ことばが考えを実現する

はじめに明快な考えがあって、それをことばで伝達し共有しているという通念がある。しかし、日々のコミュニケーションを振り返ってみれば、この通念の誤りに気づく。考えはそう易々と伝達され共有されるものではない。はじめに明快な考えがあるのなら、なぜ明快なはずの考えが言語化された後に意味不明になってしまうのか。

実は、ここに言語の思考に対する優位性という真実が潜んでいる。言語は思考の手段やしもべなどではなく、むしろ言語のほうが「思考らしきもの」を明快な思考にしているのだ。言語以前に明快な思考は存在しない。思考は言語に促されて生成し、ことばのやりくりによってはじめて明快になる。『知覚の現象学』からメルロ=ポンティのことば。

「思考がことばを操るのではなく、ことばが思考を実現する」

メルロ=ポンティは「意味は存在するものではなく、生成するものである」とも言う。ぼくたちはわかり切っていることを伝えることもあるし、十分にわかっていないことを手探りで伝えようとすることもある。しかし、前者の、自分でわかり切っていることですら、相手には違った意味として伝わってしまうことがある。はじめに明らかな意味があるのでもなく、それがそのままことばで伝わっているわけでもないのだ。意味は自分と相手との間でそのつど見い出され生まれる。意味は両者で共有されるまではどこにも存在してなどいない。

思考を才能に言い換えても、言語の優位性は揺るがない。『学問の方法』の中でジャンバッティスタ・ヴィーコは言う。

才能インゲニウムは言語によって形成されるのであって、言語が才能によって形成されるわけではない」

言語を形成するのが才能だと仮定してみよう。では、その才能は何によって形成され高められるのか。もし才能はじめにありきなら、言語は一握りの天賦の才だけに授けられ、ほとんどの人間は今のようにことばを運用することはできなくなってしまう。やはり言語が才能を形成すると考えるのが自然である。何がしかの思考と人それぞれの才能、その他ありとあらゆる資質は言語によって形成される。考えなくても才能がなくても何とかなるが、言語を放棄しては人間関係も生きることも立ち行かなくなる。


ヴィトゲンシュタインの入門書として書かれた『はじめての言語ゲーム』(橋本大三郎)に次のくだりがある。

「私たちが言葉を話せるようになるのは、言葉を理解したからであって、文法を教わったからではない。(……)そもそも言葉がわからないと、文法を教わることができない」

先に書いた言語と思考の関係は、この言語と文法の関係にも当てはまる。最初に文法があってことばを習得しているのではない。幼児期の言語形成過程を見れば自明の話である。ろくに考えもできず、才能の萌芽すらなく、母語の文法の何一つも知らずに、幼児はことばを必死に聞き、ことばらしきものを必死に発しようとする。ちょうどヒナが飛ぶことの意味を知らないままに羽ばたこうとするように。

このような言語習熟・習得のプロセスや背景にある考え方は、言語以外の学習を下支えしている。思考や才能のみならず、問題解決や情報処理や計画・構想などもことばの技法にほかならない。どんな学習対象であっても、言語の学び方からかけがえのないヒントとインスピレーションが得られるはずである。

以上のように言語の優位性を説いていくと、思考や才能や文法を実現する言語自体はどのように根づき息づくのかという疑問にぶつかる。しかも、言語は共通性と同時に人それぞれの固有性も特徴とする。言語の固有性はどのように形成されるのだろうか。おそらく個人的な経験によってである。ことばは経験と密接につながって個性的になり豊かになり息づいてくる。森有正は『「ことば」について』の中で次のように語る。

「(……)経験ということが問題になるその発端からすでにことばそのものなのである。我々にとって、現実そのものが経験を定義しているが、その経験はことばを定義していると言えるかもしれない。また経験はそういうことばを通してのみ成立するとも言える。(……)経験そのものがことばによってはっきりして来る。ことばは経験とは別の、単なる手段ではなく、もっと経験にとって実質的な何か、我々がそれを操作し、それを生きることによってのみ、経験自体が成立する(……)」

ともあれ、ことばが何か別のための手段などと考えないほうがよい。手段と見なしているあいだは経験と一体化しないし、思考と分断されたままになるだろう。ことばは生きることそのものであり、森有正的に言えば、「経験とことばとは同時的であり同一物なのかもしれない」。少なくとも、思考は先験的でもなければ突然変異的な作用でもない。思考はことばを日々駆使する経験の延長線上に現れる一つの行為にほかならない。

表示のクオリティ

分厚い電話帳が活躍した時代、「あ」で始まる社名を付ける会社が多かったという話を聞いたことがある。あれは本当だったのだろうか。名前は「あいうえお順」に並ぶから、確かに「あ」で始まる社名は最初のほうで出てくる。しかし、社名や職業を1ページ目から検索するのは非現実的だ。知り合いに姓も名も「あ」で始まる女性がいたが、後で聞けばペンネームだったそうである。そして彼女は言った、「検索しやすいですからね」と。しかし、今は昔。PCやスマートフォンで検索するのが当たり前になった今、「あ」や「A」に名前の優位性があるとは思えない。

ネーミングは侮れない。一目見て覚えやすい名前は何かにつけて有利だ。また、おおむね短い名前のほうが長い名前よりも親しみやすい。聞きやすく読みやすい名前はそうでない名前よりもわかりやすくて覚えやすい。こういう視認性や可読性がセオリーとして広まると、短くて読みやすい名前が増える。ここに言いやすさが足され、ついでに検索しやすさが考慮される。だが、どれもこれも似たり寄ったりの名前が氾濫することになる。つまり、差異化したつもりが、期待したほどの効果なしという結末。

〈千年ロマンへと想いをはせ、海の幸、山の幸、自然豊かな宇佐のチカラの恵みを未来へと紡ぎ広める条例〉

昨年暮れにこんな条例が生まれた。大分県宇佐市議会が本会議で全会一致で可決した、日本一長いと思われる名称だ。誰も覚える気にはならないが一応差異化はできている。ユニークゆえに話題性はある。それが証拠に新聞で取り上げられた。そして、覚えていなくても、「宇佐」や「条例」で検索すればヒットするだろう。やがて「千年ロマン条例」と略され、宇佐という固有名詞は抜け落ちるかもしれないが……。


仮にネーミングで成功したとしても、成功を台無しにしてしまう要素がある。表示のクオリティだ。名前なら文字のデザイン。仮に文字のデザインがよくても看板が劣化すればお粗末になる。名前だけではない。案内の表示にも当てはまる。写真は先日宿泊したホテルの部屋案内表示である。こぢんまりとしたホテルだが清潔感があり、まずまず設備も充実している。この表示を見るまでの印象は悪くなかった。

だが、「ノドリーコーナー」にはがっかりした。謎の「ノドリー」、最初「ドリンクコーナー」だと思ったが、即座に読み解けた。ランドリーの「ラ」の文字と、ンの「`」が剥がれたままになっているのである。このことに気づかない清掃人、ホテル従業員の鈍感はどうだ。いや、気づいているが放置しているのに違いない。案内表示を見くびっていると言わざるをえない。

「アダルト」という名のごく普通の喫茶店がある。この名前を見て一見の客は入店をためらう。どんなに店構えが立派でも、コーヒーが飲みたくて死にそうでも、通り過ぎる可能性大である。では、店名を今時はやりのカフェらしくリネーミングするとしよう。それでもなお、この店のテントは「café」の文字の「é」が剥がれて欠損し、「caf」になっている。名はクオリティの象徴であり、名を伝える表示もクオリティを担う。こんな表示を放置したまま営業している店のコーヒーがうまいはずがない。店でリラックスしてコーヒーを飲む自分の姿が想像できないのである。

覚えやすく発音しやすいだけでは不十分。文字にも留意しなければならない。ことばを無神経に使えば命取りになる。名の失態は実のイメージを損なうのである。ヨハネによる福音書を思い出したので、最後に引用しておきたい。

初めにことばがあった。言は神と共にあった。言は神であった。(……)
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった(……)

翻訳ソフトの腕試し

ソーシャルネットワーク上にノートルダム寺院の写真が掲載され、フランス語と英語の説明文が付いていた。

Notre-Dame de Paris, un lieu que l’on ne présente plus!
Notre-Dame de Paris: this place needs no introduction!

意味は明らかだが、翻訳アイコンがあったので試しにクリックしてみた。フランス語の訳は「ノートルダムドパリ、私たちはもはや提供していない場所です!」。「私たち」がパリ市か旅行代理店のことか知らないが、もはやノートルダム寺院が見学できなくなったかのようである。英訳のほうは「ノートルダム de Paris: この場所は導入は必要ありません!」  寺院に何かを持ち込もうとしたが、それはわざわざいらないという感じ。仏英の原文ともに「あらためて紹介(説明)するまでもない場所」と書いてあるのだ。この翻訳ソフトなら人間が勝つ。

これと前後して、Googleの翻訳ソフトのAIがかなり進化したという話を小耳に挟んだ。お手並み拝見とばかりに試してみた。なるべく平易で自然な文章を即興で作って入力した。

四方八方からやってくる話題や時事をニュースという。ニュースの情報量は日々ますます増大しているが、何も知らずに日々過ごすよりはニュースに触れるほうがいいかもしれない。【A

入力しているのとほぼ同時進行で英文が現れてくる。その早さに正直驚く。出来上がった英文がこれである。

The topics and current affairs coming from all directions are called news. The information volume of news is increasing more and more from day to day, but it may be nice to touch news rather than spend days without knowing anything.

わかりやすい英語で日本語を過不足なく見事に訳している。正直言って、学生アルバイトが初稿で書く英文よりもよくできている。なにしろ瞬間芸だから、コストパフォーマンスでは翻訳ソフトのほうが上だろう。ちなみに、この英文を同じソフトで和訳させてみた。アワビを干しアワビにして、それを戻せば元のアワビとは違うだろう。そんなふうになると思ったが……。

すべての方向から来るトピックと時事はニュースと呼ばれます。ニュースの情報量は日々増えていますが、何も知らずに日々を過ごすのではなく、ニュースに触れるのはいいかもしれません。【B

話題を「トピック」にしたのには違和感はあるが、「である調」を「ですます調」に変え意味もきちんと伝えていて合格だ。英語を経てもなお、ぼくの書いた【A】とソフトの【B】はほぼ同じ表現、同じ内容を伝えている。以上の日→英→日……の動作を何度か繰り返させたところ、from day to dayday by day、時事→時事通信、current affairs newslettersなどの小さな変更は見られたが、原意はおおむね踏襲されていた。これは侮れないと思った。


この調子でAIが進化していけば、翻訳ソフトは十年、いや数年以内に、囲碁や将棋のソフトのようにプロが舌を巻くレベルに達するのか。そんな想像がよぎったが、ぼくが書いた文章が案外素直で訳しやすかったかもしれないと考えた。そこで、もう一題試させることにした。冒頭のノートルダムのようなでたらめ翻訳文で馬脚を現すかもしれない。

ぼくは一人称単数の表現を状況に応じて使い分ける。

一文目だけを入力したら、瞬時に“I use the first person singular expression according to the situation.”と翻訳された。完璧である。しかし、実はこれに続く次の文章に難しい仕掛けをしたのだ。

ぼくは普段「ぼく」と言うが、友人に対しては「俺」と言う。目上の人や得意先の前では「私」と言う。たまに冗談っぽく「わし」と言ったりもする。

この三つの文章も瞬間芸であった。

Usually I say “I”, but to a friend I say “I”.  I say “I” in front of superiors and customers. Sometimes I say “I” like a joke.

最終文の「時々私はジョークのように私と言う」はおもしろすぎる。いや、全文が冗談になっている。予想通りだった。意地悪されたソフトは、どんなシチュエーションでも自分のことを“I”と言うほかないのである。これは翻訳ソフトの「誤訳」ではなく、今のところ「推論の限界」または「異文化の壁」と言うべきか。ソフトは「ぼく」と「俺」と「私」と「わし」を正しく訳した。しかし、英語の一人称単数は“I”の一つしかない。日本語のそれぞれのニュアンスを伝えるには、英語の表現を増やすか、日本語の表現を、たとえば「私」一つに限定するしかない。すなわち、文化の修正である。それは無理な話。この一例から、人間がAIに追い越されない最後の砦がどこにあるのかがわかるような気がする。

感覚から知覚へ

ある日の述懐。

昨日は薄ら寒かった。気象予報では今日のほうがさらに寒いらしいが、朝に公園を横切ると陽射しがあって昨日ほどの寒さを感じない。予報に反して暖かいではないか……とつぶやく。しかし、ちょっと待てよ。
その予報に備えて、ぼくは昨日よりもしっかりと着込んで自宅を後にした。マフラーもしているし、昨日のコートよりもやや厚手のものを着ている。昨日はスーツだった。今日は普段着姿、タートルネックで首元も防寒している。気象予報が正しいなら、今日は昨日より寒い。だが、ぼくの装いが昨日と違うではないか。
もし季節の移ろいに敏感であろうとすれば――感覚を研ぎ澄まそうとするならば――いつも同じ格好、同じ体調に整えておくのがいい。外部環境に対して鋭い感覚を保ちたければ、外部環境を先取りして適応などしてはいけないのである。

〈感覚〉は環境や事物の写し取りである。見たり聞いたり触ったりして、情報を極力素直に受け入れる働きである。感覚にはどうやら他人や世間の最大公約数、場合によっては、気象庁の予報に合わせるような写実性が求められているような気がする。つまり、感覚の本質には普通や共通が潜んでいるようなのだ。


感覚が人それぞれなら、わざわざ〈知覚〉ということばを使う必要はない。すべて感覚で済ませておけばいいはず。しかし、誰かが「私の個人的な感覚ですが……」などと言う。個人的な感覚という時点で、環境や事物と素直に一体化しようとする感覚本来の働きに反している。そもそも人それぞれの感覚を知覚と呼んだのではなかったのか。知覚は環境や事物の情報を自分の経験や知識に照らし合わせて編集処理する働きである。感覚が対象との一致を目指すのに対して、知覚では対象との不一致や誤差をもたらすような解釈がおこなわれる。〈共通感覚〉という術語はあっても、共通知覚などということばはない。ある人が冷たいものを口にして平気なのに自分は沁みるという症状を知覚過敏という。知覚はセンサー機能の違いを特徴とする。

たった一語、一文でさえ、人は様々に解釈する。一冊の本になれば解釈の揺らぎはいよいよ大きくなる。人それぞれの知覚が経験や知識によって用語、文章、書物を異なった方法で捉えるのである。ことばだから多義性を備えるのは言うまでもないが、同じことは非言語的対象――事物、音、食材など――にも当てはまる。だからこそ、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの感覚器官が働いて知覚が個性的になる。今さら確認するまでもないが、音楽を、絵画を、料理をぼくたちが同じ知覚品質で楽しんでいるわけではないのだ。

「人間が世界をどう理解するかは、かなりの程度まで、ぼくたちがその理解に到達するために使う機能と結びついている」(ニコラス・ファーン『考える道具』)

ある意味でこの一文は、カント的な「世界を知覚することは、ある意味で世界を変えること」に通じている。誰もが独自に世界を理解している。世界は誰にとっても同じ感覚で受容されるのではない。感覚と違って、知覚はつねに能動的に働き、感覚より出でて感覚よりも自分らしさを発揮するはずなのだ。

図書獨娯

元旦に参拝した神社の裏門の手前に献梅碑がある。王仁わに博士が梅花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったエピソードにちなむ。

難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

王仁博士はわが国に『論語』と『千字文』を伝えた人物として知られる。『論語』は知の原典として、『千字文』は書のお手本として、古来知識人の教養に大いにあずかった。彼らがどのように読書に親しんだのか想像しづらいが、津野海太郎の近著によれば、読書は個人的な行為であり、それゆえに「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていはじぶんの部屋で……」ということになる。この仮説に基づいて、日本人と本の読み方の歴史が探られる(『読書と日本人』)。

〈書評輪講カフェ〉という読書会を主宰して久しいが、本の読み方については自分自身がまだ試行錯誤を重ねている。故事成句の「読書三到」は、声に出して読む「口到」、よく目を開いて見る「眼到」、心を集中して理解する「心到」の三つを指す。今風に言えば、音読、黙読、熟読ということになるだろうか。では、なぜ本を読むのか。「読書万巻を破る」は大量に本を読破せよと教えるが、十を知って一を語ることを奨励している。人は一しか知らないのに十を語ろうと見栄を張るものだ。それを戒めている。一冊だけ読んで十冊読んだような振りをするぼくなどはまだまだ二流の読書人である。


それでも、自分で読みたい本を選び、万巻からは程遠いが、独りでこつこつと読む。最近はこの傾向がますます強くなった。身近な人と交わって骨のある話を語るという機会がずいぶん減ったのが理由の一つ。たまに会っても同じ話題ではつまらないし、この歳になってもまだ現役で仕事をしているから、どうでもいいような話に時間を割くのが惜しい。だから本を読む。遠い時代の賢人の思想やことばに触れていれば、落胆させられることはあまりない。これがいわゆる「読書尚友」の意義である。

あまりなじみのない「図書獨娯」を書き初めの文字に選んだ。「としょひとりたのしむ」と読み下す。この熟語が生まれた頃の図書とは書画のことである。詩文やそれをしたためた書、墨絵などは独りで鑑賞して楽しむのがいいという意味だ。広く解釈して読書を含めてもいいだろう。本を読んだり美術を鑑賞したりするのは、個人的な体験であり、集団でおこなうよりも娯楽価値が高いと思われる。作品には独りで向き合うのがいい。

初硯は愚直に一回勝負を貫く。書き損じがあっても書き直しはしないことにしている。ああ、線が細かったか、バランスに少々難があるかなど、毎年筆を置いてから顧みる。ともあれ、独りとはもとより孤独のことではない。邪魔が入らないというのは至福の歓びなのである。

いつもの

テレビの『笑点』の大喜利で司会者がお題を出す。お題によっては出演者に小道具が配られることがある。司会者が「山田君、例のものを持って来てください」と言うと、山田君が「かしこまりました」と返事して小道具を配る。小道具の名前を言ってもよさそうだが、「例のもの」と言う。例のものとは何か。それは両者で事前に了解済みである。仕事上でも「例の件ですが……」と持ち出された相手は何の件かわかっている。見知らぬ相手に「すみません、例の件でお尋ねしたいんですが」と言っても通じない。

「例の」の代わりに「いつもの」と言える場合がある。「いつもの何々」と言えば、お互いにわかっている「もの・こと・場所」などを表わす。仲間内で「いつもの」で通じるのは、何を意味するかを取り決めているからである。あるいは、何度もみんなが使ってきた結果、暗黙裡に了解されているからである。ところで、「いつも」は繰り返されるという点でマンネリズムに違いない。変わり映えしないというニュアンスがある。他方、安心感があり、変わらぬよさという意味にもなりえる。


オフィスから近い場所で待ち合わせることになった。喫茶店Aである。相手の彼とはよくそこに行った。稀にそこ以外の喫茶店Sに行くことがあったが、年に一度あるかないかだ。「じゃあ、いつもの喫茶店で」と伝え、念のために「角の店」と付け加えておいた。いつものとは喫茶店Aである。十数分待っても彼は来ない。携帯に電話した。めったに行かない方の喫茶店Sの前で待っていると言う。「いつものと言えばそこじゃないし、だいいちそこは角の店ではないよ」と言いながら、念には念を入れて固有名詞で伝えなければならない相手だったと反省した。

長ったらしい名前や言わずもがなのことを同質性の高いグループ内では省略する。ブレンドコーヒーとメープルシロップたっぷりのホットケーキを毎朝2枚注文する人は、「おはよう、いつものね」で済ませる。新しいことばでネーミングするまでもなく、意味が共有されているのなら、もの・こと・場所を具体的に特定せずに「いつもの」で十分に伝わるのである。

「今度の忘年会は何々町のいつもの場所」と十数名に声掛けしたところ、全員が所定の日時にそこにやって来たら、大いに感心してしまう。このグループはかなりツーカーの仲が深く、共通言語が定着していると思われる。

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ところが、同質性の高さは必ずしもいいことづくめではない。「わかっているつもり」になると、わざわざ検証したり深読みしたりしないから、意味を左から右へと流してしまうことになりかねない。『いつもの場所とこ』という居酒屋がある。ここがいつも飲み食いする店であれ、初めて利用する店であれ、ことば不足の説明は誤解を招く。日時の次に、ぽつんと「場所:いつもの場所とこ」とだけ書いて、はたして案内状を読んで何人が判読できるだろうか。

並べ替え

ものは言いようと言われる。言いたいことは一つでも、表し方はいくらでもある。だから、ことばの表現をあれこれと吟味することになる。しかし、ものは言いようだけにとどまらない。ことばの配列にも意を注がねばならない。ものは並べ替えようでもあるのだ。

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ここに簡単な計算式が4つある。伝えようとしている数字の関係性は同じ(23を足すと5になるという関係性)。しかし、数字の配列を変え、の表現にしてみると、意味も変わるような気がするから不思議だ。並び方が変わって、視座が変位するのである。


Normal

豊かにして貧しく

健やかにして病み

微笑んでいても寂しく

颯爽として疲れている

Reverse

貧しくても豊かで

病んでいても健やか

寂しいのに微笑み

疲れても颯爽としている

手書きと推敲

科挙の受験生である賈島かとうが課題の詩作に没頭していてあたりが見えず、韓退之かんたいしの行列にぶつかってしまう。行列を乱したかどで捕えられた賈島は事情を説明する。「僧推月下門(僧は月夜に門をす)にするか、僧敲月下門(僧は月夜に門をたたく)にするか……悩んでおりました」。二者択一の岐路で悶々としていたのである。幸いなことに韓退之は高官でありながら文章家でもあった。文章を綴る難しさ苦しさをよく知っているから、賈島の話を聞いて非礼を許した。そして、その句では「敲」のほうがいいと助言した。助言を受け入れて賈島は運よく登第した。

推すにするか敲くにするかと考えること、これが「推敲すいこう」ということばになった。表現を言い換え、文字の間違いを改め、文章を書いては手直しするプロセスである。この故事では二つの候補のいずれがいいかを突き詰めようとしたが、現実的にはもっと多くの選択肢にぶつかる。表現のみならず、構成、文体、表記、その他諸々の見直しを迫られる。とりわけ、日本語の表記――漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、フリガナ――は、他言語に比べて選択肢が多く、草稿から最終稿に到るまで苦悶は続く。

話せるから書けるとは限らない。書くことには話す以上の集中があり、思考することと緊密につながる。別冊宝島から出ている『中島敦』を古本屋で見つけ、およそ半世紀ぶりに作品を読み直してみた。高校生の頃には、いったい中島敦の文章のどこがいいのかうまく形容できなかったが、拙い読解力ながら語感の響きとリズムに感じ入ったものである。とは言え、同書の副題のように「端正にして格調高い文章」などと高校生の身で言えるはずもなかった。

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中島敦の文章が美文であるか名文であるかは個々の読者の判断に委ねるが、草稿と浄書を対比させてみて、あらためて推敲の凄まじさをひしひしと感じる。元の原稿の半分は跡形もなくなってしまう。そして、推敲によって作意から乖離していた文章が作意に近づくのである。


冒頭で紹介したように、元来推敲は詩文をしたためる際のことばであった。字句や表現に完成というものはなく、時間さえあれば何度も手を入れたいのが作者の本意である。中島敦のような文才なら草稿がほぼ最終稿になりそうなものだが、そうはいかない。時間が許すかぎり、作意に近い字句や表現を求めるのが書き手の本能だ。書き直すことが考えを練り上げることにつながる。

何度も手で書き直しているうちに、読むことに力点が移っていく。つまり、書き手として書くことから読み手として書くことに徐々にスライドする。主観を脱して客観に入るのである。自作は自壊してこそ自浄する。だから出来上がった完成原稿を浄書と呼ぶ。推敲は手書きゆえに精度が上がる。いきなり草稿をキーボード入力して画面上で字句をいじり、ある文章をカットして別の場所にペーストするような作業では、推敲という域には達しない。ワープロのような上書き修正では書き直された草稿が消えてしまう。手書きなら取り消し線の背後に原文が見える。最初の文と書き直した文を比較対照することに推敲の意味があるのだ。

写真の草稿は『李陵』という小説である。浄書されて完成した作品は青空文庫で読める。但し、ルビだらけで煩雑ではあるが……。

「つもり」が積もって……

手元に『あいまい語辞典』なるものがあり、時々ひも解く。「そこそこ」や「ちょっと」などと並んで、「つもり」が収録されている。実は、「つもり」について書こうと思い、この辞典におそらく載っているだろうと思って繰ってみた。案の定である。見出しに続く説明の冒頭、次の二文が出ている。

「私はA社と取引を開始するつもりです」
「社長はA社と取引するつもりだろうか」

最初の文は話者自身の予定を語り、二つ目の文は自分ではない他人の思惑を推測している。自分の行為に関して本人が使う「つもり」には不確定ながらも意志が込められている。たとえば、ぼくが「今夜は和食にするつもり」と言えば、発言時点でその気があることを意味している(気や事情が変わって和食を食べないかもしれないが……)。他方、他人の行為に関して「彼は今夜焼肉を食べるつもりだろう」とぼくが言うのは、他人の思いを推測したもので、そこに彼の意志は潜んでいない。

つもりは「積もり」であって、予想を立てるとか推し量るという意味。見積もりがわかりやすい例である。見積もり通りに最終金額が決定することは稀で、たいてい見積もりは「はずれる」。お金の予算があれば、心の予算もある。心の予算のことを「心算しんさん」という。頭で勝手にこうだろうと考えることだから、心算は「狂う」。胸算用や皮算用も「つもり」の仲間である。


人は、自分の思いを語る時も他人の思いを汲む時も「つもり」を使う。先にも書いたが、自分のことを語る場合のほうが確証が強そうではあるが、確信しているのなら「つもり」などとは言わない。ましてや、他人のことを勝手に考えてこうなるだろうなどという「つもり」は当てにならない。曖昧語の常で、厄介なのだ。「つもり」を含む言には用心しなければならないのである。

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 「先方にはきみの考えは伝わっている?」
■ 「……というつもりですが」
 「伝えはしているのだね」
■ 一応……」
 「伝わったかどうかを確認した? たとえばさりげなく質問したとか……」
 「質問はしていませんが、伝わっていると思います

仮想会話だが、実際によくあるやりとりである。の応答に「つもり」は一度しか出てこないが、「一応」も「思います」も「つもり」の亜種である。相手が自分の考えを理解したという確証などない。それ以前に、伝えたという自分の行為についてすら認識不十分である。の質問がさらに続くと、「たぶん」「おそらく」「もしかすると」という具合にの推測は揺らいでいく。「つもり」が雪のように積もって真相の地肌が見えなくなり、ことばの木々は枝折れする。

「つもり」を多用する人と話をしていると、ごっこ遊びに付き合わされているような気分になる。仕事しているつもり、わかっているつもり、学んでいるつもり、等々。確信に近い「つもり」もあるけれど、曖昧語に逃げる人間の「つもり」に実感は不在。つまり、甘い見通しでごっこしているにすぎない。だが、本人は気づかない。推測だけでことばを間に合わせるいるうちにことばが心から切り離されていくのを自覚しない。曖昧語を常用すると、ことばが不鮮明になるばかりでなく、人格が変わってしまうのである。

ペンと剣

俳句や短歌はもちろんのこと、形式をさらに簡素にして文字数を縮減してもなお、そのわずか一行に一冊の本が太刀打ちできないことがある。ことばの無駄が削ぎ落とされた型は質朴ながらこなれていて、ケレン味がない。あらためてレオナルド・ダ・ヴィンチの言、「シンプリシティは究極の洗練」を噛みしめる。五七五も五七五七七も、たとえば「五九三六七」などよりはずいぶんシンプルで垢抜けしている。あたかも「ことばのコンポジション」が定型の中に内蔵されているかのようだ。

先日、キャッチコピーの話をする機会があったので、コピーライターの眞木準の『一語一絵』を取り出して読み直した。小説家の島田雅彦が帯に一文を書いている。

小説家は膨大な言葉を蕩尽してもなお、舌足らずなのに、優れたコピーライターが繰り出す言葉の剣はなんと切れ味がよいのだろう。

ことばの剣の切れ味が必ずしも感動を呼び起こすとは思わない。日常茶飯事の事実や現象が切れ味鋭く表現されていることに驚嘆するのではなく、むしろ物や事の見方・切り取り方に脱帽するのである。ことばを選りすぐってフィルターですのはその後だ。こうして濾過され抽出されて書かれた一文は、もはや事物の表現と言うよりも思想の拠り所を見出しにした感が強い。読書万巻を破った後に出合うそんな一文が、万巻の読後感を空しくしてしまうことがある。


「ことばの剣」と聞いて、英語の諺、“The pen is mightier than the sword.”を連想する。ふつう「ペンは剣よりも強し」と訳される。かねがね不思議に思っていたのは、”sword“を「剣」と表わしているのに、”pen“のほうは原音と同じ「ペン」であるという点。ペンがすでにれっきとした日本語だからなのか。剣に見合うように訳すなら「筆」ではないか。「筆は剣よりも強し」。いや、筆では毛筆を連想してしまいそうだ。それなら「洋筆」でどうか。「洋筆は剣よりも強し」。これで表現のバランスは取れそうだが、こなれていると言えそうにない。

ペンと剣にしたのは、おそらく韻という表現上の工夫ゆえではないかと想像する。ペンと剣なら【p-en】と【k-en】と脚韻を踏ませることができる。もう一つ別の訳がある。「文は武にまさる」がそれ。ここでも韻が踏まれている。文と武で【bu-n】と【bu】という頭韻ができている。

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自宅の机の筆立てに入っているつけペンと剣をXの形にクロスさせてみた。言うまでもなく、剣はペーパーナイフである。諺は「ペンは剣よりも強し」だが、剣のほうが上に置かれてペンを制している格好になった。何のことはない、最初は剣の上につけペンを乗せたのだが、転がって安定しなかったというだけの話。もう一度試せば乗ったに違いない。

ところで、具体的なペンと剣をこうして配置させた構図に、もう一つの訳である「文は武に勝る」という説明を加えづらい。抽象化して概念化した表現だからである。抽象や概念は、案外簡素な形式には似合わないのかもしれない。もちろんぼくの個人的な感覚にすぎないが、俳句にしても短歌にしても、文や武よりもペンや剣というわかりやすい表現が使われているほうが洗練されているように思うのである。