ビジュアルインパクト

本を読んでいてすっとアタマに入る文章はビジュアル的だと言える。イメージを促してくれるという理由だけで必ずしもいい文章とは言い切れないが、疲れているときの読書ではありがたい。これに対して、難解な文章はイメージと連動しにくいから、概念を自分で組み立てなければならない。組み立て間違いをするとイメージが完成しないので、さっぱりわからなくなってしまう。だから逆説的に言えば、時々難解な本を読んで頭脳鍛錬する必要があるのだ。

自分で書いたノートにも同じことが言える。なんでこんなにこね回して書いていたのだろうと怪訝に思う箇所に再会する。理解するのに時間がかかる。めげずに「自分が書いた文章じゃないか」と思い直して読んでみても、いっこうに意味が鮮明になってこない。それもそのはず、十年も前の自分はもはや今の自分ではなく、ほぼ他人と呼ぶべき存在なのだから。

そんな昔のノートを読んでいて、気づくことがある。文章で「夕焼けが美しい」と書いてもイメージが湧くとはかぎらない。「青い空に青い海」などと当たり前のように言われても、脳は絵を描いてくれないものである。むしろ、「ご飯に梅干し」と言ってもらうほうが、即座にイメージが浮かんでくる。実物のビジュアルインパクトが強くても、文章化すると平凡になることもあるのだ。どうやら文章のビジュアルインパクトの強弱は話題と強く関わるらしい。


文章で読んだ話にもかかわらず、画像や動画として編集されリアルに再生される。実に不思議である。

そこで懐かしい話題。ぼくのアタマに刷り込まれていて、いつでも物語を再現できる、偽札づくりの話だ。結果的にその達人は逮捕されたのだが、尋常でない手先の器用さに驚嘆した。達人は一万円札を半分に切る。左右半分、上下半分などにカットするのではない。表と裏に切るのである。つまり、0.1ミリほどの厚さの一万円札から「福沢諭吉の表面のみを剥がす」のである。表を剥がせば、一万円札は表と裏に分かれる。

新聞記事でこのくだりを読んでいるとき、ぼくのアタマではカッターナイフ片手に一万円札を剥がそうとしている自分がいた。一緒に万札偽造をしていたのである。次いで達人は、あらかじめ裏面だけをカラーコピーした薄い紙に本物から剥がした表面を貼る。表面をコピーした薄紙には本物の裏面を貼り合わせる。こうして一万円札が二枚に化ける。

あれだけ薄いお札の「表皮」を剥がし、コピーした薄い「台紙」に貼り合わせることができるだろうか。これは芸術的器用さというような次元の話ではなく、超能力的な匠の技を要する。ぼくは想像を馳せながら、この仕事はおそらく日本で一番労力と根気を要する一万円の儲け方だと思った。金箔工芸の分野なら即戦力になるではないか。勝手にぼくのアタマで短編映画になって何度も上映されるほど、この話題はビジュアルインパクトが強い。そして、想像するたびに、適所と適材を間違ってはいけないと痛感するのである。

観察は個性を投影する

企画力と言うと、情報収集や編集や構成ばかりがクローズアップされる。ところが、こうした技術に先立つものがある。カントが経験的認識の前に〈ア・プリオリな概念〉として時間と空間を置いたように、企画者は企画に先立って時間的空間的な日常に目配りする必要がある。考えることに先立つこと、考えることよりもたいせつなことは、習慣形成された観察なのである。

しかし、観察――とりわけ視覚に強く依存した観察――に見誤りはつきものである。そうでなければ、たとえばエッシャーのだまし絵などは成立しなくなるだろう。ぼくたちはよく見ているようで実は見ていない。「百聞は一見にしかず」と言うけれど、一見そのものが危ういのである。見慣れた対象を流していることが多いし、あまり強く意識することもない。だから、普段の気づきは鋭敏ではなく、かなりいい加減なものになっている。「この目で見た」という確信ほど危ういものはないのである。

それでも、環境適応しなければならない宿命を背負っているかぎり、感覚を研ぎ澄まして観察するしかない。周辺の物事に目を凝らすこと、なじみのある街中の光景に目を配ること、ありふれた人の動きを注視することが観察行動であり、こうした行動を抜きにして何かに着眼することなどできるはずもない。ぼくの知るかぎり、よき観察者でない者がよき企画者になったためしはない。こういう話をすると、素直な人は観察することの意義を理解してくれる。だが、観察の話はこれでおしまいというほど浅くはない。


「ようし、観察するぞ」とりきむ企画の初学者は、ありのままの現実を正しくとらえるのが観察だと思ってしまうのである。観察は現実の細密な写実画であるのだと勘違いする。よくよく考えてみれば、写実画にしてもありのままの現実の投影であるはずもない。現実と観察にはつねに誤差が存在する。そして、この誤差は決して排除すべきものではなく、存在して当然なのである。

それゆえに、現実と観察の誤差を恐れる必要などさらさらない。繰り返すが、実像とイメージで再現された像の間には誤差やズレがある。誰が観察しても同じなら、その仕事を誰かに一任すればいい。しかし、そんな観察など何の値打ちもないだろう。個性は観察に介入し、観察時点で観察対象と自分は一つになろうとしているのだ。

写実的観察という、ありもしない仕事にこだわるのをやめよう。観察結果は印象的でも抽象的でもいい。勇気をもって主体的かつ個性的に観察すればいい。独自の解釈や表現なくして、そもそも観察行為などありえないのである。よく「客観的な観察」と言われるが、異口同音に「そうだ!」という観察などは数値の中にしかない。それでもなお、その数値がありのままの現実の一部始終を示している保証はない。数値でさえ、対象を好都合に切り取っていることが多いからである。

粉飾するイメージ、言い訳する言語

JRのチケットをネットで買うが、あれを通販とは呼ばないだろう。予約の時点でカード決済するものの、手元には届けてもらえない。出張時に駅で受け取るだけである。注文したものが宅配されるという意味での通販は、最近ほとんど利用していない。ただ一つ、お米だけホームページ経由で買っている。そんなぼくが、デパートに置いてあったチラシを見て、衝動的にオンラインショッピングしてしまった。お買い得そうなワインセレクションである。カード決済はすでに終わっているが、手元に届くのは一カ月以上先だ。

会員登録したついでにメルマガ購読欄にチェックを入れた。それから10日も経たないのに、あれやこれやとメルマガが送られてくる。数えてみたら9通である。読みもせずにさっさと「削除済みアイテム」に落としていったが、件名に釣られて「珍味・小魚詰合せセット」のメルマガを開いてみた。重々わかっていることだが、見出しが注意喚起の必須要件であることを「やっぱり」という思いで確認した次第である。

さて、そのメルマガ情報だ。一つずつ順番に珍味と小魚の写真と文章を追った。そして、カタログなどでよくあることだが、あらためてそのよくあることが奇異に思えてきたのである。北海道産鮭とば、北海道産函館黄金さきいか、国内産ちりめんじゃこ、ししゃも味醂干し、国内産うるめ丸干しの五品が写真で紹介され、それぞれの写真の下に注釈がある。商品個々の特徴はレイアウトの真ん中から下半分のスペースにまとめて書かれている。


個々の写真の下の注釈を見てみよう。鮭とば――「画像は200gです」、さきいか――「画像は250gです」、じゃこ――「画像はイメージです」、ししゃも――「画像はイメージです」、うるめ――「画像は150gです」。いずれも画像に関しての注意書きになっている。「実際は異なりますよ」が暗示されている。

では、実際はどうなのか。鮭とば――200gではなく100g、さきいか――250gではなく125g、じゃことししゃも――実物がイメージとどう違うのか不明、うるめ――150gではなく100g。要するに、写真は実物をカモフラージュしているのである。実際の売り物とは違う写真を見せ、しかも「これらの写真は虚偽です」と種明かしをしている。あまりいい比喩ではないが、超能力者が空中浮遊してみせ、自ら「これはインチキです」と言っているようなものだ。

パソコンやスマートフォンの画面でも「画面ははめ込み」という注がついていることがある。上記の「画像はイメージです」も不可思議で、イメージには日本語で画像という意味もあるから、「画像は画像です」または「イメージはイメージです」と言っているにすぎない。ここで言うイメージとは何なのか。「実物ではないが、実物らしきもの。実物を想像してもらうためのヒントないしは手掛かり」という意味なのだろう。では、なぜ実物通りの写真を見せないのか。これが一つ目の疑問。次に、実物とは異なる写真を掲げておいて、なぜ実物の説明をするのか、つまり、なぜ相容れない要素を同一紙面で見せるのか。これが二つ目の疑問。

一つ目の疑問への答えはこうだ。実物が貧相なのである。だから実物よりもよく見える写真や実物の倍程度増量した写真を見せるのだ。これはイメージの粉飾にほかならない。二つ目の疑問への答え。格好よく見せることはできたが、注釈不在ではクレームをつけられる。だから「本当は違います」と申し添える。次いで、「本当はこうなんです」と実際の量を明かす。嘘をついた瞬間「すみません、ウソでした。本当は……」と告白しているだらしない人間に似て滑稽である。

写真もことばも嘘をつくが、広告においてはイメージの上げ底を文章が釈明することが多い。信頼性に関しては、文章に頼らざるをえないのだ。もっとも、こんなことを指摘し始めると大半の広告は成り立たなくなってしまうのだろう。だが、自動車の広告で写真を見せておきながら、「画像はイメージです」とか「画像はタイヤが四輪です」などはありえない。実物が超小型車でタイヤが二輪だったら、それは自転車であってもよいことになる。珍味・小魚だからと言って大目に見るわけにはいかない。ぼくには、「画像はイメージです」と言われっ放しの「ちりめんじゃこ」と「ししゃも味醂干し」の実物がまったく想像できないのである。だから、そんなものを注文したりはしない。

脳と刷り込み

口も達者でアタマの回転もそこそこいい「彼」が、その日、人前で「あのう」や「ええと」を連発していた。宴席に場を変えて軽いよもやま話をしていても、なかなか固有名詞が出てこない。だいたい男性の物忘れは、「名前を忘れる→顔を忘れる→小用の後にファスナーを上げ忘れる→小用の前にファスナーを下ろし忘れる」という順で深刻度を増す。だから、名前を忘れるのは顔を忘れるよりも症状が軽い。それに、人の名前を忘れるくらい誰にだってある。

しかし、彼の場合、短時間に複数回症状が見られた。言及しようとしている人物の名前がことごとく出てこないのである。「ちょっと気をつけたほうがいいよ」とぼくはいろいろと助言した。最近、このようなケースは決して稀ではなくなった。ぼくより一回りも二十ほども年下の、働き盛りの若い連中に目立ってきているのである。幸い、ぼくは年齢以上に物覚えがいいし物忘れもしない。ただ、脳を酷使する傾向があるので、「来るとき」は一気に来るのかもしれない。

別の男性が若年性認知症ではないかと気になったので、名の知れた専門家がいる病院に診断予約を取ろうとした。ところが、「一年待ち」と告げられたらしい。一年も待っていたら、それこそ脳のヤキが回ってしまう。科学的根拠はないが、ことばからイメージ、イメージからことばを連想するトレーニングが脳の劣化を食い止めるとぼくは考えているので、そのようなアドバイスをした。簡単に言うと、ことばとイメージがつながるような覚え方・使い方である。但し、ことばとイメージのつながり方は柔軟的でなければならない。


習慣や知識を短時間に集中的に覚えこんでしまえば、その後も長い年月にわたって忘れない。動物に顕著な〈刷り込みインプリンティング〉がこれだ。偶然親鳥と別れることになったアヒルやカモなどのヒナが、世話をしてくれる人間を親と見なして習慣形成していく。人の場合もよく似ているが、刷り込みは若い時期だけに限って起こるわけでもない。たとえば、中年になってからでも外国語にどっぷりと集中的に一、二年間浸ると、基礎語彙や基本構文は終生身についてくれる(もちろん、個人差も相当あるが……)。

刷り込みはとてもありがたい学習現象である。このお陰で、ある程度習慣的な事柄をそのつど慎重に取り扱わなくても、自動的かつ反射的にこなしていくことができている。要するに、いちいち立ち止まって考えなくても、刷り込まれた情報が勝手に何とかしてくれるのだ。だが、これは功罪の「功」のほうであって、刷り込みは融通のきかない、例の四字熟語と同じ罪をもたらす。そう、〈固定観念〉である。刷り込まれたものがその後の社会適応で不都合になってくる。

あることの強い刷り込みは、別のことの空白化だということを忘れてはいけない。博学的に器用に学習できない普通人の場合、ある時期に世界史ばかり勉強すれば日本史の空白化が起こっている。昨日瞑想三昧したら今日は言語の空白化が生じる。ツボにはまれば流暢に話せる人が、別のテーマになると口をつぐむか、「あのう」と「ええと」を連発するのがこれである。どう対処すればいいか。自己否定とまでは言わないが、定期的に適度な自己批判と自己変革をおこなうしかない。

「五十歳にもなって、そんなこと今さら……」と言う人がいる。その通り。固定観念は加齢とともに強くなる。だから、ことば遣いが怪しくなり発想が滞ってきたと自覚したら、一日でも早く自己検証を始めるべきである。

イメージとことば

禅宗に〈不立文字ふりゅうもんじ〉ということばがある。二項対立の世界から飛び出せという教えだ。無分別や不二ふじは体験しなければわからない。不二とは一見別々の二つのように見えるものが、実は一体であったり互いにつながっていたりすること。分別だらけの日々に悪戦苦闘していては、人は救われない。無分別、不二へと踏み込むことによって、人は悟りへと到る――こんなイメージである(いま、ことばで綴った内容を「イメージ」と呼んだ。この点を覚えておいていただきたい)。

ところが、悟ってしまった人間が言語分別ともサヨナラしたら、もはや現実の世界を生きていくことはできない。なぜなら、現実世界では二項が厳然と対立しており、ああでもないこうでもないと言語的分別によって意思決定しなければならないからだ。何もかも悟ってみたい(そのために学びもしている)、しかし、それでは実社会とかけ離れてしまう。このあたりのジレンマを鈴木大拙師は次のようになだめてくれる。

「人間としては、飛び出しても、また舞い戻らぬと話が出来ぬので、言葉の世界に還る。還るには還るが、一遍飛び出した経験があれば、言語文字の会し方が以前とは違う。すべて禅録は、このように読むべきである。」

ぼくたちにとって、悟りの修行に打ち込むような機会はめったにない。と言うことは、言語と分別に浸る日々のうちに脱言語・無分別の時間を作り出すしかない。はたしてそんなことができるのだろうか。


冷静に考えれば、イメージとことばを二項対立と見なすこと自体が勘違いなのだ。広告業界にしばらく身を置いていたが、「コピーとデザイン」を分別する場面が目立った。文字とビジュアルが別物だと錯誤しているクリエーターが大勢いたのである。「今は言語だ、次はイメージだ」などと作業の工程と時間を割り振りすることなどできるはずがない。このように言語をイメージから切り離してしまえば、さすがに過度の言語分別に陥る。戒められてもしかたがない。

「右脳がイメージをつかさどり左脳が言語をつかさどる」などという脳生理の知識も、イメージとことばを対立させたように思う。脳科学的にはそんな役割があるのだろうが、イメージ一つも浮かべないで文章を書くことなどできないし、ことばが伴わない絵画鑑賞もありえない。ことばは脳内で響き、イメージは脳内に浮かぶ。右脳の仕業か左脳の仕業か、そんなこといちいち調べたことはない。ただ、ことばもイメージも同時に動いていることは確かである。

人は言語なくして絵を描くだろうか。ことばが生まれる前に人類は絵を描いただろうか。「テレビを見てたら、チンパンジーが絵を描いていたよ。ことばがなくても描けるんじゃないか」と誰かが言っていたが、チンパンジーは絵など描いていない。与えられた筆と絵の具で、人の真似よろしく戯れているだけだ。絵を描くのは非言語的行為などではない。大いに言語作用が働かねば、対象も題材も何も見えず、鉛筆で一本の線すらも引けない。

ラスコーの洞窟壁画は24万年の間で諸説あるが、クロマニョン人は当然ことばを使っていた。言語的に処理されていない絵やイメージなどがあるとは到底思えないのである。もっとも、イメージから独立した話す・書くもありえないだろうし、聴く・読むとなるとイメージとことばが協働していることがありありと実感できる。イメージはことばに変換されるし、ことばもイメージに塗り替えられる。そもそも言語とイメージはコインの裏表、不可分の関係にあるのだ。これが冒頭段落の最終文の意味。極論すれば、ことばはイメージであり、イメージはことばなのである。

豊かなアイデアコンテンツ

見聞きし思い浮かべることを習慣的に綴ってきて約30年。ノートをつけるという行為はある種の戦いだ。だが、無理強いされるようなきつい戦いはせいぜい一年で終わる。習慣が形成されてからは次第に具体的な戦果が挙がってくるから、戦う愉しみも徐々に膨らむ。

これまで紛失したノートは数知れないが、ここ十数年分は連続したものが残っている。誰しも休みなく戦い続けることはできないように、ぼくのノート行動にも断続的な「休戦期間」があった。それでも、しばらく緩めた後には闘志がふつふつと湧いてくる。そして、「再戦」にあたって新たな意気込みを書くことになる。次の文章は16年前に実際にしたためた決意である。

再び四囲にまなざしを向けよう
発想は小さなヒントで磨かれる
気がつくかつかないか それも縁
気づいたのならその縁を
しばし己の中で温めよう

決意にしては軽やかだが、ともすれば情報を貪ろうとして焦る自分を戒めている。縁以上のものを求めるなという言い聞かせであり、気づくことは能力の一種であるという諦観でもある。この頃から企画研修に本腰を入れるようになった。人々はアイデアの枯渇に喘いでいる。いや、アイデアを光り輝くものばかりと勘違いをしている。ぼくは曲がりなりにもアイデアと企画を生業としてきた。実務と教育の両面で役に立つことができるはずだと意を強くした。


アイデア勝負の世界は厳しい世界である。だが、何事であれ新しい発想を喜びとする者にとっては、アイデアで食っていける世界には天井知らずの可能性が詰まっている。そして、人は好奇心に満ちた生き物であるから、誰もが新しい発想に向かうものだと、ぼくは楽観的に考えている。

アイデアは外部のどこかから突然やって来て、玄関でピンポーンと鳴らしはしない。ドアや窓を開け放っていても、アイデアは入って来ない。アイデアが生まれる場所は自己の内以外のどこでもない。たとえ外的な刺激によって触発されるにしても、アイデアの誕生は脳内である。ほとんどの場合、アイデアは写真や動画のようなイメージあるいは感覚質クオリアとして浮かび上がる。こうした像や感じはモノづくりにはそのまま活用できることが多い。

ところが、アイデアの最終形がモノではなく計画や企画書の場合、イメージをそのまま書きとめるわけにはいかない。ことばへのデジタル変換が不可欠なのである。いや、イメージの根源においてもことばがある。ことば側からイメージに働きかけていると言ってもよい。したがって、アイデアが出ない、アイデアに乏しいと嘆いている人は、ことばを「遊ぶ」のがいい。一つのことばをじっくりと考え、たとえば語源を調べたり他のことばとのコロケーションをチェックしたりしてみるのだ。

言い換えパラフレーズもアイデアの引き金になる。よく似たことばで表現し、ことばを飛び石よろしく連想的にジャンプする。こういう繰り返しによって、文脈の中でのことば、すなわち生活世界の中での位置取りが別の姿に見えてくる。適当に流していたことばの差異と類似。ことばが繰り広げる一大ネットワークは、イメージのアイデアコンテンツに欠かせない基盤なのである。