二項対立であぶり出される意味

あることばの意味を調べようとして辞書を引く。そのことばの見出しの下に語義が書かれている。読めばわかったような気になるが、実はことばは単独で意味を持っているわけではない。ことばは別のことばと対比されてはじめて意味を持つ。仮に二つのことばをABとするなら、〈AB〉という対義や対立の関係にしてみると意味が鮮明になってくる。

「長い」「多い」「高い」「表」「右」「開く」などは単独では何のことかわからない。「そんなことはない。わかってる」と反論されそうだが、「長い⇔短い」「多い⇔少ない」「高い⇔低い」「表⇔裏」「右⇔左」「開く⇔閉じる」などと、〈AB〉として対義させてきたから徐々に意味が明快になったのである。

ABは同時に成立しない。つまり、「AでなければBであり、BでなければAである」という対義語の関係にある。よく似た関係が〈二項対立〉だ。上記の長短、多少、高低、表裏、左右、開閉のような正反対の関係ではない。たとえば教師と生徒は同時に成立することもあるし、「教師でなければ生徒、生徒でなければ教師」ともかぎらない。こういう関係が二項対立。但し、対義語と二項対立のどちらにも顔を出すABもある。

誰が見ても二項が矛盾または対立している普遍的な二項対立もあれば、価値観によって敢えて二分化する特殊な二項対立もある。白の対義語は黒だが、赤も対義語だ。では、赤の対義語は白かと言えば、たしかにそうだが、黒もありうる。つまり、白と黒と赤は三つ巴の関係でもある。白⇔黒、黒⇔赤、赤⇔白の背後には固有の価値観が見え隠れする。

以前、人間の資質や性向を自分なりに二項対立の関係でとらえたことがある。定番的なものもあれば、強引な創作だが二項を見る視点を変えてくれたのもある。ここにリストアップしておく。

臆病 ⇔ 勇気
不安 ⇔ 自信
他力 ⇔ 自力
甘え ⇔ 責任
反応的 ⇔ 主体的
寡黙 ⇔ 多弁
儀礼的 ⇔ 親密的
見栄 ⇔ 潔さ
待つ ⇔ 動く
我 ⇔ 無我
怠惰 ⇔ 勤勉
遅疑 ⇔ 拙速
思いつき ⇔ 熟慮
一つの答え ⇔ 複数の問い
こだわり ⇔ 柔軟性
聞き流し ⇔ 傾聴
先送り ⇔ 即実行
鈍感 ⇔ 気づき
遠慮 ⇔ 踏み込み
タテマエ ⇔ ホンネ
分裂 ⇔ 統合
慌てる ⇔ 落ち着く
迷い ⇔ 決断
ポーズ ⇔ 自然体
情報依存 ⇔ 思考主導
蒙昧 ⇔ 教養
対立 ⇔ 対話
承認願望 ⇔ 批判受容
人の振り見る ⇔ 我が振り直す
自分世界 ⇔ 生活世界
一人称 ⇔ 二人称

机上に置いている辞書

事務所にどれだけの辞書があるか。全部数えてこのブログで書いたことがある(『辞書、辞典、事典、百科……』)。約90冊だった。それが7年前。あっちの本棚、こっちの本棚とばらばらに置いてあったので、4年前に辞書類を一つの本箱にまとめた。

何とか全集というのをいろいろ揃えているが、未読のまま本棚に収まっているものが多いし手に取る機会も少ない。辞書も全集のように出番が少ない。全集や辞書は場所を取るのが難点。その不満を誰かにこぼしたら、電子辞書で済ませればいいと言われた。おいおい、あんなものでは調べた気にならないのだよ。おまけに、紙を繰ったり傍線を引いたりする楽しみもなくなる。と言うわけで、たまに使ってささやかに楽しむために辞書に少なからぬスペースを割いている次第。

席と辞書の本箱は離れているので、使用頻度が比較的高い56冊を机上に置いてある(写真は年明けからのラインアップ。英語の仕事が入ると、ここに英和辞典が加わる)。よく使うのが国語辞典。長らく使っていた『広辞苑』は本箱に入ったまま。数年前からは『新明解』一筋。自宅では第七版、オフィスでは第八版の青版を使っている。『コロケーション辞典』というのも机上組の一冊で、これは名詞と動詞の結びつきが調べられる活用辞典。動詞がなかなか思い浮かばない時に役に立つ。暇な時に当てもなく適当にページを繰って読むこともある。

ことわざと四字熟語の辞書は一種の読み物である。覚えてやろうなどとは思わない。何かを見たり聞いたりして、気になったら調べる。たとえばきれいな夕焼けを見た時に、さて夕焼けのことわざがあるかどうかチェックしたりする。先日コインケースを買い替えた折に、「財布」を引いてみた。財布をわざわざ辞書で調べるのは今回が初めてだ。

🏷 「財布の紐を握る」(『明鏡ことわざ成句使い方辞典』)
収支の管理をつかさどることを財布で象徴しているが、紐の握り手は主婦ということになっている。ところで、最近は握る紐が付いた財布は見かけないので、「財布のファスナーの開け閉めをする」とか「クレジットカードの暗証番号を夫に洩らさない」とでも言うか。

🏷 「財布と心の底は見せるな」(『世界の故事名言ことわざ』)
イタリアのことわざだ。人は中身が見えないもの、見づらいものを見たがる習性をもつ。その典型が財布と心の底だという。

🏷 「財布の底をはたく」(『明鏡ことわざ成句使い方辞典』)
有り金をすべて使ってしまうこと。新明解によれば、叩くとは「中に入っている物を全部外に出す」という意味。それなら、わざわざ財布の底を叩くと言わずに、「財布を叩く」と言えば済みそうだ。しかし、それではありきたりの成句で、値打ちがない。ことわざっぽくするなら、やっぱり「財布の底を叩く」なのである。

年賀状レビュー(2022年版)

毎年今頃は、前年暮れに差し出した年賀状をレビューすることにしている。したためた時の思いと今の心境を照らし合わせて自己検証するために。あるいは、苦し紛れや手前勝手な心変わりがあったなら自己批判するために。


ものを考えること、ことばを操ることに苦労はつきもの。苦労から解き放たれようとしてなけなしの知恵を絞り創意工夫に努めても、その過程で別の苦労を背負うことになるものです。

アイデアが首尾よくひらめくことに、また上手に読んだり書いたりできることに手っ取り早い道がないことを知っています。けれども、ただひたすら試行錯誤の場数を踏み続けるうちに、あれこれと心得るべきことに気づくのではないか……甘い考えと承知の上で、そんなあれこれの気づきを「きみ」への助言という形式でしたためてみました。

🖋 あの時、きみは「考えています」と言った。でもペンもノートも手元になかった。何も書かずにただ腕組みしている状態はおおむね思考停止中のサインだ。
どんなことを考えたの? と聞いたら、きみは口をつぐんだ。アタマの中は見えないし、考えていることはわからない。だから、ことばで伝えるしかない。たとえ拙くてもいいから、考えにはことばを添える必要がある。考えていると言う人はいくらでもいるが、考えていることを語れる人は少ないものだ。

🖋 ことばで考える。そして、考えたことをことばにするなんて無理。そう思っているのではないかな。「はい、難しいです」ときみ。やっぱり。真摯にことばに向き合っていないと余計難しく感じるのだろうね。ことばにしづらいことを敢えてことばにすること。それが言語的生き方というもので、とても面倒くさい。でも、非言語的な以心伝心よりはよほど確かに思いが伝わるはず。

🖋 ことばを知り、ことばを聞いたり読んだりする。諸々の感覚はことばと連動する。あるいは、ことばを誘発する。

🖋 ダメだなあと言われたらどんな気分になる? 「もう慣れました。でも、これもダメ、あれもダメ、全部ダメの波状攻撃を受けると滅入ります」ときみ。ダメづくしは非難のことば。自己嫌悪に陥る。他方、「これはダメ、あれはよい」というのは批判のことば。反省と工夫を促す。非難と批判は紙一重。厳しい自己批判を経てこそ、紙一重の違いがわかるようになる。

🖋 感情の起伏が激しいと、考えることが――ひいてはことばが――不確実で不安定になる。思いつきやその場かぎりの気分が支配的になり、「何となく」が口癖になる。「あ、それ口癖です」ときみ。「何となく」を連発する人間に世間は信頼を置かない。気をつけよう。

🖋 考えることに不安が募ると情報に依存する。手に入れた情報で視界が広がればいいけど、新しい情報と既存の情報が葛藤して前途が曇ることもある。

情報頼りでは行き詰まる。時々「タブラ・ラサ(tabula rasa)」の状態にリセットするといい。外界の印象を受けない、白紙のような心の状態のことだ。「あ、空っぽアタマはわりと得意」ときみ。いや、空っぽアタマじゃなく、満タンのアタマを敢えて空っぽにすることだよ。

🖋 本をよく読むようになったときみは言うけど、創造的思考が高まる保証はない。膨大な情報が思考受容器を刺激するとはかぎらない。情報多くして人ものを考えず。情報が枯渇気味のほうがよく考えるのが人の習性。

🖋 ベストなアイデアを望んではいけない。求めるべきはベターなアイデアなのだ。最善の解決法などないと割り切ろう。あるのは今よりも少し良さそうな解決法であり、その解決法もいずれ淘汰される。今日よりもほんの少しましな明日がいい。そう思わないか? 「ちょっと気が楽になりました」ときみ。

🖋 きみは相手に合わせて表現や話法を変えるね。思いと裏腹なことも喋る。「お見通しです」ときみ。計算高くホンネとタテマエを使い分けるのは労多くして功少なし。ずっとホンネで通すほうが思考とことばにムダがなく、長い目で見ればコストパフォーマンスがいい。

🖋 最後に本について。好きなテーマについてやさしく書かれた本は読みやすい。でも、そんな本だと読者の負荷が小さいので、忍耐強く深読みしようとしなくなる。いろいろなジャンルや難易度の本を読んでこそ、考える力、ことばの機微、語感が研ぎ澄まされる。本と読書については、これまでの考え方を一度見直してみるのがいいと思う。


本文の「きみ」は誰の中にもいるもう一人の自分。小難しいお説教を垂れたわたしたち自身がいつも感じるもどかしさの象徴として登場させました。
当たり前のような穏やかな日々と小さな幸せを感受できる時間を取り戻せますようにと祈念しています。

語句の断章(37)流れに棹さす

「流れに掉さす」のさお・・は「竿」ではなく「棹」。釣り竿や竿竹の「さお」ではなく、舟漕ぎに使う長い「さお」のほうである。その長い棹を「さす」というわけだが、これもまた「刺す」ではなく「差す」のほうだ。船頭が棹を水の中に差し入れ川底を突いて舟を進める様子を表している。

数年置きに実施される「国語に関する世論調査」によると、「流れに掉さす」という成句はここ20年ずっと、誤用が正用を大きく上回っており、また、流れに逆らうという意味に解する人が多い。確かに、何かに向かって棹を差し掛けると言えば、その何かの邪魔をしているような印象を受けてしまいそうだ。

しかし、流れを自然な動き、ひいては好ましい流行やトレンドとすれば、流れに乗っておくほうが無難であり都合がいい。人間社会の常として、自然の摂理には、逆らうよりも、従っておくほうがうまく事が運ぶ可能性が高い。流れに掉さすとは機運に乗じて身を任せるという意味であり、逆らうどころか、逆らわないという姿勢にほかならない。

ところが、そんな姿勢には当然一長一短がある。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

智と情と意地にはプラス面があるが、夏目漱石は『草枕』の冒頭で智と情と意地のマイナス面を並べている。「情に棹さす」という用例も「流れに掉さす」の意味に似ている。他人の思いや感情に寄り添ってばかりいると、自分が思いもしないほうへと流されてしまう。情に掉さすとは「情にほだされる」。流れに掉ばかりさしていると束縛されて自由を失いかねないのである。

人生の常として、「流れに棹さすのかささないのか、どっちなんだ!?」と、つねに選択を迫られているような気がする。

回文、その愉快と苦悶

回文のテーマで出版されている本は少ないし、周辺から話が出て盛り上がるなんてこともほとんどない。本ブログでは2014年に『眠れなくなる回文創作』と題して書いている。

昨日のことである。道すがら大手古本チェーン店が入るビル前を通りかかった。別の店は時々利用するが、そこは初めてだった。いつもの店に比べるとかなり広い。広い店は苦手だ。入るには入ったが長居をするつもりはなく、入口に近い棚あたりの背表紙を適当に眺め始めた。そして、いきなり見つけてしまったのである。

おお、ぼくが回文を始めるきっかけになった土屋耕一、あの「軽い機敏な仔猫何匹いるか(かるいきびんなこねこなんびきいるか)」の作者ではないか。函入り2冊セットの新品同様、1冊が『回文の愉しみ』でイラストが和田誠なら手に入れるしかない。


おびただしい作品が紹介されていて、喜び勇んで読み始めたのはいいが、読む愉快の後にほぼ確実に創作してみたくなる衝動に駆られる。そして、間違いなく、取り掛かかった直後の愉快はやがて苦悶と化し、脳裏に文字群のストレスを抱え込んで半ノイローゼ状態に陥るのである。

それでもなお、手に入れた本の冒頭に出てくる作品、「力士手で塩なめなおし出て仕切り(りきしてでしおなめなおしでてしきり)」を見たりすると、またしても創作意欲がふつふつと湧いてくるのだ。土屋はこの回文を色紙に書いて掲げていたのだが、この一文に無反応な友人たちもこれが逆から読んでも同じ文になるのを知って驚嘆する。

ところで、回文は通常の文案や文章のようにスムーズに出来上がることはめったにない。そのまま読んでも逆から読んでも(または、上から読んでも下から読んでも)同じ音にしようとすれば、不自然にならざるをえない。しかし、それを不自然と呼んではいけない。回文には回文独自の文法と語法があり、意表を突く表現を生み出してくれる。

慣れてくると、20音前後の作品はできやすく、工夫の過程も愉しく感じられる(下記、筆者の作品)。

🔄 酸か燐か薬か、リスク管理監査。(さんかりんかくすりか りすくかんりかんさ)
🔄 頼んでも金積む常がモテんのだ。(たのんでもかねつむつねがもてんのだ)
(㊟清音、濁音、半濁音、拗音、直音、現代仮名遣いと旧仮名遣いは互換性ありと見なす)

わずか510音増えて30音前後になるだけで、数倍の時間がかかるようになる。できたと思って逆に読むと不完全作だとわかり愕然とする。脳がへとへとになる。それでも途中でギブアップできず朦朧としながらも続けてしまう。そんなふうにして何とかできた作品。

🔄 居並ばドレミ、師が讃美歌うたう。花瓶探し見れど薔薇ない。(いならばどれみ しがさんびかうたう かびんさがしみれどばらない)
🔄 村からピンチの使い、どけた竹刀でいなしたけど、威喝のチンピラ絡む。(むらからぴんちのつかい どけたしないでいなしたけど いかつのちんぴらからむ)

たった1音で不完全作になり、その修正に何日もかかったりする。諦めて一から作り直すこともあった。根を詰めた50音以上の自作がいくつかあるが、思い出すだけで疲れが出そうなので、掲載はいずれまた。

無個性な風見鶏トーク

昨日、橋を渡って対岸の遊歩道へ行ってみた。風がかなり強く、後でチェックしたら風速6メートルだった。せわしなく動くビルの上の風向計。別名「風見鶏かざみどり」。風向きに応じて向きを変える。転じて「相手に応じて自らのスタンスを変える者」。今はすっかり縁が切れたが、旧知の仲だったX氏を思い出した(なお、X氏は中曽根元首相ではない)。

相手によって話しぶりや話す内容が変わる「風見鶏トーク」。話しぶりをそのつど変えているうちに、キャラまで七化ななばけしてしまう。首相へと上り詰めたらアイデンティティになるが、一般人ではそうはいかない。一般人のX氏は話も考えもいい加減になった。集団の中で没個性的な存在になった。八方美人よろしく誰にでも調子を合わせて喋っているうちに、誰にも焦点を合わせることができなくなり、やがて黙りこくるようになった。

「風の方向を知る? いいことではないか」と考え、風見鶏を「臨機応変」の意に解するむきがある。そうではない。風見鶏はむしろ「日和見ひよりみ」に近い。『新明解』で比較した。

【風見鶏】その時どきの情勢に応じて自分にとって有利な側につこうとする人の意。
【日和見】どちらが優勢になるか情勢をうかがって、自分がどちらにつくかすぐには決めないこと。
【臨機応変】あらかじめ決めた方針に囚われず、その場合場合の状況に応じた対処のしかたをすること。

風見鶏と日和見のニュアンスはよく似ていて、「無責任な自分視点」が内蔵されている。しかも、行き当たりばったりでポリシーが窺えない。たとえば、ある時ある場所でA氏のa〉という主張に賛同し、別の時別の場所で〈b〉を主張するB氏にも取り入る。しかし、A氏とB氏が同席する場では右往左往するか沈黙するしかない。他方、臨機応変は、人への対応ではなく、局面への対応である。新しい局面を迎えて、自分視点や型にとらわれずに応用問題を解くことである。

X氏およびその仲間は臨機応変ができないから、風見鶏になり日和見になって生き残ろうとする。ステレオタイプな解法を持ち出してはその場の空気に合わせて意思決定に関わっている「振り」をするのだ。風見鶏トークは中身のない社交辞令だけで終わらない。人格まで空っぽにしてしまう。

X氏はどこにでもいる。そして、大義名分なく利を得ようとしたりずるく振舞おうとしたりする時、わたしたち一人ひとりの中にも現れることがある。気をつけよう。

あれもこれもポルトガル

最近はカタカナ語が溢れているので、モノが国産か外来かの区別はつきにくい。以前は、カタカナで表記されていると外来語だろうと察したものだ。たとえば、あの化学実験用の容器「フラスコ」。元が“frasco”で、仮にそれが何語か知らなくても、外国由来だと見当がつく(実際はラテン語/ポルトガル語起源)。

ところが、モノと同時に外来語が紹介された江戸時代、比較的発音に忠実に漢字で表記されてそのまま明治大正昭和と使われたから、歌留多かるた煙草たばこ襦袢じゅばん合羽かっぱも元々日本語だと思われてきた。それぞれがまさかポルトガル語の“carta” “tabaco” “gibão” “capa”であるとは想像できなかったのである。

今では情報が流布して、カタカナで表記される食べ物、特にヨーロッパ起源のものはよく知られるようになった。フランスやイタリアやドイツまで取り上げるとキリがないので、ポルトガル語が出たついでにいくつか拾ってみた。パン(pão)、こんぺいとう(confeito)、ビスケット(biscoito)はすでにおなじみ。鯖寿司には、その形状からの連想でポルトガル語で「小舟」を意味する“bateira”てられた。カステラも「城」を意味するポルトガル語の“castella”由来である。

つい昨日のこと。懐かしい「丸ぼうろ」が売られていた。どこにでもあるお菓子だが、袋に佐賀の伝統銘菓と書いてあった。知らなかった。ところで、丸ぼうろなどは、何のことか知らぬままてっきり日本のものだ思っていた。調べてみたら「ぼうろ」は乳ボーロの「ボーロ」と同じで、焼き菓子の意の“bolo”。これもまたポルトガル語である。

かつて外来語に工夫を凝らして日本語に訳したり漢字を充てたりしたが、今となっては漢字ではなく、原語の発音に近いカタカナで表記するようになった。コンピュータをわざわざ電子計算機と訳してはみたが、モノになじむとその名称の翻訳や漢字が必要でなくなる。「葡萄牙」などはテレビの雑学クイズ番組以外で見ることはなくなった。

語句の断章(36)多々益々弁ず

「多々益々弁ず」の意味を正しく知っている人は少なく、ほとんどが知らないか誤って解釈している。誤って解釈するのは少々教養があるためで、弁術や弁論に使われる弁という漢字から連想して「話すこと言うべきことが増えれば増えるほど弁が冴えてくる」という意味に解してしまう。

実際、ぼくもそんな一人だった。いちいち辞書を引かなかった若い頃、初見の表現や成句なのに適当に類推だけで済ませて、我流の解釈のままで放置していた。その最たる例がこの「多々益々弁ず」。ある日、この表現が弁論に関わるものではないことを知る。さすがに今は、分かったつもりにならぬよう、面倒臭くても調べるようにしている。

弁論や弁護の弁は「話す」の意で旧字の「辯」には言が入っている。一方、多々益々弁ずの弁の旧字は「辨」のほうで、「わきまえる」の意。すべきこととそうでないことの区別やけじめをつけて、物事を巧みにコントロールしたりマネジメントしたりすることだ。多々益々弁ずは「仕事や物事が多ければ多いほど処理能力が高まるさま」を表わしている。

言語や表現が豊かというのではなく、仕事や物事の「事」にまつわる成句なのである。あの人は多々益々弁ずと言えば、仕事や物事が増えても次から次へと片付ける、手腕や能力のある人物のことにほかならない。なお、由来についてはここでは書かないが、たいていの故事名言・諺辞典には記述があるので参照していただきたい。

ちょうどいい加減の説明

先日、かなり譲歩して理解につとめたが、その短い説明文の意味がさっぱりわからなかった。いったい説明にどれだけのことば数を費やせばいいのか。ことばを多めに尽くすにしても少なめに抑えるにしても、内容に応じてわかりやすくほどよいことば数に調節するのは一筋縄ではいかない。

本を解説する無料の小冊子が出版各社から出ている。たとえば手元にある『新潮文庫の100冊』。読ませどころのさわりを23行の見出しで示し、内容を66文字以内で解説している。無駄なく見事にまとめられている。こういう簡潔な書き方のほうが、好きなだけことばを蕩尽するよりも時間がかかる。

翻って、思いつきで適当に書いたり話したりした説明は、読み手や聞き手に負担をかけてしまう。説明者のことば足らずや饒舌ぶりを読み手や聞き手が忖度することになる。説明者のことば足らずにはことばを補い、ことば過剰なら引き算しなければならない。

いま、「書いたり話したり」と書いたが、目の前で話されたことなら、わかりにくさはほぐすことができる。意味や意図を直接尋ねることができるからだ。しかし、書いた本人がそこにいない時――本などがその典型だが――聞きたくても聞けない。下手に書かれていたら、パズルを解くような覚悟で歩み寄るか、あきらめて投げ出すしかない。


力のないことばを吐かないようにしよう……ダラダラと説明したり言い訳したり独り言のようにブツブツ言うのはやめよう……いま目の前にいる相手――目の前にいなくても想定する読み手――に伝えよう……書いて伝えるなら論理を整えよう、そして説明をきちんとやり遂げよう……説明責任を果たそうとすればことば数は増えるものだ。迷ったら、不足よりは過剰を選ぶ。

理解のもどかしさは、突き詰めていくと、ほとんどことばの拙さに辿り着く。ことばによるコミュニケーションは人間だけに付与された特権なのに、修行不足のせいで誰もがことばでつまづく。言い得ぬもどかしさ、伝えづらいもどかしさ、思い通りに伝わらないもどかしさに苦しむ。これらはうまくいかない人間関係のもどかしさにつながる。

そんなことで苦しむくらいなら、思いつくまま話したり適当に書いたりしておけばいいと、つい思ってしまう。そして残念なことに、多くの人がそう思う時代になって、意味不明な短い文章ばかりが垂れ流されている。

今時のことば感覚

つい先日、あるテレビコマーシャルを初めて見た。「今はやめてよ、アポなし頭痛!」というのがそれ。頭痛は突然やってくるから、元来アポなしである。アポあり頭痛があったら気持ち悪い。だから「今はやめてよ、頭痛」でいい。「アポなし」を思いついたコピーライターがひとり悦に入り、「それいい!」と周囲が同調した様子が見えてくる。

よく練られたキャッチコピーほど一つのことばが感覚を研ぎ澄ます。しかし、調子に乗ってことばの力に頼りすぎると、アポなし頭痛のような意味なき駄作になってしまう。取って付けたようなことばはデジタル部品のようなもので、イメージや感覚の凹凸を奪うのである。

ことば遊びというのは文脈から切り離すと面白味が消えてしまう。たとえナンセンスでも、唐突ではなく、その場や状況とうまく絡むことがポイント。目の前に鰹のタタキがないのに「親のかたき、鰹のタタキ」と言っても不発である。鰹のタタキを注文するリアル場面があってこそ成り立つことば遊びだ。


イメージを思い浮かべるのはたいせつだが、思いつきだけではことばに切れ味は生まれない。計算も求められるのだ。

気に入っている都々逸があり、それを計算式にしたのが上の図だ。ちなみに、都々逸は「七七七五」でできている。4つのハートから3つの壊れたハートを引き算すれば答えは何?

〽 惚れた数から振られた数を 引けば女房が残るだけ

いやあ、目の付け所が粋である。行間がある。意味が深い。すべての愛妻家はやむをえずそうなったのだろう。都々逸のほか川柳や狂歌もそうだが、いい作品では表現が計算され尽くされている。


とある行政の夏のイベント告知の案内に「この夏、○○川に出掛けませんか?」と書いてあった。誘ってはいても不特定多数への平凡な呼びかけに過ぎず、キャッチコピーとして物足りない。「出掛けませんか?」は悠長だし、そんないざないでは距離感が生まれる。まるで他人事だ。

もし「○○川の夕涼み散策」がテーマなら、「出掛けませんか?」では訴求不十分である。しかし、「夕暮れどき、○○川の岸辺のそよ風はすでに秋」と書けば、これも不特定多数向けのコピーには違いないが、新しい情報が提供されることになる。

ありふれた名詞の羅列だけでも十分に新鮮に響くことがある。「浴衣とうちわと○○川」と並べ、わざと動詞を抜く。どうなるか、どうするかは自分で想像してもらう。このほうがスマートに物語を暗示できるのである。飛んだり跳ねたりするだけがキャッチコピーの作法ではない。