「あれもこれも」と「あれかこれか」

生半可に考えて作業に取り掛かると、つい「あれもこれも」と欲張り、足し算型の仕事になってしまう。対して、はじめによく考えておけば――先々まで全体を構想していれば――「あれかこれか」と決断でき、作業からムダが省かれて引き算型の動きが取れる。

足し算に問題があるのではない。あれもこれもと考えるのは仕事が始まる前がよく、仕事の終盤で足し算すると収拾がつかなくなりかねない。いったん作業が始まったら、なるべくシンプルに最短で事を運ぶべきなのである。

テーマを広げたり複雑にしたりするのは成り行きでできてしまう。成り行きなので当初の思惑と変わる。だいたい仕事がうまくいかないのは、よく構想したり段取りしたりせずに見切り発車しているからだ。計画から生まれるのは「あれかこれか」であり、作業は引き算中心になる。絞り込んだり簡素化したりできるのは、全体を見渡せているからである。

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オフィスでは来客用にホットコーヒーをお出しすることがあるが、昨年までは一種類だけだった。これはこれで何の問題もない。ただ、来客がない時にも飲むので、自分の嗜好性からして他の種類も飲んでみたい。そこで、4月から数種類の豆を挽いてもらって飲み比べし、来客に合わせてセレクトして淹れるようにした。

ところがである。種類いろいろ、値段いろいろ、淹れ方いろいろ試して、自分なりの満足度ランキングができてしまった。そして、ランキング下位の豆にほとんど出番がなくなってきた。あれもこれもと豆を用意してはみたが、飲み比べしているうちに上位の二つが定番になり、この二種類でいいではないかということになった。

あれかこれかと吟味しているうちに、揃えた豆の種類が引き算されてきた。それはそうだろう、ここはオフィスなのであって、喫茶店ではないのだから、品揃えを増やす必要はない。と言うわけで、ぼくの好みのスペシャルティコーヒーを二種類だけ常備することにした。スペシャルティコーヒーとは全コーヒー豆の生産流通量のわずか1パーセントにすぎない。当然値も張るが、一日に惰性で何杯も飲むよりも、ここぞという一杯に気合を入れる。これは引き算型の嗜好ということになるだろうか。

と言う次第ではあるが、アイスコーヒー用の豆や廉価なブレンドの在庫がまだかなりある。当面は来客のコーヒー通の度合をわきまえながらさばくことになる。

アナロジーの想像

『オーケストラ・クラス』(原題“La mélodie”)を観た。音楽をテーマにした映画で、主役はバイオリンに初めて触れるとんでもない子どもたち、そして彼らを指導するプロのバイオリニスト。下記にあらすじを紹介するが、ネタバレにならぬよう公開されている情報の範囲に収めておく。

パリ19区の小学校に音楽教育プログラムの教師として赴任したバイオリニスト、シモン先生。音楽家として行き詰まっているシモン先生は子どもが苦手のようである。6年生の生徒たちにバイオリンを教えることになるが、悪戯好きでバイオリン初体験の彼らに音楽を教えるのは容易でない。先生は落胆する。
このクラスの生徒でないアーノルド少年が練習に加わるようになり、少年に素質を感じた先生が自信を取り戻す。仲間の子どもたちもアーノルドから刺激を受ける。音楽の魅力がわかり、練習に夢中になり、子どもたちは演奏を通じて少しずつ成長する。
そんな彼らに向き合い、先生も音楽の喜びを取り戻す。そして、生徒たちとともに一年後に開かれるフィルハーモニー・ド・パリでの演奏会を目指す。さて、その成果は……。

フランス語の原題の「メロディ」を英語の「オーケストラクラス」に替えて邦題にしているのでアメリカ映画と思ってしまう。日本語ならさしずめ「管弦楽(団)教室」というところか。管弦楽とは言うもののシモン先生が指導するのはバイオリン。本番のコンサート発表会ではその他の楽器のパートを外部から招いてコラボレーションしていた。

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紹介したあらすじ通り、パリの音楽教育プログラムを脚色したストーリーと読めば、それはそれで十分である。才能それぞれ、習得速度それぞれ、音楽を教えることの根気の大変さを認識して映画館を出ればいい。予告編の映像やパンフレットの文字をなぞる映画鑑賞で何の不満もない。

ただ、この映画に関しては、原題“La mélodie”を併せてみると――深読みになるか見当違いになるかは別として――もう一つの物語の線を引けそうだ。多種多彩な楽器が音を奏でるオーケストラ。バイオリンだけに限っても弾く子どもの肌色は多種である。アルジェリア系、アフリカ系、アラブ系、アジア系の子どもの多さには気づくが、歴史的風土で生きてきたケルトやラテンやゲルマンの末裔らしき顔はちらほらである。

アメリカ人という呼び名同様に、フランス人というくくりにほとんど意味がない。民族の起源に遡って現代を批評し論じるには、多民族性が極まり過ぎた。パリやニューヨークは「オーケストラシティ」の様相を呈している。鑑賞後にそんなアナロジーを想像してみたのである。観光客がどれだけ押し寄せてきても、風土の深層に日本人色が沈殿しているぼくらの国と違って、この映画の舞台では――一部の人種的偏見を残しながらも――るつぼの中の攪拌はかなり進んでいる。まるで異音を繋いでメロディを奏でているかのように。

個人的体験としての読書観

『必読書考』と題して書いたことがある。その一文の最後を次のように締めくくった。

人それぞれに読みたいと直感する本があるように、人それぞれに必要に応じて読まざるをえない必読書があり、人それぞれに他人に紹介したい推薦書がある。(……)万人が読みたいと思う本などが存在しないように、万人が読まねばならない必読書や推薦書を最大公約数化できるはずがないのである。必読書に振り回されて読書ノイローゼを患うのは馬鹿げている。どこかの偉い人が薦める本などはしばし棚上げして、読みたいと思う本を読めばいい。そして、権威に頼らずにそういう本を見つけるには、足繁く書店や図書館に通って自ら《読書縁》なるものを結ぶしかないのである。

きわめて個人的な体験から生まれた読書観であり、誰にでも当てはまるわけではない。この読書観ゆえに、本の読み方については助言することはあるが、読むべき本を推奨することはめったにない。稀に「お勧めの本は?」と聞かれるが、よほどのことがないかぎり勧めたりしない。「最近読んだ本で印象に残っているのは何々」と言うことはあっても、それを推薦しているわけではない。

先月古書店で『本なんて! 作家と本をめぐる52話』という本を見つけた。この種のエッセイ集は一話が数ページで書かれているので、空き時間に「点の読書」をするには向いている。この一冊に浅田次郎の「読むこと書くこと」というエッセイが収められている。「職業がら読み書きはむろん大好きであるけれど、しいてどちらかと自問すれば前者であろうと思う」と言い放つ。

読書は愉しいが、「読みたい」が「読まねばならない」に転じる時があり、その瞬間から苦痛を感じる。浅田次郎は毎日午後2時から6時までの4時間を読書に充て、栞を挟まずに一気呵成に一冊を読むのを習慣としているらしい。一日に一冊の書物を読み続けるのは、さほど難しくないと言ってのける。年に365冊である。ぼくの場合、年に365冊以上読んだのは28歳前後の2年間のみ。千冊以上読んだと思うが、決して愉しい〈千冊行〉ではなかった。

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たとえば、10歳から本格的に週に一冊読み続けて、還暦でようやく2,500冊に到達する。生涯これだけの本をふつうは読めない。ところで、先月の行政職員の研修時に、前列に座る数人に年に何冊の本を読むか聞いてみた。だいたい3冊から5冊だった。残りの受講生全員にそんなものかと尋ねれば、おおむね頷いていた。想像以上に少ないのである。月に一冊ならよく読んでいるほうに属するのだ。月に一冊とは年に12冊。半世紀で600冊である。ほとんどの人は千冊を読まずに生涯を終える。

こう考えると、安直なハウツー本やノウハウ本を読書遍歴の中に残すわけにはいかないと気づく。浅田次郎は言う。

思うに、あらゆる書物中の役立たずの最たるものは、いわゆる「ノウハウ本」であろう。自己啓発法だの成功術だの生活の知恵だの、つまり目先の悩みを解消しようとする類いの書物ほど無益なものはない。そもそも人生を活字から学ぼうとすること自体が横着だからである。

一見速成的に役立ちそうな本を追い求めずに、想像力を働かせてくれるような本を読むべきだと同感する。年に数冊しか読まない平均的読書人ならなおさらではないか。

件の研修後に一人の熱心な受講生が「どんな本を読めばいいのでしょうか?」と聞いてきた。冒頭で書いたように、共通の必読書などないと考えて推薦などしない主義のぼくだが、話を聞けば、読書に関して自分なりの考えを持つほど本を読んでおらず、しかも指南も受けてこなかった。同情に値する。と言うわけで、彼が独自の読書観を培う一助になればとの思いから数冊推奨したのである。言うまでもなく、例外的対応だった。その数冊から離陸して早々に個人的体験を積んでもらえればと思う。

シェフ日誌が教える書く習慣

「本を読んで考えるだけでなく、書いて考えればいっそう思考が深まり明快になる」。このように毎度説くのだが、即座に膝を叩いて納得してもらえるわけではない。最近、言を費やす以上に説得力のある事例を見つけた。テーマは料理。ビギナーが一人前のプロになる過程で書くことが大いに手助けになるという。

料理人を目指す者にとっては、料理に関心を持つことと料理人になることはイコールである。関心の度合と技能の多様性が素人と一線を画する。いま手元に“The Becoming a Chef Journal”という本がある。さしずめ「シェフ(になる)日誌」という意味。アメリカの著名なシェフらの洞察力に富む名言がほぼ全ページの右上に引用されている。拾い読みするだけでも大いに啓発されるが、実はこの本、読み物としてではなく、サブノートとしての活用を主眼として編集されたのである。

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一口で言うと、本書は「料理人を目指すなら料理に関する情報や発想のノートを習慣化せよ」と唱える。書き込みすることを前提にしているからサブノート形式になっている。本書にレシピや盛り付けなどの記録を綴れば、積もり積もってインスピレーションの源泉になる、というわけ。

ある見開きページ。左のページに「レストランのレビュー記事を保存」という見出し。雑誌やウェブで読んだ記事をここに転記したり貼り付けたりする。右のページには「このレビューを選んだ理由」とあり、3つの問いに答えるようになっている。

「このレストランのどんな点が気に入りましたか?」
「意表をつかれたメニューは何ですか?」
「実際にレストランに足を運んだ後もレビューの記述に同意しますか? する理由またはしない理由は? 自分の経験に照らし合わせてどう感じますか?」

こんな具合に問いによって書くきっかけを与えて考えさせる。料理の本を読むだけでなく、つねに問題意識を持って何かを書いてみる。ビギナーの日誌習慣をあの手この手の仕掛けで促すようになっている。書いて覚えようという単純な教えではない。書くからこそ分かり、書くからこそ一流の仕事につながる一流の考え方ができるという哲学。どの分野であれ、一流のプロフェッショナルはよく書きよく考えるのである。

おもてなし自分流

最初に断っておくが、この一文は一般人が一般人をもてなす作法の話であり、世間のプロが生業として提供するサービスに関わるおもてなしは対象外。したがって、某有名旅館の仲居が襖の隙間から宿泊客の食事光景を覗き見し、子どもが刺身に手を付けないのを見て、速攻で天ぷらに差し替えるなどというおもてなしなどとは無縁である。

通常、もてなす側がいくばくかを出費して供応する。仕事目当ての接待もおもてなしとされるが、そのようなギブアンドテイク発想のおもてなしはとうの昔にやめた。また、飲み放題2時間1,500円などのサービスもぼくの自分流おもてなしコードから外れる。放題とは体裁のよいセルフの野放し状態ではないか。ビュッフェはやむをえず稀に利用するが、あの形態もおもてなしの範疇には入らない。

どちらかと言うと、酒よりも料理への意識が強いが、もてなすのは嫌いではない。ぼくなりのおもてなしのコードがあり、ゲストには極力そのコードに従ってもらう。「もてなしてやるから言うことを聞け」という傲慢なスタンスではない。謙虚におもてなしさせていただきたいと思ってのオファーである。そのオファーの諾否はゲストが決めればいい。否なら断れば済むだけの話。

ゲストの大まかなニーズさえ摑めば、あとはこちらに任せてもらう。もてなされるゲストはこまごまと注文してはいけない。もてなされる側は黙ってホストに下駄を預けるのが本来の姿だ。だから、酒や料理に極端な好き嫌いがある人はそもそもゲストになる資格がないと思う。世界最高峰の晩餐会の主菜はたいてい羊肉料理である。羊肉が苦手な人は、食べ残す恥をさらす前に、招待された時点で断るのが礼儀だろう。

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イタリアンやフレンチでは最近物分りのいいシェフが増えてきて、テーブルには箸が備えてある。そういう店にやむなく入ることもあるが、ぼくのゲストには箸を使わないようにお願いする。パスタを箸で食べるシーンを見るために場を設けたのではない。それなら焼きそばの店でよい。箸の是非ではなく、「郷に入っては郷に従え」に近い順応感覚である。

メニューはある程度考えておく。だから一見の店には行かない。人数が多いとコースにするが、4人までならアラカルト。飲み放題付きなどはもってのほか。ぼくと飲み放題付きコース料理を共にした人は少なからずいるが、それには理由がある。人数が多かったか、または、ぼくがもてなされる側だったからである。

さて、アラカルトで料理を3種類ほど選び、イタリアンやフレンチではワインは白と赤の2種類。一人2杯(せいぜい3杯まで)。がぶ飲みは認めない。とっておきの店でもてなす時は一人一人の希望をこと細かに聞かない。「喉が渇いているので、とりあえずビール」と言う人は苦手だ。一応親しい相手には妥協して注いであげることもあるが、一人だけビールで残りのゲストが白ワインでは格好がつかない。では、みんなで一杯目をビールにすればいいようなものだが、それは困る。一品目の料理選びにあたって想定したのはワインなのだから。

ご馳走でおもてなししようと決めたのだ。ホストの構想とコードに従ってほしい。ホストはゲストにメニューを渡さない、つまり選ばせない。ゲストは勝手にメニューを手に取って好きな料理を注文してはいけない。「ぼくのおごりだ、好きなものを飲み食いしてくれ」というのは飲み放題・食べ放題に等しい。おもてなしとはそんなものではない。ゆえに、「肉料理に行きますか?」とぼくに誘われて「イエス」と答えたら、牛、豚、鶏、羊、馬のいずれの供応も了解したことを意味する。もちろんレアの羊肉も。

企画のことば

企画を読み下せば「たくらむ」になる。画とは構想の図であり、大まかなイメージと言ってもよい。樹木そのものであって、枝葉ではない。そのようなアイデアをことばとして編み出し、ことばで紡ぐのが企画案ということになる。

ところで、企画案の大半が現状分析に費やされたり事実の羅列に終始することはよくある。そうなると、もはや企画と呼ぶにふさわしくなく、むしろ作業は調査に限りなく近づく。精度を重んじる調査のような企画は型通りの文章で綴られるのが常だから、きわめて事務的になり、面白味や創意工夫に欠ける。

生活実感のある生身の人間として個性と創意を発揮してこそ企画に味が出る。毎年何十何百という企画に目を通すが、そのほとんどが現状分析から導かれた事実を踏まえている。しかし、妥当かつ論理的に現状の問題を分析したまではいいが、出来上がった企画案は二番煎じであり、見覚えのある陳腐なアイデアの寄せ集めになっている。

現状を見るなと言うつもりはない。現状を観察しすぎるとアイデアが発展しづらくなるから注意を促しているのだ。現状分析はじめにありきの企画は、たいてい現状に産毛が生えた程度に終わる。要するに、構想不足のまま進めた企画には展望がないのである。どんな企画でも、企画者個人の願望が出発点になる。小さいかもしれないその願望を叶えようとする情熱から構想が生まれる。

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現状分析から出発して立案したものの、やっぱりつまらない、ありきたりだと企画者自身が感じる。これまでの時間を無駄にしないために後付けで表現の衣装を着飾るのが常套手段。内容に応じた表現探しである。このような考えの翻訳作業をしているかぎり、企画のことばが力を発揮することはない。すべての作業に先立って、まずコンセプトという、ことばの概念を編み出す必要がある。

不確かで形の定まらないコンセプトを、ひとまずことばとして仮押さえする。そこから可能性をまさぐり、ああでもないこうでもないと考える。その過程で事実を参照し不足する情報を仕入れる。必然、ラフなコンセプトのことばは徐々に論理的に強化され、企画のことばとして完成形に近づく。

コンセプトのことばが論理のことばを触発するのであって、その逆ではない。現状分析から入れば論理のことばが優勢になり、後付けのコンセプトのことばが取って付けたように浮き足立つ。企画とはことばに始まってことばで完結する。便宜上、コンセプトのことばと言い、企画のことばと表現してきたが、企画とはことばそのものであると言っても過言ではないのである。

和える編集

一口に「情報をべる」と言ってみるが、背負う荷は軽くはない。性分ゆえか、小難しく「知の統合」などと表現するものの、この言い回しに満足しているわけではない。統合とは「すべる」と「あわせる」、要するにまとめて集めることだ。無作為的な寄せ集めで功を奏することも稀にあるが、いつも無作為に頼るわけにはいかない。統合作業には、編集の「編」に近い意図が働いているような気がする。

手元に集まった情報をつぶさに眺めていて、要素が似ているとか異種なのに共存するとかいう以上に、ある情報と別の情報の相性の良さを発見することがある。相性。わかったようでわからないが、何がしかの化学反応が起こって、全く新しい「味」が生まれる。無理に「合わせる」のではなく、勝手に「合う」という感覚。「える」という表現がぴったりくる。ほうれん草のごま和えのような編集。

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ちょっと前に『本の大移動』と題して一文を書き、その中でオフィスに設けたブックカフェ風のスペースを紹介した。生涯現役のつもりのぼくにとって、これからどのように仕事と関わっていくかは私生活以上に重みを持つ。必然それは、オフィスをどうするのかというテーマにもつながる。最後の任務になるかどうかはわからないが、仕事場をアイデアと情報の「え場」として、あるいは人と人の和合の場として、オフィスらしくない空間を作り上げたいとずっと思っていた。

本の大移動は道半ばだが、ようやく自宅書斎の蔵書の半分をここに運び込んだ。グリーンやインテリアも少しずつ場になじんできた。有料音楽アプリのカフェミュージックBGMチャンネルを選び、WORK & Jazz Pianoをシャッフルして聴きながら、来月のあれこれを考えペンを走らせた。ペンは期待以上によく動いた。

さっきまで自分の机に向かってキーボードを叩いていたのだが、思うようにはかどらなかった。部屋を変えてくつろいでみた。なかなかいいではないか。マインドと本と音楽とその他もろもろが編集されたかのようである。これも一つのえる編集に違いない。相性の良い人たちとの出会いも楽しみである。

派生の愉しみ

独立してから30年が過ぎた。食べていくだけなら独立することはなかった。ぼくにとって独立は、食べていくことの他に生きることの意味を見い出すことであった。必然、生活のみならず、仕事が愉しめているかどうかが重要になった。そして、したい仕事、できる仕事、すべき仕事の一致を貪欲に求めた。

仕事と学び、新しいことへの好奇心を矛盾なく一体化するよう努めた。この考え方に共感してくれる人たちと様々な勉強会を主宰して今に到っている。創業直後に立ち上げた雑学勉強会《Plan+Net》は、ほとんどのトーク番組がアマチュアによるものであった。次いで、《関西ディベート交流協会》を発足させ、その直後に二つの特徴を併せ持つ《談論風発塾》を創始した。

さらに、本を読んで論評し意見交換する《書評輪講カフェ》、お題に対して機知とユーモアを発揮するオンライン投稿サイト《知遊亭》、手作り料理とトークの《釣鐘美食倶楽部》等々、仕事とは別に――しかし、仕事とまったく無関係ではなく、むしろ仕事から派生した――様々な勉強会を主宰し運営してきた。

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これまでの足跡を単なる終活とせず、もうひと踏ん張りして将来に波及するような形で編集したいとかねがね思っていた。幸い、オフィスに一部屋を確保することができた。手狭になった自宅の書斎の蔵書をここに持ち込み、本を読み談論する場とトークショーやミニイベント番組を編集することにしたのである。空間と活動の試みを《Spin_off》と命名した。ひとまず趣意を簡単にしたためてみた。

この場からさまざまなテーマのレクチャー、トーク、イベントなどの集いが派生し、共鳴し合って知と体験を紡ぎます。場と機会を求める主宰者が、テーマのジャンルを超えてつながり協同する、それが《Spin_off》です。《Spin_off》は主宰者と参加者の相互サポートによって成り立ちます。

それぞれの本業や本筋から愉快なことをスピンオフ(派生)させたいと思う。異なるテーマが相互に共鳴し合って、新しいテーマを紡ぐ。何が生まれるかはわからない。わからないからおもしろい。トークやイベントの主宰者、参加希望者はお問い合わせいただきたい。引き続きぼくもいくつかの主宰番組を受け持つ。順次オープニング案内をお送りする予定である。

蔵書と読書の関係

自宅の数千冊の蔵書をどうするかは数年来頭の痛い問題だった。ようやく解決のメドが立った。オフィスの一室を「私的書斎」兼「公開勉強室」兼「セミナールーム」に改造することにしたのである。現在、別注した書棚の取り付け工事の真っ最中。書棚用の板の数、80枚余り。職人さん二人で丸3日かかる。

言うまでもなく、本の数と読書量は比例しない。ある程度熱心に読書をしている時には本が読書行為の後を追う。しかし、読書習慣がなまくらになってくると、読みもしないくせに本だけを買う行為が先行してしまう。必然読まない本がどんどん増える。本を買うのも読書行為の一部なのだと自分を慰めることになる。

蔵書について考えるとは読書について考えることである。「読書? そんなの、本を読むことに決まっている」と言えれば簡単だが、「定義される用語が定義することばの中に含まれてはいけない」というパスカルの説に従えば、この定義はルールに反するのでアウト。「読」ということばが使われているからだ。とは言え、このような厳密な法則を徹底すると、権威ある辞典類の大半の定義は成り立たなくなってしまう。

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読書とは「本の体裁に編集された外部の情報と、自分のアタマの中に蓄えられている内部の知識を照合すること」。ぼくが以前試みた定義だが、生真面目に過ぎるだろうか。この中の「照合」がわかりにくいかもしれない。広辞苑によれば「照らしあわせ確かめること」。えらく差し障りなく定義するものだ。そのくせ、さきほどのパスカルの法則には堂々と反している。

いろいろと考えを巡らしたが、やはり読書している時には本の情報と自分のデータベースを重ねようとしていると思う。重ならないなら、取り付く島がないほど難しくて面倒見の悪い本か、自分のデータベースが貧弱すぎるかのいずれかだ。たいていの書物と読書家の知識は、程度の差こそあれ重なる。重なる部分を確認したり記憶を新たにしたり、本に攻められて一方的に情報を刷り込まれたり、何とか踏ん張って持ち合わせの知識で対抗したり、コラボレーションしたり完全対立したり、好きになったり嫌いになったり……。照合とは、縁の捌き方でもある。

ともあれ、蔵書を収め公開する場は確保できた。しかし、このこと自体はそれ以外に何も意味しない。読書というものは、誰にでも同じ効能を約束してくれないし、読みさえすれば賢くなるというのも間違いだ。他人の頭から何かを学ぶよりも、自らの頭で文章を紡ぐほうがよほど思考の糧になる。書くという習慣の下地あってこその買って読む効能なのである。

知をつくる

『パンセ』の369番の断章で「記憶は、理性のあらゆる作用にとって必要である」とパスカルは言う。これに倣い、理性を知に置き換えて知をつくる話を記憶力から書き始めたい。記憶力の問題は、インプット時点とアウトプット時点の二つに分けて考える必要がある。

注意力、好奇心、強制力の三つが働く時、情報は取り込みやすい。あまり受けたくないテストに臨む時の好奇心は小さい。だが、強制力があるので一夜漬けでも覚えようとする。普段より注意力も高まる。ゆえに覚える。ぼんやり聞いたり読んだりするよりも、傾聴・精読するほうが情報は入ってくる。注意のアンテナが立っているからだ。好奇心の強い対象、つまり好きなことはよく覚える。

言うまでもないが、覚えたことをいつでも思い出せるとはかぎらない。特に、取り込んでもいない情報を取り出すことはできない。「思い出せない=記憶力が悪い」と思う人が多いが、そもそも思い出せるほどしっかりと記憶していないのである。

記憶エリアは《とりあえずファイル(一次記憶域)》と《刷り込みファイル(二次記憶域)》に分かれていて、すべての情報はいったん《とりあえずファイル》に入る。これは記憶の表層に位置しており、しばらくここに置きっぱなしにしているとすぐに揮発してしまう。数時間以内、数日以内に反芻したり考察を加えたりして他の情報と結び付けるなど、何らかの編集を加えてやれば、情報が《刷り込みファイル》に移行する。こちらのファイルは記憶の深層に位置するので、ちょっとやそっとでは忘れない。ここにどれだけの知を蓄えるかが重要なのだ。

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さて、《刷り込みファイル》からどのように知を取り出して活用するか――これが次の課題になる。工夫をしなければ、蓄えた情報は相互参照されずに点のまま放置される。点のままというのは、たとえば、「喧しい」という字を見て「かまびすしい」と読めるが、このことばを使って文章を作れる状態にはないことを意味する。つまり、一問一答の単発的雑学クイズなら解答できても、複雑思考系の問題を解決できるレベルに達していない。一つの情報が他の複数の情報とつながっておびただしい対角線が引けるなら、一つの刺激や触媒でいもづる式に知をアウトプットできる。

《刷り込みファイル》内で知の受容器が蜘蛛の巣のようなネットワークを形成するようになると、これが情報を感受し選択し取り込むレセプター(受容体)として機能する。一を知って十がスタンバイするようなアタマになってくるのだ。

考えてみてほしい。レセプターが大きくかつ細かな網目状になっていたら、初耳の情報でも少々高度で複雑な話であっても、何とか受け止めることができる。蜘蛛の巣に大きな獲物がかかるようなものだ。ところが、レセプターが小さくて柔軟性に乏しいと、情報を摑み取るのが難しくなる。スプーンでピンポン玉を受けようとするようなものだ。バウンドしてほとんどこぼしてしまうだろうし、あわよくばスプーンに乗ったとしても、そのピンポン玉(情報)は孤立しているから、知のネットワークとして機能してくれない。

少しでも知っていることなら何とか類推も働くが、あまりよく知らないと手も足も出ない。これでは知的創造力が期待できない。知らないことでも推論能力で理解し身につける――知のネットワークが形成できていればこれができる。そして、ネットワークは雪だるま式に大きくなる。

知は外部にはない。知を探す旅に出ても知は見つからないし、知的にもなれない。外部にあるものはすべて「どう転ぶかわからない情報」にすぎない。それらの情報に推論と思考を加えてはじめて、自分のアタマで知のネットワークが構築できる。知の輪郭こそが、ぼくたちが見る世界の輪郭だ。周囲や世界が小さくて霞んだような輪郭に見えるなら、その視界の狭さ、ぼんやり感が現在の知の姿にほかならない。