年賀状という「年一ブログ」

年賀状準備の時期になった。当たり前のことだが、年賀状というものは、投函する前にまず書かねばならない。書くにせよラベルを貼るにせよ印字するにせよ、宛名・住所は面倒である。しかし、もっと面倒なのは裏面の原稿である。

ぼくが作成する年賀状は、社名で差し出す一種類のみである。公私の隔てはなく、仕事と無縁な知人や親類にもこの年賀状を出す。創業当初の数年間は現在とは異なるスタイルだったが、1994年から15年間現在の「型」を継続している。

ぼくの年賀状を受け取ったことのない人はさっぱり想像がつかないだろうが、裏面には謹賀新年から始まり文字がびっしり印刷されている。だいたい二千字前後である。正月早々これを読まされるのは大変だと思う。したがって、ごく一部の熱狂的なマニアを除けば、たぶん読んではいない。後日、年賀状の話題が出たときに読んでいないとばつが悪いので、一月中にぼくと会う可能性のある知人は、キーワードくらいは覚えておくのだろう。


ハガキサイズにぎっしり二千字。もはや「小さな」という形容では物足りないフォントサイズになっている。「濃縮紙面」とでも呼ぶべき様相を呈している。だから、友人の一人などは、このハガキをコンビニへ持って行きA4判に拡大して読むそうである。ありがたい話だ。なお、原本はA4判なので濃縮したものを還元していることになる。

市販の定番年賀状を買えば宛名と住所だけで済ませられる。実際、そうして送られてくる年賀状が2、3割はある。誤解しないでほしい。そのようなまったく工夫のない年賀状をこきおろしているわけではない。むしろ、差出人にのしかかる負担と抑圧の少ない年賀状が羨ましいのである。いや、ぼくにとって、ほとんどすべての年賀状がぼくのものよりも文章量が少ないという点で羨むべき存在なのだ。

干支をテーマにしておけばさぞかし楽に違いない。なにしろ干支は毎年勝手にやってきてくれる。いきおい文字や図案に凝ったり写真を散りばめたりする方面にエネルギーを注げる。ところが、ぼくの場合、毎年11月中旬頃から数週間ずっとテーマを考える。テーマが決まると、二千字で文章を綴るのは一気だ。たぶん半日もかからない。但し、印刷・宛名とその後の作業がせわしくなるので、デザイン要素は最小限にとどめる。こうして文字だらけの年賀状が刷り上がる。


スタイルの踏襲は意地の成せる業か。15年という歳月にわたる継続は、簡単にスタイルの変更を許してくれない。「毎年楽しみにしています」というコメントをくれる十数人を裏切ってはいけないという、一種の情が働くのか。スタッフも全員、ぼくの手になる年賀状を社用で利用する。醸し出すべき個性と社風の両立も難しいが、テーマ探しとスタイルの継承が精神的負担になり抑圧になる。

今年は負担と抑圧が例年より大きい。なぜだろうとよく考えたら、わかった。年賀状はぼくにとって、年に一回したためるハガキ判のブログだったのだ。それが、今年6月から本ブログを始めたために、意義が薄まったような気がしてならないのである。振り返れば、ブログ習慣というのは、二日に一回のペースで年賀状を書いているようなもの。あらためて一年ぶりの更新に戸惑っている。

負担、抑圧、苦痛に耐えて何とか平成21年度の年賀状の構想が仕上がった。今日一気に書き上げる。ちなみに、平成20年の今年に差し出した年賀状を紹介しておく。

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あんなこと、こんなこと

とてつもなく何でもない話、三題。


本の話。と言っても、読み方ではない。買い方である。週に一回ペースで散歩がてら書店に立ち寄って、書評でチェックした本を見たり、抱えているテーマに関係ありそうな本を探したり。しかし、たいてい書物との出会いは偶然に任せている。

何冊かまとめ買いをするとき、日によってぼくは相反する消費行動をとる。ある日、「この一冊で終わり」と踏ん切りをつけカウンターに向かう途中に発作的にもう一冊買い足す。別の日は、勘定直前に引き返して本棚に一冊を戻す。一冊の加減で読み方が変わったりはしない。

言うまでもなく、買わなかった一冊に後悔することはない。必要だったら次に買えばいいからである。では、余計な一冊を嘆くかと言うと、そうでもないのだ。衝動の一冊が愛読書になったり、とても役に立ったりすることがよくある。ちなみに、この前の土曜日は一冊買い足した日。その買い足した一冊を鞄に入れて出張に出ている。


その土曜日。本屋の帰りにコーヒーを飲みたくなって、チェーンのカフェに入った。そこで買った本のすべてにざっと目を通した。わずか30分ほどだったがけっこう読めるものである。ちょっぴり満足げにぶらぶらと帰路についた。若い男性が前から歩いてくる。ふいにぼくの方へ近づいてきた。人通りが少ない夕暮れ時、ほんの少し身構えるか、もしくは心構えをしておくのが正しい。

「すみません、このあたりにケンタッキーかマクドナルドありませんか?」

よりによってなぜこの齢のぼくを指名する? 若い人に聞けばいいし、若い人が歩いていないなら、若い人に出会うまで歩き続ければいい。そのうちチキン屋さんかハンバーガー屋さんに行き着くだろう。だが、彼はラッキーだった。なぜなら、さっきまでいたカフェのすぐ近くにマクドナルドを発見していたからだ。指を示し、ことばを添えて教えてあげた。とはいえ、子どもに「この近くにショットバーある?」と尋ねないほうがいいのと同様、中高年にバーガー店への道案内は期待しないほうがいい。


出張3泊目の今夜、さっきホテルにチェックインした。住んでいる人に悪いので固有名詞は伏せるが、こんな殺風景な駅前も珍しい。ほとんど何もない。無機的な空気が張りつめている。駅に着いたら何か腹ごしらえしようと思っていたのに、店がない。駅売店は店じまいの最中。まったく食欲をそそらない売れ残った弁当が一つ。これは買えない。

やむなくホテルの方向に歩く。背広姿の若い男性が前から歩いてきた。ぼくの「すみません」に彼は身構えた(ように見えた)。

「この辺りの方ですか?」
「いいえ。何か?」
「あのう、近くにコンビニないですかね?」
「コンビニなら、そこにありますよ。」 彼が指をさした道路向うにコンビニが見えた。

コンビニで、駅売店の遠慮のかたまりよりはましな弁当を買った。土曜日の道案内の一件と重なった。彼の目にはコンビニ頼りの気の毒なオジサンに見えたに違いない。 

年がら年中、毎日が記念日

一ヵ月溜め込んだ新聞。もちろん目ぼしい記事には目を通しているのだが、そっくり捨てる前にもう一度ざっと見る。切り抜きにして残しておく場合もある。切り抜くに値する記事かどうかの基準は「おもしろい」と「誰かに教えてあげたい」と「ばからしい、または呆れる」。

今週金曜日は大阪での私塾の日。1010日である。1010日は何の日? 「体育の日」だった、何年か前までは。もちろん、その日が1964年の東京オリンピックの開会式の日であることは知っている。今では体育の日はハッピーマンデーとなり、10月の第二月曜日になった。

ある新聞記事に、その1010日は「転倒予防の日」と制定され、『日本記念日協会』に正式に登録されたと書いてあった。10月を”テン”と英語読みし10日を”トウ”と日本語読みする。併せ技にて”テントウ”で一本! ちょっとずっこけてこっちが転倒しそうになった。「予防」というニュアンスがどこにも見当たらないので、1010日だけだと「転倒の日」になりはしないのか。


それにしても『日本記念日協会』とはすごいではないか。NPOや任意団体がどんどん増えてますますニッチなテーマに入っていく。ぼくも18年ほど前に「関西ディベート交流協会」という任意団体を創始したが、ニッチであった。ニッチの上に、「日本」と欲張らずに「関西」と控えめにしたから超ニッチな存在と言える。

その『日本記念日協会』の1010日を検索してみて、もう一度驚いた。「転倒予防の日」のほかに13もの記念日が登録されているのだ。貯金箱の日、お好み焼の日、トマトの日、和太鼓の日、空を見る日、充実野菜の日、パソコン資格の日、トレーナーの日、銭湯の日……等々。

貯金箱にはコイン投入口がある。それがに見え、0がコインに見えるから1010日。感心するか苦笑いするか、ちょっと迷ってしまう。

お好み焼を仕掛けたのはオタフクソース。「ジュージュー」というシズルの音がそのまま1010日。これはわかりやすいが、「焼肉の日」でも「ステーキの日」でもいいわけだ。

トマトは微妙な語呂合わせ。「1010」で「トマト」と読む(10の間に「と」で、「10間と=トマト」という意図か)。

和太鼓は、「1010」で「ドンドン」と読むらしいが、何のこっちゃ!? という感じ。「~と読む語呂合わせ」と解説されているのだが、「~と読め!」と命じられているみたいだ。語呂が合っていると言うよりも、語呂がこじつけられると思うのだが……。

1010日午前1010分に日本じゅうで空を見上げて美しさを語り合いましょう」とは「空を見る日」の動機。10は英語で「テン」で、「天」に通じるとのこと。私塾の講義は午前10時スタートなので、残念ながら空を見上げることはできない。

次いで伊藤園が仕掛けた「充実野菜の日」は、調べる前からおおよその見当がついた。これは、実りの秋の10月にやってくる10日を「ジュウジツ」と読ませる。

パソコンは0の二進法を使うから1010日は「パソコン資格の日」。ならば1011日でも1110日でも10日でもいいことになる。好意的に考えれば、0がそれぞれ二つずつというのがこだわりなのだろう。

トレーナーの「ト」が10で、トレーナーの英語であるスウェットの「ト」が10。だから1010日は「トレーナーの日」なんて、この記念日はちいと苦しくないか!? 

これに比べれば、1010を「セントウ」と読ませる語呂合わせは悪くはない。旧体育の日に汗をかいて、それを銭湯で流すのだから辻褄も合っている。


もちろん1010日だけではなく、365日がこんなふうに複数のなんとか記念日で彩られている。少し茶化してしまったのは反省するが、こうした記念日を小馬鹿にしているのではない。語呂合わせでもダジャレでもいいし、実際の意味ある記念でもいいから、暇な折りにファミリー独自の記念日を365日分作ってみてはどうだろう――と提言する次第だ。ご覧の通り、「何でもあり」だから気楽にできること間違いなし。

ちなみに、本日108日は「入れ歯感謝デー」ほか5つの記念日が登録されている。108は「百八」だから、ぼくは「煩悩の日」と名づけることにする。

知らないだろうという想定

出張でホテル生活。二泊になると夕食の選択に迷う。二回くらい何を食べてもよさそうなものだが、今は違う。というのも、8月に5kg体重がオーバーしていたのが判明し、朝食を野菜ジュースだけにしているのである。しかし、ホテルのビュッフェスタイルは今のぼくにとってきわめて危険な舞台装置だ。加えて、ストレッチ体操と足腰の鍛錬で現在どうにかこうにか元の体重に戻せた。リバウンドしたくないのはもちろん、あわよくばあと2kgは落としたい。昼食は研修先で出てくるので選択の余地なし。こういう経緯上、出張時に自己判断で決められるのは夕食のみなのである。

とてもせこい話になるが、外食すると自腹を切ることになる。宿泊しているホテルで食事をすれば部屋づけできる。毎度毎度ホテルでは食傷気味になるので、2回に回は外に出掛ける。昨夜は外に出たので、今夜はホテルで食事をすることにした。

これまたせこい話だが、チェックイン時に「ご宿泊のお客様限定」と銘打った割引券をもらった。その名も“Drink Ticket”だ。指定されたレストランで食事をすれば、食後にコーヒー、紅茶、オレンジジュース、一口ビールのいずれかをサービスしてくれる。このチケットを使わない手はない。

券面の説明を読む。「パスワードでお食事されたお客様にお飲み物をサービス致します」と書いてある。パスワード? これは何だろう。どこかに書いてあるパスワードを注文時に伝えれば、サービスにありつけるのか? なぜこのチケットだけではダメなんだろう? こんなふうに不思議がりながら、宿泊カードを見てみた。パスワードが書いてあるのならそこだろうと見当をつけたが、部屋番号以外に数字らしきものはない。パスワードはアルファベットの可能性もあるので、探してみた。パスワードだけに部屋のどこかに秘密の記号みたいに隠されているのか? まさか。

本来単純明快であるはずのことをなかなか解せないというのはストレスが溜まるものである。一つのことばから何かを感じたり勘を働かせたりするのは得意なほうなのだが、研修の疲れもあって思考停止状態であった。あれこれパスワードに思いを巡らしてしばしの時間が経つ。判明した! 一杯のコーヒーのために情けない探偵ごっこをしたものだ。


『パスワード』はホテル1階のカフェの店名であった。「パスワードでお食事をされたお客様にお飲み物をサービス致します」――とても明快である。明快であるが、パスワードが「ホテルズカフェ」ということを客が承知しているという前提に立っている。「パスワードと言えば、何のこと?」と連想クイズを出されたら、今時はネットがらみの事柄に思いを馳せる。あるいはJALANAの暗証番号。ついこのあいだネットでJALのチケットを購入するときに、パスワードが思い出せなくて苦労したばかりだ。どこの誰がご丁寧にも「パスワード? それはこのホテルのカフェです」と連想できるのか。

講演や研修の際に、ぼくは自分に戒めていることがある。それは、「受講生がぼくの言っていることを理解してくれていると安易に思い込まない」というものだ。つまり、他人は自分がわかってくれるだろうと思うほどにはわかっていないという想定である。他人の理解力に関しては、過大評価ではなく過小評価するほうが、念には念を入れて話をするようになる。

ぼくの勘も鈍ったものだが、ホテル側も「当ホテル1階のカフェ『パスワード』で」と念には念を入れるべきだ。カフェの名前が『アンジェラ』や『サン・ジェルマン』であったならば、ぼくも瞬時に飲み込めたはずである。いずれにせよ、謎は解けた。今から機嫌を取り直して、その『パスワード』に夕食に出掛ける。一杯の無料コーヒーのために。 

趣味や特技の棲み分け

毎日新聞の朝刊に週一回の書評欄があり、『好きなもの』というコラムで著名人が好きなものを三つ紹介する。「何、これ?」というのもあるが、意表をつくのもあって感心する。

食べ物にかぎった好物ならいざ知らず、生活・人生全般における「好きなもの上位三つ」を選ぶのは至難の業だ。いつぞやどなたかが挙げていた「パリのカフェのテラスに座って、行きかうパリジェンヌを眺めること」なんて書けるのはうらやましい。好きなものが「にもかかわらずという言葉」という発想もおもしろかった。ぼくには書けない。と言うか、三つに絞ろうとすれば相当に人目を気にしなければならないだろう。


しばらくぶりに京都に行ってきた。何かをしようと思ったのではなく、京都に行こうと思った。行こうと決めた直後に京都市立美術館で『芸術都市パリの100年展』が開かれているのを知る。本ブログで7月末に紹介したが、ぼくはこの美術展をすでに広島で鑑賞している。二ヵ月も経たないうちにもう一度見る? まあ、ふつうは見ない。ぼくはふつうではないので、もう一度見ることにした。

おもしろいものである。前回印象に残っていない作品が今回は目につき、前回ちょっぴり感傷的になった作品にもはや未練がない。未練どころか、記憶にすらない。場所、状況、季節、気分、体調、時間帯などによって人は凝視したり軽視したりする対象を変える。生で見るのはとても意味深いことだが、図録を買っておくのもまんざら悪くないと思い直した。臨場感に溺れずに、平常心でクールに鑑賞するには図録という手段も有効かもしれない。

広島で適当にしか見なかったオノレ・ドーミエの社会諷刺的版画。京都では実物展示がなく、ビデオ展示になっていた。ある作品に目が止まり、帰宅して広島で買った図録を読み返してみた。作品は石版画で「陶磁器マニア」というシリーズの一つ。犬が猫を追い、喧騒の中で「壷危うし」に慌てふためいている飼い主という図。一コマ漫画みたいなもので、「同時に犬と猫と壷を愛好するのは差しさわりがある」という一行説明がついている。

なんと教訓的な!! 犬と猫の不仲に由来する英語の俗語“cat and dog”は「ケンカ」や「いがみ合い」のこと。また、“cats and dogs”と複数にすると「くだらない組み合わせ」や「ガラクタ」を意味するように、犬も好き、猫も好きというのは具合が悪い。“It rains cats and dogs.“という口語の慣用句は「どしゃ降り」のことだ。そんな緊張関係の中に、もう一つ好きな壷を置いてみたら、結末は想像に難くない。犬と猫にとって、壷はご主人さまほど値打ちのあるものではないのだ。


好きなもの、たとえば好物三種類が身体の中に入って、平穏無事に差しさわりなくそのままケンカもなく棲み分けてくれたらいいが、そんな保障はない。口に入るまでは三つの好きなものが仲良さそうに見えていても、喉元を過ぎてからはどんな関係になってしまうかは知るすべもない。

お気に入りの強打者が三人いたって、一人しか四番を打てない。三番、四番、五番と棲み分けたつもりでも、見えないところで関係のバランスは崩れているかもしれない。

絵画が好きで読書が好きで語学が好きなぼくが、これら三つの趣味を同時にたしなんでいることなどめったにない。三つとも同時に打ち込んだら、たぶん犬と猫と壷の状況になってしまう。複数の好きなことの棲み分けというのはかなり難しいテーマのように思える。強引に好きなものを同時に共生させて、目玉が飛び出るほど高価な壷を犠牲にできるほどの勇気も甲斐性もぼくにはない。

ならば、いさぎよく「壷は大好きですが、犬と猫は大嫌いです」と言い切れるまで一番好きなものだけを追求できるか? これも無理。一兎をも得られないのを承知で二兎ならぬ三兎を追ってしまうのが器用貧乏の常だから。 

雨のち蓮根、晴れ時々蓮根

旬の野菜や果物は格別である。舌鼓を打つのは言うまでもなく、「今しかない」あるいは「今が一番」というタイムリーな価値にわくわくする。

 毎年6月下旬になると、山形のMKさんがサクランボを送ってくださる。十年程前まではめったに口に入らなかった代物だが、今ではちょっと贅沢に頬張らせてもらっている。佐藤錦や紅秀峰という品種の名前も覚えた。少し多めに食べるときには、腹を下さないために塩をつまんで舐めるという地元の習慣も知った。

今年は縁あって、二種類の旬の野菜に恵まれた。金沢で開催している私塾の塾生のお一人からの「産地直送」だ。偶然だが、この方もMKというイニシャルである。何となくぼくの「また(M)ください(K)」という下心(?)に呼応しているみたいだ。

春は筍だった。宅急便で届いたが、キッチンに運ぶのに腰が抜けそうになった。開けてみれば、前日に朝掘りした、とてつもなく大ぶりな筍が約20本! いやはや、MKさん、ありがとうございますと感謝。とりあえず土がついたまま数本を知り合いにお裾分けした。

さて、残る十数本。持ち合わせの知識にウェブの情報を補足したうえで、包丁でさばきアク抜き。大鍋、パスタ用の深い鍋、中華鍋などを総動員した。湯気と筍特有の匂いが家じゅうに広がった。調理というよりも、専門店の厨房における仕事のように思えてきた。

しかし、その仕事はほんの序章にすぎなかった。その日からの約10日間、仕事は格闘と化した。筍づくしの日々を闘い抜くことになったのである。やわらかいところを刺身にしたのを皮切りに、土佐煮、筑前煮、天ぷら、若竹煮、きんぴら、ちらし寿司、筍ごはん、中華風炒め物……とありとあらゆるレシピを試み、来る日も来る日も筍を食べ続けた。

筍は傷むのが早いだろうという見込みとは裏腹に、新鮮な水に浸して冷蔵庫で保存すれば日持ちするものだ。その一部をさらにお裾分けしたり、料理にして親類にも持って帰らせた。しかし、もしかして冷蔵庫の中で増殖しているのではないかと疑うくらい、いっこうに減ってはくれない。MKさんへの当初の感謝の気持が薄れ、イジメにも似た心理に苛まれていく。そういう趣旨のメールをギャグっぽく伝えたら、「連絡いただき次第、第二弾がスタンバイしています」との返信。やっぱりイジメだ。


とはいえ、やっぱりぼくは筍が好きなのだ。最近食べていないので、懐かしささえ感じてしまう。そんな折り、三日前にMKさんから蓮根が届いた。加賀野菜に認定されている小坂蓮根という種類だそうだ。一本が丸々三連のまま採れたての状態で数本。見るからに新鮮で、レシピを頭に浮かべればすでに垂涎状態である。

筍の教訓を生かそうと思い、半分の量を知り合いにお裾分けにすることにした。これで、日々蓮根漬けにならなくてすむだろう。いただいた初日は天ぷらに。翌日は野菜炒めに。そしてきんぴらをすればいい。筍のときは、「筍のち筍、筍時々筍」だったが、今回は「雨のち蓮根、晴時々蓮根」というローテーションでいけそうだ。

ところが、さっき台所をのぞいてみたら、今夜で終わってしまうほどの数量しか残っていないではないか。新蓮根の旬は9月初旬。もう少し残しておくべきだった、ちょっと気前よく振る舞いすぎたかと複雑な心境だ。おっと、これは「MK」というサインではない。何事も度を越えてはいけないことくらい承知している。年末の蓮根も美味らしい。それに期待することとしよう。

「聞こえる」が「聞く」に変わる

あなたはたまたまそこに居合わせていた。そして、積極的に聞こうとしたわけではなく、たまたま会話が「聞こえて」きた。たまたま立っていた場所が物陰だったりして、会話していた連中がふとあなたの存在に気づく。「まさか立ち聞き?」と詰め寄られる。「立ち聞き」とは別名「盗み聞き」。なんだか会話泥棒みたいだ。

「立ち聞きなんて人聞きの悪い!」と韻を踏んで反論している場合ではない。「勝手に聞こえてきたのであって、聞いたのではない」という無実を証明するのはたやすくないのだ。関心のないことは聞こえてこないものだぞ、聞こえてきたのは耳をそばだてていたからだろう、そしてそこには悪意があったに違いない――という具合に論理を運ばれ冤罪の一丁上がり。こんな経験がないのは幸いなるかな。

遠距離特急内では「座り聞き」が生じる。こっちはおとなしく指定席に座っている。読書に集中するか寝不足を補うために睡眠を取るのが常だ。しかし、時折り前部か後部の座席から会話が「聞こえて」きて邪魔される。意に介さないでおこうとすればするほど、余計に耳が鋭敏になる。そして、情けないことに、たまたま聞こえてきた話を聞き流そうとしているにもかかわらず、気がつけばいつの間にか身構えて、発言権と拒否権のないまま聞き役に回っていることがあるのだ。


大阪発富山行き特急サンダーバード。後部座席からの夫婦の会話が聞こえてきた。

「サンダーバードって何?」「さあ……」「サンダーバードの他に雷鳥という特急もあるわ」「……」「辞書に載ってるかな?」 (ご婦人、おそらく携帯電話を取り出している) 「和英で見るの、英和で見るの?」「カタカナやから英語やろ。英和やな」と夫。 (しばらくして)「載ってないわ」「……」

ここで話は別の方向へ。その後の会話はまったく覚えておらず、上記の会話の部分だけは正確に文字で再現できるほど鮮明に記憶に残っている。

「(携帯の辞書に)載ってないわ」の瞬間、お節介を焼きたくなった。「サンダーバードって、Sで始まりませんよ。Thですよ、“thunderbird”って入力しないと出てきませんから。ちなみに“thunder”は雷で、“bird”は鳥だから、単語を直訳すると『雷鳥』になります」。

もちろん、座席の後ろを振り返って、見ず知らずの夫婦にこんな口をはさむわけがない。無言のお節介だ。雷鳥とサンダーバードは、厳密に言えば、同じ鳥ではない。サンダーバードは「雷神鳥」というアメリカ北米の巨大な鳥だ。しかし、ことばが酷似していることに気づいてほしかった。いや、気づかせてあげたかった。 

こんな思いに到るぼくは変わり者なのか。喫茶店の隣のテーブルで「小泉さんの前の総理大臣って誰だった?」に対して三人が必死になって思い出そうとし、何分経っても正解が出てこない場面に居合わせたあなたは、たぶん知らんぷりをするだろうが、心のどこかで「森さんですよ」と告げたくならないか。

道に迷っていそうな人に声をかけてあげるのは難しくない。あるいは、「地下鉄はこっちよ」と彼女が彼に言い、カップルが間違った方向に歩こうとしていたら、一言「あっちですよ」とアドバイスするのも朝飯前だ。だが、こと知識に関しては、ドアをこじあけるようにわざわざ会話の中に入ってまで授けるものではないのだろう。

「勝手に聞こえてきたこと」を「意識して聞く」。「勝手に見えてきたもの」を「意識して見る」。もしかすると、「偶察力セレンディピティ」というものはこのようにして磨かれるものなのかもしれない。 

災いを転じて福となす

毎日または隔日に一つの記事、あるいは週や月にいくつの記事などと決めているわけではない。「ねばならない」という強迫観念をブログに持ち込むつもりもない。書くという行為は、ぼくにとって意地や決意などではなく、(1) 自分の考えをまとめ、(2) よければ想定した読者に読んでもらい、(3) その人にインスピレーションのヒントか少し愉快な時間を提供できればいい、という動機から来ている。

日曜日に出張から戻ってきて、すでに下書きを完了していた『週刊イタリア紀行』のブログを仕上げようと思ったら、不具合が発生。不具合の原因は専門的でよく理解できないが、ついさっき回復して解決したという連絡を受けた。どなたからかコメントも入っていたが、それが消えてしまって申し訳ない。同時に、ぼくの下書き原稿も消えてしまい残念である。

人生や命に別状がないから無茶苦茶に残念がることもない。大した災いでもないが、「災い転じて福となす」に倣おうではないか。そう思い直して、下書きした原稿をあのまま公開しないでよかったと考えることにした。しかし、そう考えるためには、あの原稿の欠陥なり問題を見つけなければいけない。それは、ある意味で批判を加えることでもある。次のように振り返り自己批判した。


実はフィレンツェを取り上げたのだが、何回シリーズという構想なしで一回目を書いた。ちょっととりとめなく序章を書き、思いつくままアルノ川の南岸の話に発展させた。あれはまずかったかもしれない。それに、「花の都」というタイトルをつけていたにもかかわらず、ルネサンスについて一言も触れていなかった。それも検討不足だ。文章の推敲も不十分だったかもしれない。

ここまで反省して、ちょっと待てよ、何か変だと気づいた。「災いを転じて福となす」は、下手をすると、単なる楽観主義になってしまうのではないか。失敗してもこれでよかったんだという安堵感が漂っていていいのか。あの原稿、あれはあれで書けていたではないか、それなのに根掘り葉掘りで欠点探しをしているのはおかしいぞ。

冷静に考えれば、消えた災いが福になると信じるのはただのお人好しだ。だいいち福になんかなっていないじゃないか。なにしろほぼ出来上がっていた原稿が消えたのだ。もう一度時間を費やさねばならないのだ。もっと悔しがらないといけないはずである。

いま「費やさねばならない」と書いた。冒頭の「ねばならない」という強迫観念だ。この思いはまずい。今回の一件、決して福ではない。だが、「災いを転じてネタとなした」ことを不幸中の幸いとしておき、ここでやめるのが災いに終止符を打つタイミングだろう。 

性懲りもなく「嘘」

えっ、まだ続く? と呆れ返られそう。しかし、今回で嘘の話にはピリオドを打ちたい。これは嘘ではない。嘘ついたら、針千本飲んでもいい。

そうそう、「嘘ついたら針千本飲~ます」なんていうのは、あまりにも現実離れしていて脅し効果もなければペナルティにもならない。「死刑百回!」なんていうのが恐くも何ともない、ただのギャグであるように。

小生意気な子どもは「それなら、針千本用意してよ」と逆襲して親を困らせるかもしれない。相手をよく見て脅すべきだろう。子どもには「嘘ついたらカレーライス食べさ~せない」とか、若い女性には「嘘ついたら不細工にな~る」とか、社員には「嘘ついたら社長にす~るぞ」とか……。社長業は貧乏くじであることが多いから、罰効果はあるかもしれない。

どうしても針を飲ませたいのなら、本数を示さずに「嘘ついたらとんがった針飲~ます」がいい。個人的には口に入れることがまずありえない針よりも、口中で使う爪楊枝がいいと思っている。「嘘ついたら爪楊枝飲~ます」は現実味を帯びており、食後に必ず爪楊枝を使うオヤジ世代には有効だ。


さて、なぜこれほど執拗に嘘について綴ってきたのか。それには理由がある。

昨年マスコミで報道された偽装事件約50件、水面下では注意や指導レベルの小さな嘘がうようよしていただろう。商品ではなく、公的な虚偽の発言まで含めたら、おそらく数え切れるものではない。嘘の本質をもっともよく表わしている表現、それは「嘘を嘘で固める」だ。これは「小さな嘘を大きな嘘で固める結果、嘘が人間を支配する状況」である。あるいは、「少しだけ赤みを帯びた嘘が真赤な嘘に変貌していく過程」である。

嘘について考えれば考えるほど、嘘と真実の境界がわからなくなってくる。もう一度嘘の定義を確認しておこう。「有利な立場に立ったり話を面白くするために、事実に反することをあたかも事実であるかのように言うこと」。面白くするための虚偽は良しとしよう。大笑いした後で嘘だったとわかっても誰も被害を受けない。問題は「有利な立場に立つための虚偽や事実の歪曲」である。

安く仕入れて高く売りたい――これは有利な立場に立つための欲求だ。そこでというブロイラーを産地鶏として売る。ばれる。その他の小さな嘘も暴露される。ブランドが失墜する。やがて廃業・倒産に追い込まれる。有利な立場に立つための所業が不利な立場、いや取り返しのつかない絶命を招く。嘘は割に合わない。

嘘と誇張の違い、嘘と省略の違い、嘘と解釈の違いなどはきわめて微妙である。事実のすべてをことばにすることはできない。有利な立場に立つために、事実の一部を誇張したり、一部を省略したり、解釈を変えたりすることは日常茶飯事である。ここまでは”滑り込んでセーフ”としなければ、生活もビジネスも成り立たない。しかし、これらの行いが当の相手を不利な立場に追い込んだ時点で“タッチアウト!”

「他人を不当に不利な立場に陥れるために、事実に反することをあたかも事実であるかのように言うこと」 という新しい定義が嘘の悪質性を見極める判断基準になるだろう。陰に回ると誰かの悪口を言って評判を落とすのを趣味にしている連中がいるが、ほぼ例外なく大嘘つきである。

嘘つき考アゲイン

夏風邪のようにしつこいが、引き続き嘘と嘘つきの話。

手元にある辞書で嘘の定義を調べてみたら、「有利な立場に立ったり話を面白くするために、事実に反することをあたかも事実であるかのように言うこと」と書いてある。話を面白くするための事実歪曲も嘘ということだ。

そうならば、ぼくの知り合いの大阪人はほぼ全員嘘つきということになる。笑わせるためには手段を選ばない。他人の身の上に起こったことをあたかも自分のことのように話したり、実際は自分のことなのに「オレの知り合いでこんなヤツいてますねん」と切り出すのに何のためらいも感じない。

嘘や嘘つきにまつわる諺はいくらでもある。「嘘から出たまこと」や「嘘も方便」などは、嘘を堂々と正当化する。「実」と「方便」のほうを強調することによって嘘の責任を軽減しており、「えっ、嘘って結果オーライでいいの?」という安心感と誤解を与えてくれる。

これに対して、「嘘つきは泥棒の始まり」というのもあって、こちらは批判的である。泥棒の始まりって何だろう? 不自然な表現である。プロ野球選手の始まり、タクシー運転手の始まり、学校の先生の始まり……何をすれば、それぞれの専門の始まりになるのだろうか。嘘つきは泥棒の初心者? 開業直後の泥棒? もうすでに泥棒をしてしまっているのか? 「嘘つきは前科一犯」と言わないところを見ると、正真正銘の犯罪者ではないのだろう。


嘘つきと泥棒以上に密接な関係にあるのが、嘘つきと博識である。もしかすると、「嘘つきは博識の始まり」のほうが的を射ているかもしれない。道徳論者なら怒り心頭に発するだろうが、嘘つきには物知りが多いのも事実だ。なにしろ「嘘八百を並べる」のだ。知識が豊富でないと、なかなかできることではない。

学生時代、当時流行していたダンスパーティーで、これまた当時もてはやされていた医学生を装った男がいた。「大阪大学医学部です」と偽ったものの、「ご専攻は?」と女子大生に聞かれてしばし沈黙。慌てて「ネズミの解剖しています」と答えてあえなく沈没。もちろん、その彼女との二曲目のダンスはなかった。

プロの嘘つき、すなわち詐欺師にも浅学な者と博識な者がいる。当然後者が一流のプロである。一流どころは、知識が豊富で想像力もたくましい。医者になりきったり政治家になりきったり弁護士になりきったりする。医学、政治、法律などの専門知識を蓄えておかなければならない。加えて話力も必須だ。浅学非才や話し下手では嘘をつけないし、ついたとしてもすぐにばれてしまう。

嘘つきを賞賛はしない。しかし、その道の博識を備えた「徹底したなりきり」を学ぶべきだ。事実の歪曲を肯定しているのでもない。しかし、事実の誇張やアレンジ、あるいは一部事実の隠蔽をやみくもに否定できるだろうか。広告、プレゼンテーション、経営理念、約束……。機能と構造はかぎりなく嘘に似ている。騙すのか、訴求するのか――違いはたったこの一点。