抜き書き録〈2023年2月〉

今月の抜き書き録はコーヒーにまつわる既読本から3冊をピックアップ。

☕ 『人生で大切なことはコーヒーが教えてくれる』(テレサ・チャン 著/佐々木雅子 訳)

コーヒーを最も美味しく楽しむ方法は、直前に豆を挽くこと。豆は、挽かずに密閉した容器で保存しておくと、新鮮さが長持ちする。
豆を挽くと、コーヒーの風味である芳香油が、豆から放出される。同時にコーヒーの新鮮さを失わせる最大の敵、酸素にもさらされることになる。

自宅では飲む直前にコーヒー豆を挽くのが以前からの習わし。他方、消費量の多いオフィスでは市販の挽いた粉を使っている。時間に余裕がある時はオフィスでも今年から豆を挽くことにした。直前に挽けば強く香りたつ。粉になるとは、劣化のきっかけになる酸素とふれあうこと。手際よく淹れ、出来上がりをすぐに啜るのが美味しい作法である。

☕ 『バール、コーヒー、イタリア人 グローバル化もなんのその(島村菜津 著)

しっかりと目覚めているように、
日に四〇杯のコーヒーを飲む。
そして、暴君や愚か者どもといかに戦うかを、
考えて、考えて、考えるのである。
(ヴォルテール『コーヒー、神話と現実』)

「暴君や愚か者どもといかに戦うか」という一節が、ロシアの現在進行形の不条理な侵攻を連想させる。それはともかく、ヴォルテールという哲学者/詩人はコーヒー中毒だったようだ。四〇杯とは度を越すにもほどがある。体験的には、コーヒーを飲んでも思考力にはあまり効果がない。ぼくは日に34杯飲むが、眠気覚ましのためではなく、ホッと一息つくためだ。

☕ 『珈琲のことば 木版画で味わう90人の名言(箕輪邦雄 著)

収録されている著名人のコーヒーにまつわる名言を半数ほど紹介したいくらいだが、そこまで一言一句抜き書きするくらいなら、買っていただくほうが手っ取り早い。渋沢栄一の一編も捨てがたかったが、悩んだ挙句、下記の一編を選んだ

すぐそこの角を曲がれば、空に虹が見える。
だから飲もうよ、一杯のコーヒー、そしてパイをもう一切れ。
(アーヴィング・バーリン“Let’s Have Another Cup of Coffee”

この一編にはコーヒーの蘊蓄もなく、作法の小難しさもない。コーヒーを飲む理由や動機はなくてもいい。あるにしても、別に何だっていい。「雨が降っている。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」、「春の風の匂いがする。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」、今日は喜怒哀楽の一日だった。だから飲もうよ、一杯のコーヒー」……。そして、その一杯のコーヒーのおともだが、それもまたパイでもカステラでもクッキーでもいい。

判読不能な読書

いきなりで恐縮だが、少々長い下記の引用文をお読みいただきたい。

一九六二年に『開かれた作品』を出版したとき、私は、どのようにして芸術作品が、一方で、その受信者の側に解釈による自由な参加を要請しながらも、他方で、その解釈の次元を刺激すると同時に統制する構造特性を提示するのかと、自問した。もっと後で知ったのだが、当時私はテクストの実用論を、そうと知らないまま実践していた。いや少なくとも、今日のいわゆるテクストの実用論のひとつの側面、つまり共同作業行為に取り組んでいたわけだ。受信者はこの行為によって、テクストが語らないもの(前提し、約束し、含意し、ほのめかすもの)をテクストから引き出し、空所を埋めるよう仕向けられるのであり、またこの行為こそが、テクストに存在するものをテクスト相互性の織物へと連結するよう仕向けるのである。当のテクストがそこから生まれ、そこへと合流していくテクスト相互性の織物へと。共同作業の動き、のちにバルトが示してくれたように、これこそがテクストの快楽を、そして――特権的な場合には――テクストの悦楽を生みだすものなのだ。

引用は、ウンベルト・エーコの『物語における読者』の序文の第一段落。序の序からしてこの難解さ。と言うか、判読不能の極み。書かれているテクストに読解力が及ばないせいか、イタリア語からの翻訳に問題があるせいかはわからない。これは古本屋で500円ほどで買った一冊だが、すでに数ヵ所に付箋紙が貼ってあった。この本の前の所有者が最初から最後まで読んだのかざっと見ただけなのか、これまたわからないが、付箋紙が貼れたのだから、ぼくの判読能力よりも上と思われる。

文章の判読性が低いと、読者に意味がすっと伝わってこない。しかし、読者がそこに書かれている事柄をある程度読み解く知識があれば、読み続けることができる。古本屋で買うのをためらわず、今ぼくの手元にこの本があるという事実、長編小説『薔薇の名前』で名の知れた著者のウンベルト・エーコはすでに何冊か読んでおり、「テクスト」というテーマにも関心があるという事実を踏まえると、ぼくはこの一冊をある程度読めなければいけないはずである。しかし、さっぱりわからないのだ。

これほどさっぱりわからない読書はかなり久しぶり、と言うか、初めてのことかもしれない。「さあ、ここまで上がってこれるかい? 悪いけれど、こっちからきみの所へは下りていくつもりはない。この本で引用している実在の人物や彼らの著書について、きみが承知しているという前提でこの本を書いた。妥協は一切していない……」。ページをめくりながら、そんなエーコの(あるいは翻訳者の)つぶやきが聞こえてきた。

意味がよくわからないまま本を読み続けることができるかと問われれば、できそうもないと答える。しかし思い起こせば、学生時代に哲学や経済の翻訳書を何冊も読まされた経験がある。何もわからずに読んだふりをした記憶もある。今はどうか。脳はただ朦朧とし目は虚ろに文面を追っている。先週の水曜日から土曜日まで仕事に追われていた。一段落して読書でもと思って手にした本を間違ってしまったようである。

あちこちのページを飛び石伝いに眺めてきて、次の『7 予想と推考散策』という章の冒頭を最後に本を閉じた。

7・1 蓋然性の離接
それをとおして読者がファーブラを顕在化するマクロ命題は、恣意的な決定に依拠するのではない。それらの命題は、テクストが担うファーブラをほとんど顕在化するはずなのだ。生産されたかぎりでのテクストに対するこの「忠実性」の保証は、経験的なテストをとおしても検証できる意味論的な諸規則によって与えられる。(……)

ファーブラがわからない。最後の「テスト」が正しいのかテクストの誤植かどうかすらわからない。ここに到って、声なき笑いが込み上げてきた。わからなさすぎると読者は、パニックに陥るのではなく、諦観するかのように笑う。ある程度読めるが一部だけわからない人は苦しむが、さっぱりわからずに読み続ける人は判読不能の快さを感じ始める。エーコの言う「テクストの悦楽」が生まれてくるのだ。一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と、読書の悦楽は増幅する。ぜひ試していただきたい。

抜き書き録〈2023年1月〉

最近あまり本が読めていない。正しく言うと、未読の本と新着の本が読めていない。空き時間に拾い読みする本はほとんどが以前読んだものばかり。負け惜しみで言うのではないが、一冊の本を一度だけ完読するよりも同じ本を何度か拾い読みするほうが気づきが多いような気がする。一見よりもリピーターのほうが店の料理の諸々によく気づくように。

📖 『橄欖の小枝 芸術論集』 辻邦生

この種の論集では、本の題名と同じエッセイが本文のどこかで綴られているものだが、見当たらない。最後の最後に見つけた。題はあとがきに付けられていたのである。

私がはじめて橄欖オリーヴの林を見たのは、一九五九年夏にイタリアの南端ブリンディシ港から船でギリシアに渡ったときでした。(……)
橄欖はギリシアでは聖なる樹木であり、その小枝は平和の象徴でした。それは、高貴な古典的な作品を生みだした古代ギリシアの風土に似つかわしい、気品に満ちた、偉大な象徴でした。(……)
橄欖の小枝は(……)二重の意味として考えることができるでしょう。一つは芸術家の内面の闘争の激しさへの暗示として、もう一つは激情を浄化した高らかな歌として。

二十年前、南イタリアの旅行中にブリンディシを経由したことがある。ブリンディシはアドリア海に面し、その先にギリシアがある。港は港でもぼくが経由したのは空港で、ローマ行きだった。ところで、この一文を読んでから、オフィスで育てている鉢植えの小さなオリーブの木に変化が生じた。ギリシアや芸術や歌のイメージが浮かび上がったのではない。他のグリーンと一線を画する存在としのイメージが浮かび上がったのだ。

文章以上に凝っているのが装幀である。本を保護するはこが二つ。ダンボール色の「スルー型」の函が外函。そこから濃いグリーンの「スリップ型」の函が出てくる。箔押しされた白い本がそこに入っている。こんな本を手にしてしまうと、書物の文化性の大半を失っている電子書籍に頼りなさを覚える。一冊の本の部位には何十という専門的な名称が付いている。名称は長年培ってきた文化にほかならない。

📖 『パンセ』 パスカル

『橄欖の小枝』のすぐ上の棚に、これまで折に触れて引用してきた文庫本の『パンセ』がある。あるアイデアを思いついたのに、メモしなかったために記憶から消えたのが数日前。その時の思いとそっくりなことを断章の三七〇番にパスカルがすでに書いている。

(……)逃げてしまった考え、私はそれを書きとめたかったのだ。その代わりに、「それが私から逃げてしまった」と書く。

考えそのものを書かないといけなかったのに、「考えを書けなかった」と書く情けなさ。「さっきまで覚えていたのに、いまこうして書こうとしたらすっかり忘れてしまっている」と書くことにも意味があると思うしかない。日記のその日の天気もそれに近い。何も書くことがないけれど、日記の習慣を続け、そこに意味を持たせるために「○月○日 晴れ」とわざわざ書いたのに違いない。

抜き書き録〈2022/12号〉

相変わらず隙間の時間に特に意図もせず乱読や併読をしている。ここ一カ月のうちに手に取った数冊の本にたまたま「感情(または感性)と理性(または論理)」を取り上げた記述があったので、まとめて抜き書きしてみた。


📖  『世界名言・格言辞典』(モーリス・マル―編)を繰っていたら「感情」の項を見つけた。ついでに「論理」をチェックしたら、その項もあった。いろいろ紹介されている格言から一つずつ選んだ。どちらもスペイン由来の格言。

とっさに心にわく感情は、人間の力ではどうにもならない。

ある物が黒くないからといって、白だと結論はできない。

感情は人の心にわく。しかし、とっさにわくとコントロールできない。人は自分の予期せぬ感情に押されてしまう。だから論理的に考えるべきだということになるが、その論理も生半可に使うと誤謬を犯す。「黒くない⇢白だ」というのもとっさの感情的判断に近い。感情と論理はよく似た間違いをやらかしてしまう。

📖  『不思議の国の広告』という本がある(尾辻克彦選/日本ペンクラブ編)。広告批評のコラムニストだった天野祐吉が『大急ぎ「広告五千年史」』というコラムを書いている。

ヒットラーの演説は、文字で読んでも、人を感動させるような深いものはありません。それどころか、子供だましみたいなことを言っている。が、彼の演説を録音したものを聞くと、うまいんですねえ、その語りっぷりが。彼は、人を動かすのは論理じゃなくて感情だ、言葉じゃなくて音楽だ、ということを、ちゃんと知っていた。演説の中身を吟味したりするのは、ひとにぎりのインテリだけだということをちゃんとわかっていて、それで見事に大衆操作をやってのけたんだと思います。

あなたは感性派、それとも理性派? などと聞かれて、「あ、感性派です」と答える人がいるが、実際は二択のどちらかに厳格に自分を置いているわけではない。感性も理性も持ち合わせているのが人間である。感性のほうがウケがいいと信じて実践してもうまくいかない。理性は一般を扱うが、感性は個別的である。「感情にはすべて、自分だけが体験する感情と思わせる独特な面がある」とドイツ人のジャン・パウルは言う。感情は自惚うぬぼれが強いのだ。

📖  茨木のり子著『詩のこころを読む』の一節。

詩は感情の領分に属していて、感情の奥底から発したものでなければ他人の心に達することはできません。どんなに上手に作られていても「死んでいる詩」というのがあって、無残なしかばねをさらすのは、感情の耕しかたがたりず、生きた花を咲かせられなかったためでしょう。

このあと著者は感情と理性を比較し、感情的な人よりは理智的な人のほうが一般的に上等と思われるふしがあると言う。しかし、「感性といい、理性といっても、右折左折の交通標識のように、はっきり二分されるものではないようです」と結んで、感情と理智を同時に満足させてくれる詩がありうることを示す。

📖  安斎育郎著『人はなぜ騙されるのか』にも理性と感性の違いについてのくだりがある。

教育には、二つの違う方法がある。第一は「理性」に訴えかける手法、第二は「感性」に訴えかける方法である。とりわけ未知の現象に対する科学的態度、要するに「分からないことは引き続き調べる」ということによって、批判的・客観的な態度を培う必要がある。

著者は超常現象に対する人の取るべき態度について語っている。人は不思議な印象から強い衝撃を受け、理屈よりも心の動きに支配されてしまう。衝撃はずっと続き、目の前で見た「ありえない現象」をありえるのだと信じ、理性よりも感性が優位的になるのである。


抜き書きをしているうちに、十数年前に私塾で話したことを思い出した。カントの『純粋理性批判』の一節がそれ。

人間の認識には二本の幹がある。それらは共通の〈未知の根〉から生じる。感性が素材をもたらし、悟性がこれを思考する。

カントの術語である悟性を大雑把に理性と呼ぶならは、人は感性と理性を動的に協調させたり統合したりして思考力や構想力を築き上げている。別の言い方をすれば、そのつど感性と理性にうまく役割分担させるほど人は器用ではないのである。

値決めと買い方

月に一度か二度ひいきの古本屋に行く。脇目もふらずにそこを目指して行く。目指すのだからすでに買う気満々、たいてい56冊買う。自宅から歩いて20分ほどの所なので、散歩や所用のついでに寄ることもある。その時は手ぶらで店を出ることが多い。

さらに近い、徒歩わずか56分の所に古書店がもう一店ある。日常生活圏の道沿いにあるので、そばを通ると必ずチラ見する。三度に一度は店に入る。前述のひいきの古本屋ほど利用しないが、たまたまセールの日だと品定めする。ある日、セールのPOP広告が目に入り足が止まった。

結論から書くと、セールの仕掛けに見事に釣られてしまった。書名をいちいち紹介しないが、文庫本を10買ってしまったのである。POPには「文庫本1100円(税込)」と書いてあり、これだけならセールと銘打つほどのことはない。ポイントは値決めの方法だった。

1100円、2200円、3300円、4400円、5500円と、ここまでは当たり前の単純掛け算。ところが、6冊買いの値決めが600円ではなく、5冊買いと同じ500円。それどころか、7冊でも8冊でも9冊でも500円。なんと10冊でも500円。つまり、5冊から10冊なら何冊買っても同じ500円なのである(ちなみに11冊なら600円)。

と言うわけで、ぼくは10冊買った。読んでみようと思った5冊はすぐに選べたが、その5冊ほど気が進む本がなかなか見つからない。しかし、悩むことはない。10冊買うつもりなら5冊は無料になるのだから。自分は読まないかもしれないが、オフィスの本棚に並べておけば誰かが読むだろうという感じで残りの5冊を選んだ。

こんな値決めをしている古本屋で10冊買ったという話をしたら、知人が「考えられない」と言った。値決めのことではなく、読むか読まないかわからない本を5冊手に入れたぼくのことをそう言ったのである。「読みたい本が5冊しかないなら、あと5冊が無料でも読みそうもない本なら絶対に持ち帰らない」と彼。「いやいや、そのほうが変だろう。たとえば自分が読まなくても、歴史小説を5冊選んで好きな人にあげればいいし」とぼく。

議論を深めると厄介な「要不要論」になりそうなのでやめた。ぼくはミニクロワッサンが5個でも10個でも同じなら10個にする。イタリアに旅行した時、3泊すれば4泊目無料というホテルに4泊した。知人もそうするだろうと思うが、本だとそうはならないようで、たとえ無料でも読まない本はいらないのだ。本にはそういう思いにさせる何かがあることは認める。

あとがきの第一段落

『日本の名随筆』という全集がある。各巻にテーマがあり、3040人ほどの著名な文筆家の手になる随筆が編まれている。全巻100冊、別巻が20冊、すべて揃えていない。書店や古本屋で気に入ったテーマの一冊ずつを買って読んできた。

編者が「あとがき」を書いている。錚々たる顔ぶれが綴った随筆を選んで編集した後に、編者がどんなふうにあとがきで締め括っているのかに興味津々。とりわけ最初の段落の書き出しと「摑み」に注目してみた。


🖋 「色」 大岡信  編 

 私の家には今猫が二匹いる。そのほかにも、去年死んだ犬が残していった犬小屋に住みついている野良猫が、定住者で五匹、場合によっては七、八匹もいて、これらはわが家の準飼猫のような生活を送っている。

猫の毛色からテーマに入るのかと思いきや、そうではなかった。次の段落で「人間と猫とで、物の色彩がどのように異なってみえているのだろうか」と、興味の方向が示される。猫の毛色のバリエーションの話よりはおもしろいのではないかと思わされる。

🖋 「蕎麦」 渡辺文雄  編

 形が似ているから仕方がないと言えるけど、ソバとウドンが対決する。ウドン好きとソバ好きが対決する。世の中ウドン派とソバ派、どちらが多いかわからぬが、目につくのはソバ派である。「麺好きですね。」と言われてウドン派はにっこりうなずいても、ソバ派は「いえ、ソバが好きです。」とこだわる、、、、

テーマが蕎麦だが、ソバ好きの特徴を際立たせるためにウドンと対比してみせた。ソバ職人やソバ好きのこだわりには際限がない。後段で編者は「ウドンのうまさには幅があるが、ソバのそれはまことに狭い」と言い、スリリングな食い物であると付け加える。ウドンは庶民的で付き合いやすいが、ソバ自体もソバ好きもおおむね気難しい。

🖋 「嘘」 筒井康隆  編

 この名随筆シリーズの「嘘」を編集するにあたり、八年間かかって五万冊の随筆集を読破した。「嘘」をテーマとした随筆は数少なかった。さらにまた、読んで面白いと感じたものはもっと少なかった。そのためわたしは鬱病となり、リタリン(鬱病の投薬剤)を八百錠のみ、そのため胃潰瘍となって手術を八回した。

「嘘」がテーマの随筆集のあとがきを嘘まみれにしたところに編者の工夫がある。さすが筒井康隆だ。この先で、純文学作家の書いた随筆がおもしろくなく、自分のようなエンターテインメントの作家の随筆はおもしろく筋金入りだと書いている。テーマをとことん追求する姿勢に感心し苦笑する。

🖋 「古書」 紀田順一郎  編

 学生時代、私の最大の不満は、学校の付近に古本屋の乏しいことであった。荷風、敏、万太郎、瀧太郎、春夫……という三田文士を輩出した土地に、古本屋がたった二軒というのはいかにも物足らない。本郷、早稲田に一籌を輸するのは明かだ。

編者は慶應付近の古書店の少なさに文句を言いながらも、後に書誌研究に秀でた評論家になったくらいの根っからの本好きであったから、神田神保町の古書街に入り浸るようになった。そこからテーマ「古書」にふさわしい話が綴られる。

🖋 「道」 藤原新也  編

 大人になってむかし通っていた小学校を訪ねてみると、校舎や運動場やそれに到る道筋などがこんなにも小さく短かったか、という驚きをもたらされた、という話をよく聞く。私自身にもそのような経験がある。

子どもの頃の記憶の中の道と大人になってから通る道は同じであって、しかし相対的に別物だ。実際に歩いてみると、かつての体躯の大きさと歩く速度に見合った道のイメージが一変してしまう。勝手知った街歩きの最中でも、道の意味の多義性と道のイメージの多様性によく気づかされる。

回文、その愉快と苦悶

回文のテーマで出版されている本は少ないし、周辺から話が出て盛り上がるなんてこともほとんどない。本ブログでは2014年に『眠れなくなる回文創作』と題して書いている。

昨日のことである。道すがら大手古本チェーン店が入るビル前を通りかかった。別の店は時々利用するが、そこは初めてだった。いつもの店に比べるとかなり広い。広い店は苦手だ。入るには入ったが長居をするつもりはなく、入口に近い棚あたりの背表紙を適当に眺め始めた。そして、いきなり見つけてしまったのである。

おお、ぼくが回文を始めるきっかけになった土屋耕一、あの「軽い機敏な仔猫何匹いるか(かるいきびんなこねこなんびきいるか)」の作者ではないか。函入り2冊セットの新品同様、1冊が『回文の愉しみ』でイラストが和田誠なら手に入れるしかない。


おびただしい作品が紹介されていて、喜び勇んで読み始めたのはいいが、読む愉快の後にほぼ確実に創作してみたくなる衝動に駆られる。そして、間違いなく、取り掛かかった直後の愉快はやがて苦悶と化し、脳裏に文字群のストレスを抱え込んで半ノイローゼ状態に陥るのである。

それでもなお、手に入れた本の冒頭に出てくる作品、「力士手で塩なめなおし出て仕切り(りきしてでしおなめなおしでてしきり)」を見たりすると、またしても創作意欲がふつふつと湧いてくるのだ。土屋はこの回文を色紙に書いて掲げていたのだが、この一文に無反応な友人たちもこれが逆から読んでも同じ文になるのを知って驚嘆する。

ところで、回文は通常の文案や文章のようにスムーズに出来上がることはめったにない。そのまま読んでも逆から読んでも(または、上から読んでも下から読んでも)同じ音にしようとすれば、不自然にならざるをえない。しかし、それを不自然と呼んではいけない。回文には回文独自の文法と語法があり、意表を突く表現を生み出してくれる。

慣れてくると、20音前後の作品はできやすく、工夫の過程も愉しく感じられる(下記、筆者の作品)。

🔄 酸か燐か薬か、リスク管理監査。(さんかりんかくすりか りすくかんりかんさ)
🔄 頼んでも金積む常がモテんのだ。(たのんでもかねつむつねがもてんのだ)
(㊟清音、濁音、半濁音、拗音、直音、現代仮名遣いと旧仮名遣いは互換性ありと見なす)

わずか510音増えて30音前後になるだけで、数倍の時間がかかるようになる。できたと思って逆に読むと不完全作だとわかり愕然とする。脳がへとへとになる。それでも途中でギブアップできず朦朧としながらも続けてしまう。そんなふうにして何とかできた作品。

🔄 居並ばドレミ、師が讃美歌うたう。花瓶探し見れど薔薇ない。(いならばどれみ しがさんびかうたう かびんさがしみれどばらない)
🔄 村からピンチの使い、どけた竹刀でいなしたけど、威喝のチンピラ絡む。(むらからぴんちのつかい どけたしないでいなしたけど いかつのちんぴらからむ)

たった1音で不完全作になり、その修正に何日もかかったりする。諦めて一から作り直すこともあった。根を詰めた50音以上の自作がいくつかあるが、思い出すだけで疲れが出そうなので、掲載はいずれまた。

抜き書き録〈2022/10号〉

「ことば遊び」と言うのは簡単だが、大いに遊んで楽しむには豊富な語彙と教養がいる。織田正吉著『日本のユーモア1 詩歌篇』にはハイブローな笑いとユーモアがぎっしり詰まっている。頭を使わされるので読後にどっと疲れが出る。同じ句を繰り返し使って詠う「畳句」などは単純でわかりやすい。偶然にして「じょうく」と読むのもおもしろい。

月々に月見る月はおほけれど月見る月はこの月の月 
(『夏山雑談なつやまぞうだん』より)

まもなく十三夜だから月を愛でながら呪文のように唱えてみるのはどうだろうか。


散る花は音なしの滝と言ひつべし   昌意しょうい
「花」を「滝」に見立てたものである、と説明するのも野暮だろう。

(尼ヶ崎彬『日本のレトリック』)

「見立てる」を辞書で引くと、最初に「いい悪いの判断をすること」みたいな語釈が書かれている。それなら、わざわざ見立てるなどと言わずに、判断や評価でいいのではないか。続く語釈は「何かを別の何かであるかのように扱うこと」。こちらのほうが見立て本来の使い方に近いと思われる。見立ては類比アナロジーに近いレトリックである。花と滝に類比関係を見出すのは見立てである。著者は次のように続ける。

「見立て」とは、常識的な文法や連想関係からは結びつかぬものを、類似の発見によって(ないしは類似の設定によって)結びつけ、それによって主題となっているものに新たな《物の見方》を適用し、新しい意味を(または忘れられていた意味を)読者に認識させるものである(……)


高橋輝次編『書斎の宇宙』には「文学者の愛した机と文具たち」という副題が付いている。収録されている石川欣一の「原稿用紙その他」からの一節。

原稿用紙に凝る人は随分多い。自分で意匠して刷らせている人が沢山あるが、僕の知っている豪華版は仏文学の鈴木信太郎君だ。何とも筆舌を以ては表現出来ぬほど立派なもので、我々の雑文を書くのには勿体ないが、コツコツと、マラルメなどの訳をうめて行くには、まさにふさわしい原稿用紙だろう。

プロの著述業ではないが、趣味でオリジナルの原稿用紙を印刷してもらっていた知人がいた。ぼくは大学ノートを使っていた。二十代前半の頃、書くのが好きという理由だけで何度か文芸誌に応募したことがある。文房具店でよく見かける原稿用紙では見映えが悪いと考え、紀伊國屋書店で売られていたちょっと高級な原稿用紙(四百字詰め用紙100枚で1冊)5冊ほど買った。あれから40数余年、まだ2冊が残っている。今も手元に残る原稿用紙を眺めていると、勘違いばかりしていた時代を思い出す。

秋気配を読む

どの季節にも言えるが、季節の始まりは触覚、視覚、聴覚、旬の味覚を通じて感知する。もう一つ加えるなら、その季節の風情をうたったり著したりした本の中に見つけることもできる。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる (古今集)

視覚よりも聴覚が先に秋を知る。この時期、まだ葉は落ちず、また山なみを遠望しても秋色に染まる様子は窺えない。目に見えるものは同じでも、窓越しに台風の音を聞くと、夏の終わり、秋の始まりを察知する。たとえその後夏っぽさが戻るにしても、わずか一日でも気温が下がって「涼しい、蒸し暑くない」と体感したら、その時に秋が兆したのである。

秋の見方、感じ方は人それぞれである。ボードレール『巴里の憂鬱』の一節「黄昏」はどこか秋を思わせる。

日が沈む。一日の労苦に疲れた憐れな魂のうちに、大きな平和が作られる。そして今それらの思想は、黄昏時の、さだかならぬ仄かな色に染めなされる。

他の季節にはない、秋ならではの日の沈み方、物思いへの指向性、黄昏、色というものがある。秋は慌てず急がず、夏の高ぶりを鎮めるように、つつましく始まる。

動物学者の日高敏隆に『春のかぞえ方』という本がある。春が訪れると花が咲いて虫がそこに集うようになる。この本は、花や虫がどのように春を感知するのかについて研究したものだ。日高によると、生き物にはそれぞれの三寒四温の「積算方法」があり、季節は積算によって正確に計られるという。ならば、春をかぞえるのと同じように、動植物は秋もかぞえているはずである。前年の冬から毎日の温度や湿度を数え始め今年の夏までの全日を積算して、「よし、そろそろ秋!」と判断しているに違いない。

『第三版  俳句歳時記  秋の部』(角川書店)から「秋の雨」という一節。

秋といえば素晴らしい秋晴れを連想するが、むしろ天気は悪い方である。毎年九月中旬から十月中旬までは秋の長雨といわれる一種の雨期に入る。「秋雨」はどこかうそ寒く、沈んで浮き立たない。

次いで、秋雨や秋霖を詠む句がいくつか並んでいる。一句を拾う。

秋雨や地階まで混むビール館  高井北杜

真夏にぐいっと飲む生ビールはキンキンに冷えた液体であって、はたして人はビール本来のうまさを味わっているのかどうか。台風が去って暑さがやわらぎ、湿度が下がって空気が乾燥する。その時、ビールは熱を冷ます任務から解放され、客を味に集中させるミッションに就く。ビール党でないのに生意気を言うが、秋になるとビールのうまさが増す。そして、ビールと相性のよいつまみも増えるのだ。乾杯!

抜き書き録〈2022/09号〉

今月は科学者が著したエッセイと科学をテーマにした本を取り上げた。


私は虫の本を見て、チョウの翅の顕微鏡写真を知り、その微細さに驚くとともに、顕微鏡の歴史を知りたくなった。そして十七世紀、オランダの人、レーウェンフックと出会った。彼の生まれた街デルフトを訪ねると(もちろん本の上で)、そこにはフェルメールがいた。かくして私は、虫の虫から、本の虫、本業としては顕微鏡オタク、趣味としてはフェルメールオタクに至ったというわけである。
(福岡伸一『やわらかな生命せいめい』)

過去のどこかを切り取って何かに嵌まった経験を思い出せば、誰もが上記のような連鎖を綴ることができるはず。しかし、綴る人は少ない。発想や能力の差ではなく、観察と記録のマメさの違いだ。世の中には、思い出してはマメに記録する人と、記録するのを面倒臭がる人がいる。後者の人は記録よりも記憶に頼ろうとするが、残念なことに記憶力がよくない。


来年のNHK前期の連続テレビ小説は『らんまん』。植物学者の牧野富太郎と妻が主人公。たまたま新刊の『草木とともに 牧野富太郎自伝』を読んだ。二人のなれそめは牧野本人がこの本で書いている。研究生時代、牧野は下宿先の麹町から東大の植物学教室へ人力車で通う時、いつも菓子屋の前を通っていた。

この小さな菓子屋の店先きに、時々美しい娘が坐っていた。私は、酒も、煙草も飲まないが、菓子は大好物であった。そこで、自然と菓子屋が目についた。そして、この美しい娘を見染めてしまった。私は、人力車をとめて、菓子を買いにこの店に立寄った。そうこうするうちに、この娘が日増しに好きになった。

牧野は自分でプロポーズできず、石版印刷所の知り合いに娘を口説くよう頼みこんだ。縁談はうまく運び牧野は結婚した。草木の話もおもしろいが、小説のようなこの一文、「わが初恋」が印象深い。朝ドラではどんな脚本に仕上がるのだろうか。


漬け丼が売りの食事処に最近よく通う。昨日も昼に行った。注文したのは、鮪の中トロ、天然ハマチ、鰹、ハモ、そしてヒラメを乗せた海鮮丼。鮃はエンガワの歯ごたえがよく、また昆布じめにしても美味である。その鮃を丼に乗せるという贅沢。先日適当に読んだ本に鮃の記述があったのを思い出し、もう一度読んでみた。

(鮃の)脂質含量が一月に獲れた天然の寒鮃かんびらめでは筋肉100gに対して2.2gほど含むが、夏に獲れる痩せたものは0.8gである。寒鮃は夏鮃の二倍以上の脂質を含む。
(成瀬宇平『魚料理のサイエンス』)

筋肉のエキス窒素分が旨味と関係するらしいが、この例のように鮃は夏よりも冬がうまいという情報が刷り込まれるのも考えものだ。知識には体験が伴うべきで、また体験には知識の裏付けが望ましいなどと言われる。しかし、夏場でも鮃をおいしく食べようと思うなら、筋肉に占める脂質量のことなど知らないほうがいいのである。