「考えることに行き詰ったら、ことばで打開せよ」と、他人に言い、自分にも言い聞かせている。腕を組んで空を見つめてもアイデアなど湧いてこない。誰かをつかまえて対話するか書くのがいい。話して書いてもうまく行くとはかぎらないけれど、不言よりは有言のほうが突破口が見つかりやすいという実感がある。
頭が働いてくれない経験は誰にもある。ぼくにも不意にやってくる。体調が悪くないのに、昨日まで冴えていた頭が突然アイデアを渋る。こんな時、いったん仕事から離れる。離れて、ノートにメモした文章を再読する。仕事とまったく無関係な過去情報が参照力の刺激になってくれる。勝手な思い込みだが、断片情報から過去へとつながるシナプスが働いて、ひらめきやすい脳内環境が生まれるのだろう。
十数年前、熱心にイタリア語を独学していた。読んだり話したりするのにあまり苦労しなくなったので、もう一段上を目指そうと諺を勉強したことがある。英語や日本語でならどう言うのだろうかと比較したりもした。そうこうするうちに、イタリア語から離れて、諺そのものの自分流の吟味が愉快になってきた。当時のノートには40いくつかの諺と寸評を書いている。不定期に取り上げて書き改めてみようと思い立った。
Oggi a me, domani a te.(今日はぼくに、明日はきみに。)
素朴で可愛げのある響きがある。これを日本語に置き換えれば、「犬も歩けば棒にあたる」が近い。
犬は棒を探すために歩くのではない。とりあえず歩くのである。歩くという行為の延長線上に棒があって、その棒を見つけてしまうのである。別にあたらなくてもよい。もっとも、棒が見つかるという保証はない。
人間の場合、棒以外のものにあたり、棒以外のものを見つけるかもしれない。これを「棒外の幸せ」と言ってみるか。毎日を生きていれば、人知を超えた巡り合わせはすべての人に平等にやってくる。犬にも平等である。今日はポチが棒にあたるかもしれないが、明日はラブが棒にあたるかもしれない。しかし、犬小屋にいる犬よりも歩いている犬のほうが棒にあたりやすい。
じっとしているより歩くほうがいい。行動範囲が少しでも広がるほうが巡り合わせも増え変化するはずだ。でも、それはぼくだけの専売特許じゃなくて、きみも歩けば何かいいことに出くわすかもしれない。棒にあたってケガすることもあるけれど、そんなことに不安を募らせてもしかたがないと思う。