「日」と「者」の夏

歯医者では受付で「非接触おでこ検温」される。先週のこと。「今日はちょっと高いですね」「何℃ですか?」「37.2℃です」「急ぎ足で来ましたからね」と言って手指をアルコールで消毒。この体温で治療が拒否されることはない。

中お見舞い」「残お見舞い」の葉書はありがたいが、水色の紙面に金魚や風鈴があしらわれていても、体感温度が1℃上がる。挨拶代わりの「今日もいですねぇ」の先制攻撃には2℃上昇うだるようなさ」と言うアナウンサーの声だと一気に3℃!  

ゆっくり歩くときついので、速足で一目散に歩く。アスファルトを避けて地下に潜る。何も見たくない、何も感じたくない。必然、視野角が狭くなり感受性も鈍る。中国の古い格言に「暑さの厳しい所から偉人は出ない」というのがある。ひどい偏見だと思う一方で、暑い➔頭を使わない➔賢くならない……と短絡的に連想して危うく同意するところだった。アフリカ諸国と昵懇じっこんの仲を保ち続けたい今の中国なら、決して口にすることはないだろう。


暑という漢字は「日」と「者」でできている。日は太陽を表わす。者は人のことではなく、「煮る」の煮の元になった字である。太陽が強く照りつけて、まるで煮えるような熱を帯びている状態そのものだ。こう書いているうちに、再び体感温度が上がってきた。

『歳時記百話』(高橋睦郎著)の夏のページをめくっていたら、まさかの「暑」の見出しがあった。次の文は夏という漢字に言及して書かれた箇所。

『日本国語大辞典』は八語言説を列記するが、最初にアツ(暑)の転、アツ(温)の義、アツ(熱)の義を挙げ、二にアナアツ(噫暑あなあつ)の義、三にネツ(熱)と通ずるか、という。語源としての当否はともかく、夏は暑いという実感が説の根拠だろう。関連の季語には暑さ、大暑たいしょ極暑ごくしょ溽暑じゅくしょ炎暑えんしょなどがある。

このくだりを読んで、漢字の凄みが伝わってきた。訓読みすると、噫は「おくび」であり、溽は「むしあつ(い)」だそうだ。読んでいるうちに窒息しそうなほど息苦しくなってきた。マスクのせいばかりではなさそうだ。

「こまめ」がわかりにくい

わかっているつもりなのに、実はあまりわかっていないのが「こまめ」。やわらかい語感と見た目に反して、癖の強い晦渋語の一つである。

こまめ(【小まめ】)とは、まずもって骨惜しみをしないことだ。まじめであり、何かに向かってかいがいしく行動している様子が見えてくる。しかし、「もっとこまめに何々していれば……」などと反省するにしても、その「こまめ」と「もっとこまめ」の違いがはっきりしない。

「熱中症予防にこまめな水分補給を」と言われてから、四六時中ちびちびと飲んだ人がいた。結果、こまめにトイレに行かざるをえなくなった。こまめの頻度と量は具体的に示しづらい。体調や暑さなど、人によって状況によって当然変わる。「30分ごとに」と言う専門家は飲む量を示していなかった。「1015分おきに一口か二口」という助言もあるが、炎天下で15分歩く時に上品な一口では足りないのではないか。


こまめから、面倒くさがらずに細々こまごまと注意したり気配りしたりする様子がイメージできるが、こまめの程度、つまり頻度や量については個人の判断に委ねられる。だから、かねてから水分補給の修飾語として適切なのかどうか気になっていた。

喉の渇きを覚えてから水を飲んでも手遅れ。それでは予防にならないらしい。しかし、喉が渇く前というのはある程度喉が潤っている状態である。「もっと水を!」と求めていない状態で口に水分を運ぶのは簡単ではない。それができるためには、生理的欲求まかせではなく、意識的に水分補給を習慣づけする、何らかの訓練がいる。

こまめとは「労をいとわない、かいがいしく行動すること」とある辞書に載っていた。そうすると、「こまめに」と「こまめな」に続く行為が必然絞られてくる。こまめに辞書を引けても、こまめに笑うことはできそうもない。こまめな水分補給は推奨されるが、こまめなアルコール摂取はよろしくない。

「なまものですので、なるべく早めにお召し上がりください」とは書いてあるが、「なるべくこまめにお召し上がりください」という注意書きは見たことがない。仮に書いてあったとしてもどう食べればいいのかわからない。だから、「なるべくこまめに水分補給をしてください」もやっぱりよくわからない。こまめの代案を考えてみようと思うが、今日のところは思い浮かばない。

編まれたものを読む

文学の類はだいたい文庫で読んできた。小学生の頃から三十半ばまではよく読んだ。それ以降は文学、とりわけ小説はあまり読んでいない。文学全集を買った時期もあったし、一部残っているが、数百ページにわたって二段で組まれた長編小説を読む持久力は今はない。

先日、書店でリーフレットを手にした。2020年岩波文庫フェアの『名著・名作再発見! 小さな一冊を楽しもう』がそれ。紹介されているのは60冊。数えてみたら、完読したのは約20冊、他になまくら読みが数冊。いわゆる推薦図書の類は威張れるほど読んでいないことがわかった。

仕事の合間に読むには編集ものがいい。エッセイや評論なら小論集、小説なら短編集、思想書ならこまめに章分けされているものに限る。この種の本の最後には「本書は……寄稿文を厳選し……テーマ別に再編集して刊行した」というような一文が添えられている。そう書かれている通り、目次を見れば、よく分類して編まれており、一編に割かれているのはたかだか10ページである。


今年の1月に『小林秀雄全作品』の寄贈を受けた。全28巻と別巻4冊。他に単行本や小林秀雄について書かれた本があり、しめて60冊くらいある。

それにもかかわらず、先週、『批評家失格』という文庫本を買った。小林秀雄の22歳から30歳までの初期評論集。ここに収録されたすべての評論やエッセイは全集で読めるが、どこかの一巻にまとめられているわけではない。著者亡き後に編集されたこの文庫本は「方々ほうぼうから」小さな作品を集めて編んである。まとめ読みするには便利な一冊だ。念のために書くが、小林秀雄の作品集だが、小林秀雄が編んだのではない。編んだのは池田雅延という、小林秀雄を担当していた元新潮社の編集者である。

編者は小林秀雄の批評の基本が「ほめること」にあったという。ほめれば、自分を知って自分の生き方が模索できるという。「ところが、ほめるのではなくけなすときは、手垢に塗れたカードを切って相手を脅すか見栄を張るか、いずれにしても昨日までと変らぬ自分が力むだけである」(解説より)。小林秀雄はドストエフスキーをほめ、モーツァルトをほめ、ゴッホをほめ、本居宣長をほめた、そして自分自身と出会い続けたというのである。

ともあれ、全集などそう易々と読めないし、仮に読むとしても、編まれた一冊の文庫本のようには読めない。この種の「ガイドブック」がないと、全集とは格闘するような付き合いしかできないのだろう。

街と「まち」という響き

差異を辞書的に探るつもりはなく、また詳しく知っているわけでもないが、街と都市を無意識のうちに使い分けている。都市の論理と書いても街の論理とは書かないし、街の佇まいとは言ってみるが、都市の佇まいとはたぶん言ったことはない。

先日、シニアの暮らしと生き方、趣味や交流などについて、ホームページに掲載するコラムを依頼され、8編書いた。そのうちの一編で「街」と表記したところ、「まち」にしたいと言われた。その文章では代替しても問題はないので了承した。行政では「まちづくり」と書く。それに、街や町でイメージが拘束されるよりは「まち」のほうが含みもある。

街と都市は互換性があるものの、都市がより造形的かつ機能的寄りで、街がより庶民的で日常的寄りという印象がある。これはあくまでも、対義語となりそうな自然や田舎や村を一切考慮せずに考える、ぼくの個人的なイメージにほかならない。

ちなみに、都市をマクロ、街をミクロととらえるなら、今住む場所から歩いて行ければ、仮にそこが一般的に大都市や大都会と呼ばれているエリアであっても、自分にとっては街に仕分けられる。大阪都心で暮らすぼくにとっては、御堂筋のオフィス街も心斎橋のショッピング街も、楽々の徒歩圏内なので、がいまちになる。

日暮れ時の御堂筋の大丸前。
心斎橋、かつての橋の名残り。

人が消えて無機的な光景になると、街は街でなくなる。街が街であるためには足し算が必要だ。実景から動く人々を引き算して俯瞰すると、街は模型になってしまう。盆の時期の数日間、人気ひとけのない模型になるのが例年、しかし今年はそこそこ人がいて模型にならずに済んでいる。ただ、大勢の観光客でごった返していた界隈の昨夏の賑わいにはまったく及ばない。

回りに造形物が一つもない自然の中で夕陽を見送り朝陽を迎えたことがある。自然から受けるこの印象に街が手も足も出ないわけではないと思った。建造物のシルエットが邪魔をして、眺める夕空の面積が小さくなる。それは愛すべき光景でもある。そして、実際に街に住むのと同じくらいかそれ以上に「まち」という響きが気に入っている。

読み書きは断章で㊦

『読み書きは断章』の続き。㊤で「暑中お見舞い」と書いたので、㊦の今回は「夏でもマスク、残暑お見舞い申し上げます」。

休日は「窮日きゅうじつ  ハッピーマンデー、海の日、山の日などと、休日歓迎ムードが盛り上がっていた数年前。翻って、休み多くして困窮している知り合いが増えてきた今日この頃。とりわけ今年の夏は休日の過ごし方が難しい。昼は自宅で素麺か町内で蕎麦、夜も近場でビールと予算相応のつまみがよろしいようで。

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ボケないようにと無理してまで脳トレに励むのはネガティブな生き方。ボケて何が悪いんだと居直るのがポジティブな生き方。ネガティブに対してポジティブはつねに優勢である。

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2019年秋のギャグ予言  「食材相場はね、相対的に肉安にくやす魚高うおだかで動きますよ。だから、秋刀魚は今が買いだよ、お客さん」。

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繰り返し  繰り返しはマンネリズムと油断を生む。同時に、繰り返しは熟練をもたらす。マンネリズムと油断につながらないように、繰り返しながらも少しずつ何かを変えるのがいい。それが緊張感と新鮮味を担保してくれる。つまり、繰り返しは、同じことを繰り返さないことによって成り立つ「ジレンマ的修行」である。

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ないないづくし  なじみの店がない(消えた)。財布の中に現金がない(キャッシュレス時代に突入)。他人に会わない(ソーシャルディスタンス)。喋らない(マスクで雄弁・駄弁を封印)。祭りがない(屋台が出ない)。無料の団扇が手に入らない。厚化粧の着物びととすれ違わない。そうそう、わがオフィスでは工事でエレベーターが動かない。なお、まったく心当たりがないが、オフィスに着いたらフェイスタオルがない。

読み書きは断章で㊤

暑中お見舞い申し上げます。読んでくださる方々のために軽い断章。粘りを欠く自分のためにも短い断章。

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大阪発――最低気温が最高  最低なのに最高? すぐには呑み込めなかった。811日(火曜日)の最低気温はほぼ30℃。これは137年前に観測が始まって以来最高気温の記録らしい。一日の最高気温と最低気温が同じではなく、かろうじて数℃差があることにほっとしている自分。

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ガラス一枚  あっちは灼熱、こっちは涼感。ガラス一枚で隔てられる二つの世界。今こっちにいる幸せは、後にあっちにいる不幸を倍増させる。

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『越境する線画』@国立国際美術館  入口に掲示されたイントロ文――

紙のうえに線を引く(……)絵画や彫刻のようなジャンルにはなりえません。構想のため、備忘のため、練習のため、確認のため、等々と、線描は伝統的に「完成」以前の準備段階とみなされてきたからです。

これと同じことが「メモ」にも言えそう。絵画や彫刻の前段階が線画なら、文になる前の未成熟の文字は点メモだ。後世の人たちがメモを集めて『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』を編集した。本人が作品になることを想定していたはずがない。
メモには、決して完成形ではない、中途半端なイメージがまつわりつくが、いつかどこかでメモそのものが完結した文芸のジャンルになるかもしれない。

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餅は餅屋  これが口癖の先輩がいた。ずっと餅。「馬は馬方」とか「蛇の道は蛇」とかに言い換えない。ところで、同じ漢字が二度出てくる慣用句、当たり前のことを言っているにすぎない。いくらでもできる。米は米屋、魚は魚屋、蟻の道は蟻……。「悪人は悪い人」のような同語反復に近い。
同じ漢字を二回使うならもう少し工夫して遊びたい。作ってみた。「人の麺じゃなく、人の米が食いたい」。

不味と美味を隔てるもの

食べることについて語れるのは、具体的な〈実践知〉がいくらか備わっているからだろう。ほんとうのところは、「生きること」について堂々と語りたいのだが、日々生きているくせにつかみづらく手に負えない。と言うことで、食べることは生きることの一部であると考え、食べることを語って生きることを語ったことにしてしまおうという魂胆である。


意外に思われるだろうが、人生史上ダントツに不味かったパスタは本場イタリアで食べた一品。ミラノのブエノスアイレス通りから路地へ入った、場末の大衆食堂だ。「おそらく美味うまくない」という直感が働いたが、パリから移動して投宿したばかりのホテルから近く、妥協した。パスタは直感通りの不味まずさだった。茹でおきしていた麺を皿に盛って熱々のトマトソースをかけているのが客席から見えた。しかし、店構えも客層も1960年代のイタリア映画を思わせる雰囲気があり、食べているうちに「愛すべきマズウマ」に変化して救われた。

あれから十数年、つい最近救われないパスタを専門店で注文してしまった。オフィス近くのモールで用事のついでに初入店。あまり時間がなかったので、「本日のおすすめ」を告げられるままに選ぶ。ランチの名は忘れたが、見たままに言えば「芽キャベツとシーフードのレモン風味のスパゲッティ」。きれいに盛り付けられ、見た目は美味そうだった。

不幸にして、口に運ぶごとに不味さがつのった。失望した。パスタも具材も個々には悪くない。具がスパゲッティを、スパゲッティが具を拒否したまま皿に盛ったのが問題なのだ。あくまでも類推だが、別途下味をつけて用意していた芽キャベツとシーフードを、茹でたてのスパゲッティに「載せた」だけのようである。つまり、えていない。

では、和えさえすれば美味くなるのか。いや、そうではない。具材を混ぜることと、具材を和えて味を合わせることは別なのである。芽キャベツという案外難しい食材を使いこなせなかったのかもしれないが、和風パスタという何でも具材に使ってしまうジャンルがあるように、上手に調理すればパスタは具材を選ばない。以前タケノコとベーコンを合せて自作したことがあるが、アルデンテによく合った。

もし芽キャベツが難しいのなら、生のトウモロコシで作るパスタはもっと扱いにくいかもしれない。足繁く通うわけではないが、年に数回寄るお気に入りのイタリアンで、リングイネのパスタを食べた。大胆にも素材はトウモロコシだけ。仕上げに黒胡椒とパルミジャーノのみ。これだけなのに調味の加減とえ具合が絶妙だった。これぞ調和である。不味ふみ美味びみを隔てるものを一つ選ぶとすれば、それは〈和える〉という料理、つまり「理のはかりよう」だと思われる。

七月のレビュー

二月、三月からあっという間の感覚で今日に至る。百数十日を振り返れば、日々微妙な陰影があったし凹凸もあったにもかかわらず、無念なことにコロナが諸々を一括りにしているかのよう。久しぶりに会った知人との共通の話題もそれだけだった。とりわけ七月は独占された。わが日々はコロナだけじゃないぞという証を記録しておかねばならない。


人混みの多い観光地は苦手だが、コロナを逆手に取って――おそらく四半世紀ぶりに――嵐山へ出掛けた。ピーク時の賑わいからすれば、かなりの閑散ぶりだと聞いた。福田美術館の若冲展は要予約の入場制限。気持ちは複雑、しかしゆっくり鑑賞できた。

帰りに天龍寺に寄ってみた。ちょうどよい咲き具合の蓮をテーマに撮ったところ、そぼ降る小雨が描く水紋が粋な演出をしてくれた。

昨年の暑さは凄まじかった。毎日の35℃越えは当たり前、出張先では38℃に苦しめられもした。それに比べれば、今年は過ごしやすかった。エアコンに依存しない、こんな七月はあまり記憶にない。

ふらふらになってから水分補給しても熱中症対策にならないように、へばってからスタミナ食を摂っても間に合わない。八月対策の転ばぬ先の杖はもつ鍋。使ったの小腸のみ。韓国風ではなく和風味。自家製なので〆のうどんは最初から入れる。

地元大阪の公的イベントはほぼすべて中止になった。例年5件ほどの事業プロポーザルの審査員を仰せつかるが、今年はあるはずもないと先読みしていろんな予定を入れていた。ところが、声が掛かった。御堂筋イルミネーションは三密にはならないし、むしろこの状況だからこそ光と輝きで祈り、癒し、励ます格好のイベントになるのではないか……という次第で、急遽開催が決まったのである。

審査会場の1階の、亀がゆっくりと泳ぐフロア・プロジェクションが微笑ましかった。

普段着の半袖のシャツを着ないわけではないが、夏でもシャツは長袖を着ることが多い。特に、冷房の強い電車に乗ったり美術館やカフェで長居したりしそうな時は決まって長袖。袖の長さで温度調整するためだ。

にもかかわらず、珍しく半袖のシャツを買った。生地を裏使いした仕立て。表地はぼくには派手だが、裏地なら着れそうだ。なお、リバーシブルではないので、表地・裏地と言っても意味がない。「さりげなく表地がちらっと見えるのがおしゃれ」と女性店員は言ったが、そのためには二つ三つボタンを外さねばならず、逆にわざとらしくなるのではないか。


昭和家電の思い出

自宅に電気スタンドが二つある。どちらも省エネ対応製品ではない。二つのうち古いほうは、1987年会社創業時のお祝いに電化製品販売店の知人から贈られたもの。首と言うか胴体と言うか、くねくねと上下左右に曲げられるタイプ。当時としては新しかったのだろうか。

何年か前に「大阪くらしの今昔館」で昭和家電を一堂に集めた展示会を観た。家電メーカーの海外販促の仕事を手伝っていた関係で、松下電器(現パナソニック)とシャープの展示館は見学している。昭和家電はおもしろい。実際に使っていたので肌感覚がよみがえる。父親が新しい家電製品に飛びつくタイプだったので、たいていの製品でわが家は町内で一番乗りしていた。

その「今昔館」で買った図録『昭和レトロ家電』を眺める。数ある家電のうち、昭和30年代の白黒テレビ、洗濯機、トースターなどが特に懐かしい。電気冷蔵庫が発売されて重宝したが、その直前までは氷式冷蔵箱を使っていた。毎日氷屋が運んでくる氷を入れて冷やす。電気製品ではないから図録には載っていないが、今にして思えばあの冷蔵箱はレトロ中のレトロだった。


昭和31年、弟が生まれた直後に母親が商店街のガラポンで特賞の玉を出してみせた。景品は洗濯機だった。親族の誰かがリヤカーを借りてきて自宅に運んだ。手動の脱水ローラーがついた初期のものである。「わたしは引きが強い。あの子は運を持ってきた」と母親は自慢していた。

小学校4年の時だったと思うが、海外旅行できるほどの大きなトランクのような重量級の大物がやってきた。母の弟は当時松下電器に勤めていて、画期的な商品の一号機が出たと父親に伝えた。父親がパスするはずがない。何台売られたのか知らないが、かなりの希少品だったことは間違いない。

それは、オープンリール方式のテープレコーダーだった。わが家にやって来てしばらく、ただ声を吹き込んで、それを再生して喜んでいるだけだった。町内の人たちや友達がよくやって来て声を吹き込んでは、自分の声が変な声に聞こえたのでケラケラと笑っていた。ただそれだけ。

みんなが飽きかけた頃から父親が当時習っていた民謡の練習に使い始めた。その後は何年も埃をかぶったが、大学生になったぼくが英語の勉強に使うようになった。テレビの英語番組を録音したのだが、テレビとテープレコーダーを直接つなぐ機能がないので、テレビのスピーカーの前にマイクを置いて、声も音も出さずに録音していた。後で再生すると、英会話シーンの合間に「ご飯、できたよ~」という母親の声が入っていたりした。

昭和家電は微笑ましいノスタルジーだ。