押し入ってくる情報

リチャード・ワーマンの『情報選択の時代』が発行されたのが1990年(翻訳は松岡正剛)。原題“Information Anxiety”は「情報不安」という意味である。同書の第1章には次の記述がある。

毎週発行される一冊の『ニューヨーク・タイムズ』には、十七世紀の英国を生きた平均的な人が、一生のあいだに出会うよりもたくさんの情報がつまっている。

それはそうだろうと思うかもしれない。なにしろ400年前との比較なのだから。しかし、よく考えてみてほしい。ぼくたちが一週間に耳にし目にする情報は週刊の『ニューヨーク・タイムズ』一冊程度ではないのだ。テレビにインターネット、毎日の新聞に会話、雑誌に書籍、それに仕事上の諸々の情報を総合すれば、一週間でかつての英国人の生涯五回分の情報に晒されている計算になる。これは一年で「二百五十回の生涯」、60年でなんと「一万五千回の生涯」に相当する情報量に達する。

IT時代に突入する前、情報にまつわるキーワードが「情報収集」だったことを思い出す。昨今、この四字熟語にはめったにお目にかかれない。情報を集める必要がなくなったのである。情報は勝手に集まってくる。メディアに対して自分を開いておきさえすれば、大多数の人々にほぼ同量で同質の情報が「押し入って」くる。そして、その量たるや、情報洪水などという表現が甘く響くほどの凄まじさなのだ。


前掲書『情報選択の時代』は、20年前に情報不安症の兆候を察知していた。どんなに爆発的な量の情報にまみれても、人は情報が足りない不安にさいなまれる。このような予見をするからこそ「自制的選択」を基軸にした情報行動を強く意識せねばならないのである。情報選択とは、一般人にとっては広範囲から少量ずつ主体的に取り込むことだろうと思う。腹一杯情報を消化せねばならない理由など微塵もない。

知らなくてもいいことが次から次へとやってくる。こちらの優先順位などにはお構いなく、ただでさえ情報の扱いに四苦八苦している記憶の領域に闖入し占拠してしまう。手元にあるいくつかの情報だけで十分に仕事に役立てることができるにもかかわらず、押し入ってきた情報をちらっと見たのが運の定めか、もはや手に負えなくなって仕事が遅滞してしまう。そんな連中を最近とみに目撃するようになった。

そうなっては抵抗不可能である。窓越しに覗いたら隣りの垣根のすぐ向こうに情報が迫ってきている……そんな気配を感じた時点で手を打たねばならない。「知らなくてもいい情報がやってきても、知らん顔をして受け流せばいい」と油断していると手遅れだ。なぜなら、それが知らなくてもいい情報だと知ってしまった時点で感染しているからである。対策はただ一つ。週に何度か、自分が持ち合わせている知識で何とかやりくりする、〈情報鎖国主義〉を貫くのだ。決して自知防衛を怠ってはいけない。

トップの思い上がり

『「笑い」と「お笑い」』について昨日書いた直後に、八年前のある一件を思い出した。そのことについてノートに書いていたのも記憶にあり、探してみたら見つかった。上方漫才奨励賞を受賞した漫才兄弟「中川家」が、吉本興業の意向で賞を辞退した話である。当時の新聞記事を要約すると、おおよそ次のような内容になる。

ラジオ大阪と関西テレビ放送が主催した「第37回上方漫才大賞」は、年間を通じて活躍した関西の漫才師に贈られる賞。大賞は松竹芸能の「ますだおかだ」、奨励賞が中川家に内定していたが、吉本興業の意向で中川家が受賞を辞退した。中川家は前年暮れの「M-1グランプリ2001」の優勝者である。同大会は吉本興業が主導。M-1チャンピオンが別の漫才大賞で奨励賞というのはM-1の結果を否定することになるから、中川家の了解を得て辞退させた。

今さらながら呆れるが、よくもこんなことがまかり通ったものである。当時の吉本興業の常務で、その後も報道番組などでコメンテーターを務めたりもしていたK氏の談話はこうだ。

「思い上がりと思われるかもしれないが、うちが主導した賞の優勝者が二番目なのは納得できない」。

本人が明言した通り、思い上がりもはなはだしいコメントであり対応でもあった。なにしろ上方漫才大賞37年の歴史で辞退という異例は初めてのことだったのである。


お笑い業界に笑って済ませる度量がなく、こんな幼稚で見苦しい対抗策がありうるのかと苦々しく思ったものである。今後一切、吉本の漫才に腹を抱えて笑うことはないだろうとも思った。業界トップにあって名の知れた役員が「納得できない」と吐き捨てたのだ。彼が仕掛けてきたお笑いに何度か笑った己の愚を大いに戒めた次第である。この一件には、お笑いに素直に笑えない事情が潜んでいる。

他の業界やスポーツやコンテストにこんなことがありえるだろうか。五輪を制したアサファ・パウエルが別の大会でタイソン・ゲイに敗北して、銀メダルを返上するようなものである。陸上100メートルは自力勝負で、漫才コンテストには他者評価が入るという違いはあるものの、漫才の1位・2位の決め方はそれ以外にありようがないから、これを実力と見定めるしかない。そして、実力というものは、レースやコンテストごとに変わるのが常で、したがって順位に変動があってしかるべきなのだ。

ダービーの勝ち馬は、そのままスライドして菊花賞でも1着でなければならないのか。菊花賞が2着ならダービーの威厳が崩れるとでも言うのか。M-1チャンピオンが上方漫才大賞の2位であることを容赦できぬという理由で賞を返上? このような態度をぴったり表現することばが「傲慢」だ。何よりもひどいのは、吉本主導というのは自前の大会ではないか、その「身内1位」がそれ以上に公共色の強い大会で2位になって何の不思議があると言うのだ。学級委員長が生徒会長でなければいかんという屁理屈に近い。この一件は漫才の話などではなく、「傲慢罪」と呼ぶにふさわしい茶番であった。

「笑い」と「お笑い」

今さら「笑い」と「お笑い」の違いを確認するまでもないだろうが、念のために手元の広辞苑を参照してみた。【笑い】の筆頭定義には「わらうこと。えみ」とある。この程度の字句説明でやむなしか。とってつけた定義が必要ないほどの基本中の基本語だ。では、「お笑い」はどうか。こちらは三番目の定義として扱われ、「(「お―」の形で)笑うべきこと」と書かれている。「お笑いを一席」と「とんだお笑いさ」の二つの例が挙がっている。

「お」一つが付くだけでだいぶ意味が変化している。少くとも「とんだお笑いさ」には、愉快ゆえに笑っているような風情はなく、己に対してはあざけり、他者に対してはさげすむニュアンスが込められている。もう一つの、「お笑いを一席」のほうは芸人を窺わせる。そこで、【お笑い】という見出し語があるのかと思って見れば、ちゃんとあった。「客を笑わせることを目的とした芸。特に落語」と説明され、「お笑いタレント」という用法が出ている。

「笑い」は行為そのものであり、他方、「お笑い」は一つの業界を示している。箸がこけて笑い、子どものしぐさに微笑むように、ぼくたちはおもしろい落語や漫才に興じて笑う。しかし、お笑い業界自体に笑いが付随している保証はない。「お笑い」にはおもしろくない落語や漫才や一人芸も含まれ、見たり興じたりしても、実際に笑えるとはかぎらないのだ。むしろ、興ざめしたり、あまりのひどさに腹立たしさを感じてしまうことすらある。「お笑い」はア・プリオリな笑いとは無関係で、演じる前から先天的・生得的な笑いがそこに内蔵されてなどいない。


知人と話していて、テレビでのお笑いの露出度がめっきり減退したという点で意見が一致した。正確に言うと、生き残ったお笑い芸人たちは今もテレビに出ている。しかし、業界での出発点となった「本業」を誰一人として演じてはいない。彼らは、ここ数年、たとえ23分程度のごく短い持ち時間であっても、本業で露出する機会を与えられてきた。お笑いブームだったこともあるだろう。だが、彼らが実績を築いた頃の漫才・コント・ピン芸を再見しようと思えば、DVDを買うか、寄席か劇場に行くか、あるいは「営業」と呼ばれる、たとえばショッピングモールでのイベントなどで出くわすしかない。

かつて大賞を受賞した一握りの成功者さえ本業を披露する機会に恵まれない。もう本業はどっちでもいいのだろうか。一つの登竜門をクリアしたら、あとは芸人として食えるのなら何をしていてもいいのだろうか。要するに、金になるのなら、別にやりたくなくても、バラエティタレントや身体を張った体験型芸人としてテレビに残って露出していれば満足なのだろうか。仮にそうであるなら、好きでもないことをやっている彼らがおもしろくも何ともなくなったことに十分納得がいく。

彼らの中のさらに一握りはテレビ的に大成功者となり、立身出世時に披露した芸域とはまったく別のアイデンティティへと変身している。流暢な喋りに芸の名残りはあるが、いつ誰と共演していてもワンパターンで、猛暑的なマンネリズムにはうんざりする。名の売れた大御所たちは、芸人による芸人のための番組を仕切っており、もはやかつての「お笑い芸人」としての技を磨きなどしていない。業界人に慕われ敬われてブランドで食っている。

最近、ぼくはバラエティやお笑い番組からすっかり遠ざかっているが、たまたま見ることがあってもめったに笑えるような芸に出くわさない。すべらない話に拍手喝采されていながら、本業ですべっている芸人をどう見ればいいのか。いや、何もぼくが代理で悩んでやることはない。おもしろくないものはおもしろくないのである。芸を磨かなくなったお笑いタレントから商品価値は消え失せるのみ。日々のぼくの周辺に起こる笑いは、質量ともにテレビの中の笑いを圧倒している。素人の笑いのセンスを侮るなかれ。

推論モデルから何が見えるか (2)

昨日の話をわかりやすくするために、トールミンモデルの三つの要素「主張・証拠・論拠」を別の観点から眺めてみる。推論する人が他者に受容してほしいのは「主張」である。相手に言い分を受けてもらいたい。「証拠も論拠もいいが、主張がダメだ」と突き放されたら説得は失敗してしまう。

主張だけ伝えて納得してもらえるのなら、それに越したことはない。その場合には推論モデルの他の二つの要素に出番はない。たとえば、「人はみんな幸せになりたいものですよね」という主張はこれ自体で成立していて、証拠と論拠による必死の証明を必要とはしない。逆に、「人って不幸になりたがるものなんだ」という主張には、強い論拠はもちろん、相当に上等な証拠も用意せねばならない。一つの証拠では不十分だと指摘されもするだろう。少なくとも一般法則を導けそうな二つ三つの証拠を携えておかねば説得はむずかしい。

以上のことからわかるように、〈エンドクサ(通念)〉に則っていてコンセンサスが取りやすい主張の場合は、証拠や論拠による推論エネルギーは小さくて済む。他方、相手と対立する主張や少数意見、あるいは一般常識からかけ離れた意見を展開する場合には、証拠の質はもちろん、論拠にも創意工夫を凝らして、緻密な推論を打ち立てる必要がある。


賛成・反対の意見が拮抗するように記述化するのがディベートの論題である。議論開始早々から勝負が決まってしまうようなテーマ解釈上の不公平性があってはならない。肯定側・否定側のいずれの主張も、主張単独だけで第三者が説得されることはない。ところで、その主張を、論拠なしに、証拠だけで支えることはできるだろうか。

たとえば「ここに卵がある(証拠)。落とせば割れるだろう(主張)」という推論の証明力は十分だろうか。実は、これは推論レベルに達したものではなく、単なる常識にすぎない。いや、床の硬さや落とし方や落とす高度などに言及していないから、信憑性を欠くという見方もできる。では、「調査の結果、ダイエットのリバウンド率は60パーセントである(証拠)。ゆえに、ダイエットは長続きしない(主張)」はどうだろうか。一目で不器用さが漂ってくるが、仮に受容してあげるとしても、これでは調査しただけの話であって、推論の構図から程遠い。

主張をきちんと通すためには証拠と論拠の両方が不可欠なのである。そして、まさにここからが重要な助言なのだが、相手上位、得意先に対する提案、強い常識の壁が存在している……このような場合には、十中八九、信憑性の高い証拠から入るべきなのである。もっと言えば、キャリアが浅い時代は証拠主導の推論を心掛ける。証拠という裏付けが自信につながり、場数を踏んでいるうちに独自の論拠、理由づけができるようになるからだ。

キャリアを積んでいけば、次第に論拠主導型で話法を組み立てて他者を説得できるようになる。勉強したことばかりではなく、自分で考えることを推論の中心に据えることができる。ともあれ、間違いなく言えるのは、証拠という客観性と論拠という主観性によって主張を唱える「二刀流」がどんな世代を通じても、どんなシチュエーションにおいても、バランスのとれた推論であるという点だ。

(了)

推論モデルから何が見えるか (1)

《トールミンモデル》という、主張・証拠・論拠の三つの要素から成る推論モデルがある。わが国では「三角ロジック」という名でも知られている(下図)。

Toulmin Model.jpg “The Toulmin Model of Argumentation”という英語なので、「トールミンの議論モデル」ということになる。けれども、二人の人間の議論以外に、一人で論理を組み立てる時にも、一人で二律背反思考する時にも使えることから、《推論モデル》とぼくは呼んでいる。

このモデルの存在を知ったのは、大学に在学中の1972年頃。ディベートに関する英語の文献を調べていたら、トールミンモデルが引用されていた。論理学者ステファン・トールミンが創案したので、こう名付けられている。

この三角形は簡易モデルである。原型モデルは主張の確信度、論拠の裏付け、反駁(保留条件)の三つを加えた6つの要素を含んでいるが、論理学習の初心者にとっては図で示した3要素で十分に推論を組み立てることができる。


このモデルの「主張」は結論と言い換えてもいい。つまり、ある論点についての意見である。この主張をどこに置くかによって、推論の構造が変わる。

 主張 ⇒ (なぜならば) 証拠+論拠

 証拠 ⇒ (ゆえに) 主張 ⇒ (なぜならば) 論拠

 証拠+論拠 ⇒ (ゆえに) 主張

「証拠+論拠」はセットという意味であって、「証拠⇒論拠」という順にはこだわらない(論理学で「前提1⇒前提2⇒結論」のように書くとき、前提の中身が証拠であるか論拠であるか、あるいは大きな概念であるか小さな概念であるかまで特定していない)。

さて、「腹が減っては戦はできぬ。太郎は今、とても腹が減っている。ゆえに、太郎は戦えない」という三段論法(演繹推理)は、上記Ⅲだということがわかる。「腹が減っては戦はできぬ」が論拠、「太郎は今、とても腹が減っている」が証拠、そして「太郎は戦えない」が主張(導かれた結論)である。

「傘を持って行くべきである(主張)。なぜなら、天気予報では午後から雨が降るようだし(証拠1)、きみが今日出向く所は駅から徒歩10分かかるらしいから(証拠2)、雨に降られればびしょ濡れ、そんな恰好で訪問はできないからね(論拠)」。まさか傘一本でこんな推論はしないだろうが、これは上記Ⅰの構造になっている。

の典型的な例。「御社には他社にない有力商品Aがあります(証拠1)が、競合他社が実施しているサービスBを提供されていません(証拠2)。だから、御社も商品Aと抱き合わせにして大々的にサービスBを打ち出すのが賢明です(主張)。というのも、このジャンルでは商品がサービスよりもつねに優位だからです。同じサービスさえ提供しておけば、結局は商品力勝負ができるのです(論拠)」。複雑そうに見えるが、構造は明快である。これは帰納推理に近い展開になっている。


何を語るにしても、トールミンモデルを使うことができる。そして、上記ののいずれの構造によっても推論を組み立てることができる。しかし、持ち合わせている証拠や訴えたい主張の中身次第では、推論の順番が変われば、相手が感じる蓋然性(確実さ、ありそうな度合い)も変わってしまう。主張から入るか、論拠から入るか、あるいは証拠から入るかによって、説得効果に大きな違いが出てくるのである。

〈続く〉

諸説紛紛ある時

旅や出張で見知らぬ土地にいて不案内なことがあれば、たいていの人は誰かに尋ねる。誰かは観光案内所のスタッフであったりタクシーの運転手であったり住民らしき通行人であったりする。当地で評判の食事処を聞き出し、半日で回れる観光スポットを尋ね、所要時間や乗り継ぎ情報を知ろうとする。尋ねる相手がその道の権威とはかぎらないが、少なくとも自分よりもわかっているはずと見なしている。

知識不足を補おうとすれば、ガイドブックやネットでもいいが、もっとも手っ取り早いのは人というメディアだ。旅や出張はつねに「アウェイ」なのだから、「ホーム」の人たちに問い合わせるのは理に適っている。ぼくはそうしている。実は、一昨日の夜に山口に入り昨日研修をして帰ってきた。日本全国たいていの所を巡ってきたが、不思議なことに研修で山口から声が掛かったのは今回が初めてだった。

新山口という新幹線駅での下車も初めてである。到着したのが遅かった。食事処にホテル内の中華料理店を選んだ。観光する時間は到底ないから、名所旧跡について聞くことはない。ぼくの最大関心事は、宿泊ホテルから会場のセミナーパークまでタクシーでどれくらいの時間がかかるかである。だから、ホテルのフロント係の女性に尋ねた。「そうですね、早ければ30分。渋滞で混んだりしますと、40分かかるかもしれません」と彼女は言った。手慣れた応答に、ぼくはひとまず彼女を信用した。


しかし、「何か変」を直感したので、翌朝、念のために会場でぼくを待ち受けてくれる担当の方に電話をした。ホテルではこう言っているが、ほんとうにそんなにかかるのかと聞けば、「20分あれば十分です」とおっしゃる。おまけに「20分にタクシーに乗ってください」という助言までいただく。やっぱり40分もかかるはずがない。なぜなら、午後4時に終了して午後441分の新幹線には間に合うと聞いていたからだ。そこで、早めにタクシー乗り場に行き、タバコを吸っていた運転手に聞けば「10分ちょっとだ」と言う。乗り込んだタクシーの運転手は「15分」と言った。

あいにく同じ見解がないから多数決というわけにはいかない。しかし、この場合、諸説紛紛に戸惑うことはない。研修担当の方の意見に従っておけばいいのである。もちろん、遅れては話にならないから、フロント係の40分に従って早く着いておくのも悪くはない(実際の所要時間は行きが15分、帰りが20分弱だった)。ところで、食事処のお薦めが諸説に分かれたらどうするか。これはさらに簡単で、好きなものを食べればいいのである。

一年ちょっと前に会読会で取り上げた『足の裏に影はあるか? ないか?』の中のものさしの話を思い出した。二本の30センチのものさしの目盛りが微妙にずれているのである。どっちが正しいのか。たくさん集めて多数決を取るか、製造元の鋳型を調べるか、さらにもっと権威筋のパリ近郊に格納されているメートル原器を調べるか……。諸説から真らしきもの、より信頼できるものを引っ張り出すのは労力を要する。諸説に悩んだら――実は、悩むこと自体、すでに理詰めの選択ができない状況であるから――気分か気合で決めるしかない。ぼくはそうしている。できれば一番余裕のありそうな説に与しておくのがいい。

指し示して伝えるということ

「どれ?」「これだよ」「えっ、どっち?」「こっち」……ゲームをしているのではなく、よくある現実の場面。少し離れたところにいる人に、こちらにあるものを指し示したら、その人差し指がどこを向いているのかがよくわからない。「これ」と指し示した箇所の名称を知らないので指を使っているのだが、ピンポイントで対象を確定できない。指(☚)や矢印(➡)は対象に近接していればうまく機能するが、これらと対象との距離が長くなればなるほど、いったい何が対象であるのかわかりにくくなってしまう。

では、今度はゲームをしてみよう。遵守すべき条件は、左手を使えない、話すことが許されない、絵や文字にしてはいけないの三点。さて、あなたが相手に伝えたいのは「親指」である。左手で指し示さず、「おやゆび」と発話せず、絵や文字で表わさずに、はたしてどのように伝えればいいだろうか。

人差し指で隣りの親指の爪あたりを指すと、お金のサインになってしまう。かと言って、第一関節の腹あたりに人差し指の指先を当てれば、数字の69、あるいはかたつむりの形に見えなくもない。相手は、人差し指が示す対象を親指だとわかってくれるだろうか。人差し指を使わずに、仮に親指だけを単独で立ててみればどうか。すると、相手はそれをオーケーのサインと見てしまう。

親指でなくてもいい。小指、薬指、中指と順番に人差し指で指し示していくと、二本の指で「造形」されるものが何らかの記号的意味を相手に与えてしまう。同時に、残りの三本の指も「地」として意味を付加する。あなたの右手の動きを見て、相手は「きみは、人差し指で他の四本の指を示しているのだね」と勘を働かせてくれるだろうか。あるいは、あなたは何が何でも相手に伝えられると胸を張れるだろうか。


人差し指で、たとえば耳を示せば、相手は「耳が指によって示されたこと」をわかってくれるだろう。まさか、「人差し指を耳によって示した」とは思わない。なにしろ、人差し指は「インデックスの指」なのだ。人差し指をおもむろに対象に近づけて、対象のすぐ近くでピンと伸ばせば、たいていの場合、爪先で示した箇所は相手に伝わる。但し、頭と毛髪、顔と頬などでは誤伝達が起こる可能性がある。

では、伝えるべき対象が「人差し指」のとき、あなたはどのようなジェスチャーをするだろうか。人差し指の関節は内側にしか曲がらないから、曲げて示そうとすれば「鍵」のように見える。真っ直ぐ立てれば、人差し指というよりも「一本」という意味合いが強くなる。他の指で示そうとも、他の指はインデックス指として認知されていない。ならば、口で人差し指をくわえてみるか。残念ながら、それは「指しゃぶり」か間抜けなジェスチャーにしか見えないだろう。

以上のようなことをイメージしていると、不思議なことに気づく。人差し指そのものが人差し指を的確に指し示せないように、PP自体を示すのはむずかしいのではないか。PはどうにかこうにかQRを示したり伝えたりできても、Pそのものを明確にするのに苦労する。そして、実は、ことばも人差し指や矢印と同じ機能を持っているのではないか。指や矢印で対象を示せない時、つまり、近くにないモノや目に見えない概念をことばで描く時、ぼくたちはきわめて高度な技術や知識を駆使せねばならないはずである。

昨日、NHKニュースで「日本のはるか南……」と耳にしたとき、ぼくは「はるか南」の指し示す距離に一瞬戸惑い、「マリアナ諸島で……」とキャスターが続けても、イメージと知識が起動しなかった。伝える側の指示内容が伝えられる側の参照を的確に促すということは、信じられないくらいすごいことなのだろう。

ないものはない、あるものはある

♪ 探しものは何ですか? 見つけにくいものですか? カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに (……) 

ご存知の通り、『夢の中へ』の冒頭だ。まったく同じではないが、土曜日の夜、これとよく似た事態が発生した。場所は福井駅。大阪行き特急サンダーバードのチケットの変更をし終えて数分後のこと。いや、ぼくに生じた事態ではない。福井開催での私塾に大阪から参加した塾生Mさんの身の上に起こった一件である。なお、ぼくたちは居酒屋で焼酎を二杯ずつ飲んでいたが、決して酔っ払ってなどいなかった。

隣りどうしで帰阪しようと、ぼくはチケットを変更し、直後に彼が同じ窓口で指定席を買い求めた。その後、目と鼻の先の立ち食いそば屋に入った。店を出て改札に向かいかけた時、彼の挙動の異変に気づく。必死にカバンやポケットの中を探しているのだ。

♪ 探しものはチケットです 見つけにくいものではないのに カバンの中もポッケの中も探しているのに見つかりません (……)

もう一度みどりの窓口に戻り、窓口担当に発券を確認し、念のために落とし物窓口もチェックした。ない。「Mさん、胸ポケットの中は見た?」と聞けば、「はい」と言う。彼の胸ポケットにはアイフォンが入っている。彼はいくつか仕切りのあるカバンを何度も探し、本や資料の隙間に入っていないかを調べた。財布の中にはチケットを買ったクレジットの利用控えはちゃんと入っている。その財布の中は3回以上見直している。窓口で交渉したが、切符は金券扱いゆえ再発行などしてくれない。


緑色の証明書をもらってひとまず改札を入ることはできた。紛失していれば車中で切符を買い直さねばならない。車掌から買った後に紛失した切符が見つかれば、払い戻しをしてくれる。しかし、見つからなければお金は戻ってこない。特急に乗り込み福井駅を出発した。Mさんは座席に腰もかけずに、立ったままで再びカバンと財布とポケットの中を、それこそありとあらゆる隙間や凹のある箇所を「大捜査」している。冬場でも汗をかくほどの彼だ、まるでサウナに入っているように顔面から汗が噴き出して滴っている。

ぼくは作戦を立てていた。彼のカード利用明細控えが唯一の証拠、これを使いぼくが証人として車掌を説得できるかどうか、運よく温情にあふれた車掌ならば事情を察して何とかしてくれるかもしれない……などと考えていた。しかし、チケットを探している彼を横目で見ながら、こんな交渉がうまくいくはずがないと諦めもしていた。「失っていたらない。ないものは、ない」と心中でささやく。彼も探すのを諦めようとしていたその時、念のためにこう言った、「Mさん、胸ポケットは見たの?」 

胸ポケットからアイフォンをつまみ出したら、あっ、一緒に切符がついてきた! 切符は、胸ポケットという、一番ありそうなところにあったのだ。彼はカバンと財布を必死になって探してしていたが、胸ポケットには視線を落として一瞥しただけだった。黒色のアイフォンと同じサイズの切符、しかも磁気のある裏面は黒っぽい。横着したから重なって見えなかったというわけである。ないものはないが、あるものはある!

ところで、井上陽水はあの歌の半ばで次のように歌っている。

♪ 探すのをやめた時 見つかることもよくある話で (……)

根拠のない言い分

もうすっかり耳に馴染んでいるにもかかわらず、聞くたびに少し苛立ち、いや、こんなことに苛立っていてはばかばかしいと思い直して、鼻で笑っておく。そんなふうにあしらいながら、ここで取り上げるのも妙な話だが、身につまされる向きがなきにしもあらずだ。誰かが言いっ放しで理由を添えてくれない時、ぼくは以上のような心理になっている。

テレビ番組中のコマーシャルで「4,950円とたいへんお買い得!」と言っている。別のテレビショッピングでは「今ならとってもお求めやすい2,980円!」という言い方をしている。買い得とは「買って得をすること」と広辞苑にあるが、こんなアホらしい定義は役に立たない。買い得品とはお値打ち品だから、「出費に対して得られる品質や便益が大きい」ということだ。求めやすいは、ちょっとひねって「財布や家計の負担にならない」としておこう。

言い分はよくわかる。「この良質の商品は別の場所や時期ではこの値段では買えませんよ、しかもお手軽で、わざわざ別口予算を立てなくてもいいのですよ」――こんなふうにコマーシャルの中のナレーションは語りかけているのである。しかし、彼らは「なぜそう言えるのか」については言及しない。黙して語らない。


商店街の店先で八百屋や魚屋が枯れた太い声で「らっしゃい! 安いよ安いよ、買わなきゃ損だよ!」と叫ぶのはいい。「この大根は今日は一本百五十円だよ。ふだんより五十円安く、しかも○○産で、他の品種よりも辛味と甘味のバランスが絶妙ですよ、奥さん」などと店先で口上張っていたら、話途中で買い物客が店の前を通り過ぎてしまう。彼らに説明はいらない。長年店を構えて商売していること自体が信頼すべき根拠なのである。

テレビでは、初耳の会社の商品を見も知りもしないタレントかナレーターかが喋っている。です・ます調になっているだけで、実は「お買い得だよ、安いよ!」と叫んでいるにすぎない。お買い得かどうかは、自社従来品(または他社製品)の価格と比べなければ判別できない。さもなければ、単なる独断メッセージだ。証拠も含めた根拠も示さずに、お買い得と主張するのはあつかましい。なかには「これ一つでレモン10個分!」と証拠らしきものが示されるが、一日にレモン10個も食べる必要などないから説得力がない。

売り手側に一言文句をつけてきたが、彼らが無根拠セールスで済ましているのは、消費者がそれを容認しているからである。価格という数字につきまとう理性と不可思議を一緒にしてしまっているのだ。数字は科学でもあり魔術でもありうる。お買い得と繰り返されれば、たしかにそうだろうという信念が強まる。根拠を求める賢い消費者なら、「焼肉食べ放題! 今なら1,980円」に流されない。質のこと、自分の食欲・健康のことを少考すればいいのだ。

賢い消費者について考えるとき、テレビショッピングの「今ならもう一本」に急かされて高枝バサミを買った高齢者を思い出す。その爺さんの家の庭は小さく、枝が高い位置にある木は一本もなかったのである。「これ一台で辞書数十冊分」に促されて買いはしたが、そのままになっている電子辞書が机の引き出しに入っていないだろうか。

寡黙化する人々

「人は商品を買うのではなく人を買う」と豪語したジョー・ジラードは別格としても、カリスマと称されるセールスパーソンなら誰しも自分自身を売り込んでいるはずである。売る人そのものが売り物ではないにもかかわらず、商品価値のほぼすべてを人が決定しているというこの考え方は、実は決して珍しいことではない。むしろ、誰が携わっても同じという「セールスの匿名性」のほうが少数派なのである。

商品の購入にあたって顧客は売る人を買っている。これは、彼らが信頼を、説明を、笑顔を、経験などを求めているからである。極端な話、顧客が買っている商品はコミュニケーションに満ち溢れた環境で売られているのである。したがって、ジラードをもじって、「どんな商品を扱うにせよ、私が売っているのは、実はコミュニケーションなのだ」というセールスパーソンがいても決して不思議ではない。

「コミュニケーション上手」イコール「口達者な売り手」ではない。コミュニケーションとは相手を納得へと導くマメな情報共有をも意味する。だから、たとえばエドワード・T・ホールの「非言語的コミュニケーション」であってもかまわない。手まねや身振りも、文化的・文脈的パターンにのっとっていれば、十分に機能すると思われる。とはいえ、ビジネスシーンにおける非言語的コミュニケーションの影響力は失態時に強く出る。立ち居振る舞いが反文化的に働いたり無礼に捉えられたりというケースだ。ビジネスを牽引する主導的役割を果たすのが言語的コミュニケーションであるのは言うまでもない。


ホールの唱えた“silent language”は「沈黙のことば」と訳される。言うまでもなく、沈黙のことばは有言のことばとセットである。言語的コミュニケーションに怠慢な者が、いくら張り切ってジェスチャーをしても空しいばかりだ。それなのに、公の場での人々の静けさはいったいどういうわけだろう。しかも、寡黙な彼らは、沈黙のことばによる表現も不器用なのである。彼らの手まね身振りはほとんどの場合、携帯やパソコンの操作に限られているかのようだ。

稀に発話しても単語がパラパラと撒かれるだけで、ことばが文章の体を成していない。一語か二語話しては止まり、「あの~、ええっと」などのノイズが入り、そしてまた一語か二語が続く。単語どうしが相互に結びつかず構文が形成されない。とりわけ、動詞なきメッセージには面喰ってしまう。動詞がなければ、結局何を意図しているのか判然としないのである。これではまるで、カラスの「カァーカァー」やネコの「ニャーニャー」とほとんど同じではないか。仕事の現場での饒舌なやりとりを懐かしく思ってしまう今日この頃だ。

但し、現代人は私事の、つまらぬことに関しては大いに雄弁なのである。この雄弁がパブリックスピーキングに生かされない。現代人にとっての母語は、発話されない「沈黙のことば」と化し、話しことば自体が第一外国語になったかのよう。まさに、口を開いて日本語を話すこと自体が、十分に精通していない外国語を話すことのように重くなってしまったのである。これは母語の退行現象にほかならない。