哲学のすすめⅢ

今でこそEUのお荷物的存在のギリシアだが、古代は思想、芸術、科学、都市、文化、スポーツなど万般において花盛りであった。今から二千数百年前の話である。東洋の古代思想界もギリシア同様に百花繚乱であった。これ以降の人類が、技術に実績を残してきたものの、知的進化、とりわけ人間性の鍛錬においてどれほどのことを成し遂げてきたのか、大いに懐疑しなければならないだろう。試みに東西を代表する哲学者・思想家を生年順に置いてみた。錚々たる顔ぶれをこうして並べてみると、末席のアリストテレスや孟子が若く見えてくるから不思議だ。

ピタゴラス          (前582年~496年)
孔子                   (前552年~479年)
ソクラテス          (前469年~399年)
釈迦                   (前463年~383年)
プラトン              (前427年~347年)
アリストテレス  (前384年~322年)
孟子       (前372年~289年)


哲学 アリストテレス

アリストテレスの『哲学のすすめ』の第四章と第五章では「技術」が一つのキーワードになる。目覚ましく進展する技術を開発当事者が持て余し気味の現代社会。アリストテレスの示唆にヒントがあるかもしれない。

技術によって生じるものはすべて、何かのために生じるのであり、この何かは技術にとっての最善の目的である。これに対して、偶運によって生じるものは、何かのために生じることはない。

最先端技術を駆使したドローンは「何か」のために開発された。その何かは元々攻撃や偵察であった。では、攻撃や偵察は最先端技術の最善の目的であるのか……こんなふうに考えてみる。いや、違う。誰の手でも制御できるように小型化した時点で、善用されるべき目的――普遍的な目的――を明確にすべきだったのである。意義深い目的のために開発されたものであっても、濫用に到れば偶然の産物と化す。偶然の産物に善なるものもあるだろうが、理知が働くことは稀である。アリストテレスは続ける……「技術は自然を補助し、自然がやり残したことを埋め合わせるためにあるのだ」。


第六章と第七章。これまでの繰り返しに近い内容である。もっとも、アリストテレスがこの一冊をこの順で書き下ろしたのではなく、「哲学・知識・知性・善」などを主題として断片メモを後世の人間が編纂したのであるからやむをえない。

「知る能力や知識を持ち合わせること」は必要である。しかし、これは可能性または潜在性のものであって、理知的であると言うには不十分である。「知識を用いること」が真の理知であり、現実性を帯びて顕在してはじめて必要十分となる。たとえば健康を目指して学ぶ健康の知識や摂取するサプリメントは可能性に過ぎない。健康になることそのものがより高位の善なのである。実践の知は読書よりも、また、幸せな現実の生活はインフラよりも、それぞれいっそう善に近く尊いのである。

哲学書を読むことよりも、哲学する日々の生活に意味がある。考えることは特別なものではなく、身近であり愉快であること、衒学的な知を格納するのではなく、生活の知としてユーモアを交えて楽しむこと……こんなふうに『哲学のすすめ』の着地点をぼくなりに定めた次第である。最後にアリストテレスのことばで締めくくっておくことにする。

「哲学することは幸福に深いかかわりをもつ」

「最も支配的なものは卓越性〔理知〕であり、すべてのものの中で最も楽しいものである」

《完》

哲学のすすめⅡ

ルネサンス時代のイタリアの画家ラファエロに『アテナイの学堂』という大作がある。どの人物が誰なのかすべて特定されていないが、ここにはギリシアの哲学者や門弟たちが描かれている。そして、それぞれの人物像にルネサンス当時の著名人がモデルとして対応しているらしい。

2アテナイの学堂(ラファエロ)

絵の中央部分を拡大すると、そこにソクラテス、プラトン、アリストテレスが描かれている。ソクラテスとアリストテレスのモデルは不詳だが、プラトンのモデルはㇾオナルド・ダ・ヴィンチというのが定説だ。興味深いのは、師弟関係にあったプラトンとアリストテレスのポーズである。イデアを哲学の原点に据えたプラトンの右手人差し指が天をついているのに対し、アリストテレスの右手の手のひらは地に向けられている。二人の様子から、「つまるところ、イデアだろ?」というプラトンに、「いや、あくまでも現実です」とアリストテレスが応じているような雰囲気が漂う。

閑話休題。さて、そのアリストテレスの『哲学のすすめ』の第二章と第三章を読解してみよう。第二章は第一章を小さく敷衍する形になっている。次の文章が主題文である。

もし人間が本来多くの能力から合成されてできているとすれば、人間が本性上成し遂げることのできるもののうち、最善のものがつねにその固有の働きであることは明らかだ。たとえば、医者の固有の働きは健康であり、舵手の働きは安全であるように。

どんなに複合的な能力が自分に備わっていても、単なる足し算では話にならない。自分にとって最も重要なコミットメントに独自に働きかけなければならないのである。自分が何業であるかという職分の意識を持ち、理知と賢慮を最高善のために働かせるということだ。「あなたの仕事はどんな善の実現のために存在するのか?」と問われて、一言で即答するのは容易ではない。


第三章では理知を欠くことを嘆く。今の時代に幅をきかせ始めた反知性主義、あるいは現代人が陥りがちな思考停止状態への警告としても読める。2400年前の指摘なのに、色褪せているようには思えない。

たとえ人が一切のものを持っていても、思考する力に欠陥があり病的であるとするなら、その人の生は望ましいものではない。(……) 観照的に哲学すべきである。そしてできるかぎり、知識と知性に則した生を生きるべきである。

いかに専門性の高い技術を身につけたとしても、あるいは人脈や財産に恵まれたとしても、自分の頭で考えていないのなら幸せな人生にはならないという。思考が主体的に生きることを可能にする。その他のすべてのものは思考を核としてはじめて固有の価値になる。「観照」とは聞き慣れないことばだが、「感情的にならずに、あくまでも冷静に人生や自然や美などの抽象概念について思索すること」を意味する。当然、こんなことは面倒だから、人は安易に反応的で受動的な感性にすがりたくなる。「線の思考」よりも「点の思いつき」で生きれば、誰だって幼稚なモラトリアム人間のまま大人になっていくだろう。

考えるということを本を読んだり調べたりすることだと錯覚している人がいる。ぼくの仕事である企画は思考行動以外の何物でもないのに、調査や情報収集だと思っている人がいる。自称「考える人」も、思考というものは独り沈思黙考することだと信じて疑わない。しかし、ぼくたちは腕を組んで独りで考えることなどできないのである。人は対話を通じてよりよく考える。哲学することと対話することは不可分の関係だ。対話不足の職場に思考の広がりや深まりを期待できるはずもない。

人には〈センスス・コムニス〉が備わっている。共通感覚のことである。共通感覚によって人は他者のことを顧慮することができる。自分自身を他者に置き換え、他者を自分に置き換えることができる。これが人間関係の基本だ。このことを踏まえれば、感情的にカリカリせずに理性的に対話することは可能なのである。 

《続く》

哲学のすすめⅠ

「デカンショ」と言えば、デカルト、カント、ショーペンハウエル。哲学青年の間で合言葉になり歌になった時代がある。近代哲学の人気御三家というところか。ギリシア哲学の古典的草分け御三家となると、「ソプラアリ」で異論はあるまい。ソクラテス、プラトン、アリストテレスは「同門の直系三代」である。ソクラテスの本は一冊も読んでいない。読んでいないのはぼくだけではない。誰も読んでいない。なぜなら著作がないからである。ソクラテスの思想についてはプラトンの一連の著作によって知りうるばかりだ。

アリストテレス『哲学のすすめ』

さて、「哲学のすすめ」というタイトルにしたのはぼくの動機ではない。アリストテレスの『哲学のすすめ』について紹介する機会があったので、そのまま流用した次第。どんな哲学の本を読めばいいかと知人に尋ねられ、ぼくが答えていいものかどうかも考慮せず、入門の一冊として紹介したのがこの本だった。二年前に書評会で取り上げた、比較的とっつきやすい一冊のつもりである。但し、買うには及ばないと思い、「ぼくがまとめた文章があるから、これを読んでみたら」と告げて書評を差し出した。

小説を耽読していた反動だと思うが、三十数年前から哲学を読むようになり今もその遍歴が続いている。書かれていることを覚えることにさほど関心はない。では、何のために読むかと言えば、考えるヒントにするためである。あくまでも個人的な読書習慣であって、他人様に哲学書を勧めることはほとんどしない。デカンショのカントが「人は哲学を学ぶことはできず、哲学することを学びうるのみである」と唱えた通り、哲学すること、つまり、知を尊んで考えることに意味を見い出す。アンチエイジングの一手段かもしれない。『哲学のすすめ』の書評をもとに3回に分けて書いてみることにした。


アリストテレスの著作はやさしくない。哲学の専門家に向けられた論文や講義草稿の大半は形而上学的な理屈で書かれ、時には閉口し本を閉じてしまいたくなることさえある。一般向けに著された書物はほとんどなく、この一冊が唯一の例外と言ってよい。本書は、前4世紀頃に書かれた断片メモを掻き集めて後年編纂されたもので、原題は『プロトレプティコス』。まるで恐竜の名前のようで、うっかりすると舌を噛みかねない。ギリシア語で「勧告」という意味らしいが、さしずめ「やさしい哲学(知恵への愛)入門」というところだ。

われわれの対話の相手は人間であって、その神的な生の分け前を意のままにできるような方々ではない。だから、この種のすすめの言葉には政治的実践的な生への忠告を混ぜ合せなければならない。

これが第一章の冒頭である。凡人相手に哲学を語るときは、政治や有益な生の過ごし方をからめるべきだと言う。政治をからめたら余計に難しくなるのではないかと危惧するが、現代と違って、この時代のギリシアでは政治が(そして対話が)生活に身近な存在だったのである。では、どんな知識が存在し、どの知識が特に重要だとアリストテレスは説いたのか。

① 生活に便利な知識  vs  その知識を活用する知識
② 奉仕する知識  vs  命令する知識

このように対比した上で、①と②のいずれも下線部のほうに軍配を上げている。①では何が語られているか。生活に便利な知識を、たとえば「料理に関する知識」としてみよう。これは蓄えた知識である。この蓄えた知識を「実際においしい料理に仕上げる知識」こそが重要なのである。後者の知識はもはや「知っている」ではなく、「実践できる」という意味に限りなく近い。②はどうか。提供するだけに止まらない知識、つまり、人に指示し人を動かす知識の優位性である。「主体的で統率的な力を持つ知識」と言ってもいいかもしれない。

アリストテレスによれば、このような実践性にすぐれた知識の内においてのみ真の意味での「善」が存在する。善はアリストテレス哲学の重要なキーワードである。人は理性を発揮して正しく判断しなければならない……そして一切の感情を捨てて冷静に善について思索しなければならない……これを一言化したのが《フロネーシス》なのだろう。理知または賢慮と訳されるこの概念は、幸福と並んで、最高の善と見なされた。アリストテレスにおいては、フロネーシスこそが優れた人物の証だったのである。 

《続く》

心と言葉と

漢字の「言葉」を使うことはめったにない。若い頃に何かの拍子に刷り込まれてしまったのか、言葉と書くと「ことのは」という響きとともに情念が勝るように感じてしまう。思惑に反して文脈の情念が強くなりそうな時、「ことば」と書き表わすか、いっそのこと「言語」と言い換えるようにしている。ここでは敢えて漢字の「言葉」を使う。理由は簡単で、近くの寺院の今月前半の標語「心病むとき言葉が乱れる」を引用して文を綴るからである。実物は達筆でふるわれていたが、ここでは文意に則して書体に「ゆらぎ」を加えてみた。

心病むとき言葉が乱れる

命題の形をとる標語である。命題には証明がつきもので、こういう形式に出くわすたびに真偽のほどをチェックしたくなる。命題「AならばBである」の是非を考え始めたものの、行き詰まったり堂々巡りしたりして判然としない時に、いい方法がある。命題の対偶から眺め直して検討するのである。「AならばBである」の対偶は「BでないならばAではない」だ。したがって、「心病むとき言葉が乱れる」の対偶は「言葉が乱れていないとき心は病んでいない」である。命題が真ならその対偶も真という論理法則があるので、対偶が真なら命題も真ということになる。

ところで、命題の証明に先立って術語の定義を明確にしなければならない。法律ではないが、証明にあたって気配りすべき暗黙の約束事だ。現場ではなく机上で物事を考えるなら、個々の語の意味を疎かにしてはいけない。しかし、この標語では定義すべきキーワードは「心」、「病む」、「言葉」、「乱れる」と手強いものばかり。しかも、短文命題であるから、用語の意味を明らかにすることと命題を証明することがほぼ同じになってしまいそうである。と言うわけで、回りくどく書いてきたが、対偶や定義から考えるのを諦めて、標語通り素直に「心が病む⇒言葉が乱れる」を検証することにした。


〔心病む〕
心とは厄介な概念である。心がどこにあるかについてはいろんな見解がある。「きみ、心の問題だよ」と言って胸のあたりを指差す人がいるが、そこにあるだろうと想像できるのは乳房か心臓である。まさか〈乳房イコール心〉や〈心臓イコール心〉はありそうもない。しかし、もしその人が指差しもせずに「心はね……」と言うなら、この心のありかはいったいどこなのだろうか。現在、最も有力なのは〈心イコール脳〉であり、ぼくも同意する。心とは脳の神経機能や作用の内的現象的な捉え方(表現)という見方だ。したがって、心病むというのは、脳の神経機能や作用が健全でない状態を意味する。

〔言葉が乱れる〕
脳が演出した心がそんな状態にあったとしても、もしきちんと書かれた原稿を棒読みしていれば、一応言葉は乱れていないように聞こえる。では、きちんと書かれたとは何か。それは、規範文法上不適切な言葉の使い方や誤用が見当たらないということだ。だが、寺院の今月の標語が規範文法に照らして言葉の乱れを指摘しているはずもない。おそらくもっと単純な辻褄の合わない言葉遣いや論理療法的な意味での思考表現のズレに近いと思われる。つまり、言っていることが考えや現実に一致していない場合のことである。こんな場合、言葉は曖昧になり、極端になり、過激になり、粗野になり、乱暴になる。

〔心と言葉〕
心を脳だとすれば――そして、それが健常でないならば――感じることや考えること、さらには現実を観察し認識するなどの処理は困難になる。言語はそんな処理に欠かせないから、言葉の用い方にも乱れが生じる。言語を司る脳が病んでいるのなら、言語を乱れなく司ることができなくなるのは当然である。ここに到って、「心病むとき言葉が乱れる」は類語反復であることが分かる。ついでに対偶である「言葉が乱れていないとき心は病んでいない」に戻ってみよう。常識的には成り立っていそうだが、一つ条件を付けなければならない。それは、その言葉が誰かに強制されたものではなく、自発的に用いられていることだ。この条件が担保されるなら、この類語反復標語はどうやら真らしいと言えるだろう。

最後になって書くのも気が引けるが、心が病んでいるとか言葉が乱れているとかを判断し指摘するのは、自分自身ではなく、他人である。そう判断し指摘する他人が「心病み言葉が乱れている人」ならば、心や言葉のありようについて、ぼくたちはその真相をどのように知ることができるのだろうか。

「百聞は一見にしかず」なのか?

「百聞は一見にしかず」。聞き上手が褒められるわが国でこの諺は生まれにくかったに違いない。同じことを百回も聞く人は聞き上手に決まっている。この諺は和製ではなく、戦地に赴くことを宣帝に願い出た趙充国将軍の言に由来する(『漢書』)。何度も人から聞くよりも、自分の目で実際に見るほうが確実であるという意味で今も使われる。ここで確実と言うのは「確実に知る」ということ。何かを理解し分かるためには、聴覚よりも視覚のほうがすぐれている、見るは確実に知ることにつながる、と言う教えである。

百聞は一見にしかずか?

英語では“Seeing is believing.”がこれに相当することになっている。「なっている」というのも変だが、そう書かなかったら英語のテストで誤答とされたから、しっくりいかないけれども、そう答えるしかなかった。しかし、どう考えても、「百聞は一見にしかず」と同じではない。英文は聞くことについては言及しておらず、「見ることは信じること」と言っているだけであり、見ることの確かさについても保障してなどいない。「見たら信じられるか?」と聞かれて、ぼくは即答できない。幻覚には見落とし、見損じがあるからだ。

見ること――この目ではっきりと見ること――は、はたして物事が確かに分かることなのか。しかも、「一度見る」だけで十分なのか。自分自身のこと、周囲にいる知り合いのことを思い浮かべてみればいい。一度見ることが百回聞くよりも優るのは常ではない。人次第、正確に言えば、理解力次第である。ある人が一度だけ聞いて分かるのに、別の誰かは百回聞いても、そして百回見てもさっぱり理解しないことなどはよくある。ぼく自身、一度聞いて分かることもあるし、何度聞いても分からないことがある。ならば、聞くのをやめて、見たら分かるか。いやいや、一回見て分かることもあれば何度見ても分からないことは、聞くのと同じ程度に起こる。


この諺に異議を唱える諺がある。「心ここにらざれば、視れども見えず」がそれだ。心ここに在るとは集中力だ。集中力を欠いてぼんやりと見ているだけでは何も見えてこないだろう。ロダンの、「私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった」という述懐には、ある時、突然集中のギアが入った印象がうかがえる。

「我々の感覚は見ていても、見えていないのである。ノートル・ダム正面玄関のロザース〔薔薇窓〕辺の石の壁面の美しさは、見ていても多くの場合、我々には見えていないのである。窓の間の壁面の美しさを何十何百とある建物の中に気がつくようになって、或る日ふとノートル・ダムを眺める時、今まで見えていなかったものが、突然見えるようになって来るのである」
(森有正 『遠ざかるノートル・ダム』)

あるものが見えるためには場数が必要である。同時に見る対象の付帯状況に身を置き、対象と一つにならねばならない。野次馬のように、対象と自分を切り離されたものとして凝視しても易々とは見えてこない。なぜなら、ものは外からのみ見るのではなく、そのものの内面からも見えるからである。内面から見えるとは、感覚を研ぎ澄まして想像力を働かせるということだ。それなら、見ることに限った話ではない。聞くことには、音によって視覚を補おうとする想像が蠢く可能性がある。

見るにせよ聞くにせよ、対象が鮮明に確実に分かるためにはある程度の時間をかける必要がある。一度や二度で分かろうなどとは調子が良すぎるのだ。ロダンにしても森有正にしても、何回も何日も熟知に至る時間を費やした。もちろん、何事かを即座に直観的に分かることもある。しかし、百聞して分からぬことはおそらく一見しても容易ではない。視覚の聴覚に対する優位性をかたくなに信じる向きもあるが、ぼくはエッシャーのだまし絵を鑑賞して以来視覚を過信しなくなったし、身近では、毎日の散歩道で日々新しい視覚的体験に驚いている。人は、聞いているようで聞いていないし、見ているようで見ていないのである。だからこそ、全身を耳にしてことばを傾聴し、全身を目にして対象を注視しなければならない。

議論についての問答

議論に絶対に負けない法

『議論に絶対負けない法』という本がある。「絶対負けない」からと言って「絶対勝つ」わけではない。「引き分け」は負けないことであるから、連戦互角であってもかまわない。ここで話題にしたいのは「絶対」というものが、数学世界ならともかく、議論の世界にありうるかという点だ。「議論が上手になる方法」なら絶対という約束ではない。しかし、「絶対負けない」と言い切ってしまっては一つの例外も許されない。この種の本は議論に勝つ――あるいは五分に持ち込む――テクニックを指南しているが、はたして有効なのだろうか。


「こういう類の本って、ある程度役に立つのですか?」

「ちょっとずるいけれど、本によりけりと言うしかないね。でも、ディベートを何十年も指導してきたぼくの経験からすると、こと議論に関しては有効と言えるかもしれない気がする。なぜって、議論の巧拙は技術に関わることが多いからね。それよりも何よりも、どんな議論をするかによると思うんだ」

「へぇ。Aというテーマの議論には役立ち、Bというテーマの議論だとあまり役立たない、というようなことですか?」

「いやいや、議論のテーマのことじゃなくて、場のことさ。議論には大きく二種類の場があるんだ。当事者どうして決着をつける交渉という場と、第三者が判定を下す裁きの場。交渉には勝ち負けがつきものだけれど、同時に〈WIN-WIN〉や〈LOSE-LOSE〉などというのもある。交渉では利害をぶつけ合いながら、理想の着地点を目指すわけ。どちらも自分の言い分がある程度叶って満足することもあるし、どちらも不満足だけど手を打つという場合もある。交渉が成立してもいろんな結末があるんだね。もっとも決裂のほうが常ではあるけれど……。いずれにせよ、当事者どうしでは勝った、負けた、引き分けたという雰囲気は分かるものなんだ。裁判やアカデミックディベートのように第三者が議論を裁く場合には、判定結果と当事者の思惑が異なることがよくある。自分で勝ちを確信しても、あんたの負け! と言われるからね」

「では、当事者どうしで決着する交渉において、この『議論に絶対負けない法』などという本に期待してもいいんですね?」

「さっきも言ったように、知らないよりも知っているほうがいいという点で、そして、あくまでも議論を技術としてとらえるなら、ある程度有効だと思うね。但し、その当事者二人が仮にこの本をよく読んで交渉に臨むとしよう。著者は『絶対負けない』と言っているのだから、勝ち負けがあってはいけないはず。互角でなければならない。しかし、そんなことは稀で、ふつうは一方が勝ち、他方が負ける。なぜ勝ち負けが生じるかと言えば、こんなことは当たり前のことだけど、二人の読者が持ち合わせている知識や経験、場数が差になるわけさ」

「ありえない想定だと叱られそうですが、この本で習得した知識も同じ、他の知識や経験、場数もすべて同じと考えたら、どうなるんでしょう?」

「そうすると、声の大きい方やコワモテや余裕のある方が勝つかもしれない……」

「いえいえ、もう何もかもすべてが同じ条件を備えた二人が、同じ理解度でこの本を読み、交渉のテーブルに就けば……と仮定すれば?」

「となると、その二人は完璧に同一人物ということになるね。つまり、きみが仮定しているのは、自分と自分が議論したらどうなるかってことだ。きみがXYという二者択一の岐路に立つ時のことを考えてみたらいい。XYは同時に叶わない。そう、引き分けはない。Xを選べばYを捨てる、Yを選べばXを捨てる。一人議論の挙句、X支持のきみかY支持のきみのどちらかの意見が通り、他方が却下される。きみは勝利し、同時に敗北する。XYを選んだ瞬間、きみは議論に関して自ら判定を下したのだよ。そして、ここがたいせつなのだけれど、その判定をするためにはもはやきみは一人二役の当事者であり続けることはできない。すでに冷静な第三者になっていなくてはならないんだ」

「ちょっと頭が混乱してきました……」

「話を出発点に戻して、以上の話を整理してみよう。必勝テクニック系の議論の本は、技術的には有効である。しかし、勝敗などとは無関係ということだよ。そもそも議論というのは勝ち負けに意味があるのではない。議論をするという時点で、よい議論をすることが重要であり、なぜよい議論が重要なのかと言えば、より精度の高い意思決定をするためなんだ。議論の技術というのは自分のレベルを上げるためにある。相手がこうだからああだからなどというのは副次的なものさ。もっと言えば、人は言語によってものを考える、ものを考えるときに沈思黙考するよりは、声に出して議論するほうがうんと本質が鮮明になる。ぼくたちは議論を勝ち負けの道具のように思い、そして、この種の本に振り回されるけれど、言語の精度を高め、本質理解をするために議論の場というのは欠くべからざるもの、というわけなんだよ」

「議論は交わすものであって、勝つためのものではないということか……」

「そう、よりよく議論を交わすこと。それでもなお、結果は勝ったり負けたりだから。勝つための議論を志すよりも、よりよい議論を志すほうがうんと度量の大きい人物になれるとぼくは思うね」

ドーナツ、あるいは言い換え問題

『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本は書評で知っていた一冊。書店で「ちら見」だけして買わずに帰ってきた。答えの分からない問題――あるいは既存の答えが存在しない問題――に対して、自ら解を捻り出そうという話。決して嫌いなテーマではないが、まあ読まなくてもいいだろうと判断した次第。

この命題は「ドーナツに穴があること」を前提にしている。ドーナツとは「小麦粉に砂糖、バター、卵などを加えてね、球形にして油で揚げる洋菓子」であり、穴の有無は枝葉末節のバリエーションに過ぎない。したがって、正確を期すならば、「リングドーナツの穴だけ残して食べる方法」とすべきである。昨日の朝にぼくがつまんだクリームドーナツには穴がなかった。最初からないものを残すことはできない。この本を買わなかった理由は、この命題に先立って「ドーナツとは何か?」が問われるべきだと思ったからである。

情報は、深層においてではなく、表層で受発信されるから、定義、すなわちことばの言い換えや表現に強く依存する。「太陽」と言うか「お日様」と言うか……社長と言うかCEOと言うか……「信号は赤だった」と点情報をぽつんと言って終えるか、それともその点情報から次の展開である「車は止まった」に目を付けるか。ことばの目の付け方がイメージを左右する。「つちやたび店」→「月星ゴム」→「ムーンスター」という社名の変遷は、情報の衣替えでありイメージの変容でもある。モノには拡張の限界があるが、ことばはいくらでも融通がききイメージを広げてくれる。

どんなことばにも多義が備わっているので、一語によって複数のよく似たモノや思いや状況の表現をある程度まかなうことができる。しかし、類語辞典をひも解けば、おびただしい類語が掲げられている。手元の類語辞典で【終わる】を引けば、品詞変化も含めて60ものバリエーションが紹介されていた。このような言い換え(あるいはパラフレーズ)が起こるのは、よく似た概念グループをわずか一語で束ねることがままならないからである。もちろん、類義語には共通の概念が横たわっている。たとえば空想と想像という二語には「いま知覚できていないことを思い浮かべる」という概念の重なりがある。その一方で、相互に代替不可能な固有の意味がある。たとえば、想像は経験を踏まえるが、空想は経験を必要としない、等々。その意味を使い分けねばならないからこそ、いずれの語も存在するのである。


ドーナツ

話をドーナツに戻そう。

「物事を体系的に扱おうとするなら、定義から始めよ」(キケロ)にならえば、まずはドーナツの言い換えに挑むことが問題解決の端緒になるはずだ。ドーナツを指し示して「これは何?」と無作為に人を選んで尋ねてみよう。

「ドーナツです」(現実主義的な一般人)
「あ、穴だ!」(異端児)
「輪以外の何物でもない」(抽象論者)
「穴が空いている洋菓子」(合理主義者)
「いわゆる一つのリングドーナツですねぇ」(長嶋茂雄)
「ドナーツ、大好き」(幼児)
「これはUFOに間違いない」(妄想家)
「周縁存在と中心不在」(懐疑的形而上学哲学者)
「○○堂の商品だね」(オヤツオタク)
「甘いもの、苦手なんですよねぇ」(意思疎通不全者)
「ドーナツという言語と写像関係にある世界の要素」(ヴィトゲンシュタインの末裔)

「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」と聞いて最初に浮かんだのが、何十年も前の中田ダイマル・ラケットの漫才の一コマである。

ダイマル 「ぼくはレンコンの穴が苦手でねぇ」
ラケット 「ほう、そしたらレンコンは食べへんのか?」
ダイマル 「いや、穴だけ残して食べてる」

正確ではないが、だいたいこんな感じのボケとツッコミだった。これで十分に答えになっているではないか……というのがぼくの直感である。穴が苦手であるなら、「ドーナツの穴だけ残して(ドーナツを)食べる」という命題自体がすでに一つの方法を示唆している。だが、穴が好きでたまらない人間にとっては穴を残すのは忍び難いに違いない。ドーナツも好き、穴も好きという者にとっては証明意欲に火がつく命題なのであろう。言うまでもなく、ドーナツにも穴にも関心のない者にとってはまったく響かない命題である。

時間とお金

時は金なり

「時は金なり」がテーマではないが、人口に膾炙かいしゃしたこの諺から話を始めることにする。

通常の感覚では時と金は別ジャンルである。別の概念なのに、同じだと言って知らん顔している。ベンジャミン・フランクリンが“Time is money.”と言ったらしい。ポツンとつぶやいたのか、ある文脈の中で語ったのかはわからない。仮に後者であったとしても、独立した主張として一人歩きして今日に到っている。

「時は金なり」に限らず、そもそも諺のほとんどは主張しか唱えない(「良薬は口に苦し」、「急がば回れ」、「雨降って地固まる」、等々)。もし諺に理由や説明を加えたら簡潔性が失われて野暮ったくなる。諺は覚えやすいのがいい。証拠も論拠も伴わないで言いっ放しだから、必然人によって解釈も変わる。シンプルな主張ゆえに、かえって明解性を欠く。したがって、どのように解釈されてもしかたがない。

「時は金なり」とは、①時間は貴重である、②時間は金銭と同等に価値がある、③金銭を浪費してはいけないように時間も浪費してはいけない、④ゆえに、時間を有効に使うべきである……こんなふうに解釈しなければならない理屈はない。時と金をイコールで結ぶことに馴染めないので、ぼくはこの命題には諸手を挙げて賛成しかねる。

諺に親しむのはいいことだ。しかし、主張だけ言い放って証拠や論拠に言及しない癖をつけてしまうのは考えものである。経験と知識が有機的に熟成もしていないのに、いかにも何事かがわかったかのように短文にメッセージを凝縮させるべきではない。また、若い頃は、諺のような切れ味を自分の弁舌に求める必要もない。冗長であることに居直ればよい。明快さには冗長さがつきまとうものだ。論理的に明快であるために、まずくどいほど多くを語らねばならないのである。


閑話休題――。「時は金なり」ではなく、冷静に順接の接続助詞「と」で時と金をつなぎたい。つまり、「時間とお金」である。冒頭で時と金は別ジャンルと書いた。但し、特徴的な共通点が一つある。時間もお金も約束事によって成り立っているという点だ。時に目盛りなどないが、みんなで「時を刻むこと」を取り決めた。こうして時間は時計や表示板というモノで認識できている。お金も紙幣や硬貨というモノで認識できるが、実は、これも価値につけた目盛りにほかならない。時も価値も見ることも触ることもできない抽象的な概念なのである。

「時=金」という主張が成り立つとするならば、いずれも取り決められた概念であるということ、そして、社会的に取り決めたのであるから、そこに何がしかのルールがあるということ、したがって、そのルールを守らなければ信用基盤が崩れるという点においてこそである。

日程を決める、期限を守る……ぼくたちは未来の時間を今日取り決める。未だ見ぬ将来の約束を今日結ぶのである。双方が同じ時間感覚を持つことはきわめて重要なのだ。約束を破れば双方の関係がひずむ。同様に、価値交換の単位であるお金は、支払う側にとっても受領する側にとっても、生活や仕事を成立させるための糧となり信頼の記号として機能する。時間とお金はつねにトラブルの原因をはらむと同時に、幸福や善にとって欠くべからざる要素なのである。

時間にルーズな者はお金にルーズである。お金にルーズな者は時間にルーズである。「決められた日に支払わない」という言い方には、時間とお金のルーズさが同時に表れている。この点においてのみ、「時は金なり」が成り立ち、同時に「金は時なり」とも言い得るのだろう。

無反応、つまり無責任

「責任」ということばはてっきり和製漢語だと思っていた。ところが、近代以降の翻訳語を調べてみたらそうではなかった。中国語には「责」ということばがある。ただし、わが国で使われた目ぼしい形跡はなさそうだ。

多数の和製漢語が明治以降に生まれたのはよく知られている通り。英独仏語の概念的な術語をやまとことばに置き換えずに、せっせと漢語に翻訳したのである。自由、哲学、恋愛などは和製漢語の代表格だ。

英語の“responsibility”やフランス語の“responsabilité“の訳語として新たに造語せずに、「責任」という語を拝借したのだろう。英仏語ともにラテン語の“respondere”という動詞に由来し、元々は「(何かに)応じる、答える、反応する」という意味だった。現代イタリア語にはほぼそのまま残っているが、二つ目のアルファベットが”e“から”i“になって”rispondere“と綴られる。

すべての英和辞典で“responsibility”という見出し語の筆頭に「責任」という意味が挙がっている。研究社の新英和中辞典は「自分が引き受けたり与えたりした仕事の義務を遂行する責任」と懇切丁寧な解説を付けている。しかし、遂行責任でいいのか。よくよく考えてみれば、責任という漢語には強さはあるものの、“responsibility”の定義としてはちょっとアバウトな気がする。「責任をとる」や「責任感」などという表現では、いっこうに責任という概念が鮮明になってこない。それが証拠に、「きみの言う責任とはいったい何か?」と尋ねてみればいい。ほとんど満足のいく答えは返ってこないだろう。


responsibility

まさしく今書いた「答えを返す」のが”responsibility“の本来の意味だった。これは「レスポンスする能力」のことである。反応する能力とは、打てば響くさまを示す。対話や行為にともなう人間関係において、相手の言動をしっかりと感受して何がしかの反応をしてみせることなのだ。それは一つの能力であり、その能力を発揮することを責任と呼んでいるのである。

常識レベルで言えば、プレゼントされたら「ありがとう」と反応するのも能力。能力がなければお礼の挨拶もできない。仕事上質問を受けたら、その問いに適切な応答を返すのが能力。相手が自分に働きかけてきているのに、御座なりな対応で済ませたり、不言や不実行という無反応でやり過ごしたりするのを無責任と言うのである。テニスや卓球でサーブを打ち返さなければ試合はおもしろくないが、それよりもまず、あのプレイヤーは能力がないと評価される。

他者からの依頼や問いや指示を包括して「刺激」と呼ぶならば、一つの刺激に対して必ず一つの反応を返すのが良識というものである。しかも、誰に対してもどんな刺激に対しても機械的な反応であってはならない。その刺激にのみ有効な反応をしてみせるほどの覚悟がいる。覚悟だからコミットメントであり責任なのである。この話は「他者―自分」という関係だけに止まらない。決意したにもかかわらず自分との約束を守らずに三日坊主に終わるのも、決意に対する無反応を決め込んでいるからである。

眺める

観測データは観測のための光や観測者の存在によって変化を被る。

元々は誰かが言ったことばなのだろうが、あいにく覚えていない。〈観察者効果〉と呼ばれる現象のことである。真っ暗だと何も見えない。何かを見るためには光が必要である。その光を照射した瞬間、観測対象は変化する。同様に、観察しようとしてぼくがそこにいることによって対象はすでに変化を受けている。つまり、観測環境がつねに一定することなどありえない。

野生動物の生態を調査するという目的で、小屋を作って人が入りずっとカメラを回し続ける。そこに棲息する野生動物が小屋の存在に気づかぬはずはない。小屋ができた時点から彼らの生態は変化を被る。自然な生態というものは、観測装置や観測者不在のもとでしか存在しえないのである。


湯治村3

風景を眺める。繊細な色合いで落ち着き払っている。青系統の色が連続的な変化を織り成し重なり合う。ぼくの好む青系統の風景であってみれば、惚れ惚れと見入ってしまう。その風景にはすでにぼくの感覚的な観察視点が入り込み、他者の眺めとは違う印象と効果が生まれている。

一朝一夕にしてしつらえられた風景ではない。この眺望の一瞬のために、長い年月にわたって風土的条件が用意されてきた。そして、そこに今という時の気象条件やぼくの眺めの諸条件が加わっている。しかし、観察者としての自分がその風景の見方を「歪めている」などとは誰も思わない。お膳立てされた風景をただ堪能するだけである。対象内に人や人工的な介在物がない時、ぼくたちは一切の過去への推察から解き放たれている。理性的に理解しようなどという動機は芽生えず、ただ無意味にそこに佇んで忘我の境地で眺めるのである。

シネリーブルから地上

街中にあって窓外を眺める。先日こんな光景を目にした。自然がお膳立てしたような風景はそこにない。コンクリート空間の中に造形されたモノがあり、複数の人々がいて独特のシーンを描き出している。人々は目的があってそこに居合わせたり行動したりしている。

詮索することなしにこの光景には向き合えない。この都会的な構図における「点景」は状況理解を迫ってくる。観察時間を増やして点景を線として手繰ってみれば、意味を探れるかもしれない。しかし、この観察は疲れる。風景を眺めるのとは違って、街、人、造形物を眺める時、無意味だと片付けて知らん顔できないのである。都会に生きる者はそういう宿命を背負って生きる。