵である。

先週末「金魚すくい飴」という飴が売られていたので、一袋買い求めた。封を開けて舐めなくてもいい。これは涼をとるささやかな工夫である。昨日は処暑だった。暑さが峠を越して朝夕に涼風がそよぐというのは昔の話。二十四節気の暦を鵜のみにしてはいけない。

イズム(–ism)はほどほどに

昨年12月、コンサートに招待された。断っておくが、企画したのは怪しい主催者ではない。大阪に何らかのゆかりがある複数の歌手がそれぞれ23曲歌った。その中の一人はすでに70歳を過ぎ、30数年前に比べて露出は減ったが、ブレることなく今もわが道を歩み続けているらしい。この歌手の、観客を置いてきぼりにする自己陶酔ぶりにうんざりしてしまった。

自己陶酔の英語は“narcissism”。正確な発音は「ナルシシズム」だが、慣習的にはシを一文字落として「ナルシズム」と呼ぶ。己に陶酔しすぎると、他者や景色は見えなくなる。自分が中心で、自分が好きでたまらない困った人だ。ステージに立っているのを忘れているのではないかと思うほどの傍若無人だった。

“ism”は、それ自体が単独で使われることはまずないが、接尾辞としてある用語にくっつくと用語のとんがり感が強くなる。Darwinismダーウィニズムは「ダーウィン進化論説」、feminismフェミニズムは「女性解放思想」、nationalismナショナリズムは「国家主義」という具合に、何とかイズムは主義や先鋭や排他のニュアンスを濃く漂わせることになる。


おなじみのdandyismダンディズムを例に考えてみたい。適訳がないので今も昔も「ダンディズム」が一般的。これは男性に使われることばで、主として服装や身のこなしや付き合い方がスマートで洗練されている様子を表わす。ダンディズムを極めていくと――と言うか、調子に乗り過ぎると――ディレッタンティズムになる。耽美主義だ。人生最上の価値を「美」ととらえ他のことには見向きもしない頑なな姿勢である。

服装や身のこなしだけではない。筆記具などのステーショナリー、靴や鞄や札入れなどの皮製品、時計と眼鏡の使いこなしにも言える。また、食材や料理とその食べ方、酒とその飲み方、店の選び方にも主義がある。愛用するものやスタイルには理由があり、問われれば饒舌にならない程度に蘊蓄を傾けることができる。

ダンディズムは一目で、一言で差異がわかる。品性もさることながら長年培った流儀が感じられる。それは、エステサロン帰りに細身のスーツに身をまといオーデコロンを香らせるのとは別物である。財布から札を取り出して祝儀をはずむのもダンディズムではない。誰が言ったか忘れたが、ポケットに硬貨を入れておいてそっと取り出すのがチップの心得だ。服装もことばも小道具も、これ見よがしではなく、さりげなく。ダンディズムに形だけで頓着すると野暮になる。

語句の断章(35)演繹と帰納

〈演繹〉と〈帰納〉は決してやさしくない哲学用語である。研修で何度か使っているが、中心テーマになったことはなく、周縁的にさらりと使うだけで深く掘り下げていない。質問を受けたこともない。ぼんやりとわかっている、辞書を調べてもあまりピンとこない、わかっているつもりだが「意味は?」と聞かれたら説明できない……演繹と帰納に対してはおおむねこの程度の距離感の人が多いのではないか。

手元の『新明解』によると、演繹とは「一般的な原理から、論理の手続きを踏んで個々の事実や命題を推論すること」、帰納とは「個々の特殊な事柄から一般的原理や法則を導き出すこと(方法)」。この説明を読んで、「ガッテン!」と膝を打つ人はたぶんいない。

ぼくの場合、だいたいの意味がわかるきっかけになったのは英語だった。演繹と帰納はそれぞれ英語で“deduction”“induction”という。使った英英辞典は新明解以上に明解で、演繹は“from general to special”、帰納は“from special to general”と定義されていた。一般から特殊を導くのが演繹、特殊から一般を導くのが帰納。枝葉が省かれてわかりやすかった。

たとえば何かについて話す時、総論から始めて具体的な事柄を紹介するのが演繹的話法。他方、一つまたは複数の具体的な事例を切り口にして一般的な考え方で結ぶのが帰納的話法。演繹と帰納のことを知らなくても、現代人にはこの二つの思考パターンやまとめ方が刷り込まれている。一つの原理をいくつかに分析するか、複数の情報を総合するかのいずれかなのである。


演繹を図で表わすと上記の通り。一つの大きな概念を具体的なコンテンツに小分けする。「横綱を目指す力士は〈心、技、体〉を鍛えなければならない」や「日本の通貨には、一円、五円、十円、百円、五百円の硬貨と、千円札、二千円札、五千円札、一万円札の紙幣がある」。トップダウンの構造になる。


上図は帰納の構造を表したものである。演繹の図とは矢印の方向が逆になっている。小さな情報のいくつかを一括りにして上位の概念にまとめる構成だ。たとえば、「Aさんは時々遅刻する、アポの時間を忘れる、新幹線に乗り間違える。時間にルーズなAさんは社会人失格」とか、「香川、徳島、愛媛、高知の4県を四国という」など。ボトムアップの構造をとる。

語句の断章(34)説明

よほどのことがないかぎり、大人が「説明」の意味を辞書で調べることはない。みんなわかっていると思っているし、誰かに突然意味を聞かれることを想定していない。だから万が一誰かに説明の意味を聞かれたら困る。しかし困っても、「説明の説明? 何を今さら」などと居直るのも大人げない。

試してみればわかるが、たどたどしい物言いになり、ついにはことばに詰まる。説明についてよくわかっていなかったことに気づく。しかし、失望しなくてもいい。『新明解』にしてからが、それがどういうものであるか(事情で存在し、また起こったか)を相手に分かるように(順序を立てて)言うこと」と、ずいぶんぎこちないのである。

企画書を書いたり人前で話したりすることを生業としてきた。読む人のために書き、聞く人のために話すのはわかってもらうためである。長年の癖で説明が饒舌気味になりやすい。この癖のお陰で仕事が成り立っているので悪しき癖ではない。しかし、この癖は曲者だ。説明過剰は野暮で美的感覚を損なうからである。

もともと美的感覚には不条理の要素がある。その不条理をほぐしてみせるのが説明だ。わけのわからないまま済ませず、ごまかさない。まるで正義の味方のようだが、説明に躍起になると人間もことばもつまらなくなる。それどころか、説明の根本であるはずの因果関係を見失ったり本末を転倒させてしまったりしかねない。

天気予報では台風の進路を示す「可能性」の円をよく見る。ある気象予報士が言った、「円が大きいと言うことは、進路の方向が定まらず絞られていないということです」。わかりやすい説明なので不都合はない。しかし、因果関係的には正しくない。進路が定まらないから円を大きく描いていると言うべきである。

辞書が言う「あることを筋道を立てて相手が分かるように書いたり話したりすること」は、知識がなければできないことである。しかし、相手の理解を以て完結するなどと考えるとハードルが高くなる。小学生から高齢者まで、素人から専門家まで、相手はいろいろである。相手相応の説明になっているかどうかは、やってみないとわからない。

説明についての説明をほとんどしていないことに気づいた。最後に、苦しまぎれに次のように説明しておきたい。

説明とは自分の知識に応じてできるかぎり物事をかすことであり、相手が分かってくれれば幸いだが、説明の内容や相手の知識によっては説いたことがうまく伝わるとはかぎらない、そんな疎通努力の一つ。

固有名詞を記号に変えてみた

歩いたり電車に乗ったりして過ごしたある日の半日。そのことを技巧を凝らさずに時系列で綴ったことがある。実話なので固有名詞をふんだんに使っている。すべての固有名詞を記号に置き換えてみたらどんな感じになるか……ふと、つまらない好奇心が湧いた。アルファベットで試してみた。

自宅からM線のH駅まで歩き、メトロでO駅へ。そこでF展覧会のチケットをディスカウントショップで買い求めようとしたが、まだ営業時間前だった。
S電車でO駅からK駅までは特急。K駅で普通電車に乗り換えてI駅へ。駅から徒歩67分の所にP美術館がある。建築に工夫のある美術館だ。水辺近くに建つが、海の風景には雑多な建物が入り混じり、必ずしも晴朗美観とは言えない。
帰り道。これと言った食事処がなく、I駅の踏切を通り過ぎてR電車のN駅まで歩いた。その近辺のとある店で「やむなく」という感じで海鮮丼を注文した。可と不可の境界線上にある微妙な味、おまけに微妙な値段。
このN駅、普通電車しか止まらないのに立派過ぎる。一つ戻って特急に乗ることもちらっと考えたが、帰路途上にあるA駅まで普通に乗ることにした。各駅に停車するので所要時間は特急の2倍の約45分。A駅でT線に乗り換えてM駅で下車し、そこから歩いて帰ってきた。
N駅からO駅なら410円だが、O駅手前のA駅を経由してM駅まで乗ると550円になる。ちょっと解せない料金設定だ。
往路の一部は特急に乗ったが、帰路は久しぶりの各駅停車的移動だった。特に急いでいないのなら、普通電車を乗り継いでの近郊半日の小さな旅。まんざら悪くなかった。

ありがたいことを書いているわけではない。固有名詞まみれの個人的なドキュメントだ。固有名詞のすべてを匿名希望的に、一地名や一駅名を一つのアルファベットで表記すると、文章は瞬時に無機的になる。無機的ではあるが、こういうのをクールとは言わない。どちらかと言うと、不気味だ。

ところがである。原文で出てくる固有名詞になじみがないとか、見たり聞いたりしたことはあるが土地勘がないという場合は、アルファベット表記の一文字仮名かめいで書かれた文章を読むのとほとんど変わらないのである。たとえ行ったこともなく土地に不案内だとしても、ニューヨークや上海が出てきたら少しは読み取ろうという気になるものだ。

しかし、ここまで書いてきて、本質的に重要なことに気づいた。リアルな固有名詞であろうと無機的なアルファベットの匿名であろうと、書かれた内容に興味を覚えなければイメージは湧かないし読む気は起こらない。関心があればわかりにくい文章でも読むし、関心がなければどんなに読みやすい文章で書かれていても読まないのである。