アイデアの鉱脈はどこにある?

塾生の一人が『アイデアは尽きないのか?』というタイトルでブログを書いていて、しかも記事の最後に「結論。アイデアは尽きない」と締めくくっている(ブログの更新が滞り気味なので、もしかするとアイデアが尽きているのかもしれないが……)。とにかく、師匠筋としてはこれを読んで知らん顔しているわけにはいかない。もちろんイチャモンをつけるために沈黙を破るのではない。その逆で、この種のテーマが常日頃考えていることを整理するいいきっかけになってくれるのだ。なにしろ、ぼくのブログには〈アイディエーターの発想〉というカテゴリがある。当然これから書くこの記事はそこに収まる。

アイデアは尽きないのか? 「アイデアは尽きない」という意見に同意したいものの、正しく言えば、この問いへの答えは不可能なのだろう。アイデアは誰かが何かについて生み出すものである。そのかぎりにおいてアイデアが尽きるか尽きないかは、人とテーマ次第ゆえ結論は定まらない。当たり前だが、アイデアマンはどんどんアイデアを出す。しかし、その人ですら不案内のテーマを与えられたらすぐに降参するかもしれない。

たとえば「世界」についてアイデアを出す。これなら無尽蔵に出せそうな気がする。世界という要素以外にいかなる制約も制限もないからである。時間が許されるかぎりアイデアが出続ける予感がする。但し、ここで言うアイデアには単なる「観念」も多く含まれ、必ずしも「おもしろい」とか「価値ある」という条件を満たすものばかりではない。


世界というテーマはあまりにも大きすぎるので、身近な例を取り上げよう。たとえば「開く」。「開く」からひらめくアイデアは、「開閉する」についてのアイデアよりも出やすいだろう。「ドア」という具体的なテーマになると、「開閉する」にまつわるアイデアよりも少なくなってくるだろう。「ドアのデザイン」まで絞り込むと、アイデアはさらに少なくなることが予想される。「アイデアは尽きないか否か」という命題は質にはこだわっていないようだから、量だけに絞って論じるならば、テーマが具体的であればあるほど、また要素が複合化すればするほど、アイデアは出にくくなると言えそうだ。

10-□=3の□を求めなさい」というテーマで、□に入る答えをアイデアの一種と見なすなら、「7」が唯一のアイデアとなり、これ一つで「尽きてしまう」。極端な例でありアイデアという言い方にも語弊があるが、テーマが小さく具体的になり制約する要素が増えれば増えるほど、アイデアは尽き果てることを意味している。つまり、下流に行けば行くほど、求められるのは「11」のアイデアのように、量でも質でもなく、「正しさ」のみになってしまうのだ。最近の企画術や発想法はかぎりなくこの方向に流れている。つまり、おもしろくない。

テーマを提示する側が、自分が評価しうるレベルに命題表現を設定してしまう。アイデアを出そうと張り切っても、大胆なアイディエーションへの冒険をさせないのである。「何かいいアイデアはないか?」と聞くくせに、尋ねた本人がすでに「正解の方向性」を定めているのである。こういう状況では「アイデアは尽きる」。「アイデアが尽きない」という結論を証明するためには、テーマの上流に遡らねばならない。そこで、時間のみ制限枠にして、ただアイデアの量だけを目指して知恵を蕩尽とうじんしてみるのだ。いいアイデアは、このようにして出し尽くされたおびただしいアイデア群から生まれるものだろう。

集中と没頭のオーラ

「集中力のある人、ない人」で二分するなら、ぼくは集中力のある部類に属すだろう。あくまでも周囲の人たちとの比較による自認であって、証明はできない。敢えて言うなら、ここぞという時いつも我を忘れているから。言うまでもなく、我を忘れていたことに気づくのは我に返った後である。我を忘れている時には我はそこにはいないから、忘我を感じすらしていない。「ごめん、仕事の邪魔をしないで。いま我を忘れているから」と答えるのは集中力不足を物語る。我を忘れていることを意識できているあいだは我を忘れていない。

集中しすぎてトイレを我慢することもよくあるが、膀胱炎を患うまでには至らない。食事を忘れるくらいは「朝飯前」だ。但し、集中力を睡眠領域にまで持続させようとはしない。世間ではこれを「徹夜」と呼んでいるらしいが、経験上は深夜が集中力漲る仕事を約束してくれたことは一度もない。仮に徹夜作業に没頭できたとしても、そのツケは翌日または翌々日に巡ってくる。そもそも、集中は常態ではないので、ずっと続くことはない。集中という非常事態の後には、何らかの放心状態がついてくるものだ。

「いまお忙しいですか?」と聞かれて、返事をしているうちはまだまだ集中不十分。「ええ、少し」とか「何か?」と答えられるのは、仕事を流していたり仕事に醒めているからである。生返事という返し方もあるが、これも集中不足の表れだ。ほんとうに没頭するくらい忙しい時は、質問が耳に入らないし、聞こえたとしても返答のしようもない。誰かに「いま何してる?」と電話で尋ねて「運転中」や「会議中」と返ってきたら、運転や会議に集中していない状況である。だいたい、集中していたら携帯に応答しない。


サッカー選手が試合中に、「ただいまシュートを打っているところ」と誰かに語ったり自分に言い聞かせたりすることはありえない。戦闘の最前線にいる軍人にマイクを向けて、「いま何をされていますか?」とインタビューしたら撃ち殺されるかもしれない。「いま? 戦争中です」と親切に答えてくれる軍人がいたら、きっと元お笑い芸人だったのだろう。同様に、「いま顧客満足中」、「いま地球にやさしくしているところ」、「バッターボックスで150キロの速球を打つ瞬間」などの返答はないし、あってはならない。

人がある対象に没頭している時、敢えてそのことを誰かに伝えようとはしない。それどころか、没頭しているのだから、客観的説明を意識の最前線に位置させているはずもない。自分が他人によってよく中断されるタイプかそうでないかをよく考えてみればよい。仕事中に邪魔させない、中断させない、割り込ませない存在になるためには、ふだん調子よく軽々と返事をしていてはいけないのである。いや、「そこに入っていない」から返事ができてしまうのだ。つまり、他人に遠慮させるだけのオーラが出ていない。オーラは「仕事に没頭する人」というブランドイメージによって滲み出る。

背筋をピンと伸ばしてキャンバスに向かうピカソの存在感。あの光線を放たんばかりの強い眼差し。我を忘れることによって、絵筆や絵具が我と一体化し、キャンバス上からアトリエの隅々までオーラが充満した。さらには、棟方志功の板に顔を沈めて魂を彫り込んでいくあのはどうだ。ぼくはテレビで見た一心不乱の姿に感応し、「没頭の精神性」に揺さぶられた。ピカソも棟方も機会あるごとに展覧会で鑑賞しているが、作品を包み込む我を忘れたオーラは色褪せることはない。 

少々苦心する年賀状テーマ

師走である。師走と言えば、年末ジャンボ宝くじ、流行語大賞、M1などの新しいイベントが話題をさらうようになった。昔ながらの風物詩は息が絶え、街も人心も季節性と縁を切っている様子である。忘年会は景気とは無関係にそこそこ賑わうのだろうか。ぎっしり詰まった忘年会のスケジュールを自慢する知り合いがいる。年末に10数回も仰々しい酒盛りをするとは、忘れたくてたまらない一年だったのだろう。何度でも忘年会に出るのは自由だが、その数を威張るのはやめたほうがいい。

かろうじて粘っている年代物の風物詩は紅白歌合戦と年賀状くらいのものか。いずれも惰性に流れているように見える。惰性に同調することはないのだが、年賀状をどうするかという決断は意外にむずかしい。紅白はテレビを見なければ済むが、年賀状は双方向性のご挨拶だ。自分がやめても、年賀状は送られてくる。数百枚の年賀状をもらっておいて知らん顔する度胸は、今のところぼくにはない。というわけで、年賀状の文面を考えるのは今年もぼくの風物詩の一つになる。正確に言うと、その風物詩は今日の午後に終わった。

ぼくの年賀状には10数年続けてきた様式とテーマの特性がある。四百字詰め原稿用紙にして5枚の文章量に、時事性、正論、逆説、批判精神、ユーモアなどをそれぞれ配合している。敢えて「長年の読者」と呼ぶが、彼らはテーマの癖をつかんでいるだろうが、来年初めて受け取る人は少し困惑するはずである。即座に真意が読めないのは言うまでもなく、なぜこんなことを年賀状に書くのかがわからないからである。同情のいたりである。


一年間無為徒食に過ごしてこなかったし、後顧の憂いなきように仕事にも励んできたつもりだ。だから、生意気なことを言うようだが、書きたいテーマはいくらでもある。にもかかわらず、昨年に続いて今年もテーマ探しに戸惑った。先に書いたように、逆説と批判精神とユーモアをテーマに込めるのだから、くすぶっている時代に少々合いにくい。「こいつ、時代や社会の空気も読まずに、何を書いているんだ!」という反感を招かないともかぎらないのだ。だからと言って、ダメなものをダメとか、美しいものを美しいと唱える写実主義的テーマも文体も苦手なのである。

思いきってスタイルを変えようかとも思った。ほんの数時間だが少々悩みもした。しかし、腹を決めて、昨年まで続けてきた流儀を踏襲することにした。そうと決めたら話は早く、今朝2時間ほどで一気に書き上げた。テーマを決めたのはむろんぼく自身である。しかし、前提に時代がある。自分勝手にテーマを選んで書いてきたつもりだが、このブログ同様に、テーマは自分と時代が一体となって決まることがよくわかった。

今日の時点で年賀状を公開するわけにはいかない。というわけで、二〇〇九年度の年賀状(2009年賀状.pdf)を紹介しておく。大半の読者がこの年賀状を受け取っているはずなのだが、文面を覚えている人は皆無だろう。それはそれで何ら問題はない。気に入った本でさえ再読しないのに、他人の年賀状を座右の銘のごとく扱う義務などないのである。さて、年初から一年経過した今、再読して思い出してくれる奇特な読者はいるのだろうか。

標語の読み方

オフィス近くの寺の外壁にガラス張りの掲示板がある。そこに住職の筆になる平易な標語が収まっている。毎月一回新しい短句がお目見えするが、通りすがりにしばし足を止めて見るのが習慣になっている。よそ行きにね回した文言ではなく、さりげない日常語でしたためられているので、瞬時にメッセージがわかる。先月から張り出されていたのが、「言いあうより話しあい 話しあいより聞き上手」という標語。

わかりやすい。わかりやすいが、文字面だけを読んではいけないと感じた。言いあい、話しあい、聞き上手を比較話法で示しているのだが、コミュニケーションの心得として読むか、人間関係のあり方として読むかによってだいぶ解釈が変わってくる。言いあいとは「言い争い」のことなのだろう。言い争いよりも話しあいのほうが人間関係上は好ましい。その通りである。そして、話しあえるためには双方ともに相手の声に耳を傾ける聞き上手であるべきだ。これにも異論はない。

ところが、たとえば対話でも会議でもいいのだが、実際のコミュニケーション状況で「言いあい<話しあい<聞き上手」という比較級的な格付けは可能だろうか。これでは聞き上手どうしが一番いいということになってしまう。コミュニケーションにあっては、激論、談論、会話、傾聴、質疑応答など、どんな局面も現れる。何かが別の何かの上位などではなく、すべての要素を孕んでいる。「~より」ではなく「~も~も」が現実であって、「現実はまずい、だから聞き上手という理想を求めよ」と言い切ってしまえないのである。なぜなら、聞き上手が必ずしも優位の理想ではないからだ。


論理の世界の推論にもこれとよく似た見損じが生じる。ぼくたちは当たり前のように慣れてしまっているが、「Aである。Bである。ゆえにCである」という推論がつねに「ABC」の順次で成されると思っている。これは、他者に説明したり客観化するときの手順であって、実際には並列的にABCを処理していることが多いのだ。たとえばマーケティングミックスの4Pにしても、一つ一つ順番に、または個別に製品(product)、価格(price)、流通(place)、プロモーション(promotion)を画策していくわけではない。仮に局所戦術を立てるにしても、すべての要素に目配りしておかねばならない。

もちろん「PQはどちらがより重要か?」という問いもそれに対する答えも成り立たないわけではない。そのように問うのもいいし、答えるのもかまわない。しかし、「PよりもQ」と言えるためには文脈の指定が必要なのである。ある状況を特定してはじめて、カルシウムがビタミンCよりも重要という比較話法が成り立つ。そのような付帯状況を示さなければ、つまり一般的には、「カルシウムとビタミンCはいずれも重要だ」としか言えない。

さて、言いあい、話しあいよりも聞き上手を上位に置く標語。比較話法の読み方もさることながら、「聞き上手」の読み方にも気を遣いたい。これを「聞き役に回る」と受け取っている人たちが圧倒的に多いのである。熱心に人の話を傾聴しているように見えても、実は頷いているだけ、調子を合わせているだけという場合が目立つのだ。「聞き上手」のポイントは「聞く」にあるのではなく、「上手」にある。つまり、コミュニケーション上手だから聞けるのである。単に聞くだけで上手に程遠いのがぼくたちの常なのだから、やっぱり言いあいも話しあいも併せてやらねばならないのである。

はい、いいえ、わかりません

きわめて限られた場面での話である。どんな場面かと言うと、仕事の現場や会議での意見のやりとりである。たとえば誰かが何かを主張する。その主張へはおおむね「同意する」「同意しかねる」「何とも言えない」の三つのリアクションがある。あるいは、誰かがその主張に対して「~ですか?」と質問する。この場合も、「はい」「いいえ」「わかりません」の三つの応答が考えられる。話をわかりやすくするため、後者の応答パターンを取り上げる。

「あなたは仕事をしていますか?」への応答は「はい」か「いいえ」のどちらかである。「わかりません」は考えにくい。「シゴト? ワカリマセン」と外国人が答えるケースは無きにしもあらずだが、質問の意図がわかる人なら「はい」か「いいえ」で答える。「わかりません」が返されるのは、「あなたは仕事が好きですか?」の場合。「仕事はしているが、好きかどうかがわからない」または「仕事をしたことはないので、好きかどうかがわからない」のなら、「わかりません」と答える以外にない。

問いかけが、たとえば「以上の私の提案に対して、賛否と理由を聞かせてほしい」という、少々議論含みになってはじめて三つの反応の可能性が生まれる。そして、答える人は「はい」「いいえ」「わかりません」と方向性の表札を示し、しかるのちに理由を述べる。意見交換のあとに表札を変えてもいいが、理由も明かさないまま表札を「いいえ」から「はい」へ、「はい」から「いいえ」へところころと変えるのはよろしくない。なお、「わかりません」には理由はいらないという意見もあるが、そうではない。「わからない」だけで済ますのは「関与しない」と受け取られかねない。「わからない」と答えても、「何がわからないか」を説明する責任を負うべきだろう。


現時点でわからないことは、どうあがいてもいかんともしがたい。だから、「わからないこと」を素直に「わかりません」と答えるのを躊躇することはない。むしろ、下手に見栄を張ったり背伸びしたりしてまで「はい」や「いいえ」で答えてしまうと逆に問題を残してしまう。但し、何かにつけて「わかりません」を繰り返していると、「なんだ、こいつは! バカの一つ覚えみたいに……」ということになり、頼りないプロフェッショナルとの烙印を押されてしまう。もちろん、意見のやりとりを前提とする会議のメンバーとしての資格もやがて失うことになるだろう。

誰だって、プロフェッショナル度が高まるにつれ、「はい」か「いいえ」かの二者択一のきつい局面で決断することを求められるようになる。かと言って、毅然とした空気を全身に漲らせて「はい! いいえ!」と力むこともない。決死の覚悟になるから、意見撤回できなくなるのだ。軽やかに「はい」または「いいえ」を明示して、思うところを素直に語ればいいのである。  

三つのリアクションの他に、実はもう一つ、どうしようもない、論外のリアクションがある。それは「無言」だ。無言は「いいえのひねくれた変形」。黙秘も法律上はれっきとした権利だが、共通感覚的には印象が悪い。ぼくの経験では、ダンマリを決め込む人間のホンネは「ノー」である。ホンネが「イエス」ならば、ふつうは「はい」と表明するものである。もちろんイエスマンもいるし、儀礼的な「うなずき」もあるが、黙っている者はそのいずれでもない、「陰のあるレジスタント」だ。なお、複数回繰り返す「はい」と「わかりました」には注意が必要だ。ともに「承っておきます」というニュアンスに近い。 

複雑と単純のはざま

テレビドラマはめったに見ないが、ある番組をBSハイビジョンで見終えてそのままつけっぱなしにしていたら、『坂の上の雲』が始まった。毎週同じ曜日同じ時間帯に拘束されてしまうシリーズドラマに熱心ではないので、普段はすぐにチャンネルを変えるか電源を切る。だが、このときに限ってエコに反してテレビをつけたまま雑用したり本を読んでいた。画面には時々目を向ける程度だったが、音声は当然耳に入ってくる。

たまたま「その場面」ではテレビの前に座り込んでお茶を飲んでいた。秋山好古が上京してきた弟の真之と飯を食っている場面だ。兄が酒を一気に飲み干し、その茶碗を弟に渡す。弟が櫃から飯を盛って漬物をおかずにして腹へと流し込む。茶碗は一つ。やりとりの台詞は細かく覚えていないが、一つの茶碗に象徴される生活スタイルを「身辺を単純に」と描写していたのが印象に残った。しばらくして電源を切ったが、就寝前に身辺単純を「シンプルライフ」に読み換えて、ぼく自身の日々の生活をなぞったりしていた。

というのも、偶然なのだが、その前日にノートに「思考複雑、言論明快、行動単純」という表題で次のようなメモを、文章未推敲のまま記していたからである。

それぞれの四字熟語に異論がないわけではない。場合によっては、思考も言論も行動もすべてシンプルをモットーにしてもいいわけだ。しかし、思考単純、言論単純、行動単純と書き換えてみると、どうしても思考単純だけには納得がいかない。なぜなら、思考の特権は現実から乖離して「何でもどんなふうにでも巡らせる」という自由自在性にあるからだ。自由自在性は複雑をも意味する。どんなに複雑に思考をしても、誰にも迷惑をかけることはないだろう。翻って、その複雑思考をそっくりそのまま言論化すれば他者が困り果てる。ゆえに、若干の複雑さが残るにしても、言語は明快であることが望ましい。また、社会での協働という観点に立てば行動もわかりやすほうがいいだろう。現実側から並べ換えると、「シンプルに行動し、わかりやすく対話し、そしてしっかり考える」ということになる。


一昨年までぼくは『シンプルマーケティング』を標榜して何度も講演していた。今でもこれが拙いとは思っていないが、誤解を招いたかもしれないと反省している。シンプルであるべきは手法としてのマーケティングである。そのことを訴求したいがために、ぼくは市場そのものを「売り手と買い手、商品・サービスと貨幣」の4要素を中心に見るべきだと提言していた。弁明が許されるなら、決して「4要素のみ・・」と言ったわけではない。さらに付け加えるならば、売り手も買い手も人間であるからコミュニケーション・消費・欲望なども含んでいるし、商品・サービスには技術・便益・満足などが関わり、貨幣には金融・価値・家計などの要素が無関係ではない。4要素は周辺へと広がる。中心には周縁がついてまわるのである。

実に複雑な現象をとらえて単純に考えることはできない。複雑な事柄は複雑に考えて扱うしかないのである。しかし、科学がそうしてきたように、複雑怪奇に潜む本質をシンプルな法則でまとめようとし、誰かに伝え誰かと行動して方策を立てるのは人のさがである。複雑な要素を秘めているはずのゲーム――たとえば競馬、囲碁・将棋、サッカーなど――に必勝法や定跡を模索しようとする心理同様、つかみどころのない市場の中にぼくたちは「確かなマーケティング法則」を発見したいと願っている。

単純化は人間能力の限界から来るものなのだろう。複雑を単純に見立てようとするのは、言論と行動のための方便にすぎない。何かを解決するために誰かとコミュニケーションしたり行動したりしようとすれば、複雑な現象を解体して「単純に箇条書き化」することは絶対条件なのである。しかし、しばし解決を棚上げし、言論や行動をも括弧の中に入れてしまえばどうだろう。ぼくたちがいる市場は複雑であり、いかなる手立てを講じても単純に思考することはできそうもない。億単位の売り手と買い手に商品とサービス、兆単位の貨幣……複雑をあるがままに複雑として見つめることは無駄ではない。この作業を経たのちにはじめて、シンプルマーケティングが「身の丈に応じたマーケティング」ということが明らかになるだろう。

「散歩」という一つの生き方

必要があればタクシーには乗るが、ぼく自身は車を運転しない。と言うか、車を生涯一度も所有したことがない。歩行者として車への偏見が少しはあることを認めよう。テレビコマーシャルでエコ減税や助成金を視聴するたび、「それなら、靴こそエコの最たるものではないか。ぼくの靴に助成金を出してくれ」と大人げなく一言申し立てている。

世間には『散歩学のすすめ』という本があり、ウォーキングがファッションの一つと見なされ科学的に効能を説かれることもある。歩くことに目的を置くことも置かないことも自由。「なぜ山に登るのか?」「そこに山があるから」という古典的問答があったが、これにならえば、「なぜ歩くのか?」という問いへの模範応答は「そこに道があるから」になるのだろうか。登山家と歩行家は同列? 歩行一般について言えば、たぶんそうである。

しかし、歩行一般から離れて目を「散歩」に向けてみると話は一変する。散歩は車に乗らない人間の代替手段でもなければ、左右の脚を交互に前へと送る無機質な機械的運動でもなく、ましてや健康や気晴らしという目的を特徴としているわけでもない(なお、散歩の定義に「健康や気晴らしのために」という表現を含めている辞書があるが、センスを疑ってしまう。おそらくその項目を書いた学者は、恐ろしく想像力に欠けているか、一度も散歩をしたことがないのに違いない)。


遊歩や漫歩は散歩の仲間であるが、速歩や競歩や闊歩などはまったく別物だ。散歩にあっては道も行き先も別にどうだっていいのである。散歩や遊歩や漫歩の言い換えとして、ぼくは「そぞろ歩き」という表現が気に入っている。ちなみに、「そぞろ」は「漫ろ」と書く。つまり、漫歩に近いのだが、漫歩と言うと「万歩計」のようで、そこに健康ウォーキングの意味合いが入ってくるのが嫌味である。

散歩の向こうには目的も方向性もない。朝になれば起きるのと同じく、散歩も日々の摂理である。散歩がまずあって、その結果、その効能を「気晴らしになった、爽やかになった、健康になった」と感想を述べるのは勝手である。しかし、散歩に先立ってゆめゆめ目的や効能について語ってはならない。「なぜ散歩するのですか?」に答えてはならない。答えた瞬間、散歩を手段化したことになるからである。

散歩は、車、バス、電車などと同列の移動手段なのではない。「半時間歩いて焼肉店に行く時は手段になっているではないか⁉」と反論されそうだが、それは散歩ではなく徒歩である。焼肉店に向かって歩き出した瞬間、それはもはや散歩と呼べる行為ではない。すなわち、散歩とは、他の交通手段と比較しえない、自己完結的な行為そのものなのである。目的や意義に先立つア・プリオリな行為なのである。ゆえに、「散歩のすすめ」は成り立たず、「散歩のすすめ」のみが本質を言い当てる。

言うまでもなく、「正しい散歩」という概念すらもない。とにかく「一歩を踏み出す」。いや、こんな力強い大仰な表現は散歩にふさわしくない。靴に履き替えて左足でも右足でも気に入ったほうの脚をとりあえず動かしてみる。「どう歩くか」も不要である。ただひたすらそぞろに歩くのである。もうやめよう。「散歩かくあるべし」を語れば語るほど、散歩の意義付けになってしまい、やがて目的論に発展しかねない。

根源的なヒューマンスキルとは?

気に入っている笑話がある。Cレベルの差別用語が含まれており、「十分に注意」して使う必要があるものの、出版されている本からそのまま引用するので寛容のほどお願いしたい。題して「シェアNo.1を目指して」というジョークだ。

ある乞食の前に神が降り立ち、一つだけ願いを叶えてやろうと言った。乞食は懇願した。「お願いです。最近物乞いの競争が激しくなっています。どうか私をこの町でたった一人の乞食にしてください。」

抱腹絶倒の笑いではないが、人間臭い可笑おかしみが漂う。気がつけば、謙虚さとプロフェッショナル意識に感心してしまっている。生涯たった一度の願い事を叶えるチャンスなのに、「私を億万長者にしてください」と嘆願せずに、「オンリーワンにしてくれ」と頼む。当該市場でのオンリーワンはそのまま占有率ナンバーワンになる(但し、ナンバーワンはオンリーワンとはかぎらない)。競合相手がいなくなって市場独占が実現する。しかし、競合相手の取り分が自分に回ってくる保証はない。もしかすると、それぞれにお得意さんがいたかもしれないからだ。「あいつには恵んだけれど、お前にはやらん」というケースもありうる。したがって、市場でのオンリーワンが確定してもなお、彼はこれからも営業努力を続けることになるだろう。

もちろん大統領やマンションオーナーや宝くじ一等当選を願ってもよかった。しかし、彼は「業界トップ」になることを望んだ。名実ともに現業を究めたいという彼の思いを尊いものと感じるのは異様なのだろうか。どこか彼に共感するのはぼくだけなのか。自分は億万長者などになりたいのではなく、またそうなるために現在の職業を選んだのではない。一番になれるか固有の存在になれるかどうかはわからないが、プロフェッショナルを究めたい――そう考えている職業人は少なくないはずだ。


最高善を幸福としたアリストテレスにしたがえば、「私を幸せな人間にしてください」とお願いすればすべてが叶う(厚かましく「世界一幸せな」などと言うことなかれ)。アリストテレスによると、財産であろうが友人であろうが愛であろうが、何を求めようとも、究極は「幸福のため」なのだそうだ。幸福に対して、「何のための幸福?」とは問えない。いくら幸福以上の価値を探しても、「幸福は幸福のため」という無限連鎖が続くのだ。人は幸福になるために仕事に従事し生活を営んでいる。アマノジャクなぼくは大っぴらに幸福を掲げるのを好まないので、愉快や上機嫌に言い換えている。

ある日、幸運なあなたの前に神が降り立つとしよう。そして「何でも叶えてやる」ではなく、「一つだけお前が望むヒューマンスキルを授けてやろう」と告げるとしよう。あなたはどんなヒューマンスキルを乞うだろうか(物乞いではなく「技乞い」や「能乞い」や「力乞い」)。これまで挑戦し学び続けてきたが、未だ道遠しにあるスキルをお願いする? それとも、ありとあらゆる能力を発揮できる手綱のようなスキルを望むのか? あるいは、もっとも得意とするスキルにさらに磨きをかけるべく、敢えて自信のあるスキルを授けてもらうのか?

もう一度確認しておこう。神が降り立って絶対に叶えてくれるスキルなのである。後にも先にも一度きりの願掛けのチャンスなのである。ぼく自身の願掛けは今日のところは伏せておくが、お節介を承知の上で、ぼくよりも一回り以上若い人々には助言しておきたい。「想像力」または「言語力」のいずれかを乞うのがいい。想像力は経験と合体して他のスキルを起動させる核となり、言語力は他者や世界との関係を深め知を広げてくれるエンジンになる。いずれも人間資質の根源であり、幸福が最高善であるのと同様に、「なぜ想像力と言語力なのか」とは問いようのない、人間固有の最高次なヒューマンスキルだとぼくは考えている。

知ろうとする努力の行く末

あることについてあまりよく知らない。あまりよく知らないが、興味をもったので本を読むなり調べるなり誰かに聞くなりしてみる。この場合、知ろうとする努力によって想定する行き先は、言うまでもなく「少しでもよく知る」であるはずだ。そうでなければ、誰も延々と知る努力を重ねようとはしないだろう。ところが、意に反するかのように、知ろうとする努力が知ることを暗黙的に約束してくれるとは限らない。

どこまで知ろうとするかによって、知に至る満足度や達成感は変わるものである。知りたいことをエンドレスに深く広く追いかければ追いかけるほど、求める知はどんどん逃げていく。いくら知ろうとしても満たされず、目指した極点には行き着きそうもない。逆に、知りたいことを少なめに見積もっておけば、努力はそこそこ程度の知識にはつながってくれる。おそらく「身の程をわきまえ知に貪欲になりすぎるな」という類の教訓はここから生まれてくるのだろう。

しかし、ほんとうにそれでいいのだろうか。それが何事かを知ろうとする基本姿勢であってもいいのだろうか。こんなふうに真摯な問いを投げ掛けながらも、ぼくはさほど悩んではいない。際限なく知ろうとする努力を怠れば、身につけた小手先の知識すら有用にはなりえないだろう。知への努力は「飽くなきもの」でなければならないと自覚している。「何? それでは永久に満足感も達成感も得られないではないか」と考えるのは、努力が足りないからにほかならない。知ろうとする努力に際限はないが、知ることを許された時間は有限である。時間が知の領域を決めてくれるのだ。それゆえに、時間に限りがあることを十分に了解して知ろうとすれば、努力は報われるようになっている。


ここからは、「人間には知ろうと努力する遺伝子が備わっている」という前提で話を進める。第一に、すでによく知っていることを人は知ろうとはしない。せいぜい再認で終わる。第二に、ある程度知っていることなら、足りない分を知ろうとするだろう。なぜなら、「知への努力」という前提に立っているので、ある程度知っていても「もっと知りたい」へと向かうはずだから。第三に(そしてこれが重要なのだが)、知らないことに対する人の振る舞い。微妙だが、「ほとんど知らない」と「まったく知らない」で大きな差が出てくる。

「ほとんど知らない」とは、「わずかでも知っていること」を意味する。同時に、「自分があまりよく知らないこと」をわきまえている状態でもある。たとえば、「彼のこと、知っている?」と聞かれて「ほとんど知らない」と応答できるのは、彼の職業については知っているが、「出身地、趣味、家族構成」などについて知らないということである。つまり、彼について不足している情報があることを認識できている。ところが、「まったく知らない」は箸にも棒にもかからない状態だ。いや、箸も棒すらもない。知らないことすらも知らないし、絶対に知りえない。完全無知。これに対しては、知る努力をするDNAが備わっていてもどうにもならない。

完全無知から脱皮する手立てを自力で創成することはできない。「彼のこと、知っている?」と尋ねてくれる他者の、外部からの刺激がきっかけになって初めて、知ろうとする努力への第一歩を踏み出せるのだ。言い換えれば、ぼくたちは「少し知っている状態」を出発点にしてのみ知ろうとする努力ができるのである。しかし、ここにも遺伝子が機能できない盲点がある。青い空に流れる白い雲を見慣れたぼくたちは、青い空と白い雲についていったい何を知っているのだろうか。見えているからといって知っていることにはならない。仮に知っていると思っていても、何かを省略し別の何かを抽出した結果の知ではないか。つまり、「知っているつもり」の可能性が大きい。

楽観的に見れば、知ろうとする努力には「少し知り、ある程度知り、やがてよく知る」というプロセスと行く末があるのだろう。しかしながら、知ろうとする努力の行く末が往々にして「知っているつもり」であることも忘れてはならない。そして、「知っている」と「知っているつもり」の違いを認識させてくれるのも、ほかならぬ他者の存在である。人は一人では何事も知ることはできない、他者と交わってのみ知が可能になる。

「The+普通名詞」の威風堂々

昨夜ブログを書き終えてから、テーマに関連した記憶があれこれと甦ってきた。考えたり書いたりしている真っ最中よりも、一応のピリオドを打って一息つくや否や、欲しかったアイデアや忘れてしまっていた知識がふつふつと湧いてきたりする。エンジンのかかりが遅いのか、それとも集中のご褒美なのか……。おそらく後者なのだろうと楽観的に受け取っている。

閑話休題。普通名詞が固有名詞化する話の続きである。英語の“president”を辞書で引けば、「社長、会長」が最初に出てきそうなものだが、手元の小学館英和中辞典では、「《しばしばthe P-》(米国など共和国の)大統領」が筆頭である。ちなみに“the Chief Executive”も大統領のことだ。定冠詞“the”に続く普通名詞の頭文字を大文字にすれば、固有の人やモノを示すようになる。

“The New York Times“The Financial Timesは新聞名である。ところが、「ニューヨーク」や「フィナンシャル」などのことばを一切用いない有名な新聞がある。ご存知、ロンドンの“The Timesがそれ。その名もずばり「ザ・新聞」なのだ。まるで「オレこそが新聞だ!」と主張しているようである。「唯一無二」の雰囲気を湛えるが、早い者勝ちの既得権なのだろうか。そう言えば、リッツカールトン大阪のメインバーも“The Bar”である。昨日の「喫茶店」同様、屋号自体が「バー」なのだ。


定冠詞はついていなかったと思うが、“King of Kings”という題名の映画があった。「王の中の王」であり、ほとんど“The King”という意味になるだろう。実はキリストを意味し、“God(神)のことでもある。王という地位についた権力者なら誰もが自分を「唯一無二の絶対的な存在としてのキング」を強く自覚したと思われる。アレキサンダーもヘンリー8世もナポレオンも「ザ・大王」のつもりだったのだろう。

日本語・日本史に視線を向ければ、“The”などという、使い勝手がよくて一番乗りできる定冠詞は見当たらない。定冠詞はないが「冠位」や「称号」で表わしたのだろうか。わが歴史で普通名詞が特定個人を指すようになった例を頭の中でまさぐってみた。すると、見つかった。二日前にぶらぶらした四天王寺。四天王寺と言えば、「お大師さん」である。

そう、お大師さんとは弘法大師のことなのだ。大師の号を授けられた錚々たる高僧の中でも、「ザ・大師」は弘法大師その人を表わす(調べてみたら、時の天皇から大師を賜った高僧は27人とのことである)。「エガワる」のような屈辱もあるが、固有名詞が普通名詞になるのはたいてい名誉だ。しかし、普通名詞が固有化するのにはそれをも凌ぐ威風堂々の趣がある。ぼくの主宰する私塾が「塾」と呼ばれることはありそうもないが、すべての努力や精神の向かうところは、唯一無二の固有化なのに違いない。