固有名詞を記号に変えてみた

歩いたり電車に乗ったりして過ごしたある日の半日。そのことを技巧を凝らさずに時系列で綴ったことがある。実話なので固有名詞をふんだんに使っている。すべての固有名詞を記号に置き換えてみたらどんな感じになるか……ふと、つまらない好奇心が湧いた。アルファベットで試してみた。

自宅からM線のH駅まで歩き、メトロでO駅へ。そこでF展覧会のチケットをディスカウントショップで買い求めようとしたが、まだ営業時間前だった。
S電車でO駅からK駅までは特急。K駅で普通電車に乗り換えてI駅へ。駅から徒歩67分の所にP美術館がある。建築に工夫のある美術館だ。水辺近くに建つが、海の風景には雑多な建物が入り混じり、必ずしも晴朗美観とは言えない。
帰り道。これと言った食事処がなく、I駅の踏切を通り過ぎてR電車のN駅まで歩いた。その近辺のとある店で「やむなく」という感じで海鮮丼を注文した。可と不可の境界線上にある微妙な味、おまけに微妙な値段。
このN駅、普通電車しか止まらないのに立派過ぎる。一つ戻って特急に乗ることもちらっと考えたが、帰路途上にあるA駅まで普通に乗ることにした。各駅に停車するので所要時間は特急の2倍の約45分。A駅でT線に乗り換えてM駅で下車し、そこから歩いて帰ってきた。
N駅からO駅なら410円だが、O駅手前のA駅を経由してM駅まで乗ると550円になる。ちょっと解せない料金設定だ。
往路の一部は特急に乗ったが、帰路は久しぶりの各駅停車的移動だった。特に急いでいないのなら、普通電車を乗り継いでの近郊半日の小さな旅。まんざら悪くなかった。

ありがたいことを書いているわけではない。固有名詞まみれの個人的なドキュメントだ。固有名詞のすべてを匿名希望的に、一地名や一駅名を一つのアルファベットで表記すると、文章は瞬時に無機的になる。無機的ではあるが、こういうのをクールとは言わない。どちらかと言うと、不気味だ。

ところがである。原文で出てくる固有名詞になじみがないとか、見たり聞いたりしたことはあるが土地勘がないという場合は、アルファベット表記の一文字仮名かめいで書かれた文章を読むのとほとんど変わらないのである。たとえ行ったこともなく土地に不案内だとしても、ニューヨークや上海が出てきたら少しは読み取ろうという気になるものだ。

しかし、ここまで書いてきて、本質的に重要なことに気づいた。リアルな固有名詞であろうと無機的なアルファベットの匿名であろうと、書かれた内容に興味を覚えなければイメージは湧かないし読む気は起こらない。関心があればわかりにくい文章でも読むし、関心がなければどんなに読みやすい文章で書かれていても読まないのである。

語句の断章(33)大衆

オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』のような難しい話は書けない。いや、できない。いつも通り、語句を断章的に綴るのみ。

大衆とは集団である。英語でも“mass”とか“public”と言うから、大多数から成る一つのまとまりだ。多くの人々で構成されるそのまとまりは権力や財力や特権を持たない。つまり、大衆は知識人やエリートや貴族ではない。どちらかと言えば、労働者的である。

食堂という普通のことばを大衆食堂と言い換えるだけでチープ感が滲み出る。「メシ屋」のイメージが強くなる。大衆食堂の単品メニューはカレーライス、オムライス、ラーメン、うどん、そば、チャーハン、丼である。定食は焼き魚、煮魚、トンカツ、鶏のから揚げ、野菜炒めなどの主菜に、ご飯、小皿一品、味噌汁、お漬物が付く。ご飯は大中小から選べる。

文学に大衆をかぶせてみよう。大衆文学はいきなり純文学との違いを主張する。純と違うなら不純なのだろうと勘違いされる。純喫茶でない社交場がかつて特殊喫茶と呼ばれたように、大衆小説も特殊な場面や関係が描かれることが少なくない。いやいや、それは偏見だ。できるかぎり幅広い読者層に楽しんでもらうのが大衆小説の売りだった。

ともあれ、以上書いてきたことはすでに過去の話である。今となっては大衆を見つけるのは難しい。人々が個性的で十人十色になったと言い切る自信はないが、高度成長時代までの十人一色という趣とはまったく違う。大衆は分衆化したのである。そして、分衆は「小衆」の様相を呈し始めている。

カタチを小衆に変えた現代の大衆は「ステキ」と「うざったい」の対象を変えた。彼らにとって知識人やエリートや貴族はうざったいのである。ネットはステキだが、新聞はうざいのである。思いつきはステキだが、理性はうざいのである。その昔、大衆の一員だった者が今の大衆についていけなくなり、うざい存在になりつつある。

語句の断章(32)観察

使用頻度の高い語句には認識の油断が生じる。「観察」もそんな語句だ。観察ということばを使う時、「○○を観察する」というふうに注意は対象に向く。しかし、観察者自身のこと、たとえば観察者の立ち位置などには注意が向かず、また意識も薄い。

『新明解国語辞典』によれば、観察とは「そのものがどうなるか、どういう状態であるかありのままの姿を、注意して見ること」。「ありのまま」とは何だろう? 念のために「ありのまま」の項を見ると、「何の粉飾もせず、実情のままであること」と書いてある。今度は「実情のまま」がよくわからない。

新明解は「観察眼」も取り上げていて、「うっかり見のがすようなところをも、見落とすことなく正しく見る力」と説明している。この「正しく見る」がまた、悩ましい。

ありのまま、実情のまま、正しく見る……こう言い放つのは簡単だが、いま目の前にあるコーヒーカップをどう観察すればありのままに見たことになるのか。あるいは、このコーヒーの味をどう感じた時に本来の味として正しく飲めたことになるのか。

「テーブルの上に3個のリンゴがある」と言えば、実情のまま観察しているかのように思える。しかし、それは数字の「3個」についての正しさであって、テーブルやリンゴについてはありのまま、実情のまま、正しく見ているという保証はない。現実と観察の間には誤差があるのだ。誤差とは個人差であり、個性の違いにほかならない。ゆえに、対象は観察者によって変わる。

対象を観察したデータは、観察時の視線の角度や光によって変化する。何よりも観察者自身の存在がデータを変えてしまう。観察環境がつねに一定などということはありえない。

ところで、桜の標本木を決め、つぼみの状態を毎日観察して開花を宣言をする習わしがある。気象や植物の科学に基づいているとは言いいがたい。標本とされた桜は任意に選ばれたのであり、観察者がチェックして「桜が咲いた」と解釈し「開花しました」と表現しているにすぎない。開花の観察と宣言とは、科学的と言うよりも文学的と言うべきではないか。

味の表し方・伝え方

料理の話をした時に「どんな味だった?」と聞かれるのが一番困る。味を思い出しながらことばを選んでいるうちに、相手が焦れて「おいしかった?」と聞き直す。おいしかったら「おいしかった」と答える。情けない返事だがしかたがない。ところが、この返事に相手が納得顔することがある。儀礼で聞いているのだから、答えなんかどうだってよかったのだ。

「おいしい」で味が伝わるか。では、もっと具体的に「塩味が効いていた」とか「甘酸っぱい」とか言えば、相手が疑似体験できるのか。味や食感を事細かに説明することはできる(実際、ソムリエのワインの説明はかなり饒舌だ)。しかし、伝わるかどうかは別問題。個々の断片情報を統合して首尾よくイメージをつかんでくれる人はめったにいない。

食事処でドラマが展開する『孤独のグルメ』では、松重豊演じる主人公の井之頭五郎が一口食べるごとに〈内言語〉でつぶやく。「ほう、こう来たか……」とか「おー、スパイスが口の中で広がっていく……」というコメントの類が、食べる表情と相まって味のニュアンスをよく伝えてくれる。「おいしい」で済ましているのが恥ずかしくなる。


「パスタは3種類からお選びいただけます」とメニューに書いてあった。「シェフのおまかせショートパスタ」を選んだ。出てくるまでどんなパスタかわからない。出てきた。食料品店で見たことはあるが名前は知らない。もちろん初実食である。どんな味でどんな口当たりか……後日これを誰かに伝えるのは簡単ではない。

こういう時、味ではなく、似たものを持ち出すのがよい。「マカロニを縦に半分に切ったショートパスタ。ソースがよくからみ、マカロニよりももちっとしてやわらかい」。マカロニを持ち出すだけで伝えやすくなる。ちなみに、「マカロニを縦に半分に切ったパスタ」と入力して検索したら、Googleもピンときたようで、「スパッカテッレ」だと教えてくれた。

類似を持ち出すのは本居宣長おすすめの表現話法である。『玉かつま』の一節を引く。

すべて物の色、形、また事の心を言ひさとすに、いかに詳しく言ひても、なほ定かにさとりがたきこと、常にあるわざなり。そは、その同じ類ひの物をあげて、その色に同じきぞ、何の形のごとくなるぞ、と言へば、言多からで、よくわかるるものなり。

「色や形や特徴をことごとく細々と説明するよりも、類似のものを挙げて色、形を見せればことば少なくしてよく伝わる」というようなことを書いている。写真で見せれば済むことが多いこの時代、対比できるものを一言添えるだけで写真以上のプラスアルファが伝わる。もちろん、類似のものを知っていることが前提。食の知もないよりはあるほうがいい。

言い換えの実験

今となっては、「たらちねの」や「ぬばたまの」などの枕詞にほとんど出番はない。かと言って、死語になったわけではない。「正月にたらちねの・・・・・母に小遣いをあげた」とか「ぬばたまの・・・・・黒髪を失って櫛無用」などと、おどけたり冗談言ったりする使い道がある。ギャグやパロディなら古いことばでも生き残ることが可能だ。

使う人はいるが理解できない人もいるために、共有しづらいことばがある。たとえば、「土壁つちかべ」と言ったら、若い人に「それ、何?」と返されるというケース。また、今の実情に合わなくなった古いことばもある。たとえば、ほとんどの人がコーヒーを飲んでいるのに、「喫店」は昔の呼び名のまま粘っている(「百貨店」もこの同類である)。

かつて頻繁に使われたことばがやがて絶滅危惧種となる。ついには意味も失って消えてしまう。ごく一部のことばは新しい表現を得て何とか生き延びる。「きみ、遅れているよ。響きも不自然だよ」と、時代と現実がことばにクレームをつける。こうして新語がいくつかの実験を経て、その時代に合う言い換えパラフレーズがおこなわれるようになる。


「土壁って何ですか?」と聞かれて、説明するのはたやすくない。苦しまぎれに土塀どべい」と言い換えた。同じように「土塀って何ですか?」と聞かれる。「土を使って作る塀だよ」では説明になっていない。土壁を「竹の骨組みや瓦を挟むように土を塗り込んだ壁」と描写しても、その試みは空しい。土イコールearthアース、壁イコールwallウォールと英訳して「アースウォール」などとシャレても「地球の壁」になってしまう。土転じて泥沼と化す。

喫茶店のメニューが紅茶ではなくコーヒーが中心なら、カフェと言い換えるのがトレンドで、実際そういう店が増えた。しかし、今風の日本語に直すのは難しい。コーヒーショップなどと言ったら昭和に逆戻りだ。レトロの雰囲気を求めて「珈琲館」と言い換えれば、チェーン店になるし、時間を大正時代まで巻き戻してしまう。

コーヒーでのおもてなしなのに「粗茶でございますが……」には違和感を覚える。コーヒーなら「粗珈そかでございますが……」と言うべきだろう。しかし、「えっ、ソカ?」と怪訝な顔をされる。時代や現実に合った言い換えはむずかしい。いつか機会があれば、「はかなし煎じものにござりますが、あお・・によしブルー・・・マウンテンを召し上がれ」と実験してみようと思っている。もちろん出すのはブルーマウンテンもどきだ。

語句の断章(31)惜敗率

冬季五輪のアイスホッケーの試合を観戦していた先週のこと。シュートが外れたり防がれたりするたびに解説者が「惜しい!」と叫ぶ。シュートは230本打って1本入るかどうかの確率だから、いちいち「惜しい!」と言ってるとキリがない。スポーツやその他の勝負事では、うまくいかなかったり負けたりする時はいつも惜しいのである。

小選挙区に適用される「惜敗率」の英語翻訳をチェックしてみた。どれも苦しまぎれの文章のような訳だった。簡潔でこなれた英語フレーズにならないのだから、わが国固有の発明と言ってよい。惜敗率について、少し説明をしておく。

ある小選挙区で最多得票した当選者の得票数を分母とし、敗れた候補者の得票数を分子とする計算式の率のこと。たとえば、当選者5万票の場合、4万票の落選者の惜敗率は80パーセント、1万票なら20パーセントになる。当選者が一人だけの小選挙区では僅差でも次点以下の候補者は全員落選になる。しかし、落選者が比例代表で重複立候補していれば、敗率次第では復活当選できるのである。上位の落選者を差し置いて、下位の落選者が復活することも稀にある。


惜敗とは言うものの、復活当選すれば負けたことにはならない。惜敗であろうと惨敗であろうと、ぼくたちの生きる社会では普通は「負けは負け」である。しかし、政治の世界では「負けるが勝ち」になる。勝つということが二重構造になっているわけだ。トーナメント形式のスポーツには一度に限って敗者復活戦のチャンスが与えられるものがある。しかし、プレーオフに出て勝つことが条件である。一方、惜敗率で救済される立候補者は再選挙無しに負けを勝ちにできる。

「善戦もむなしく惜敗」と称えられようが、スポーツの世界でも実社会でも負けである。ところが、国政選挙では「善戦」が「敗北」の事実よりも優先され、惜敗率というマジックで生き返る。前回の衆院選では惜敗率20パーセントの候補者が比例代表で復活した。惜敗ではなく大敗だったにもかかわらず。

惜敗率とは悪知恵である。者の負けしみが文字通り「惜敗」となって、どさくさまぎれで勝ち組になる抜け道にほかならない。この救済策を法律が担保している。

ぶん、ブン、分

その時々の心の状態や感じている様子を気分という。気分が良いとか悪いとか、気分が快いとか不快とか。つまらないことだが、なぜ「分」を付けるのか、気になっていた。

「○分」という二字熟語は書きだせばキリがないほどいくらでも思い起こせる。

一分いちぶ五分ごぶ(五分五分というふうに使う)、八分はちぶ(村八分の意)。親分と子分で取分とりぶんが違う。自分の本分、身分や職分、それに性分しょうぶん。季節の区切りの春分と秋分。そうそう明日は節分。成分は水分、糖分、塩分。多分、当分はこのまま。大分だいぶに半分に幾分。細分しても寸分狂わない。微分に積分。昨年の今時分じぶんは何していた? 断捨離という処分。 

気分のように程度を表現する「分」がある。全体ではなくて一部を示す「分」がある。割り当てられるとか見合うという意味の「分」もある。分は「分ける」だし「分かる」でもある。捉えどころのない大きなものは小さく分ける。分けると分かりやすくなる。それ以上分けられなくなると、その先のことは分からなくなる。


一年をどのように区切るかで感じ方が一変するように、全体は同じなのに、分節のしかたが変われば違ったものに見えてくる。一本のダイコンやレンコンも一杯のタコやイカも、切り分け方で違ったものになる。

「ピザ1枚ください」
「切り分けは8ピースでよろしいですか?」
8ピースだと多すぎて一人で食べ切れないから6ピースで」

お気に入りの小話だ。油断して聞き流すと納得してしまう。分けるとはナイフを入れてカットして食べやすいサイズにすること。何ピースにカットしようが、焼きあがったピザ1枚の大きさが変わるわけではない。しかし、「分」のマジックで全体が違って見える。

こんな話を書いているうちに、4種類のチーズで焼き上げるクワトロフォルマッジが食べたくなってきた。6ピースにカットしてもらい、各ピースを三口で品よく食べるとワインがうまくなる。

日だまりのことば拾い

昨日の午後、南の窓からちょうどよい具合の光が入り込み、微睡まどろみそうになった。こんな時には手が届く範囲の片づけをする。B6判のシステム手帳で使っている6穴ルーズリーフを整理した。古いノートの保存用バインダーが8冊くらいある。一日や二日で終わる作業ではない。せいぜい数十枚のルーズリーフをリングから外したり綴じたりするだけ。

ことわりを整える」のが整理。拾い読みしながら、書いてある内容に基づいて並べ替えたり分けたりして整える。手を抜かずに真剣に取り組む。責任を負う仕事の途中に微睡みそうになったくせに、手を抜いても誰にも迷惑をかけない道楽に眼が冴える。本当は逆でないといけないのに。


📓 徒然なるままにノートに文を綴るにしても、動機がなければ毎日続けることはできない。受容したり共感したりだけでは筆はしっかりと走ってくれない。仮に筆が動いたとしても、毎日同じようなことを書いてもしかたがないのだ。昨日と違う何かを書くには新しい発見、軽い批判、ちょっとした愉快、自虐などの動機付けがいる。

📓 「わざわいは福とぐる・・になっている」。ぼくの文案ではない。ドイツ由来の箴言だが、どんな文脈から切り取ったのか覚えていない。そう言えば、ぐるとまでは言わないが、真贋しんがんの関係もこれに似ている。本物とコピーにはどこかもたれ合っているところがある。
ともあれ、禍と福はどちらも「しめすへん」だ。コロナ禍も何らかの福と示し合わせてぐるになっているのだろうか。”ウィズコロナ”と言い出したのは福のほうである。

📓 箸が転ぶのを見て笑う様子は、箸が転ぶという事実よりも滑稽である。何の変哲もない出来事や現象も、笑うことによって滑稽になる。しかし、箸が転ぶのを見るたびに腹を抱えて笑っていると、徐々に笑いの感覚が錆び始める。笑いはすぐにマンネリ化するのだ。ハードルがどんどん上がっていってこその笑い。笑わせるのも笑うのも大変なのである。

📓 散歩中に碑や案内板の前を通り掛かると必ず立ち止まって読む。癖である。とりわけ地名の由来の説明は丹念に読む。こんな具合に。

この辺りは古くは淀川とその支流に囲まれた砂州だった……水辺に突き出たところを「さき」と呼んだ……石ころだらけの荒地だった……やせた土地や岩の丘を「そね」と言い、「そね」と「さき」で曽根崎という地名が生まれた……。

こういう由来にはわくわくさせられる。五百年前の梅田は菜の花見物で賑わうのどかな農村だった。

知らないことだらけ

知らないことだらけ? ちょっと待てよ、以前こんな題で書いた記憶があるぞ。「知らないこと」で検索。遡ること11年。似ているが違っていた。前に書いた題は『知らないことばかり』だった。

「これ、知らなかったなあ」と嘆息するのはいつものこと。あちこちに出掛けたりあれこれ読んだりした時ほど、一週間や半月のうちに何度も「知らなかったなあ」とひとり述懐する。この歳になればいろいろ知っているはずなのに、痛感するのは知らないことの圧倒的な多さである。


❓ コーヒーの粉をこぼした。箒でく。箒という漢字、文中で出くわせば苦もなく読めるが、書けないことに気づいた。書こうとしても、たけかんむり・・・・・・の後が続かない。たぶん箒という字は一度も書いたことがなく、今こうしてじっと見ているうちに初見のような感覚に襲われてきた。箒のあし・・のほうは「掃」のつくり・・・かと思ったが、微妙に違っている。

❓ 今月に入って、「換骨奪胎」と「汗牛充棟」という、初見の四字熟語に出くわした。前後からおおよその感じがつかめたらわざわざ調べないが、いずれもまったく見当がつかない。ことわざ辞典を引いた。ちゃんと載っている。
換骨奪胎かんこつだったいとは「古人の作った詩文について、あるいはその発想法を借用し、あるいはその表現をうまく踏襲して、自分独特の新しい詩文を作る技法」。焼き直しの意に用いるのは誤用とある。どうやらパロディでもパクリでもなさそうだ。守破離の「守」と「離」の併せっぽいが未だ明快ではない。もう一度出てきてもまた調べることになりそうだ。
汗牛充棟かんぎゅうじゅうとうは蔵書の多いことのたとえ。蔵書が増えてきて積もうとすればむねにつかえる。かと言って、運び出そうとすれば荷役に使う牛が汗をかくほど重い。文字から意味が連想できるので、これは思い出せそう。

❓ 芝居や舞台は縁が薄いので知らないことばが多い。以前「見巧者みごうしゃ」を知った時、表現の絶妙に感心した。上手に観劇する力のある観客のことをいう。同時に、舞台は演じる者の技量と観客が持つ観劇眼によって成り立つことを教えてくれる。上手と上手はお互いに呼応する。見巧者についてやっとわかるようになったが、見巧者になるのは難しい。
「半畳を入れる」という熟語は先週出てきた。敷いている
座布団を下手な役者に投げる? 座布団ではなく、半畳の大きさの「ござ」のことだった。
テレビや映画はセリフや演技を見聞きするだけ。ライブでもなく双方向でもない。しかし、演芸や演劇にはそのつどの、演者と観客の間の打てば響くような暗黙のやりとりがある。時に期待が裏切られると客席からヤジが飛ぶ。ヤジでは気が済まぬ客が尻に敷いたゴザを投げ込む。これが半畳を入れる動作だ。普段の会話でからかったり揚げ足を取ったりすることにも使える。

❓ 知らないことだらけでも何とかやっていけるのは、それまで知らなかった対象のほとんどが、別に知らなくても仕事や生活に支障がないからである。しかし、支障がないからと言って、「知らなくてもいいのだ」と居直るのもちょっと残念な生き方のように思える。

様々な言い様

たいていのモノやコトには複数の言い表し方がある。意味が「ほぼイコール」のものや分化したファミリーを含めて、これらを「類語」とか「同義語」と呼ぶ。角川の『類語新辞典』で【未来】を引くと、「これから先に来る時」という共通概念が最初に書いてあり、続いて「先、行く手、末、今後、前途、将来」など、40もの類語が挙がっている。

類語は基本の意味を共有することば仲間と言える。類語探しによく似ているのがキャッチコピーやネーミングだ。ことばの工夫をしたりあれこれと言い換えてみたりして、これぞという表現をひねり出す。言いようによって雰囲気やニュアンスが変わる。

オフィスの図書室/勉強部屋は、悩みに悩んだ挙句、20185月にspin_offスピンオフと命名。いろいろ考えていた方向のものとはまったく違う名称になった。突発的に「いろんな試みが派生する場」というコンセプトが浮かび、派生の意味を込めて名付けたのである。

当初は図書室だから本や読書にちなんだ名前を考えていた。「本日は晴天なり」をもじって「本日は本の日なり」を思いつき、英語にしてみたら“It’s a book day today.”と語感もいいし、これはおもしろいとほくそ笑んだ。しかし、イベント名ならまだしも、部屋の名前をいちいち「イッツァブックデーツゥデイ」と呼ぶのは面倒である。「本日ほんじつカフェ」というのも浮かんだがボツ。

本というたった一文字の漢字からインスピレーションを得ようと実にいろいろ考えた。まさに「様々な言い様」を試行錯誤したのである。まず、本が授けてくれる恩恵を「本の○○」の形にしてみた。

本の希望  本の激励  本の快癒かいゆ  本の幸福  本の精神  本の所縁ゆかり
本の宝箱  本の夢中  ……

続いて、視点を変えて本という字を二つ使って「本の本○」という言い様にしてみた。

本の本気  本の本懐  本の本命  本の本末  本の本棚  本の本箱
本の本意  本の本位  本の本題  本の本分  本の本音  本の本体
本の本望  本の本質  本の本当  本の本能  本の本番  本の本論
本の本家  本の本線  ……

この発想はなかなかいいではないかと自画自賛したが、いくらでも思いつくのは平凡の証ではないか。それに、どれも部屋の名称向きではないと結論した。しかし、メモを捨てずに置いてあったのはなぜか。未練が残って、いつか「勉強会の今日のテーマ」として使おうと思ったからだ。

図書室を公開イベントの場として使わなくなって間もなく2年。活用してもらってこその空間である。当たり前の穏やかな日々が来る年に戻ることを願いながら、読書会、書評会、朗読会、また時事トークや笑芸を来春あたりから開催したいと考えている。