人の企て、人の営み

講師ばかりが集う年一回の会合があった。「業界」の集まりにはほとんど顔を出さないが、例の事業仕分けで仕分け人を務めた方の講演があると聞いて出席した。子細は省略するが、舞台裏の話も聞けて大いにためになった。「予算は事業につぎ込むのではなく、人に託すもの」とぼくは常々考えている。どんなに崇高な理念を掲げ緻密に練り上げられた事業であっても、資金運用の才覚がない人材が担当していては話にならない。事業が金を食い潰すのではない。金をムダに遣うのもうまく活用するのも人である。こんな思いをあらためて強くした。

人と金の関係のみならず、この地球上で生じる自然現象の一部も含めた出来事や生業なりわいは人が企てるものだ。そして、人が営んでいるものでもある。一人一人は自分を非力だと思っているが、非力の集合と総和は想像を絶するエネルギーとして世界の動因になっている。社会や国家をうまく機能させているのも人なら、危うくしているのも人である。ここでの人とは、匿名の人間集団なのではない。個々の人間のことだ。個人の企て、個人の営みが成否の鍵を握っている。

「企業は人なり」の主語と述語を入れ替えて、「人が企業なり」とするのが正解なのだろう。「人間は万物の尺度である」とプロタゴラスが語ったとき、人類全般ではなく、一人一人の考え方や生き方が念頭にあったはずである。幸せも不幸も、仕事の成否も、社会の良し悪しも、すべて個人の仕業なのだ。このように考えるのでなければ、ぼくたち一人一人は当事者としての自覚もせずに、無責任を決めこんで生き続けていくだろう。


リーマンショックも自分のせい、長引く不況も一人一人のせい。こう思いなしておかないと個人としての対策も行動も取りようがない。理不尽を批判するのは大いに結構だが、同時に他人事ではなく己にも責任の一端があることを肝に銘じておかねばならない。自分のせいではなく他人のせいなのだと誰もが信じていたら、いったいどこの誰が有効な対策を立ててくれるのか。他力を過大評価しすぎることなく、また自力を過小評価しすぎることなく、企て営む。

過ぎ行く年を大いに振り返り反省はするが、来年の抱負について多くを語らない。来年こうしようと雲の上の可能性のようなことを決意表明したものの、叶わなかったときの後悔とマイナスエネルギーが大きすぎるからである。理想が低くて夢のない人間なのか? いや、そうではない。理想や夢の前に、確実にできそうなことを日々着実にこなそうと思うばかりである。この延長線上にしか理想も夢もない。

誰もが知っているにもかかわらず、日々流されて忘れてしまう古典のことばがある。ほとんど真理とも思える二つの箴言は二千数百年も前に語られた。生活と仕事をすっぽりと包み込んでいる市場経済を、ぼくたち一人一人がどのように生きるかのヒントになってくれるはずだ。デルフォイの神殿に祀られたアポロンの神に捧げた箴言、それはソクラテスが終生強く唱え続けたものであった。

汝自身を知れ。

身の程を超えるな。

控えめな情報、強い意見

目を一度通している新聞を一ヵ月分まとめて再び拾い読みして、おもしろそうな記事があれば切り抜く。「おもしろそう」のレベルを相当上げておかないと、何でもかんでも気になってクリッピング作業が負担になる。三週間分なら5つ、6つの記事がよい。なぜクリップするのかとよく人に聞かれるのだが、残しておいて仕事に役立てようという魂胆で切り抜くのではない。ぱっと見ておもしろそうな記事を、切り抜きながら読み返しているのである。読み返しと切り抜きは一つの行為になっている。

ある記事のくだりに「レストランで必ず出てくるグリッシーニ(イタリアのスティック状のパン)は、店によっておいしさが違った」とある。たまたまグリッシーニのことを知っていて自宅でも時々口にするぼくと、まったく知らない人とでは、この情報への反応はだいぶ違うはずだ。人はまったく知らないことでも信じたり疑ったりすることはできるが、疑うにしても何が間違っているかを指摘することはできない。ただ怪しいと感じるだけである。

たとえば、一週間で百万円が倍になる新しい金融商品のことをまったく知らなくても、危険センサーが働いて怪しいと疑うことはできる(危険センサーがまったく機能しないため詐欺の被害者になる人たちも少なからずいるが)。しかし、上記のグリッシーニの情報にはさしあたっての危険はなさそうだから、「ああ、そうなのか」と読み流しはしても、強く疑うことはないだろう。正しいか誤りかと言えば、この情報は間違っている。「必ず出てくる」と、きっぱりと表現したために生じた誤りである。


グリッシーニは食事の前の「おつまみ」だ。パンの一種ではあるが、長さ2025cmの太いポッキー状のクラッカーを想像すればいい。ぼくの経験では、グリッシーニを出す店のほうが少なく、どこのレストランでも「必ず出てくる」ものではない。この体験的情報を「必ず」で紹介してしまうと、虚偽になりかねない。なお、「店によっておいしさが違った」は著者の意見なので、こちらはどんなに強く主張してもらってもいい。但し、「店によっておいしさが違った」と言うと、グリッシーニが店ごとの自家製のように聞こえる。レストランで出すのはほとんどの場合、数本単位で包装してある市販品だ。おっと、グリッシーニ論ではなかった。

情報というものは、何から何まで調べて用いるわけではない。だから、体験ならその範囲で表現し、情報のサンプルが少なければ控えめに一般化するのが望ましい。つまり、経験であれ引用や知識であれ、情報を持ち出す時点では「過度の確信」を込めてはならないのである。学者が発表したり論文を書いたりするように神経質になることはないが、自分が例外的または特権的に知りえていることを紹介するときは慎重であるべきなのだ。

これに対して、情報から推論して導き出す意見は、説明や理由がつくかぎり、好きなだけ強調すればいいのである。いや、そもそも「弱い意見」や「軽い意見」や「とりあえず意見」などの控えめな意見があってはならない。流行語を借りれば、「草食系意見」は断じてありえないのだ。意見はすべて包み隠さず明快で、大いに強くなければならない。声の大きさではなく、毅然とした強さだ。情報ばかりが強気に威張っていて、声の消え入りそうな意見で収束する話しぶりが最近目立つが、嘆かわしいかぎりである。

複雑と単純のはざま

テレビドラマはめったに見ないが、ある番組をBSハイビジョンで見終えてそのままつけっぱなしにしていたら、『坂の上の雲』が始まった。毎週同じ曜日同じ時間帯に拘束されてしまうシリーズドラマに熱心ではないので、普段はすぐにチャンネルを変えるか電源を切る。だが、このときに限ってエコに反してテレビをつけたまま雑用したり本を読んでいた。画面には時々目を向ける程度だったが、音声は当然耳に入ってくる。

たまたま「その場面」ではテレビの前に座り込んでお茶を飲んでいた。秋山好古が上京してきた弟の真之と飯を食っている場面だ。兄が酒を一気に飲み干し、その茶碗を弟に渡す。弟が櫃から飯を盛って漬物をおかずにして腹へと流し込む。茶碗は一つ。やりとりの台詞は細かく覚えていないが、一つの茶碗に象徴される生活スタイルを「身辺を単純に」と描写していたのが印象に残った。しばらくして電源を切ったが、就寝前に身辺単純を「シンプルライフ」に読み換えて、ぼく自身の日々の生活をなぞったりしていた。

というのも、偶然なのだが、その前日にノートに「思考複雑、言論明快、行動単純」という表題で次のようなメモを、文章未推敲のまま記していたからである。

それぞれの四字熟語に異論がないわけではない。場合によっては、思考も言論も行動もすべてシンプルをモットーにしてもいいわけだ。しかし、思考単純、言論単純、行動単純と書き換えてみると、どうしても思考単純だけには納得がいかない。なぜなら、思考の特権は現実から乖離して「何でもどんなふうにでも巡らせる」という自由自在性にあるからだ。自由自在性は複雑をも意味する。どんなに複雑に思考をしても、誰にも迷惑をかけることはないだろう。翻って、その複雑思考をそっくりそのまま言論化すれば他者が困り果てる。ゆえに、若干の複雑さが残るにしても、言語は明快であることが望ましい。また、社会での協働という観点に立てば行動もわかりやすほうがいいだろう。現実側から並べ換えると、「シンプルに行動し、わかりやすく対話し、そしてしっかり考える」ということになる。


一昨年までぼくは『シンプルマーケティング』を標榜して何度も講演していた。今でもこれが拙いとは思っていないが、誤解を招いたかもしれないと反省している。シンプルであるべきは手法としてのマーケティングである。そのことを訴求したいがために、ぼくは市場そのものを「売り手と買い手、商品・サービスと貨幣」の4要素を中心に見るべきだと提言していた。弁明が許されるなら、決して「4要素のみ・・」と言ったわけではない。さらに付け加えるならば、売り手も買い手も人間であるからコミュニケーション・消費・欲望なども含んでいるし、商品・サービスには技術・便益・満足などが関わり、貨幣には金融・価値・家計などの要素が無関係ではない。4要素は周辺へと広がる。中心には周縁がついてまわるのである。

実に複雑な現象をとらえて単純に考えることはできない。複雑な事柄は複雑に考えて扱うしかないのである。しかし、科学がそうしてきたように、複雑怪奇に潜む本質をシンプルな法則でまとめようとし、誰かに伝え誰かと行動して方策を立てるのは人のさがである。複雑な要素を秘めているはずのゲーム――たとえば競馬、囲碁・将棋、サッカーなど――に必勝法や定跡を模索しようとする心理同様、つかみどころのない市場の中にぼくたちは「確かなマーケティング法則」を発見したいと願っている。

単純化は人間能力の限界から来るものなのだろう。複雑を単純に見立てようとするのは、言論と行動のための方便にすぎない。何かを解決するために誰かとコミュニケーションしたり行動したりしようとすれば、複雑な現象を解体して「単純に箇条書き化」することは絶対条件なのである。しかし、しばし解決を棚上げし、言論や行動をも括弧の中に入れてしまえばどうだろう。ぼくたちがいる市場は複雑であり、いかなる手立てを講じても単純に思考することはできそうもない。億単位の売り手と買い手に商品とサービス、兆単位の貨幣……複雑をあるがままに複雑として見つめることは無駄ではない。この作業を経たのちにはじめて、シンプルマーケティングが「身の丈に応じたマーケティング」ということが明らかになるだろう。

自分は線、他者は点

年に千人近くの人たちと「初対面」する。「一対多」で出会ってそのままおしまいというケースがほとんどだが、一対一の接し方をする人たちも二、三百の数にのぼる。ぼくをよく知る人たちは誰も信じてくれないが、根が人見知りするほうであり、かつてはそれが苦だったのであまり人付き合いを好まなかった。職業柄それではいけないと一念発起し、人見知りしないように意識変革して現在に至ったというわけである。

初対面の人と話をするとき、その人にまつわるいろんな想像が浮かぶ。だが、その人が発する情報やその人から受け取る記号がどんなにおびただしくても、所詮その人はぼくにとって〈点存在〉でしかない。その人の今という点しか扱いきれない。居合わせる知り合いがその人の点を膨らませてくれることもあるが、それでもなお、点はあくまでも点であり、彗星の尾のようにその人の過去の線がただちに見えてくるわけではない。

その人が知人になる。やがて親しくなる。するとどうだろう、点存在だったその人が、知り合った時点にまで遡れる〈線存在〉になってくる。場合によると、その人の未来へ延びる線までが浮かんできたりもする。言うまでもなく、線存在への接し方は点存在に比べて密度が高い。接線は接点よりも接する部分が大きいのは言うまでもない。


しかし、点存在が例外なく線存在になると思いなすのは楽観的だ。ぼくの線存在としての意識に比べれば、どんなに親しくなった知人も点存在の域を出ていないと言うべきだろう。ぼく自身は過去を背負った線存在、他者は現時点においてのみ対峙する点存在――こんな関係図が見えてくる。ただ、この関係図は相手にも当てはまる。つまり、相手も自分を線存在ととらえ、ぼくを点存在のように扱っているのである。

人は自分を過去から現在に至る動的文脈の中に置く。そのくせ、他人のことになると前後関係のない点、つまり静止存在としてしか見ない。第三者の目には、どちらも点存在として居合わせているかのように映っているだろう。つまり、「線存在としての意識」だけをお互いに持ちながら、そこで繰り広げられているのは「点存在としての関係」に止まっているのである。出会った縁を忘れ、昨日までの経緯をお互いにおもんぱかることもない希薄な関係。記憶や思い出しとは無縁な、デジタルで一過性の関係。それは一期一会とは似て非なるもの。

自分だけを線存在として意識するエゴイズムすら消え去ろうとしている。「他者は点、自分も点」への関係変化を強く実感してしまう今日この頃だ。全過去を背負った人間として線存在を実践する、相手との関係の記憶をしっかりと思い起こす――こうしてはじめて関係は深まる。束の間の点としておざなりに他者に向き合う習慣と決別するには、尋常でない努力が必要なのだろう。

変わったのか、変わっていないのか

9月末、出張先のホテルで日経新聞を手にした。「ご自由にどうぞ」の表示とともに置いてあった。「歴史的な衆院選からきょうで一ヵ月になる。政治の風景は変わった」とコラムの書き出し。よく目にする「変わる」ということばなのに、この時ばかりは不思議に思えてきた。よく目を凝らしていると「変」という文字が変に見えてきたのである。こういう知覚の過程の作用を〈異化〉と呼ぶが、「変、変、変、変、変……」と並べていくと異様な雰囲気が漂ってきて、逆に強い注意がそこに向いてしまった。

「変化」を認知するには、ある対象の「過去と現在」の差異に気づかねばならない。変化とは二点間差異である。既に知っていることと現在心得ていることが同じであれば、変化はわからない。つまり、「変」とは思わない。夏を知っているから秋の気配に気づく。「よくなった」とつぶやくときは「よくなかったこと」と比較している。「あったのに、なくなった」……休暇、食料、金銭でもそのような落差に気づいて変化を知る。


では、政治の風景はどう変わったのか。つまり、政治という対象の、前風景と現在の風景の違いは何か。前風景もよく知らず今の風景にも関心がなければ、「政治の風景は変わった」という評論を鵜呑みにするしかない。いずれの風景もよく眺めていて、なおかつ変わっていないと思うのであれば、「政治の風景は変わった」に同意することはできないだろう。

大きな変化があるとしても、それに気づくのはもっと先に違いない。革命でも起こらないかぎり、ただちに激変を認めることはできない。もちろん巷間取り上げられているような小さな変化には気づいているつもりである。とはいえ、新聞のコラムニストのように「政治の風景は変わった」と歴史の境目に立ち会っているようなコメントをする勇気はない。

ひとつ異様に聞こえることば遣いに気づいた。首相の「国民のお暮らし」である。いやはや、「国民の暮らし」で十分だろう。何でも「お」を付けたがるこの国の政治家の言語感性が問われる。その後も耳を澄ましていると、前政権でも重宝されていた「訴えをしてまいりたい」などの古風な言い回しもちらほら聞こえてくる。異様に聞こえたものが、実はよく知っている語りだったのである。よく知っているものが変に見えてくるのを異化と呼ぶのに対して、変に見えるものが実はよく知っているものだったというのを〈異化の異化〉と言うらしい。「異化の異化の異化の異化の……」と延々と続いても、政治家は変わらないのかもしれない。

ジレンマから逃れるジレンマ

発音通りなら「ディレンマ」なのだが、違和感があるのでジレンマと表記することにする。ジレンマは三段論法の一つで、両刀論法とも呼ばれる。「Pを選べばXになる。Qを選んでもXになる。選択肢はPQの二つだけ。だから、どちらを選んでもXになる」。PQの板ばさみ。進退これきわまってにっちもさっちもいかない状態を意味する。

仮にXという同じ状態にならなくてもジレンマは起こりうる。「Pをしたら罪。Qをしたら恥。罪も恥も避けねばならぬ。ならばPQも選べない」という具合。たとえば、清水の舞台から飛び降りても「バカ」だと笑われるし、引き返してきても「臆病者」と罵られるという場合。飛び降りるか引き返すかもジレンマなら、バカと臆病者ならどっちがましかという答も出ない。

どうにも決断しようがないと思われる場面であっても、外圧や強制力などが加わるので、仕事上では選択せざるをえないこともあるだろう。結果さえ問わなければ、ジレンマなど恐くも何ともないはずだ。しかし、もはや結果を選べる状況ではないからこそジレンマなのだ。なにしろすでに結果そのものが絶望的なのである。それはまるで二枚のクジがあって、どっちを引いても「アウト」と書いてあるようなもの。いや、「アウト」などという意味不明なメッセージなら恐くはないだろうが、ジレンマのクジの紙切れにはもっと不吉な未来が記されている。


それでもなお、死をも恐れなければジレンマなどへっちゃらだろう。PでもQでも目をつぶって運命にしたがう覚悟があれば、ジレンマなど簡単に無意味化できる。あるいは、「えいやっ!」と選べるならば、それはまだジレンマと呼ぶ事態ではないのだろう。ジレンマは、二者択一ゆえに苦しみを生み、しかも選択肢のマイナス因子が完全に拮抗するために、選択者を立ち往生させてしまう。ゆえに、ジレンマを迎えた時点でアウト。選択すらできずにアウト。セーフになるにはジレンマを回避するような生き方をするしかない。

いま、ここで潔く迅速に意思決定をしていれば、ジレンマと無縁でいることができる。要するに、いずれの選択をしてもゆゆしき事態にならない時点で、さっさと右か左かを決めてしまうのだ。モラトリアム人間がジレンマ状態に陥りやすいのは想像に難くない。だからぼくは、モラトリアム人間たちに「今なら成功の目がある。万が一、選択が間違っていても小さな後悔と自責で済む。先送りし続けると、二つの選択肢の結論が同じになってしまう」と助言する。わかりやすく言えば、成否の分かれ道は、一日過ぎるたびに否への一本道へと変化していく。

ジレンマを迎えてはいけないのである。ジレンマは何としてでも回避せねばならない。こう強く主張するぼくにモラトリアム人間が尋ねてくる――「どうすればジレンマを回避することができるのか?」 この問いは、さらなるアドバイスをしようとするぼくからことばを奪い、ぼく自身をジレンマの陥穽に投げ落とす。なぜなら、ジレンマを回避する切り札は「潔い迅速な意思決定」ただ一つにもかかわらず、モラトリアム人間はこの「潔い迅速な意思決定」を先送るからである。つまり、彼らは選択肢が一つしかないことをも決めないのだ。「これしかない道」を今日選ばないことによって、「どちらに行ってもダメな二つの道」を明日舗装する。これがジレンマ生成のしくみである。 

数字信奉の外に立つ

数字至上主義への疑問で終わった昨日のブログを続けてみたい。数字が無個性の元凶の一つであるとぼくは考えている。

さて、人の目でアリやチョウの個体差を判別するのはむずかしい。昨日見たアリもチョウも今日見るアリもチョウも寸分違わぬ行動をしている。そう見えるし、実際そうなのだろう。彼らには絶対とも言える厳密なルールに基づいた世界がある。どのアリもチョウもそれぞれの仲間と同じ「世界感覚」によって生きている。彼らの生息環境に、ぼくたちが表向き賞賛している多様性を垣間見ることはできない。アリの歩み方、チョウの飛び方はつねに一定であり、彼らは持って生まれた食性にしたがって限られた餌だけを求める。

では、なぜ人間だけが互いに異なった趣味嗜好や食性を持っているのか。あるいは、なぜ人間だけがそれぞれに違った世界の見方をして日々を働き暮らしているのか。そこには他の動物にはない、人間固有の基軸があるからだろう。その基軸こそが言語であり概念ではないか。直接的にモノを感知するアリやチョウとは違って、人間は言語や概念という知覚を通じてモノを認識する。この知覚作用が後天的ゆえに、個性に変化が生じるのである。経験や知識の違い、それによって形成される言語や概念の違いが人間を「多様性の存在」にしているのだ。

ところが、ほんとうにぼくたちは個性的な人間として多様性を享受しているのかと問えば、かなり疑わしくなってくる。まるでアリやチョウのように一つの客観的世界を生きてはいないだろうか。いつもいつもそうではないにしても、誰もが同じように考え同じように行動するような場面を少なからず経験する。ノーと言うべきところを、みんながイエスという理由だけでノーと言う。あるいは権威ある人たちがこしらえたレールを絶対経路のようにとらえて、その上を疑うことなく黙って走っている。ちょうどアゲハチョウが日光の当たる樹木に沿って飛ぶように……。


繰り返すが、多様性を阻害する元凶の一つが数字だと思うのである。極論すれば、数字も言語表現の一つに過ぎないのに、ひとり絶対的地位に君臨してしまっている。売買関係において、商品には価格、品質、使い勝手、便益などと多彩な価値の要素が備わっているにもかかわらず、端的に商品をよく理解できる要素が価格という数値であるがゆえに、それが際立ってしまう。経営においても、業績という数字以外にいろいろあるはずなのだ。それでも、その他のいろいろにも数値指標を置く。

ピカソとルノワールの絵画を数値評価すると言えば一笑に付すくせに、ある種の競技では「芸術点」なるものをさも当然のごとく設けるのである。「A選手がB選手より上。理由? だって芸術度が高いから」という審査員の主観が、数値化した客観よりも劣っていると言い放つだけの根拠はない。ぼくにしても、講師評価を5段階で採点されるくらいなら、「いいか悪いか」だけで判断されるほうが潔く納得できる。

数字が真実を語る? 数字がすべて? 数字で経営内容がわかる? これらに対する検証なきイエスは、数字への絶対信奉に毒された思い上がりの現れである。数値評価を否定しているのではない。それが一つの表現に過ぎないことを心得るべきなのだ。数字至上主義は子どもや働く人々をアリやチョウに変える。

昨夜の会読会で7人の発表を聞き、ぼくはS氏を最優秀とした。断じて数字の比較などではない。彼のたった一言にぼくの主観が反応したのだ。ただそれだけだ。そして、そのぼくの評価は、数字指標にしていたらまったく別のものになっただろうと思う。点数化しなければ子どもたちの学力はまったく別のものに見えてくる。ひいては人間世界の現在の秩序と混沌にコペルニクス的転回が起こるだろう。おっと、文勢に反省。ここまでかたくなに肩肘張って主張するまでもない。数字だけを通して見る世界はつまらないのだ。個人的には数学は嫌いではないが、無機質な数字よりもおもしろいものが人間社会にはいくらでもある、と言いたかったまでである。

遊びの時間、時間の遊び

人生の出発点には「無意識の生きる」がある。やがて意識が強くなってくると幼児期には「遊ぶ」。学童になるまでは「よく遊ぶ」が容認される。次いで「よく遊び(同時に)よく学ぶ」へと向かう。やがて小学生も高学年になると、いつの間にか「よく学び(しかる後に)よく遊ぶ」が奨励される。いや、そうしないと社会的存在として生きていくのが難しくなってくる。一番いいのは「学びイコール遊び、遊びイコール学び」。学びと遊びが混在し可逆的になり一体化すれば、さぞかし毎日が楽しいに違いない。

大人になれば「よく働き(そしてご褒美として)遊ぶ」がセオリーになる。この順番でなければならない。ろくに働きもせずに遊んでばかりいれば社会が認めてくれない。ホイジンガやカイヨワを持ち出して遊びを正当化するまでもない。誰が何と言おうと、遊びの時間は人生にとって不可欠だ。だが、仕事とのバランスを崩してまで「よく遊ぶ」を追い求めるのは筋違い。少なくとも時間とエネルギーにおいて、遊びが仕事を凌駕するのはまずい。もちろん仕事と遊びに一線を画しにくい職業が世の中に存在することも認めたうえでの話だが……。

仕事を滞らせたり職場に遅刻することがあっても、遊びの予定をしっかり押さえて待ち合わせには絶対に遅れない人がいる。そんな人間は仕事が嫌いで遊びが好きなのだと単純に結論づけるわけにはいかない。ここには遊びが仕事以上に「真剣さ」を要求する性質を帯びていることが窺える。おざなりな仕事のルールに比べて、遊びのルールが厳格に定められるのも周知の事実だ。遊びに費やす時間とエネルギーを仕事に向ければ、もっと容易に課題も達成できるのではないか。皮肉で言っているのではない。


いっそのこと仕事を遊びとして捉えればいいのにと思うのだが、先に書いたようにそんなに都合のいい職業に誰もが就いているわけではない。仕事は仕事なのである。遊び心はあってもよいが、遊びとは違う。けれども、仕事中の「遊びの時間」は慎むべきだが、「時間の遊び」は大いに作るべきだろう。時間の遊びとは、歯車の遊びのようなものだ。ガッチリと組み合わさった歯車は動かない。ほんの少しの余裕がなければ歯車は機能しない。この余裕のことを遊びと呼ぶ。

時間にも遊びがいる。これを「時間の糊しろ」と考える。たとえば、今週の水曜日、オフィスのミーティングルームでスタッフの一人が午後6時まで得意先を迎えての会議をおこない、午後6時からぼくの勉強会が始まる。ここに時間の糊しろはない。会議は早く終わることもあるが、長引くこともある。実際は遅くなってしまったが、遡れば時間の遊びを作れなかった失敗である。これが仕事と仕事どうしになっていたら、この余裕の無さは時間の重なりをもたらしトラブルの要因になる可能性がある。時間に糊しろがないと、納期、タイミング、段取りなどに思わぬ狂いを招く。

今日の1時間は明日の1時間よりも糊しろが大きい。余裕の質が違うのだ。同じ一日、いや午前中だけでも時間の質は変わってくる。たとえば、午前9時の新幹線に乗る時、8時まで自宅にいて本を読むのと、8時に駅に着いて本を読むのとでは、後者のほうが糊しろがだいぶ大きい。なぜなら、自宅を出るという動かせない一工程を後回しにしては落ち着いて本など読めないからである。創造性が低い無機質な工程をなるべく早めに片付けておくべきなのだ。糊しろは読書の時間に遊びをもたらしてくれる。時間の遊びは遊び心の仕事を可能にしてくれる。それはまたリスク管理にもつながってくるのである。  

自己都合との闘い

ぼくたちは多かれ少なかれ経験を通じてパターンを認識する。挨拶のパターン、仕事手順のパターン、信号や交通安全のパターン……。よく体験しよく生じるパターンをおおむね定型として認識しているから、そのつど深慮遠謀しなくても日々を過ごしていける。このようなパターンを法則化するのは、一つは省力化のためであり、もう一つはリスク管理のためである。毎度毎度エネルギーを費やしてリスクに怯えながら生活したり仕事をしていては神経も磨り減り身が持たない。

もちろんパターンから外れるケースもある。しかし、ぼくたちは「おおむねこうなるだろう」と想定して現実と向き合っている。電車はおおむねダイヤ通りにホームに入ってくるし、注文した牛丼はおおむね30秒後には出てくるし、よほどのひどい社員でないかぎり遅刻する場合はおおむね事前連絡がある。このように外部環境において一定のパターンを想定できることはいいことである。ライプニッツの神の意志を持ち出すまでもなく、〈予定調和〉によってレール上を決まりきったように走れることはそうでないよりも楽に決まっている。ただ、個人的には予定調和はとてもつまらないと思う。

この予定調和が自己を中心として成り立つと考えてしまうと、ちょっとまずいことになる。言ったことはおおむね伝わっているはず、わからないところは読み飛ばしても大丈夫だろう、会合には申込者全員がほぼ出席するに違いないなど、自分サイドから一方的にしかるべきパターンが起こるだろうと信じてしまう。予定調和に基づいて「そうなるであろう的推論」がいとも簡単に導かれてしまうのだ。


しかし、推論はあくまでも推論である。演繹推理的に言えば、昨日までこういうルールが当てはまったから今日も当てはまるということには何の保障もない。すべての演繹的な原理には「今までのところ」または「今のところ」という見えざる注釈がついている。経験的に繰り返されてきた事柄が今日もまた繰り返されるという蓋然性は決して定まらないのである。蓋然性とは「ありそうなこと、起こりそうなこと」であって、「実際に存在すること、実際に起こること」とイコールではない。

想定や思惑が外れるのは生活世界ではよくあることなのに、想定や思惑通りに事が運ぶ「順風パターン」を中心に経験知が積まれ蓄えられていく。だから逆風が吹くと――つまり、現実と自己都合のすれ違いに直面すると――自己都合に陥った自分を責めるのではなく、自己不都合の原因をつくった現実のほうを咎めるようになる。列車が99パーセント遅れないわが国では、1パーセントの確率で起こる遅延に対して自己都合が怒りを示す。列車の順行が50パーセント程度の某欧州の国では誰も文句を言わない。

自己都合を中心とした想定は甘い。パターン崩壊という不都合ハプニングと自己都合の対立時点での振る舞いを見れば、その人間の対処能力が露呈する。行き場のない歯ぎしりやもどかしさを自分の目論見に還元せずに、自暴自棄気味に当り散らすのはいかにもお粗末な話である。神が仕組んだかのように予定調和を当てにした自分が悪いのだ。とにかくハプニングは避けられない。だが、よく考えてみれば、ぼくたちが闘わねばならない相手は、ハプニングではなく、自己都合のほうなのである。

総意誤認する人々

「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況で「あなたは◎◎◎◎どういう行動をとるでしょうか?」 こう質問されると、ほとんどの人は「たぶん落ち着いて行動すると思う」と答える。周囲を見渡し冷静に判断したのちに非常階段を探すのだろうか。それとも、地下街にいてシェルターになりそうな場所に身を潜めるのだろうか。いずれにしても「慌てふためくと思います」と回答する人はまずいない。

ところが、同じ質問の主語を変えて尋ねてみる。「地下街を歩いている時に地震。そのとっさの状況で、他の人たちは◎◎◎◎◎◎どういう行動をとると思いますか?」 この問いに対して、尋ねられた個人は「慌てて非常出口に向かうだろう」と答える傾向が強いというのだ。「この私を除くみんな」がパニックに陥るのである。自分だけがすました顔をして集団心理の外にいる。

詳しいことは知らないが、この種の話はその分野のいろんな本で取り上げられているに違いない。書名は忘れたが、ぼくもだいぶ前にパニックか心理学かの本で上記の事例を読んだ。コメントをする。総意はこうだろう、但し私は例外――というのはよくあることだ。「ユダヤ人差別を論じる著者のほとんどが、自分だけは差別とは無縁だと決めてかかっている」(オーウェル)ということばもそれを示している。「われわれみんな」という一人称複数で誰かが何かを語る時、当の本人を含めているか除外しているかを聴き分けてみれば、話に違った含みが感知できる。


おもしろいことに、この逆もあるのだ。そして、そこにも人間のエゴイストぶり、我田引水の生き様が見え隠れする。それは他人の態度分析における〈総意誤認〉である。「ある大阪のオバチャンが自分の着ている服の豹柄が全国区であると信じ、それが誤まった認識であることに気づいていないこと」と言えばわかるだろうか。「デパートで午後3時にタイムサービス。奥さん、あなたは行かれますか?」と尋ねたら、「もちろん! みんな大勢行かれますよ」と、先の地下街とは違う答えが返ってくる。「私の思いは総意を反映している」という確信がそこにある。

あることについて感想を述べる時、人は自分の感想をコメントする。「私は〇〇だと思う」というように。同時に、その個人的感想なり意見は、暗黙のうちに「他の人たちも自分と同じように考えている」と推論している。一般的に、自分の考えは総意に近いと思っている。自分の常識は世間でも常識だと信じる傾向が強いのだ。個人の見方が総意と重なれば常識人なのだろうが、周囲を見渡すかぎり、そんなに常識人が大勢いるとも思えない。むしろ総意誤認している人だらけである。ぼくが総意誤認グループの一員かどうかは自己診断しにくい。そういう類のものなのだろう。

「私が考えること」と「他人が考えること」が同じなのか違うのか――当てずっぽうでは困る。ここはちゃんと冷静に弁別しておく必要がある。つまり、持論が少数派なのか多数派なのかを知っておくことは、人間関係や組織力学のバランスをとるために欠かせない。フランソワ・ラブレーの「汝の欲することを成せ」を鵜呑みにしていると、総意誤認が起こってしまうから気をつけよう。他人はあなたの善行を迷惑がっているかもしれないからだ。