アマノジャクな読書観

平成20年に国会で国民読書年の決議がおこなわれ、今年がその〈国民読書年〉であることをご存知の方も多いだろう。ちなみに「こくみんどくしょねん」と入力したら、「国民毒初年」と変換された。何だか初めて食べるフグの毒にあたりそうな雰囲気だ。たとえ文字離れに読書離れが進んでいるとは言え、また出版界に少数の勝ち組が出現するものの頻度は稀で大半が発行即消滅というご時勢とは言え、国民の読書人口の逓減を国家や有識者や出版業界に嘆いてもらうことはない。

国民読書年のスローガン、「じゃあ、読もう。」が情けなさに輪をかける。「じゃあ」はどんな叱咤や説教に反応しているのか。「きみ、本を読んだほうがいいよ」とか「立派な人間になりたければ読書が一番だ」とか言われての「じゃあ、読もう」なのか。たしかに「そこまで言うなら、しかたがないな、読んでやろう」と聞えてくるようでもある。意地悪じいさんのようにひねくれずとも、そのような含意を感じてしまう。

そうではなく、「みんな本は好き? じゃあ、読もう」というニュアンスか。それなら、幼少年期に一斉にみんなで本を読もうというのもいいだろう。読書が教養の基礎になるのは自明だから、早い時期に習慣を刷り込んでおくことは悪くない。だが、国民全体を視野に入れれば、一人前の人間に読書の必要性を説いたり書物への回帰を促したりするのは余計なお世話だ。読書体験はあくまでも個別なものであり、何をどのように読むか、いや、読むか読まないかまで自分で画策すればよろしい。

印象的なユダヤ格言がある。「ユダヤ人は本を読まない。本を書く」というのがそれだ。なるほど、本を読むのは消費行動であり本を書くのが生産行動であるならば、経済的には本を書くほうが理に適っている。だいたい、インプット過剰でアウトプット不足というのが一般人の知の収支状況だから、赤字から黒字に転換するには、勉強という仕入れをほどほどにして創造や表現を志向すべきだろう。学ぶ者以上に教える者が学ぶのは真理である。好きでもない本を無理やり読むくらいなら、ブログの一つでも書いているほうが勉強になるのかもしれない。


人からどうのこうのと言われて読書するほど不愉快なことはない。「読め」と命じられたら読みたくなくなるし、「読まなくてもいい」と慰められたら読んでみたくなる。とりわけぼくなどはへそ曲がりなので、自分の読みたいように本を読めないのならば、本など読む必要がないとさえ思っている。成人がこの場に及んでハウツーづくしの読書術を指南される姿は決して格好のいいものではない。

どういうわけか、ぼくは周囲の人たちから読書家と思われている。正直に言うと、中高生の頃は、本を読むのが好きだったわけではなく、むしろ苦痛に感じていたのである。活字を追うよりも絵を見るほうがわくわくしたし、ページを捲るよりも音楽の流れに乗るほうが好きだった。だいいち、どんなに本を読んでも内容を覚えていることなどめったにない。それでも「読まないよりは読むほうがいい」と思いなして、無理に読んでいただけの話である。

しかし、これではあまりにも情けないので、絵画や音楽に親しむように読んでみようと心掛けた。絵は何度も見るし音楽は何度も聴くではないか。せっかく読んだのだから何がしかの成果をアタマに残しておきたい、ならば本も再読すべきなのだろうと思った。しかし、記憶しておいてどこかで使ってやろうなどという魂胆はない。ぼくにとって読書は純然たる教養行為であるか、あるいは思考を誘発するためのきっかけにすぎない。だから、目次に目を通し、少し読んでみて教養にも思考の刺激にもならないと判断したら、中断する。また、冒頭の書き出し数行で立ち止まり、そこでずっと考えて残りのページを読まないこともある。

そのような読み方も含めれば年間百冊ほどの本を読んでいるだろうが、この歳になって何冊読んだとか、どんな本を読んでいるかを自慢してもしかたがない。職業的読書人ならともかく、ぼくたちは誤ってディレッタンティズムに陥ってはいけないのである。 

速成という方法について

読書をしたり考えたり、あるいは人と交わって対話をしたり、二十歳前にディベートと出合って勉強したりはしてきた。学校以外の学び、すなわち独学や実践知に目覚めてから、かれこれ40年になる。決して学び方・アタマの使い方は下手ではないと自覚しているが、考えることと話すことにおいて、十分幸せではあるものの、有頂天の達成感に浸ったことはほとんどない。もちろん、絶対能力がぼくに欠けているという現実がそこにはあるかもしれない。そのことを差し置いても、売れ筋の本のタイトルを見るたびにごく良識的な疑問が湧いてくる。

たとえば『考える力と話す力がおもしろいほど身につく方法』などの類がそれだ。「そんなものあってたまるか」という反骨心が湧き上がって強く懐疑してしまう。もしそのような速成方法が実際に存在するならば、ぼくがコツコツとやってきた方法とはいったい何だったのかと悔やむしかない。だが、どんなに譲歩しても、思考と言語という、人間の根幹を成すような資質が一週間やそこらでものになるとはにわかに信じがたいのだ(少なくとも、ぼくの履歴の範囲ではそんな方法には一度もお目にかかったことはない)。

能力の問題はさておき、この種の本は、この本を手にするまでに一度も意識的に考える力と話す力を鍛えようとしなかった読者を対象にしているのだろうか。そもそも成人になって初めて考える力と話す力の重要性に気づいたような人は、思考と言語の自然主義の流れに漫然と棹を差してきたはずだ。つまり、考えることと話すことをあまり意識せずに、道なりにやり過ごしてきたと思われる。そのような無自覚で努力を怠ってきた彼らに「おもしろいほど身につく方法」が確約されるのである。


勿体をつけた言い回しをやめよう。そんなものがあるはずはないのである。考える力と話す力以外なら、おもしろいほどではなくとも、少々なら効果的で速い方法があるかもしれない。しかし、こと思考と言語の資質を一夜で豹変させるような特効薬など見たことも聞いたことも、ましてや飲んだことなどない。自分なりにある程度考える力と話す力を身につけてきた読者なら、おもしろいほど身につくことがありえないことを承知しているはずだから、その種の本を手にして即効ハウツーを期待するはずもないだろう。

「その種の本」に対していささか批判的すぎたようだ。せっかくの批判を引っ込めるようで恐縮だが、「その種の本」は売らんかなの表看板に反して、実際のところはまずまずのコンテンツを並べて役に立ちそうなノウハウを書いてくれているのである。おもしろいほど身につくかどうかはともかく、ぼくが逆立ちしても真似できないほど、おもしろく書いてあるのだ。さらに、タイトルによく目を凝らせば、「おもしろいほど」であって、「ただちに」とは言っていない。速成方法を説いた本だと勝手に早とちりしているのは、実は読者のほうなのだ。

著者は本が役立つと信じているだろうし、一人でも多くの人に読んで欲しいと願っているだろう。一冊でも多く売れればうれしいに決まっている。この点には大いに共感する。したがって、本のタイトルやコンテンツがどんなに巧妙に仕掛けられていようとも、著者を責めるべきではないだろう。やはり読者の良識が結局は問われることになる。思考力と言語力を高める方法は存在するが、速成の方法はない。熟成には歳月を要することを承知しておかないと、書店のハウツーコーナーで心が揺れ続ける。

語るべきを語らざる罪

「連れ立って映画を見に行った父と娘が、浮かぬ顔で帰宅した。画家である父は、ピカソの生活を写した映画が見たかったが、娘にはつまらぬだろうと思いやり、娘に向きそうな感じの映画に誘った。父がその映画を見たいのかと察した娘は、内心つまらないのを我慢してつきあってきた。ことばを抑制し、思いやりだけにたよって、双方が浮かぬ顔という結果になったのだった。」

もう34年も前に書かれた『失語の時代』(芳賀綏)からの引用である。「ものを尽くして言うべきにあらず」という表現美徳観が日本人の誰にも少なからず刷り込まれている。対照的なのが古代ギリシアで、「人間はロゴスをもつ動物である」と言われていた。ロゴスは多義性の強いことばだが、根源には「ことわり」がある。この伝統を継ぐ西洋社会では、ことばと理(理性や論理)はつながっている。いや、一体である、というのが正しいだろう。

文脈を察したり、行間を読んだり、はたまた言外の言を汲んでやったり……。わが国では聞き手が、ことば少なにつぶやく相手に対してずいぶん物分かりのよい態度を取る。この聞き手側の態度は、自分が話す側に立つときに「貸し」として作用する。これにて、ことば少なの貸借関係、つまり、甘えを許容し合う持ちつ持たれつのコミュニケーション関係の一丁上がり。小説の世界じゃあるまいし、そんな甘えの構造で成り立っていていいのだろうか。ことばによって分かり合おうとする努力を重ねない者が、文学世界の沈黙の妙を味わえるはずもない。


ロゴスを強調すると、「あいつは感性のない奴だ」と決めつけるところに、アンチロゴス派の言語理性の危うさが露になる。ロゴスもパトス(感性・情緒)も一人の人間に共存している。ロゴス嫌いに感性豊かな人間はきわめて少ないのだ。ぼくは若い頃から年長のロゴス嫌いと戦ってきた。「生意気で屁理屈の強い青二才」と言われ続けてきた。たしかに今もその面影は残っているかもしれないが、その抗戦姿勢を貫いたことによって少なくともロゴス嫌いほど馬鹿にならずに済んだと思っている。

思うところに素直になって語り始めるしかないではないか。ある会合があって、手伝いをして欲しければ、「早めに来てください」と言えばいい。それなのに、無理して「会合は午後6時開始」とだけ告げて心に一物を残すことはない。たしか夏目漱石のエピソードだったと思うが、「引越しすることになった。手伝ってくれるなら昼、飯だけ食うなら夕方にお越し願いたい」という手紙を仲間に出した。この文面を読めば、昼に行くしかない。エスプリのきいた「語るべきを語る」一つの方法である。

物言わぬ風土にあって、それなりの人物はちゃんと物を言っている。「口は災いのもと」や「物言えば唇寒し秋の風」というアンチロゴスにしても、それらが金言として今日に残ったのは、言として形にしたからである。ロゴス派であろうとアンチロゴス派であろうと、無言で睨み合うわけにはいかない。語るべきを語らざる姿勢からは何も生まれない。それどころか、誤解という罪を犯してしまう。 

ちょっと言い過ぎた。誤解は必ずしも罪ではないかもしれない。しかし、誤解は、美しくて味わいのある終幕になることもあれば、修復不可能な悲惨な結末を迎えることもある。ただ、どちらにしても誤解がつきものであるならば、黙して生じる誤解よりも、言を尽くして招く誤解のほうをぼくは取るし、そうしてきた。語った言を拠り所にして誤解をほどくほうに希望をつなぎたい。

刻一刻の「追思考」

「追体験」ということばはすっかり定着していて、みんなよく知っている。誰かが体験したことを自分なりに解釈して、あたかも自分が体験したかのように再現してみせることだ。たとえば芭蕉の『奥の細道』やゲーテの『イタリア紀行』を読み、自分なりに解釈しながら旅を疑似体験してみるのが追体験。旅程を辿って実際に旅をするという意味は含まれない。あくまでも、誰かの体験を想像上ないし机上で追うことが追体験である。

ほとんど聞かないのが「追思考」というマニアックなことばだ。実を言うと、追体験よりも追思考のほうをぼくたちは日々頻繁におこなっている。今夜の会読会でぼくは小林秀雄を取り上げるが、読書という行為はまさしく追思考そのものなのだ。著者の考えたところをなぞるように、あるいは追っかけるように考えていく。原思考者と追思考者の間に絶対能力の差があれば追いつくことはなく、原思考をそっくり再現できるはずもない。結局は、自分の理解力の範囲内での追体験ということになる。

昨日「できる人の想像力」について書いた。その後、夜になって自宅でそのことについて考えてみた。偉い人の思考を辿るのも追思考なら、自分の考えたことをもう一度自分自身がトレースするように追ってみるのも追思考の一種だろう。なぜなら、今日考えている自分からすれば昨日考えていた自分はどこか他人のようでもあるからだ。自分による自分の追思考をしてみると、結果的に「再考」することになるが、いったんきちんと思考経路を追ってみて再生しようとするところに意味がある。


昨日はプロフェッショナルを賛美するようなタッチで書き、専門性の源泉に想像力を求めた。自分で書いた記事を読み直し追思考した結果、想像力は源泉ではあるものの、それだけではやっぱり一流にはなれないことに気づいた。想像力豊かな専門バカもやっぱり存在するからである。日々良識をもって真偽や是非を感知する能力を実践しなければ、想像も根無し草のごとき空想で終ってしまうのだろう。

めったに先行開示はしないが、今夜ぼくは小林秀雄の『常識について』を取り上げることを敢えて明かしておく。そして、小林秀雄にはもう一編『常識』というエッセイもあることに気づき、本棚から引っ張り出して読み始めた。そこに次のような文章がある。

常識を守ることは難しいのである。文明が、やたらに専門家を要求しているからだ。私達常識人は、専門的知識に、おどかされ通しで、気が弱くなっている。

ここから読み取れるのは、専門家の知識によく見られる「良識の不在」への批評精神だ。

この時点で、ぼくの考えは想像力から離陸して、同じエッセイの中の別の箇所を追思考していた。少し長くなるが丸々引用するので、興味のある方は小林秀雄の追思考をしてみてはどうだろう。

生半可な知識でも、ともかく知識である事には変りはないという馬鹿な考えは捨てた方がいい。その点では、現代の知識人の多くが、どうにもならぬ科学軽信家になり下っているように思われる。少し常識を働かせて反省すれば、私達の置かれている実情ははっきりするであろう。どうしてどんな具合に利くのかは知らずにペニシリンの注射をして貰う私達の精神の実情は、未開地の土人の頭脳状態と、さしたる変りはない筈だ。一方、常識人をあなどり、何かと言えば専門家風を吹かしたがる専門家達にしてみても、専門外の学問については、無智蒙昧であるより他はあるまい。この不思議な傾向は、日々深刻になるであろう。

昭和34年のエッセイゆえ、言葉の狩人にいちゃもんをつけられそうな表現が一部あるが、そんな些細はさておき、プロフェッショナルと想像力と常識に関してぼくの眼前の視界はだいぶ広がったような気がしている。小林秀雄の炯眼には感服する。 

読書しながら世話を焼く

春眠不覺暁しゅんみんあかつきをおぼえず」の盛りまではまだしばらく時間がある。春の眠りは心地よくて朝が来たのもわからないという、この生理機能の前に「本を読んでいると眠くなる」という兆しが現れる。読書だけでなくテレビを見ていても考えごとをしていても、季節が寒から暖へと移り変わる頃はついうとうとしてしまう。歳のせいかもしれないが、この習癖(?)は若かりし時代も同じようにあった。顕著なのが就寝前なので、本を読みながらそのまま熟睡に入るのはまんざら悪いことでもないだろう。

昨年から“Savilna(サビルナ)を冠にした会読会を始めた。知の劣化を読書と書評によって食い止めようという試みで、「錆びるな!」をもじった名称だ。この会読会を意識して読むべき本を選別することはまったくない。ぼくなりに読みたい書物の今年のテーマはあるわけで、それに背いてまで受けを狙うような本の読み方はしない。とは言うものの、今年に入って読了した何十冊かの本の中からどれを書評するかという段になると、ただ自分が気に入ったり動かされたりしたという基準だけでは選び切れないのである。


有志が集まる会読会で彼らが読んでいない本について書評するような決まりがなければ、読書ほど私的で自由な楽しみはないだろう。書誌学者や評論家でもあるまいし、好き勝手に読んで大いに自分だけが学べばよろしい。しかし、レジュメを一、二枚にまとめてメンバーに配り、さわりの引用文と書評を紹介しようとすれば、読もうと思い立ったときの本の選択基準とは別の読み方を強要されてしまう。生意気な言い方をすると、ぼくにとっては別段教訓的でもないが、彼はこれを知って目からウロコだろうとか、別の彼には仕事上のヒントになるのではないかという思惑が読書中に働いてしまうのである。

勉強のため、あるいは楽しみのためにその本を選んで読むことにした。にもかかわらず、読書を通じて自分自身が学んでいるのではなく、「このくだりをみんなに知っておいてほしい」などと、まるで親が幼い子どもに昔話を読み聞かせるような心境になっている。「この箇所は、ぼくがくどくど説明するよりもそのまま引用したほうがよさそう」と思っていることなどしばしばなのだ。えらくお節介を焼いているものである。

しかし、考えてみれば、企画業や講師業という仕事にサービス精神は欠かせないのである。振り返れば、会読会が始まるずっと前からぼくの読書の方法は、自他のためだったような気がする。本を読みながら自分がよく学び楽しみ、その学び楽しんだテーマや文章を誰かと分かち合いたいと願うのは当然至極だろう。「自分の、自分による、自分のための読書」の純度に比べて、第三者を意識した読書の純度が低いわけではない。ついでに世話を焼いているだけの話だ。それはともかく、年に何十冊も本を読んでいながら片っ端から忘れてしまう読書人にとって、書評をまとめたり発表したりするのはプラスになるだろう。読みっぱなしよりもたぶん記憶は深く濃密である。

問題、そして解決

問題と解決が一体化して「問題解決」という四字熟語になってから久しい。心理学の主題として始まりすでに1世紀が過ぎた。ぼくの場合、問題解決というテーマとの付き合いは30年前に遡る。ちょうど広告業界に転職した頃で、製品訴求メッセージにどのように問題解決便益を盛り込むかを思案していた。一番最初に読んだ本が『問題解決の方法』(岡山誠司)。本棚に残っていた。奥付には昭和五十六年十二月二〇日第一刷発行とある。

久々に傍線部のみ目で追ってみた。少しずつ記憶が甦ってきて、数ヵ所ほど現在も拠り所になっている文章に出くわした。たとえば、次の箇所。

「なぜ人間は、問題を解こうとするのか。これについては、『人間とは環境の中で生き残り、うまく機能していこうと努力する生きもの』であると仮定することによって、基本的には理解できるようである。」

あれ、これは最近どこかで使ったぞと思い出す。昨年の私塾の『解決の手法』で紹介している。最初に読んだときにメモしていたカードから引用していたのである。

次の一文も現在のぼくの考えの一部を支えている。

「情報を取りこむのは、保有する知識と多少異なっているばあいであり、取り入れ(同化)られると、その情報は知識の一部を変形し修正(調節)する。こうして知識は、一段と洗練(再構造化)され、よりよく生きるのに役立つものとなる。」

強引に読むと、持ちネタが足りなければ、ぼくたちは外部の情報を取り込んで問題解決に役立てる、ということだ。新しい問題に対しては、定番の解法では不十分であり、その問題と共時的に発生している人間的・社会的現象に目を向ける必要がある。


問題解決という、こなれた四字熟語を一度解体してみる。それがタイトルの「問題、そして解決」の意図である。問題と解決を切り離してみてはじめて気づくことがある。たとえば、問題がなければ(問題に気づかなければ)、解決の必要性に迫られない……問題が起きたら、解決しようとする、少なくとも解決しなければならないと思う……自分の責任で問題を起こしてしまったら、当然のことながら解決すべきである……未曾有の問題なら解決すべきであると十分に認識しても、うまく解決できるとはかぎらない……。まあ、こんな具合に、「問題と解決」のいろいろな構図が見えてくる。

要するに、四字熟語として問題解決を眺めてばかりいると、問題と解決の間の距離に鈍感になってしまうのである(ぼくはかねてから”ソリューション”という便利なことばにその鈍感さが潜んでいると思っていた)。ところが、上記のように「問題、そして解決」と切り離してみれば、問題を認知し原因を探り当てることと、それを解決することが大きく乖離していることに気づく。前に、ヴィトゲンシュタインのことばを引いて「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」と書いた。問いと問題には類似する点もあるから、「問題が見つかれば、解決することができる」と言えなくもない。しかし、問題の大きさと質による。問題を見つけるノウハウと解決するノウハウは、たいていの場合、まったく異質である。

問題解決で手柄を立てるには、放火魔消防士になるのが手っ取り早い。自分で火をつけ(問題を起こし)、第一発見者となって火を消し止める(問題を解決する)。本来問題でも何でもないのに、やたら問題視して処方するのがやぶ医者だけとはかぎらず、あなたの周辺やあなたの会社にもそんな連中がいるかもしれない。しかし、もっと手に負えないのは、自ら問題を引き起こしていながら、そのことに気づかず、解決の手立てを講じない輩だ。まるでお漏らしをしてただ泣いているだけの乳幼児である。

世の中には解決しなくてもいい問題もある。それは単なる現象であって、「問題」と呼ぶこと自体が間違っているのだ。問題を見て、「解決できそうだ」「解決すべきだ」「(何が何でも)解決したい」という三つの知覚が鮮明になる時、鋭利なソリューションへの道が開ける。さもなければ、解決の機が熟していないか、尻に火がつく問題でないかのどちらかである。    

ブリコラージュな読書

今年1月からスタートしたサビルナ会読会が昨日7回目を迎えた。忘年会も兼ねメンバーが拙宅に集まっての勉強会だった。自分自身が取り上げた本も含めて、この一年で60冊前後の書評を聞いたことになる。仲間が読んだ書物のレジュメを読み話を聞くだけで、ある程度概要がつかめる。今年ぼくは100冊以上の本を乱読したと思うが、本の読みっぱなしはほとんど何も残らない。読書の効果を維持しようと思えば、再読するか、この会読会のように仲間に読後感想を語るのがいい。

自分がどんな本を読んでいるかを公開するのははばかるが、敢えて今年会読会で紹介した書物を紹介しておく。

📗 村上陽一郎『やりなおし教養講座』
📗 ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』
📗 布施英利『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』
📗 入不二基義『足の裏に影はあるか? ないか? 哲学随想』
📗 安部公房『内なる辺境』
📗 
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』
📗 眞淳平『人類が生まれるための12の偶然』。

もちろん上記の7冊がぼくの今年のベストというわけではない。安部とポランニーのは古い本で再読、入不二のはアメリカから帰る機中での読書、他のもだいたい出張中の車中での通読である。感動した本というよりも書評しやすくて興味を覚えてもらえるような本を選んだ。同じ本をみんなで読んで感想を述べ合うのもいいが、それぞれがお気に入りの本を選んで解説するのは評論の学びになる。ぜひ来年も、できれば毎月一回のペースで続けていこうと思っている。一気に大勢は無理だが、新メンバーも歓迎したい。


講座のほうは今年12のテーマで新たに書き下ろし語り下ろした。新作講座のための準備は大変だが、そのテーマのために新しい本を読むことはほとんどない。ぼくが参考にするのは手元にあって再読した本や、その本から要所を抜き書きしたノートやメモである。具体的な目的のために本を読むことはめったにない。そういう意味では、ぼくの読書法はエンジニアリングではなく、〈ブリコラージュbricolage〉である。ブリコラージュとは、計画的・意図的ではなく、偶然的に断片を拾ってきて念のために残しておく寄せ集めのようなものだ。

特別な目的のために情報を集めていては知の構造が限定される。知の本質にはゴールの棚上げがあると思っているので、手当たり次第に「いずれそのうちに役に立つだろう」ぐらいの気持で本を買い求め適宜読んでいる。いまここで手に入る知識を寄せ集めて試行錯誤しながら組み立てる創造や知のあり方がブリコラージュ。去る10月に百歳で亡くなったレヴィ=ストロースの構造主義の根幹の一つとなる概念だ。

究極的には、何かをするのは別の何かのためなのだろう。しかし、本を読む、考える、話をするなどの行為は何かのための前に、そのこと自体をしているのだ。本を読んでいるのである、考えているのである、話をしているのである――こうした行為が先にあって、結果的に何かのためになっているのである。ぼくは行為の向こうに何も見ないようにしている。会読会や講座のために読書をしない。読書は読書という行為以外の何物でもない。

「目的もなく、そんなことができるのか? 何かがあるんだろ?」と聞かれれば、「忘我的集中が楽しい」としか答えようがない。「そんなことに意味があるのか?」と問われれば、「うん、あるでしょうね。いずれそのうち意味が生まれるかもしれない」と答える。誰かに話してやろう、どこかで使ってやろうという魂胆を頭ごなしに否定はしないが、自分自身が楽しめないものを他人に伝えるほど厚かましい話はない。冬のために薪を集めるのではなく、ふだんから集めてきた薪が結果的に越冬に役立つ――そんな読書が気に入っている。

本を読む、本を読まない

関連する話を2月のブログで書いているので、よろしければ一読いただきたい。

人はどこまで行っても無知の壁を容易に破ることはできない。所詮お釈迦さまの掌の孫悟空のようである。だから、とりあえず知っていることを自分の「知」とするほかない。あるいは、ソクラテスのように無知であることの自覚を新たにするべきだろう(断っておくが、ソクラテスの知と比肩しようという気はさらさらない)。

知識全般に言えることだが、とりわけ読書では「パーセンテージ」の考え方はよくない。たとえば「百冊買って、まだ十冊しか読んでいない」という10%の知を嘆くこと。読むべき図書百冊のうち目を通したのが十冊なら、それは残りの90冊が未読状態というだけのことだ。なのに、ぼくたちは森羅万象を“∞”にして分母とし、知を量ろうとしてしまう。いくら無知の壁が高くても、こんな控えめな気持では日々の満足が得られないだろう。

百冊のうち十冊が知で、残りが無知。いや、無知ではなく未知。十冊の知もたかが知れているかもしれないが、とりあえず読んだことに満足しておく。未読の90冊は自分の知に対立などしていないし、無縁の領域でひたすら読者を待ち構えてくれているだけの話である。分母のことは考えず、分子だけを見つめておけばよろしい。そうでないと、読書は苦しい。実際、ぼくの机の横には二百冊ほどの未読の書物が積まれており、しかも読みたい本を次から次へと買っている状態だから、既読書も逓増する一方で未読蔵書も膨れていく。だが、そんなことお構いなし。読みたい本を買うし、すぐに読んだり読まなかったりする。そして、読んだ本は、身のつき方の深浅を別にすれば、知になっているものだ。


話は変わるが、塾生がかれこれ一週間、本のこと、読書のことをブログに書き綴っている。そして、ついに『よいこの君主論』に手を染めてしまったようである。しかも、「とてもよい入門書になった」と彼はとても素直に書いているのだ。彼がそんなふうに啓発されることもあるんだな、とぼくは思ったのである。いや、それはそれでいい。でも、ほんとに入門書になるのかな、と首をひねっている。

結果論になるが、『君主論』に関するかぎり、まずニコロ・マキアヴェッリ自身の『君主論』を読むべきだろう。さらに関心があれば、塩野七生のマキアヴェッリ関連の本や佐々木毅の解説に目を通して時代考証してみるのもいいかもしれない。もちろん現代政治や世相のコンテクストに置き換えて解釈するのもよい。だが、いきなり現代っ子の53組版君主論を読むと、もはや原典は読めないのではないか。誤解を与えるような書き方になったが、「本を読む順序は運命的」と言いたかったまでだ。

何を隠そう、ぼく自身が『よいこの君主論』を読んでしまったのだ。しかも、原典の他に数冊読んだ後に。君主論をわかりやすく説明するヒントになればと衝動買いして通読したが、何の突っ張りにもならなかった。つまり、ぼくの読書順ではほとんど無意味だった本が、塾生のようにその本から入れば「よき入門書」の予感を抱かせることもあるのだ。あるテーマについて、どの本を入口にするかは運命的でさえある。彼が近いうちにマキアヴェッリの原典に辿り着けることを祈るばかりである。ちなみに、君主論のわかりやすい入り口は『マキアヴェッリ語録』(塩野七生)である。ほとんど注釈がなく歯切れがいい。

遊びの時間、時間の遊び

人生の出発点には「無意識の生きる」がある。やがて意識が強くなってくると幼児期には「遊ぶ」。学童になるまでは「よく遊ぶ」が容認される。次いで「よく遊び(同時に)よく学ぶ」へと向かう。やがて小学生も高学年になると、いつの間にか「よく学び(しかる後に)よく遊ぶ」が奨励される。いや、そうしないと社会的存在として生きていくのが難しくなってくる。一番いいのは「学びイコール遊び、遊びイコール学び」。学びと遊びが混在し可逆的になり一体化すれば、さぞかし毎日が楽しいに違いない。

大人になれば「よく働き(そしてご褒美として)遊ぶ」がセオリーになる。この順番でなければならない。ろくに働きもせずに遊んでばかりいれば社会が認めてくれない。ホイジンガやカイヨワを持ち出して遊びを正当化するまでもない。誰が何と言おうと、遊びの時間は人生にとって不可欠だ。だが、仕事とのバランスを崩してまで「よく遊ぶ」を追い求めるのは筋違い。少なくとも時間とエネルギーにおいて、遊びが仕事を凌駕するのはまずい。もちろん仕事と遊びに一線を画しにくい職業が世の中に存在することも認めたうえでの話だが……。

仕事を滞らせたり職場に遅刻することがあっても、遊びの予定をしっかり押さえて待ち合わせには絶対に遅れない人がいる。そんな人間は仕事が嫌いで遊びが好きなのだと単純に結論づけるわけにはいかない。ここには遊びが仕事以上に「真剣さ」を要求する性質を帯びていることが窺える。おざなりな仕事のルールに比べて、遊びのルールが厳格に定められるのも周知の事実だ。遊びに費やす時間とエネルギーを仕事に向ければ、もっと容易に課題も達成できるのではないか。皮肉で言っているのではない。


いっそのこと仕事を遊びとして捉えればいいのにと思うのだが、先に書いたようにそんなに都合のいい職業に誰もが就いているわけではない。仕事は仕事なのである。遊び心はあってもよいが、遊びとは違う。けれども、仕事中の「遊びの時間」は慎むべきだが、「時間の遊び」は大いに作るべきだろう。時間の遊びとは、歯車の遊びのようなものだ。ガッチリと組み合わさった歯車は動かない。ほんの少しの余裕がなければ歯車は機能しない。この余裕のことを遊びと呼ぶ。

時間にも遊びがいる。これを「時間の糊しろ」と考える。たとえば、今週の水曜日、オフィスのミーティングルームでスタッフの一人が午後6時まで得意先を迎えての会議をおこない、午後6時からぼくの勉強会が始まる。ここに時間の糊しろはない。会議は早く終わることもあるが、長引くこともある。実際は遅くなってしまったが、遡れば時間の遊びを作れなかった失敗である。これが仕事と仕事どうしになっていたら、この余裕の無さは時間の重なりをもたらしトラブルの要因になる可能性がある。時間に糊しろがないと、納期、タイミング、段取りなどに思わぬ狂いを招く。

今日の1時間は明日の1時間よりも糊しろが大きい。余裕の質が違うのだ。同じ一日、いや午前中だけでも時間の質は変わってくる。たとえば、午前9時の新幹線に乗る時、8時まで自宅にいて本を読むのと、8時に駅に着いて本を読むのとでは、後者のほうが糊しろがだいぶ大きい。なぜなら、自宅を出るという動かせない一工程を後回しにしては落ち着いて本など読めないからである。創造性が低い無機質な工程をなるべく早めに片付けておくべきなのだ。糊しろは読書の時間に遊びをもたらしてくれる。時間の遊びは遊び心の仕事を可能にしてくれる。それはまたリスク管理にもつながってくるのである。  

読ませ上手な本、語らせ上手な本

およそ二ヵ月半ぶりの書評会。前回から今回までの間にまずまず本を読んでいて30冊くらいになるだろうか。研修テキストの資料として読んだものもあるが、自宅か出張先や出張の行き帰りに通読したのがほとんど。総じて良書に巡り合った、いや、良書を選ぶことができた。読者満足度80パーセントと言ってもよい。

先週から9月下旬の大型連休まで多忙だ。だから、書評会のためにわざわざ何かを選んで読むのではなく、最近読んだ本から一冊を取り上げて書評をすればよいと楽観していた。ところが、書物には「読ませ上手」と「語らせ上手」があるのだ。読ませ上手な本とは、読んで得ることも多かったが、別に他人に紹介するまでもなく、また、ぼくほど他人は啓発されたり愉快になったりしないだろうと感じる本。他方、語らせ上手な本とは、批判しやすい本、賛否相半ばしそうな本、読後感想に向いている本、一般受けするさわり・・・のある本である。残念ながら、この二ヵ月ちょっとの間にぼくが読んだ大半は書評向きではなかった。

先々週のこと、友人が“The Praise of Folly”という英書を送ってきて「一読してほしい」と言う。なぜ送ってきたかの子細は省略するが、これにしようかとも思った。種明かしをすると、この本はエラスムスが16世紀初めに書いた、あの『痴愚神礼賛』(または『愚神礼賛』)である。送ってきた友人はそうとは気づかなかったようだ。この忙しい時期に300ページ以上の原書、しかも内容はカトリック批判。読みたくて読むのではないから疲弊する。だが、ぼくはこの本の内容をすでにある程度知っている。全文を読んだわけではないが、いつぞや和訳された本に目を通したことがあるからだ。A4一枚にまとめて10分間書評するくらいは朝飯前だろう。


しかし、やっぱりやめた。わくわくしないのである。ぼくがおもしろがりもしない本を紹介するわけにはいかない。ふと、先々週に上田敏の『訳詩集』を久々に手に取って気の向くままに数ページをめくったのを思い出す。スタッフの一人に薦めて貸したのだが、尋ねたら、まだ読んでいないとの返事。いったん返却してもらうことにした。この詩集は英語を勉強していた時代に愛読していたもの。原文の詩よりも上田敏の訳のほうがオリジナリティがあって、名詩を誉れ高い語感とリズムで溢れさせている。なにしろロバート・ブラウニングの平易な短詩をこんなふうに仕上げてしまうのだから。

The year’s at the spring,
And day’s at the morn;
Morning’s at seven;

The hill-side’s dew-pearl’d;
The lark’s on the wing;
The snail’s on the thorn;
God’s in His heaven―
All’s right with the world !

時は春、
日はあした
あしたは七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀あげひばりなのりいで、
蝸牛かたつむり枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。

上田敏を知っている人は少ないだろうから、代表的な訳詩を三つほど紹介して、ついでに英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語に堪能な語学の天才で、驚くべき詩的感性と表現力の持ち主であるとエピソードを語ればよし――となるはずだった。しかし、この本はぼくが決めたルールに抵触することに気づいた。書評会では文学作品はダメなのである。がっかりだ。

それで、20年以上前に読んだ本を書棚から取り出して再読した。まだ書評は書いていない。この書物の価値は異端発想の考察にある。「一億総右寄り」とまでは言わないが、昨今の世情に対して少しへそ曲がりな発想をなぞってみるのもまんざら悪くはないだろう。いや、そんなイデオロギー的な読み方はまずいかもしれない。ところで、あと二日と迫った書評会だが、ぼくはほんとうにこの本に決めるのだろうか。もしかすると、仕事が順調に進んで時間に余裕ができたら、変えてしまいそうな気がする。