なつと夏

「日本に四季があると聞いたが、おれたちのアフリカにも三季ならあるぞ。HotHotterHottestだ」という、今ではすでに古典になったジョークがある。三季説、昔は珍しくなかったそうだ。古代ギリシアでは三季だったらしい。

『美しい日本語の風景』(中西進著)の「なつ」と題した小文に次のくだりがある。

そもそも一年を戸外で働く季節と働かない季節、つまり二季に分けることができる。その後者が冬だった。一方に働く季節がやや分化すると「春耕秋収」という中国の句になる。働く季節を二つに分けたのだから合計三季。かくして夏はもっとも遅く誕生した季節となる。

春に種まきと耕作の仕事、秋には実りの収穫という仕事をして、冬に休む。これで三季だが、春の後にすぐ秋が来るわけではない。好天が続き強い陽射しと雨に恵まれてこそ「実がる」のである。夏がどのように派生したかについては諸説あるが、おおむね次のような説が有力だそうだ。

あつい→なつ・・い→なつ
ねつ→なつ
実がる→なつ

春から秋に飛ぶと、生活の糧となる「果と実」の成熟・成長過程と時間が割愛されることになる。これはちょっと具合が悪い。と言うわけで、一年をもっと緻密に分節するようになった。豊穣の秋を迎えるためには、暑さへの敬意が欠かせなかった。

こうして夏は、種まきと刈り取りを――すなわち春と秋を――つなぐ重要な一季として生まれたのである。

「コード」という線引き

「スーツ2着買うと60%OFF!」
「創業祭につきジャケットとツーパンツが半額!」

こんな値段でいいのだろうかとこっちが心配してしまうA山やA木のような量販店ならよくあるキャンペーンだが、地元密着型の高級服専門店である。何度か利用しているから応援したい気持はあるが、不買癖がついた今、よくスーツを買っていた頃の半額以下と知っても、店に足を運ぶ気にはならない。もうスーツの出番がほとんどないのだ。

クールビズが浸透してネクタイが売れなくなったと紳士服店が嘆いたのもだいぶ前の話。売れ行きが悪くなったのはネクタイだけでない。スーツやジャケットの在庫も増える一方らしい。とりわけ夏スーツは売れない。大手企業でも行政でも4月~10月はノーネクタイは当たり前。年中ノーネクタイを推奨する職場さえある。そして、スーツ姿もどんどん減っている。

年中ノースーツ・ノーネクタイの、いわゆる「業界人」がいた。仕事が欲しいと言うから、ある企業幹部に引き合わせた。相手が客先で初対面という状況であるから、当然スーツ姿と思っていたら、カジュアルジャケットにノーネクタイで現れた。後で一言注意しておいた。「その服装では紹介者のぼくが困る。相手が服装に寛容か厳格かとは関係なく、初対面ではスーツにネクタイだ。大は小を兼ねるというのと同じこと」。


彼にはフォーマルとインフォーマルを分別する独自の〈コード(code)〉があるのだろう。よほどの自信がなければ貫けない。しかし、冠婚葬祭では礼服に白のネクタイを締めていた。やっぱり相手やTPOを気にしているのだ。

コードとは「規則」である。ドレスコードは服装に関する規則。その規則は時間帯、場所、場面、集まる人々に応じて微妙に変わる。規則に従順になるのは保守的だが、規則に逆らって自分流を貫くのも、ある意味で保守的だ。あるコードの否定は別のコードの肯定にほかならない。

二十代半ばの1年間、東京に赴任していた。アフリカのとある国の大使館主催のパーティーがあり、招待されていた上司が直前に参加できなくなったので代わりに出席することになった。わずか1年の滞在だったので身軽に引っ越していた。当然礼服など持っていない。上司は礼服で行けと命じる。月給の半分ほどもする礼服を買わされ渋々パーティーに行った。

会場に着いたら、開始時刻前なのにすでに飲み食いが始まっている。イブニングドレスの女性は何人かいるが、礼服を着ている男性はぼくを除いて誰もいない。主催者側に民族衣装が何人かいるが、出席者はほとんど普段着である。式次第なし、ドレスコードなし、名刺交換なし。誰かがテーブルへ誘ってくれて少し飲んだが、何も食べずにずっと面食らったままだった。1時間半ほど過ぎた頃、大使が現れ「お越しいただきありがとう」の挨拶でお開き。

どこからどこまでをコードとするか……線引きは難しい。

地の背景に図が浮き上がる

〈図(figure)〉が〈地(ground)〉を背景にした瞬間、その図が浮き上がって見えてくることがある。〈地図〉というのはそのように成り立っている。よく知られたものに「ルビンの杯と顔」がある。じっと見ていると杯と顔が交互に地になったり図になったりする。

イメージだけではなく、思考やことばにも同じことが起こる。

考えるとは頭の中で思い巡らすことだが、必ず何らかの対象について思い巡らしている。対象をよく認識し、その対象とやりとりをしている。そうこうしているうちに、やがて不足しているものに気づく。考えるとは「不足探し」でもあるのだ。認識している地の上に見えなかった図が現れてくるのである。

あることばが他の言語群を地として浮き彫りになったり炙り出されたりして知覚されることがある。

アサヒビールを主題とした縦書きの地の歌(七五七五七七七五)を読む。主題を綴ることばの群れの中に仕込んだ図に誰もが気づくとはかぎらないが、よく目を凝らせば横書きの「三ツ矢サイダー」という図に気づく。

掛詞かけことば」や「ぎなた読み」、駄洒落の類も、ことばの地と図の関係と無縁ではなさそうだ。「アメリカン・・・・からメリケン・・・・が生まれ、それが米利堅・・・と表記され、この頭文字からアメリカを国と呼ぶようになった」という経緯を知って、いろいろことばを巡らせているうちに「アメリカにこめがあって、日本にジャパン・・がある」ことに気づいてニヤリとする。

古代や中世の和歌には、現代人が気づきにくい図が地に仕掛けられている。もっとも、地と図の読み方は人それぞれなので、たとえ隠れた図に気づかなくても特に困るわけではない。

使いづらいことば

用語が難しいからではなく、どのように使ってもしっくりこないという意味合いの「使いづらい」。普段よく使っているのだが、状況によっては「何か変」と感じさせられることばがある。小池昌代という詩人が『生きのびろ、ことば』のまえがきで、「ありがとう」の言いづらさについて次のように書いている。

どうでもいいようなことで恥ずかしいのだが、たとえば何かの飲食店に入り、給仕をしてくれたひとに、「ありがとう」と言いたいとき、相手のひとが自分より年上だと、ありがとうと言い切ることがなかなかむずかしい。なんだか、えらそうに聞こえてしまうから。

ことばは人と人の関係性によってニュアンスが微妙に変わる。「ありがとう」が上から目線にならぬような言い回しを考えて、結局は「ありがとうございます」に落ち着く。しかし、それでは「丁寧すぎる」と言い、著者は続ける。

もっとカジュアルに、そして感謝を素直に伝えるために、どんなことばがあるのか、などと考えていて、あるとき、ふいに口を付いて出た「ありがとう」に、関西風のイントネーションがついた。

すなわち、語頭にアクセントを置く関東人の「あり✓✓がとう」に対して、語尾にアクセントを置く関西人の「ありがとう✓✓」が年下にも年上にもやわらかい、という所見である。

昔住んでいた街によく通った銭湯があった。あの主人は、番台で客からお金を受け取ると「ありが、おおきに」と言った。自分が高い所に座っているから自然そう言うようになったのか。親しみやすく、かつ低姿勢に響いた。ところで、メールやSNSのコメントの最後に「感謝!」と書いてよこすのがいるが、あの機械的な無神経ぶりにはうんざりする。


英語の“Thank you”を使うのにいちいち気遣いはいらないし、使いづらさを感じることもない。さらに言うと、Thank you“you”も唯一の単複同形の二人称として、カジュアルにも丁寧にも、相手が誰であろうと、ごく「普通に」使うことができる。しかし、英語で“you”と済ませられる状況で「あなた」が同じように使えるわけではない。

“You can join a Friday meeting.”を英文和訳してみればいい。「あなたは金曜日の会合に参加できます」として澄ました顔はできない。なんとも不自然な日本語だ。相手が友達なら「金曜日の会に行けるよ」だし、目上の人になら「金曜日の集まりにご参加いただけます」というニュアンスになる。いずれにしても「あなた」を隠さないと文がこなれない。

「あなたの住む町は暮らしやすいですか?」と言うよりも、あなたを省いて「いまお住まいの町は暮らしやすいですか?」のほうが違和感がない。なぜか? 「あなた」は厚かましく響いたり馴れ馴れしい印象を与えたりしかねないからである。歌や映画の世界では「あなた」と平気で言うが、日常的な頻度はきわめて低い。

YOUは何しに日本へ?』というテレビ番組がある。日本にやって来た外国人にいきなりインタビューして物語を作っていく趣向だ。『あなたは何しに日本へ?』と言うくらいなら『日本に何のご用?』のほうがいい。それほど「あなた」には出番がないのだ。女性が男性に「あなた」と甘くささやく時も、男性教師が女学生を指差して「この問題、あなたは分かる?」と尋ねる時も、「あなた」はしっくりこない。日本語は二人称の使い方が難しい。

みずみずしい緑

オフィスに30鉢ほどある観葉植物が気温の上昇と明るい陽射しに反応している。とりわけ窓際のアマゾンオリーブとベンジャミンの新芽と若葉がさわやかだ。

五月下旬から六月中旬のこの季節、梅雨の中休みの頃の緑が特に映える。深い緑、濃い緑、薄い緑、黄緑……よりどりみどり。もちろん、わざわざ選りすぐって見取るには及ばない。散歩していれば勝手に目に入ってくる。

ずいぶん昔、緑色は「あお」と呼ばれていた。青が緑よりも概念上優勢だったのだ。今もなお、緑の信号を青と呼ぶのはその名残である。青のうち、みずみずしい新芽や若葉を特に「みどり」と呼ぶようになって、緑色が常用されるようになった。みどりは「みずみずしい」を語源とするという説もある。


手元にある本には、37色の緑色系の日本の伝統色が紹介されている。そのうちから、萌葱もえぎ色、若緑、青磁せいじ色、青緑の4色を選んで、比較してみた。

色を区別するには色の数だけの名前が必要になる。自然界の中から色を取り出していちいち名付けたに違いない。昆虫や植物採集のようで、並大抵の根気ではない。ところで、すべての色は〈RGB(赤/緑/青)〉の原色でデジタル的に再現できる。

萌葱色 R:10  G:109  B:77
若緑  R:167   G:211  B:152
青磁色 R:104   G:183  B:161
青緑  R:0    G:164  B:141

緑色の系統だから当然G(緑)が強いが、B(青)もかなり強く関わっている。ここにR(赤)が加わって豊富なバリエーションが生まれる。別の伝統色の色見本には82色の緑があり、それぞれに名前が付いている。よくもネタ切れしないものだと感心する。

RGBの数値を小まめに変えて組み合わせれば、緑系統をさらに細かく数百以上再現できるはず。よく似た色が出てくるが、並べて比較してみると肉眼でも十分に差異が認識できる。われらがまなこも大したものだ。この季節、外に出てデリケートな緑を存分に楽しみたい。

割れ、端っこ、切り落とし

時々、お菓子の町工場の裏門を懐かしく思い出す。カステラの端っこが店頭に並んでいる店の前を通り掛かる時に思い出し、精肉店で和牛の切り落としを買う時にも思い出す。割れものや端っこや切り落としの商売は昔からあり、今もなお健在だ。むしろ、安っぽさが消えて、かなり高級なイメージに仕上がっているものさえある。

幼少時に住んでいた下町にチョコレートの町工場があった。五円玉を握りしめて裏門へ行くと、すでに数人の子どもが並んでいる。たった5円で両手で包み切れないほどの割れたチョコレートを売ってくれたのである。新聞紙にくるんで手渡してくれた。微量のカカオと多量の砂糖を混ぜた駄菓子系チョコだったと思うが、それでも贅沢なおやつだった。

小学校二年時に引っ越した先にチョコレート工場はなかったが、その代わりにウエハース工場があった。ここも裏門へ行って作業しているおじさんに声を掛ければ、愛想よく応対してくれた。端っこを何枚も重ねたウエハース、時々規格外に大きいのやクリームを挟んだのが入っていた。圧倒的な量。たしか10円だった。


苦労人の祖母は生活がだいぶ良くなってからも、長年の習慣ゆえか、内職をしていた。近くに引っ越してきてからは、小学校高学年だったぼくに「小遣いあげるから手伝いにおいで」と声を掛けてくれた。その頃はおかきの内職だった。一斗缶にぎっしりおかきが入っている。そんな缶がいつも5つも6つも置いてあった。

小指ほどの大きさのおかきに海苔を巻けば磯巻きができる。少し湿らせた布巾に小さな海苔を一瞬触れさせすばやく巻く。おかきは一斗缶にぎっしり入っていて、時々割れたのが見つかるので口に放り込む。割れおかきは今もあちこちで見かけるし、ネットでも売られている。よく売れるので、最初から割っているというまことしやかな噂もある。

割れたおかきは割れていないおかきよりおいしく感じる。同じく、カステラの端っこはカステラ本体よりも絶対においしい。今はもうないが、オフィスの近くにあった鉄板焼きの店のランチの目玉は、黒毛和牛サーロインステーキの切り落としだった。みんなが注文するから切り落としがなくなる。そうすると、わざわざステーキを切るのだそうだ。たしかに切り落としはおいしいし、ステーキよりもライスによく合う。

雑考と雑念

「人生100年時代」のコンセプトを〈雑考〉している。趣味ではなく、依頼された仕事だ。去る3月に文章を書いて納めたが、次は第二弾。その時も現実のテーマとしては思い浮かぶことが少なく、ずっとことばをまさぐっていた。そして今回も、キーワードを列挙して時々天井に目を向けてことば遊びをしている。

「人生100年時代」に関わる15のキーワードを選んだが、まだ公開前なのでここには書けない。以前、シニアの住まいや暮らしに関してキーワードを選んだ自作の事例があるので、それを紹介しておく。

一見小難しく見えても、漢字はわかりやすい。わかりやすいのはよく使いよく見聞きするからだ。逆に言えば、ことばを超えて想像力を掻き立ててくれるところまでは行かない。そこで、擬音語・擬態語などの副詞に置き換えてみた。

かなりアバウトになるのだが、新鮮味が生まれ、連想が膨らんだ。陳腐でないことばが、コンセプトのきっかけになったりコンセプトを広げたりしてくれる。


冒頭で〈雑考〉と書いた。いろんなことを様々に考えることだが、謙虚のつもりで「系統的でない雑考」などと言うと、とりとめのない考えとして格下げされる。しかし、既存の枠組みに忠実な系統的思考のほうがむしろ二番煎じに終わる。少々の違和感があり混沌としているところに雑考のよさがあるのだ。

他方、〈雑念〉というのもある。これも評判はよくない。集中して考えなければならない時に、わけのわからない思いが去来して集中の邪魔をする。だから「雑念を払え」などと言われるのだが、雑念が消えて無我の悟りに到ってしまうと、肝心かなめの仕事に支障を来す。考える仕事では下手に悟ってはいけない。

一意専心の心掛けで一つのことに集中する。そうできるのは少数の誰かである。誰もかれもが一事に没頭しては社会は分断分業して統合されることがない。一芸を深める人と浅く多芸をこなす人がもたれ合ってこそ成り立つ世間だ。よそ見して迂回して、気になるものなら何にでも目配りして雑考することにも意味がある。こんな具合に仕事における雑考にまだ未練が残っているのは、最近のわが業界の一芸さんたちの深掘り思考が不甲斐ないからである。

ピザ、ピザ、ピザの独り言

🍕 ピザが売りの、ひいきにしているイタリア料理店。ワインを提供してこその店だから、今のところ夜は営業していない。休んでいた昼に再開したので、早速行ってきた。好きなピザかパスタ、ハムを乗せたサラダ、パン、ソフトドリンクのランチが850円。良心的だ。

貼紙に曰く、「消費税のアップ、そして新型コロナ。頑張ってきましたが、71日よりランチを900円にさせていただきます」云々。謙虚な50円アップである。ここの客は1,000円に上げても、いや、1,200円に上げても必ず来るのに。

🍕 10回クイズの古典、「ピザって10回言って」。言い終わったら、ヒジを指差して「これは?」と聞き、「ヒザ」と言わせようという魂胆。もう誰も引っ掛からない。と言うか、流行りだした頃でも引っ掛かっていないのではないか。

パーティーで頃合い見計らって、「みんな、膝って10回言って!」 小馬鹿にした笑い顔で一斉に大声でヒザ、ヒザ、ヒザ……。言い終えたら、テーブルの下からピザを出し、「じゃあ、これは?」 「わぁ、ピザ!」 

このほうがウケる。

🍕 本場ではピザはノーカットでテーブルに出す店が珍しくない。これをフォークとナイフで好きなサイズに切り分けて食べる。ピザ1をシェアすることはめったになく、一人1枚ならではの食べ方だ。テイクアウトなら「何カットにする?」と聞いてくれることがあるし、聞かれなくても好みのカット数を言えばいい。ピザのカットにまつわるジョークを一つ。

店員 「8カットでいいかい?」
客  「8カットだと多くて食べ切れないから、6カットにして」

冒頭のぼくのお気に入りの店は黙って6カット。6カットなら、ナイフで切ってよし、手で持ってよし、また軽く折ったり巻いたりしてもよしだ。