つかみとオチの現実性

たとえまじめなテーマの講演でも、聴きに来る人は講演者のキャラクターに応じて笑える場面を期待する。かつてぼくは全国区であったが、今は主として西日本。講演や研修の半数は関西を中心におこなっている。ぼくを知る聴衆が多い大阪の講演会では、特に「つかみとオチ」にユーモアを期待される。意外かもしれないが、「おもしろい講師」というのがぼくの評判なのである。

話すべきことを話し終え、時間が迫ってくれば簡単な締めの一言で結ぶ。ある講演会でのこと。ふつうに講演を終えた後に勉強会の親しいメンバーがやって来て、「先生、今日の話にオチはなかったですね」と言われたことがある。「きみ、毎度毎度オチを考えているわけでもないよ。オチは勝手につくこともある。でも、そう易々とオチは生まれないからね」と答えておいた。

落語にオチはつきものだ。効果的にしゃれたことばで話を締めくくる。「下げ」とも言う。落語ではオチは仕組まれている。ぼくは落語家ではないから、オチを仕込むわけではない。その日の話の成り行きでオチがうまくつくこともある。きちんとしたストーリーを丸暗記して講演しているのではなく、テーマとコンテンツを盛り込みながらも、ほぼアドリブで話すから計算などほとんどしていないのである。


オチに比べたら、冒頭で勝負が決まるつかみのほうが仕込みやすい。その日の聴衆のことを少し意識すれば可能である。いずれにせよ、話をせよと招かれたのであるから、ぼくには主題がある。つかみやオチが輝いて主題が精細を欠けば本末転倒だ。つかみやオチのことばかり考えるのは「よそ見」に等しい。裏返せば、つかみやオチは意識して創作する類のものなのである。しかし、作意が見え透いてしまうと不自然になる。そうなるくらいなら、当たり外れがあっても臨機応変につかみとオチが生まれるほうがいい。繰り返すが、噺家ではないから、起承転結の「起」でつかみ「結」でオチをつけるノルマはぼくにはない。

夢

ぼくのことはさておき、一般的には現実世界で何かを語るには作意が欠かせない。現実に比べたら、夢の世界は唐突である。つかみもオチもない。いきなり不自然に始まり不自然に終わる。脈絡はない。計算もない。起承転結などデタラメである。だからこそ、夢には現実にないおもしろみや意外性があるのだろう。

現実には始まりの合図があり、終わりの区切りがある。講演でも会合でも式次第がある。どんなにカジュアルなセミナーと言えども、いま始まった、いま終わったということがわかる。劈頭へきとう掉尾ちょうびを飾る挨拶はたいてい退屈なものと相場が決まっている。

つかみもオチもなく、テーマはあって無きがごとし、意表をつく断片の話のコラージュ、寄り道あり脱線あり、それでも聴き終わったら、ガツンと衝撃があって脳裡に焼きつく。夢を見ているかのように錯覚させるような講演をしてみたいと目論んでいる。かなりいい歳だからそれも許されるはず。しかし、無秩序な夢物語でさえ、現実的に構成しなければならないことに気づきもしている。

習慣形成について

「プロフェッショナルにとってもっとも重要な要素は何か?」と聞かれて、「はい、これです」と安直に即答できるはずがない。枚挙にいとまがないので、一つに絞るなどは不可能なのである。だが、もし三つまで許されるなら、「習慣形成」が確実に入ってくる。

習慣形成

ビジネスの場合は顧客から見て、行政の場合は市民から見て、プロフェッショナルはピンと際立って見えなければならない。もっとも、仕事に就く前から、誰もプロフェッショナルに恥じないスキルやノウハウを携えているわけではない。また、言うに及ばないが、仕事に就いた直後にいきなり身につくものでもない。

しかし、スキルやノウハウに先立って、日々習慣的に培ってきた何らかの資質が備わっている必要がある。面倒臭がらないという資質(たとえば料理のプロ)、細かな気遣いという資質(たとえば建築のプロ)、手先の器用さという資質(たとえば外科医)などである。

もちろん、個人差があるから、他の資質であってもいい。重要なのは、どんな資質であれ、覚えたり聞いたりしたものではなく、日常生活で習慣的に繰り返してきた経験に裏打ちされているという点である。ピンととんがったその資質が自分の仕事の骨格を形成しているという自覚であり自信である。


専門スキルやノウハウは、生活習慣から独立しているのではない。仕事と生活は不可分の関係にある。それゆえ、プロフェッショナルとしての能力は、生活スタイル、癖、繰り返しによって培養される。つまり、日々の習慣形成された資質が高度な専門性の基盤になるのである。習慣と能力の相関性についての教えはおびただしい。数ある名言から二つ引用しておこう。

「習慣は第二の天性なり」(古代ギリシアのことば)

「成果をあげることは一つの習慣である。習慣的な能力の集積である。習慣的な能力は修得に努めることが必要である」(ピーター・ドラッカー)

いずれも「ならせいと成る」ことを教えている。身についた習慣は無意識のうちに暗黙知として身体に浸み込む。まるで生まれつきの性質のように才能になるのである。

パーキンソンの法則

〈パーキンソンの法則〉を持ち出すまでもない。生産性の低い空気が充満する職場では、仕事の振りをする態度が目立ち、大した仕事をしていないのに仕事をしている気になっている。問題を分析するばかりで、いっこうに解決しようとしない。したがって、仕事の達成感は乏しく、いつまでたっても質的向上は望めない。

変化・スピード・多様性は現代ビジネスの不可避的なノルマである。課題は山積している。仕事とはその課題を解決することだ。迅速かつ鮮やかに仕事をこなすプロフェッショナルがめっきり減ってしまった。

上記の文章はぼくの『プロフェッショナル仕事術(旧版)』のプロローグの一節である。パーキンソンの法則はシリル・N・パーキンソンが1957年に経済誌”エコノミスト”で発表し、一躍世界の注目を集めた。半世紀以上も前の法則であり、時代も激変したはずなので、もはや通用しなくなっていても不思議でない。だが、この法則は色褪せていない。つまり、相も変わらず人は同じような仕事ぶりを繰り返しているのである。

パーキンソンの法則

パーキンソンの第1法則は、「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて費やすまで膨張する」というもの。多忙時であっても5時間でこなせるルーチンワークなのに、暇を持て余していると10時間費やしてしまうのだ。つまり、質とは無関係に仕事が5時間分膨張したのである。

黒字の年でも赤字の年でも従業員の数が同じで、勤務時間も増減しない。たしかに、高度成長の萌芽期にはそういう傾向が見られた。そして、仕事の規模が縮小しても、行政の職員の数は増え続けた。部や課の単位では部員や課員が増えるのを歓迎したのである。

昨今も同じような現象がある。たとえば杓子定規にワークシェアリングを実施すると、どうでもいい仕事やムダがどんどん増えていく。それはそうだろう。当面の仕事のために雇ったのではない人材に何がしかの作業を分与するのだから。二人でできていた仕事を三人で分ければ、トータルの所要時間は増えるに決まっている。仕事にスピードと効率が考慮されなくなる。

少数精鋭などどこ吹く風、という企業が今も少なくない。決まった時間内に三つの仕事をこなしていた人間が、仕事が一つに減っても同じだけの時間働いている、あるいは働いている振りをする。いつの時代もいい仕事をしているのは、多忙でスピードのある人なのである

二足のわらじ

時代劇以外でわらじを履いている場面に出くわさないが、「二足のわらじ」という言い回しは今もよく耳にする。英語では「二つの帽子をかぶる」と言う。わらじよりも帽子のほうがよさそうに見えてしまうのは偏見か。ところで、二足のわらじを同時に履くことはない(二つの帽子も同時にかぶらない)。どちらか一方を使っている時は他方に出番はない。しかし、本来二足のわらじは同時に二つの仕事に従事していることを意味する。

TPOに応じて厳密に肩書きを名乗ると、ぼくは数足のわらじを履いていることになる。面倒なので、企画立案業と教育研修業を二つのわらじとし、両方を同等に本業と考えて励んできた。正と副の印をつけろと言われたらちょっと困る。敢えてつけるなら、キャリアが78年長い企画立案業を正とし、教育研修業を副にするのが妥当だろうか。その副に従事し始めてから四半世紀が過ぎた。


かつて自分を売り込んだこともある。しかし、四十を過ぎてから毎年100件前後の依頼をいただくようになった。二日研修もあるから、一年のうち150日近くがんじがらめになり、過労死を恐れてほとんどPRしなくなった。やがて実績への執着も関心も消え失せ、目の前の仕事をこなす東奔西走の日々を送り続けた。

五十代半ばから二泊三日の出張がきつくなった。還暦を過ぎてからは、準備に時間のかかる特注の研修を減らし始めた。また、研修の成果を数値化せよなどという理不尽な要望に付き合い切れず、そんな研修先の仕事は日が合わないなどの理由をつけて断った。その結果、年間50件程度に落ち着いた。その50件のほとんどを7月から11月に集中させ、正である企画立案業に比重をシフトしているのが昨今である。

研修案内 (2)

これからはマイペースで仕事をするぞと目論んでいた矢先、スタッフが「PRすれば講師としてまだまだ売れる!」とぼくを鼓舞し、「研修の提案をしたいからメニューの一覧を作ってくれ」と半ば強制してきた。根が素直なので、二つ返事で承諾してしまい、先月下旬から暇を見つけて毎日少しずつ編集することになった。そして、ついに完成。総数20枚のメニュー一覧である。ついでに記録と記憶を頼りに実績を集計したところ、区切りのいい数字を達成していたことに気付いた。研修・講演回数2,000回、研修・講演テーマ100本、執筆したテキストと作成したパワーポイントスライドショー300種類を超えていたのである。小も積もれば大と為るものだと、それなりの年月を費やしてきたことにちょっとした感慨を覚える。

「覚える」と「思い出す」

喫茶ノア

初めての喫茶店。店内を見回していたら、競走馬のぬいぐるみが目に入った。手のひらよりも少し大きめ。この種のものは、オグリキャップが活躍した頃から続々と売り出された記憶がある。

覚えてはいても鮮明に思い出せないことがある。人間の記憶力などは十代あたりが全盛で、あとは下り坂なのだろう。ぼくの周囲の連中を観察していると、だいたい五十を過ぎたあたりから急勾配の下りに差し掛かっている。ぼくより一回りも下なのに、すでに記憶喪失に近い御仁もいる。いかにも、「記憶は忘却の穴だらけである」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス)。

いま、このテーマに関連して、本で読み研修でも取り上げたはずの「脳の一次記憶と二次記憶」のことを書き始めようとしたところ、その書名をどうしても思い出せない。だいたい見当をつけてから本棚を見回してみたが、見つからなかった。それはともかく、一次記憶は「仮の置き場」なので、時間が経つと情報は消える。二次記憶は繰り返し触れた情報が蓄えられる「永久記憶庫」なので揮発しにくい。つまり、何年も前に覚えたことでも再生しやすい。だからと言って、必ず思い出せるとはかぎらない。倉庫の奥深くに保管しているモノほど取り出しにくいことがある。


さて、冒頭の喫茶店のぬいぐるみ。菊花賞優勝のレイをかけた芦毛の馬だ。よく知っている。ところが、「ビワ」まで思い出したものの、後が出てこない。続くのが和名っぽい四文字だという確信もある。二十年くらい前に活躍したこと、三冠馬ナリタブライアンの兄であること、二年連続の菊花賞兄弟制覇であることも間違いないと睨んだ。それなのに、ビワに続く四文字を必死に探り当てようともがく。手元のiPadを見れば即座にわかる。だが、こういう時に脳にエサを与えて甘やかしてはいけないのである。

ビワハヤヒデ脳内の記憶をまさぐり、浮かんでは消えそうになる情報を繋ぎ合わせてあれこれと参照する。他人の目には悠然とトーストをかじりコーヒーをすすっているように映るだろうが、アタマのほうはかなり目まぐるしく回転し熱を帯び始めている。ついにビワの次の文字「ハ」が浮かび、ほどなく「ビワハヤヒデ」に辿り着いた。どちらかと言うと、お気に入りのサラブレッドだったのに……。

決まりきった答えがあって、それを知らないのなら、調べればいい。しかし、この調べるという作業があまりにも便利になってしまった現代である。単なる「ど忘れ」だと笑って済ませてはいけない。微かな記憶の断片を頼りに思い出そうとするべきなのだ。結果的に思い出せなかったとしても、見えざる脳内の回路に刺激を与えたことに満足すればよい。三十代後半から五十代前半の人たちよ、熟年期を迎えると、覚えにくい・思い出しにくいという二重苦を背負うことになる。そうなるのはまだまだ先と油断することなかれ。忘却の美徳に逃げ込むなかれ。油断と逃避は危険な兆候である。

広告とポジショニング

原則として良書は二度読まねばならないと思う。年の功もあって、少しは本の鑑定もできるようになった。くだらない本は数ページ読めばわかる。良書は一度ではわからない。だから、読みながら良書だと判断したら、もう一度読むことを前提に、全体を通読して概要をつかむ。言わば、俯瞰的読書である。 

二度目。すでにわかっているところは飛ばし読みする。わかりにくいところ、あるいは著者と意見が対立するところ、いずれでもないが自分に欠落している部分や忘れがちなところを中心に精読する。理解するだけなら二度読めばいい。しかし、「動態知力」を身につけるためにはさらに読み込まねばならないことがある。 
OGILVY ON ADVERTISING.jpgこの“Ogilvy on Advertising”という英書はもう何十回も読んでいる。今も時々ページをめくる。もう30年以上前に書かれた本なので、陳腐化している内容も少なくないが、それはあくまでも現象的なトレンドという意味においてである。売り手が顧客にものを売るメディアとしての広告の本質的なありようについては決して色褪せているようには思えない。広告やマーケティングの本をずいぶん読んできたが、座右の銘に恥じない貴重な一冊である。

ものづくりにこだわりとプライドを持つ職人の技はわが国の特質であったし、その伝統は工業生産の時代になっても引き継がれている。「ものを作って売る」というごく当たり前の言い回しがある。かつては注文を取ってからものを作って売っていた。今は見込みでものを作り、しかる後に売ることがほとんどである(特に大企業の場合がそうだ)。そして、その見込みの内に不特定の顧客が想定される。いや、顧客を絞り込んでいるとみんな言うのだが、無意識のうちにものづくりの過程で「ものが顧客に優先」されてしまうのである。 
デビッド・オグルビーのこの本では、〈ポジショニング(positioning)〉という用語が紹介されるのはわずか二ヵ所。それでもなお、この語は広告やマーケティングのキーワードである。そして、十人十色の解釈がありうる厄介なことばである。オグルビーの定義は「その商品は誰のために何をしてくれるのか」と明快だ。作った時点では誰が特定されていなかったかもしれない。しかし、いざ売る段になれば、「誰」を絞り込まねばならない。誰次第で商品が何をしてくれるか――特徴や便益――が抽出されたり発見されたりするのである。 
広告から離れてもポジショニングは意義深い。「あなたはXに対して何ができるのか?」と問われて、そのXが人であれ組織であれ目的であれ、即座に答えることができるか。ぼくの『プロフェッショナル仕事術』という研修ではこのポジショニングの演習をおこなう。自分ができることと対象への貢献を簡潔に言い表わすことにほとんどの人が苦労する。

意思決定の上手な人、下手な人

空気を読めるに越したことはないが、空気を読んでから行動を起こしているかぎり、いつまでたっても主体性を発揮できない。他人の顔色や意見や動きに応じる処世術は「反応的生き方」だ。このような生き方では、その場かぎりのおざなりな取り繕いを繰り返すばかりで、やがて辻褄が合わなくなってくる。たとえば、リスペクトする二人の人間が異なった意見を述べる場面に立ち会えば、どちらの意見に反応していいのかわからなくなり、右往左往してジレンマに陥る。 

「私とは、私と私の環境である」とはオルテガ・イ・ガセットのことばである。これによれば、私自身が他者をも含めた環境の一部を成していることになる。他の動物と同じく、人も〈環世界〉の中で生きていくことを運命づけられているものの、無策のまま環境に適応しているわけではない。自分が環境の一部もしくは環境そのものであることを認識するなら、当然自分自身にも反応しなければならない。自分自身への反応とは、とりもなおさず、昨日の自分に対して責任を取ることであり、つまるところ、自分が主体的に生きることにほかならない。
 
自分を除いてしまうと、環境は自分を取り巻く外部だけに限定される。その環境をあたかも部品のように取り扱って、その時々の個別な刺激のみに反応していく人間は、失敗すれば他人のせい、環境のせいだとして責任逃れをする。では、うまく事が運んだ場合も、他人や環境のお蔭だとして感謝するかと言えば、成功の要因のほうだけは自分の努力の賜物だと都合よく解釈するのである。
 

 主体的に生きるとは、他人の一挙手一投足に右往左往せず、運などと呼ばれる環境の変化に一喜一憂しない生き方のことである。他人には自分が投影され、環境には自分が含まれるという発想が責任と情熱に裏付けされた判断を促す。そして、広く冷静に、かつ主体的に考えて行動するという姿勢こそが、我に執着しない柔軟性をもたらすのである。打つ手を幅広く用意周到にすればリスクを回避したり軽減したりできる。問題解決の選択肢が多ければ保険がかかることになる。
岐路.jpgところが、選択の幅が広がると反応的で優柔不断な人は決断できなくなってしまう。普段からイエス・ノーをそのつど表明しなかったツケが回ってくる。退縮の気に支配されて引っ込み思案してしまうのだ。これではいけないと功を焦れば、これまた一人相撲に勇み足というありさまで対処のことごとくが空転する。いよいよ切羽詰った彼らはどんな態度に出るか。自爆テロという暴挙に出る。選択肢はいくらでもあるのに、勝手に二者択一に狭めてしまう。待ち受ける結末は最悪で、ほぼ道を誤る。これが意思決定の下手な人の典型である。
 
意思決定の上手な人間には共通の特徴がある。日々イエス・ノーを明確にして、事態が差し迫る前に小さな判断をそのつどおこなっているのである。悩んでもしかたのないことに時間を浪費せず、悩むべきことこそにエネルギーを注ぐ。五分五分ならどちらでもいいではないかと考える。不必要に遅疑逡巡しない。一見粗っぽいように見えるだろうが、日々迅速性と潔さの訓練をしているのである。この訓練はいざと言う時に生きてくる。重要な意思決定にあたって、白か黒かという窮屈な選択に陥らず、白と黒の間で変幻自在に最善に近い判断を下せるようになるのだ。

考えること少なき者は過つこと多し

中学を卒業するまでは手習いをしていた。好きも嫌いもなく、親に勧められるままに書道塾に通い、師範について6年間指導を受けた。しかし、実は強く魅かれていたのは絵のほうだった。受験勉強そっちのけで絵ばかり描いていた時期がある。まったくの我流だったけれど、書道で教わった筆の運びが少しは役立ったようである。

絵描きになりたいと本気で思ったこともあったが、高校生になって筆を置き、鑑賞する側に回った。やがて天才ダ・ヴィンチに憧れるのもやめた。憧れるとは「その人のようになりたい」であるから、憧れから畏敬の念にシフトしたのは我ながら賢明な判断だったと思う。

ルネサンス期に芸術家列伝を著したジョルジョ・ヴァザーリや19世紀のポール・ヴァレリーなどの高い評価もあって、レオナルド・ダ・ヴィンチは「万能の天才」として人口に膾炙した。そして、最たる天才ぶりは絵画においてこそ発揮されたとの評論が多い。空気遠近法や輪郭を描かないスフマート法などを編み出し、いずれの作品も世界遺産級の至宝だ。それでも、37歳で他界したラファエロの多作ぶりに比べれば、ダ・ヴィンチは寡作の画家と言わざるをえない。作品は20あるかないかだろう。そのうち、幸運なことに、『受胎告知』と『キリストの洗礼』(いずれもウフィツィ美術館)、『白貂を抱く貴婦人』(京都市美術館)、『モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)』(ルーブル博物館)をぼくは生で鑑賞している。


ミラノで『最後の晩餐』を見損なったことには後悔している。悔しさを紛らせるためにレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館を訪れた。晩餐に比べたらおやつ程度だろうと覚悟していた。結果は、期待以上だった。博覧強記を裏付ける草稿や実験スケッチと記録、設計図等の足跡が所狭しと展示されていた。音楽に始まり、科学から軍事の構想まで、あるいは発明から解剖に至るまで、好奇心のまなざしを万物に向けたことが手に取るようにわかる。数々の業績のうち絵画こそダ・ヴィンチの最上の仕事という通説でいいのか……博物館に佇みながら、ぼくは別の才能に目を向け始めていた。それは、思考する力、そしてそれを可能にした言語の才である。

レオナルド・ダ・ヴィンチ.jpg岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』は、今も繰り返し読む書物の一つだ。ものの考え方や処し方について、色褪せることのない普遍的な名言がおびただしく綴られている。これぞというのを選んで、怠け癖のある若い人たちに薀蓄したこともある。「ぼくの言うことなど聞いてもらえないだろうが、歴史上の天才の声に真摯に耳を傾けてはどうか」と持ち掛けるのだ。その一つが「考えること少なき者はあやまつこと多し」である。深慮遠謀してうまく行かないこともあるが、ほとんどの失敗は思考不足もしくは浅はかな考えに起因する。

いつの時代もどこの国でもそうだが、物事がうまくいかなくなると「理性に偏るな、下手な考え休むに似たり」などという声が高らかになる。人が人として成り立っている唯一とも言うべき理性と思考を、悪しきことや過ちごとの責任にしてしまうのである。そこで、ぼくは問いたい。それは理性を十全に発揮し限界まで考え抜いてこその恨み節でなければならないのではないか。浅瀬の一ヵ所で考えて引き返してくる者に思考の無力を述懐する資格はない。ここは素直にダ・ヴィンチの言葉に従いたい。願わくば、だらだらと一つ所で深掘りばかりして考えずに、複眼的に見晴らしよく考える癖をつけたいものである。

ロジックの出番はどこにあるか

逆・裏・対偶.jpgオフィス近くの寺院の今月の標語は「らくを求めて苦しむ」。こういうことばに反応して「じゃあ、苦を求めたら楽になるんだなあ」と推し量るのは単純な早とちりというものだ。《命題の逆・裏・対偶》。聞いたことがある、ちょっとかじったことがあるという程度の人が大勢いるはず。覚えたつもりが、しばらく経つとすっかり忘れてしまう論理ツール。論理的思考は研修テーマの一つなのでぼくには染みついているが、いざこれを説明して理解してもらうとなると話は簡単ではない。

楽を求めるから苦しむ、ならば、その逆の「苦を求めれば楽になる」が真理だと考えてしまうのが人の常だろうが、Xがダメなら、その真逆のYはいいはず……と導出するのは甘い判断と言わざるをえない。ふだん理屈を嫌う人ほどこんなふうに二律背反的に物事を発想する傾向がある。山で右の道が行き止まりだったとして、元の位置から左へ行けば正解かと言うと、そうとはかぎらない。どちらも行き止まりの場合だってあるのだ。

「楽を求めて苦しむ」をわかりやすく「楽⇒苦」と表現してみよう。図では〈AB〉という命題の位置に入る。これを論理学の「逆」に置換したのが〈BA〉で、「苦⇒楽」に相当する。つまり、「苦しみを求めて楽になる」。さらに、論理学には「裏」という概念もある。〈not Anot B〉がそれ。「楽を求めなければ苦しまない」という命題表現になる。たいせつなことは、〈AB〉が真理だとしても、順序をひっくり返した〈BA〉と、否定形で裏返した〈not Anot B〉が真理とはかぎらない、という点である。
 
命題が真理だとしても、逆と裏は真理かもしれないしそうでないかもしれないということは、ちょっと考えてみればわかる。「ふだんから楽なことばかりしたり求めたりしていては、困難な場面に出くわすと対応できなくなって苦しんでしまう」……これに納得したとしよう。では、逆の「ふだん敢えて苦しいことを求めて実践していたら、いざという場面で楽になるか」と言えば、そうとはかぎらないことに気づく。そう、いつも苦しいかもしれないのだ。さらに、裏の「楽なことを安易に求めようとしなければ、苦しむこともないだろう」にも賛成しかねる。もしかすると、苦しみはいつもついてまわるのかもしれないではないか。
 
この論理図式の中央に「対偶」というのがある。〈AB〉が真理ならば〈not Bnot A〉がつねに真理になるというロジックだ。つまり、「楽を求めて苦しむ」のが真理なら、「苦しんでいないときは楽を求めていないときである」が必然導かれるのである。命題の対偶について心得ておくことは、ものを考えるうえでかなり便利だと言えるだろう。と、これを結論としてここで終えるわけにはいかない。
 
これはあくまでも論理図式の「もし~が真理ならば」という前提に立ったときの話にほかならない。すでにぼくたちが知っている命題、たとえば「東京は日本の首都である」なら、その対偶である「日本の首都でないならば東京ではない」は確定する。だが、現実は命題そのものの真偽が定まらないことが圧倒的に多いのだ。逆や裏や対偶云々の前に、命題そのものを問う力こそが求められるのである。

買いかぶられるホウレンソウ

ほうれん草.jpg『常識のウソ277』(ヴァルター・クレーマー/ゲッツ・トレンクラー共著)に、「ホウレンソウは特に鉄分豊富な食品?」という一文が載っている。そこには100グラム当たりの食品の鉄分含有量がミリグラムで示されていて、ゆでたホウレンソウは2.2(タマゴやパンとほぼ同じ)、生のホウレンソウが2.6(ソラマメや大豆とほぼ同じ)とある。アーモンド、レバーペースト、チョコレート、ピスタチオなどはホウレンソウの2倍~3.5倍の鉄分を含んでいる。

「ホウレンソウの鉄分含有量は他の食品と大差ない。もしポパイのエネルギー源が鉄分だとしたら、ホウレンソウより空き缶に食らいついたほうがいい」と著者は言う。懐かしくアニメの記憶を辿れば、ポパイは缶詰を開けた後、たしかくわえているパイプをストローみたいに操ってホウレンソウを飲み込んでいた。空き缶をしゃぶりなどしていない。
イタリアでホウレンソウ料理を注文すると、肉の付け合わせのような申し訳程度の量ではなく、一皿にしこたま盛られて出てくる。おひたしのように根元のほうにちょっと固さが残っているようなものではなくて、ゆるゆるに茹でて炒められた離乳食のような一品だ。フォークよりもスプーンですくうほうが食べやすいくらいのそれを、イタリア人は「たまらねぇ」という顔をしてむしゃむしゃ食べる。出されれば拒否する理由はないが、わざわざ注文してまでポパイになろうとは思わない。

二十数年前、学生時代の友人であり、当時大手銀行に勤めていた男をゲストスピーカーとしてぼくの勉強会に迎えたことがある。そのとき初めて、口にはするが食べられない「ホウレンソウ」の存在を知った。口にするとは唱えるということで、これが「報連相」だった。今となってはすっかり人口に膾炙した「報告・連絡・相談」のことである。彼の話を聴きながら、なぜこんな当たり前のことを大企業ではわざわざスローガンにして定着させようとするのか解せなかった。組織内コミュニケーションがこんなことで良化するなどとは……今もにわかに信じがたい。
まず、組織にあって部下が上司に報告するのは当然だろう。英語に粋な言い回しがあって、“I report to Mr.X”と言えば、「X氏が私の上司であること」を暗に示す。さらに、上司の目の届かない所に出張していれば、これも当然のこととして連絡は取るものだ。できたからと言って特別に自慢するような”ミッション・インポッシブル”ではない。つまり、報告も連絡も組織の一員としては、水を飲んで空気を吸うのと同じように、生理的機能として身についてしかるべきだろう。「こんなことをホウレンソウに語呂合わせして浸透させているようでは、諸手を挙げて銀行員を信頼するわけにはいかないな」と思った次第である。
「ソウ」、つまり「相談」だけを徹底すればいい。ビジネス最前線では部下の知恵だけではいかんともしがたい難問が噴出する。経験者に解決策のヒントを仰ぐ相談は不可欠である。そして、相談こそが十分条件を満たすのではないか。ホウレンソウの徹底などと声高らかに謳い上げるところに、大組織のコミュニケーションのイロハの幼さを垣間見る。
自発的な必要に突き動かされるのではなく、スローガンを叩き込まれ義務としてやっているかぎりは、形だけの報告や連絡しかできないのである。ホウレンソウの鉄分含有量が案外だったように、報連相も期待するほど組織の栄養になっていない。食べるにせよ唱えるにせよ、ホウレンソウの買いかぶりには要注意。