ブリコラージュ雑記

文化人類学者レヴィ=ストロースは、日頃から寄せ集めてきた材料を使ってものを作ることを〈ブリコラージュ〉と呼んだ。ぼくは日頃からいろんなことを断片的に書いてまかない風に文章を綴っている。言ってみれば、ブリコラージュ雑記のようなものが元になっている。


敬虔な寡黙  寒空のもと、堀の水面にただ影を落として沈黙する城の石垣。ぼくはと言えば、すっかり疲れているにもかかわらず、語りえぬものを今もなお饒舌に語り続けていて、まだ懲りない。やむをえない。居合わせた人間がみんな敬虔な寡黙を貫けば、何も動かないだろう。威風堂々とした巨石は黙って動じないが、ちっぽけなぼくたちは喋って動くのがお似合いだ。

翻訳不能性  年末に贈られたあんぽ柿がちょうど食べ頃になってきた。調べたわけではないが、あんぽ柿は日本の特産に違いない。英語圏に存在しないものは英語に訳せない。「いや、ネットで調べたら、あんぽ柿は“partially dried Japanese persimmon”と書いてありましたよ」。きみ、いちいち「パーシャリィ ドライド ジャパニーズ パーシモン」と言うのかね。長ったらしいから、頭文字をつなげてPDJPとでも呼ぶ? 「部分的に乾燥させた日本の柿」などというのは単なる説明に過ぎないではないか。「では、どう言えばいいんですか?」 きみ、見たことのないものはどう説明しても、どんなに巧妙に訳しても伝わらないのだよ。だから、“anpo gaki”と言うだけで済む。

幸せは少しずつ  先日観た映画『皆さま、ごきげんよう』はシュールなコメディで、ぼく好みだった。パンフレットに「幸せは少しずつ」とあり、これに異議はない。続く文章が「寒い冬の後に花咲く春がやって来るように、明日は今日よりも良いことが待っている」。皆さまの明日がそうなることを願ってやまないが、現実を直視してみよう。そんな都合のよい展開ばかりではない。

『欲望の資本主義』  BSのこの番組は出色の内容だった。とりわけ経済の諸現象をコンパクトにあぶり出す表現に大いに関心した。たとえば「現代は成長を得るために安定を売り払ってしまった」……「見えざる手などない。ないものは見えない」……。拙い詩を書いてみた。

それは明るいのか
それは暗いのか
それは見えるのか
それは見えないのか
それは過去なのか
いや、近くに忍び寄る未来

午前1150  電池の切れている腕時計があるのを思い出し、電池交換しようと引き出しを開けた。とある土曜日、時刻は午前1150分。取り出した時計、きっかり1150分を指していた。「おや、修理したのだったか……」。記憶が危うくなっているのではと少々不安になる。秒針は動いていないが、この時計は秒針を止める省エネ機能付き。なので、分針の動きを1分間じっと見つめた。左手首の腕時計と交互に見比べ、やはり電池切れだと確認できた。記憶に間違いがなかったことに安堵して出掛けたが、電池交換するのを忘れた。引き出しの中から机の上に場所を変え、その時計は今も長期休暇続行中である。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です