知は力か無力か

エサしか見えないカエル

万物の霊長も、カエルのことを「餌しか見えないやつだ」などと言えた立場にない。欲に目がくらんだり直近のものに強く反応したりするいう点では、両生類とぼくらの間に大差はない。両生類よりもすぐれた知力が備わっていても、欲が強くなる時、知の働きが鈍くなるのが人の常。

「知は力なり。とんでもない! きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持っていない人もあるし、逆に、なけなしの知識しかなくても、最高の威力をふるう人もある」
(ショーペンハウエル)

知力あるいは理性が潜在的に備わっていても、顕在化するとはかぎらない……眼前の対象に右往左往していては力を発揮できない……知の多寡は現実の成果とは無関係である……ショーペンハウエルはこんなふうに言っているのだろう。ショーペンハウエルが槍玉にあげた「知は力なり」というのはフランシス・ベーコンのことばである。ここでの知が知恵なのか知識なのかという議論もあるが、ラテン語では“Scientia potentia est.”と表現されている。“Scientia”は「知識」の意味にとらえるべきなので、ショーペンハウエルの焦点の絞り方は妥当と言える。


ぼくが「ことばは力である」と言うとする。いや、実際にこれまでもよくそう言ってきた。これに対して「いや、あふれるような笑顔のほうが力だ」と誰かが反発する。いや、それどころか、ことばよりもハートだなどともよく反駁されたものである。もちろん言い返されて納得できれば主張を取り下げてもいい。ところが、ハートを持ち出す者から具体的な論拠を聞かされたことはない。論拠のない反論に耳を貸す必要などさらさらないが、世間には検証もせず議論もせずにハートのほうを容認する人たちが少なくない。

「ことばは力である」に反論するなら、そのことのみを否定すべきである。つまり、「ことばは力ではない」を反証しなければならない。「ことばよりもハートだ」というのは反論になり得ていないのである。同様に、「理性よりも感性だ」も理性の否定になっておらず、「きみがイケメンなら、オレもイケメンだ」も「きみがイケメンである」ことを揺るがしてはいない。幼い口げんかに過ぎない。

では、ショーペンハウエルのベーコンの「知は力なり」への反論はどうか。「とんでもない!」と強く反発しているが、「知は力ではない」と言い得ているだろうか。あくまでも「場合によっては」とか「人によっては」という条件付きになっている。知を力にできるかどうかは人次第であり、知そのものが他の要因を無視しては力にはなりにくい、という批評に留まっている。そして、完全否定などではなく批評ならば、知を力にするには何が必要かを提示してもいいはずだ。もっとも、こんなことをショーペンハウエルは百も承知である。

裏返せば、ベーコンの「知は力なり」も真に受けてはいけないということがわかる。「知は力になりうる」というほどの意味だ。一、二行だけポツンと言い放たれたり抜き書きされた、いわゆる名言や格言を読む時の最低限の作法を身につけておかねば浅い理解に終わってしまうのである。結論――「知はうまく使えば力になる。しかし、過信された知は無力である」。どうも冴えない結論だが、まあ、こういうことなのだろう。

石に矢の立つためしありやなしや

「意志あれば道開く」とか「願望は実現する」などとよく言われる。イタリア語にも次のような格言がある。

Volere è potere. (意志は能力である)

能力を「あることを実現する力」と見なしてもいい。さて、理屈っぽく考えると、意志という「一因」によって道が開けそうもないし、ただ願い望むだけで事がうまく実現するはずもない。では、意志・願望を持つことと何事かが可能になることの間にはまったく因果関係などないのか。それは、よくわからない。

意志があって強く願えば何でも可能になる、とは思えない。「精神一到何事か成らざらん」と言うけれど、二者対抗型の競技などにあっては双方が強くそう考えている。それでもどちらかが勝ち他方が負ける。サッカー国際親善試合の冒頭でキャスターが「絶対に負けられない試合がある!」と叫んでも、負ける時は負ける。相手にとってもその試合は絶対に負けられない試合なのである。絶対と強がっても、絶対はない。


おおよそダメなものはダメなのである。しかし、「ダメ」と信じ込んでいることに常識の穴や見落としがあるかもしれない。ダメと思っていること自体が錯覚である場合、別の機会にさらりとうまくいく僥倖に巡り合う可能性を否定できない。

意志があっても、ふつうは石に矢は立たない。ところが、石に割れ目があった、あるいは想像以上にもろい石であったというのであれば、矢が立つかもしれないのである。石は硬いから、それよりもやわらかいものを通さないという固定観念。石と矢の関係にはその固定観念が当てはまらないことがありうる。

グーがチョキに負ける

では、チョキはグーに勝てるだろうか。意志強くして、かつ勝ちたいという願望を極限に高めても、チョキではグーに勝てない。大人のチョキで威嚇しても幼児のグーに勝てないのである。意志や願望にかかわらず、ルールによって制限されているかぎり実現の可能性はゼロである。石に矢の立つためしがあるのは石に矢を立ててはいけないというルールがないからである。チョキはグーに負けるというルールのもとでは、チョキでグーに勝とうとする意志も願望も無力である。

白紙の状態

tabula rasa

ジョン・ロックの哲学をはじめとする諸々の事柄を書きだすとキリがないので、〈タブラ・ラサ〉というラテン語を出発点とし、そこから思いつくことを少し広げてみたい。

タブラ・ラサ(tabula rasa)。それは「文字が消された書板しょばん」のことである。何も書かれていない板、つまり、白紙と考えればよい。したがって、「これは白紙です」と言うつもりで、白紙にタブラ・ラサと書いてしまうと、この紙はもはやタブラ・ラサではなくなる。

白紙などどこにでもある。はじめから何も書いていない紙もそうだし、鉛筆で何やら書かれていた紙だが、ついさっき消しゴムで消したのなら、それも白紙である。「答案用紙を白紙で出す」などと言うが、答案用紙にはあらかじめ設問が書かれているからすでに白紙ではない。ぼくがここで言う白紙の状態とは認識論的な意味合いである。つまり、外界の印象を何も受けていない心の状態のことを表わす。


このことばを知ったのはディベート選手を卒業して、審査員に転じてからである。肯定側と否定側に分かれて議論する両者のいずれにも、議論が始まる前にくみしてはいけないのは当然の姿勢だ。偏見なき視点と言ってもいい。己の思惑や知識や価値観をすべてゼロにしてこそ、フェアな審査倫理がスタンバイする。白紙状態というのはこういうことである。

与えられた情報だけで判断する。情報が入ってくる前まで、対象となるものについての一切の知識を考慮の外に追い出す。知っていても知らないことにする。しかし、である。白紙はどこにでもあるが、脳内は真っ白ではなく書き込みだらけだから、すべてを消し去るのは並大抵ではない。いや、そもそもそんなことが可能なのだろうか。

当事者としてではなく、客観的に・・・・判断を下す者も人の子である。判断する立場にあるということは、判断される者よりも知識も経験も豊富であるに違いない。それらをゼロにして判断することが、それらを活用して判断するよりも公平であるという保証はない。少なくともぼくにとって白紙化はありえない。だが、白紙の状態に近づこうと努めることはできる。そして、それでよいのだと思う。タブラ・ラサとは公平精神を発揮するとの誓いにほかならない。

「類は友を呼ぶ」でいいのか!?

早朝からムクドリがうるさい。ムクドリはスズメ科で、スズメ同様に落ち着きがなくせわしげに四方八方に飛ぶ。わが家の窓辺に止まっては糞を残す。群れてはいるが、つぶさに観察すると、スズメには見られぬ激しい縄張り争いを繰り広げているのがわかる。わが町内ではスズメがムクドリによって淘汰されたかのようである。

Ogni simile ama il suo simile.

類は類を呼ぶ

イタリア語では類が類を愛するという言い方をするが、「類は友を呼ぶ」に相当する。類が集合している姿は群れを形成する動物に特徴的である。単独や孤立を嫌う人間もこの部類に属する。人間は他の動物に対しては霊長などと威張って優位に立っているが、大いなる自然の中にあっては弱者である。弱者のリスクマネジメント、あるいは一部犠牲の上に成り立つ種の保存という趣がある。


弱々しく群れているよりは、一匹狼のほうが、リスクが大きいものの、頼もしく見える。個体の区別ができない似た者どうしが「烏合うごうの衆」状態にあるよりも、清濁併せ呑むか玉石混淆の状態にあるほうが創造力が漲るし、社会的には健全なのである。

人は依然として類が友を呼ぶ構造から脱することができず、徒党を作り集団間で争いの種を蒔いている。マンネリズムや偏見や破滅もこの「同類同友」に起因する。同類同友であることの想像の欠如や退屈になぜ気づかないのだろう。リスクがないように見えるが、実はリスクだらけの構造なのである。

いきなり異類異友などという極論を唱えるつもりはない。だが、異類同友に一歩踏み出せないものだろうか。同類ならば、せめてどこかに一線を引く「時々異友関係」を築けないものだろうか。異種情報を組み合わせるほうが新しい気づきが生まれる。人間関係も同じである。同じ職場で同じ仕事をしていても異能や異脳であることはできるはずだ。類は友を呼ばないくらいの覚悟をしないと、人の個性などどこにも求めることはできない。

他人と違うことを考える

書くことと考えること」と題して書いてから三日間、考えることについて少し考える機会があった。

「考える」ということばの頻度は高い。企画書を見ながら「きみ、ほんとに考えた?」と聞けば、相手も「ええ、考えました」という具合。「よく考えよ」とか「深く考えよ」と言われて「はい」と答えているが、よく分かっているのか深く分かっているのかは分からない。それにしても、「広く浅く考えよ」とあまり言わないのは、考えることには深さが想定されているせいかもしれない。

考える人2

若い頃に考えることを意識するきっかけになったのはロダンの『考える人』だった。考えるというテーマの芸術作品に新鮮味を感じた。後年、あの作品名が元々『詩人』だったと知り、考えるは考えるでも高尚な哲学ではなさそうだと思うようになった。この作品は世界に30ほどあって、鋳造だからすべてオリジナルである。三年前、パリのロダン美術館の『考える人』をじっくりと見た。「前かがみ気味に座り顎に手を当てている時、人はまず考えてなどいないだろう」というのがぼくの結論である。


聴いたり読んだりする時に思いやイメージが巡る。話したり書いたりする時にも思いやイメージが動く。言語的行為が活発であることと頭の働きは関係している。だから、話しもせず書きもしていないこの考える人が、「沈思黙考」しているように見えて、案外脳内は茫洋としているだけかもしれないと思うのである。

さて、この考えるということ自体である。どこかに書いてあったことを読んだまま誰かに伝えても考えたとは言わない。中継したと言う。わからないことを調べた結果わかったとしても、まるで考えてなどいないし、読書しながら「うんうん、そうそう」というのも考えていない。なぞったり共感したりしただけに過ぎない。では、人と同じことを考えるのはどうか。同じことを考えるのに二人も三人もいらない。一人だけ考えていれば十分で、あとの連中は考えることなどなく、ただ共有すればいいだけの話である。二番煎じで考えることを考えるなどとは呼ばないのである。

考えることには独自性がなければならない。他の誰かと違うことを考えるということだ。その本質にはありきたりでないこと、場合によっては非凡や異端やアンチテーゼの特徴を備えていなければならない。他人が考えていることと違うことを考える……つまり、新しいことを、異なることを編み出す過程なのである。考えるとは、つねに「他人と違うことを考える」ことにほかならない。

書くことと考えること

電話や訪問客に邪魔されずに考える時間を持ちたいと思うことがある。何かについて集中的に考えたい時に一人の時間を作ろうとするのは常套手段のように思えるし、実際にそうしている人も少なくないはずだ。はたして、一人のほうが思考がはかどるのだろうか。

書考同源

いや、一人であるか複数であるかは問題ではない。一人であろうと複数であろうと、考えているつもりが、実は考えてなどいないことがほとんどなのである。考えようするだけでは記憶の引き出しは開いてくれないし、考えようとしているテーマに関連したアイデアもそう易々とひらめいてくれはしない。単にイメージが湧き何かが脳内でうごめいたような気がするだけである。手を、口を動かさずに腕を組むだけでは、思考はめったに起動しない。

では、いっそのこと調べよう。考えがまとまらないなら外部からの刺激を受ければいい? そうはいかない。情報が膨れてしまうと、まとまるものもまとまらなくなる。考えの芽を摘まんでしまうという、悪循環が始まりかねない。

☆     ☆     ☆

文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える事と書く事との間に何の区別もないと信ずる、そういう意味なのであります。まずく書くとは即ち拙く考える事である。拙く書けてはじめて考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。あらかじめ解っていたら創り出すという事は意味をなさぬではないか。(小林秀雄「文学と自分」)

ここでの話は文学に限定されるものではない。ぼくたちは話す行為や書く行為以前に思考があると思っているが、その思考の明快性や輪郭が表現抜きでしっかりしている保障などない。言語は思考を前提としない。考えたことを話す、考えたことを書くなどという手順の胡散臭さに気づくべきだ。話す相手がいなければ書くしかない。書いてはじめて分かることがある。書くからこそ思考が触発されるということがある。考えることと書くことは一体であり同根なのである。

下手な文章を書いているときは下手に考えているのだと言われてみれば、思い当たることがあるだろう。その下手な文章に筋が通っておらず、語彙表現も適切でなく落ち着かない。もう一度推敲してみる。推敲しているうちに適所適語が見つかる。そうか、自分はこういうことを考えようとしていたのかということが、何度も書き直した文章を通じて見えてくる。

バイアスから呪縛へ

火災と報知器

真夜中に火災警報が町内に鳴り響き、はっきりと内容が聞き取れるほど大音量でアナウンスが何度も流れた。「火事です! 火事です! 12階で火災が発生しました。安全に注意して避難してください」。

ウワァ~、ウワァ~、ウワァ~、ウワァ~と、ちょっと耳慣れない警報音の後にアナウンスが続く。アナウンスの後は再びウワァ~である。これが10分以上続いただろうか。

昨日の午前245分、ほとんどの人が眠りについている時刻。ぼくの居住するマンションの裏、一本路地をはさんだ新築マンションでの出来事だ。鳴り響き始めた直後に北側のベランダに出て様子をうかがった。非常階段に人気はなく、12階を見上げても何事かが起こっている気配はない。

およそ5分後にようやく下層階の住人が何人か廊下に出てくるのが見えた。そのうちの一人が12階の方へと階段を上がって行くのも見えた。マンションとマンションの隙間に、おそらく消火機能のない、小型の消防車らしきものが到着する。最初の警報が鳴り始めてからすでに15分経過していた。しばらく見守っていたが、どうやら火災報知器の誤作動だったようである。


災害発生直後、人は取らなくてもいいのに不可解な行動を取ることがある。他方、取ってしかるべき自然な行動を取らないことがある。たとえば、マンションで警報ベルが鳴っても、ほとんどの居住者は「何かの間違いだろう」と考え、誤作動だと決めつけて動こうとしない。これを〈正常性バイアス〉と専門家は呼ぶ。バイアスとは「誤謬を招く偏見や先入観」のことだ。無意識のうちに「これは異常ではないんだ。何かの間違いなのだ」と、正常の顔を立ててしまうのである。仮に何かが起こっていたとしても、管理人か別の誰かが処置するか消防署に通報するだろうと期待する。

突発的な災害時には、もう一つ、〈多数派同調バイアス〉という状況が生まれやすい。マンションの他の多数の住民が何もしていないことにならって、自分もじっとするのが安全だと都合よく判断してしまう。このバイアスに「誰かが何とかするだろう」という期待が重なる。もし、誰かが階下や階上で動き始めた気配を感じれば、今度はそれに同調して自分も動く。

もっと恐ろしい心理状態がこの後にやってくる。これは間違いなんだと自らに言い聞かせ、みんなに合わせようとした結果、無思考状態に陥り凍りついたように身動きできなくなるのだ。マンションの住民はそれぞれ独立した居住空間に住んでいる。にもかかわらず、マンションというくくりの集団に属している。ふだんは都合よく自分だけで生きているくせに、非常事態が発生すると個別心理を集団心理にシフトする。

以上のような心理状態は非常事態に固有のものではない。よく考えてみれば、平時でもよく似た気質や行動が見られるではないか。「みんなと同じであろうとすること」や「誰かに期待をかけること」は日常茶飯事的な性向なのである。標準意識、安全神話、甘えの構造が根を張っている。しかも、一難去って教訓残らずの憂いありだ。裏のマンションの連中、もう忘れているだろう。結果オーライで済ませてはいけないのである。

名画と自宅の壁に掛ける絵

蒐集家でないぼくたちが鑑賞する名画のほとんどは、美術展や図録内での作品である。レンブラントの、たとえば〈テュルプ博士の解剖学講義〉は日常からかけ離れた鑑賞の対象であり、美術館所蔵的な「遠い存在」と言ってもいい。

この名画を自宅の日常的な空間の壁に掛けるとする。その絵は食卓からも見える。来客の目にも入る。テレビを見るたびに、視野の隅っこに見えるかもしれない。昼夜を問わず、在宅しているかぎり、その絵は見える。さて、それでもなお、これまでの遠い存在として抱いていた憧憬が変わらずに持続するだろうか。今や身近な日常的存在としてそこにある絵は、芸術価値を湛えた名画としてあり続けるのだろうか。レンブラントの絵が気に入っていることと彼の名作の一点をリビングに飾ることは、決して同じことではない。

光と闇の魔術師レンブラントの絵画は、古色蒼然とした城の壁に似合うかもしれない。だが、ぼくの住む安マンションでは息が詰まりそうだ。もちろん、作品は不相応な場に飾られて大いなる役不足を嘆くに違いない。しかし、生意気だが、ぼくの方からもお断り申し上げる。どんな絵がよいのか……鑑賞するならどの絵で、飾るのならどの絵なのか……。議論してもしかたがない。月並みだが、好きな絵がよい絵なのである。ぼくはレンブラントの価値を云々しているのではない。資産価値を度外視するならば、自宅の壁にレンブラントを掛ける気分にはなれないと言っているにすぎない。


Antoni_Gaudi_1878

スペインはカタルーニャの人、アントニ・ガウディは地域性(または風土)と芸術性・合理性について明快な私見を有していた。彼は、自分の、そしてカタルーニャに代表される地中海の気質を誇らしく思い、ヨーロッパの他の地域との個性差について次のように語っている。

われわれ地中海人の力である想像の優越性は、感情と理性の釣り合いが取れているところにある。北方人種は強迫観念にとらわれ、感情を押し殺してしまうし、南方人種は色彩の過剰に眩惑され、合理性を怠り、怪物を作る。

ガウディは「本当の芸術は地中海沿岸でしか生まれなかった」と言い切った。この言を受けて、「しかし、北ヨーロッパにもレンブラントやファン・ダイクのような立派な画家がおりますが……」と知人が指摘すると、ガウディは「あなたの言っているのは、ブルジョアの食堂を飾るにふさわしい二流の装飾品にすぎない!」と激しく北方芸術をこきおろした(『ガウディ伝―「時代の意志」を読む』)。地中海主義に比べればレンブラントの絵は暗鬱だと言わんばかりである。

では、レンブラントと同じオランダ人のゴッホをどう説明するのか。ゴッホはフランスのアルル地方の影響を受けて明るいコントラストと力強い画風を確立したではないか。しかし、元を辿ってみると、実はゴッホ自身もオランダ時代には貧民の働く姿をグレー基調で暗く描く作家だった。そして、後年もオランダの暗さと光を称賛していたという。

ところで、ガウディが南方人種として批判しているのは誰なのか。同じスペインでも最南端のマラガ生まれのパブロ・ピカソは標的の一人なのか。晩年のピカソは色彩の過剰に眩惑されていた傾向があるが……。

エントロピー増大、または宴の後

〈エントロピー〉の物理的法則について全容を語る資格はないが、素人解釈でかいつむことにする。

宇宙は時間の経過とともにエントロピーを増大させる。そして、一方的に増大するばかりで、今よりも秩序だっていた過去には絶対に逆戻りしない。生命体も同じである。加齢にともなってエントロピーは増大する。不可逆的に秩序から混沌カオスへと向かい、やがて死滅する。

エントロピーは「大きい、小さい」で表現される。たとえば、部屋が整理整頓されている時に「エントロピーが小さい」と言い、散らかった状態になると「エントロピーが大きい」と言う。宇宙や生命と違って、たとえば部屋などはある程度元に戻せる。耐えきれないほどの混沌状態になれば、いらないものを捨て、いるものは元の場所に片付けて整理整頓することができる。さらに、部屋を使わなければある程度秩序も保てる。断捨離とはエントロピーを縮減することだ。しかし、いずれまたモノは増え、部屋は秩序を失う。人が生きていくという過程では――そして、何らかの生産活動をおこなうならば――やがて部屋は散らかってくるのである。

学習して知識を得る、外界と接して情報を取り込むのもエントロピーを増やす行為にほかならない。学べば学ぶほど脳は混沌の様相を呈する。それを苦しみと考えるならば、知識や情報の流入量を減らしてわかりやすい秩序に戻るしかない。エントロピーを増大させたくないのなら、何もしなければいいのだ。しかし、それは創造的生き方に逆行する。きわめて逆説的に響くだろうが、人が生きるということはエネルギーを消費することであり、多かれ少なかれ、環境に負荷をかけて散らかしていくことなのだ。脳内カオスは創造的営みに付きまとうのである。


宴が始まる前の宴会場には料理が整然と並び、空気が張りつめてシーンとしている。客が会場に集まり開宴の時点からエントロピーが徐々に増大し始める。飲み喰いに興じ、料理がみるみるうちに少なくなり、酒が尽き始め、客の定位置も乱れ、あちこちで雑音のように会話が飛び交う。

やがて宴もたけなわ、エントロピーはお開きの時間までさらに増大し続ける。客は知らん顔して宴会場を後にするが、店側は翌日に備えてエントロピーを小さな状態に戻し、次の宴席を開く。もし、自宅でへべれけになったら、翌朝エントロピーが増大したままの光景を目の当たりにするだろう。

Dopo il banchettoKatsushi Okano
After the banquet (宴の後)
2014
Pastel, ink, watercolors, felt pen

否定の話

「~がある」も「~がない」もとても明快である。前者が肯定で後者が否定の基本文型だ。「Pがある」の否定形は「Pがない」。疑う余地はない。「Pがある」の否定を「Qがある」と早合点してはいけない。否定という作業はお節介に代案を示すことではないからだ。「天候は晴れである」の否定は「天候は晴れではない」であって、「天候は雨である」ではない。

否定.jpg

順序で言えば、はじめに肯定ありきで、その次に否定が来る。「そろそろ休憩にするか」という肯定的な提案の後に、「いや、休憩はいらないだろう」という否定がありうる。このことから何が言えるか。否定はつねに肯定を前提とするが、肯定は否定を前提にする必要がないのである。肯定を吟味しないで唐突に否定が生じるのではない。肯定を保留し懐疑してはじめて否定が登場してくる。下記引用の視点を頭の片隅に置いておけばいい。
「言語をもち、世界の像を作り、そうして、可能性へと扉が開かれている人だけが、否定を捉えうるのである」(野矢茂樹『論理哲学論考を読む』)

ふだん人は肯定的にものを見る。いまぼくの視野は机の上のペットボトル、目薬、銀行員の名刺、小銭入れをとらえている。とても素直な見方であり、すべて「~がある」と肯定しうる事実である。「~がない」と言い得るためには、そのないものへの欠乏感が必要だ。コーヒーが飲みたくて、そしてここにコーヒーがあってもいいはずだと考える時に、「コーヒーがない」という否定形の文章を発したり思いついたりする。あるがままの現実を素直に見ているだけでは、否定などという発想は生まれない。「何かがある」と認識するよりも、「何かがない」と気づくためには「不在」への強い意識と目配りが欠かせないのである。

人や意見を褒め、受容し、承認するなどの肯定的行為がつねにいいことだと考えている人がいる。類は類を呼んで群れ、まるで同病相哀れむような関係では成長も進歩もないだろう。否定行為への風当たりは強いが、無思考的に左から右へと流すような〈肯定〉よりは、一度立ち止まる〈否定〉のほうが健全な発想なのではないか。
論理思考ないしは論理学においては、否定はかなり重要な役割を担う。念のために書いておくと、論理学では論理を通すためにきわめて初歩的な品詞を使う。「PはQである」という時の「~である」。それを打ち消す「~でない」。おなじみの「AかつB」の「かつ」と、「AまたはB」の「または」。あとは「すべての~」と「いくつかの~」である。これらの日常茶飯事よく使う語を単純な規則で組み合わせれば論理の一丁上がりというわけだ。
しかし、単純明快に使いこなすには慣れも必要である。とりわけ、否定に戸惑う人がいる。たとえば「AかつBである」(A and B)の否定は、「AでないかBでない」(not A or not B)である。「彼は京都と奈良に行った」の否定は、「彼は京都か奈良のいずれかに行かなかった」であって、「彼は京都にも奈良にも行かなかった」ではない。また、「AまたはBである」(A or B)の否定は、「Aでもなく、かつBでもない」(not A and not B)となる。「彼女は風邪薬か頭痛薬のいずれかを飲んだ」を否定すると、「彼女は風邪薬と頭痛薬のどちらも飲まなかった」になるのである。
ともあれ、前言の検証があり、その前言に異議ありと確信してはじめて否定が成り立つ。否定には一工夫がいるし、責任もともなう。単純にノーを発して知らんぷりできるような作業ではないのである。否定を批判と読み替えることができる場面がある。否定される者は批判する側が自分に関わってくる動機をよく読まねばならない。