読書しながら世話を焼く

春眠不覺暁しゅんみんあかつきをおぼえず」の盛りまではまだしばらく時間がある。春の眠りは心地よくて朝が来たのもわからないという、この生理機能の前に「本を読んでいると眠くなる」という兆しが現れる。読書だけでなくテレビを見ていても考えごとをしていても、季節が寒から暖へと移り変わる頃はついうとうとしてしまう。歳のせいかもしれないが、この習癖(?)は若かりし時代も同じようにあった。顕著なのが就寝前なので、本を読みながらそのまま熟睡に入るのはまんざら悪いことでもないだろう。

昨年から“Savilna(サビルナ)を冠にした会読会を始めた。知の劣化を読書と書評によって食い止めようという試みで、「錆びるな!」をもじった名称だ。この会読会を意識して読むべき本を選別することはまったくない。ぼくなりに読みたい書物の今年のテーマはあるわけで、それに背いてまで受けを狙うような本の読み方はしない。とは言うものの、今年に入って読了した何十冊かの本の中からどれを書評するかという段になると、ただ自分が気に入ったり動かされたりしたという基準だけでは選び切れないのである。


有志が集まる会読会で彼らが読んでいない本について書評するような決まりがなければ、読書ほど私的で自由な楽しみはないだろう。書誌学者や評論家でもあるまいし、好き勝手に読んで大いに自分だけが学べばよろしい。しかし、レジュメを一、二枚にまとめてメンバーに配り、さわりの引用文と書評を紹介しようとすれば、読もうと思い立ったときの本の選択基準とは別の読み方を強要されてしまう。生意気な言い方をすると、ぼくにとっては別段教訓的でもないが、彼はこれを知って目からウロコだろうとか、別の彼には仕事上のヒントになるのではないかという思惑が読書中に働いてしまうのである。

勉強のため、あるいは楽しみのためにその本を選んで読むことにした。にもかかわらず、読書を通じて自分自身が学んでいるのではなく、「このくだりをみんなに知っておいてほしい」などと、まるで親が幼い子どもに昔話を読み聞かせるような心境になっている。「この箇所は、ぼくがくどくど説明するよりもそのまま引用したほうがよさそう」と思っていることなどしばしばなのだ。えらくお節介を焼いているものである。

しかし、考えてみれば、企画業や講師業という仕事にサービス精神は欠かせないのである。振り返れば、会読会が始まるずっと前からぼくの読書の方法は、自他のためだったような気がする。本を読みながら自分がよく学び楽しみ、その学び楽しんだテーマや文章を誰かと分かち合いたいと願うのは当然至極だろう。「自分の、自分による、自分のための読書」の純度に比べて、第三者を意識した読書の純度が低いわけではない。ついでに世話を焼いているだけの話だ。それはともかく、年に何十冊も本を読んでいながら片っ端から忘れてしまう読書人にとって、書評をまとめたり発表したりするのはプラスになるだろう。読みっぱなしよりもたぶん記憶は深く濃密である。

カフェの話(1) エスプレッソの香り

数年前に家庭用のエスプレッソマシンを買った。どういうわけか、冬の時期にはあまり使わない。少し暖かさを感じ始める頃から一日に一杯飲むようになる。それが秋の深まる季節まで続く。自宅で飲まない日でも外で飲む。必ずというわけではないが、オフィス近くのカフェで飲む。ランチの後はだいたいエスプレッソ。朝一番の場合はカプチーノかカフェラテにすることもある。ただエスプレッソ至上主義ではないので、ふつうのブレンドコーヒーも二、三杯飲む。

寒い時期は、知らず知らずのうちに大きなカップ一杯の熱いコーヒーで温まろうとしているのだろう。ご存知のようにエスプレッソはごく少量の濃いコーヒーで、器もそれに応じて小さい。出来上がってから1分でも時間を置こうものなら、あっという間に温度が下がる。自分で作っても店で出されても、好みの分量の砂糖をさっと入れ素早くかき混ぜてぐいっと飲み干すのがいい。

エスプレッソの焙煎・熟成は微妙だ。同程度に微妙なのが挽き具合。蒸気を噴きつけるのでできるかぎり細かく挽くのがいい。家庭で飲む分には、市販で挽いてあるのが便利だが、封を開けてからは徐々に劣化が進む。だから自前でそのつど挽くのがいいのだが、市販のように細かく挽くのがむずかしい。

エスプレッソの季節がやってきた。昨日たまたま通りかかった、輸入品を多種扱う有名スーパーで豆を買い、レジで挽いてもらった。「これはいい豆だ」と直感した。まったくその通り、自宅で封を開けたら濃厚な香りがたつ。いつものようにいったんイリィの缶に入れ替えた。久々に秀逸のエスプレッソに巡り合った。なお、イリィとは、1930年代にエスプレッソマシンを開発したフランチェスコ・イリィゆかりの名称。バールで飲むエスプレッソと同じように挽いた粉が缶入りで売られている。何度か買ったが値が張るので、リーズナブルでおいしいものをいつも探している。

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イリィのバール(ヴェネツィア)。カウンターの中で手際よくエスプレッソを作る。注文してから待たせないのが職人バリスタの腕の見せ所だ。
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店と歩道の境目がないカフェ(パリ)。季節が暖かくなってくるとカフェのテラス部分にはテーブルが置かれ、客たちは競って通路そばのテーブルに陣取る。

ことばの解釈ということ

ディベート大会が322日に神戸で開かれる。ぼくにとってはおよそ二年ぶりの出番だ。名称は『第1回防災・社会貢献ディベート大会』。同名の実行委員会が主催し、兵庫県や大学関係が共催で名を連ねている。去る117日は阪神・淡路大震災から15年目を刻んだ。かくあるべしという唯一絶対の防災対策は定まっていないし、定まることもないだろう。ゆえに、今回の論題『自主防災組織の育成は最も優先すべき防災対策である』という価値論題が成り立つ。現実的には白黒はつかないが、論理思考的に白黒をつけるべく大学生や社会人ら16チームが議論を繰り広げる。ぼくは審査委員長を仰せつかった。

ディベーターは論点を構築するにあたって、論題の背景をにらみながら論題文中の用語をまず解釈する。上記の例では「自主防災組織」「育成」「最も優先」「防災対策」が対象となる。しかし、都合よく解釈して好きなように定義をしていいというわけではない。「自主防災組織」についてはすでに《災害対策基本法第52項》に示されている。また、防災対策もすでにいくつかの既成概念がある。したがって、残る「育成」と「最も優先」をどうとらえるかに意を凝らすことになる。「育成」のほうをそっとしておいて――つまり、辞書の定義に任せ――「最も優先」に価値基準を見い出したい。いずれにせよ、論題解釈次第で争点の領域や肯定側立論の論点構成が決まってくる。


一つのことばだけなら解釈もさほど難儀ではない。ところが、文中にある複数のことばを解釈しようとすると、主と従の関係も出てくるし、解釈そのものが矛盾をはらんでしまうことがある。用語Xをこう解釈したら、用語Yがもはや自在というわけにはいかず、Xの解釈によってある程度規定されてしまう。別にディベートの論題だけにかぎらない。たとえば広告の見出しを読んで、どの用語がテーマに絡んでいるのかを見極めるのも同じことだ。

旅をすれば経験するが、「老朽化した古い新館」があり「新しく改装した旧館」があったりする。別館が本館よりも大規模であることも稀ではない。なぜその館に「本」や「別」や「新」がつくのか。そう言えば、館には東西南北もよく被せる。建物が一つしかなければ「○○館」でおしまい。あらたにもう一つ増えると、その「新館」に対して最初の館に「本館」という解釈と名称が生まれる。ことばおよびその解釈は相互関係で成り立っているということがわかるだろう。ソシュール流に言えば、言語は差異の体系なのである。

1997年頃の企画研修で「一人っ子が何世代も続くと、どんな未来になるだろうか?」というシミュレーション型の演習時間を設けていた。シミュレーションなどの思考作用はことばの解釈から始まるというがわかる。一人っ子って何だ、何世代とは? 未来とは? ということばをきっかけとしてぼくたちは推論したりイマジネーションをたくましくしたりするのである。ちなみに両親がいずれも一人っ子ならば、「私」にはいとこもおじもおばもいない。

“アイディケーション”という方法

一週間ほど前のブログで対話について少し嘆いてみた。セピア色した弁論スピーチやアジテーションはあるが、対話がない。お気軽なチャットはあるが、対話がない。一方的な報告・連絡は絶えないが、意見を交わす対話がない。会議での議論? ファシリテーターの努力も空しく、だんまりを決めこむ出席者。あるいは、喋れば喋るで喧嘩腰になり、一触即発の人格攻撃の応酬のみ華々しくて、そこに冷静で穏やかでウィットのきいた対話はない。対談集を読んでも、波長合わせの同調中心で、挑発的な知的論争を楽しめる書物にめったに出くわさない。

対話がないと嘆きはするが、日々の隅々の時間を対話三昧で埋め尽くしたいと願っているのではない。少しは対話のシーンがないものだろうかとねだっている次第である。「こんな理不尽なことがあって、とてもけしからん」とか「誰々がこんな話をしたので、おかしいと思った」とか。この類を意見と呼ぶわけにはいかない。事実や経験を左から右へと流して文句を言っているにすぎないのだ。だから、こんな連中の話を聞くたびに、ぼくはちょっぴり意地悪くこうたずねる、「で、あなたの考えは?」と。

ほとんど返答がなく無言である。考えに近い意見を聞けたとしても、「で、なぜそう思うのか?」とさらに理由を問うと、たいていは沈黙するかお茶を濁すようなつぶやきで終わってしまう。良識ある人々はコミュニケーションの重要性をつねに説くが、いったい彼らの言うコミュニケーションとは何だろうか。空理空言をいくら大量に交わしても何事も共有などできない。ラテン語の起源をひも解けば、コミュニケーションには「交通可能性」という意味があり、ひいては意味の共有を目指すもの。”communication“の”com”はラテン語では「公共の」「共通の」「一緒の」などを示す接頭辞。共同体コミュニティ会社・仲間カンパニーなどの英単語も”com-“で始まり、そうしたニュアンスを内包している。


お互いが触発されアイデアを交わす対話を〈アイディケーション(idecation)〉と名付けてみた。アイデアを創成するという意味の〈アイディエーション(ideation)〉と〈コミュニケーション(communication)〉の合成語である。「アイディケーションしようか」と持ち掛ければ、それは単なるお喋りではなく、また儀礼的な辻褄合わせの会話でもなく、事実も意見も論拠も示し、しかもとっておきのアイデアで互いの発想をも誘発していく対話を試みようということになる。

先週久しぶりにプラトンの『プロタゴラス』を再読した。一方的な弁論を巧みにおこなうプロタゴラスに対して、お互いの言い分や問いを短く区切って対話をしようではないかと異議を申し立てたのがソクラテスだ。二千数百年前の古代ギリシアで弁論術の指導を生業としていたプロタゴラスは、将来国家の要人となるべく勉学に励む若者たちにとってはカリスマ的ソフィストであった。同書の前段を読むと、彼がいかにマイペースの弁論術を心得ていたかが手に取るように伝わってくる。

しかし、その彼にあっても、ソクラテスに執拗に一問一答的に質問をたたみかけられるとたじろいでいくのである。そう、誰も口を挟まず、また誰も「ちょっと待った、聞きたいことがある」と問わない状況にあれば、いくらでも弁論に磨きをかけることはできる。一人のカリスマが大衆や取り巻きのファンを酔いしれさせて説得するくらい朝飯前なのである。だが、他者からの問いや意見が加わる対話という方法に置き換わった瞬間、論説の基軸が揺さぶられる。弁論術で飯を食う人間には死活問題になるが、ぼくたちにとってはそれが「気付かざるを考える格好の機会」になってくれるだろう。狭い料簡で反論に腐っている場合ではない。

スイッチが入ったような書き方になってしまった。アイディケーションのような方法は古臭くて面倒なのだろうか。もっと軽やかな、ささやくようなツイッターのほうが時代にマッチしているのだろうか。

意識という志向性

久しぶりにここ一ヵ月のノートを繰ってみた。〈意識〉という概念でくくれそうな話題やことばをいくつか書き綴っているので紹介しておこう。


無から何かを推理・推論することはできない。「何もないこと」を想像しようとしても、気がつけば何事かについて考えている。情報が多いから多様な推理・推論の道筋が生まれるとはかぎらない。また、情報が少ないからという理由で推理・推論がまったく立たないわけでもない。「船頭多くして船山に登る」という譬えの一方で、一人の船頭がすいすいと船を御していくことだってある。情報過多であろうと情報不足であろうと、意識が推理・推論に向いていなければ話にならない。意識がどこに向いているか――それを意識の志向性と言う。現象学の重要な概念の一つだ。


悩んでいる人がいる。「意識は強く持っているつもりなのだが、なかなか行動につながらない」としんみりとつぶやく。「フロイト流の無意識に対する意識じゃダメなんだろうね」とぼく。「と言うと?」と尋ねるから、こう言った、「フッサール流の意識でないといけない」。「つまり、〈~についての意識〉。日本語を英語に翻訳する時、意識ということばは悩ましいんだ。ぼくたちは意識に志向性を表現しない傾向があるけれど、英語では“be conscious ofとなって、『~について意識する』としなければ成り立たない。この”~”の部分が希薄であったり欠落してしまうから、意識が意識だけで終わってしまう」。

そして、こう締めくくった――「意識と行動をワンセットで使ってあっけらかんとしているけれど、実は、意識と行動の間には何光年もの距離がある。いまぼくたちが行動側で見ているのは、何年も何十年も前に意識側を出発した光かもしれない。茫洋とした意識が行動の形を取るには歳月を要するんだ。しかし、行動についての意識をたくましくすれば、時間を大いに短縮できると思う」。


フランスの思想家ローラン・ジューベールに次のようなことばがある。

まとは必ずしも命中させるために立てるのではなく、目印の役にも立つ。」

的を理想や理念に置き換えればいい。理想や理念を掲げるのは必ずしも実現するためだけではない。「日本一の何々」や「金メダル」を目標にしても、現在の力量からすれば天文学的な確率であることがほとんどだ。だからと言って、理想を膨らませ理念を崇高にすることが無意義ではあるまい。理想や理念は意識が向かう目印になってくれる。意識の志向性を失わないためにも対象は見えるほうがいい。


バンクーバー五輪で日本人選手が凡ミスを犯した。戦う前に失格である。体重が重いほど加速がつくリュージュの競技では、体重の軽い選手に10キログラムのおもりを装着することが許されている。ところが、その女子の選手は計量で200グラム超過してしまって失格となった。また、スケルトンの競技では、国際連盟が認定するそりの刃に正規のステッカーを貼り忘れるミスがあり、この女子選手も競技に参加できなかった。

日本を代表する選手クラスである。国際試合経験豊富な役員やコーチもついている。当然ながら一流選手の意識が強く備わっていたに違いない。しかしだ、対象への志向性がない意識はリスクマネジメントにつながらない。ここで言う意識の志向性は、具体的な体重管理とステッカー貼付に向けられねばならなかった。

あなたの「やらねばならない」という意識、「さあ、頑張ろう」という意識、きちんと「何か」に向けられているだろうか。先週のぼくの意識は空回りだった。仕事の、やるべき作業対象があまりにも漠然としていたからである

「休まない」という生き方

もしかすると近い将来に中国人が食べ尽くしてしまうかもしれないと危惧されるマグロ。中国での日本食ブームが火を付ける格好になり、日本人の専売特許であった海の食材の「蜜の味」を彼らが覚えてしまった。今後も需要が膨らみ続けると見込まれる。苦節三十余年の養殖技術が実り、養殖の可能性が高まってきたとはいえ、孵化してから40日間生存するのは千匹に一匹という。ビジネスベースに乗るにはまだ何年もかかるのだろう。マグロを好物とする人たちにとって深刻な事態であるに違いない。

マグロの通には耐え難いことかもしれないが、マグロが食べられなくなると困るか? と問われれば、ぼくの場合は別段困らない。ちょっと残念ではあるけれど、しかたがないと諦めて代わりの食材へと触手を伸ばせばいいと思う。ちなみに、捕鯨に関しても論争に値するテーマではあると認識しているが、ことぼくに関して言えば、別に食べなくてもいい。鯨のベーコンやハリハリ鍋をずいぶん食したが、なければないでかまわないし、かれこれ56年口にしていないから常食からは程遠い。繰り返すが、わが国の調査捕鯨の是非や鯨肉文化の話は、また別の問題である。

話をマグロに戻す。天然マグロの平均寿命は40年らしい。広い世界の海のどこかで、人間のアラフォーよりも年上のマグロが泳いでいるのである。卵や稚魚の時期にほとんど死ぬので、正しく平均寿命を計算すれば40年になるはずはない。無事に成魚になって人間にも捕獲されなければという仮定での平均寿命だろう。この40年という数字に驚いたが、もっと驚いたのが「マグロは一生休まない」という事実である。なんとマグロは生涯ずっと泳ぎ続けるのである。口を閉じると窒息するので、口を開けておくためにはただひたすら泳ぎ続けるしかないのだそうだ。


世間には一年365日働き続ける人がいる。マグロのように不眠不休という意味ではなく、敢えて言えば「少眠無休」のような生き方。ぼくの周囲にはいない。夜更かしをして朝遅くまで熟睡し、平日の勤務時間に接待と称してゴルフに明け暮れる人は何人かいる。毎日が日曜日のように見えなくもないが、マグロ的生き方とは正反対だ。思うに、まったく休まないのも休みすぎるのも難しい。創業時の一、二年間、ぼくも休日をほとんど返上してよく働いたが、その時期を勤勉の日々だったとは思わない。得意先とのパイプも太くなり仕事も増えていくばくかの蓄財もできたが、失ったものも多かった。

マグロに生まれなくてよかったと安堵しても、マグロであったら「休みたい」などとは思わないだろう。一生懸命に口を開けて猟師の魔手から逃れるべく泳ぎ続けるに違いない。こう考えると、環境と生物の生き様には運命的なものを感じざるをえない。ぼくたち人間も、厳密に言えば、マグロのように行動と生命が直結する生態系に置かれているはずである。しかし、そこに「絶対に口を閉じてはいけない」というような単純な定めはない。ある程度、仕事に関しても休みに関してもぼくたち自身の裁量に委ねることができる。そうならない時、過労死や欝や自殺の問題が出てくる。

サラリーマン時代、休み明けの月曜日はとても重苦しかった。〈月曜日の憂鬱マンデーブルー〉が世界の労働者共通の心理的記号のように思えた。土曜日や日曜日にしっかり休めるようにと、当該週はがむしゃらに働く。金曜日などいつも終電という人たちが未だに大勢いる。彼らにハッピーマンデーが授けられ、大手企業のサラリーマンや行政職員は年に4回、連続3日間休暇を取れるようになった。しかし、気がつけば「火曜日の憂鬱」が待っていた。休みとは不思議なもので、どこかで労働を悪と位置づけないと成り立たないような気がしてくる。

「休まないという生き方」を批判するためには、「休むという生き方」の理論武装が必要だ。肉体か精神かはわからないが、ぼくたちは何のために休むのかをもう一度考えてみるべきだろう。「休ない」には意志があって愚痴がなく、「休ない」には愚痴があって意志がない。身体と精神の両方を緩めながらも、仕事への視線は休まないという生き方が最近やっとできるようになってきた。ちょっと遅きに失したか。  

成功事例の学び方

座右の銘ほど頻繁に使うわけでもない。また、ここぞというときの伝家の宝刀でもない。おそらく誰もが発しそうな、どこででも耳にしそうな格言。実際に使われているかもしれないが、一応ぼくの自作。「人は人からもっとも多くを学ぶ」というのがそれ。人物にひれ伏すように学ぶことではない。「偉人伝」に書いてある、いいことづくめで成功物語に酔いしれるのではなく、人物の功罪を学ぶという意味である。

平均的ビジネスマンがひも解く程度に企業と製品の成功事例や人物の成功秘話を研究したことがある。成功には最大公約数的な法則もうかがえるが、すぐれて顕在化する共通要素は少ないということがわかる。つまり、ほとんどの成功事例はそれぞれ固有であり特殊なのである。もちろん範とすべきビジネスモデルや理想の人物像は存在するだろう。しかし、長い歴史から見れば、普遍的な評価に浴するのは一握りであって、ほとんどは一過性の現象に終わる。また、世界を視野に入れれば、成功法則には軽視できないほどのバラツキがある。ケーススタディは一筋縄ではいかない。

近年成功美談にうつつを抜かすことはなくなった。懐疑的とまではいかないが、ほどほどに感心した後は丁重に流しておく。決して過度に思い入れをして秘訣を探って何とか生かしてやろうなどとは思わない。あまりいいたとえではないかもしれないが、ローヤルゼリーとプロポリスが蜂にとってスグレモノだからという理由で、蜂ではない人間が何かに憑かれたように摂取するのは考えものだ――という具合。蜂の成功、必ずしも万物の成功に通じず、である。


昨年12月にテレビで視聴した番組に成功事例につながる話題が二つあった。一つは、九州のDIYホームセンター。知る人ぞ知る「ムダな品揃え」を売りにしている企業である。どんなニーズにでも対応する覚悟の背景には強い顧客へのコミットメントがあるに違いない。顧客の欲しいものや必要なものが、たとえ量的に捌けなくても、たった一人のニーズに適うならば一個でも仕入れるという。頭が下がる思いだが、こうして「あの店に行けば必ず何かがある」という心理が顧客のマインドに醸成されていく。とは言え、この成功事例がそっくりそのまま活用できるとは考えられない。二番煎じというそしりを受けて真似をしても、多様化する顧客ニーズのすべてを満たすことなど常識的にはありえない。

もう一つの例は、「『できない』と言わない」を掲げる畳店の話だった。ぼくの見た場面は、ある居酒屋が注文した畳替えだ。畳替えはある種のリフォームである。店舗規模の大きい居酒屋が畳替えをしようと思えば、通常一日や二日の臨時休業を強いられる。だが、この畳の専門会社の売りは24時間対応。ものの見事に深夜の閉店時刻から翌日の開店時刻までの間に仕上げてしまう。旅館や料亭の大広間の畳の縁飾りもオリジナルなニーズにきめ細かに応える。感心ひとしきりのサービス精神である。

いずれの事例でも独創的な経営精神が余すところなく発揮されている。実際、顧客に向き合う商いの魂にぼくは強く鼓舞されもした。だが、正確に言うと、精神と道は違う。精神にならうことはできても、取るべき道には現実的にできることとできないことがある。少なくとも、ぼくのような企画業や講師業で身を立てる者がありとあらゆるニーズを満たすことなど不可能なのである。すなわち、ぼくの限界が市場の限界。えらく弱気なように響くかもしれないが、これまで持ち続けてきた諦念たいねんの一つだ。自らが得意とするところと「できないこと」を慎ましく明示してこそ、存在が意味を持つ。

二つの成功事例からぼくが学んだのは、顧客満足のための具体的方法論などではなく、何事も徹底する精神のほうであった。

問題、そして解決

問題と解決が一体化して「問題解決」という四字熟語になってから久しい。心理学の主題として始まりすでに1世紀が過ぎた。ぼくの場合、問題解決というテーマとの付き合いは30年前に遡る。ちょうど広告業界に転職した頃で、製品訴求メッセージにどのように問題解決便益を盛り込むかを思案していた。一番最初に読んだ本が『問題解決の方法』(岡山誠司)。本棚に残っていた。奥付には昭和五十六年十二月二〇日第一刷発行とある。

久々に傍線部のみ目で追ってみた。少しずつ記憶が甦ってきて、数ヵ所ほど現在も拠り所になっている文章に出くわした。たとえば、次の箇所。

「なぜ人間は、問題を解こうとするのか。これについては、『人間とは環境の中で生き残り、うまく機能していこうと努力する生きもの』であると仮定することによって、基本的には理解できるようである。」

あれ、これは最近どこかで使ったぞと思い出す。昨年の私塾の『解決の手法』で紹介している。最初に読んだときにメモしていたカードから引用していたのである。

次の一文も現在のぼくの考えの一部を支えている。

「情報を取りこむのは、保有する知識と多少異なっているばあいであり、取り入れ(同化)られると、その情報は知識の一部を変形し修正(調節)する。こうして知識は、一段と洗練(再構造化)され、よりよく生きるのに役立つものとなる。」

強引に読むと、持ちネタが足りなければ、ぼくたちは外部の情報を取り込んで問題解決に役立てる、ということだ。新しい問題に対しては、定番の解法では不十分であり、その問題と共時的に発生している人間的・社会的現象に目を向ける必要がある。


問題解決という、こなれた四字熟語を一度解体してみる。それがタイトルの「問題、そして解決」の意図である。問題と解決を切り離してみてはじめて気づくことがある。たとえば、問題がなければ(問題に気づかなければ)、解決の必要性に迫られない……問題が起きたら、解決しようとする、少なくとも解決しなければならないと思う……自分の責任で問題を起こしてしまったら、当然のことながら解決すべきである……未曾有の問題なら解決すべきであると十分に認識しても、うまく解決できるとはかぎらない……。まあ、こんな具合に、「問題と解決」のいろいろな構図が見えてくる。

要するに、四字熟語として問題解決を眺めてばかりいると、問題と解決の間の距離に鈍感になってしまうのである(ぼくはかねてから”ソリューション”という便利なことばにその鈍感さが潜んでいると思っていた)。ところが、上記のように「問題、そして解決」と切り離してみれば、問題を認知し原因を探り当てることと、それを解決することが大きく乖離していることに気づく。前に、ヴィトゲンシュタインのことばを引いて「およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」と書いた。問いと問題には類似する点もあるから、「問題が見つかれば、解決することができる」と言えなくもない。しかし、問題の大きさと質による。問題を見つけるノウハウと解決するノウハウは、たいていの場合、まったく異質である。

問題解決で手柄を立てるには、放火魔消防士になるのが手っ取り早い。自分で火をつけ(問題を起こし)、第一発見者となって火を消し止める(問題を解決する)。本来問題でも何でもないのに、やたら問題視して処方するのがやぶ医者だけとはかぎらず、あなたの周辺やあなたの会社にもそんな連中がいるかもしれない。しかし、もっと手に負えないのは、自ら問題を引き起こしていながら、そのことに気づかず、解決の手立てを講じない輩だ。まるでお漏らしをしてただ泣いているだけの乳幼児である。

世の中には解決しなくてもいい問題もある。それは単なる現象であって、「問題」と呼ぶこと自体が間違っているのだ。問題を見て、「解決できそうだ」「解決すべきだ」「(何が何でも)解決したい」という三つの知覚が鮮明になる時、鋭利なソリューションへの道が開ける。さもなければ、解決の機が熟していないか、尻に火がつく問題でないかのどちらかである。    

只管音読という「素振り」

只管しかん〉ということばがある。禅の一宗派では「ただひたすら座禅すること」を只管打坐しかんたざと呼ぶ。只管ということばそのものはどうやら仏教語ではないらしい。「只管○○」と複合語にすれば、「○○のことだけに意識を集中し、もっぱら○○だけをおこなうこと」を意味する。ぼくが大学生の頃に、著名な英語教育界のリーダーが「只管朗読」を独学のエッセンスとして提唱した。「ただひたすら英文を音読する」のである。

もちろん、この種のトレーニングは独学に限定されるわけではない。英語圏には古くから”トータル・イマージョンTotal Immersion)という語学メソッドがあり、日本でも本場から進出して久しい老舗語学学校の看板教授法になっているほどだ。トータル・イマージョンにも「ただひたすらどっぷり浸かる」というほどのニュアンスが込められている。かつてはライシャワー駐日大使ら日本語に堪能なアメリカの高官たちが、本国で日本語トータル・イマージョンの日々を送っていたという話を聞いたことがある。

英語学習において、中学程度の英語をほぼ正しく音読できる成人という前提付きで、上記のような只管音読はきわめて有効な学習方法だと思う。今のようにヒアリング教材がほとんどなかった1970年前後にぼくは毎日欠かさずに何時間も英文を音読していた。「英語圏の人々と対話なり論争なりをする」という無謀な企みがあったので、手当たり次第にいろんな英文を声に出して読んだ。かなり高度なテーマも含まれていた。四ヵ月後には、抽象的な思考も伝えたいことはほぼ言語化することができるようになった。

なお、外国語学習における母語の役割については議論が分かれる。母語禁止と母語活用だ。ぼくはいたってシンプルに考えている。成人の知のほとんどが母語の概念で形成されているから、大いに母語を活用すればよろしい。語学学習者にはさまざまな学習目的があるだろうが、全員に共通する究極着地点は「母語並みの語学力」である。これは、裏返せば、母語以上に外国語に習熟するのはきわめて稀ということにほかならない。


美しい日本語を声に出して読むというのが一時的にブームになった。だが、ブームで終わるのは、それが「美しい」と称するほど生易しいものではないからだ。毎日毎日どっぷりと、ただひたすら音読を続けるのは過酷であり、たとえ母語である日本語であっても、日常会話に堪能なステージから縦横無尽な対話を繰り広げるステージへはなかなか達しない。日々生活を送る中でことばに習熟するだけでは、知的な対話をこなすことはできないのだ。

儀礼的な報告・連絡・相談ばかりで、少しでも骨のあるテーマについて意見交換することができない。来年還暦を迎えるぼくの周囲には年下が圧倒的に多いから、彼らも一目を置いて聞き役に回ってくれる。ぼくとしてはスリリングで挑発的な対話や討論を楽しみたいのだが、彼らの遠慮ゆえか、こちらが一方通行の主張ばかりしていることが多い。愚痴をこぼしてもしかたがないが、対話向きの言語不足、ひいては思考不足も原因の一つである。

言語は幼少期に苦労なく身についてしまうので、成人になると特別な練習をしなくなるのである。対話は何も特別な能力でもないし、数学者のように緻密を極めることもない。アリストテレスも言うように、「弁論家に厳密な論証を要求するのは誤っている」のだ。弁論家の部分を対話者に置き換えればいい。少しは励みになるかもしれない。何はともあれ、母語においてもう一段上の対話力を目指そうとするならば、対話そのものを実践するのが一番。しかし、その実践機会の少ない人にとっては只管音読という素振りが効果的だと思う。

取ることと捨てること

取り上げて用い、捨ててしまって用いない。今さらながらというテーマなのだが、これがなかなか奥深い。「取捨」は選択や択一という表現を随えて四字熟語にもなる。情報編集や企画の仕事にはきまってつきまとう作業である。取るか捨てるかのどちらに頭を悩ますかは人それぞれ。適当に取り適当に捨てるならば、取るのも捨てるのも気楽である。だが、最終段階で何かを取り別の何かを捨てるとなると、取捨の対象を絞る勇断が要求され、この作業は途端にきつくなる。

だいぶニュアンスは違ってくるが、捨てるを“give”の変形だと考えると、取捨は(順番を変えると)“give and take”に通じなくもない。徳の教えによるとギブのほうがむずかしいようである。これまたニュアンスは変わるが、取捨を「保存と処分」としてみれば、大掃除や引っ越しの際の処分へのためらいを思い起こす。取捨選択をしているつもりが、気がつけば何も捨てられなくなっている自分に気づく。捨てようと思ったら、精細な選別などしていてはいけないのかもしれない。

ぼくの場合も同様だ。「2日研修のカリキュラムを1日用にアレンジしてほしい」という要望が時折りある。2日が1日になるから当然報酬は半分になる。依頼する側も2日間のネタを半分に削るのだから朝飯前だと思っている。どっこいそうはいかないのだ。1日研修を2日研修に「希釈したり間延びさせたり」するほうがうんと楽なのである。いや、ぼくが水増しをするということではないが、一般論としてダウンサイズ化は高度な技量と大きなエネルギーを要する。ちょうど真空管からトランジスタ、トランジスタからIC、ICからLSIへとハイテクが進んだように。


ぼく自身にまつわるエピソードをもう一つ紹介しておく。これは2日を1日ではなく、1日内の時間短縮。実施していたのは17時間の研修で、この報酬の指数を10としておく。翌年、同じ内容のテーマでタイムテーブルを午後からの3時間半に設定したいとの申し出があった。そして、報酬も半額でお願いしたいと言うのである。ぼくだって講師歴30年以上のプロの端くれ。時給ベースだけで評価されては困る。なにしろ新幹線を使わねばならない遠方なのである。しかも、講義を計算づくめで縮減するには少なくとも一両日はかかる。捨てる編集は単純引き算などではない。行き帰りも含めて一日を要するという意味では、報酬は7でも8でもなく10に値する。「知の売人」に成り下がらないための必死の抵抗と言えば、ちょっと構え過ぎるか。 

学ぶ側からの話。「取る」を「学習」になぞらえると、「捨てる」のほうは「離学」または「脱学」と呼べるだろう。実際、ぼくは何十年も前から脱学という造語を使ってきた。もっとも簡単なのが「不学」。まったく学ばないことである。無学とは少し違う。無学は不学の結果、陥ってしまった状態だ。これに比べれば学習は辛抱を要する。「勉学」という用語などはそれを如実に表している。しかし、である。学びには何がしかの偏見が含まれているもので、組み合わせによっては性悪な固定観念につながる。だから時々「異型性知識」を切除するメンテナンスが必要なのだ。これが脱学で、一番むずかしい。

ちなみに、学習は知識の習得を目指す。習得とは固定化のことなので、すべての学習はある種の固定観念形成であるとも言える。なお、脱学だからと言って、完全忘却するのではない。いったん記憶域に刷り込まれた知識を完全消去することなどできない。脱学とは、固定観念化してにっちもさっちもいかない知から離脱して新しい知へ向かう、学びの再編だ。言うまでもなく、新しい知は未来だけにあるのではなく、遠い過去にもある。それを温故知新と呼ぶ。