さあどこから始めよう?

フランスの聖堂ロダンの言葉で忘れられないのが、「私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった」という一文。

ぼくたちは毎日見聞きしているものをちゃんと見聞きしているとはかぎらない。そのことに気づかされるのは、ある日突然これまでと違った次元の見聞きが起こるからである。

今日の夕方、ロダンの古色蒼然とした一冊を古書店の200円均一コーナーで見つけた。「堂聖のスンラフ」と表紙に書かれている。昭和十八年十一月の初版発行だから右書き表題。もちろん『フランスの聖堂』である。

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さあどこから始めよう? という問いに次のように続く。

始めなんてものはない。到着した所からやり給へ。最初君の心を惹いた所に立ち停り給へ。そして勉強し給へ! 少しづつ統一がとれて来るであらう。方法は興味の増すにつれて生れて来るであらう。最初見た時は、諸君の眼は諸々の要素を解剖しようとて分離させてしまふが、それらの要素はやがて統合し、全體を構成するであらう。

いつも見ていたはずの空をいま初めて照見するのに通じるようだ。経験の程度に応じて、分析から統合、部分要素から全体へとシフトするのは、ほぼすべての学習において真であると思う。

色彩

「絵本から飛び出たような景色」という比喩が時々使われる。鬼の首を取ったかのように威張れる比喩とは思わない。元はと言えば、景色を絵本に閉じ込めたのだから、絵本のページを開けたら景色が飛び出してくるのは当たり前だ。

「絵はがきみたいな風景」も同様である。記録に留めようとして風景を絵はがきにしたのであって、風景が絵はがきの後を追ったのではない。「絵になる水辺」とか「水彩画に描いてみたい街角」などと表現したいところである。

対象の構図もしくは形、そして色が、絵本のようであり絵はがきのようであると言わしめているのだろう。

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色彩

『色彩―色材の文化史』という本を読んでいたら、ドゥニ・ディドロのことばが紹介されていた。

「存在に形を与えるのはデッサンだ。生命を与えているのは色彩である。そこに、生命の崇高な息づかいがある」

こういうことばに出合うと無性に絵を描きたくなる。けれども、この数年間というもの、たまに鉛筆を滑らせる程度でほとんど彩色していない。筆に向かう指先がなまくらになっている。

ないもの探し

頭痛を紛らわせようとして就寝前に読書をしてみた。そんなバカな! 余計にアタマを苦しめてしまうではないか。だが、必ずしもそうなるとはかぎらない。意外だろうが、今朝はすっきり目覚めたのである。頭痛はない。「知の疲れは別の知で癒せ」は、思いのほかしっかりとした経験法則になっている。酒飲みが自分の都合で発明した、二日酔いを酒で治す「迎え酒」よりもずっと信頼性の高い処方箋と言ってもいい。

その本、自宅に置いてきたので正確に引用はできないが、ある章で「幸福は不幸が欠けている状態であり、不幸は幸福が欠けている状態」というようなテーマを扱っていた。あるものが成立している背景には別のものが欠けている。つまり、いま町内の居酒屋で飲んでいるとしたら、車を運転している状況が欠如している。いや、それどころか、会社にいることの欠如でもあるし、自宅で子どもと遊んでいることの欠如でもある。三日月が見えるためには、9割ほどの月の面積が欠けなければならない。

ところで、「彼は幸福ではない」と「彼は不幸である」は同義か? 幸福・不幸という概念は難しいので、わかりやすく、「この弁当はおいしくない」と「この弁当はまずい」は同義か? で考えてみる。おそらく、「まずい弁当→おいしくない」は成り立つだろう。だが、「おいしくない弁当→まずい」はスムーズに導出しにくい。「おいしい」を5点満点の5点とすれば、「おいしくない」は4点かもしれないし、1点かもしれない。

不幸な状況であっても、小さな一つの出来事で幸せになれるかもしれない。一万円を落として嘆いていたら、五千円札を拾った。収支マイナスだけれど、なんだか少しは心も晴れた。不幸に欠けている幸福を探すのはさほど困難ではないかもしれない。問題は、幸福を成立させるために欠落させねばならない不幸のほうだ。数え上げればキリがない。ゆえに、幸福になるよりも不幸になるほうが簡単なのである。

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いみじくも、上記のテーマは今週土曜日の私塾で取り上げる一項目と一致している。その項目の見出しは「不足の発見――自分に足りない情報探し」である。

人間においては、「ない(不在・不足)」は「ある(存在・充足)」よりも圧倒的に多い。だから、どんなに「ある」を獲得しても「ない」の壁にぶつかって悩むのである。企画や編集の仕事をするときも、いま見えているもの・存在しているものばかりに気を取られるが、それでは凡人発想の域を出ることはできない。調べもの好きな人のエネルギーには感服するが、導かれるアイデアにはあまり見所がない。

いま見えていないもの、いま自分に足りないものへの意識。あと一つで完成するのにそれがないということに気づく感受性。その足りないものをどこかから安易に調達してくるのではなく、意気軒昂として編み出そうとしてみる。いや、編み出さなくてもいい、「ないもの」が目立つことによって新しいコンセプトが生まれることだってある。

“Sesame Street”というアメリカの子ども向け番組が一時代を画すヒットになった。日本で放送が開始された当時、アメリカ人の番組担当者が語ったことばが印象的である。

“Teachers are conspicuous by absence.”

「不在によって先生が目立つ」。つまり、「先生が登場しない、だから余計に先生が感じられる」ということだ。情報編集の時代、足し算ばかりでなく、「ないことによって感じられる」という引き算価値にも目を向けたい。

本読みにまつわる雑感

初回の書評会が終わって、大いに成果のある試みだったと評価している。同じ本を読んで「同感、同感」と納得するのではなく、みんなが違う本を読んで臨むのがミソである。書評会の後の食事会でも軽く質問したりジャブを打ち合うとさらにおもしろい。

準備のために、本を買い、本を読み、本を選び、抜き書きし、まとめたり再編したりし、検証し、書評を書く。これだけの作業がある上に、当日に発表し、他人の書評に耳を傾け、書物間に対角線を引く……。まあ、思いつくだけでこのくらいの多彩な知的活動が伴うわけだ。ある意味、仕事より負荷がかかる。自分が選んだ一冊の書評開示もさることながら、他に6冊の書評を吟味する。わずか2時間。これは高密度な脳活性であると同時に、とても効率のよい啓発機会なのではないか。

口頭説明としては大阪の地名について書評したK氏がすぐれていたが、書評会は話術の会ではない。読書の内容と所感を書いてプレゼンテーションすることに意義がある。ペーパーに記録が残っているから、評者さえ間違いなく引用して的確にコメントしてくれていたら、そのまま使えるし、いかにもその本を読んだかのように振る舞うこともできる。

K氏の話はおもしろかったが、一ヵ月後には忘れてしまっているかもしれない。だが、よき教訓になった。ぼくは、研修でも講演でも配付資料・掲示資料ともに質量両面で充実させ、つねに最新の話題を盛り込んで刷新するよう努めている。だが、時間との格闘に疲れ果てると、資料を一切使わずに「喋りオンリー」でやってみたいと思うことが時折りある。実際、そういう時代もあったし、今でもやればできると思っている。しかし、聴きっぱなしはやっぱり効果に乏しいのである。一回きりでは深い記憶領域まで情報は届かないのだ。後日資料を振り返ることによって刷り込みが可能になる。K氏の愉快でわかりやすい話しぶりは、逆説的に言えば、かなりアタマのいい聞き手かメモ魔によってのみ成立するのである。

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読書にまつわるおびただしい格言がある。手元の名言・格言辞典を覗いてみた。思想的背景とは無関係にことばだけ拾うので、誰の弁かは伏せておく。

読書は量ではなく、役に立つように読むことが問題である
本はくまなく読んでも不十分で、読んだことを消化するのが必要である

そうそう、教養だけでなく、どこかで活用しようと企んでいるのならば、自分の不足を埋めるように読まねばならない。

君の読む本を言いたまえ、君の人柄を言おう

読書好きの知人も同じようなことを言っていた。「誰かのオフィスに行くだろ。応接室か会議室に通される。書棚の背表紙をざっと見れば、思想から性格まで見通せるよ」。同感である。但し、書棚を埋め尽くしている書物は複数の人間が読んだものを並べているかもしれないので、勇み足をしないよう。

書物から学ぶよりも、人間から学ぶことが必要である。
新しい書物の最も不都合な点は、古い書物を読むのを妨げることだ。

上記は書物に対する批判的な教えである。ぼくは常々「人は人からもっとも多くを学ぶ」と思っているので、前者に賛成である。ただ、人からの学びは偏愛や畏敬の念をベースにすることがあるので、幅広く書物を読んで偏りを是正することも必要だ。後者は、目先のベストセラーや話題・時事を追いかけすぎて、読もう読もうと思っている古典に親しめないということ。最近は痛切にそう感じている。