わかりやすさの限界

根がやさしいことは理解できるし、わかりやすく説明もできる。しかし、本来難しいことやわかりづらいことをわかりやすく説明することには限度がある。いまチンプンカンプンなことが、わずか数分間の説明だけで謎が一気に解けるようにわかるのは稀だ。

難しい話を池上彰がやさしくわかりやすく説明する。ずっとわからなかったことが一瞬にして腑に落ちたとゲストのタレント連中が口を揃える。しかし、時事問題も含めて世界の事象には一朝一夕でわかるようなものはほとんどない。わかるためにはかなりの知識の下地が求められる。


万事が人知を超える難物なのである。わかったという場合、たいていは砂浜に近い海辺の浅瀬に足を踏み入れた程度にすぎない。わかりたいという情熱に突き動かされることは重要だが、わかりやすさを求めているかぎり、どこまで行っても入門程度の理解にとどまる。所詮自己満足なのだ。それどころか、わかりやすさの甘い味を一度覚えてしまうと、その後に遭遇する難しさが増幅することになる。

わかることは大変なことなのだと再認識しよう。もっと言えば、そうやすやすとわかってたまるもんか……他の誰かがわかるようなわかり方に満足してたまるもんか……と意地を張ってみようではないか。一見逆縁のように見えるかもしれないが、そんな姿勢が順縁として学習哲学に反映する。

やさしい説明や実用的にすぐにわかるような方法に手を染めてはいけないのである。近場の水遊びで満足してはいけない。浅瀬でわかっても、少し岸から離れた次の段階ではわからなくなる。理解への道は永遠に大海原をさまよう旅に似ている。大海原の難しさを知れば知るほど、浅瀬のわかりやすさのつまらなさに気づく。

読書という難問

他人が連ねた文字列を読んで意味を解する。実は、驚嘆に値する行為である。もう慣れてしまったから平然とこなしているが、はたして文字に込められた誰かの意図を意味としてあぶり出しているか、かなり怪しく、心細い。読むという行為は人それぞれ、読書論も十人十色。読んだ気になるのも読んだ振りをするのも、とりあえず読了にしておける。

本と読書にまつわる名言を集めたことがある。すべてに納得し実践しようとすれば矛盾にまみれてしまう。ノートからいくつか書き出してみる。

「反論し論破するために読んではならない。信じて丸呑みするためにも読んではならない。話題や論題を見つけるためにも読んではならない。ただ熟考し熟慮するために読むのがいい」
(フランシス・ベーコン)

「君の読む本を言いたまえ。君の人柄を言い当ててみよう」
(ピエール・ド・ラ・ゴルス)

「書物から学ぶよりも、人間から学ぶことのほうが必要である」
(ラ・ロシュフーコー)

「新しい書物の最も不都合な点は、古い書物を読むのを妨げることだ」
(ローラン・ジューベール)

「地上の楽園は、女の胸と馬の背中と書物の中にある」
(アラビアの諺)

一つにまとめると、「読書は考える素材であり……本は人柄を作り……しかし、人から学ぶことが先決で……仮に読書するにしても、新刊書ばかり読んでいると古典を読まなくなり……などと言うものの、書物の中に入ればそこは楽園である……」ということになる。


手に入れる書物には本陣の本と外濠そとぼりの本があるとかねて考えてきた。本のテーマが自分と何らかの関わりがあると判断したり直観したりして買うのが本陣の本、他方、自分との接点を感じることがないままに、好奇心にそそのかされて衝動買いするのが外濠の本である。

夏場に古本屋でまとめ買いした本はすべて外濠だった。たとえば、動物や昆虫に関する本は仕事の守備範囲ではない。しかし、書棚に並ぶその数は十冊や二十冊では済まない。そういう類いの本を意外と読んできたのだ。では、別の日に本陣の本をせっせと買い込んでいるのかと言えば、決してそうではない。本陣がいったい何なのか、ぼくは未だよくわかっていないのだ。冷静に読書人生を振り返れば、何もかもが外濠だったかもしれない。

読書の秋と世間で言う。最近は拾い読みばかりで、熱が入らない。さて、ルノワールの『読書する女』のように読み耽ってみようと書棚から数冊取り出したが、読書への意識が些事への意識を封じることはできるだろうか。

語彙と意味のつながり

単語を増やせば語彙を増強したことになるか。残念ながらノーである。孤立した単語をいくら集めても活用はできない。言語は単語が集まって運用されるのではなく、「ことばのネットワーク」として初めて機能する。ことばのネットワークとは、正確に言うと「意味のネットワーク」なのだ。

広辞苑にはおよそ20万の見出し語が掲げられている。そのすべてをUSBに取り込むとしよう。そのUSBを脳に埋め込めるとして、はたしてこれで明日から思うままに単語を使いこなせるようになるだろうか。そうはならない。ことばは勝手にネットワークになってくれない。結局、脳に搭載された単語を並べ立てるだけに終わり、意味を形成することはできないのである。

生半可な覚悟では語彙は増えない。いろんな表現を使ってみたい、もっと思いに近いことばを見つけたいというのは素朴な願いだが、願いを叶えるのは、強い動機と並々ならぬ情熱にほかならない。


意味のネットワークを構築するように語彙を増やすにはどうすればいいか。まず、ぼんやりとした思いや考えをひとまず書いてみる。拙くてもいいから書く。喋る時に比べて書く時のほうが工夫をするものだ。次に、おそらく書いた文章に満足できないだろうから、表現を言い換えてみる。類語辞典を参考にすればいいが、置き換えてもなおすっきりする保証はない。

個々の単語単位で置き換えても、依然として単語は文章の中の部品に過ぎない。冒頭で書いたように、ことばは意味のネットワークである。文脈の中で他の単語との関係において適所に収めなければ、なかなかこなれてこないのである。文中で語彙がこなれるためには、コロケーションという連語に精通しなければならない。たとえば、耳ということばとしっくりくる動詞は「耳をつんざく」「耳を傾ける」「耳をすます」という具合。

また、単語はオリジナルの意味から転移して、文章内で比喩的に使われる。たとえば、富士山の山はご存じの山だが、「山を越す」と言うと、比喩的に「仕事のピークを終える」ことを意味する。山にはすでに比喩が埋め込まれているのである。諸々の単語はこのように、他の単語とつながってネットワークの中で多様な意味を持つ。

今使おうとしている単語と、それとつながる別の単語との相性関係に目を凝らす。これができてこその語彙力である。英語の受験勉強の時のようにいたずらに語数を増やすだけではいかんともしがたい。一つの単語を追いかけるのではなく、単語と単語が織り成す意味を理解して表現オプションを増やさねばならないのである。

説明の加減

加減とは調ととのいとしつらえの状態を表わす。あることの具合が快ければ「良い加減」と言い、プラスの意味になる。しかし、「いい加減」となると意味はマイナスに転じる。おざなりで、でたらめで、中途半端なさまだ。

昨今将棋の人気が高まっている。おびただしい将棋ソフトが開発され公開されている。最上級のソフトは最先端の人工知能を搭載し、プロをも脅かすほどのレベルに達した。そのレベルには到らないものの、アマ上級者が太刀打ちできない無料ソフトがいくらでもある。先日、アマ二級~初段レベルのソフトを見つけ、指してみたら余裕で何連勝かした。将棋のルールが3ヵ条に要約されて説明されている。

1   王を取ったら勝ち
2   取った駒は好きな場所に打てる
3   敵陣に入ったら成ることができる


将棋を嗜む者にとっては、上記の3つのルールは説明されるまでもない。こんなルールよりもパソコン上での駒の操作のほうが重要だろう。他方、将棋の入門者はこの3つのルールを知っても将棋は指せない。何ヵ月か熟達者の指導を受けないと、このソフトが使るようにはならない。

1 たしかに王を取れば勝ちだが、王の取り方がわからない。自陣の駒の動かし方がわからなければ、王を取るどころか、敵陣にも入り込めない。
2 取った駒は好きな場所に打てる? いや、好きなマス目に必ずしも置けないのだ。飛車と角と金銀はどこにでも打てるが、敵の駒がある所に重ねて置けない。歩と香車と桂馬は盤の最上段には置けない。
3 敵陣に入ったら成ると言うが、この「成る」という意味が初心者には理解しがたい。成るとは駒が裏返って本来の能力をアップすること。なお、王は敵陣に入っても成ることはできない。

以上のように補足しても将棋は指せない。良い加減の説明が難しい。駒の動かし方は基本の基本だが、覚えてから将棋を指せるようになるまでの道のりが長いのである。そんな将棋を4、5歳までに覚え、小学生でアマ高段者の大人と互角に戦うようになるプロのタマゴの天才ぶりは驚嘆に値する。

新しさと古さと

古色蒼然とした歴史的建造物が修復されてよみがえる。たいてい新しい建築素材が使われ壁などは見違えるように美しくなる。美しくなるとは真新しくなることだ。真新しいのに歴史的。複雑な気持ちになる。真新しさが歴史の情趣をいくばくか減じるのはやむをえない。

それでも、壊して建て替えるよりはいい。歴史に敬意を表するがゆえの修復である。築地市場がなくなって豊洲市場として一変し、名も形も消えたのは無念である。少なくとも名か場所のいずれかは残るべきだった。建て替えるにしても、かつての場所に建つのなら記憶に残る。移転しても、歴史を背負った名を継承して何がまずかったのか。

かつての面影を残しながらリニューアルした街並みにずいぶん足を運んだ。金沢や飛騨高山の歴史的街並みは、出来立てのテーマパークのように思えた。建築と街並みの修復後の真新しさに失望し、そういう方法以外に何かないものかと素人ながらに思った頃がある。


今はちょっと見方が変わった。目に見える建築と街並みの背景にある無形の歴史とエピソードが鮮やかに感受できるなら、少々目新しくてもいいと思うようになった。新しくなって歴史が薄まる遺産は、それだけの器、それだけの価値ということだろう。他方、新しくなっても歴史が色褪せない遺産がある。

オランダ商館跡(出島)

先週末、鳥栖に出張したついでに長崎へ小さな旅をした。大浦天主堂は白粉を塗ったように白かった。出島のオランダ商館跡も昔とは色合いも風情もかなり違うのだろうが、17世紀の歴史シーンを炙り出してくれたし、いくつかのエピソードが手招きしてタイムスリップをさせてくれた。大した想像力ではないが、新しく修復された建物を見、生活や商売が営まれた跡地を歩いているうちに、古い物語の一編や二編が紡げたのである。

写真とキャプション

編集が行き届いた情報誌では、掲載写真に必ず一行か二行の説明文が付いている。この説明文のことを「キャプション」という。キャプションのない写真が並ぶ誌面は落ち着かない。「ここスペースが空いたね。写真でも入れておくか」とつぶやきながら、本文とあまり関係なさそうな写真を適当に置いたに違いない。

『情報誌の編集』という研修では、写真とキャプションがワンセットであることを強調する。写真あっての本文記事ではない。記事を書いて、しかる後に写真やイラストなどのビジュアル素材を選ぶのである。例外的に写真が起点になって記事を書くことがあるが、写真が希少であり、すでにテーマ性を帯びている場合に限る。

写真はそれ単独で目の前にポツンと置かれても、逆にイメージが伝わりにくい。トイレに貼ってありそうなカレンダーの写真を、説明もないままに飽きずに見続けることはありえない。絵なら画家の、写真なら写真家の、その一枚のコンセプトなり、込めた作意をことばとして表現すべきだというのが持論である。


昨日、古本を二冊買って会計しようとしたところ、あと一冊買えば安くなると告げられ、もう一度均一コーナーを渉猟し直し、厚さ3センチ、全ページがモノクロ写真の『街の記憶』という写真集を買い足した。ページ番号すらない。よく見ると、写真の下に56ポイントの小さな文字で、“Napoli, Italy 1965”というふうに地名と年号だけが申し訳程度に印刷されている。

ぼくのポリシーに反する本だが、敢えて手に入れることにした。そして、フラッシュカードのようにページをめくり、数百枚もの写真を次から次へと眺めていった。大半がピンと来ない。しかし、ピンと来ないままページを繰り続ける。時折り、実際に旅した街の記憶を甦らせてくれる写真が現れた。しばし凝視する。

一枚の写真に関しては持論は間違っていない。説明のない写真からはエピソードを感じないし、物語性も浮かび上がらない。しかし、これだけの枚数を次から次へと編集した本になると、もはや写真説明に意味がないのではないか。全ページに目を通した後、書かれざる説明文があぶり出されてきた。写真家の『街の記憶』という簡潔なタイトルが、キャプションの役割を果たしている。説明を排除する記憶なのである。

何から入るか?

自宅の道具箱にカンナが入っているだろうか? 拙宅にはない。ドライバーは使うが、錐に出番はない。炊事場に砥石を備えていた時期もあったが、これも今はない。かつてなじんだ道具の類は大部分が消えた。日曜大工に手を染めないのなら、それで特段困ることはない。

今は寝たきりになってしまったが、父は料理や芸事にも器用な人で、特に大工仕事はプロ並みだった。カンナノミを数種類持っていたし、漆喰しっくいを練り、コテ板に乗せて鏝で壁を塗っていた。鉋の使い方を教わったことがあるが、引っ掛かってばかりでうまくいかなかった。経験の前に頭で仕切ろうとしたからだろう。

小林秀雄対談集『直観を磨くもの』の中で鉋の話が出てくる。永井龍男との対談のくだり。

小林  (……)かんなのおやじの場合は、頭で考えたって、かんなの方でウンと言わなければ、事ははこばない。(……)長いつきあいというものが、どうしても要るんだな。(……)いい職人というものは、みんな自分のした仕事に、驚いているものなんだ、きっと。
永井  かんなに従うために、年季を入れなければならないという訳ですからね。


頭から入って鉋から入らないと言われれば、まったくその通りである。先に構想を練ったり計画するのが悪いわけではないが、そこばかりに注意が向いてしまうと、肝心の手が動かなくなる。鉋を使ってみればわかるが、頭でコントロールできるものではない。ひたすら手が鉋に従わないといけない。手を従わせる上で頭は邪魔なのである。

インターネットや本でレシピを読んでから、材料を仕入れに行き、買った材料を指示通りに小分けにし、調味料を用意する。鍋かフライパンを取り出して、やっとここで手が本格的に動く。うまくいくわけがない。対象に向かって手が巧妙に動いてくれる保証はない。手は知識の指令を受けることはめったになく、たいていは場数による暗黙知で動く。

頭と手と鉋の関係は、ほとんどすべての仕事や習い事の比喩になりうる。明日某所で講演するが、こんな話をしようといくら準備しても、場に応じた喋りがどうなるかはやってみないとわからない。鉋ほど扱いは難しくないが、語りを対象に向ける加減は微妙だとつくづく思う。

「確かに見た」の不確かさ

言った言わないでもめることがあるように、見たか見ていないかでも相違が生じる。逃げて行く男を双方が見た、しかし、一方がスーツ姿、他方が普段着だったと証言することがある。誰しも自分の見たものは確かだと思い、見たものが他人と違っていたら、正しいのは自分で、他人のほうが間違っていると主張する。

「百聞は一見にしかず」の諺が示すように、見ることを聞くことの上位に置くのが常だ。ところが、視覚もあまり威張れたものではない。「この目で確かに見たこと」を疑うとは、自らの確かさの否定を意味する。

「見たまま聞いたままのことを信じるのではなく、そう見え、そう聞こえるという事実を可能にしている〈可能性の次元〉に立って考え直す(……)」
(御子柴善之『自分で考える勇気』)

見た聞いたはある種の経験である。その経験を棚上げにして考えるには勇気を要する。「それはお前の勝手な考えだ。ちゃんと見て聞いてからものを言え」などと注意されかねない。地動説を知らず天動説だけで考えている時に、「もしかしてこれは……」と想像する感覚はほとんどありえないように思われる。勇気があったとしても、仮説が思うように立てられない。


ひとまず今見ている事柄を「真理」だと判断するしかないのだが、それが認識の限界なのである。なぜなら、「確かに見たこと」が結果的に不確かだったことが後々にわかるからだ。仮に確かに見たのだとしても、真理は未来に更新され、今日の真理が書き換えられる。見たはずの真理は常にモデルチェンジを余儀なくされるのである。

しかし、真理更新の日々にあって、今ここで見たことに基づいて何らかの意見を成すことが無意味であるはずがない。未来に明かされる真理を待っていれば何一つ語ることができないではないか。手持ちの材料によって――そして、それが確かであるという前提で――推論しなければならないのである。推論というのは仮の話にほかならない。

真理の枠組で考えるのではなく、〈可能性の次元〉に足を踏み入れて精一杯背伸びして考えるしかない。明日ヴェールを脱ぐかもしれない真理のことを気にしていたら、人は未来永劫考えることなどできないだろう。「確かに見たこと」の確からしさを保留しながら考える。いや、不確かかもしれないと謙虚になるからこそ考えることができる。何もかもが確かならもはや考える必要などないのである。

面倒くさい諸事

面倒くさがりの建築家は耐震性データをごまかす。かつて鉄骨を何本か抜いた男もいた。
調味料の加減が見た目アバウトな料理人がいるが、別に面倒くさがってはいない。一流の料理人はめったなことでは面倒くさがらない。

面倒くさがりの内科医は許容範囲だが、面倒くさがりの外科医はご免こうむる。少々頭が悪くてもいいから、手先が器用でマメできめ細かいのがありがたい。

雷が鳴って雨が降りそうな気配。そんな夕刻に急な客が遠方よりやって来た。急というのは自分の都合が奪われることを意味する。それだけでは済まない。時刻が時刻だ、食事に誘わざるをえない。

「おお、久しぶり。どう、焼鳥にでも行く?」と言ってはみるが、その言い方がかなり面倒くさそうだと自覚する。

ちょっと勉強すれば修士や博士にはなれるが、勉強だけでは紳士にはなれない。年代物のスーツ、蔵書、万年筆、ユーモア、話術、知性、教養、コモンセンス等々が必須である。もしロンドンで紳士になろうとするなら、これにどもる口調と暇とこうもり傘を足さねばならない。紳士になるのは面倒くさいのである。

「二十歳前後はどんなことをしていたのですか?」と、おそらく愛想で聞いてきた。これは困った質問であり、もし真面目に答えるならかなり面倒くさいことになる。と言うわけで、次のように返事しておいた。

「その頃はよく詩を作っていたなあ。十九歳の時に書いた詩集を読んでみるかい? 恵まれない天才が紡ぐ言葉の金糸、まるで魔法がかかったような文字列を?」 
「ええ、機会があったらぜひ!」
尋ねたくせに、幕引きが早い。

几帳面な禿とルーズな禿がいる。几帳面な禿には禿としての矜持があり、全体構想が緻密である。てっぺんからつま先まで細部に配慮して禿をケアし、メンテし、見せようとする。カツラなどもってのほかだ。

頭部だけで何とかしようとする禿は面倒くさがりである。面倒くさがりだからカツラという一発勝負に出る。そして、ずれる、むれる、ばれるという三重苦を背負う。