談論風発の意気と粋

桂米朝が芸道の名人らと対談する『一芸一談』。特に、藤山寛美とのテンポのよいやりとりにほとほと感心する。対談がほどよくカオス化してことばが響き合い、談論風発を加速する。談論風発の談に「炎」があるのは話が熱を帯びてくるからだ。お互いが意気に感じて話を弾ませる。相手が喜ぶように気を利かす。これが粋な計らいになる。


話し方に粋と不粋があるように、ことば自体にも粋と不粋がある。古いやまとことばだから粋に響くわけではない。話の中身に合っていて語調がよいのが粋だ。たとえば「たか」。売上とか生産などと使うが、今では高だけを単独で使うことはめったにない。米朝の「弟子が入れかわり立ちかわり金借りに来たことがある」という話に続くやりとりに出てくる。

寛美 それはもう返ってきまへんわな。まあまあ返すとこもあったって、まあ返ってきまへんわな。
米朝 そうそう、返す者もあり。
寛美 そやけど、返してもろうたって、貸した時と金の高が違いますわな。
米朝 そういう「高が違う」ということを言うたら、私は藤山寛美と言う人は偉大なる人やなあと思いまんなあ。

仮に借金を返してもらったとしても、貸した時から何十年も経ち、利息もつけていなければ、高が違ってくる。億という仰天するような単位でも十年前の億は今の億とは桁違いなのである。


芝居や落語は有形物として残らない。同じ演目でも客との関係はつねに一期一会だという。

米朝 (……)その時その時、その日の芸はその日しか存在しないと思うてますねんで。
寛美 そやけど、寂しおまんな。
米朝 そやから残らしまへん。絵描きさんやとか彫刻家は残りますけど。
寛美 私らの商売は水に指で字を書いているようなもので、書いた時は波紋が残るけども、流れてしまえば消えますわな。
米朝 そうです、そうです。
寛美 わしらはミズスマシみたいなものだっか。

水はじっとせずにつねに流れる。ミズスマシでも何でもついでに流してしまう。流されるものは切なくてはかない。「そんなはかないものだから燃焼できまんのか」と寛美が逆説的に言う。


九十になったぼくの母親は若い頃から「これも時代やなあ」という言い方をしていたし、今も普通に使う。これは、何々時代という時代とは違う用法だ。このことを知っているので、人間と時代を対比する次のやりとりから「不易流行」が垣間見える。

寛美 (……)正岡先生にしたかてね、秩父重剛じゅうごうという人にしたってね、これは思いまへんか、あの方々の小説は今でもやれまっしゃろ。なぜいうたら、人間を書いてある。
米朝 まあね、ほんまにええのおまっせ。
寛美 ねっ。今の作者の書いたのは時代を書いてあるから、時代が変わったらやれないということですわ。
米朝 ああ、あまりにこだわっているさかいね。

今でこそ「時代」は、主に過去の一区切りの年代を指すが、『チコちゃんに叱られる!!』でも出題された通り、時代劇の時代は「新しさ」とか「今」を感じさせるものだった。だから、「時代を書く」とは「現代を書く」ことで、この今だけに通用する話ということになる。ゆえに流行であり特殊。他方、「人間を書く」とは、いつの時代でも使える話で、ゆえに不易であり普遍。

人間と時代という視点はおもしろいし、とても勉強になる。ふと思う。新型コロナや五輪にしても、時代ばかり語っていると将来への布石にならない。人間を論じることを忘れている専門家のなんと多いことか。

打てば響くの妙

桂米朝が聞き手になって、藤山寛美、十三世片岡仁左衛門、三代目旭堂南陵、辻久子ら錚々たる第一人者とざっくばらんに対談したのが、この『一芸一談』という一冊米朝自らが題字をしたためている。

「桂米朝の聞き手芸ききてげいが冴え渡る」と紹介されているように、名人達人ならではの芸道秘話を次から次へと飛び石伝いに引き出していく。談論風発かくあるべしというスリリングな展開で、気がつけば臨場感あふれる語り口に引き込まれている。一番よく知る対談相手は藤山寛美(1929 – 1990)。ベタな大阪弁が弾みっぱなしだ。

よく知ると言っても、面識があったわけではない。今ではお笑い界は吉本がリードしているが、寛美がバリバリ活躍していた半世紀前は吉本と松竹は新喜劇で拮抗していた。芸の腕は松竹のほうが上で、テレビでも新喜劇を見る機会がかなりあったのである。

ところで、もしあのおばちゃん・・・・・・・の言ったことが嘘でなかったら、ぼくは寛美の実母とは面識があったことになる。二十代半ばに住んでいた自宅最寄駅の駅前の、飲み物とスナックも売る、自転車一時預かり所のおばちゃんだ。自転車を預けたことはなかったが、時々ジュースやコーラを買った。今のようなペットボトルではなく瓶入りだから、栓を抜いてもらって店先で飲む。店先で飲めば、会話の一つや二つを交わすようになるものだ。


ある日、店の奥に貼ってある寛美の写真を見つけた。当時おそらく70代前半のおばちゃんに「藤山寛美のファンかいな?」と聞いてみた。おばちゃん、「それはそやけどな、あの子はうちの子なんや」と言うではないか。「ふーん」と声には出さずに「へぇ~」と驚いてみせたが、真偽の確かめようもなければ確かめる気もなく、やがてぼくは引っ越して、そんなエピソードも記憶から消えた。

本書に寛美が語る次のくだりがある。ちなみに寛美の父親も役者だ。文中の「新町」というのは現在の西区の四ツ橋あたりにあった歓楽街である。

「(うちのおやじが)芝居が終わってブラブラ遊んでたら新町で子供を抱えたおなごがお茶屋してる。後家はんだ。一緒になった。これが私の母親だ。」

寛美は大阪市西区生まれ。ここを読んだ時、何十年ぶりかであのおばちゃんの顔が浮かんだ。おばちゃんの自称「寛美の実の母」が急に真実味を帯びてきたのである。そう言えば、寛美はおばちゃんに似ていたような気がしてきた。

ともあれ、米朝と寛美の対談だけでも60ページほどあり、濃い話が満載。ミズスマシとか「人間と時代」とか、愉快にして啓発される。次の機会に続編を書いてみようと思う。

説教や訓示の中身

オフィスの近くのあの寺が、月替わりの標語を掲示。今月は「心配するな あわてるな」という微妙なメッセージ。はたして不特定多数の通行人にはどんなふうに響くのだろうか。

ぼくはと言えば、心配したりあわてたりする時もあるが、この前を通り掛かった時の精神状態はすこぶる健やかで落ち着いていたので、「はいはい、さようでございますか」と見流すだけだった。先のことを心配ばかりして拙速気味に動いている時だったなら重く受け止めたかもしれない。

いろいろと気遣いし、早めに行動する人たちは良識のある少数派だと思われる。「心配するな あわてるな」とお説教したところで、彼らには当てはまらない。心配を気遣いと言い換え、あわてるを早めの行動と言い換えれば、「気遣いするな 早めに動くな」と言っているわけだ。こんな戒めが書かれていたら少々違和感を覚えるだろう。


「きみ、少しは気を遣ったらどうなんだ、自分事のように心配してくれよ……よくもそんなにのんびり構えられるもんだな……やみくもに慌てろなどとは言わないが、のんびりしすぎじゃないか……」 ぼくの知るかぎり、こんなふうに言ってやりたい者のほうが多数だ。「心配しろ あわてろ」と強くは言わないが、「もうちょっと心配しよう ほんの少し急ごう」のほうが当てはまるケースが多いのだ。

いやいや、説教や訓示は必ずしもよくあることを取り上げたり多数派に向けられたりするとはかぎらない。痴漢をする者は少数派だが、大阪では「痴漢はアカン」という標語が掲示されている。「手を触れるべからず」や「撮影禁止」なども百や千に一つの不届き者に向けられた注意書きである。

当然ながら、自分には当てはまらない、自分には関係のない説教や訓示の中身がある。それが大書されて頻繁に貼り出されていると快く思わない。標語には、「ゴミを捨てるな」と「ゴミを拾おう」のような、禁止系と推奨系の二つがある。きれいな場所なのに「ゴミを捨てるな」とか「芝生に入るな」という禁止文句ばかり見せられるとがっかりする。「ゴミを拾おう」とか「街をきれいに」もわざわざ有言化してもらうには及ばない。

ふれあい広場やふれあいカフェは標語の形を取っていないが、「広場でふれあおう」「カフェでふれあおう」という説教・訓示の流れを汲んでいる。正直言って、ネーミングが安易で陳腐だし、余計なお世話だと思う。

朝の連続ハプニング

ドタバタと言うほどではない、小さなハプニング。小さくても一瞬ドキッとした。朝9時前、オフィスでのルーチンに取り掛かる前、コーヒーを淹れる際に起きたちょっとした出来事。

この小事を書こうとしたものの、使い慣れたはずのコーヒーメーカーの部位の名称を正確にわきまえているかどうか、少々怪しい。コーヒーは飲むが自分では淹れない人に、カタカナの名称がはたして伝わるか。あまり自信がない。

とりあえず、ドリッパーとサーバーは必須用語。ペーパーフィルターを敷いて挽いたコーヒー豆の粉を入れる箇所が「ドリッパー」……タンクの水が熱されてこのドリッパーの所を通り、抽出されたコーヒーを受けるのがガラス製の容器で、「サーバー」という……こう描写しても、コーヒーメーカーの図がないとよくわからない。


さて、何が起こったのか? いや、何を起こしたのかと言うべきか。コーヒーメーカーでいつものように濃い目のアイスコーヒーを作るつもりで、ドリップケースにペーパーフィルターを敷いてコーヒーを4杯分入れた。ドリップケースホルダーがケースから外れて、コーヒーの粉が半分以上散乱した。初めてのことである。対処法は一つ、慌てず騒がず掃除機で吸い取るしかない。

気を取り直して、なぜ外れたかわからないドリップケースとホルダーをしっかりと装着し直し、あらためて新しいペーパーフィルターを敷き、コーヒーの粉も入れ直した。水の量を確認してスイッチオン。できるまでの間、席に戻って書類に必要事項を記入し始める。

12分した頃、水がこぼれる音がするので、コーヒーメーカーの所に駆け寄れば、掃除のために外したサーバーをセットし忘れていて、できたての熱いコーヒーがだだ洩れしている。今度はさすがに慌てた。電源をオフにし、キッチンペーパーを何枚も使ってこぼれたコーヒーを拭き取る。床にぽたぽたと落ちる寸前に気づいたのが不幸中の幸いだった。

朝から掃除と拭き取りにおよそ半時間。こんなことでもなければ、いつも使っているコーヒーメーカーのメンテも置いてある周辺の清掃もしない。「逆縁転じて順縁」と受け止めることにし、三度目の正直を目指す。遠回りをしたおかげで、美味なるアイスコーヒーができた。

「たちはたらく」

「たちはたらく」とあれば、「たちは/たらく」とか「たちはた/らく」とか「たち/はた/らく」ではなく、たいてい「たち/はたらく」と読む。では、この「たち」の漢字はどうか。これも、達、舘、質、太刀などとひねることはなく、おそらくシンプルに「立ち」と想像して、「たちはたらく」を「立ち働く」と突き止めるはずである。

この「立ち働く」ということばが読んでいた本に出てきた。自ら使ったことはない。どこかで見たような気がしないでもないが、めったにお目にかかれない表現だ。この立ち・・が「立っている」という意味でないことはわかる。その場にじっと立っているだけでは稼ぎにならない仕事もある。「小まめに働く様子」が浮かぶ。念のために辞書を引いてみた。

『新明解国語辞典』

「立ち」は接頭辞である。これが付く動詞は少なくないが、「身体的に立つ」という意味を持つのはわずかである。「立ち――」は「実際に――する」というニュアンスを感じさせる。


「あの人は立会人のくせにずっと座っていた」などといういちゃもんは成り立たない。立会人の仕事は終始立つことではない。席に座っていても立ち会うことができる。実際にその場にいることが重要で、立っているか座っているかは問題ではない。バーチャルではなくリアルに臨場することが立会人の果たす使命である。

「立ちまさる」という表現もある。単に「優れている」とは違う。「立ち」は、その後に続く行動・行為の一途いちずさを強調する。何もかもが勝っているのだ。断然で圧倒的で決定的な勝りようであり、その立場は現実には覆りそうもない。大きくリードした九回裏に易々と逆転されることもない。

立ち至る、立ち返る、立ち向かう……いろんな表現がある。「立ち至る」は、「重大な局面に立ち至った」と使うように、予測ではなく、現実になる状況を示す。「立ち返る」は、体操の技ではなく、もと居た所や出発点に戻る意にほかならない。敵に立ち向かうのなら、覚悟して本気で掛かっていかねばならない。ある方角に赴くという意味の「向かう」とは一線を画しているのだ。

ことばから離れない

他人ひとと直接会って冗談を言い合えない日々が続いて早や一年半。ジョークもギャグもおもしろく感じなくなった。普通の会話すらできなくなって、いろんな意味で余裕をなくしてしまったようだ。新型コロナという「ドキュメンタリーな時代」では、とりわけ失語症に気をつけないといけない。

仕事柄、ことばを文字として読んだり書いたりする機会は今もある。それで何とか生活が維持できている。激減したのは、聴覚器官が捉える、生の声による音の波だ。そして、聴く以上にごぶさたしているのが目の前の相手に対する発声。話の内容や相手に応じた、ちょうどよい距離感の喋りがほとんどできていない。おそらく勘が鈍っている。

コロナ以降、取引している銀行からの電話が多くなった。訪問しづらくなったので、あの手この手で話を持ち掛けてくる。飛び込みセールスならぬ、飛び込み営業電話も増えた。受話器に0120050の表示が出る。人事・採用、ネット回線、証券、投資などの売り込みで、「お忙しいところすみません。こちら株式会社何々……」という紋切型トークで始まる。「あいにく代表も担当者もテレワークで不在でして、私、留守番しているだけです」と言うと、素直に引き下がる。なお、用のない相手は「お断り番号」として登録するので、二度と掛かってこない。

愚痴を言っても詮無いことなので、言語が劣化しないように他者に依存せずに自力でできる工夫を始めた。まず、読書量を増やした。そしてマメに辞書を引いている。辞書を引いたら見出し語に青鉛筆で線を引く。その見出し語の前後の見出し語にもしばし目を配る。使っている辞書は『新明解国語辞典』の第八版。今年発行された新版だ。線を引くことで、ページ内の滞留時間が長くなった。ことば感覚の劣化阻止に少しは役立っているかもしれない。

ことばから離れると、必然コミュニケーション量が減る。他人と会わないから共食もしなくなる。孤食の寂しさに苛まれる人たちが増えていると聞く。書店で『孤食と共食のあいだ――縁食論』なる本を見つけた。孤食はつらい。かと言って、いつも共食では気が休まらない。別居と同居のそれぞれに長短があるように、孤食と共食にもそれぞれ功罪がある。「おお、久しぶり。時間ある? 軽くメシでもどう?」という、縁食の復活を切に願う。

料理の呼び名

ずいぶん前に、フランス料理の名称がよくわからないので調べたことがある。ソテー、グリエ、ポワレ、ロティは火の使いかたが違う。その調理のしかたが料理の名称になっている。豚のしょうが焼き・・、豚の角、豚のニラレバ炒め・・、トンカツ・・などと呼ぶのと同じ。

フライパンに少量のバターをひいて強火で肉や魚と野菜を手早く炒めるのが「ソテー」。ぼくたちがよく作っている肉野菜炒めなどがそれだ。ガスであれ炭火であれ、「グリエ」は直火に網を置いて肉や魚を焼く。

ランチによく利用していたオフィス近くのビストロでは、スズキや舌平目の「ポアレ」がよく出た。フライパンで焼くのはソテーと同じだが、表面をカリッと、身をふんわりと焼き上げる。具材から出る脂と汁をすくってはかけて丹念に焼く。「ロティ」はオーブンを使ったロースト料理。これも外側を香ばしく、身をジューシーに仕上げる。


ぼくの職住の場は関西随一のカレー激戦区である。和製も本場系も入り混じって競合している。インド/ネパール/スリランカ料理店が徒歩圏内で10店は下らない。知る限りの店には足を運んだ。カレーに詳しいわけではないが、よく通ったという点では「通」である。

長粒米のバスマティライスがベースで、盛り付けの見た目もよく似ているし、どの店でもすべてのカレーと具をよく混ぜて食べるようにすすめられる。しかし、名称が違う。アンブラ、ギャミラサ、ミールス、タ―リー、ダルバート、ビリヤニ……。このうち、混ぜるという点では同じだが、ご飯を炊き込んでいるビリヤニだけが他と違う。

ヤギ肉を使ったビリヤニ(カレーと混ぜ、ヨーグルトソースをかけて食べる)

あるスリランカ料理店で「アンブラ」を注文した。プレートの上に乗って出てくるライス、カレー、具をすべてよく混ぜて食べる。別のスリランカ料理店でも見た目は同じ料理だったが、そこでは「ギャミラサ」と呼び、スリランカのおふくろの味だと言う。アンブラとギャミラサは基本的に同じのようである。

スリランカ料理のアンブラ(別の店では「ギャミラサ」)
小皿に盛ったタ―リー(南インドでは「ミールス」と呼ぶようだ)

ネパール料理店では「ダルバート」という名で出てくる。最近のカレー店はほとんどがインド/ネパール店という看板を掲げていて、店の数はたぶん一番多い。「ダル」が豆スープ、バートが「米」なので、カレーの他に必ず豆スープがついている。これも、おかずと漬物を混ぜて食べる。

日本人が経営する店のラム肉カレーのダルバート(混ぜる前)

インド通の日本人が書いた豊富な写真入りの本も読み、行く店々でも尋ね、いろいろ情報を仕入れてきた。結論から言うと、カレー料理の呼び名と料理の内容は「異名同実いみょうどうじつ」という関係のようである。

矢印はどこを示す?

矢印について改めて考えることはまずない。分かり切っているつもりだから、今さら調べる気にもならない。そう思っていたが、試みに『新明解』にあたってみた。「行く先などを示すための、矢の形の印」と書いてある。察した通りだった。

矢印には双方向型(↔)と一方向型(→)がある。一方向の矢印は向きを変えて、おおむね8つの方向を示す。東西南北の4方向と、北東、南東、南西、北西の4方向である。それ以上細かく分けてもあまり意味がない。ちなみに、矢印の線は→、⇒、⇨、⇢などで表せるし、矢じりにもいろんな形がある。

今もあるのかどうか知らないが、メトロの駅ホームに一方向型の矢印を描いた紙が貼ってあった。矢印の下に「大阪城」の文字。こんな配置である。

矢印の指し示す方向は、土地に不案内な人にとっては「なぞなぞ」に近い。「北東の方向に大阪城あり」と了解はするが、階段を上って改札を通り、再び階段を上って地上に出れば、あの矢印の先がいったいどこを向いていたのかはもはや不明である。スマホのナビ機能を使いこなせないと右往左往すること間違いない。


漢字の標識よりもアルファベットの標識のほうがオシャレに見えるのは多分に偏見である。見慣れた表意文字に対して、表音文字のデザインに新鮮な印象を覚えるにすぎない。異国では初めて見る地名の文字は意味を持たないから、標識はビジュアル優位な存在になる。

シンプルなデザインと色遣いも標識の魅力だ。パリに滞在した折に標識の写真をかなり撮り収めている。方向を示す機能を持つ矢印だが、街中で精度の高い矢印に出合うことはめったにない。ほとんどの矢印は「だいたい」である。外国では特にそうだ。

ここから何メートル先か何キロ先かを記していない標識も多い。方角も適当、わかるのは「こっち」と正反対の「あっち」の違いだけ。繊細なニュアンスを感じさせない標識の矢印。そのいい加減さが街歩きをスリリングにしてくれる。