『真贋』

何が本物で何が偽物かは通常権威によって決められる。もっとも、悪貨が良貨を駆逐するようになると、良きもの(=本物)はどこかにしまい込まれて流通せず、本物を見る機会は激減する。日頃目にしたり手にしたりするのは悪しきもの(=偽物)ばかり。本物を見ていないから偽物を認識することすらできなくなる。話は骨董や貴金属に限らない。今は、知識や情報、人も商売もことごとく、真贋を見極めるのが難しい時代になっているのである。


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文芸評論家の小林秀雄(1902-1983)は骨董趣味人としても知られていた。本書の名の付いた『真贋しんがん』というエッセイは独立した小文で、それだけ読んでももちろんいいのだが、他に収録されているエッセイと読み併せてみて見えてくるものもある。「美しい花はある。花の美しさなどというものはない」と断言した小林秀雄は、抽象化された美を認めなかった。美しさを「もの」から切り離さなかった人だ。その人が書いた本物と偽物の話である。

古美術商の目利きの力は、若い頃に偽物をどれだけ摑まされたかという経験に比例する。知人の業界人がそんなことを言っていた。骨董趣味のキャリアが長くても小林秀雄は素人であった。ある時期、良寛の『地震後作』という詩軸を手に入れて得意になっていたら、良寛研究家の友人に「越後の地震以降、良寛はこんな字を書かない」と指摘され、その場で傍に置いてあった一文字助光の名刀で縦横十文字に切ってバラバラにした。小林が切り裂いたのはいったい何だったのか? 偽物の何を切り捨てたのだろうか? ちょっと先に次のくだりがある。

書画骨董という煩悩の世界では、ニセ物は人間の様に歩いている。煩悩がそれを要求しているからである。(……)金がないくせに贅沢がしてみたい大多数の好者すきしゃの実情であろう。

どうやら切り裂いて捨てたのは威張りたいという懲りないさがと深いごうだったに違いない。

商売人は、ニセ物という言葉を使いたがらない。ニセ物という様な徒に人心を刺戟する言葉は、言わば禁句にして置く方がいいので、例えば二番手だと言う、ちと若いと言う、ジョボたれてると言う(……)。

先の知人は、「世に出ていない本物は大方旧豪商の蔵で眠っており、いくらでも古い品が発掘できる」と言った。しかし、流通する前に紛失することもあるだろうし劣化や瑕疵もあるだろうから、実際のところ本物は減っていく。ところが、本物が減っても、本物を欲しがる愛好家の数は変わらない。彼らの需要を満たそうとすれば供給は不足する。ここに偽物の出番があるのだ。小林は言う、「例えば雪舟のホン物は、専門家の説によれば十数点しかないが、雪舟を掛けたい人が一万人ある」。どうやら、偽物の効用を認めるからこそ書画骨董界がやっていけるらしいのだ。

博物館の鑑定書が付いていても偽物だったというのは日常茶飯事。「美は不安定な鑑賞のうちにしか生きていないから、研究には適さない」と小林は言う。専門家の研究心が却って見誤りをもたらすのである。権威への信頼もほどほどにせねばならない。

裸茶碗に本物はあっても、箱や極め(鑑定書)のない偽物はないというのがこの世界の常らしい。偽物はモノの外に「らしさ」を持たねばならないということだろう。伝説というものを大雑把に定義すれば、外に在る物に根柢を置かず、内に動く言葉に信を置く表情と言えよう。

伝説の持つ内なる力――ことばの力――が強いからこそ、コピー屋はそこに目を付け、文字によって値打ちをカモフラージュする、というわけである。「あいつのことばは用意周到、でき過ぎている」などと言われないように、自信のあることについては朴訥にポツンと語るのが大人の取るべき措置なのかもしれない。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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