二案か三案か

わずか一案だけを会議にはかる、あるいは誰かに提案する。一案主義とは、採択か不採択かの是非評価だけを迫る方法である。進退を覚悟した、まさに勇気ある一案? 必ずしもそうとはかぎらない。単にその一案を過信しているだけかもしれないし、アイデアが出ないためやむなく一案だったのかもしれない。いずれにしても向こう見ずな話である。

できれば二案あるほうがいい。一案よりは二案のほうがよさそうである。しかし、この二案主義に対しても異論が出ることがある。二案をそれぞれA案とB案と称するとき、これはA案かB案かを迫る方法にほかならない。つまり、一案に対してイエスかノーを決めるのと同じではないかという見解だ。一案がノーになるケースと「A案かつB案」が却下されるケースは、いずれも不採択。一案がイエスになるケースと「A案またはB案」が容認されるケースはいずれも採択。二者択一的という点では、なるほど同じような意思決定のように見える。

ゆえに、せめて三案ということになるのか。三案主義は評価の基準を多様化してくれそうだ。そもそも〈案〉は計画や着想段階のものであり、ある種の「推量的習作」なのである。そうであるなら、実際行動に先立つ、蓋然性の高そうな選択肢は多いほうがいい。「多い」というのは、一案や二案に比べてより多いという意味だ。一案や二案よりも多い最小の選択肢が、三案というわけである。実際、「にぎりと上にぎり」のように二項対立しているよりも、「会席コース松、竹、梅」のほうが中庸があって選びやすい。


以上のことから、「二案よりも三案」と結論づけたいが、話はそう簡単ではない。選択肢の多さだけで案を評価するのなら、三案よりも四案を、さらに、四案よりも五案を歓迎することになってしまう。選択肢の多さは無責任に案を水増しすることにならないか。選択に幅があることによって安心感が得られることは認めよう。しかし、だからと言って、結局は絞らねばならないのだ。選択肢が多ければ多いほど、絞り込む過程のストレスは高くなる。

よく時代に目を配らねばならない。多様性の時代の自由は選択の苦悩をもたらす。際限なくオプションを追い求めるよりも、最初から「これかあれか」と方向性を見据えておくのはどうか。はじめにきつい選択をおこない、次いでその採択案の修正オプションを増やしていくという方法である。意思決定に迅速性が求められる今日、「三案よりも二案」という考え方のほうが有力と言ってもよい。

「二、三の」という慣用があるから、「二案も三案も同じではないか」という見方もありうる。しかし、ぼくの経験上、二案と三案は近似的ではなく、それどころか、大きく距離を隔てた関係にあると思われる。「二、三案で」と依頼された時点で、二案か三案かをはっきりさせるべきであり、できれば二案を説得するのがいい。二案と三案は、提案動機において根本的に異なっているのである。

豊かなアイデアコンテンツ

見聞きし思い浮かべることを習慣的に綴ってきて約30年。ノートをつけるという行為はある種の戦いだ。だが、無理強いされるようなきつい戦いはせいぜい一年で終わる。習慣が形成されてからは次第に具体的な戦果が挙がってくるから、戦う愉しみも徐々に膨らむ。

これまで紛失したノートは数知れないが、ここ十数年分は連続したものが残っている。誰しも休みなく戦い続けることはできないように、ぼくのノート行動にも断続的な「休戦期間」があった。それでも、しばらく緩めた後には闘志がふつふつと湧いてくる。そして、「再戦」にあたって新たな意気込みを書くことになる。次の文章は16年前に実際にしたためた決意である。

再び四囲にまなざしを向けよう
発想は小さなヒントで磨かれる
気がつくかつかないか それも縁
気づいたのならその縁を
しばし己の中で温めよう

決意にしては軽やかだが、ともすれば情報を貪ろうとして焦る自分を戒めている。縁以上のものを求めるなという言い聞かせであり、気づくことは能力の一種であるという諦観でもある。この頃から企画研修に本腰を入れるようになった。人々はアイデアの枯渇に喘いでいる。いや、アイデアを光り輝くものばかりと勘違いをしている。ぼくは曲がりなりにもアイデアと企画を生業としてきた。実務と教育の両面で役に立つことができるはずだと意を強くした。


アイデア勝負の世界は厳しい世界である。だが、何事であれ新しい発想を喜びとする者にとっては、アイデアで食っていける世界には天井知らずの可能性が詰まっている。そして、人は好奇心に満ちた生き物であるから、誰もが新しい発想に向かうものだと、ぼくは楽観的に考えている。

アイデアは外部のどこかから突然やって来て、玄関でピンポーンと鳴らしはしない。ドアや窓を開け放っていても、アイデアは入って来ない。アイデアが生まれる場所は自己の内以外のどこでもない。たとえ外的な刺激によって触発されるにしても、アイデアの誕生は脳内である。ほとんどの場合、アイデアは写真や動画のようなイメージあるいは感覚質クオリアとして浮かび上がる。こうした像や感じはモノづくりにはそのまま活用できることが多い。

ところが、アイデアの最終形がモノではなく計画や企画書の場合、イメージをそのまま書きとめるわけにはいかない。ことばへのデジタル変換が不可欠なのである。いや、イメージの根源においてもことばがある。ことば側からイメージに働きかけていると言ってもよい。したがって、アイデアが出ない、アイデアに乏しいと嘆いている人は、ことばを「遊ぶ」のがいい。一つのことばをじっくりと考え、たとえば語源を調べたり他のことばとのコロケーションをチェックしたりしてみるのだ。

言い換えパラフレーズもアイデアの引き金になる。よく似たことばで表現し、ことばを飛び石よろしく連想的にジャンプする。こういう繰り返しによって、文脈の中でのことば、すなわち生活世界の中での位置取りが別の姿に見えてくる。適当に流していたことばの差異と類似。ことばが繰り広げる一大ネットワークは、イメージのアイデアコンテンツに欠かせない基盤なのである。

人間の二極的類型論

難解な話を書くつもりはない。「人間の二つのタイプ」や「二種類の人間」と書いたのだが、どうもしっくりこないので、いろいろと表現をいじっていたら、やがて「人間の二極的類型論」がぼくの意図に近く、難しそうには見えるけれども、すわりが良さそうなのでこのタイトルに落ち着いたまでである。

人間を血液型で分類すれば4つのタイプになり、星座や誕生月で分ければ12種類になる。では、2種類に分けるとどうなるか。「そりゃ、男と女でしょう」というつぶやきも聞こえるし、「善人と悪人で決まり」という強い主張もありそうだ。「イヌ型とネコ型」と分けてもいいかもしれない。こんなことを考えたのはほかでもない。自分の企画力研修のテキストを見直していて、「情報編集と分類」という章の冒頭に差し掛かった時、気になってしまったのである。そこにはこう書いている。

世の中には二つの人種がいるというジョークがある。曰く、「ものを分ける人」と「ものを分けない人」である。前者を「分別派」、後者を「無分別派」と呼んでもいい。

この種のジョークはだいたいユダヤのそれである。このジョークを作った人間は間違いなく「ものを分ける人」だったのだろう。いずれにせよ、三つ以上には分類根拠が求められそうだが、二つのタイプに分けるのなら何でもありのように思える。たとえば、「調べもの好きには2種類の人間がいる。インターネットで検索する人と書物で検索する人である」。さらに、「インターネット検索にあたって二つのタイプの人間がいる。Googleで検索する人とそれ以外のサーチエンジンを使う人」もありうる。


しばし前者のタイプの人間になって、試みにGoogleで「人間の二つのタイプ」と入力して検索した。すると、「自分のやりたいことを誰かに許可されるのを待っている人たちと、自分自身で許可する人たち」というのが出てきた。なるほど。やっぱりどんな分け方もありうる。そして、二つというのはもっとも極端な分類だから、分類者の視点を色濃く反映するのである。「大きな称賛が与えられたと時、はにかむ人とますます厚かましくなる人がいる」というニーチェのことばがあるが、これなどもニーチェ自身の体験に根ざして絞り出されたに違いない。目障りなほどとても厚かましい奴がきっと近くにいたのだろう。

愉快が好きなので、ジョークがらみで人間を両極に類型することがある。たとえば「ジョークで笑わせる人とジョークで笑わされる人」、あるいは「つまらないジョークを放つ人とそれを聞かされる人」。だいたい役割は決まっている。グループがあれば、ジョークの話し手と聞き手がだいたい二分される。しかし、実際は、ジョークの一つも言えない人は他人のジョークにも笑えないものだ(笑えないから笑う振りをする)。すなわち、聞き手側はさらに、ジョークの分かる人と分からない人に二分されるのである。

最近ぼくがよく用いるのが「機関車人間と客車人間」もしくは「自力人と他力人」である。どれだけ燃料を補給してもエンジンを積んでいなければ動きたくても動けない。つまり、学んでも学んでも自ら思考しなければ行動が伴わないのである。客車は何輌つないでも動かない。機関車はどんなにちっぽけでも動く。装いだけ立派なグリーン車のような客車人間が最近とみに目立つが、いつも機関車に引っ張ってもらうのを待っている様子である。

このように二極的に人間を類型してみるとおもしろいことが見えてくる。現在の自分がいったいどっちの極にいるのか、心底なろうと思っているタイプと今の自分は一致しているのか違うのか。案外、正道ではなく邪道を選ぶような、辻褄の合わない類型のほうに傾きそうな危うさに気づくかもしれない。こっちがいいという気持に忠実な選択をするのは簡単そうで、実はとても難しいと思う。

ミスとグズ、または失敗と怠惰

先週の水曜日、塾生Sさんの会社の全社会議の第三部として『広告の話』について講演した。若い社員さんらは仕事のありように気づいてくれたようだ。決してやさしい話ではなかったが、紹介した事例と仕事線上の課題や願望との波長が合ったと思われる。ぼくの出番はそれだけだったので、第一部と第二部での話は聞いていない。懇親会の席で見せてもらった会議資料をちらっと見れば、そこに次の一文があった。社是である。

「ミスには寛容に、怠慢には厳しさを。慣れ合いのない優しさ、責め心のない厳しさ」

生意気なことを言うようだが、ぼくにとっては目新しいものではない。しかし、このメッセージにとても素直に感応できた。なぜなら、そのように生きてきたし、怠慢(そして、その日常化した惰性の延長としての無為徒食と放蕩三昧)を、自他ともに戒めてきたからである。天賦の才があるわけではないし、油断しているとついつい怠け心に襲われる弱さを自覚しているから、たとえ使い古されたことばである「努力」や「精進」をも盾にして怠慢にあらがうしかないと考えてきた。

かつてエドワード・デ・ボノが水平思考(やわらかい発想)のヒントの一つとして、「ありとあらゆる要素を考える」を掲げた。まったくその通りで重要なことなのだが、これはぼくたちにとっては至難の業だ。あらかじめありとあらゆる要素をシミュレーションできれば、たしかにミスは大いに減るだろう。しかし、賢人が何もかも見据えた上でなおも失敗を犯してしまう現実を見れば、凡人の仕事が日常茶飯事的にミスと隣り合わせにあることは容易に想像できる。いくら注意しても「ミスは起こるもの」なのである。

だからこそ、ミスには寛容でなければならないのだ。但し、己のミスの言い訳のために他人のミスに寛容であろうとするのは自己保身である。ミスに対して寛容であるというのは、自他を問わず、仕事上のミスの蓋然性に潔くなれという意味でなければならない。リスク管理に意を凝らしても起こるミス、あるいは複雑な外的要因によって起こるミスに対しては、月並みだが、再発を防ぐ処方しかない。その処方をアタマと身体に叩き込むしかない。


経験を積み熟練度を増すにつれてミスは徐々に減るもので、看過してもいいほど小さくなってくる。しかし、最後の最後まで残るミスの原因は油断であり、その油断を許してしまう慢心と怠惰に遡る。慢心と怠惰は人間の本性の一部だから、つねに見張っていなければならないのだ。だから「怠慢には厳しさを」なのである。ぼくの知るかぎり、怠慢から派生するミスを相変わらず繰り返す人間は、本人の自力による救済は不可能である。誰かが手を差し伸べてやるしかない。とても時間がかかるし徒労に終わる可能性も高いが、放置すれば組織悪や社会悪としてはびこってしまう。

社是の後半の「慣れ合いのない優しさ」と聞けば、「親しき仲にも礼儀あり」を連想する。フレンドリーであることはいいことである。しかし、ついつい甘味成分が過多になって関係がべたついてしまう。お互い相手を理解し優しい眼差しを向けるのはいいが、そこにはさらりとした抑制が働いていなければならない。Sさんとぼくは長い付き合いで信頼関係も強いが、見えない一線を互いに暗黙のうちに了解している。

最後の「責め心のない厳しさ」は人への対峙のあり方にかかわる。自分はその人をどうしてあげたいのか、なのだ。立ち直れないほどこてんぱんにやり込める厳しさも世間にはある。叱責のための叱責、逃げ場のない窮鼠状態への追い込み。困ったことに、自分に甘い指導者ほどが強く相手を強く責める。だが、指導者側の鬱憤発散のための厳しさでは話にならないのだ。

ぼくはと言えば、議論になればきわめて厳しくからい。相手を妥協せずに論破し、矛盾点を徹底的に追及する。理由は明快で、一段でも高みへと成長してほしいからにほかならない。どうでもいい相手に厳しさなど不用だから、議論に引きずり込むまでもないのである。

話をする人、耳を傾ける人

昨日と一昨日、二日間の企画研修を実施した。アタマも話も大丈夫だが、毎年少しずつ足腰に負荷がかかる。適度に立ったり座ったりし机間を歩いたりしていればいいのだが、熱が入るとついつい同じ場所に立ちっ放しで喋ってしまう。最近パワーポイントを遠隔操作できるリモコンを使い始めたので、ずっと立っていることが多くなった。座って話をするよりも立って語りかけるほうが性に合っているので悲観すべきではないが、歳相応に足腰を鍛錬せねばならないと実感する。

身体のどこかに不調があると、話しぶりに支障を来たす。さすがにキャリアを積んできたので、体調管理には気を遣っている。出張や研修の前には飲まないし人付き合いもしない。夜更かしは絶対にしない。したがって、過去に絶不調で研修や講演を迎えたことは一度もない。それでも、少々肩や背中が痛かったり足がだるかったりすることはある。たとえばふくらはぎや土踏まずに痛みがあると、話しながらも神経がそっちに過敏になったりする。

脳の働きと身体の調子と言語活動は密接につながっている。いや、一体と言ってもよい。アタマが活性化していない、あるいは身体が変調であるという場合には、満足のいく話ができない。但し、それは、調子のいい時と比較する話し手側の自覚であって、初対面の受講生が「今日の講師は調子が悪そうだ」などと認識することはない。彼らは、これまで受講した講師と比較して「今日の講師は下手くそだ」と判断するだけである。


講師と受講生、すなわち話をする人と耳を傾ける人の講義品質に対する評価は同じではない。話す側の自画像と聞く側の描く他者像が一致することは珍しいだろう。仮に一致していようと不一致であろうと、アンケート以外に知るすべはない。しかも、アンケートが受講生たちの所見を素直に表わしているともかぎらない。話す側が意図する効果・演出と、聞く側が期待する学習成果もだいたい乖離しているものである。

ぼくの研修や講座における意図は内容によっていろいろだが、おおむね五つに集約できる。それらは、(1) 新しい発見、(2) 好奇心をくすぐる愉快、(3) 適度にむずかしい、(4) 有用性、(5) わかりやすい、である。

ぼくにとって、話が受講生にとってわかりやすいことは最重要ではない。背伸びもせずに余裕綽々でわかってしまうような話では、後日あまり役に立たないのだ。つまり、(5)(4)の妨げになることがある。ゆえに、(4)のためには(3)において手を抜けない。しかし、(3)への挑戦意欲を維持するためには(2)が必須になる。むずかしくても楽しければ集中が持続するものである。その結果、貴重な時間を費やしてもらうに値する新しい発見をプレゼントすることができる。以上の目論見を逆算すれば、上記の優先順位がぼくの意図になる。

塾生のIさんが先日のブログで、「岡野先生の話はおもしろい。でも、むずかしい」と評していた。ぼくの意図からすれば、ほぼ最高の褒め言葉である。そして、彼は時々講座で話した内容を「新たに学び発見した事柄」として取り上げてくれている。思惑通りに上位の三つが伝わっているのだ。自惚れてはいけないが、手応えを感じる。よし、有用性とわかりやすさにも一工夫をという気になってくる。

推論モデルから何が見えるか (2)

昨日の話をわかりやすくするために、トールミンモデルの三つの要素「主張・証拠・論拠」を別の観点から眺めてみる。推論する人が他者に受容してほしいのは「主張」である。相手に言い分を受けてもらいたい。「証拠も論拠もいいが、主張がダメだ」と突き放されたら説得は失敗してしまう。

主張だけ伝えて納得してもらえるのなら、それに越したことはない。その場合には推論モデルの他の二つの要素に出番はない。たとえば、「人はみんな幸せになりたいものですよね」という主張はこれ自体で成立していて、証拠と論拠による必死の証明を必要とはしない。逆に、「人って不幸になりたがるものなんだ」という主張には、強い論拠はもちろん、相当に上等な証拠も用意せねばならない。一つの証拠では不十分だと指摘されもするだろう。少なくとも一般法則を導けそうな二つ三つの証拠を携えておかねば説得はむずかしい。

以上のことからわかるように、〈エンドクサ(通念)〉に則っていてコンセンサスが取りやすい主張の場合は、証拠や論拠による推論エネルギーは小さくて済む。他方、相手と対立する主張や少数意見、あるいは一般常識からかけ離れた意見を展開する場合には、証拠の質はもちろん、論拠にも創意工夫を凝らして、緻密な推論を打ち立てる必要がある。


賛成・反対の意見が拮抗するように記述化するのがディベートの論題である。議論開始早々から勝負が決まってしまうようなテーマ解釈上の不公平性があってはならない。肯定側・否定側のいずれの主張も、主張単独だけで第三者が説得されることはない。ところで、その主張を、論拠なしに、証拠だけで支えることはできるだろうか。

たとえば「ここに卵がある(証拠)。落とせば割れるだろう(主張)」という推論の証明力は十分だろうか。実は、これは推論レベルに達したものではなく、単なる常識にすぎない。いや、床の硬さや落とし方や落とす高度などに言及していないから、信憑性を欠くという見方もできる。では、「調査の結果、ダイエットのリバウンド率は60パーセントである(証拠)。ゆえに、ダイエットは長続きしない(主張)」はどうだろうか。一目で不器用さが漂ってくるが、仮に受容してあげるとしても、これでは調査しただけの話であって、推論の構図から程遠い。

主張をきちんと通すためには証拠と論拠の両方が不可欠なのである。そして、まさにここからが重要な助言なのだが、相手上位、得意先に対する提案、強い常識の壁が存在している……このような場合には、十中八九、信憑性の高い証拠から入るべきなのである。もっと言えば、キャリアが浅い時代は証拠主導の推論を心掛ける。証拠という裏付けが自信につながり、場数を踏んでいるうちに独自の論拠、理由づけができるようになるからだ。

キャリアを積んでいけば、次第に論拠主導型で話法を組み立てて他者を説得できるようになる。勉強したことばかりではなく、自分で考えることを推論の中心に据えることができる。ともあれ、間違いなく言えるのは、証拠という客観性と論拠という主観性によって主張を唱える「二刀流」がどんな世代を通じても、どんなシチュエーションにおいても、バランスのとれた推論であるという点だ。

(了)

推論モデルから何が見えるか (1)

《トールミンモデル》という、主張・証拠・論拠の三つの要素から成る推論モデルがある。わが国では「三角ロジック」という名でも知られている(下図)。

Toulmin Model.jpg “The Toulmin Model of Argumentation”という英語なので、「トールミンの議論モデル」ということになる。けれども、二人の人間の議論以外に、一人で論理を組み立てる時にも、一人で二律背反思考する時にも使えることから、《推論モデル》とぼくは呼んでいる。

このモデルの存在を知ったのは、大学に在学中の1972年頃。ディベートに関する英語の文献を調べていたら、トールミンモデルが引用されていた。論理学者ステファン・トールミンが創案したので、こう名付けられている。

この三角形は簡易モデルである。原型モデルは主張の確信度、論拠の裏付け、反駁(保留条件)の三つを加えた6つの要素を含んでいるが、論理学習の初心者にとっては図で示した3要素で十分に推論を組み立てることができる。


このモデルの「主張」は結論と言い換えてもいい。つまり、ある論点についての意見である。この主張をどこに置くかによって、推論の構造が変わる。

 主張 ⇒ (なぜならば) 証拠+論拠

 証拠 ⇒ (ゆえに) 主張 ⇒ (なぜならば) 論拠

 証拠+論拠 ⇒ (ゆえに) 主張

「証拠+論拠」はセットという意味であって、「証拠⇒論拠」という順にはこだわらない(論理学で「前提1⇒前提2⇒結論」のように書くとき、前提の中身が証拠であるか論拠であるか、あるいは大きな概念であるか小さな概念であるかまで特定していない)。

さて、「腹が減っては戦はできぬ。太郎は今、とても腹が減っている。ゆえに、太郎は戦えない」という三段論法(演繹推理)は、上記Ⅲだということがわかる。「腹が減っては戦はできぬ」が論拠、「太郎は今、とても腹が減っている」が証拠、そして「太郎は戦えない」が主張(導かれた結論)である。

「傘を持って行くべきである(主張)。なぜなら、天気予報では午後から雨が降るようだし(証拠1)、きみが今日出向く所は駅から徒歩10分かかるらしいから(証拠2)、雨に降られればびしょ濡れ、そんな恰好で訪問はできないからね(論拠)」。まさか傘一本でこんな推論はしないだろうが、これは上記Ⅰの構造になっている。

の典型的な例。「御社には他社にない有力商品Aがあります(証拠1)が、競合他社が実施しているサービスBを提供されていません(証拠2)。だから、御社も商品Aと抱き合わせにして大々的にサービスBを打ち出すのが賢明です(主張)。というのも、このジャンルでは商品がサービスよりもつねに優位だからです。同じサービスさえ提供しておけば、結局は商品力勝負ができるのです(論拠)」。複雑そうに見えるが、構造は明快である。これは帰納推理に近い展開になっている。


何を語るにしても、トールミンモデルを使うことができる。そして、上記ののいずれの構造によっても推論を組み立てることができる。しかし、持ち合わせている証拠や訴えたい主張の中身次第では、推論の順番が変われば、相手が感じる蓋然性(確実さ、ありそうな度合い)も変わってしまう。主張から入るか、論拠から入るか、あるいは証拠から入るかによって、説得効果に大きな違いが出てくるのである。

〈続く〉

知らないことばかり

二十代、三十代の頃、現在の年齢を遠望しては「そのくらいの歳になったら分別も備わっていろいろと見えているだろう、知識もだいぶ深く広く修めているだろう」などと楽観していた。楽観は甘かったと痛感し始めたのが五十も半ばになってからである。もっと大人になっていると当て込んでいたが、目算外れもはなはだしい。齢を重ねても、未熟な部分はしっかり残っている。青少年的未熟ならいいが、幼児的未熟に気づくと愕然とする。

もちろん、そこまで悲観しなくても、未熟性が克服できている一面もないことはない。ぼくの親戚筋からすれば、人前に出て講演をしたり会社を経営したりしているのは驚きらしいのだ。青少年時代に静かに考えたり読書をしたりする性向はあったものの、まさか議論好きへと大転向するなどとは夢にも思わなかったようである。

たしかに無知や不知が部分的に解消されて、知っていることも増えた。どんなに無為無策に生きたとしても、そこに何がしかの経験知が積まれるだろう。何の自慢にもならないが、アルファベット26文字は小学生で覚えたし、生活空間で用いるモノの名称は手の内に入っている。専門領域の話題なら、少々難度が高くても語り書くこともできる。しかし、知らないことばはいくらでも次から次へと現れてくるし、出張で訪れる街については圧倒的に知らないことばかりである。いや、わが街についてさえ未知はつねに既知を凌駕している。


七月の終わり、十数年ぶりに高知を訪れた。研修の仕事で23日。たまたま前回と同じホテルに宿泊したので、ホテルの玄関からフロント前のロビーの構造は覚えていたし、ホテル前の路面電車通りも記憶に十分に残っていた。前に足を運んだ喫茶店はエントランスを見ただけで思い出した。高知について圧倒的に知らないわりには、ごくわずかに知っている事柄が点を結んで大まかな図が浮かぶ。まるで無数の星の中から適当に都合のよい星をいくつか選んで星座を描くようなものである。

食に関しては、鯨もウツボも四万十の鰻も馬路村の柚子も知っている。しかし、実際に舌鼓を打った覚えのあるのはカツオのタタキと皿鉢料理と生ちり、それに野菜類だけである。生ちりとは、フグのてっさ風にヒラメの刺身を敷き詰め、その周囲にカツオの心臓や鮪のエラなどを茹でて冷やした珍味を数種類並べた料理で、ポン酢で食べる。前回ご馳走になり今回も久々に食したが、やっぱりなかなかの味わいであった。

この生ちり、地元の人がほとんど知らなかった。どうやらぼくの入った割烹の独自メニューだったようなので無理もない。しかし、彼らの大半は、ぼくがホテルの朝食で口にした「柚子とひめいちの辛子煮」も「ひっつき」も知らなかった。おそらく大阪人にとってのたこ焼きほど地元では浸透していないのだろう。ぼくにとっては、ひめいちという小魚も浦戸湾のエガニも初耳で初体験。四万十川源流の焼酎ダバダ火振も初めて飲んだ。関心の強い食ですら知らぬことずくめである。

知らないものを食べるたびに、ぼくは無知を自覚する。よく知っていると自惚れている他のこともこんなふうなのだと思い知る。無知や知の偏在を一気に解消することなどできない。しかし、世の中知らないことばかりとわきまえているからこそ、小さな一つのことを知る愉しみもまた格別なのである。

大半の問題は良識で解決する

ぼくの習慣に倣って二年ほど前から気づくこと、見聞きしたことをノートに記録し始めたKさん。二冊目に突入した二、三ヵ月前、「気持が切れないようにするために、何か書いてほしい」と言ってきた(一冊目のときもそうだった)。そして、表紙を開けて最初のページを指差し、「ここにお願いします」。頼まれて揮毫などする立場でもないが、ありがたいことに彼はぼくを師と慕ってくれているようである。最近造語したばかりの四字熟語があったのでためらわずに油性ボールペンで書き、これまた求められるまま日付を入れて署名した。

「善識賢慮」というのがそれである。「良識」と書くつもりだったが、「良」という文字よりも「善」のほうがバランスが良さそうなので咄嗟に変えた。バランス以外に他意はない。格別なニュアンスの違いがあるのかもしれないが、善識と書いたものの意図は良識のつもり。これは、フランス語の「ボンサンス(bon sens)」の訳語であり、英語の「コモンセンス(common sense)」から訳された常識とは違う。意味に重なりはあるものの、良識は主として判断力にかかわる理性的な感覚である。先天的な普通の感覚ではない。これに対して、常識は健全な人なら誰もが持っている知識とされる。常識は、時と場合によっては、好ましくない強迫観念や固定観念の意味を込めて使われることがある。

ちなみに賢慮はアリストテレスのフロネーシスから「すぐれた思考」。四字熟語を書いた時点では、以上のような理解であった。その後何度か、人前で話す機会があり、良識と問題解決の関係についてぼくの考えていることを伝えたりした。「生活や仕事で知恵を発揮するのに天才である必要はない」という話である。アイデアの大部分が良識の範囲から生まれてくるものだ。そう、良識である。これは良識であって、常識ではない。常識はアイデアの邪魔をすることがある。ゆえに、「常識に振り回されるな、たいせつなのは良識だ」というひろさちやの主張に通じる(氏の『日本人の良識』は立ち読みしかしていない、悪しからず)。


良識を発揮すれば、日常生活上や仕事上のほとんどの問題は解決できる。簡単にというわけではないが、現象としての問題に気づき、その原因に見当がつくのであれば、極上のひらめきや理性でなくても、まずまず明晰な判断力を用いれば何とかなる。但し、最上のソリューションを期待してはいけない。昨日が50点なら、ひとまず60点を目指すようなベター発想がいい。その時々の小まめな判断と解答を迅速にこなしていけば、アイデアがひらめくものだ。

こうして今日得たアイデアはベストな普遍法則などではないから、明日は役立たないかもしれない。しかし、別の課題に対してはそのつど日々更新していけばいい。小さな課題を小さく解いているうちに臨機応変のアイデアが増えてくるし、ひらめきの回路も鍛えられてくる。生活や仕事、ひいては人間関係や社会とのつながりをつねに動態的にとらえることができるようにもなる。天才を要する至高命題さえ棚上げすれば、良識は「よりよい価値創造」に働いてくれるのだ。少なくとも、ともすれば陥りがちな知的怠惰を未然に防ぎ、状況に応じた「機転のきく知恵」を授けてくれるだろう。

Kさんに四字熟語を贈ってから、おそらく三度目になると思うが、中村雄二郎の『共通感覚論』を読んでみた。良識についてこの本ほどよく考察された書物を他に知らない。ぼくの良識観がこの本の影響を強く受けていることが手に取るようにわかる。何ページにもわたって引用して紹介したいが、今日のところは、ことば足らずを承知で都合よくまとめておく。

「良識という感覚は、ぼくたちと人との関係をつかさどる。細部のすべてがわからないまま全体を把握せねばならないときに、困難を打開してくれるのが良識。良識は葛藤する事実と理性の間で選択を促す。たえず更新される真理をめざす知的活動の源であり、生の意味を問いつつ思考と行動とを結びつける(公正の精神にもとづく)社会的判断力である」。 

エピソード学入門

エピソードとは逸話や挿話のこと。時の人物、物事、現象に関しての小さな話題であり、一見すると本筋ではないのだが、黙って自分だけの占有で終らせたくない小話だ。薀蓄するには恰好のネタにもなってくれる。また、どうでもよさそうな内容だけれども、案外記憶に定着してくれるのは、肝心の本題ではなく、こちらのほうだったりする。

雑学? いや、ちょっと違う。昨今の雑学はジャンル別になったり体系化されてしまったりしてつまらない。話がきちんと分類された雑学の本などがあって、襟を正して学ばねばならない雰囲気まで漂ってくる。雑学クイズはあるが、エピソードはあまりにも固有体験的なので、クイズの対象にならない。〈エピソード学〉という造語が気に入っていて、数年前から講義で使ったり、何度か『最強のエピソード学入門』というセミナーも開催したことがある。きちんとした定義をしたわけでもないので、用語だけが先走ったのは否めない。

「十人十色」と形容されるように、人はみな違い、みな固有である。同時に、「彼も人なら我も人なり」という教えもある。諺や格言を集めてみれば、森羅万象、相容れない解釈だらけだ。このような相反する価値観にエピソード経由で辿り着く。おもしろい、愉快だ、なるほど、これは使えそう、馬鹿げている、非常識……エピソードに対して抱く感情は、ぼくたちの思想や心理の鏡でもある。日常茶飯事はアイデアと創造につながるエピソードに満ちている。ぼくたちはそのことにあまり気づかないで、フィクションや夢物語ばかりをやっきになって追いかける。エピソードには、まるで虚構のような真実も隠れている。


情報を知ってハイおしまいなら、世間一般の雑学と変わらない。エピソードの良さは、考える材料になり、自作としてアレンジでき、そしてジョークにも通じるような、誰かに語りたくなる感覚を味わうことにある。

ある時、駅構内で「インドネシアからお越しのクーマラスワーミーさま、クーマラスワーミーさま、ご友人がお待ちですので駅長室までお越しください」というアナウンスが聞こえてきた。ぼくが聞き取れたのだから、インドネシア語ではなく日本語であった。日本語でクーマラスワーミーさんに呼び掛けた? そうなのである。呼び出されたその人が日本語を解する人だったのかもしれない。しかし、それはそれ。日本語で外国人に丁重にアナウンスすること自体に可笑しさがある。

同じく駅のアナウンスで「ただいま2番ホームに到着の列車はどこにもまいりません」というのがあった。ホームに立ってじっと見ていた、これまた外国人が、動き出した列車を見てこう言った。「ドコニモイカナイトイッタノニ、ドコカヘイッタジャナイカ!?」 たしかに。列車は車庫へと向かったのである。

次はアメリカ人のエピソード。

「鶏ガラを使ったスープを私は飲まない。タマゴは食べるけど、それ以外の肉食系たんぱく質はとらない」という女性がいた。ベジタリアンであった。「なぜタマゴはいいの?」と聞けば、「タマゴはどんどん生まれるから」と答えた(何? 鶏だってどんどん育つではないか)。野菜ばかり食べる彼女は慢性のアトピーに悩まされていた。しかも、肉食に何の未練もないと言い張りながら、肉を模した豆腐ステーキを食べたがるのである。枝豆にしておけばいいのに、こんがりと焼けたステーキを「偽食」したいのである。

偶然外国人がらみのエピソードばかりになったが、必ずしも偶然とは言えない面もある。ことばや文化や考え方の異質性や落差がエピソードの温床になることが多いからである。もちろん、日本人・日本全体においても多様性が進み異質的社会の様相が色濃くなってきたから、一見ふつうの人間どうしの交わりからもエピソードがどんどん生まれてくる。敷居学、室内観相学、路上観察学などはすでにそれなりの地位を築いている。人間が繰り広げる行動にまつわるエピソード学もまんざら捨てたものではないと思うが、どうだろうか。