苦労話、または不幸自慢

私の人生は苦労ばかり……

自分自身の苦労話をテーマに講演する人がいる。著名人にもいるし無名な人にもいる。ぼくの知人にもいる。誰の経験にも喜怒哀楽があり、一言で括り切れない凹凸があり精神的なひだがあるはずだ。「私の人生は苦労の連続だった」などと言って片付くものではない。おそらくいいこともあったはずなのに、苦労話のみを取り上げて教訓やセオリーを導く。苦労話と来れば、お決まりネタは生い立ちや人間関係や病気や金策など。しかも、たいてい悲劇として脚色される。

桂米朝が亡くなった直後、「落語家として師匠のどんな教えを受け継いでいきたいか」と聞かれ、弟子の桂ざこばが次のように語っている。

ぼくが小学校一年で親父を亡くしてアルバイトをした話をすると、「苦労したんやな」と言ってくださったんです。「でもな、世間にはもっと苦労した人がいる。あんまり、苦労を自慢話にしたらあかん」とおっしゃったのが心に残っています……。

こんな失敗や苦労をした、それを糧にして私は生き延びてきて今日に至っている……という話の展開だが、講師として迎えられるくらいなのだから、今は苦労を脱出しているに違いない。にもかかわらず、苦労話を売りにして活躍している講師が少なくない。義理で何度かその類の講演を聴いたことがあるが、教訓として記憶に残るものはほとんどなかった。そもそも成功か失敗かを問わず、ぼくは自分のキャリアにも他人のキャリアにもあまり興味がない。自分の過去を振り返り苦労を吐露するのはある種のノスタルジーだ。そんな哀愁ドラマは一人芝居していればいいのである。


「苦労を自慢話にしたらあかん」のは見苦しいからであるが、何よりもまず、生き方として粋ではないのである。もし苦労話をするのなら、喜劇仕立てにしてもらいたい。そもそも苦労とは、困難に直面して必死にもがき肉体的・精神的に多大な労力を費やすことだ。どんな困難か、いかに必死だったか、どれほどの多大な労力かは人それぞれ。世間的には苦労と呼べないほどのことなのに大仰に扱って涙ながらに語るか、他人から見ればのっぴきならない苦労を苦労だと思わずユーモアで自戒するか……ぼくは後者を粋な生き方だと見立てているが、残念なことに前者の話のほうが受けがいい。

ついでに辞書で「苦労話」を引いてみたら、「いかに自分が苦労してきたのかを、その経験とは何の関係もない他人に語ること。不幸自慢とも言う」とある。的を射た定義である。「個人的な苦労話をヒントにしていただければ幸いです」というスタンスの苦労人もいるだろうが、苦労話はほとんどの場合、本人の述懐に終始し、聴衆へ橋が架からない。ゆえに、聴いておしまい。余韻はめったに翌日まで残らない。いくばくかの感動を覚えるのは、自分に重ね合わせるからではなく、話に瞬間的に感情移入してしまうからにほかならない。苦労体験を積んで世事や人情に通じている「苦労人の話」と、己の責任で厄介事に巻き込まれた「運の悪い人の苦労話」との線引きをしておくべきである。

苦労人の話に耳を傾けるのを拒否しない。だが、苦労や努力の意味を理解せず、世間の人々がふつうに経験している程度の困難を、まるで自分一人の専売特許のように語る苦労話には辟易する。「あなた、苦労話以外にも語るに足る経験がおありなはずなのに……」と言いたくもなる。いや、一度だけ語るのならいい。誰を対象にしてもどこで話そうとも、苦労話が十八番おはこになっているのである。いつまでも苦労話の再現をするのではなく、苦労話を葬ることこそが近未来への展望につながるのではないか。話し手も話し手だが、苦労話の愛聴家もほどほどにしておくべきである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「苦労話、または不幸自慢」への2件のフィードバック

  1. 先生ご無沙汰しています。
    25年まれは去年64歳になり、今年の誕生日には高齢者の仲間入りです。
    レベルの低い書き込みは失礼かな、と遠慮していましたが、
    今日はやっぱり低レベルにお伝えします、岡野先生大好きです。
    人とは違っていて考え方がおかしいのかな?とうっすらと感じている事を
    尊敬する(この言葉、滅多に誰にでもは使いません)先生が同じように
    考えていらっしゃるのを読むと、ホッとします。
    いつも楽しみにしていますので、自分に自信の無い、しかも何故か
    普段は偉そうな読者がいる事を時々でも思い出してください。

    1. ごぶさたしています。賛同いただきありがとうございます。
      今年は貴地にて私塾開催の話が出ておりますが、どなたが事務局を引き受けてくださるのか……まだ決まっておりません。
      自分が異端児であるという斜に構えた考え方は年相応に捨てようと思っています。かくあるべしという意見を、拙い知見を顧みずに、この小さなブログの場から発信するのが一つの役割であろうと思います。民意などという付和雷同に流されず、賢慮良識の立場から発信し続けることができれば幸いです。もっとも賢慮良識というものが歪んでいることが無きにしもあらずですが、苦労話で金儲けなどという輩よりはいくぶんましだろうと考える次第。

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