ある「否定形の案内文」

ゼノンの論証のパラドックス。現実にありそうもないことを、さもありうるかのように論証する試みである。走ることが遅い者は、速い者よりも前を走っているかぎり、追いつかれず抜かれることはない……なぜなら足の速い者が遅い者がいた時点に着く時には、遅い者はすでにそこから先に行っているからである……というパラドックスがその一つ。

そんなもの一気に追い越せるではないかという反論をしても、ゼノンは言う、「足の速い者が追い越すためには、足の遅い者がすでに通過した地点にまず達しなければならない……しかし、その地点がどこであろうと、足の速い者が着いた時点で、足の遅い者は必ず少しでも先に行っているはずだ」と。

電光掲示板、アキレスと亀

上記のパラドックス物語を競演するのが「アキレスと亀」である。どんなに足の速いアキレスでも、いったんのろまな亀にハンデを与えたら最後、永久に追いつけない。先月関東に出張した折り、そんなゼノンのパラドックスを想起させる文言に出合った。東京駅の山手線ホーム、電光掲示板の電車案内文がそれである。

終点まで快速に抜かれません。

この普通電車は快速に抜かれない、それはちょうど亀がアキレスに抜かれないのと同じである……。まさか。


これは書かれた日本語である。決して声に出してみる日本語ではない。こういう文章を見ると、こう書かざるをえない事情があったのかと穿うがった見方をしてしまう。「終点にはこの電車が先着します」と肯定文で書かないのは、快速以外に別の何かが先着するからだろうか。あるいは、この電車と快速のどちらが早く終点に着くでしょうかというクイズに対する正解発表なのか。つまり、この電車は快速に抜かれないので、終点に着くのはこの電車です、というつもりか。

「次に6番線にまいります電車は……」とか「次の列車は……」に慣れているぼくには、「今度6番線にまいります電車は……」や「今度の列車は……」に違和感を覚える。それでも、何度か聞いていればなじめそうなので、「次」か「今度」かどっちがいいかなどとも考えないし、「今度」の揚げ足を取ってやろうなどとも思わない。慣れの問題であるから。

「快速に抜かれません」には生涯慣れることはないだろう。「この電車は○○駅で快速通過待ちをします」と聞いていつも悔しがる乗客への励ましのつもりなのに違いない。「お客さん、いつもいつも後から出る快速を先に行かせてごめんなさい。でも、この電車はね、快速に抜かれませんよ。誇らしく優越感を抱いて終点までどうぞ」というつぶやきに見えてきた。

『出発』とランボー

飛行機雲1

鮮やかに直線を引く飛行機雲を目にした。飛ぶ機体も、背景に青をいただく白という図も何度も見上げてきた。しかし、いつも同じようには見えない。季節の空気で気配は変わるし、しばらく続く残影も気分によって変わる。すべての飛ぶ飛行機は「着陸」を目指す。つまり、ある地点に到着する。高空にある飛行機を見るたびに「どこへ行くのだろう?」と素朴に思う。けれども、すでに離陸したからこそ着陸がある。「どこから来てどこに向かうのだろう?」と想像すれば、出発と到着が一つにつながる。

若かりし頃に読んだアルチュール・ランボーの一篇を連休中にふと思い出した。もちろん、半世紀近く前の詩を丸暗記しているはずもない。だが、偶然とは不思議なもので、この飛行機雲を見上げる直前に、古本屋で懐かしいランボー詩集に巡り合い手に入れていたのである。買ってはいたが、数冊のうちのついでの一冊であり、ページすらめくっていなかった。飛行機雲を見たその場では「離着陸」を連想し、もう一度写真を見てランボーのイリュミナシオンの中の『出発』がよみがえり、そして詩集を買ったことを思い出したのである。早速その一篇を探した。フランス語と日本語の併記で紹介されている。

DÉPART

Assez vu. La vision s’est rencontrée a tous les airs.
Assez eu. Rumeurs des villes, le soir, et au soleil, et toujours.
Assez connu. Les arrêts de la vie. ―― O Rumeurs et Visions!
Départ dans l’affection et le bruit neufs!

出発

いやほど見た。幻はどんな空気にも見つかった。
いやほど手に入れた。夜ごと、町々のざわめき、陽が照っても、いつもかもだ。
いやほど知った。かずかずの生の停滞。 
――おお、ざわめきと幻よ!
新たなる愛情と響きへの出発!


フランス語は話すのは苦手、聴くことはさらに苦手である。苦手なのはほとんど口と耳を使って学習してこなかったからだ。それでも、辞書があれば、英語とイタリア語からの連想も交えて、ある程度は読み取れる。まったく偉そうなことは言えないが、この詩のフランス語はさほど難しくない。しかし、この訳で原詩のニュアンスが伝わっているのだろうか。上田敏ならどんなふうにこなれた日本語で紡いだだろうかと想像した。好奇心から他にどんな訳があるのか調べてみた。『ランボオ』について書いている小林秀雄の訳を見つけた。

見飽きた。夢は、どんな風にでも在る。
持ち飽きた。明けて暮れても、いつみても、街々の喧噪だ。
知り飽きた。差押えをくらった命。――ああ、『たわ言』と『まぼろし』の群れ。
出発だ。新しい情と響きとへ。

これはどうなんだろう。先の訳よりも切れ味があるような気はする。しかし、こうして二つの訳を比較してみると、同一の原詩を訳したとはとても思えないほど感じるものがかけ離れてしまう。もう一つ別の訳がある。

見あきた あるだけのものは もはや見つくした
聞きあきた 夜となく昼となく いつもお定まりの町々の騒がしさ
知りあきた 生命もたびたび差し押さえられた ――ああ やかましい雑音と仇な幻
出発だ 新たな情緒と新しい雑音のうちに

どの訳に最初に出合うかによって詩人に抱く印象が変わる。そして、もし最初に読む訳詩だけしか知らずにいたとしたら、決定的である。詩には小説の翻訳以上に訳者の思いが反映される。詩人と訳者の合作を読んでいるようなものだ。


ランボーの署名が残っている。その直筆に幼さを感じる。それはそうだろう、37歳で生涯を終えたランボーが詩作したのは156歳からのわずか数年間だけだったのだから。誰もが認める早熟の天才。そのサインの筆跡が示す通りの幼さを見せながらも、ランボーは奇跡的に現れて、「不思議な人間厭嫌の光を放ってフランス文学の大空を掠めた(……)」(小林秀雄)、そして、不気味な空気を詩編に残して、彼は消えた……。

早逝の詩人ゆえ当然寡作である。全詩を読み尽くすのに、念には念を入れて仏和で味読したとしても、一日あれば十分である。ぼくらの世代のちょっとした文学青年なら十代か二十代前半に読んでいる。とうの昔のことだからすでに本を処分しているかもしれない。ぼくもそんな一人だ。半世紀近くを経て偶然手元にあり、今ページが繰られる。そう、あの飛行機雲から『出発』を思い出した偶然の成せる業である。ところで、最近の若い人たちはランボーを読むのだろうか。

洋画の原題とその邦題

「ゴールデンウィーク」なる和製英語。類推の域を出ないが、このことばはぼくが気づく前から存在していたようである。むしろ、大型連休のほうが後々になって耳に入ってきたような気がする。そのゴールデンウィーク真っ只中である。毎年この時期はどこにも出掛けない。たいてい冬服から春夏服への衣替えをしているか室内の模様替えをしている。二日間そんなふうに過ごし、隙間に読書をしたりしていたが、退屈してきたので映画館に出掛けることにした。午前940分始まり、一日一回の上映のみなので、朝8時半に自宅を出た。

間奏曲はパリで

フランス映画『間奏曲はパリで』。ここで作品紹介するつもりはない。特に映画マニアでもないから俳優のことはよく知らない。仮に作品がハズレだったとしてもすでにシニア割引の特権を持つから、さほど後悔することはない。鑑賞しての印象は、後悔どころか、かなり満足して映画館を後にした。特にパリを舞台にした後半の1時間には見覚えのある光景が多く、懐かしく記憶を辿ることができた。

ところで、原題は”La Ritournelle“である。この単語はぼくの仏和辞典(白水社)には見当たらない。これに近い単語がイタリア語にあるのを思い出し、伊和辞典で調べてみたら“ritornèllo”だった。音楽では「リフレイン」という意味で使われる。この語が外来語としてフランスで使われるのだとしても、間奏曲という意味に転じるはずはない。伊和辞典の二つ目の意味は「決まり文句」。リフレインとは繰り返しのことだからうなずける。


決まりきった日常生活にふと倦怠を感じた主人公の五十代女性。彼女が田舎からパリに出るのを寄り道ととらえ、二日間息抜きする様子を生活の幕間に流れる間奏曲になぞらえた……音楽が一つの伏線になっていることもあり、この邦題に決まった、とぼくは勝手に想像している。だが、元々は「リフレイン」のことだから、息抜きよりも「来る日も来る日も決まりきった作業の繰り返し」という点が主題なのだろう。

題名は興行の成否にも影響するし、名作として残るためにはそれなりの表現の格も重要なのに違いない。原題の文言に忠実であろうとするか、作品の主題を生かす工夫をするか、邦題の表現づくりは大いに悩む仕事であると想像できる。過去の洋画の題名をいくつか思い出す。

“Taxi Driver”は『タクシードライバー』、“Love in the Afternoon”は『昼下がりの情事』。いずれも原題に忠実な邦題である。

『俺たちに明日はない』は原題“Bonnie and Clyde”からかけ離れている。ボニーとクライドの名前が消えた。

数年前に観たフランス映画『オーケストラ』の原題は“Le Concert”。コンサートとオーケストラは正確には違うが、これはオーケストラのほうが作品に合っていたと思う。

イタリア映画“Il Papa di Giovanna”は、直訳すると「ジョヴァンナのパパ」だ。これが『ボローニャの夕暮れ』に化けた。

最近観たイギリス映画に“Le Week-End”がある。これだけだと週末にどこに行くかわからない。邦題は『ウィークエンドはパリで』となり、今朝の映画の題名によく似ている。いずれの原題にもない「パリ」を邦題に入れて女性ファンを増やそうという狙いに違いない。実際の旅でも映画の舞台でもパリの吸引力は強い。

心と言葉と

漢字の「言葉」を使うことはめったにない。若い頃に何かの拍子に刷り込まれてしまったのか、言葉と書くと「ことのは」という響きとともに情念が勝るように感じてしまう。思惑に反して文脈の情念が強くなりそうな時、「ことば」と書き表わすか、いっそのこと「言語」と言い換えるようにしている。ここでは敢えて漢字の「言葉」を使う。理由は簡単で、近くの寺院の今月前半の標語「心病むとき言葉が乱れる」を引用して文を綴るからである。実物は達筆でふるわれていたが、ここでは文意に則して書体に「ゆらぎ」を加えてみた。

心病むとき言葉が乱れる

命題の形をとる標語である。命題には証明がつきもので、こういう形式に出くわすたびに真偽のほどをチェックしたくなる。命題「AならばBである」の是非を考え始めたものの、行き詰まったり堂々巡りしたりして判然としない時に、いい方法がある。命題の対偶から眺め直して検討するのである。「AならばBである」の対偶は「BでないならばAではない」だ。したがって、「心病むとき言葉が乱れる」の対偶は「言葉が乱れていないとき心は病んでいない」である。命題が真ならその対偶も真という論理法則があるので、対偶が真なら命題も真ということになる。

ところで、命題の証明に先立って術語の定義を明確にしなければならない。法律ではないが、証明にあたって気配りすべき暗黙の約束事だ。現場ではなく机上で物事を考えるなら、個々の語の意味を疎かにしてはいけない。しかし、この標語では定義すべきキーワードは「心」、「病む」、「言葉」、「乱れる」と手強いものばかり。しかも、短文命題であるから、用語の意味を明らかにすることと命題を証明することがほぼ同じになってしまいそうである。と言うわけで、回りくどく書いてきたが、対偶や定義から考えるのを諦めて、標語通り素直に「心が病む⇒言葉が乱れる」を検証することにした。


〔心病む〕
心とは厄介な概念である。心がどこにあるかについてはいろんな見解がある。「きみ、心の問題だよ」と言って胸のあたりを指差す人がいるが、そこにあるだろうと想像できるのは乳房か心臓である。まさか〈乳房イコール心〉や〈心臓イコール心〉はありそうもない。しかし、もしその人が指差しもせずに「心はね……」と言うなら、この心のありかはいったいどこなのだろうか。現在、最も有力なのは〈心イコール脳〉であり、ぼくも同意する。心とは脳の神経機能や作用の内的現象的な捉え方(表現)という見方だ。したがって、心病むというのは、脳の神経機能や作用が健全でない状態を意味する。

〔言葉が乱れる〕
脳が演出した心がそんな状態にあったとしても、もしきちんと書かれた原稿を棒読みしていれば、一応言葉は乱れていないように聞こえる。では、きちんと書かれたとは何か。それは、規範文法上不適切な言葉の使い方や誤用が見当たらないということだ。だが、寺院の今月の標語が規範文法に照らして言葉の乱れを指摘しているはずもない。おそらくもっと単純な辻褄の合わない言葉遣いや論理療法的な意味での思考表現のズレに近いと思われる。つまり、言っていることが考えや現実に一致していない場合のことである。こんな場合、言葉は曖昧になり、極端になり、過激になり、粗野になり、乱暴になる。

〔心と言葉〕
心を脳だとすれば――そして、それが健常でないならば――感じることや考えること、さらには現実を観察し認識するなどの処理は困難になる。言語はそんな処理に欠かせないから、言葉の用い方にも乱れが生じる。言語を司る脳が病んでいるのなら、言語を乱れなく司ることができなくなるのは当然である。ここに到って、「心病むとき言葉が乱れる」は類語反復であることが分かる。ついでに対偶である「言葉が乱れていないとき心は病んでいない」に戻ってみよう。常識的には成り立っていそうだが、一つ条件を付けなければならない。それは、その言葉が誰かに強制されたものではなく、自発的に用いられていることだ。この条件が担保されるなら、この類語反復標語はどうやら真らしいと言えるだろう。

最後になって書くのも気が引けるが、心が病んでいるとか言葉が乱れているとかを判断し指摘するのは、自分自身ではなく、他人である。そう判断し指摘する他人が「心病み言葉が乱れている人」ならば、心や言葉のありようについて、ぼくたちはその真相をどのように知ることができるのだろうか。

「斜語録」の愉しみ

手帳サイズのノートに「採集したことば」を記録している。そんなメモがノートの約5分の1 を占める。ほとんどがおもしろおかしい表現や変な日本語、時々粋な言い回し。単純に愉しいから続いている習慣だ。ごく稀だが、たった一つの単語や一文を取り込むだけなのに目からウロコが落ちることがあり、大袈裟な言い方をすると、思考の地場が動くことさえある。仕事柄、新しいコンセプトを新しい表現で包み込まねばならないから、造語やネーミングのメモもかなりある。一部のメモを元に、昨年4月までは本ブログで〈語句の断章〉と題して20編を書き下ろした。

ところで、あるテーマについて考えていると、結局ことばについて考えていることに気づく。ぼくにはことばに自分の経験と解釈を重ね合わせて思い巡らす傾向があるようだ。本を読んだり、どこかに出掛けて誰かと話をしたりする。そのつど、ことばとことばに関する話を手を加えずに拾い、一部脚色したり仮構したりして書き留める。ある時は真面目に、また別の時にはふざけて(たとえば、権威ある辞書の語釈に異議申し立てしたり)。ノートには在庫がどんどん増える。長文を綴るに値するものはないが、在庫を捌きたいという思いがある。それが〈語句の断章〉だった。

岡野勝志の斜語録

さて、そういう思いを形にするのは簡単だが、〈語句の断章〉に代えて今度は何と呼ぼうか。ビアスにあやかって〈悪魔のランダム辞典〉とでも称するかと考えたが、二番煎じにして短絡的である。それに、必ずしも正統定義に対する逆説定義ばかりでもない。あれこれと思案した挙句、正語録という定立に対する、少々謙遜気味の反定立として〈斜語録しゃごろく〉なる造語に辿り着いた。うん、これはいい、と一人にんまりしている。


古今東西、人はモノを遊び道具とし、モノで遊びに興じてきた。しかし、どんなモノにも負けないほど遊びの対象となり、また遊びのきっかけを提供してきたのが、おそらくことばだろう。ことばで遊んできたのが人類だ。おそらく、モノの融通性に比べて、ことばが圧倒的に万能であり変幻自在に遊べたからと思われる。ことばは多義であり、そこに個人の思い入れも反映されるから、際限なく遊びの想像を広げてくれるのである。

「ことば遊び」という言い方があるが、敢えてそう言わなくてもいい。深遠な思考と切り離した次元でいい、ことばそのものの意味を探ったり軽妙に扱ったりすることが、すでにことばを遊んでいることにほかならない。つまり、日常的にぼくたちが生活や仕事の場面で聞き、読み、語り、書くことばは、ほんの少し斜めに構えて眺めてやるだけで、遊びとして成立してしまう。しかも、斜めに構えることによって、何がしかの複眼視点が得られることになる。

ぼくには、自他ともに認める、ことばの揚げ足を取る性向がある。正確に言うと、証拠や根拠に乏しい意見に与することができない時、その意見を表わしていることばの揚げ足を取るのである。弱者が発することばも対象になるが、その場合は、意見が崩れかけていることに気づかせてあげるためである。当の本人はことばの揚げ足を取られたと思うかもしれないが、あくまでも誠意のつもりである。どうでもいいことであっても、知らん顔せずに、なるべく面倒を見るようにしている。その時は多分に遊び心で揚げ足を取っている。なお、強者に対しては、揚げ足どころか据え足も取ってやるぞと闘志を燃やす。腕力なき者のペンと文によるせめてもの小さな抵抗である。

「傾聴」が誤解されている

仕事や打ち合わせの場面で相手が虚ろなので、「きみ聴いている?」と尋ねる。相手が「はい、聴いています」と答える。それでも、どうも聴いているようには思えない。親しい間柄なら、問いの一つや二つを投げ掛ければ理解のほどを確かめられる。しかし、初対面の相手やさほど親しくもない相手に対しては、確認質問はおろか、「ぼくの言っていること、聴いていただいていますか?」などと聞くこと自体が失礼だ。だから、聴いている姿勢を示す相手に向かって話し続けるしかない。相手が聴いてくれていると信頼して、ぼくは諄々と話し続ける……。

傾聴?

傾聴ということばを最初に知ったのは討論術の勉強を始めた19歳の頃である。傾聴力という表現で出合った。身近にある辞書で調べてみればいい。傾聴とは「一心に聞くこと」や「熱心に聞くこと」などの語釈ばかりである。もっとひどいのになると、「耳を傾けて聞くこと」とある。わざわざ説明してもらわなくても、「傾聴」という語そのものに「耳を傾ける」という意味があるではないか。それはともかく、傾聴には「まじめに、誠実に」という言外のニュアンスが漂う。傾聴とは、「まじめに一所懸命に聞く」という程度のやわな行為だったのか。

傾聴が誤解されている。言い過ぎだとすれば、都合よく解釈されていると言い換えよう。傾聴が単純に一方的に聞くことだと思っている者は、人の話をまじめな顔をして聞き、時折りうなずく。だが、黙して語らず。相手が話し終わると今度はあたかも攻めに転じるかのように一方的に喋り始める。ここにおいて、聞く側と話す側は暗黙のうちに役割を分担する。一方的なスピーチが交互に足し算され、双方向に交わる対話というシーンは現れない。傾聴だけをことさら強調しても、人と人との対話は成り立たない。傾聴のためには、まず傾聴に値する発言内容が前提となるはずだ。


どうやら傾聴は本来の意味から分岐して、いくつかの新しい意味を持つようになったようである。たとえばカウンセリングにおいては、相手理解による、相手自身の理解促進であり、行動のサポートである。また、傾聴ボランティアにおいては、割り込むことなく最後まで話を聞き、考えを理解し思いを受け止めて共感することである。これらの傾聴は、傾聴する側に吐露する相手を受容する余裕があることを特徴とする。自分に困り事や悩み事があれば人の話など聞いてはいられない。

「誤解されている傾聴」とは、もちろんカウンセリングや傾聴ボランティアのことではない。仕事の場面で、あるいはゆゆしき討論の場面で、聞き上手という美名のもとに傾聴を単に頷くことだとしている姿のことである。傾聴は英語の”critical listening“や”active listening“の翻訳と思われる。敢えて訳さなくても、”listening“は聞き流しなどではなく、それ自体が相手の言っていることを理解しながら聴くという意味である。つまり、「批判的に(フィルターをかけながら)脳を活性化して聴く」ということにほかならない。

相手の話していることを分析し判断しなければ傾聴にならないのである。判断をしたり批判したりしていては、理解に支障を来すではないかという反論がある。しかし、自分に対して発言されていることを白紙状態で受け止めることは、聞き流しに等しいではないか。発言内容を判断し批判するのは対話相手の責任として当然の姿勢なのである。聴くとは自分の考えとの照合作用である。海苔の養殖に「のり粗朶そだ」と呼ばれる木や竹は欠かせない。なければ海苔はまつわりつかないのだ。人の話に対しても「脳の粗朶」がなければ、話は無機的に浮遊するばかりで輪郭を形づくってくれはしない。判断や批判というのはこの粗朶に相当する。粗朶でしっかりと意見を聴く。甘ったるい聴き方をしていては相手に失礼なのである。

ことばの揚げ足取り

コミュニケーションは意味を共有することである。わかりやすく言えば、発信者が伝えようとしたメッセージの意味が受信者によって理解されること。もちろん、伝えるにはそれなりの技術が必要であり、理解するためにはそれなりの〈参照の枠組み〉が備わっていなければならない。残念なことに、コミュニケーションという人間の根幹的活動は、いのちに関わるにもかかわらず、いつも十分に機能してくれるわけではない。表現をよく練って伝えたつもりが、思いのほか伝わらないのである。

公園のお願い(注意書き)

身近におもしろい例があった。遊び心で揚げ足を取ってみよう。標識はいきなり「お願い」という見出しで始まる。お願いとは誰かに丁寧に依頼する表現だ。はたしてここで伝えたいことはお願いなのか。お願いなのに、三行目に「禁止します」と強気に転じたのは、文を書いているうちに気が変わったのか。しかし、二つ目の文章は「ください」で締めくくっており、これはどうやらお願いのようである。

ここは公園である。お願いしている当局は「ここが公園である」ことを人々が分かっているという前提に立っている。さもなければ、サッカーやゴルフ、野球などが「いつでもどこでも誰にでも周囲に迷惑をかける球技」ということになる。言いたいことは、「公園でのサッカー、ゴルフ、野球などが迷惑である」ということだ。迷惑という表現はやや甘く響くが、「危険」とまで言い切る英断はできなかったようである。


さて、「サッカーやゴルフ、野球など」の「など」が曲者である。読み手たちの良識に甘えていることは明らかである。なぜなら、「など」に先立つ具体例(ここでは三つのスポーツ)から、読み手が他の禁止されるかもしれない球技を類推しなければならないからだ。周囲に迷惑となる球技はいくらでもあるだろうが、三つだけ挙げて「その他は常識的なご想像にお任せします」ということなのである。おそらくラグビーはダメだろう、ドッジボールもダメだろう、しかし、バドミントンはどうなのかとちょっと迷う。実際、この公園ではゲートボールは許されている(と言うか、推奨されてさえいる)。棒を用いるという点では野球に近く、硬い球を転がすという点ではゴルフに近いにもかかわらず。

二つ目の文章では「など」が消える。ずばり「犬」であり、犬だけに言及している。あなたたちが鎖を外して放し飼いするのは犬しかないでしょ、と決めつけている。羊や牛のことは伝達者の念頭にない。当局にとっては牧畜対象の動物などまったく想定外である。ひねくれ者はライオンやハイエナなら放し飼いしてもいいと解釈するかもしれないが、当局にとっては獰猛な動物などは論外なのである。「犬など」と書く必要をまったく感じなかったのは、公園で散歩をするのは人間と犬と相場が決まっているからだ。

周囲、球技、放し飼いには漢字が使われているが、迷惑は「めいわく」とひらがなで、鎖は「クサリ」とカタカナで、それぞれ表記されている。この標識の文章を読みこなすには小学校低学年の国語力では無理だろうから、おそろく小学校高学年以上を対象にしている。迷惑と鎖という漢字を読めないのではないかと危惧したのだろう。一つの配慮ではある。但し、日本語だけの表示であるから、お願いの趣旨を理解してもらう相手に外国人が含まれないのは言うまでもない。


ことばは難しい。一人で呟いたり詩歌を紡いでいる分にはなんとか扱えるが、誰かに意図や意味を伝えようとギアチェンジしたとたん、別の発想や表現や構造が必要になってくる。何から何まで伝えようとすれば、意に反して同語反復や疎通不全を招いてしまうのである。細やかなニュアンスを捨てて大意のみを伝えきるという覚悟がいる。だが、「公園内では球技禁止。動物の放し飼い禁止」と贅肉を削ぎ落として表現しても、言外の例外候補が無数に残る。球を使わないスポーツなら許容され、鎖にさえつないでいれば象を連れ込んでもいいのか……という具合に。

ことばの揚げ足を取り意味を逆手に取るのは詭弁である。注意書きなどは詭弁の前では非力なのである。コミュニケーションの協調原理は発信者側に強い負荷をかける。だからこそ、受信側に対してもメッセージ理解への協調努力を求めなければならない。つまり、「言及していない事柄が許容されているわけではない」ことぐらいわきまえるべきなのである。

陳腐なことば

『ニッポン景観論』(アレックス・カー)を興味深く読んだ。とりわけ日本人がこよなく愛するスローガンの話がおもしろかった。日本人はスローガンが好きであり、そのスローガンにお決まりの無難なことばを使いたがる。「ふれあい」を筆頭に、「文化」「交通安全」「人権尊重」「世界平和」「環境にやさしい」……などのキーワードが街を覆い尽くす。これに、あってもなくても誰も見向きもしない注意書きが加わり、街の景観価値を台無しにしてしまっているのである。

ダヴィデ像1+2

上の写真は同書から。左が本家フィレンツェのダヴィデ像と佇まい、右は「もし日本にダヴィデ像があれば」という仮定で著者が合成したもの。いや、これは仮想などではなく、間違いなくこうなると思われる。実際、「まちをきれいにしましょう」というスローガンが街そのものよりも目立っている景観地はいくらでもある。

本来五感に響くはずだった景観。それが、たった一つの注意書きで色褪せる。同じことは新しい考えについても言える。斬新な表現に魅了される一方で、たった一つのことばでメッセージが陳腐化する。ぼく自身、ありふれていて、しかも手垢まみれのことばを使った直後にハッとすることがある。ことばなら気づくからまだいい。それが発想や考えだったら、ハッとがぞっとに変わる。

他人の発想や考えがたとえマンネリズムであっても、なるべく領域侵犯しないようにしている。しかし、企画という職業柄、一緒に仕事をする仲間の陳腐なことばには神経センサーがつい反応してしまう。この時、自分自身がさっき使ったお定まりの文句にはひとまず目をつぶり耳をふさいでいるのであるが……。


言うまでもなく、陳腐化した表現や常套句を使わずに言語活動することは不可能である。けれども、そうしたことばを使いながらも、表現を組み合わせたり文脈上の工夫を凝らしたりして少しでも新鮮味を求めるべきだろう。安易に妥協してはいけないと自らを戒める一つの教えを思い出す。「新しき酒は新しき皮袋に」がそれだ。この名言自体が常套句になったきらいがあるので、やや複雑な気分で引用することにする。

「新しい葡萄酒を古い皮袋に入れようとはしない。そうするなら、皮袋は破れて酒は流れ出て、袋もまたすたれてしまう。新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば酒も袋も保たれる」
(新約聖書 マタイ福音書)

この故事は転じて、今では一般的に、新しい考え・思想には新しい表現や形式が必要であるという意味で使われる。つまり、伝えたい「何か」に新しさがあるのならば、陳腐なことばでまかなってはいけないという教訓である。

キーワードの一つ、「文化」ということばの陳腐性には当然ぼくも気づいている。何とか文化会館や何とか文化講座などあちこちで顕著である。これをカルチャーと呼び換えても平凡さは変わらない。文化ということばを使うたびにいくばくかの後ろめたさを感じるし、代替してくれそうな表現に辿り着けないのをもどかしく思う。もしぼくの伝えたいメッセージに文化以上の価値があり、それが従来の文化の概念と一線を画するのなら、文化で間に合わせてはいけないと思う。なぜなら、他人はありきたりの文化のことだと思ってしまうからである。けれども、やむなく文化で済ますことが多い。これは、ある種の言語的怠慢だと自覚している。

ドーナツ、あるいは言い換え問題

『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本は書評で知っていた一冊。書店で「ちら見」だけして買わずに帰ってきた。答えの分からない問題――あるいは既存の答えが存在しない問題――に対して、自ら解を捻り出そうという話。決して嫌いなテーマではないが、まあ読まなくてもいいだろうと判断した次第。

この命題は「ドーナツに穴があること」を前提にしている。ドーナツとは「小麦粉に砂糖、バター、卵などを加えてね、球形にして油で揚げる洋菓子」であり、穴の有無は枝葉末節のバリエーションに過ぎない。したがって、正確を期すならば、「リングドーナツの穴だけ残して食べる方法」とすべきである。昨日の朝にぼくがつまんだクリームドーナツには穴がなかった。最初からないものを残すことはできない。この本を買わなかった理由は、この命題に先立って「ドーナツとは何か?」が問われるべきだと思ったからである。

情報は、深層においてではなく、表層で受発信されるから、定義、すなわちことばの言い換えや表現に強く依存する。「太陽」と言うか「お日様」と言うか……社長と言うかCEOと言うか……「信号は赤だった」と点情報をぽつんと言って終えるか、それともその点情報から次の展開である「車は止まった」に目を付けるか。ことばの目の付け方がイメージを左右する。「つちやたび店」→「月星ゴム」→「ムーンスター」という社名の変遷は、情報の衣替えでありイメージの変容でもある。モノには拡張の限界があるが、ことばはいくらでも融通がききイメージを広げてくれる。

どんなことばにも多義が備わっているので、一語によって複数のよく似たモノや思いや状況の表現をある程度まかなうことができる。しかし、類語辞典をひも解けば、おびただしい類語が掲げられている。手元の類語辞典で【終わる】を引けば、品詞変化も含めて60ものバリエーションが紹介されていた。このような言い換え(あるいはパラフレーズ)が起こるのは、よく似た概念グループをわずか一語で束ねることがままならないからである。もちろん、類義語には共通の概念が横たわっている。たとえば空想と想像という二語には「いま知覚できていないことを思い浮かべる」という概念の重なりがある。その一方で、相互に代替不可能な固有の意味がある。たとえば、想像は経験を踏まえるが、空想は経験を必要としない、等々。その意味を使い分けねばならないからこそ、いずれの語も存在するのである。


ドーナツ

話をドーナツに戻そう。

「物事を体系的に扱おうとするなら、定義から始めよ」(キケロ)にならえば、まずはドーナツの言い換えに挑むことが問題解決の端緒になるはずだ。ドーナツを指し示して「これは何?」と無作為に人を選んで尋ねてみよう。

「ドーナツです」(現実主義的な一般人)
「あ、穴だ!」(異端児)
「輪以外の何物でもない」(抽象論者)
「穴が空いている洋菓子」(合理主義者)
「いわゆる一つのリングドーナツですねぇ」(長嶋茂雄)
「ドナーツ、大好き」(幼児)
「これはUFOに間違いない」(妄想家)
「周縁存在と中心不在」(懐疑的形而上学哲学者)
「○○堂の商品だね」(オヤツオタク)
「甘いもの、苦手なんですよねぇ」(意思疎通不全者)
「ドーナツという言語と写像関係にある世界の要素」(ヴィトゲンシュタインの末裔)

「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」と聞いて最初に浮かんだのが、何十年も前の中田ダイマル・ラケットの漫才の一コマである。

ダイマル 「ぼくはレンコンの穴が苦手でねぇ」
ラケット 「ほう、そしたらレンコンは食べへんのか?」
ダイマル 「いや、穴だけ残して食べてる」

正確ではないが、だいたいこんな感じのボケとツッコミだった。これで十分に答えになっているではないか……というのがぼくの直感である。穴が苦手であるなら、「ドーナツの穴だけ残して(ドーナツを)食べる」という命題自体がすでに一つの方法を示唆している。だが、穴が好きでたまらない人間にとっては穴を残すのは忍び難いに違いない。ドーナツも好き、穴も好きという者にとっては証明意欲に火がつく命題なのであろう。言うまでもなく、ドーナツにも穴にも関心のない者にとってはまったく響かない命題である。

時間とお金

時は金なり

「時は金なり」がテーマではないが、人口に膾炙かいしゃしたこの諺から話を始めることにする。

通常の感覚では時と金は別ジャンルである。別の概念なのに、同じだと言って知らん顔している。ベンジャミン・フランクリンが“Time is money.”と言ったらしい。ポツンとつぶやいたのか、ある文脈の中で語ったのかはわからない。仮に後者であったとしても、独立した主張として一人歩きして今日に到っている。

「時は金なり」に限らず、そもそも諺のほとんどは主張しか唱えない(「良薬は口に苦し」、「急がば回れ」、「雨降って地固まる」、等々)。もし諺に理由や説明を加えたら簡潔性が失われて野暮ったくなる。諺は覚えやすいのがいい。証拠も論拠も伴わないで言いっ放しだから、必然人によって解釈も変わる。シンプルな主張ゆえに、かえって明解性を欠く。したがって、どのように解釈されてもしかたがない。

「時は金なり」とは、①時間は貴重である、②時間は金銭と同等に価値がある、③金銭を浪費してはいけないように時間も浪費してはいけない、④ゆえに、時間を有効に使うべきである……こんなふうに解釈しなければならない理屈はない。時と金をイコールで結ぶことに馴染めないので、ぼくはこの命題には諸手を挙げて賛成しかねる。

諺に親しむのはいいことだ。しかし、主張だけ言い放って証拠や論拠に言及しない癖をつけてしまうのは考えものである。経験と知識が有機的に熟成もしていないのに、いかにも何事かがわかったかのように短文にメッセージを凝縮させるべきではない。また、若い頃は、諺のような切れ味を自分の弁舌に求める必要もない。冗長であることに居直ればよい。明快さには冗長さがつきまとうものだ。論理的に明快であるために、まずくどいほど多くを語らねばならないのである。


閑話休題――。「時は金なり」ではなく、冷静に順接の接続助詞「と」で時と金をつなぎたい。つまり、「時間とお金」である。冒頭で時と金は別ジャンルと書いた。但し、特徴的な共通点が一つある。時間もお金も約束事によって成り立っているという点だ。時に目盛りなどないが、みんなで「時を刻むこと」を取り決めた。こうして時間は時計や表示板というモノで認識できている。お金も紙幣や硬貨というモノで認識できるが、実は、これも価値につけた目盛りにほかならない。時も価値も見ることも触ることもできない抽象的な概念なのである。

「時=金」という主張が成り立つとするならば、いずれも取り決められた概念であるということ、そして、社会的に取り決めたのであるから、そこに何がしかのルールがあるということ、したがって、そのルールを守らなければ信用基盤が崩れるという点においてこそである。

日程を決める、期限を守る……ぼくたちは未来の時間を今日取り決める。未だ見ぬ将来の約束を今日結ぶのである。双方が同じ時間感覚を持つことはきわめて重要なのだ。約束を破れば双方の関係がひずむ。同様に、価値交換の単位であるお金は、支払う側にとっても受領する側にとっても、生活や仕事を成立させるための糧となり信頼の記号として機能する。時間とお金はつねにトラブルの原因をはらむと同時に、幸福や善にとって欠くべからざる要素なのである。

時間にルーズな者はお金にルーズである。お金にルーズな者は時間にルーズである。「決められた日に支払わない」という言い方には、時間とお金のルーズさが同時に表れている。この点においてのみ、「時は金なり」が成り立ち、同時に「金は時なり」とも言い得るのだろう。