語句の断章(18) 散髪

「散髪」のことなど、ちょいちょいと検索すればすぐにわかるのだろうが、別に真実を知りたいわけではない。ただ勝手な推理推論を楽しもうと思うだけである。何かにつけて自分勝手に振る舞えない当世だ、想像するくらい意のままにしても罰はあたらない。

このことば、東日本ではあまり使わないと聞いたことがある。東の「床屋」、西の「散髪屋」という構図だが、そんなに鮮やかに東西に分かれているのかどうか知らない。

子どもの頃からずっと思っていた。今も不思議でならない。なぜ、「髪を整えようとしているのに、髪を散らかす」と言うのか。どう考えたって不思議である。「散」という文字は、散乱や散逸や離散と言うように、まとまりがない様子を示す。決して好ましい意味とは思えない。実に「散々」である。散歩や散策は良くも悪くもないが、気まぐれ感は漂っている。

にもかかわらず、手元の国語辞典は散髪を「髪の毛を刈り整えること」と定義し、「理髪」とも書いている。ちょっと待てよ。理髪や調髪なら「きれいにする」だから納得もする。整髪もおそらく「乱れた髪をきちんと整えること」だろう。ぼくには散髪は乱髪と同類のように響く。いずれも見映えのよい髪の様子の正反対に思えてしかたがない。

想像を超えて空想、いや、妄想してみることにする。散髪というのは、どうやら頭上の髪の毛の状態を示す用語ではなさそうだ。刈っている途中に髪が落ちていく様子、もしくは刈った後の床に散乱した毛髪のことを散髪と呼んだのに違いない。理髪は頭上でおこなわれ、そのマイナスされた分が床の上に散らばる。ヘアスタイルをきれいにすると言うよりも、きれいにした結果の、後片付けに力点が置かれたことばなのではないか。

しかし、じっと見ていると、この「散」という用法がなかなか魅力的に思えてきた。気を整えるために邪気を捨てるという意味で散気さんきと使えなくもない。実際にあることばだが、散語さんごなら表現を練り上げるために無駄なことばをそぎ落とす意味で使ってみる。散食さんしょく散読さんどくなども新鮮味がある。余分を捨てて、整食、整読するというニュアンスが漂う。いいかもしれない。