貨幣には意図がある

円高と市場介入の話ではなく、もっと身近なお金の話。先日、鶏料理の店に「二人」でランチに行った。同じ定食、700円のものを注文した。食べ終えてぼくが先にレジへと立ち、財布から「千円札」を出して店員に手渡した。ポケットから小銭入れを出さなかったし、出そうとする素振りもせず、ただ千円札を出して勘定を待った。それなのに、その店員は「ご一緒ですか?」と尋ねたのである。

一人五百円のワンコインランチなら、そう聞いてもいいかもしれない。二人分ならきっちり千円だから。けれどもランチは700円。千円では二人分はまかなえない。ゆえに、千円札を出した後に小銭を足さなかったぼくが自分一人分を払おうとしたことを、店員は即座に察知するのが当たり前だった。黙って百円硬貨3枚のお釣りをくれたらいいのである。

機転がきかないのは、「ご一緒ですか?」が口癖になっているからなのだろうか。かもしれない。しかし、だいたいにおいて、ランチの勘定が別々か一緒かは、レジでの客の振る舞いや空気でわかるものだ。レジ係なら読まなければならない。いや、そんな大げさな話ではなく、視野をほんの少し広げるだけで、ぼくの後ろの連れも財布を手にして勘定を待っていたのが見えたはず。加えて、ぼくの千円札の出し方を見れば別々の支払いというのは一目瞭然だった。「ご一緒ですか?」と聞かれて、「えっ、これ(千円札)で二人分にしてくれるの?」と切り返してもよかったが……。


論理クイズの一種に次のようなものがある。

場所は小劇場の切符売場。この小劇場には普通席と指定席があり、普通席1300円、指定席1800円の料金設定になっている。一人の客が売場で二千円を出したら、係が「普通席ですか、それとも指定席ですか?」と尋ねた。客は「普通席をお願いします」と答え、係は700円のお釣りを差し出した。続いて別の客が来て、同じく二千円を窓口に出した。すると、今度は係は何一つ尋ねることなく、「指定席ですね」と確認してから200円のお釣りを渡した。係は同じ二千円を出した二人の客に対してなぜ別々の応対をしたのだろうか? これが問題。

金持ちそうな身なりから判断した? いや、そんなバカなことはない。五千円札か一万円札を出されたら、係は「普通席ですか、指定席ですか? 何枚ですか?」と聞いたはず。これがヒントだ。


切符売場係のこの人には紙幣と硬貨の内訳パターンができているので、会話を交わさずとも出された貨幣の種類を見ただけで何枚いるとか普通席か指定席かがわかることがある。実は、最初の客が差し出した二千円は千円札二枚だった。だから、客が告げないかぎり、1300円の普通席か1800円の指定席のどちらを求めているのかはわからない。それで、聞いたのだ。ところが、二人目の客が出した二千円の内訳は千円札と五百円硬貨二枚だった。普通席なら千円札と硬貨一枚でいい。つまり、指定席を求めたことが即座にわかる。

別に大それたスキルなどではない。初歩的な推理能力である。しかし、お金を総額でとらえて貨幣の内訳で判断しない人間には、単純なお釣りの引き算すらおぼつかない。鶏料理店の店員はこのことをよく学ぶ必要がある。

日付のない紙片

百円だった、その本は。古本屋で。百円とは驚きだ。気づけば買っていた。手に取ってペラペラ捲ると、あの古本独特の日陰の干草のような匂いが少し鼻をついた。初版が昭和262月。誰かさんとほとんど誕生年月日が同じ。但し、今手元にあるそれは昭和43年8月の改訂重版だけど。

やれやれ、昭和で時を語るには無理がある。西暦に「翻訳」できない連中が増えてきたから。知っての通り、いや、知らないかな、昭和○○年の○○に25を足すと、西暦19□□年の□□になるんだね。東京オリンピックは昭和39年で、3925を足すと64だから、西暦1964年というわけ。

その本を書いたのは、1960年代に日本でも哲学ブームを巻き起こしたあの人。そう、サルトル。猫も杓子もサルトル。なんて言われたかどうか知らないが、とにかくサルトル。ぼくの尊敬するY氏が嵌まった哲学者サルトル。実存主義をもっとも有名にした、パリ生まれのジャン-ポール・サルトル。少しくどいか。

屁理屈をこねるとキリがない。大雑把に言えば、実存主義というのは「人間存在の独自のあり方」だ。そこらにある道具や事物と同じように人は存在していないぞ、というわけ。で、その本の題名? そうそう、その話。それは、サルトル33歳のときの長編小説『嘔吐』だ。


小説は日記風になっている。詳しくは書けない。なぜかって、途中で読むのをやめたから。サルトルの哲学書を読んだ知り合いはそこそこいるけれど、この『嘔吐』の最終行まで辿り着いた奇特な読者は回りにいない。未来の読者のためにあらすじは書かない。いや、書きたくても書けないし。

少し抜き書きすると、こんな調子。

きのうどうして私はつぎのような愚劣で得意気な文章を書くことができたのか。「私はひとりぼっちだ、しかし空から街へおりてくる一群のように歩いている」と。文章を飾ることは必要ではない。私はある種の情況を明瞭にするために筆をとっている。文学を警戒すべきである。ことばを捜すことをせず、筆の走るままにすべてを書くことだ。

さらに読み進んだ別の箇所には次の一行がある。

記すことなし。存在した。

不条理で不思議な空気が充満してくる。異様なほどの精細な描写もあるし……。小説の冒頭で、どんなふうに記すべきかを書いている。プロローグと言えばいいのだろうか、それが「日付のない紙片」という見出し。出だしはこうだ。

いちばんよいことは、その日その日の出来事を書き止めておくことであろう。はっきり知るために日記をつけること。取るに足りぬことのようでも、そのニュアンスを、小さな事実を、見逃さないこと。そして特に分類してみること。どういう風に私が、このテーブルを、通りを、ひとびとを、刻みタバコ入れを見ているかを記すべきだ。なぜなら、変ったのは〈それ〉だからである。この変化の範囲と性質を、明確に決定しなければならない。

この書き出しだけでも、読んだ意味があった気がしないでもない。いつか辛抱して完読しようとは思うけれど……。いや、その時間があれば別の本を読むほうがいいか。どうだろう、『嘔吐』。よければ、読んでみる? えっ、読む前から吐き気がするって? それは正しい感覚かもしれないね。

人の何に賭けるのか

「賭け」と口に出しただけで危うい匂いが漂ってくる。賭け事ということばに爽やかなニュアンスはない。うしろめたく、まっとうではなく、堂々と胸を張りにくい。だから、その方面の愛好家は賭け事などと呼ばずに、「競馬」や「パチンコ」や「麻雀」などと遊戯内容を明かすことによってマイナスイメージをやわらげようとする。

それでも、求人募集に応募した面接で「趣味は競馬です」とか「パチンコファンです」などと情報公開する者はほとんどいないだろう。万が一「趣味は賭け事です」などと舌を滑らせてしまったら、競馬やパチンコ関連業でも不採用になるかもしれない。別の場面、たとえば何らかの決意表明などでも、「ここが勝負どころです」と言うのはいいが、「一か八かの賭けに出ます」は向こう見ずで物騒だ。安心して見ていられない。

ところが、ことばにして「賭け」とは言わずとも、ぼくたちは様々な状況で何がしかの賭けを人に対しておこなっている。面接をして誰を採用するか、その判断は一種の賭けである。応募者も「趣味は賭け事」と言わないし、面接官も「よし、君に賭けた」とは言わない。しかし、一方は会社の未来に賭け、他方は将来の人材に賭けている。

賭博は偶然性の要素を含む勝負事であるが、回数を重ねていくと強者・弱者に色分けされる。人材の成長可能性を読むのを賭け事と同じ扱いするつもりはないが、まったく非なるものとも言い難い。なぜなら、過去の実績と現在の技能や力量を踏まえ、将来性を見極めて採否の決定を下すのは、その人物への賭けにほかならないからだ。賭けは当たるかもしれないし、外れるかもしれない。経験を積んだ人事の眼力が問われるところである。


だが、学校を出たばかりの若者の成長可能性を見抜くのは容易ではない。履歴書というペーパーに記載された出身大学やその他諸々の経歴・賞罰という「事実」、そして面接と入社試験の成績(あるいは縁故など)が、はたして精度の高い評価を支える証拠になりうるのか。確率論的にはなりうるだろうが、評価はあくまでも個人単位である。ところが、国家公務員住宅の家賃が相場の半額以下という事実が明るみに出た昨年11月、著名人がまさかというコメントをしているのを聞いて呆れてしまった。

元検事の評論家と行政学専門の大学教授は「家賃が高いと優秀な公務員が集まらない」と、ぬけぬけと言ってのけたのだ。彼らが言う「優秀な公務員」とは実績を積んだ社会人ではなく、新卒のことである。つまり、「優秀な公務員になるであろう新卒を集めるためには、世間の家賃相場の半分以下で住宅を用意せねばならない」と言っているのである。

優遇を期待して公務員になる人間と、そんなことなど当てにもせずに公務員を志望する人間がいるだろう。前者が優秀で後者がさほどでもないなどという推論は当然成り立たない。二十二、三才の時点で公務員マンションに格安で住もうとする連中を、優秀な公務員候補と格付けしてしまう愚かしさをわらうべし。現状の優秀性のみを見て成長可能性に目配りなどまったくしていない。まるでデータ重視の本命主義だ。安い家賃や住宅手当に期待などせぬ活きのいいダークホースに賭けてみる勇気はないのか。

ミスとグズ、または失敗と怠惰

先週の水曜日、塾生Sさんの会社の全社会議の第三部として『広告の話』について講演した。若い社員さんらは仕事のありように気づいてくれたようだ。決してやさしい話ではなかったが、紹介した事例と仕事線上の課題や願望との波長が合ったと思われる。ぼくの出番はそれだけだったので、第一部と第二部での話は聞いていない。懇親会の席で見せてもらった会議資料をちらっと見れば、そこに次の一文があった。社是である。

「ミスには寛容に、怠慢には厳しさを。慣れ合いのない優しさ、責め心のない厳しさ」

生意気なことを言うようだが、ぼくにとっては目新しいものではない。しかし、このメッセージにとても素直に感応できた。なぜなら、そのように生きてきたし、怠慢(そして、その日常化した惰性の延長としての無為徒食と放蕩三昧)を、自他ともに戒めてきたからである。天賦の才があるわけではないし、油断しているとついつい怠け心に襲われる弱さを自覚しているから、たとえ使い古されたことばである「努力」や「精進」をも盾にして怠慢にあらがうしかないと考えてきた。

かつてエドワード・デ・ボノが水平思考(やわらかい発想)のヒントの一つとして、「ありとあらゆる要素を考える」を掲げた。まったくその通りで重要なことなのだが、これはぼくたちにとっては至難の業だ。あらかじめありとあらゆる要素をシミュレーションできれば、たしかにミスは大いに減るだろう。しかし、賢人が何もかも見据えた上でなおも失敗を犯してしまう現実を見れば、凡人の仕事が日常茶飯事的にミスと隣り合わせにあることは容易に想像できる。いくら注意しても「ミスは起こるもの」なのである。

だからこそ、ミスには寛容でなければならないのだ。但し、己のミスの言い訳のために他人のミスに寛容であろうとするのは自己保身である。ミスに対して寛容であるというのは、自他を問わず、仕事上のミスの蓋然性に潔くなれという意味でなければならない。リスク管理に意を凝らしても起こるミス、あるいは複雑な外的要因によって起こるミスに対しては、月並みだが、再発を防ぐ処方しかない。その処方をアタマと身体に叩き込むしかない。


経験を積み熟練度を増すにつれてミスは徐々に減るもので、看過してもいいほど小さくなってくる。しかし、最後の最後まで残るミスの原因は油断であり、その油断を許してしまう慢心と怠惰に遡る。慢心と怠惰は人間の本性の一部だから、つねに見張っていなければならないのだ。だから「怠慢には厳しさを」なのである。ぼくの知るかぎり、怠慢から派生するミスを相変わらず繰り返す人間は、本人の自力による救済は不可能である。誰かが手を差し伸べてやるしかない。とても時間がかかるし徒労に終わる可能性も高いが、放置すれば組織悪や社会悪としてはびこってしまう。

社是の後半の「慣れ合いのない優しさ」と聞けば、「親しき仲にも礼儀あり」を連想する。フレンドリーであることはいいことである。しかし、ついつい甘味成分が過多になって関係がべたついてしまう。お互い相手を理解し優しい眼差しを向けるのはいいが、そこにはさらりとした抑制が働いていなければならない。Sさんとぼくは長い付き合いで信頼関係も強いが、見えない一線を互いに暗黙のうちに了解している。

最後の「責め心のない厳しさ」は人への対峙のあり方にかかわる。自分はその人をどうしてあげたいのか、なのだ。立ち直れないほどこてんぱんにやり込める厳しさも世間にはある。叱責のための叱責、逃げ場のない窮鼠状態への追い込み。困ったことに、自分に甘い指導者ほどが強く相手を強く責める。だが、指導者側の鬱憤発散のための厳しさでは話にならないのだ。

ぼくはと言えば、議論になればきわめて厳しくからい。相手を妥協せずに論破し、矛盾点を徹底的に追及する。理由は明快で、一段でも高みへと成長してほしいからにほかならない。どうでもいい相手に厳しさなど不用だから、議論に引きずり込むまでもないのである。

文字にしてわかること

目を閉じて腕を組み考えている。傍からは考えているように見えるだろう。だが、目を開けて腕組みをほどくと、明瞭な考えを巡らしていた痕跡が何一つないことに気づく。何だか渺茫びょうぼうとした平原をあてもなくさまよってきたかのよう。つかみどころのないイメージはおびただしく現われては消え、消えては現われた。ことばの断片だって見えたり隠れたりもした。一部の語は響きもした。しかし、考えていたつもりのその時間のうちに豁然かつぜんとした眺望が開けていたのではなかった――ということが後でわかる。

考えるということは雑念を払うことではない。むしろ、雑多なイメージや文字の群れを浮かばせては、その中に紛れ込み、そこから何かを拾い出して結んだり、ひょいとどこかへ飛び跳ねたりすることだろう。ぼくは沈思黙考という表現を好むが、現実の思考にはそんな落ち着いた趣はない。もちろん瞑想とはさらに距離が隔たる。雑念を払おうとする瞑想は、ものを考えるという行為の対極に位置すると言ってもよい。

考えているプロセスは、実はぼくたちにはよくわかっていない。また、考えたことと紙の上に書いていることはまったくイコールではないのである。腕を組んで考えたことのある部分は漏れこぼしているし、いざ書き始めたら考えもしていなかったことを綴っていたりする。考えたことを書いていると思っているほど、考えたことと書いていることが連動しているのだろうか。むしろ、書いている今こそが考えている時間であり、次から次へと現われる文字の群れが思考を誘発している気さえする。


あることばや漢字がなぜこのように綴られ発音されているのかが急に気になり出すことがある。さっきまでふつうに使っていたのに、ふと「ぬ」という文字が変に見えてきたり、「唐辛子」が人の名前のように異化してきたりする(「変」という文字が変に見えてくる話を以前書いた)。今朝は「一」が気になり、これを「いち」と読むことがさらに気になり、その一に「人」や「品」や「点」や「匹」がつくことがとても奇妙に思えてきた。それで、目こそ閉じはしなかったが、ぼんやりと「一」について考えていたのである。

ふと我に返れば、まっとうなことを考えてなどいなかったことがわかった。考えているつもりの大半が「ぼんやり時間」なのだろうと思う。試みにノートを取り出して「一人」と適当に書けば、何となくその文字に触発されて「一人でも多くの人」という表現が浮かんだので、そう書いた。そして、「一人でも多くの人に読んでほしいと語る著者の本心が、一人でも多くの人に買ってほしいであったりする。読まれなくても買ってもらいさえすればいいという本心。では、ぼくたちは、一人でも多くの人に本心からどうしてほしいと思い、どうしてあげようと思っているのか。明文化は一筋縄では行かない」と続けた。

ペンを持って紙の上を走らせるまではそんなこと考えてもいなかった。いや、考えていたかもしれないが、言語的には何一つ明快ではなかった。おそらく、「一」という対象に意識が向けられて、かつて考えたり知ったり経験したりした脳内のことばやイメージが起動したのだろう。そして、リアルタイムで書き、その書いている行為がリアルタイムで考えを形作ったと思われる。「下手の考え休むに似たり」に通じるが、文字化せずに考える時間は凡人にとっては無駄に終わる。とりあえず書く。書くという行為は考えるという行為の明快バージョンと見なすべきかもしれない。

コロケーションの感覚

誰かが話すのを真剣に聴いているものの、注意が内容にではなく、「ことばのこなれ具合」のほうに向いてしまうことがないだろうか。ぼくはしょっちゅうそんな体験をしている。話の中身を聴いてもらえない人やことばの表現と流暢さに悩んでいる人には、今日の話は参考になると思う。少々難しいかもしれないが……。

ことばのこなれ具合に関連して、連語〈コロケーション〉の話を二年前の『ことばの技法』という講座で少し取り上げたことがある。そのニューバージョンのためにおもしろい演習を作ってみようと思い立ったのが週始め。直後、塾生Mさんのブログで「コーパス(corpus)」についてのくだりを見つけた。Mさんは日本語の専門家だから、この方面の言語習得理論によく精通している。

来月の私塾大阪講座のテーマが言語なので、記事中の反チョムスキーやピンカー贔屓の話も興味深く読ませてもらった。ぼくの講座の半分はソシュールがらみだが、ほんの少しだけチョムスキーとピンカーにも言及するつもりだったので、よい参照ができた。私塾では最後の15分間を一人の塾生のコメントタイムに充てている。そして、来月のそのクローザー役を務めるのが彼なのである。きっと別の視点からぼくの生兵法を補足してくれるだろうと勝手に期待している。

さて、コンピュータ処理機能の高度化によってコーパスが加速していることは想像できる。ただ、ぼくのコーパス観は相当に古くて陳腐化しているかもしれない。なにしろ最初にコーパスに関心を抱いたのが、27年前に発行された『現代米語コーパス辞典』。1,200ページの分厚い本だが、共著ではなく、坂下昇が一人で書き下ろして編んだもの。アメリカではコーパスが当時以前から重要視されていた。

さて、そのコーパス。「ことばの素材大全集」という意味だ。もう少し説明すると、一定期間に発行された書物からありとあらゆることばを拾い集めて収録し、コンピュータ処理によって言語の推移や特徴を統計的に分類する、膨大な標本データベースということになる。現在のコーパスの認識もこんなふうでいいのだろうか。いや、高度な技術の恩恵を受けて、想像外の分類や検索が可能になっているに違いない。


前掲の辞典に続き、翌年に同じ著者が『現代米語慣用句コーパス辞典』を出した。ちょうどその頃、ぼくは国際広告・海外広報の仕事で英文を書いていたので、こちらの本をよく活用した覚えがある。慣用句とは「決まり文句」のこと。見方を変えれば、ことわざや金言などを含む定番的な表現は、耳にタコができそうな常套句でもあるのだ。しかし、頻繁に使われてきただけによくこなれているし、文化や精神の共有基盤に根ざしてもいる。そんな慣用句を適材適所的に使いこなす人には「ことば巧者」という印象を抱く。

少し迂回したが、やっと冒頭のコロケーション(collocation)に戻ってきた。コーパスという、膨大なことばの標本から、時代ごとにどんな慣用句の頻度が高いかということがわかる。そして、慣用句というのはおおむね二語以上で表現されるから、ことばとことばのつながり、すなわち「こなれた連語」の事例があぶり出されてくる。手元の日本語コロケーション辞典を適当にめくると、【調子】という項目があり、相性のよい動詞と連語になった「調子が出る」「調子が外れる」「調子に乗る」「調子を合わせる」「調子を崩す」が挙がっている。

広告の見出しや実験小説の表現、それに新商品の命名などでは、時折りコロケーションを崩す冒険を試みる。新しい語の組み合わが注意を喚起しアヴァンギャルドな効果を出すからだ。しかし、ふだんのコミュニケーションになると話は別で、スムーズに二つ以上の語がつながるほうが文意がよく伝わるのは当然。だから、こなれ具合が悪いと耳障りで、肝心のメッセージに集中できなくなってしまう。

二つ三つの語が慣用的に手をつなぎ、一語のように機能するのがコロケーション。形容詞と名詞あるいは名詞と動詞の組み合わせをそのつど考えていては話がはかどらない。だから、ぼくたちはコロケーションを身につけて言語活動を省エネ化しているのだ。コロケーションセンスを磨く近道は、アタマで覚えるのではなく、口慣らしによる身体への刷り込みに尽きる。自分が気に入っていて波長の合う、よくこなれた文章を音読するのがいい。必ずしも名文である必要はない。

映画の思い出いろいろ

今はもう長時間観る馬力はないだろうが、昭和の二十年代から四十年代にかけて父親はよく映画館に足を運んでいた。ぼくの父親に限ったことではない。子ども目線から見た街中の大人の娯楽と言えば、映画かパチンコだったはずである。あとは喫茶店にたむろしてコーヒーにタバコ(昭和には「珈琲と煙草」と表記するのが似つかわしい)。

小学校時代、父親にずいぶん映画に連れて行かれたが、よく覚えているのは『アラモの砦』と『荒野の七人』、それにジョン・ウェイン主演の西部劇シリーズくらい。ヒッチコックの『裏窓』など、子どもにはわかりづらい作品も観せられた。ストーリーを覚えているのは、後年になってテレビで観たからにほかならない。ビデオが発明される前であり、テレビで放映するのはマイナーな映画ばかり。そんな時代だったから、中学生までは自主的に映画を観ようとしたことはない。いろいろと映画は観たのかもしれないが、決して映画マニアだったわけではない。

高校も二年の後半になると受験勉強期に入るが、ひょんなきっかけから時折り映画鑑賞するようになった。遊び半分で試写会に応募したら当たったのがきっかけだった。たしか最初の試写会はスティーブ・マックイーン主演の『砲艦サンパブロ』。そのあとにウォルター・マッソーとジャック・レモンの『おかしな二人』なども当選した。いや、実を言うと、応募したら必ず当たったのである。だから、劇場で実際に何を観たのかをすべて覚えてはいないが、結構よく試写会に行っていたのだ。


試写会通いは大学生の頃まで断続的に続いた。これだけ映画を観ていたのに、映画が三度のメシより好きなわけではなかった。ぼくは本性的に映像派ではなく活字派だったので、視聴覚的効果をあてがわれ、ともすれば受身的になってしまう映画をいつも醒めて鑑賞していた。大学生時代の映画鑑賞の目的は純粋に英語のヒアリング強化のためであったし、後日シナリオを手に入れて表現の勉強もした。この頃『ペーパー・ムーン』や『ラブ・ストーリー』で知った英語表現を今も覚えている。

本がなくなると困るが映画がなくなっても困らない。テレビで放映される映画をチェックするわけでもなく、たまたま縁と時間があれば観る程度だし、途中でさっさとチャンネルを切り替えることもある。社会人になってから映画館に行くのはせいぜい年に一回。数年間まったく映画と無縁の時期も複数回あった。そのぼくが、今年は三度も映画館に足を運んでいるのである。

まず『アリスインワンダーランド』(原題“Alice in Wonderland”)。原作ルイス・キャロルの小説がどう映像化されるかに興味があった。この種のメジャーな作品を観るのは例外的だ。あとは、『オーケストラ』(フランス映画、原題“Le Concert”)と『ボローニャの夕暮れ』(イタリア映画、原題“Il Papa di Giovanna”)の二作。いずれも原題と邦題が違う。前者は「コンサート」、後者は「ジョヴァンナのパパ」だ。ここのところ、年に一度か二度観る映画はだいたいミニシアターで上映される、人生をちょっとばかり考えさせる作品である。エンターテインメント的にもてなされるだけの作品はもういい。読書傾向に近くなったのかもしれない。

と言うような次第で、映画ファンから見れば、とてもなまくらな鑑賞をしている。ぼくは映画愛好家などではなく、時々美術館に行くように映画館に行く。直感的に行く。そして、少しいいものに出合ったら大いに満足して帰ってくる。数を絞っているせいか、ハズレがほとんどない。

過剰なる礼讃

さして強い関心もなく、また親しんでもいない事柄だからといって、頭ごなしに否定するほど料簡は狭くないつもりだ。だいいちそんなことをしていたら、きわめて小さな世界でごくわずかな関心事をこね回して生きていくことになってしまう。そんな生き方は本望ではないから、異種共存をぼくは大いに歓迎する。そして、多様性に寛容であるからこそ、自分の存在も関心事も、ひいては意見も主張も世間に晒すことができると考えている。

「ブログを時々読ませてもらっています。ツイッターのほうはやらないのですか?」と聞かれたこと数回。「ツイッターには関心ないのですか?」とも言われた。ツイッターに関しては本も読み、年初に塾生のTさんのオフィスに行って詳しく教わり、その後に食事をしながらIT系のコミュニケーションメディアについても意見を交わした。「ツイッター、いいのではないか」と思ったし、そして今も、「ツイッター、はまっている人がいてもいいのではないか」と考えはほとんど変わっていない。ただ、ぼくはツイッターに手を染めてはいない。どうでもいいなどとは思っていないが、ツイッターをしていない。する予定もないし、しそうな予感も起こらない。

物分かりのいい傍観者のつもりなのに、ツイッターをしていないだけでツイッター否定論者のように扱われるのは心外である。ぼくは自動車を所有せずゴルフもしないが、自動車とゴルフの否定論者ではない。車についてゴルフについて熱弁する知人の話に「静かに、かつ爽やかに」耳を傾ける度量はある。関心もなく親しくもない人間と話をするし食事もする。ごくふつうにだ。しかし、恋い焦がれることはない。強く求めもしないし強く排除もしない。いや、それどころか、存在をちゃんと認めている。共存するのにたいせつなのは、情熱ではなく寛容だと思うのである。


IT関連の知り合いから定期的にメルマガが配信されてくる。一人はかつて親しかったが、ここ数年会っていない。もう一人は一、二度会った程度で、「名刺交換した方に送らせてもらっている」という動機からの配信だ。前者がツイッター礼讃者であり、後者がipad礼讃者である。後者のメルマガはほとんど見ないが、前者には時々目を通す。彼は「ツイッターがすごいのは、世界中の人と出会うきっかけを提供していることだ」と主張する。さらに、「もっとすごいことは、繋がりを維持し続けることができることにある」と強調する。まことに申し訳ないが、本人が「すごい」と力を込めて形容するほど、ぼくにはすごさが伝わってこない。

世界の人々との繋がりを特徴としたのはツイッターが最初ではない。かつては飛行機がそうだったし、電話・テレックスがそうだった。旅をして現地の人々と交流するのも繋がりだろう。実は、繋がりはずいぶん使い古されたことばなのである。しかし、よく喧伝されるわりには、世界の人々は現実的には繋がってなどいない。ツイッターによって具体的にどう繋がっているのか、そして、繋がりとはいったいどういうことなのかが実感としてわからない。彼の言い分はぼくには仮想にしか見えないのである。

最後に「特に書く内容を熟慮もせず、時間的コストもかけず、多くの人と繋がりを維持することができる」と締めくくっている。彼は真性のツイッター礼讃者のようだ。熟慮もせずに書くメッセージをやりとりして、いったいどの程度に世界の人々は繋がることができるのか。ツイッター上だけでなく、安直なつぶやきで日々繋がろうとしている人たちはいくらでもいる。そして彼らは対人関係上もネット上もただつぶやくのみ。その場かぎりの、思いつきのつぶやきごときで世界の人々が繋がるなどということはにわかに信じがたい。

手紙を否定しないように、ぼくはツイッターも否定しない。しかし、構造のうわべだけを過度に礼讃するツイッター信奉者に首を傾げている。

全体と部分の関係

よくある折りたたみ式のヘアドライヤーを使っている。整髪のために使うのではなく、濡れた髪を乾かすためである。そのドライヤーの折りたたみ部のプラスチックが欠けた。小指の爪ほどのかけらだ。「強力瞬間接着剤」で何度もくっつけようと試みたが、100円ショップで買ったその接着剤、まったく強力ではない。くっつくことはくっつくのだが、折りたたみ部を伸縮させるとすぐに剥がれてしまう。それ以上意固地にならず、また、買い替えようとも思わず、機能そのものにまったく支障がないので今もそのまま使っている。

これは、部分の欠損が全体に対して特段の影響を及ぼさないケースだ。しかし、さほど重要ではない部分が全体の価値を落としてしまうこともある。たとえば、チャーハンに入っているグリーンピースやカレーライスに添えられた福神漬け。これらの取るに足らない脇役のせいで食事を心から楽しめていない人たちがいる。彼らは、嫌いなグリーンピースを福神漬けを悪戦苦闘して排除しようとする。全体に関わるマイナスの部分に容赦ならないのである。

実は、ことばというものは、ある文脈でたった一語が足りないだけで意味を形成しづらくなる。ことばはお互いにもたれ掛かってネットワークを構築しているので、ある語彙の不足・忘却は既知の語彙全体の使い方にも影響を及ぼす。

では、頭の働きはどうなのだろうか。人の身体には欠損を補おうとする機能がある。アタマも同様で、たとえば左脳に傷害が起こると右の脳が部分的に代役を務めることはよく知られた話だ。だが、精密機械の小さな一部品の故障が機械全体の不具合を招くように、言語と思考は一つの異常や不足によって全体の磁場を狂わせてしまうと考えられる。個がそれ自体で独立しているのなら不都合はないが、おおむね個は全体あっての存在なのである。だからこそ、個の問題はつねに全体に関わるのだ。


「全体は部分の総和以上であり、全体の属性は部分の属性より複雑である」

これはアーサー・ケストラーの言である(『ホロン革命』)。ケストラーによれば、「複雑な現象を分析する過程で必ず何か本質的なものが失われる」。つまり、全体を個々の部分に分解しても全体と部分の総和はイコールではないということである。このことは少し考えてみれば納得できる。レシピの材料の総和以上のものを料理全体は備えているし、住宅はあらゆるコンポーネントを組み立てた以上の存在になっている。

腕時計の完成形という全体構想に合わせて部品が作られ集められるのであり、一軒の家の設計図があって初めて柱や壁や屋根やその他諸々の部材が規定されるのである。決して部分を寄せ集めてから全体が決まるのではない。この話は、総論と各論の関係にも通じる。意見の全体的なネットワークを総論とするなら、各論が勝手に集まって総論を形づくっているのではない。思想や価値観の根幹にかかわる、その人の総論がまずあるべきなのだ。

人の顔色を見てそのつど間に合わせの各論を立て、それらの各論を足し算したら総論になったなどというバカな話はない。総論はさまざまな意見の全体を見晴らしている。それはつねに漠然としながらも、人生や世界や他者に対して変わりにくい価値を湛える。総論という意見のネットワークにはもちろんケースバイケースで各論が入ってくる。それはまるで、時計や家にソリッドな堅強系の部品とデリケートな柔弱系の部品が共存するようなものだ。各論に極論があってもいいが、総論には全体調和論がなければならないのである。

話をする人、耳を傾ける人

昨日と一昨日、二日間の企画研修を実施した。アタマも話も大丈夫だが、毎年少しずつ足腰に負荷がかかる。適度に立ったり座ったりし机間を歩いたりしていればいいのだが、熱が入るとついつい同じ場所に立ちっ放しで喋ってしまう。最近パワーポイントを遠隔操作できるリモコンを使い始めたので、ずっと立っていることが多くなった。座って話をするよりも立って語りかけるほうが性に合っているので悲観すべきではないが、歳相応に足腰を鍛錬せねばならないと実感する。

身体のどこかに不調があると、話しぶりに支障を来たす。さすがにキャリアを積んできたので、体調管理には気を遣っている。出張や研修の前には飲まないし人付き合いもしない。夜更かしは絶対にしない。したがって、過去に絶不調で研修や講演を迎えたことは一度もない。それでも、少々肩や背中が痛かったり足がだるかったりすることはある。たとえばふくらはぎや土踏まずに痛みがあると、話しながらも神経がそっちに過敏になったりする。

脳の働きと身体の調子と言語活動は密接につながっている。いや、一体と言ってもよい。アタマが活性化していない、あるいは身体が変調であるという場合には、満足のいく話ができない。但し、それは、調子のいい時と比較する話し手側の自覚であって、初対面の受講生が「今日の講師は調子が悪そうだ」などと認識することはない。彼らは、これまで受講した講師と比較して「今日の講師は下手くそだ」と判断するだけである。


講師と受講生、すなわち話をする人と耳を傾ける人の講義品質に対する評価は同じではない。話す側の自画像と聞く側の描く他者像が一致することは珍しいだろう。仮に一致していようと不一致であろうと、アンケート以外に知るすべはない。しかも、アンケートが受講生たちの所見を素直に表わしているともかぎらない。話す側が意図する効果・演出と、聞く側が期待する学習成果もだいたい乖離しているものである。

ぼくの研修や講座における意図は内容によっていろいろだが、おおむね五つに集約できる。それらは、(1) 新しい発見、(2) 好奇心をくすぐる愉快、(3) 適度にむずかしい、(4) 有用性、(5) わかりやすい、である。

ぼくにとって、話が受講生にとってわかりやすいことは最重要ではない。背伸びもせずに余裕綽々でわかってしまうような話では、後日あまり役に立たないのだ。つまり、(5)(4)の妨げになることがある。ゆえに、(4)のためには(3)において手を抜けない。しかし、(3)への挑戦意欲を維持するためには(2)が必須になる。むずかしくても楽しければ集中が持続するものである。その結果、貴重な時間を費やしてもらうに値する新しい発見をプレゼントすることができる。以上の目論見を逆算すれば、上記の優先順位がぼくの意図になる。

塾生のIさんが先日のブログで、「岡野先生の話はおもしろい。でも、むずかしい」と評していた。ぼくの意図からすれば、ほぼ最高の褒め言葉である。そして、彼は時々講座で話した内容を「新たに学び発見した事柄」として取り上げてくれている。思惑通りに上位の三つが伝わっているのだ。自惚れてはいけないが、手応えを感じる。よし、有用性とわかりやすさにも一工夫をという気になってくる。