創意工夫の教え方

またやってしまったか、教諭さん。「はしゃぎすぎる先生」が定期的に新聞紙上で話題にのぼる。実際、今回の一件に関しては毎日新聞が「先生、やりすぎです」の見出しを付けた。

調べたらいろいろあるのだろうが、おかしくて情けない教師のやりすぎが二つ、ぼくの記憶に残っている。一つは、記入例にまつわるもの。市役所に行くと、書類の名前欄に「大阪太郎」などと書いてあるあれだ。氏名の記入例に「大庭嘉門」と書いた教師がいた。「おおばかもん」と読む。さぞかしお茶目な人なのだろうが、もちろん不適切だと注意を受けた。わざわざそんなふうにふざける必要があったのか。

もう一例は、「妻を殺す完全犯罪の方法を考えよ」の類の出題をした先生。生徒に考えさせて、いい方法があったら実践しようと思ったのか。そうではなく、多分に遊び心であったのだろう。しかし、「殺人問題」は教育の現場では常識的には具合が悪い。生徒にとっても荷が重い難問だったはず。相当なミステリーファンでもないかぎり即答は容易でないだろう。しかも、この先生、「二つ考えよ」と出題したそうである。

そして、冒頭の一件だ。小学5年生の道徳の授業で、新聞から文字を切り抜いて、なんと「身代金を要求する脅迫文」を作らせたのだ。よくもこんなテーマを考えるものだと感心するやら呆れるやら。「グループ作業によって友達と協力するのを教えるのが目的だった」と弁明したらしい。この教諭、ごていねいにも黒板に自らの実名入りのお手本を書いた。「〔教諭の〕身柄を確保した。返して欲しければ、ちびっこ広場に8000円持ってこい。一秒でも遅れると命はない」というような文面だった。道徳の時間に脅迫文である、そしてちびっこ広場に8000円……。やれやれ。

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「学校教育に教師の創意工夫を」と、親も生徒もみんな望んでいるに違いない。まじめに授業をして欲しい。けれども、型通りな出来合いのレッスンだけでは退屈するから、一手間をかけてわくわくして考える実習もして欲しい。こんな要望に応えたのかどうか知らないが、創意工夫を履き違えてはいけない。上記の三つのいただけない「事件」はいずれも義務教育の現場で発生したものである。リベラルなぼくなど大目に見てやりたいとも思うが、題材のセンスが悪すぎる。いずれも一人よがりで空回りしている。

そんなふうにお茶目に遊び心を発揮してふざけたいのなら、義務教育の舞台から去るべきだろう。いや、子どもに向けた教育にあっては、遊びと学びを融合させるのはまずくはないが、ここぞというときにはしっかりと一線を引かねばならない。自由奔放な題材を使って綱渡りさながら大胆に極論するこのぼくでさえ、行政での研修にあたっては一線をわきまえる。愉快でなければならない、しかし度を越してふざけてはならないのである。

「おおばかもん」も「完全犯罪の方法」も「脅迫状」もぼくの私塾の演習ではオーケーである。この類に文句を言う人がぼくの私塾に入塾することはありえない。あからさまな差別用語はどんな世界にあってもご法度だが、度を越した言葉狩りをシニカルに笑いとばすことは私塾では許される。語り手も聞き手も柔軟なのである。校長先生から大目玉を食らった教諭たちは、大いに反省して学校教育に従事し続けるか、あるいは、ぼくのように私塾を立ち上げて「発想の自由」を謳歌すればよろしい。但し、後者に自由はあるが、下手をすると厳重注意で終わらない事態が発生する。すなわち、売れなくなれば食えなくなるのである。

有名人とコマーシャル

あの人たちはテレビコマーシャルで自分が宣伝している商品を、日々の生活の中で実際に使ったり用いたりしているのだろうか。宣伝していながら、宣伝している商品とは別のものを使用しているとしたら、そのつど心理的違和感やちょっとした罪悪感などにさいなまれはしないのだろうか。ぼくなどは、ことばと考えと行為が大きくズレてしまうと、浮遊したような二重人格性を強く己に感じてしまうので、なかなか不一致を受容することはできない。

とは言え、あの人たちの生活は日夜スポンサーによって監視されているわけではない。だから、おそらく当該商品に束縛されることはないだろう。同業他社のコマーシャルに出演しないかぎり、現スポンサーに文句をつけられる筋合いはない。数千万円(場合によっては億以上)もの契約金は、スポンサー商品の日常的使用に対してではなく、あの人たちのスポンサーへの忠誠に対して支払われるのである。「契約期間中は、他社に浮気するような背徳行為はいたしません」という、「制約の誓約」への報酬と言い換えてもいい。

生真面目で几帳面な有名人は、年間数本のコマーシャルに出演しながら、もしかするとすべての商品やサービスを愛好しているかもしれない。公私を問わず、誰に見られようと、まったく後ろめたさもなく正々堂々と正真正銘の消費者として生活していたら、これは大いに褒めてあげてもいいことだろう。

古い話ゆえ叱られることはないから告白するが、ぼくは大手家電メーカーのP社とS社の広報・販売促進を同時に手掛けていた時期がある。どちらかと言えば、P社は他社の仕事をすることに寛容であったが、S社は一業種一社を絶対条件としていた。オフィスで使っていたテレビは両社いずれでもない他社製であったから、テレビのない部屋で打ち合わせをしていた。いつまでも隠し通せないと観念して、徐々にテレビやオフィス家電をおおむねS社製に買い換えた。このように、大変な気遣いをしたのを覚えている。二股には勇気がいるのである。

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FN香は、コマーシャルしているあのヘアカラーを何ヵ月かに一回程度使っているのだろうか。自宅で地毛を自分自身で染めているのだろうか。少なくともコマーシャルの設定はそうなっているようである。「そんなの、行きつけの超高級美容サロンで別ブランドの商品で染めているに決まってる」と誰かが言っていたが、真相はわからない。もしそうならば、その美容院であのヘアカラー商品は話題にならないのだろうか。

UAは自宅でもガスで調理しているのだろうか。まさか自宅がオール電化などということはないのだろう。いやいや、もしオール電化であったとしたら、その一部をわざわざガスへと再リフォームしたとは考えにくい。あの人は役柄上のみガスを使っていて、実際は電気党かもしれないのだ。では、YS百合とK雪はどうだろう。前者のあの人はS社のテレビ映像を楽しみ、P社製では見ないのか。後者のあの人は、その逆なのか(こう書いてから「あっ」と気づいたが、ぼくが直面したジレンマのP社とS社の実名がわかる人にはわかってしまった。書き直すのも面倒なので、このままにしておく。なにしろもう時効だから)。

ぼくはビール党ではない(ビール党のみならず、あまり熱心な左党ではない)。にもかかわらず、あのYE吉のビールの飲みっぷりを見るたびに、特にこの夏のような酷暑の夕方にはグラスに注いで飲んでみようかとそそのかされたものだ。あの人、あのメーカーのあのビールを契約期間中に飲み放題なんだろうなと想像する。だが、K社やA社のビールを飲んでいたらがっかりだろうな。いや、ビール党でない可能性だってある。TM和もハム嫌いでないことを願うが、みんな芸達者な人たちだから、本物のペルソナは素人にはわからない。

消極的な選択

「高度情報化」には少々古めかしい響きを感じるようになったが、相変わらず油断も隙もない現象である。あっという間に話題やニュースを次から次へと急流に乗せて記憶の彼方へと追いやってしまう。もちろん、尖閣諸島問題のようなこじれた事件は日々更新されるので、日中関係という大きな水脈でとらえることはできる。しかし、国内の政治経済的な事柄は、たとえそれがマクロ的な類であっても、喉元過ぎれば何とやらの様相を呈する。

「消極的な選択」が取りざたされてからまだ一ヵ月も経っていない。にもかかわらず、ぼくがその話を持ちかけても周囲の誰も反応しなくなった。いや、反応どころか、すっかり忘れてしまっている。はるか遠い昔の思い出ですらかすかに再生できるというのに、つい先日の一件に対して「そんな話、あったっけ?」という具合なのである。

菅直人が民主党の代表に再選されてから今日で丸三週間が過ぎた。選挙の翌日、一部の新聞が「菅直人再選は消極的な選択」と書き、この論調を真似たのかどうか知らないが、テレビの報道でも同様のコメントが繰り返された。党員もサポーターも、地方議員も国会議員も、菅直人の支持者はみんな「やむなく投票」した、という主張である。これを「小沢一郎に対する積極的な拒否の裏返し」と分析していた紙面もあった。マスコミが事前におこなった世論調査も「菅のほうがまし」という結果だったのか。

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ちょっと待てよ、とぼくは立ち止まる。消極的な選択に何か問題でもあるのだろうか。ぼくたちがやむなく――場合によっては、嫌々――何事かを決めるのは、なにも民主党の代表選に限った話ではない。ぼく自身の過去の投票実態を振り返ってみれば、積極的に選択したケースは圧倒的に少ないことがわかる。選挙を棄権すべきではないと殊勝な心掛けをしているので、選挙当日に投票会場に行くか期日前に投票を済ませる。そして、ほとんどの場合、消去法的に候補者を選んできた。

考えてみれば、そんなものなのである。自分が理想とする候補者がそこらじゅうにいるわけがないのだ。市長選や知事選になれば選択肢も減る。この人でなければいかんと言い得るのは後援団体に属する熱烈なシンパだからであって、無党派であれ特定の党の支持者であれ、平均的な有権者はたいていの場合、消極的な選択をしていると思われる。「五十歩百歩だが、それなら百歩のほうを選んでおくか」という決め方がだいたいの相場なのではないか。仕事上の決断でも、そんな選択が少なくない。

腹が減ったが、時間がない。後先考えずに飛び込んだ店のランチが三種類。解凍系のコロッケ定食に旬外れの煮魚定食、それに昨日も食べた豚の生姜焼き定食。こんなとき、入った手前、Uターンして出るに出れず、不承不承席に着いて「一番悪くなさそうなランチ」を消極的に選択するではないか。実際、そんな店で「ふ~ん」とため息ついて、「コロッケ定食でいいや、、、」と注文している客が案外多いのである。明らかに積極性はない。

それで、何か都合が悪いのだろうか。ぼくたちの日々の意思決定では諸手を上げて賛成という場面のほうがむしろ少ないのだ。とびきりの高望みをしているわけではないのに、やっぱりぼくたちにはそれなりの理想像があるし、あってしかるべきだろう。その理想像にぴったりの人物や食事に頻繁に出合えるものではない。居直るつもりはないが、消極的選択でいいのである。少なくともそれは拒絶ではなく、選択なのだから。 

人の何に賭けるのか

「賭け」と口に出しただけで危うい匂いが漂ってくる。賭け事ということばに爽やかなニュアンスはない。うしろめたく、まっとうではなく、堂々と胸を張りにくい。だから、その方面の愛好家は賭け事などと呼ばずに、「競馬」や「パチンコ」や「麻雀」などと遊戯内容を明かすことによってマイナスイメージをやわらげようとする。

それでも、求人募集に応募した面接で「趣味は競馬です」とか「パチンコファンです」などと情報公開する者はほとんどいないだろう。万が一「趣味は賭け事です」などと舌を滑らせてしまったら、競馬やパチンコ関連業でも不採用になるかもしれない。別の場面、たとえば何らかの決意表明などでも、「ここが勝負どころです」と言うのはいいが、「一か八かの賭けに出ます」は向こう見ずで物騒だ。安心して見ていられない。

ところが、ことばにして「賭け」とは言わずとも、ぼくたちは様々な状況で何がしかの賭けを人に対しておこなっている。面接をして誰を採用するか、その判断は一種の賭けである。応募者も「趣味は賭け事」と言わないし、面接官も「よし、君に賭けた」とは言わない。しかし、一方は会社の未来に賭け、他方は将来の人材に賭けている。

賭博は偶然性の要素を含む勝負事であるが、回数を重ねていくと強者・弱者に色分けされる。人材の成長可能性を読むのを賭け事と同じ扱いするつもりはないが、まったく非なるものとも言い難い。なぜなら、過去の実績と現在の技能や力量を踏まえ、将来性を見極めて採否の決定を下すのは、その人物への賭けにほかならないからだ。賭けは当たるかもしれないし、外れるかもしれない。経験を積んだ人事の眼力が問われるところである。

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だが、学校を出たばかりの若者の成長可能性を見抜くのは容易ではない。履歴書というペーパーに記載された出身大学やその他諸々の経歴・賞罰という「事実」、そして面接と入社試験の成績(あるいは縁故など)が、はたして精度の高い評価を支える証拠になりうるのか。確率論的にはなりうるだろうが、評価はあくまでも個人単位である。ところが、国家公務員住宅の家賃が相場の半額以下という事実が明るみに出た昨年11月、著名人がまさかというコメントをしているのを聞いて呆れてしまった。

元検事の評論家と行政学専門の大学教授は「家賃が高いと優秀な公務員が集まらない」と、ぬけぬけと言ってのけたのだ。彼らが言う「優秀な公務員」とは実績を積んだ社会人ではなく、新卒のことである。つまり、「優秀な公務員になるであろう新卒を集めるためには、世間の家賃相場の半分以下で住宅を用意せねばならない」と言っているのである。

優遇を期待して公務員になる人間と、そんなことなど当てにもせずに公務員を志望する人間がいるだろう。前者が優秀で後者がさほどでもないなどという推論は当然成り立たない。二十二、三才の時点で公務員マンションに格安で住もうとする連中を、優秀な公務員候補と格付けしてしまう愚かしさをわらうべし。現状の優秀性のみを見て成長可能性に目配りなどまったくしていない。まるでデータ重視の本命主義だ。安い家賃や住宅手当に期待などせぬ活きのいいダークホースに賭けてみる勇気はないのか。

過剰なる礼讃

さして強い関心もなく、また親しんでもいない事柄だからといって、頭ごなしに否定するほど料簡は狭くないつもりだ。だいいちそんなことをしていたら、きわめて小さな世界でごくわずかな関心事をこね回して生きていくことになってしまう。そんな生き方は本望ではないから、異種共存をぼくは大いに歓迎する。そして、多様性に寛容であるからこそ、自分の存在も関心事も、ひいては意見も主張も世間に晒すことができると考えている。

「ブログを時々読ませてもらっています。ツイッターのほうはやらないのですか?」と聞かれたこと数回。「ツイッターには関心ないのですか?」とも言われた。ツイッターに関しては本も読み、年初に塾生のTさんのオフィスに行って詳しく教わり、その後に食事をしながらIT系のコミュニケーションメディアについても意見を交わした。「ツイッター、いいのではないか」と思ったし、そして今も、「ツイッター、はまっている人がいてもいいのではないか」と考えはほとんど変わっていない。ただ、ぼくはツイッターに手を染めてはいない。どうでもいいなどとは思っていないが、ツイッターをしていない。する予定もないし、しそうな予感も起こらない。

物分かりのいい傍観者のつもりなのに、ツイッターをしていないだけでツイッター否定論者のように扱われるのは心外である。ぼくは自動車を所有せずゴルフもしないが、自動車とゴルフの否定論者ではない。車についてゴルフについて熱弁する知人の話に「静かに、かつ爽やかに」耳を傾ける度量はある。関心もなく親しくもない人間と話をするし食事もする。ごくふつうにだ。しかし、恋い焦がれることはない。強く求めもしないし強く排除もしない。いや、それどころか、存在をちゃんと認めている。共存するのにたいせつなのは、情熱ではなく寛容だと思うのである。

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IT関連の知り合いから定期的にメルマガが配信されてくる。一人はかつて親しかったが、ここ数年会っていない。もう一人は一、二度会った程度で、「名刺交換した方に送らせてもらっている」という動機からの配信だ。前者がツイッター礼讃者であり、後者がipad礼讃者である。後者のメルマガはほとんど見ないが、前者には時々目を通す。彼は「ツイッターがすごいのは、世界中の人と出会うきっかけを提供していることだ」と主張する。さらに、「もっとすごいことは、繋がりを維持し続けることができることにある」と強調する。まことに申し訳ないが、本人が「すごい」と力を込めて形容するほど、ぼくにはすごさが伝わってこない。

世界の人々との繋がりを特徴としたのはツイッターが最初ではない。かつては飛行機がそうだったし、電話・テレックスがそうだった。旅をして現地の人々と交流するのも繋がりだろう。実は、繋がりはずいぶん使い古されたことばなのである。しかし、よく喧伝されるわりには、世界の人々は現実的には繋がってなどいない。ツイッターによって具体的にどう繋がっているのか、そして、繋がりとはいったいどういうことなのかが実感としてわからない。彼の言い分はぼくには仮想にしか見えないのである。

最後に「特に書く内容を熟慮もせず、時間的コストもかけず、多くの人と繋がりを維持することができる」と締めくくっている。彼は真性のツイッター礼讃者のようだ。熟慮もせずに書くメッセージをやりとりして、いったいどの程度に世界の人々は繋がることができるのか。ツイッター上だけでなく、安直なつぶやきで日々繋がろうとしている人たちはいくらでもいる。そして彼らは対人関係上もネット上もただつぶやくのみ。その場かぎりの、思いつきのつぶやきごときで世界の人々が繋がるなどということはにわかに信じがたい。

手紙を否定しないように、ぼくはツイッターも否定しない。しかし、構造のうわべだけを過度に礼讃するツイッター信奉者に首を傾げている。

トップの思い上がり

『「笑い」と「お笑い」』について昨日書いた直後に、八年前のある一件を思い出した。そのことについてノートに書いていたのも記憶にあり、探してみたら見つかった。上方漫才奨励賞を受賞した漫才兄弟「中川家」が、吉本興業の意向で賞を辞退した話である。当時の新聞記事を要約すると、おおよそ次のような内容になる。

ラジオ大阪と関西テレビ放送が主催した「第37回上方漫才大賞」は、年間を通じて活躍した関西の漫才師に贈られる賞。大賞は松竹芸能の「ますだおかだ」、奨励賞が中川家に内定していたが、吉本興業の意向で中川家が受賞を辞退した。中川家は前年暮れの「M-1グランプリ2001」の優勝者である。同大会は吉本興業が主導。M-1チャンピオンが別の漫才大賞で奨励賞というのはM-1の結果を否定することになるから、中川家の了解を得て辞退させた。

今さらながら呆れるが、よくもこんなことがまかり通ったものである。当時の吉本興業の常務で、その後も報道番組などでコメンテーターを務めたりもしていたK氏の談話はこうだ。

「思い上がりと思われるかもしれないが、うちが主導した賞の優勝者が二番目なのは納得できない」。

本人が明言した通り、思い上がりもはなはだしいコメントであり対応でもあった。なにしろ上方漫才大賞37年の歴史で辞退という異例は初めてのことだったのである。

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お笑い業界に笑って済ませる度量がなく、こんな幼稚で見苦しい対抗策がありうるのかと苦々しく思ったものである。今後一切、吉本の漫才に腹を抱えて笑うことはないだろうとも思った。業界トップにあって名の知れた役員が「納得できない」と吐き捨てたのだ。彼が仕掛けてきたお笑いに何度か笑った己の愚を大いに戒めた次第である。この一件には、お笑いに素直に笑えない事情が潜んでいる。

他の業界やスポーツやコンテストにこんなことがありえるだろうか。五輪を制したアサファ・パウエルが別の大会でタイソン・ゲイに敗北して、銀メダルを返上するようなものである。陸上100メートルは自力勝負で、漫才コンテストには他者評価が入るという違いはあるものの、漫才の1位・2位の決め方はそれ以外にありようがないから、これを実力と見定めるしかない。そして、実力というものは、レースやコンテストごとに変わるのが常で、したがって順位に変動があってしかるべきなのだ。

ダービーの勝ち馬は、そのままスライドして菊花賞でも1着でなければならないのか。菊花賞が2着ならダービーの威厳が崩れるとでも言うのか。M-1チャンピオンが上方漫才大賞の2位であることを容赦できぬという理由で賞を返上? このような態度をぴったり表現することばが「傲慢」だ。何よりもひどいのは、吉本主導というのは自前の大会ではないか、その「身内1位」がそれ以上に公共色の強い大会で2位になって何の不思議があると言うのだ。学級委員長が生徒会長でなければいかんという屁理屈に近い。この一件は漫才の話などではなく、「傲慢罪」と呼ぶにふさわしい茶番であった。

「笑い」と「お笑い」

今さら「笑い」と「お笑い」の違いを確認するまでもないだろうが、念のために手元の広辞苑を参照してみた。【笑い】の筆頭定義には「わらうこと。えみ」とある。この程度の字句説明でやむなしか。とってつけた定義が必要ないほどの基本中の基本語だ。では、「お笑い」はどうか。こちらは三番目の定義として扱われ、「(「お―」の形で)笑うべきこと」と書かれている。「お笑いを一席」と「とんだお笑いさ」の二つの例が挙がっている。

「お」一つが付くだけでだいぶ意味が変化している。少くとも「とんだお笑いさ」には、愉快ゆえに笑っているような風情はなく、己に対してはあざけり、他者に対してはさげすむニュアンスが込められている。もう一つの、「お笑いを一席」のほうは芸人を窺わせる。そこで、【お笑い】という見出し語があるのかと思って見れば、ちゃんとあった。「客を笑わせることを目的とした芸。特に落語」と説明され、「お笑いタレント」という用法が出ている。

「笑い」は行為そのものであり、他方、「お笑い」は一つの業界を示している。箸がこけて笑い、子どものしぐさに微笑むように、ぼくたちはおもしろい落語や漫才に興じて笑う。しかし、お笑い業界自体に笑いが付随している保証はない。「お笑い」にはおもしろくない落語や漫才や一人芸も含まれ、見たり興じたりしても、実際に笑えるとはかぎらないのだ。むしろ、興ざめしたり、あまりのひどさに腹立たしさを感じてしまうことすらある。「お笑い」はア・プリオリな笑いとは無関係で、演じる前から先天的・生得的な笑いがそこに内蔵されてなどいない。

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知人と話していて、テレビでのお笑いの露出度がめっきり減退したという点で意見が一致した。正確に言うと、生き残ったお笑い芸人たちは今もテレビに出ている。しかし、業界での出発点となった「本業」を誰一人として演じてはいない。彼らは、ここ数年、たとえ23分程度のごく短い持ち時間であっても、本業で露出する機会を与えられてきた。お笑いブームだったこともあるだろう。だが、彼らが実績を築いた頃の漫才・コント・ピン芸を再見しようと思えば、DVDを買うか、寄席か劇場に行くか、あるいは「営業」と呼ばれる、たとえばショッピングモールでのイベントなどで出くわすしかない。

かつて大賞を受賞した一握りの成功者さえ本業を披露する機会に恵まれない。もう本業はどっちでもいいのだろうか。一つの登竜門をクリアしたら、あとは芸人として食えるのなら何をしていてもいいのだろうか。要するに、金になるのなら、別にやりたくなくても、バラエティタレントや身体を張った体験型芸人としてテレビに残って露出していれば満足なのだろうか。仮にそうであるなら、好きでもないことをやっている彼らがおもしろくも何ともなくなったことに十分納得がいく。

彼らの中のさらに一握りはテレビ的に大成功者となり、立身出世時に披露した芸域とはまったく別のアイデンティティへと変身している。流暢な喋りに芸の名残りはあるが、いつ誰と共演していてもワンパターンで、猛暑的なマンネリズムにはうんざりする。名の売れた大御所たちは、芸人による芸人のための番組を仕切っており、もはやかつての「お笑い芸人」としての技を磨きなどしていない。業界人に慕われ敬われてブランドで食っている。

最近、ぼくはバラエティやお笑い番組からすっかり遠ざかっているが、たまたま見ることがあってもめったに笑えるような芸に出くわさない。すべらない話に拍手喝采されていながら、本業ですべっている芸人をどう見ればいいのか。いや、何もぼくが代理で悩んでやることはない。おもしろくないものはおもしろくないのである。芸を磨かなくなったお笑いタレントから商品価値は消え失せるのみ。日々のぼくの周辺に起こる笑いは、質量ともにテレビの中の笑いを圧倒している。素人の笑いのセンスを侮るなかれ。

根拠のない言い分

もうすっかり耳に馴染んでいるにもかかわらず、聞くたびに少し苛立ち、いや、こんなことに苛立っていてはばかばかしいと思い直して、鼻で笑っておく。そんなふうにあしらいながら、ここで取り上げるのも妙な話だが、身につまされる向きがなきにしもあらずだ。誰かが言いっ放しで理由を添えてくれないとき、ぼくは以上のような心理になっている。

テレビ番組中のコマーシャルで「4,950円とたいへんお買い得!」と言っている。別のテレビショッピングでは「今ならとってもお求めやすい2,980円!」という言い方をしている。買い得とは「買って得をすること」と広辞苑にあるが、こんなアホらしい定義は役に立たない。買い得品とはお値打ち品だから、「出費に対して得られる品質や便益が大きい」ということだ。求めやすいは、ちょっとひねって「財布や家計の負担にならない」としておこう。

言い分はよくわかる。「この良質の商品は別の場所や時期ではこの値段では買えませんよ、しかもお手軽で、わざわざ別口予算を立てなくてもいいのですよ」――こんなふうにコマーシャルの中のナレーションは語りかけているのである。しかし、彼らは「なぜそう言えるのか」については言及しない。黙して語らない。

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商店街の店先で八百屋や魚屋が枯れた太い声で「らっしゃい! 安いよ安いよ、買わなきゃ損だよ!」と叫ぶのはいい。「この大根は今日は一本百五十円だよ。ふだんより五十円安く、しかも○○産で、他の品種よりも辛味と甘味のバランスが絶妙ですよ、奥さん」などと店先で口上張っていたら、話途中で買い物客が店の前を通り過ぎてしまう。彼らに説明はいらない。長年店を構えて商売していること自体が信頼すべき根拠なのである。

テレビでは、初耳の会社の商品を見も知りもしないタレントかナレーターかが喋っている。です・ます調になっているだけで、実は「お買い得だよ、安いよ!」と叫んでいるにすぎない。お買い得かどうかは、自社従来品(または他社製品)の価格と比べなければ判別できない。さもなければ、単なる独断メッセージだ。証拠も含めた根拠も示さずに、お買い得と主張するのはあつかましい。なかには「これ一つでレモン10個分!」と証拠らしきものが示されるが、一日にレモン10個も食べる必要などないから説得力がない。

売り手側に一言文句をつけてきたが、彼らが無根拠セールスで済ましているのは、消費者がそれを容認しているからである。価格という数字につきまとう理性と不可思議を一緒にしてしまっているのだ。数字は科学でもあり魔術でもありうる。お買い得と繰り返されれば、たしかにそうだろうという信念が強まる。根拠を求める賢い消費者なら、「焼肉食べ放題! 今なら1,980円」に流されない。質のこと、自分の食欲・健康のことを少考すればいいのだ。

賢い消費者について考えるとき、テレビショッピングの「今ならもう一本」に急かされて高枝バサミを買った高齢者を思い出す。その爺さんの家の庭は小さく、枝が高い位置にある木は一本もなかったのである。「これ一台で辞書数十冊分」に促されて買いはしたが、そのままになっている電子辞書が机の引き出しに入っていないだろうか。

便利が奪ってしまうもの

便利と不便について考える機会が増えてきた。このブログでも十数回は取り上げたように思う。ぼくの基調となる考えは、意識的に「インコンビニエンス(不便)を生きる」ということに尽きる。便利によって得たものと失ったものの収支は便利の恩恵を受けている――少なくともそう錯覚している――あいだはわからない。結果がすぐに見えればぼくたちも少々の修正を加えるが、便利の副作用はすぐには現れない。気づいた頃には手遅れということが大いにありうる。

便利のお陰で身につく能力と、不便ながらもどうにかこうにか身につける能力には甘辛あまからの度合にだいぶ違いがある。便利はおおむね「らく」と「スピード」を目指す。「イライラしないで気持よく」と言い換えてもいい。しかし、こう言った瞬間すでに破綻を来たしている。便利な自動車は便利な高速道路で渋滞してイライラと不快を招く。その結果、ドライバーたちは大いに不便を感じたりしている。ならば、始めから不便を生きれはいいではないか。

昨夜のらりくらりと本を読みながら、時折りなまくらにテレビの『エチカの鏡』を覗いていた。例のマイケル・サンデル教授のハーバード大学での講義「ジャスティス」の場面を写していた。その後は大学生のディベートに取り組む模様であった。これもちらほらと見る程度。この種の番組はぼくのテーマへの追い風になるはずなのだが、あまり手離しで喜べない。カリスマ講義もディベート技術も本来とてもきついことを題材にしているにもかかわらず、学び手のノリがコンビニ感覚で軽々しい印象を受けることがある。

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サンデル教授の投げ掛ける問いはこうだ。「暴走列車を運転するあなた。このまま進めば5人を轢き殺してしまう。だが、列車を右に逸らせば、そこにいる作業員一人は犠牲になるが5人は助かる。あなたならどうするか?」  この質問に答えはない。要するに、自ら考えることに意義がある。結論を下してその論拠を説明するトレーニングなのだ。「解答は必ずしも存在しない」のはもはや明白だから、特別に目新しい話ではない。

一部の学生の解答が紹介されたが、他にどんなものがあったのか興味津々である。便利生活で飼い慣らされたという点では日米ともに大学生に大差はないように思える。この程度の質問のある講義を絶賛するようでは、わが国の教育のありようを嘆くしかない。ぼくの私塾ですらハーバード大学よりも難しくて答えのない設問を用意している。ちなみに、暴走列車を運転するぼくは余計なことをせずに真っ直ぐに進む。線路上の5人のうちわずか一人でも暴走列車の轟音に気づくほうに期待する。

今朝の朝刊で新刊予告の広告。『デジタル教育は日本を滅ぼす』(田原総一朗)には、「便利なことが人間を豊かにすることではない」とある。その横の広告は『頭脳の散歩 デジタル教科書はいらない』(なんと田中眞紀子と外山滋比古の共著)。ぼくがこの二冊を買い求めることはないだろうが、デジタル化と便利(あるいは促成)が教育のキーワードであるのは間違いない。便利が奪ったものは何なのか? ことばの力と考える力である。この意味で、答えの定まらない問題を解くのもディベートもデジタル教育よりはすぐれた処方箋と言えるだろう。しかし、肝心要は日々の生活場面だ。不便に戻って、段取りと機転の工夫をする習慣形成こそがはじめにありきなのである。

理念不履行の人々

何らかの理念を標榜するかぎり、その理念で謳っている目的なり善行なり約束なりを日々実践することが期待される。たとえば、「顧客に最高のおもてなしを」と記述された理念は目的であり善行であり、そして約束であるだろう。目的を遂げること、善行をおこなうこと、ひいては公言した理念の約束を守ることのすべてを平気で怠るのなら、そもそも理念など標榜することはない。理念と現実は完全一致することは稀だが、少なくとも現実がたゆまなく理念に近づくよう仕向けなければ、理念の意義はない。

プラトンのイデア論はさておき、ひとまず強調しておきたいのは、ぼくたちが理想世界と現実世界の両方を同時に生きているという点である。もし理想世界を描かないのなら、現実世界のありようを定めるすべはない。理想と現実の間に横たわる隔たりはつねに現実側から埋めるべく対処せねばならないのである。さもなくば、理想の高みを諦めてかぎりなく現実に落とすしかない。それは理屈抜きに現実を生きることを意味する。

死刑廃止を理念とする論者は、わが国にあっては死刑制度の維持という現実に対峙する。死刑廃止が自身の揺るぎない人生哲学なら、制度廃止への努力を不断に続けなければならない。したがって、ふつうに考えれば、その論者が現実に死刑執行を命じる立場にある法務大臣の任に就くべきではないということになる。しかし、変な喩えだが、ダイエットを理想としながら食を貪ってしまう現実があるように、あるいは、一流のプロフェッショナルを理想としながら一・五流のプロフェッショナルとして当面の仕事をこなさねばならないように、死刑廃止論者にもかかわらず死刑執行の命を下さねばならない現実は当然ありうる。しかも、死刑制度を維持する国家の法務大臣という現実の中にあってさえ、執行命令を下すべき「理想」を回避して、見送るという「現実」を選択したお歴歴も大勢いたことは事実である。

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中村元の『東洋のこころ』に次の一節がある(括弧内および下線はぼくの補足)。

かれら(アーリヤ人)は民族的自覚が弱かった。今日に至っても宗教が中心になるので、ヒンドゥー教徒であるとか、イスラーム教徒であるとか、宗教的自覚に基づいて行動します。(……) これに対して日本人は宗教意識が弱くて、むしろ人間的結合、組織というものを重んじます。この違いは、遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼることができます。

少々強引だが、宗教的自覚ないし宗教意識を「理念」に置き換えてみたらどうだろう。新年に寺に参り、神社の夏祭りに興じ、友人の結婚に際して教会で賛美歌を歌う。合格祈願の鉢巻をして祈り、神棚に手を合わせる。無神論者が御守を携え縁起をかつぐ。必要に応じて都合よく神や祈りを使い分けるご都合主義は、国家や経営の理念を掲げながらも現実の人間関係や組織の状況を優先するのに酷似している。皮肉まじりで嘆いているのではない、理念通り哲学通りにまったくぶれないで現実を生きることには覚悟がいると言いたいのである。

かつて「日本人には原理原則がない」と『タテ社会の人間関係』で主張した中根千枝が、世界の人々に大いなる誤解を与えたと一部の識者に批判を浴びたのを思い出す。この四十年余り、とりわけ昨今の政治的リーダーシップや企業倫理を見るにつけ、原理原則の不在に反論する気は起こらない。まったくその通りなのである。タテマエでは理念を崇高な善として祭り上げながら、ついつい現実に流されて都合よく理念を棚上げにする風潮は廃れていない。いや、中村元によれば、「遠く民族の原始宗教の時代までさかのぼる」のだから、もはやDNAレベルと言うほかない。

理念不履行の人々が最大派閥を形成するこの社会。時には理念に反する現実にやむなく迎合せねばならないという都合――よく言えば、柔軟性――は、ぼくたちの行動や約束ぶりに内蔵されている。理念は形式であって、現実が内容なのである。理念と現実を天秤にかけること自体がもはや理念主義ではないのだが、その天秤はいつも現実のほうが重くなるようにしつらえられているようだ。理念不履行の人々を糾弾する気はないが、切羽詰まった挙句に理念を軽く扱うのなら、最初から現実主義で生きればいいのである。この国の風土で形成される理念はきわめてもろい。「できもしない、やる気もないことをつべこべ言う前に、さっさと仕事をしろ!」と乱暴にぶち上げた昔気質のオヤジの一理は渋くて強い。