結果論から学習すべきこと

有名タレントを起用してさんざんコマーシャルを流してきたけれど、今期にかぎって言えば、ほぼすべての有力家電メーカーは赤字計上することになる。テレビ画面の美しさを訴求してきたカリスマロック歌手もカリスマ美人女優も、コマーシャルメッセージがここまで色褪せるとは想像しなかっただろう。変調経済は因果関係を狂わせる。

「しこたま金をつぎ込んでバカらしい。タレントのコマーシャル効果について見直すべきだ。企業は大手広告代理店に踊らされている」という具合に、結果論を繰り出すのは簡単である。言うまでもなく、結果論とは原因を無視することだ。なぜそうなったのかを棚上げにして、いま目の前にある現実のみを議論する。因果関係の「因」を無視して「果」のみを、すごいだとかダメだとか論うのである。

結果論は楽な論法である。「結果論で言うのじゃないけれど、金本は敬遠すべきだったねぇ」とプロ野球解説者がのたまう――あれが結果論。人は結果論を語るとき、「結果論ではないけれど」と断る習性を見せる。


結果論から言えば、タレントに巨額のコストをかけてもムダだったということになる。くどいのを承知で繰り返すと、原因と結果の関係を無視して結果だけを見るならば、大物歌手も大物俳優も宣伝効果がなかったことになる。こうした結果論がまずいのならば、いったいどんなすぐれた別の方法がありうるのかをぜひ知りたいものである。結果論で裁かれるのもやむなしだ。

ぼくは大企業、中堅、中小企業のすべての規模の企業に対して、広告やマーケティングや販売促進の仕事をしてきた(話を簡単にするために、まとめて粗っぽく「広告」と呼ぶ)。景気の良い時も悪い時も、つねに感じていたことが一つある。それは、広告費は効果とは無関係に膨らむということだ。「消費者への情報伝達機能」としてすぐれた広告にするための知恵は投資に見合う。それ以外はすべてコストなのである。

知名度が導入時や一時的な客寄せパンダ効果につながることは認める。しかし、よくよく考えてみれば、知名度を利用する広告ほど知恵のいらないものはない。ほんとうの広告の知恵とは、無名タレントで有名タレント効果を生み出すことであり、極力コストを抑えて広告費を消費者に押し付けないことなのだ。有名タレントのギャラの十分の一、いや百分の一の費用で編み出せるアイデアはいくらでもある。

結果論による批判を真摯に受け止めようではないか。かつての「負けに不思議の負けなし」にすら疑問を投げ掛けねばならなくなった時代だ。そう「勝ちも負けも不思議だらけ」。人類の洞察力の危うさが問われている。結果論から学習すべきこと――それは、いつの時代も、知恵でできる可能性を一番に探ることなのである。 

辛さ控えめのプロフェッショナリズム

引き続きプロフェッショナルの話。昨日登場したオーナーシェフは他人に対して頑固であり、客の思いと無縁のところでこだわりが強かった。何のことはない、結局は自分自身に一番甘い仕事人だったわけである。

過激であることを控えた、ソフト路線のプロを望んでいるのではない。くどいようだが、理想を高いところに据えた頑固やこだわりは大いに結構なのである。しかし、その意識のどこかに消費者に向けられたホスピタリティやエンターテインメントの精神を湛えておかねばならない。プロはアマチュアに対してやさしくなければならない。そうであるために、己に一番厳しく、次いで周囲のプロに厳しく、さらに取引先のプロにも厳しくあらねばならない。

従来から、マーケティングでは市場での売買関係を「B to B」と「B to C」というとらえ方をする。“Business to Business”、つまり「プロがプロに売る関係」と、“Business to Consumer”、つまり「プロがアマチュア(=最終消費者)に売る関係」である。付け加えるならば、プロがらみの活動には”B & B”というのもあるとぼくは考えている。かつての漫才師と同じ名前だが、「プロが集まる集団(会社・業界団体)」のことだ。その集団そのものにおいて、プロが弱腰になりお互いに甘くもたれ合ってお付き合いをするようになってきた。


プロフェッショナルの技に対して同業のプロフェッショナルの物分りが良すぎる。「ちょっと甘いんじゃないか」と、最近つくづく思う。プロどうしがお互いの仕事を十分に吟味せず、安直に褒め合うのである。たとえばお笑いコンテストでは、審査員格のベテラン芸人は若手芸人を見る機会がほとんどない(売れ筋芸人は仕事に忙しくて他人の芸など見ていない)。だから初耳のネタに大笑いしている。素人はしょっちゅうお笑い番組を見ているので、耳が肥えている。そのネタは何度も聞いて飽きた。だからクスッとも笑わない。テレビでアマチュアが笑っているのは、ディレクターが手を回すからである。

プロがプロに甘すぎる。褒められたら、お中元お歳暮を贈るように褒め返す。お笑い業界だけではない。政治家がお互いを「先生」と呼んで持ち上げ、経営者どうしが相手に賛辞を送り、料理人は仲間がこしらえるB級グルメに舌を巻いている。もちろん彼らの間の慣習的な社交辞令を割り引かねばならないが、もたれ合い・傷のなめ合いという印象が強い。ありとあらゆる業界で「プロによるプロに対する甘い採点」が目立っている。

三十代の頃には義理で異業種交流会に顔を出したが、今では時間のムダだったと思っている。どこかの教科書から抜き書きしてきたようなありきたりの講演を聞き、立食パーティーで「今後ともよろしく」と名刺を交換して、何だかうまくいきそうな気になっている。これごときを人脈形成と勘違いして小躍りしている。異業種交流会は「異業種他流試合」でなければならない。プロの技と意識を鍛錬する真剣勝負の「異種格闘技」にせねばならないのだ。


どうやらそれぞれの業界で底辺からプロフェッショナル精神が薄らぎつつあるようだ。スタッフが長続きしない、厳しいとすぐにやめる、顔色を見て過剰に気遣いする……。会議で「薄利多売」という四字熟語が通じないから使わないようにする。そんな弱腰だから、社員のボキャブラリーは増えないしコミュニケーションも上達しない。設定ハードルも激辛ではなく辛さ控えめだから簡単にクリアできる。それでプロになった気になっている。

ぼく自身が携わっている社会人教育についても触れておこう。研修は「大半の講義内容を受講生が理解できる」という前提で成り立っている。指導者側は受講生の現レベルより低めに講義を設定する。したがって、「わかりやすかった、勉強になった」と満足するのは、講義が簡単かつすでに自分が知っていることを確認できたからに他ならない。

極力やさしく説明しているつもりだが、ぼくが取り上げる内容は自他共に認める「難解」を特徴としている。受講生への真のホスピタリティは「難しかった、骨太だった」という印象を与えることだと思っているからだ。今の自分より高いところや自分の守備範囲にないことへの希求が弱すぎるから、伸び悩むのである。それを解消するために、職場から離れて、義務教育でもない研修を受ける。だからこそ、その研修に高度な内容を盛り込み、プロフェッショナルとして貪欲な知的刺激を求めるきっかけにせねばならないと思う。社会人教育はB to Bなのだ。

多くの研修が講義内容を低レベルに設定しているのは、指導者側の勉強不足・能力不足に加えて、それを許してしまう学び手の「わかりやすさ」への願望ゆえである。今日の教育マーケティングが「学び手の成長を遅らせる」という悪しき戦略に手を染めているのは否めない。

プロ意識のメンテナンス

そのイタリアンレストランにはもう二年近く行っていない。一時期は週に一回ランチに通い、夜も何度か利用した。だが、突然行かなくなった。近寄らなくなった理由は複数あるが、突き詰めれば「オーナーシェフのプロ意識の欠如」ということになるだろう。

 数回足を運んだ時点で、彼が相当な頑固者であることはわかった。しかし、オーナーが頑固であること自体は店から遠ざかる決定的な原因にならない。彼以上に頑固で何事にも強烈なこだわりを持っているシェフならどこにでもいる。頑固やこだわりは自分自身や素材やレシピやスタイルに向けられているかぎり、何の問題もない。むしろプロフェッショナルとしては必須の性格と言ってよい。

相当親しくなったので、彼のためになればと思い時折アドバイスをするようになった。自分で言うのも変だが、決して常連顔をしようとしたのではなく、純粋に成功してほしいという思いからである。時にはマーケッターとして、時にはこの界隈で二十年間ランチを食べてきた者として、時には惜しまれながら廃業していった数多くの飲食店の目撃者として……。ぼくは何回かにわたって次のような質問をしたり指摘をしたりした。括弧内が彼の反応である。

この界隈にはイタリアンの店が他に5店舗あり、フレンチも加えると8店舗になる。知っているか? (二つは知ってますよ) どちらかの店で食事をしたか? (自分も仕事をしているから行けないですね) 二筋向こうのA店は日曜日も営業しているから、一度行ってみたら? (子育てで行けないし興味もないです) あなたの店は本場仕込みの手打ちパスタが売りだが、お客さんの好みはいろいろだから乾麺も使ったら? (いや、手打ち麺でいきますよ) 日本人は乾麺のアル・デンテ(固ゆで)好みが多いと思うけど……? (そういう人は他の店に行けばいいでしょ) この間、何々という料理を食べたけれど、一度試してみたら? (あれって、そんなにおいしくないけどなあ) 来月からイタリアに行くけれど、何か欲しいものや情報はない? (そんなにしょっちゅう飛行機に乗っていると、いつか墜ちますよ)


頑固とこだわりが顧客にとって棘にならなければそれでよし。しかし、この最後の対応は残念ながら棘になった。それまで諸々の気がかりを許容してきたのだが、すべてがマイナスに転じた瞬間であった。イタリアンなのに音楽が合っていない、アニメのフィギュアで店を飾っている、愛想がよくない、ワインの品揃えが少ない……味がいいという理由で、すべてOKにしてきたんだけどなあ。

それでもトータルすれば、客の反応はややプラスなのだろう。それが証拠に、店は存続している。おそらく一定の固定客があるに違いない。

ぼく自身は手打ち麺が好物である。たしかにイタリアの食文化の中心であるトスカーナ州(たとえばフィレンツェ)やエミリア・ロマーニャ州(たとえばボローニャ)では手打ちが主流だ。ボローニャ名物ミートソースが平たい麺にまつわりつくボロネーゼは絶品である。しかし、フィレンツェでもボローニャでも普通にアル・デンテのパスタも用意している。目の前の客の、この程度の要望に応えたからといって、プロのプライドに傷などつくものか。

プロ意識、大いに結構である。プロフェッショナリズムが不足しがちな現在、さすがプロという人たちに出会いたい。しかし、時に応じて客観的な光を自ら求める努力をしておかないと、知らず知らずのうちに共感性に乏しいプロ意識を培養してしまうことになる。一事が万事にならぬよう、プロ意識にも定期的なメンテナンスが必要である。

無知よりも危うい「小知」

正確な定義もせずに「少知しょうち」という造語を使っていた。文字通り「少しだけ知識がある状態」をそう呼んでいた。しかし、同じ読み方で「小知」という、わずかな才知やあさはかな知恵を意味することばがちゃんとあるので、ニュアンスはやや違うのだが、最近はこちらのほうを使うようにしている。この小知には「大知だいち」という、一見対義語らしきことばも存在する。但し、こちらは博識という意味ではなく、見通しや見晴らしのよい知見のことだ。

あるテーマについて対話をしてみようではないか。あるいは第三者として討論に耳を傾けてみてもいいだろう。大知と博識の人はおおむね議論に強いことがわかる。議論に強い人とは、自分の主張をきちんと唱えるのもさることながら、何よりも相手の主張を検証して反駁するのに秀でている。検証反駁とはフィルターをかけることであり、知識が豊富な人ほど各種フィルターを手持ちにすることができる。

一般的には知識がより多いほうが有利に議論を運べる。しかし、この法則は「無知vs小知」の議論にはそのまま当てはまらない。ぼくの経験上、小知は無知を相手にほとんど勝てないのだ。小知の中途半端な分別は、厚かましさと居直りの無知によって完膚なきまでに叩かれる。言うまでもなく、小知は大知や博識にも歯が立たない。つまり、小知は誰にも勝てない。まるでどこかの会社の中間管理職みたいだ。では、「小知vs小知」の闘いはどうなるのか? そんな見せ場もない議論はおもしろくないから誰も関心を示さない。ゆえに、決着がどのようにつくかは本人どうししかわからない。


無知よりは努力もし謙虚でもあるだろうに、なんとも気の毒な小知である。事は知識だけに限らない。少考は無思考より危ういし、わかった気になることはまったくわかっていないことよりも危うい。小知は新しい知を遠ざけ、少考は熟考につながらず、わかった気になることは成長の妨げになる。

「大知へと開かれた、発展途上のささやかな知」を小知と呼んでいるのではない。たとえ今のところ低いレベルにあっても、学習している知はそれなりの強さを発揮できるものだ。ここで問題視している小知は、成熟の様相を呈しながら停滞してしまっている小知のことである。これでは大知や博識に見破られるし、無知からは知ったかぶりを暴かれる。

ぼくの読書三昧構想に応じて、年末に「しっかりと本を読みます」とぼくに決意表明をして正月を迎えた小知の男性がいる。年明けに会って聞いてみた、「どう、本はよく読めた?」と。小知は答えた、「思ったほど読めなかったですが……」。じっくり聞いてみれば、「思ったほど」ではなく、まったく読んでいないことが判明した。決意表明した手前、見栄を張ったのだ。小知特有のさもしい心理である。

小知が無知にも大知にもかなわないのは、無知のように「知らないことを公言できる素直さ」もなく、大知のように「どこまで学んでも人間は無知かもしれないという悟り」もないからである。小知は無知からも大知からも同じ質問をされる――「では、そこんとこ詳しく聞かせてもらえますか?」 この問いに小知はことばを詰まらせる。

よく見る よく聞く よく言う

パリのパッサージュで買った置き物がある。相手特定しないままお土産にと持ち帰ったが、そのままになっている。置き物ではあるが、三段のケース箱に無造作に入っていて見える所にはない。「見ざる聞かざる言わざる」の、いわゆる三匹のサルを別のキャラクターで表現したセットである。

一昨日は「棚に上げる」話をしたが、この三匹は自分に都合の悪いものを棚には上げない。その代わりに意識的に見ない、聞かない、言わないことにする。それに、自分のまずいことだけではなく、他人の欠点なども見ないよう聞かないよう言わないように配慮する。総じて言えば、さしさわりのない無難な生き方を象徴しているのだが、このことが同時になかなかマネのできない叡智でもある。

三匹の猿は、こちらの虫の居所が悪かったりすると、所作が憎たらしく見えることがあるもの。しかし、ぼくが買ったキャラクターは愛らしくてお茶目だ(ぼくが「愛らしい」という形容詞を使うことはめったにない)。

三天使.JPG

それがこれ。キャラクターは天使である。髪型や体型はもちろん、脚の組み方や羽根もそれぞれに特徴があって愛嬌がある。

名づけて「見エンジェル、聞こエンジェル、言エンジェル」。三猿の場合は「言わ猿」も両手だが、こちらの天使は片手で口を押さえている。この写真のように配置するほうがバランスはいいだろう。

年末の週刊イタリア紀行でレオナルド・ダ・ヴィンチを書いてから10日間のうちにダ・ヴィンチがらみの本を数冊まとめて読んだ。昨今の時勢に「ドウナルノ・ダ・ピンチ」などとダジャレを言ってみたり、師匠ヴェロッキオと共作した『キリストの洗礼』の左端に描かれている天使の筆さばきに驚嘆したり(実物は8年前にウッフィツィ美術館で鑑賞した)。そんなこんなで買いっぱなしにしていた天使を思い出した(特別な思い入れがあるわけではないが、記念に買った天使のフィギュアは他にもいくつかある)。

さて、この写真のエンジェルたち、どう見たって、ユーモラスかつ意識的に見ない聞かない言わないように振舞っている。実は、これは「よく見えよく聞こえよく言える才能」による自己抑制なのだ。物事が見えず人の話が聞けず言いたいことがうまく言えない……ただでさえリテラシー能力に疑問符がつく者にとっては「見ざる聞かざる言わざる」は至難の業。

不運や厄を見たり聞いたりせず、また口にも出さない。そんなことをしていると、忍び寄る魔の手に気づかなくなる。「ピンチはチャンス!」と無理やり笑顔して叫んでも、方策がなければピンチはチャンスへと転じない。「ピンチはピンチ」と考えるほうが尻に火がつき行動も速くなる。お茶目な天使に反面教師をだぶらせて、「(嫌なことを)よく見てよく聞いてよく言ってみよう」と決意する。

自分を棚に上げる風潮

「棚に上げる」には二つの意味がある。「無視したり放っておいたりおろそかにする」のが一つ目。このニュアンスが転じて「不利なことや不都合なことに触れない」という二つ目の意味になる。好ましくないことを論じながら、その好ましくない対象に自分を含めない―これが「自分を棚に上げる」ことだ。

息子がのべつまくなし酒を飲む。それを見かねて「おい、酒の飲みすぎはいかんぞ!」と父親が注意を促す。「アル中のオヤジに言われたくねぇよ」と息子が反発する。さて、アル中の父親は自分のことを棚に上げて息子に注意をしてはいけないのか。あるいは、言行不一致なこの父親に息子はこんなふうに反論していいものか。

机上議論的に言えば、オヤジは自分のことを棚に上げて息子に説教してもよいのである。言論に理があるならば、その言論を唱えているオヤジがどんなに行動的にダメオヤジであっても言行不一致な生き方をしていても、言論は有効である。このオヤジが街頭で「通行人の皆さん、酒は控えめに! 過度の飲酒はアルコール中毒を引き起こしますぞ!」と一般論をぶち上げても矛盾にはならない。むしろ議論に個人の人格や性向や習慣を持ち込み「合せ技で一本」を取るような論駁のほうが反則である。

ところが、実社会の論争では、説教めいた主張に対しては「あんたにだけは言われたくない」「お前が先に直せ」と反論するのは当たり前。遅刻を戒める社長だが、その社長自身には遅刻厳禁ルールが適用されていない。まさに「己を棚に上げている」状況である。面と向かって社長批判は出ないだろうが、陰ではダメ社長をこきおろす。


一般論を語るとき、謙虚に自分をその中に含めることができる人は稀である。「われわれ日本人は」と言いながら、自分だけは別の扱いをしている。プラスの価値を論うときは自分も含めることもあるが、マイナスの価値の話になると自分を含まない。たとえば「日本人は危機管理が甘いよ……(オレを除いて)」という具合だ。この都合のよい己の扱いも相当に甘い。

「お正月、芸能人はこぞってハワイです。猫も杓子もです」と現地から中継している芸能レポーターも甘い。彼または彼女は自分も一種の芸能人であることを忘れてしまっている。「芸能人、猫も杓子も」から自身だけを要領よく除外している。このように、自分を棚に上げての話が昨今よく目立つ。自分だけ例外の評論だ。「どいつもこいつもアタマが悪い」と下品に嘆く知り合いは自分を棚に上げているが、ぼくは「おなたがその筆頭ですよ」と内心つぶやいている。

「自分は皆とは違う」という前提で誇り高く論じるためには、言動に支えられた確固たる自信の裏打ちが必要だ。いつもいつもこんな高邁な精神で生きることなど到底無理であるから、ぼくは時々自分を棚に上げてしまう。しかし、自分を棚に上げるという面倒なことをせずに、自分もその他大勢と同じだと認めてしまえばいいのだ。それでもなおかつ自他両方への批判は可能である。自分を棚に上げない潔さが議論の邪魔になるはずがない。 

大阪人の悪しき自画自賛

挑発的に書きたいと常々思っていたテーマである。大阪人の所作や弁舌に独特のおかしみがあることをひとまず認めておこう。テレビ番組『秘密のケンミンSHOW』でも毎回取り上げられるので、大阪人の生態は全国的にもよく知られつつある。聞くところによると、いよいよ大晦日(関東では元旦)には、みのもんた直々の大阪体感ツアーが放映されるらしい。

仕事柄日本各地に出掛けるが、テレビで見た大阪・大阪人の真偽を確かめられる。「大阪の人って、ほんとうにあんなふうなんですか?」と。「誇張はされているけれども、実体から遠からず」と答える。しかしだ、テレビ画面の向こう側にいる大阪人を「お茶目な対象」として遠巻きに大笑いはできても、実際に彼らと至近距離内で接した瞬間、あなたの顔から笑顔が消えるに違いない。


大阪部族
その昔、大阪はアキンド、ヤクザ、ヨシモトという三大土着部族で構成される多人種都市であると、まことしやかに語られていた。そんなバカなことはないが、他の少数部族に目立つ余地がなかったことは事実である。ちなみにぼくの両親は大阪生まれだが、祖父・祖母の代になると、広島、京都、京都、奈良である(ぼく自身はマイノリティと自覚している)。なお、メジャーな三大部族にしても純血種はほとんど存在していない。知り合いにはいずれか二部族のハーフか、三部族すべての混血が多い。さる東京の知識人は「大阪土着民は日本人ではなくアジア人」という説を唱えている。

愛郷精神
大阪部族は4月から10月にかけて虎に熱狂するが、この季節的愛郷精神など可愛いものである。何をおいても問題なのは、オバチャンやコナモンなのではなく、オバチャンをはじめB級名所・B級グルメを年がら年中必死に熱弁する「ステレオタイプな人々」なのである。彼らには大阪の正しい実像が見えておらず、「オモロイ」というコンセプトを唯一の頼りにして土着風土と衣食住を偏愛する。昨今、大阪府も大阪市も観光行政に力を入れつつある。このことは評価できるが、クールに大阪の長所・短所を見てもらわないと困る。グローバル視点からするとあまりにも滑稽なことを、あまりにも本気で考え、おぞましくも本気でやろうとしているのだ。

観光資源
お願いである。どなたか権威筋の方は正直に語ってほしい、「大阪には胸を張れるような観光資源はない」と。この謙虚で控え目なスタンスから独自の観光哲学が生まれる。江戸時代末期の風情ある浪速百景を根こそぎ壊しておいて、今さらセーヌ河やヴェネツィアを真似ようとするのは虫がよすぎる。「光を観る」のが観光ならば、どこにその光とやらがあるのか。キラキラコテコテのミナミ界隈のネオンか、はたまたメタリックな大阪城か(世界遺産の姫路城と比較すれば、たしかにオモロイかもしれない)。「大阪のオバチャンを観光資源にしよう」と提案する、とんでもない錯覚に陥っている知識人もいる。「見ず知らずだが、
咳き込んだ人にアメちゃんを配り、デパートや高級店で商品を値切り、豹柄を着て日傘を立てた自転車に乗るオバチャン」。そんなものが観光資源になるわけがない。海外からの観光客数一位と二位のフランスとスペインにそんなオバチャンがいたら、誰も寄りつかないだろう。

食い倒れ
B級グルメの食べすぎで倒れた?」と言われかねないから、くいだおれ太郎の引退を絶好の機会として、「食い倒れ」ということばを死語にしてしまおう。大阪発のグルメ番組をご覧になればいい。「焼肉→串カツ→たこ焼き・お好み焼き」をローテーションで放送している。「大阪の味は世界でも通用する」などとよくも平然と語れるものである。観光に来たから食べるのであって、どこの国の人もわざわざ自国でたこ焼きに食指を伸ばさない。断言するが、蛸料理は未来永劫世界のスタンダードにはならない。コナモン大阪と言うけれど、欧米はみんな粉ものではないか。パン、パスタ、ピザ、クッキー、パイ、ケーキ……。まったく差別化などできていない。敢えて言えば、大阪食文化はコナモンなのではなく、ソース味が特徴なのだろう。何を食べてもソース味。濃い味付けは食の文化度に「?」がつく。


大阪および大阪人に悪態をつくと、「そんなに気に入らんのやったら、出て行ったらええがな!」と誰かが言ってくる。そう、幼稚なワンパターン反駁である。

大阪を魅力ある街として再生したいのなら、観光客と住民双方の視点で見るべきなのだ。大阪という受け皿から見ているかぎり、いつまでたっても悪しき自画自賛を繰り返すばかり。オバチャン、大阪城、コナモンに罪はない。それらを偏愛し誇張することが、大阪の像を歪めていることに気づこう。ステレオタイプな大阪を浮き彫りにすればするほど、魅力ある街へのチャンスが遠ざかることを忘れてはならない。 

仮面の営業スタッフ

知り合いか自分のどちらかが、この男たちに対応されていたらと思うとぞっとする。「顧客の立場から考え振る舞う」などとキレイごとを教えても、無意識世界の人間の本性は変わらないし変えることができないかもしれない。そんな絶望感に襲われる。

日曜日の昼下がり、とある商店街で買物を済ませ帰路についていた。その商店街に何度か通った整形外科がある(美容整形ではない)。そこからわずか20メートル、交差点角の調剤薬局で薬をもらったのを思い出す。見れば、その薬局はない。そこは賃貸住宅の営業所になっていた。外からよく見えるガラス張りでスタッフが数名いる。交差点で信号待ちしていると、そこから男性スタッフが二人出てきた。ランチに出掛ける様子だ。

信号を渡る。彼らはぼくのすぐ右前を急ぎ足で歩く。二人のうち年上の三十代半ばのほうが、向こうから歩いてきた若い男に声を掛けた。「さっきの親子、どうやった?」 若い男は照れるように首を横に振り、左右の手でバツのジェスチャーをした。「何しとんねん、つかまんかい!」と年上の男。ぼくの前をさらに急ぎ、男二人は商店街から脇道にそれ大衆食堂に入った。不況忍び寄る不動産業界よ、「何言うとんねん、誠意見せんかい!」


 壁に耳あり障子に目あり。耳と目は壁や障子の向こう側だけにあるとはかぎらない。顧客の耳と目はそこらじゅうにある。耳と目はぼうっとしていることも多いが、ここぞというときには聞き耳を立て目を凝らす。そのことに気づいていない売り手はやがて二枚舌を暴かれ、表と裏、ホンネとタテマエ、天使と悪魔のいずれであるかを見破られる。

通りの角をお客が曲がって消えるまで見送り続ける料亭の女将。見送り届けた直後のことば遣いを聞き、表情を見てみたい。そこに落差ありやなしや。あるとすればどんな落差か。上客におべっかを使ったと思えば、帰った客の金遣いの悪さにチェッと舌打ち。従業員の不手際を怒鳴り散らした直後に、ささやくような声で平身低頭で詫びを入れる。

電話中と電話を切った直後の態度とことばの落差。得意先訪問中と社屋を後にした直後の態度とことばの落差。講演直後には褒めちぎられたものの、パスした懇親会でボロクソの欠席裁判。時々そんな悪夢を見る。だいたいにおいて、異様なほど過分に褒められているなと感じたときは、褒めた連中が陰に回ってから悪口を楽しむだろうと推察していい。


ある駅に降り立った。徒歩10分ほどの位置にあるホテルがよくわからない。駅前にある賃貸オフィスは、接客中でないにもかかわらず、場所を尋ねるぼくに「知らない」と軽くあしらった。その土地の顧客になりえない出張族への接し方一つで人と店の質がわかる。真剣にこちらが対峙すれば、粉飾された束の間の誠意を見破るのはさほど難しくない。ふだんの習性は、たとえ必死にカモフラージュしても、ことば遣いと立ち居振る舞いに滲み出るものだ。

舞台の上と楽屋での言動を完全一致させることはないし、そんなことは無理な話だろう。しかし、感謝や誠意や親切などは「時と場合に応じて」というものではない。「精神的お辞儀の角度」は表でも裏でも同じだからこそ尊いのだ。営業スタッフよ、むくれた顔になりたくなければ、即刻仮面を外したまえ。

「よく言うよ、あんただって他人批判をよくしているじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。たしかにぼくも本人のいないところで毒舌を吐く。しかし、本人がいるところでも同じように毒舌を吐く。相手が無理難題を突きつけてきたとする。泣く泣く持ち帰って陰で悪態をつかない。その場ではっきりと自論を述べる。若い頃は他人の仮面を剥がそうとしてできず、よく失望した。ここ数年は自分自身の仮面と闘っている。仮面は他人に向けられた詐術だが、欺かれる第一の犠牲者は自分自身である。

土曜午後の書店、アマノジャク

今日は土曜日。ゆっくり本を読もうと思っていた。買いだめしている本から読めばいいのに、気になる本が一冊あったのでぶらぶらと本屋まで歩いた。徒歩10分のところに有名な大手の書店がある。気になる本と他に3冊買ってしまった。用が済めばさっさと帰るのが流儀だが、今日はめずらしく小一時間立ち読みに耽った。本の論点らしき箇所を探して検証したりアマノジャクに反駁したり……。


ある本には「正論ばかり唱えていると人が離れていく」と書いてあった。

心当たりはある。民心というものは、そうであって欲しくはないと願えば願うほど、明らかに怪しげな方向に流れていく。しかしだ、そもそも何が正論で何が邪論かはよくわからない。ぼく自身、「それ、正論ですよ」と言ってもらうこともあれば、「変わってる」とも言われる。自分なりには、ややアマノジャクながらも本質を衝いているのではないかと思っている。いや、ぼくだけではなく、誰もが多かれ少なかれ自分の意見は正論に近いと自覚しているに違いない。

まあいい。ぼくが自他ともに認める「正論吐き」だとしよう。そうすると、知人も友人も塾生もどんどん離れていくということになる。なるほど、少し当っているような気がする。ここ数年、人脈ネットワークが小さくなっているし、人付き合いもめっきり減ったし、ゆっくり会って飲食して対話を楽しみたい「この人!」も少なくなってきているかもしれない。この分だと、最後の晩餐は一人でメシを食う破目になりそうだ。

だから、それがどうしたというのだ。人が離れていってもいいではないか。小手先の術を使わず、正論漬けで結構だ。モテない男がホンネを捨ててでもモテる作戦を立てるのには賛成するが、この齢で、今さら邪論を唱えて人離れを防ぐ気にはなれない。


別の本は「情報を一元化してまとめる」をテーマにしたベストセラーだ。たしか情報編が先に出て、第二弾は読書編だと思う。

ぼくは情報一元化を自ら実践してきたし、一冊のノートに見聞きした情報やひらめいたアイデアをメモするように勧めている。面倒臭いけれど、読書をして印をつけた用語や傍線部分や欄外コメントも、後日抜書きするのがいい。この本には基本的には賛成だ。

しかし、「情報を一冊にまとめる」の「まとめる」が少し気に入らない。「まとめるテクニック」は著作業や企画業などアウトプットを仕事にしている人には役立つ。たとえば、ぼくの場合。お粗末ながら著作経験があり自前の研修テキストを年間何十と執筆編集する。企画・執筆・講演をつねに意識しているので、活用のためのまとめは重要な作業だ。そういう仕事と無縁であるなら、ノート上のまとめや分類や活用のためのインデックスなどに凝ったりこだわったりすることはない。

情報はテーマページでノートにメモすればいい。読書の抜書きも同じノートでかまわない。インプットする情報がすべてそこに書いてあるということに価値がある。そして、週に一回ほど、そのノートをめくって記憶を新たにし、何か気づいたことがあれば書き加えればよい。まとめることを意識などせず、まずはノートに書く習慣になじむことだ。これまで何もしてこなかった人なら、その習慣だけで思考とコミュニケーションスキルは見違えるようになる。

誤解なきよう。ぼくのように「情報一元化の習慣」を単刀直入に勧めて「ハイ、おしまい」では一冊の本は出来上がらないのだ。文庫であれ新書であれ、おおむね200ページの体裁が本の最低条件。だから、幹以外に枝葉が必要になってくる。裏返せば、自分の仕事や状況や現在のスキルに応じて枝葉を適度に剪定せんていするように拾い読みする――こんな読書の方法にも理があることがわかる。    

「ケースバイケース」はずるい

国語辞典を引いていて、調べている語句と違う箇所にふと視線が落ちて無関係な情報を拾ってしまうことがある。昨夜は、【来る】ということばに目が行ってしまい、「このコロンボときたら(=という人は)、本当に警部かどうかさえ疑いたくなる人相・風体だ」という例文に出くわした。探してきたのか作ったのかはわからないが、なかなか愉快な文例ではある。

愉快ではあるが、初対面時に限定された用法だ。刑事コロンボをよく知るぼくとしては、あの人相・風体ゆえに魅力を感じるわけである。数々の難事件を最終的には必ず解決するのだから、警部かどうかを疑うなんてとんでもない。

「この〇〇ときたら、本当に政治家かどうかさえ疑いたくなる人相・風体だ」とするほうが、思わず膝を打ちたくなるほどぴったりくるではないか。「〇〇」に実名を入れたい政治家は五万といるが、大事なのは人相・風体よりも能力だ。

政治や政治家の話は公言しない主義だが、昔の話なら少しはいいだろう。

「大臣、もし~のような事態になれば、どんな対策を立てられますか?」と記者が尋ねた。紳士的でまっとうな質問である。これに対して、時の大蔵大臣はこう応じたのである――「仮の話には答えられない」。平然と言いのけたその姿の向こうに、この大臣の、ひいてはその他大勢の政治家たちの想像力の限界をしかと見届けた。

「この問題をどう解決するのか!?」という詰問は直截的で厳しい。しかし、上の例では、大臣が気を遣わずに答えられるよう、わざわざ「もし~ならば」と仮定で記者は質問したのだ。考えを発展させるとき、「仮にこうだとしたら」という前提を積み重ねていく。未来のことを推論するのだから、何かを前提として結論を下すのは当たり前である。


「仮の話には答えられない」という応答がいかにひどいか。「もし大雨になれば、どうされますか?」に対して、「雨が降っていないので答えられない」、「雨が降ってから考える」と対応するのに等しい。これは間抜けである。「大雨」を「大地震」に置き換えても、間抜けの論理が変わらないから、「君、そんな質問は大地震が起こってからしたまえ!」と苛立つのに違いない。危機管理能力が低いと評する前に、絶望的なまでの想像力の無さこそを嘆くべきだ。

先送り、慎重に検討、状況を踏まえて判断、よく精査など「潔くない逃げ口上」がはびこる。批判側も論争不器用につき、このような言い逃れを封じることができない。ぼくはこうした逃げ口上の大親分が「ケースバイケース」だと睨んでいる。

個々の場合や事例に応じて考えたり、そのつど柔軟に振る舞うようなニュアンスがあるため、「ケースバイケースで行こう」に目くじらを立てる人は少ない。しかし、これほど性悪しょうわるなことばはない。どのケースかを特定しない点では「仮の話に答えられない」に通じる。ケースが明白になってから考えようというのは「先送り、棚上げ」そのものである。

自分自身の経験を振り返ってみればよい。ケースバイケースで済まして、うまくいったためしがどれだけあっただろうか。このケースならこうして、あのケースならああしてと緻密なシミュレーションなどしていないのだ。いざケースに直面しても対策の施しようがない。実際に問題が発生したとき、「大臣、ケースバイケースで行こうとおっしゃったでしょ? どうするんですか?」と聞いてみればいい。きっと大臣はこう答える――「よし対策を練ろう。ケースバイケースで」。そう、ケースバイケースバイケースバイケース……ケースを携えた旅は延々と続く。 


辞書を引いていて偶然コロンボに出くわし、それが政治家のアタマと語彙へと移ろった。知らず知らずのうちに、ぼくの意識の中で昨今の政治文脈が張り巡らされつつあるのだろう。