知遊の精神で粘る

知遊亭粋眼 扇子.jpg自慢するわけではないが、当年ぼくは「還暦プラス1」である。羨ましがるには及ばない。元気でさえいれば誰にでも平等にその日がやってくる。

後を追ってくる年下の皆さんに先輩面しておこう。頭と遊び心を腐らしてしまうと、つらい人生が待ち受ける。やれ疲れた、あちこちが痛いなどというのは日常茶飯事だが、それでも、頭が働いているという実感さえあれば何とか切り抜けられるものだ。さらに、人生まんざらでもないと思うためには、愉快がることが不可欠である。世の中、おもしろいことは尽きないのだから。笑いはエコなエネルギーである。
 
おもしろさには二つある。共感的に愉快を楽しむのが一つ。もう一つは、バカバカしく呆れ果て、チクリと批評のトゲを刺す楽しみ。後者は薬と毒の境界にあってたやすくはないが、これも齢を重ねることによって修行ができてくる。キザに言えば、クールな遊び心である。
 

 ぼくの仕事のテーマの基本に概念がありコミュニケーションがある。適当でアバウトだとお金をもらえないので、好き嫌いを問わず、知的に処理せねばならない。反知性主義者からは生意気で格好をつける奴と評されてきたが、ぼくの素顔を知らぬ者の早とちりだと切り捨ててく。仕事は知的でも、全人生を賭して「知遊的」でありたいと願う。そんな思いから、二年前に〈知遊亭ちゆてい〉というアマチュア一門を旗揚げした。川柳や洒落やギャグなどのことば遊びを通じて、アタマを使って愉快精神を横溢させる勉強会だ。
 
最近ごぶさたしているが、当意即妙で競わねばならないから脳トレには効く。写真はぼくの芸名「粋眼すいげん」を刷り込んだ扇子。門弟は十人ちょっといて、彼らにも芸名がある。大笑いは取れないが数をこなす「小笑こわらい」、どんな笑いを披露しても大勢に影響のない「巴芹ぱせり」、場違いな笑いで大汗をかく「汗多かんた」、ギャグ一つ言うのも時間がかかって緊張する「小肝こぎも」……。
 
先日、ブラジル好きの還暦オジサンが入門したので、「伯剌西ぶらじ」という名を与えた。伯剌西爾の「」を取ったのは、「すべる」の「る」を連想させるから忌み嫌ったため。もうお一人、長い冬を強いられる北海道北端にお住まいの先輩には、「冬短ふゆたん」を差し上げた。「冬よ、短くな~れ」という願いを込めて、サッポロラーメンの「古潭こたん」と人気の「しょこたん」のイメージを重ね合わせた。フェースブックで〈知遊亭〉グループを作ろうという話が持ち上がっているが、さて、どうなることやら。

過去との対話で気づく新しさ

本ブログは7つのカテゴリに分かれている。当然、それぞれのカテゴリには名称に見合った「意図」がある(少なくとも当初はあった)。

視線と視点」では持論を綴るつもり、「IDEATION RECIPES」ではアイデアの出し方を紹介するつもり、「ことばカフェ」はことばに関するもろもろの雑感のつもり(コーヒーは出ないが)、「五感な街・アート・スローライフ」はぼくの趣味や理想の暮らし方のつもり(現在はイタリア紀行に集中しているが)、「温故知新」は昔の自分のメモの再解釈のつもり、「Memorandom At Random」は日々の気づきを書いているつもり、「新着仕事 拾い読み」は最近の仕事の話のつもり……。

こうして一覧すると、「温故知新」が、当初の「つもり」とだいぶ路線が違ってしまっている。ここでの「古きをたずねて」の「古き」は自分自身が過去に書いたメモ帳、「新しきを知る」の「新しき」は現在のテーマのつもりであった。だが、だいぶ変容してしまっている。人はおおむね昨日よりも今日、今日よりも明日成長するという楽観的前提で生きているが、もしかして昨日のほうがいいことを考えていたのではないか、もしそうならば時々過去の自分と対話してみるべきではないか―こんなふうに考えて「温故知新」というカテゴリを設けたはずだった。

一番最近の「温故知新」の記事など、大それた時代論になっているし、むしろ「五感な街・アート・スローライフ」のカテゴリに振り分けるべきだったかもしれない。ちなみに、この「温故知新」をぼくは”Forward to the Past”と英訳している。もちろん”Back to the Future”との対比のつもりで、「過去へ進む」というニュアンスを込めている。これからは大いに反省をして、本来ぼくが思惑とした原点に戻ろうと思う。


ディベート指導を頻繁にしていた1994年のノートに本の抜き書きメモがある。

騙されるということは、どの点とどの点が、どのように違うのか、対象をきちんと鞫曹ワえていなかったために起こるのである。「己れを知り、敵を知らば、百戦危うからず」である。そのため、ギリシャの弁論術から、われわれは自己と対象を客観的に眺める、”つき放しの精神”を学ぶことが大切である。
(向坂寛『対話のレトリック』)

最近ことばの差異、商品・サービスの差異、情報や記号の差異について考えている。類似よりも差異に意識が行っている。考えてみれば、ディベートは極端な差異を扱う論争ゲームである。だから疲れる。そう、差異を理性的に見極めるのは大変なエネルギーを必要とする。「みんな同じ」と考えるほうがよほど楽だし目分量で片付けられる。

つい親しくなると突き放せなくなる。親しくなると議論しにくくなるという意味である。もし、親しくなかったらノーと言っているはずなのに、ただ彼を知っているという理由だけでノーと言わなくなる。親密度と是非はまったく別のものだ。ノーと言ってヒビが入るような人間関係なら、もともと砂上楼閣だったわけである。

信頼していた人物が失墜した、あるいは絶賛した商品が欠陥品だった、支援したイベントがインチキだった……こんな話が目白押しの昨今、プラスからマイナスに転じた対象だけを咎めるのではなく、己の側に突き放しの精神が欠けていたことも猛省すべきだろう。たしかに騙されたかもしれないが、理性不足であり見る目がなかったとも言えるからである。先の抜き書きは次のように続く。

ユーモアやアイロニーは、このように客観的にコトバと自己とをみつめる余裕から生まれたのである。これは甘えの精神と相反するものであるだけに、われわれにとって大いに自覚して努力することが肝要であろう。

愉快精神と批判精神の足りない時代だと嘆いてきたぼくにとって、久々に視界が開ける過去のメモになった。これが温故知新の効用である。