カフェにて

賑わっているカフェ。カウンターで注文の際に「店内は大変混み合っておりますので、先にお席の確保をお願いします」と言われることがある。促されるまま、注文を後回しにして席を探す。予約札があるわけではないから、自分の席のしるしになるものを置くしかない。たいていはハンカチ。ハンカチがなければノート。「命と同じくらい大切なノート」と広く宣言しているにしては、不用意に置くものである。

カフェ賑わい空席わずか 片隅のテーブルのノートは自分のしるし /  岡野勝志

確保したテーブルに注文したコーヒーを自分で運ぶ。隣りの男性はテーブルに所狭しと書類や本を広げ、パソコンに向かっている。彼はトイレに立つ。すべて置きっ放し。おまけに、上着も椅子にかけたまま。なかなか戻ってこない。こっちがドキドキしてしまう。彼の陣取った場所はしるしだらけ。しかし、それは席外しの証でもある。この国の人々の安全安心ボケ、ここに極まる。


街歩きの途中で一休みする。公園のベンチに腰掛けるのもいいが、喫茶店を探してコーヒーにありつくのが愉しみの一つ。チェーン店が一杯200円か250円でまずまずのコーヒーを提供する時代だ、年季の入ったマスターが仕切っている喫茶店の倍額のコーヒーが引けを取るはずがない。しかし、稀にハズレがある。昨日がそうだった。ハズレの後に帰宅して真っ先にすること。お祓いではない。自分でエスプレッソを淹れて飲み直し。

初めて入る店の気配は店名と店構えから判断するしかない。まあいいのではないかと直感して入った。昭和レトロだが、インテリアも照明も悪くない。とびきりうまいのを淹れてくれそうな雰囲気のマスター。待つこと56分。コーヒーを一口すすった瞬間、レトロな喫茶店は「場末の茶店さてん」へと転落した。

ああ、レトロな構えにほだされた

注文したのはブレンドなのに

出てきた一杯はアメリカン

香りのない超薄味のアメリカン

砂糖入れなきゃ飲めやしない

自分の勘の悪さが情けない

『涙――Made in tears』を思い出す

♪ メッキだらけのケバい茶店……と

中島みゆき調で口ずさんでみるか

コーヒー運は悪くないのに……

威張っているような砂糖壺を睨み

420円を放り出すように置いてきた

ジョークの作法

ジョークでウケるコツは書き尽くせない。仮に列挙できるにしても、頭で理解したコツが場に及んでのワザになるのはごく稀である。PDCAサイクルを回すようにはいかないのだ。

ジョークはユーモアを醸し出す。ユーモアの語源は「体液」である。聞いてくれる人たちの体液のめぐりをよくしてあげれば笑いが取れる。医術やリンパマッサージによるのではなく、これをことばでやらねばならないのだから、コツを指南するのも容易でない。

しかし、作法なら書き出せる。ジョークの披露のしかたや聴き方には心得ておくべきことがいくつかある。

1.最初にジョークのテーマを告げてはいけない。
「ハンバーガーショップで働くフリーターにまつわるジョークなんだけど……」。こう言う人が結構いる。ジョークの命は意外性。前置きは野暮である。

2.自分で笑ってはいけない。
起承転結の転や結に差し掛かると、他人よりも先に吹き出してしまう人がいる。これをやってしまうと、オチの効果が半減する。笑うのもよくないが、途中で解説したり注釈を入れたりするのも避けるべきだ。

3.さほどおもしろくないジョークでもウケた振りをする。
これはなかなか難しいが、「振り」は人間関係万般に通じる作法だ。テレビの「人志松本のすべらない話」も半数以上すべっているのだが、芸人仲間の聞き手は上手に振る舞う。おもしろがっておけば、立場が変わった時にお返しがある。

4.すでに知っているジョークでも初耳のように聞く。
創作でないかぎり、ジョークはジョーク集や他人から仕入れている。すでに知っているジョークがあって当然。たとえ自分の十八番ネタであっても、知らん顔して辛抱強く聞かねばならない。


とあるパーティー会場の一隅で雑談が熱を帯びている。ジョークを披露しようと誰かが喋り始めた。まだ話の入り口だと言うのに、「あ、そのジョーク、知ってるよ」と一人の若者が口を挟んだ。案の定、ジョークは不発に終わる。こんなことが何度か続いて、場がしらけかけていた。この光景を見かねて、傍らにいた初老の男性が若者に声を掛け、離れたバーカウンターに誘った。

「きみはお若いのによくジョークをご存じで感心していた。けれども、他人のジョークは黙って聞くものだ。たとえ知っているジョークでも、初耳のように装って最後のオチまできちんと聞く。それが礼儀作法だよ」。若者は素直に忠告を聞き入れ、感謝のことばを告げて仲間の輪に戻った。

ほどなく輪の中の男性が「とっておきのジョークがあるんだ」と言って話し始めた。若者は時々うなずきながら最後まで聞き届け、反応よくみんなと一緒に笑った。笑いがおさまった頃、ジョークを披露した男性に若者は言った、「いやあ、三度目の初耳だったけど、おもしろいジョークだったよ」。


不思議だが、どんなジョークも欧米っぽい匂いがする。日本での場面を想像しづらい。ジョークを披露し合うという文化がこの国ではまだ成熟していないからだろう。したがって、残念ではあるが、ぼくのジョークの作法にもあまり出番はないように思われる。

線描の時間

テーマはなく何本かの線だけを引き純正のラインアートだと自画自賛

わからない何時間も読み込んだのにサクサクわかる本がわからない

風物詩はほとんど消え去りかろうじて餅つき機のみ風習を継ぐ

「なるほど」が共感ではなくてただの癖だと見破った時の空気が微妙

ガイジンを昭和なと形容したらそれはトランプのことだろうと誰かが言った

筆を持ち林檎を一つ持ち合わせても林檎筆にはならぬ不条理

要するに形の中でほんとうに ノイズが踊る彼の感想

文字がなくもちろん本も書店もなくライブ伝誦していた時代

書くことは語ることより考える自分を表わす油断禁物

表象は浮かんでいるが午後のカフェは言葉を封じ苦吟を強いる

図書獨娯

元旦に参拝した神社の裏門の手前に献梅碑がある。王仁わに博士が梅花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったエピソードにちなむ。

難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

王仁博士はわが国に『論語』と『千字文』を伝えた人物として知られる。『論語』は知の原典として、『千字文』は書のお手本として、古来知識人の教養に大いにあずかった。彼らがどのように読書に親しんだのか想像しづらいが、津野海太郎の近著によれば、読書は個人的な行為であり、それゆえに「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていはじぶんの部屋で……」ということになる。この仮説に基づいて、日本人と本の読み方の歴史が探られる(『読書と日本人』)。

〈書評輪講カフェ〉という読書会を主宰して久しいが、本の読み方については自分自身がまだ試行錯誤を重ねている。故事成句の「読書三到」は、声に出して読む「口到」、よく目を開いて見る「眼到」、心を集中して理解する「心到」の三つを指す。今風に言えば、音読、黙読、熟読ということになるだろうか。では、なぜ本を読むのか。「読書万巻を破る」は大量に本を読破せよと教えるが、十を知って一を語ることを奨励している。人は一しか知らないのに十を語ろうと見栄を張るものだ。それを戒めている。一冊だけ読んで十冊読んだような振りをするぼくなどはまだまだ二流の読書人である。


それでも、自分で読みたい本を選び、万巻からは程遠いが、独りでこつこつと読む。最近はこの傾向がますます強くなった。身近な人と交わって骨のある話を語るという機会がずいぶん減ったのが理由の一つ。たまに会っても同じ話題ではつまらないし、この歳になってもまだ現役で仕事をしているから、どうでもいいような話に時間を割くのが惜しい。だから本を読む。遠い時代の賢人の思想やことばに触れていれば、落胆させられることはあまりない。これがいわゆる「読書尚友」の意義である。

あまりなじみのない「図書獨娯」を書き初めの文字に選んだ。「としょひとりたのしむ」と読み下す。この熟語が生まれた頃の図書とは書画のことである。詩文やそれをしたためた書、墨絵などは独りで鑑賞して楽しむのがいいという意味だ。広く解釈して読書を含めてもいいだろう。本を読んだり美術を鑑賞したりするのは、個人的な体験であり、集団でおこなうよりも娯楽価値が高いと思われる。作品には独りで向き合うのがいい。

初硯は愚直に一回勝負を貫く。書き損じがあっても書き直しはしないことにしている。ああ、線が細かったか、バランスに少々難があるかなど、毎年筆を置いてから顧みる。ともあれ、独りとはもとより孤独のことではない。邪魔が入らないというのは至福の歓びなのである。

並べ替え

ものは言いようと言われる。言いたいことは一つでも、表し方はいくらでもある。だから、ことばの表現をあれこれと吟味することになる。しかし、ものは言いようだけにとどまらない。ことばの配列にも意を注がねばならない。ものは並べ替えようでもあるのだ。

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ここに簡単な計算式が4つある。伝えようとしている数字の関係性は同じ(23を足すと5になるという関係性)。しかし、数字の配列を変え、の表現にしてみると、意味も変わるような気がするから不思議だ。並び方が変わって、視座が変位するのである。


Normal

豊かにして貧しく

健やかにして病み

微笑んでいても寂しく

颯爽として疲れている

Reverse

貧しくても豊かで

病んでいても健やか

寂しいのに微笑み

疲れても颯爽としている

休日の倦怠と幸福

早朝の喧騒はムクドリ、姿は見えない。

鈍角な陽射しに流れ込むバロック音楽。

挽きたてのタンザニア珈琲、甘く香る。

異様なほど尖がっている短編小説の書評。

     ~~~

文字盤の秒針、せわしなく上滑りしている。

遠近法的に立ち並ぶ散歩道の電信柱。

じっと握られたままの萬年筆、文を綴らない。

大きな溜め息とあくびのような深呼吸。

 

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Katsushi Okano
Holiday’s ennui and happiness
2016

Pastel and ink

蟻かぞえの詩

人は蟻の集団や隊列を見ると何匹いるのかかぞえたがる。
人は一生のうちに少なくとも一度は蟻をかぞえるらしいのだ。
“蟻は健気な存在であり、その蟻をかぞえる人間もまた健気である”
“蟻は不憫な存在であり、その蟻をかぞえる人間もまた不憫である”

ところで、「“”」は二重引用符だ。
二重引用符を並べたら何に見える?
“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”
「蟻」の話をしたから、蟻の隊列に見えてしまうだろう。

大型のガラス瓶に土を入れて蟻を飼ったことがあるかい?
ぼくはある。毎日毎日飽きずに観察したものだ。
先日、公園のベンチに腰かけていた。蟻の隊列が見えた。
ミミズの死骸を穴の中に運んでいるのだった。

上田敏が訳したレミ・ドゥ・グルモンの詩篇、『髪』の一節。

ひいらぎの匂、苔の匂、
垣根の下にが割れた朽葉色くちばいろ
しおれた雑草の匂がする。

次の節あたりに蟻が出てきそうな予感がしないかい?
けれども、蟻の出番はなく、ただ匂いの描写ばかりが続く。
数行先に視線を飛ばしてみる。

蜜蜂の匂もする。牧の草原くさはら
さまよふ生物いきものの匂がする。

蜜蜂が出てきたら、草原にさまよう生き物は蟻だ。
しかし、いよいよ出てくるだろうという期待は裏切られ、
この後に四行だけが紡がれて詩は容赦なく終わる。
ついに、この詩に蟻は登場しなかった。

ルナールは「蟻が“3”に似ている、うようよいる」と言った。
おびただしい数の蟻を“333333333333333……”と表現した。
蟻が3に似ていると思えるかい? とめどなく並ぶ3に。
“”“”“”“”“”“”“”“”“”“”“ と 333333333333333、どっちが蟻に見える?

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蟻かぞえのうた

ありありありありありありありありありありありありあり
あり あり あり あり あり あり あり あり あり あり あり
あり、あり、あり、あり、あり、あり、あり、あり、あり、
あり、あり、あ、あ、あり、あ、あ……
あり、うごくな!

七月の風物の記憶

七月が終わる。振り返ってみると足早に過ぎた一ヵ月だった。逃げるのは二月だけ、去るのは三月だけに限らなくなった。ぼく固有の感覚なのか、それとも誰にも働いている感覚なのか。

昨日まで企画の指導をしていた。「昭和ノスタルジー」をテーマにした班があった。寂れた駅前をシニアの便宜を図るために再活性化しようとする案。紫煙くゆらす喫茶店や雑居ビル一階の食いもん横丁などの雑談をしているうちに、昭和と暑い七月固有の風物が重なり始めていた。ぼくの記憶の在庫棚には各種風物・歳時が並んでいる。金魚や西瓜はすっと取り出せるが、正確には八月の暦に記される風物である。


思い出さなくてもいいのに、つい思い出してしまうのが忌まわしい蚊にまつわる体験だ。マンションの高層階まではやって来ないので、最近は蚊に食われることはほとんどない。しかし、子どもの頃は蚊に吸われ放題だった。梅雨明けの頃から、蚊は大量に発生した。年寄りたちはそれを「蚊が湧く」と表現した。

蚊取り線香
蚊取り線香(絵:岡野勝志)

蚊を「追いやる」のがかつての線香だったらしい。しかし、線香の火が消えて煙が出なくなれば蚊は戻ってくる。湧くようにいるのだから、追いやってもきりがない。蚊はやっつけるべき憎き存在となり、線香には「蚊取り」という攻撃性が加わった。

子どもはある時から火をけたがるようになる。花火に着火して持ちたがる。蚊取り線香もしかり。便利な使い切りライターがなかった時代、徳用マッチを擦った。手際が悪いとうまく火が点かず、二本目のマッチを取り出した。

蚊取り線香は大した発明である。渦巻きの美学の凝縮形と言っても大げさではない。火種が曲線的に動き、緑から灰色に色が変わり、灰色が下に落ちる。蚊はしばし逃亡している。蚊を追い払いやっつけるはずの煙を自分が大量に嗅いで吸いながら、渦巻きに見入って飽きない。蚊取り線香の煙の向こうには、もちろん蚊帳が吊ってあった。

ことばの冒険、ことばによる冒険

企画の指導をしている経験から、企画力が二つの重要な要素を基礎にしていることを疑わない。一つは着想であり、もう一つは言語である。いずれも欠くことができない。企画の手法や構成にはある種の「型」が存在する。わざわざ編み出さなくても、いくつかの型を習得して組み合わせてみれば体裁は整う。しかし、アイデアは変幻自在、アイデアを生み出す習慣を身に付けるには何度も試行錯誤の場数を踏むしかない。アイデアを得ても、次にことばをどうするかという難関が待ち受けている。アイデアはいいが、ことばが拙いために値打ちのない企画に成り下がることはよくある。

冒険

ありきたりなことばの表現に安住してはいけない。ことばは未知を照らす灯りである。ことばの担い手は冒険家でなければならない。ことばで表現することに勇気は欠かせない。人類はことばを発明してことばによって生き、そしてことばそのものを生きてきた。生きるとはことばの飽くなき冒険にほかならない。

冒険には行動が伴う。だが、ほとんどの行動は偶然の思いつきの所産ではない。ホモサピエンスの出アフリカ以来数万年、行動はしたたかに計画されたと考えざるをえない。計画はことばによって練られたはずである。ことばそのものが冒険であり、ことばこそが冒険という行動を可能にするのである。ことばをないがしろにして鈍感になり始める時、人は冒険心を失い行動の幕を引く。


ことばは止まらない。「ことばは継がれて絶えず、しかももとのことばにあらず。巷間に語られしことばは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」。聞き覚えのあるくだりに似ているだろう。『方丈記』をもじってみた次第である。

ことばは生まれ、ことばは消える
ことばが浮かばない、そして茫然とする
ことばを諦めれば、ことばは隠れる
ことばを疎外すれば、ことばがきみを疎外する
ことばに挑めば、ことばは生きる
やがてことばどうしが結ばれて
見えなかったものが見え始める

シミュラークル

〈シミュラークル(simulacre)〉は一応フランス語とされている。しかし、手元にある白水社の『ラルース仏和辞典』には載っていない。模倣、摸造、虚像のことだ。「コピー」と呼んでおく。

コピーは何かを真似たはずなので、「オリジナルなきコピー」はありえない。しかし、コピーのコピーのコピーのコピー……を繰り返しているうちに、元を辿れなくなるかもしれない。例の伝言ゲームの最終メッセンジャーの片言にオリジナルの微塵も残っていないのはよくあることだ。

美川憲一のマネをするコロッケ。そのコロッケのマネをする匿名x、そのxのマネをする匿名y……yがマネしているのはいったい誰か? 美川やコロッケでないような気がする。本物に似ているからコピーだとわかるのだ。コピーはリアリティに依存する。本物がさっぱりわからなければ、リアリティが失われ、コピーの価値は消滅する。


ぼくらが厚かましく知性と呼ぶ本質も、直接経験に根ざす類を除けば、シミュラークル知識群で構成されている。ぼくが知人から聞いた話をAに伝えたところ、後日ABにあたかもオリジナルのように話した。別の機会にぼくがBに同じ話をしたら、Bが「Aのネタをパクリましたね」とぼくに言った。コピーは一方通行のみならず、可逆したり循環したりする。

もはやオリジナルと照合できないほど劣化したコピーのコピーのコピーに成り下がるよりは、限りなく本物に近いコピーでありたいと思う。産地直送のシミュラークルである。

〈着想〉と題した抽象画を描いたことがある。何かからインスピレーションを得たはずだが、その何かが写真だったか文章の一節だったか覚えていない。シミュラークルのようで、シミュラークルとも断定できず、宙ぶらりんが気持悪い。と言うわけで、画像処理をしてみた。ぼくが描いた作品のコピーが誕生した。ほっとしている。

concepimento di un'idea 5724Katsushi Okano
Concepimento di un’idea (着想)
2005

Color pencils, crayon, pastel (part of image digitally processed)