無力を微力に

パリ――。またもや残忍な同時多発テロがこの街と市民を襲った。ネット時代が事件を忘却させるスピードを加速させていることを憂い、1021日に本ブログにそのことを次のように書いた。「今年1月のシャルド・エブリ襲撃テロ事件などは喉元過ぎれば熱さ忘れるの典型になっている。あの事件の生々しさは、当事者以外のどれほどの人の記憶に残っているのか」襲撃事件からわずか10ヵ月、そこから遠からぬ場所で惨事が起こった。

シャルド・エブリの一件はぼくの周辺でもマスコミでもさほど話題に上らず、遠い過去の事件になりかけていた。ぼくにはずっと重くのしかかっていた。四年前に事件現場近くのアパートに十日余り滞在していた経緯もあり、写真アルバムの思い出以上に強く刻印されていた。人にはそれぞれの価値観があり、それが考え方や記憶の想起の仕組みを司っている。だから、思い出さないからといって咎めることはできない。しかし、あの一件は、悲喜こもごもの小事に触れたついでに思い出すべき同時代体験であったはずだ。

一文を書いてから、2001911日のアメリカの同時多発テロにまつわる当時の新聞の切り抜きを拾い読みしていた。その中に、ミスタービーン役の英国の著名なコメディアン、ローワン・アトキンソンがタイムズ紙に投稿した記事があった。英国政府が準備している反テロ法案の中に宗教的憎しみを煽るのを禁じる内容があることに懸念を示した上で、彼はおおむね次のような意見を述べた。

「宗教者をパロディにするのが私の大事な仕事だ……宗教も含めて笑いの対象にならないものなどない……(諷刺の)良し悪しは、法ではなく、観客や聴衆の判断に任せるべきである……」。

笑いも皮肉も、そしてことばも危険要因を孕んでいることは承知している。しかし、テロという危機に対抗する術は諷刺や言論しかない。特に弱者にとっては。


仕事に自分の無力を感じることがある。無力感のうちに「どうにもならない」という絶望と「もしかしてどうにかなるかもしれない」という希望が混在する。とは言え、所詮、自分と仕事の話である。大した問題ではない。絶望的だと思っても、いくばくかの希望で救われている。無力ながらも仕事の傍にいるのは恵まれている証である。だが、蛮行が繰り返されるパルミラ遺跡の報道に接するたび、仕事に対する無力感などとは次元の違う悲愴と絶望に苛まれる。そこに自分はいない。何もすることができない。考えることはできても指先一つ動かすことすらできない。こういう暴挙には正義による根こそぎ征伐以外に方法がないのではないかと、つい愚案に傾く。遺跡と命、どちらが尊いかなどという議論は無意味である。尊さの尺度は絶対だ。そこに比較級や最上級による一番、二番などという格付けは生れない。

サンマルタン運河近く

パリ――。四年前の11月、ぼくはそこにいた。取るに足りないトラブルやハプニングに何度か遭遇したが、日々平穏無事に街歩きを満喫していた。今回の一連の事件現場から一筋、二筋西の通りはよく歩いた。追悼のために市民が集まっているレピュブリック広場には何度も足を運んだ。秋深まったサンマルタン運河沿いの散策はのどかなひとときだった。

その安らぎと対照的な惨劇にことばを失う。相変わらず一部の人類は平和や幸福よりも破滅を好む。独りで悶々とすれば集団心理に溺れて洗脳される。我にこだわって偏見を正当化し、目の前の怒りに発作的に反応してしまう。我と我の衝突を回避する知恵は、世界という舞台で実践する前に、日々の生活の中で身に付けておかなければならないのだろう。

一個の人間は無力である。遺跡が破壊され罪なき人々が無作為にテロの標的になり被害に遭っても、悲劇の傍観者以上にはなれない自分はただ佇むばかり。事件の後に祈りを捧げる。事件が二度と起きないことを願う。シャルド・エブリの時もそうした。祈り願う以外にいったい何ができるのか。自分と事件を厳しく一対一で対峙させても心の平安はやって来ない。勇気も湧かない。いや、むしろ一人であるからこそ祈り願うしかないのだろう。

では、ぼくは何ができるのか。ぼくには、今こうしているように、書くことしかできない。深慮遠謀せずに書く。ぼくごときが書く文章を読んでくれるのは一握りの人たちある。しかし、この際、少数であるか大勢であるかは問うべきではない。誰かに自分の考え――主として理不尽な狂乱行為に対する批判――を伝えることが、弱者を自覚する人間が無力に独りで闘わない方法なのである。「なんだ、ただの机上の評論ではないか」というそしりを恐れない。誰に何と言われようと、黙って祈るだけのもどかしさと決別して、書くことによって自分と社会との関わりを無力から微力に変えたいと思う。

ぼかし言葉よりも議論の心得

「ぼかし言葉は現代の若者に特徴的ではなく、昔から日本人は婉曲表現をよく使ったものだ」云々。この主張を聞いて、すんでのところで相槌を打つところだった。他人の話は聞き流してはいけない。疲れているときは特に要注意だ。ぼかし言葉と婉曲表現に重なりはある。クッション効果が生まれるという点では近い。しかし、両者の機能は根本が違う。

ぼかしことば

ぼかし言葉は無意味な補助機能にすぎない。「ぼく的にはノーって感じなんだけど、イエスでもいいみたいな……」という言い回しはことばも意味もぼやけている。ノーかイエスか、結局どっちなのかよくわからない。これに対して、遠回しな表現に置き換えるのが婉曲である。相手をおもんぱかって、タブーに触らぬよう、不快にさせぬよう、露骨にならぬよう言い換える。婉曲的に言っても相手に意味が伝わる。「お手洗い」と言えば便所のこと、「逝去」と言えば死んだということだ。ストレートに使うと耳障りかもしれないと案じて、棘のない別の表現で代用する。表現にぼかしは入っていない。

「わたし(ぼく)的には~」「~みたいな」「~という感じ」などが当世のぼかし言葉の代表格と言われる。ものをずばり言わないクッション機能を特徴としている。婉曲話法と違って、「~」に入れるべきことばは通常会話で用いることばと同じ。断定、明言、極論を避ける心理が働いているだけで、言い換えの工夫は凝らされない。ふつうに喋って何の問題もないところなのに、なぜ敢えて意味不明瞭にしてしまうのか。なぜ意思疎通コミュニケーションのほうにではなく、意思不通ディスコミュニケーションのほうに傾くのか。理由はいたって単純だ。波風の立たぬ浅瀬の水遊びのような会話でその場を済まそうとするからである。


とりとめのない会話ならいざ知らず、テーマのある対話では当然議論が生まれる。議論は場の空気を緊張させる。これを嫌がれば、上っ面だけの潤滑油でやりとりを和らげるしかない。こうして、ぼかし言葉が無意識のうちに使われる。会うのが一度きりの相手に対しては強気にホンネを吐くくせに、明日、明後日、その先何度も会う相手とのぎすぎすした関係は避けたい。双方がそう思えば、対話をしても「危険区域」に足を踏み入れない。バーチャルなお友達関係で良しとすれば、批判めいた言は首をすくめたままだ。議論はそんなに関係を危うくするものか。いや、真の信頼関係があれば議論で後味が悪くなるはずがない。

対話の際に意見を述べる。意見とは主張だ。加減したりトーンダウンしたりぼかしたりする主張などというものはない。主張とはある意味で「強弁」なのである。必然、相手の言い分を検証して批判する場面も出てくる。だが、対話は交渉ではない。交渉は合意を目指す。その過程で決裂もありうる。交渉の常として勝ち負けはつきまとう。だから、負ければ口惜しくもなる。翻って、対話は合意を目指すものではない。「意見が一致した」というのは議論の結果にすぎない。では、ぼくたちが対話で重視すべきは何か。双方が持論とする意見を相互に検証することだ。対話とは――そして、それに伴う議論とは――「異種意見間検証」にほかならない。

自論と相容れない意見には問いを立てる。納得できる点と疑問点のどちらも洗い出す。自分の検証フィルターを通り抜けてくる主張ならひとまず受容する。相手も同様のプロセスを踏む。こうして彼我の主張を天秤にかけ、相手が自分よりも先を読み、広く深く考えていると判断すれば素直に認めればいい。お互いがこのことをわきまえるべきである。だから、議論の前提には共通ルールが必要になる。チェスや将棋と同じだ。第三者なる審判がそこにいなくても、議論してみれば勝ち負けは自明になるものだ。負けているくせに相手を認められないのは我見が強いからである。我見は思考強化も人としての成長も阻む。

さて、ぼかし言葉でお茶を濁すような、名ばかりのコミュニケーションで日々を過ごすか、それとも直截的かつ明快な表現で議論できる関係を築くか……前者は無難だが、スリルとサスペンスを求める向きには後者のほうが圧倒的に愉快なはずである。

コモンセンスを欠く女

「あの非常識な女が……」などと口走ったことはある。だが、「女」という字を「おんな」と読ませて文を書くのはたぶん今回が初めてだ。あくまでもぼくの先入観だが、「おんな」という音は女性から品性を引き剥がしてしまいそうだし、また、「おんな」が頻出する文章は書き手の品格をおとしめかねない。青年期に読んだ有島武郎の『或る女』という響きにも落ち着かなかった。魔性の女、ブスな女、恥知らずな女などと言うのはもちろんのこと、好ましい修飾語を付けて、たとえば「美しい女」や「才覚のある女」としても、下劣なニュアンスは否めない。しかし、今日は特別。コモンセンスを欠く或る女について書く。

或る女

一昨日の夕刻7時半頃鹿児島発の新幹線特急さくらに新山口駅で乗車した。見渡せばほぼ満席である。チケットに記載された4号車5A席(窓側)を確認してその席へ向かった。先客がいた。歳の頃四十半ばの、いかにも仕事ができるわよと顔面と態度が主張する女であった。女はぼくが座るはずの席に陣取り、手前に倒した背面テーブルの上にはパソコン、隣のB席にはビジネスバッグと書類、そのB席のテーブルも倒されてその上にはパック入りの焼き鳥と缶ビールが置かれていた。所狭しというほどのカオス状態である。女はスマホで声のボリュームも落とさずに話していた。

ぼくは通路に立って唖然としている。女はぼくに気づき、それでも電話を切るわけでもなく、小首を傾げた。小首を傾げたいのはこっちのほうだ。無言で女の席に人差し指を向けた。「そこはぼくの席だ」というサインである。女はスマホを手放さずに話しながら、隣のB席のバッグと書類を取り上げて膝に乗せ、「どうぞ」という目くばせをした。向けている人差し指をさらに女に近づけて「B席じゃない、A席だ!」とジェスチャーした。女は電話を切った。正しく言えば、途中で切ったのではなく、話が終わったから切ったのである。


「そこはぼくの席です」と声に出して言った。女は「まさか!?」というような表情でバッグの中からチケットを取り出して確認した。「あ、ごめんなさい」と言うが、席を空けようとする俊敏な動作が伴わない。仕事場兼宴会場と化した二つの席が元通りの秩序を取り戻すまで通路で待つ気はない。「あなたの席はどこ?」と聞けば、ぼくの立つ後ろの同じ5番の窓側D席だった。「じゃあ、そっちに座ります」と言い、振り向いてキャリーバッグを荷棚に乗せた。席を間違え、おまけに隣りの席まで散らかし放題のうえ車内で電話をしていれば、一喝してやるに値する。

語気を強めてコモンセンスを欠く女をいさめれば、こちらの良識と品格を疑われるだろう。よくあるではないか、優先座席の前に老人が立ち、見て見ぬ振りをする高校生らしき青年に「おい、席を譲ってやれ!」と怒鳴る光景。怒鳴る男の正論は怒号でかすみ、周囲の乗客の視線は冷ややかに男に注がれる。出張帰りの疲れに自ら棘を刺すこともなければ、大人げないと思われるのもバカらしいから丸く収まってやったのである。

上着を脱ぎ、背面テーブルを手前に倒して文庫本と手帳を置いた。ちょうどその時、女は遅まきながら「どうもすみませんでした」と言った。申し訳なさそうではないから、よほど一言吐いてやろうかと思ったが、気持ちをしずめ神経をなだめて、「いえいえ」と応答しておいた。その後も女は二回電話をしている。電話の後に焼き鳥をつまみ缶ビールを口に運ぶ。同時にスマホをいじる。キャリアウーマンを気取っているが、ぼくの経験上この手に仕事のできるのがいたためしがない。車内で化粧をするほうがよほどましだと思ったくらいだから、このカオスの場で平然としている女がどれほど常識を逸していたか想像がつくだろう。心の内でこの女に垂れた教えは「コモンセンスから出直せ!」であった。新大阪で下車する際に一瞥したら女がニワトリに見えた。ニワトリに悪いと思い、「このヤキトリ女が!」とすぐに訂正した。

ネット時代のレファレンス感覚

喉元過ぎれば熱さを忘れる。喉元を過ぎるのは苦しみだけではない。歓び、感謝、恩義も過ぎていく。喉元とは体験のその瞬間の比喩である。熱さとはその瞬間の印象であり感覚である。喉元通過中は熱さをしっかりと感じるが、時間が経つと生々しい体験は思い出と化し、時には風化してしまう。それでも、自らの生に強く刻印されるような体験なら、思い出の中でも臨場感を伴ってよみがえる。つまり、時間の遠近を超越して言及できたり想起できたりする。体内時計に倣って、これを人それぞれの〈脳内レファレンス感覚〉と名付けたい。レファレンスとはものを考える際に知識を参照・照合することである。

関係のネットワーク

体内のレファレンス感覚がぶれなければ、ぼくたちは個性的な知のネットワークを構成できる。はるか昔に喉元を過ぎた情報であっても余熱を感知できる。その一方で、喉元通過中で世間が熱い熱いと叫んでいても、まったく自分にとってホットでない情報なら捨ててしまえばよい。プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言った。ここで言う人間は人間一般ではなく、個人である。ある事件が、他人の尺度ではもはや冷めてしまっていても、自分の尺度では熱い状態のままであっても何ら不思議ではない。

他人が人間ならまだいい。しかし、現在では他人の役割をネットが担い、あたかも社会の標準尺度のように威張り顔をする。ネット上で日々発信される膨大な情報は、古きを捨てて新しきを拾うというスピーディーな更新が特徴だ。当然ながら、早々に水に流してはならないものが流される。蔵入りさせてはならないものが開かずの記憶庫に格納される。レファレンス感覚がネットに支配されてしまったらどうなるか。外界からの新陳代謝激しい情報に晒され続けて、知のネットワークの基本構成が揺らいでしまうのである。


ネットを情報源の中心に据えてしまうと、次から次へと押し寄せてくる目先の情報に軸足が移ってしまう。目先の情報には、本来公共社会的に共有する意味もさほどなく、また長きにわたって考察するに値しない「揮発性の情報」が多く含まれる。否応なしに衝動受信してしまうゴシップや事件の大半は、冷静に考えれば、取るに足らないものばかりだ。こういう類いの話題が高頻度レファレンスの中心になりかねない。重要だが遠い過去の出来事は薄くなり、記憶から消えていく。時間系列に忠実なネットに誘導されるレファレンス感覚は、お仕着せの関心事にしか興味を示さない思考パターンを招く。

直近情報ばかりが優先される借り物のデータベースとの付き合いをほどほどにして、自らの脳内に体験的な知のネットワークを築かねばならない。時間の遠近ではなく、記憶の濃淡をつけて重要な出来事をいつでも想起できるように配置しておくのである。あたかも昨日起こったかのように、いや、今もなお進行しているかのように、優先順位をつけるべき事象があるのだ。オウム事件、同時多発テロ、二度の大震災、数々の偽装事件……。今年1月のシャルド・エブリ襲撃テロ事件などは喉元過ぎれば熱さ忘れるの典型になっている。あの事件の生々しさは、当事者以外のどれほどの人の記憶に残っているのか。

急上昇ニュースばかり追いかけてはいけないのだろう。時事について数行で片付けるツイッターだけではいけないのだろう。将来展望もない今だけのコメントをシェアして左から右へ流すだけではいけないのだろう。誰もが同じレファレンス感覚に染まるのはおぞましい現象である。第一、十人一色ではつまらないではないか。シンクロしなければならない情報とそうでない情報を自分の尺度で精査したい。そして、「現在」のみならず、「現代」の生き証人として体験的に温故知新を心掛けるべきだろう。それが情報化社会に生きる一つのコモンセンスにほかならない。

響かないメッセージ

ある企業の敷地に芝生を敷き詰めた小さな広場があった。芝生以外に標識はない。「この広場に名前を付けていますか?」と尋ねれば、特にないとの返事。邪魔にならないようにネームプレートを掲げると、目に止まった人に親近感が湧くかもしれないと助言した。

ところで、芝生の広場に名前が付いていることはめったになく、囲い込まれた敷地内であるにもかかわらず、目撃するのは「芝生内立ち入り禁止」という表示のほうである。そこに足を踏み入れて欲しくないのが本意であっても、そんな注意書きを掲げるのはよろしくない。せっかくの空間が台無しになってしまうからだ。標識を掲げるなら広場の名前のほうがいいに決まっている。

「芝生に入るな!」の一言は、芝生をそこに植えて美しく演出しようという意図なり動機なりに反するのである。街中を見渡せば、注意を促し禁止を謳う表示板のお祭り大会が開かれているかのよう。電車に乗って耳に入るのは、「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」「お忘れ物のないように」「優先座席付近では携帯電話の電源をお切りください」等々。ドア回りにはこれでもかばかりにシールが貼ってあって「指づめに注意」をはじめとする各種禁止のアイコンが目立つ。本来乗客に必要なメッセージをマナーを正すメッセージが圧倒している。

重要だが気がつきにくいことはある。そこのところに注意を促されればありがたいと思う。だが、ほとんどの「何々してはいけない」は言語化以前に自明なのである。自明であるならば、常時公共の場で生活し行動する成人に向けてわざわざ伝えることはない。社会は「成人はコモンセンスを備えている」という前提に立つからである。中村雄二郎は『共通感覚論』で、「(……)実際的な理解力であり、物事を正当な光のなかで見る人々の能力であり、そして健全な判断力である」と、コモンセンスを明らかにしている。いちいち誰かに諭されなくても、大人ならある程度は分かるでしょ、ということだ。


もっとも、注意事項を発する側からすれば、分かってもらえないからこそ敢えてことばにしているのだと理屈の一つも言いたくなるのだろう。しかし、その伝でいけば、公共の場で素っ裸はいけないから「汝、衣服を纏うべし」と言い、また、盗むことがよくないことを理解しない者がいるから「汝、盗むべからず」と言わねばならなくなる。

度を越せば、注意の理由にいちいち注意書きを付けることになりかねない。なぜ衣服を纏わねばならないのか、なぜ盗んではいけないのかと。自明であることをわざわざ明文化しようとする際には、誤解を恐れるあまり饒舌な注釈が足されるものなのだ。なお、しかるべき場所に「駐車禁止」と貼り出す類いは、一見注意に見えるが、実は情報提供であるから、許容範囲なのである。但し、「近隣の迷惑になるので」という追加情報は野暮である。

植木と隠しカメラ

いつもの散歩道から少し外れると、車道寄りの歩道に十いくつかの植木鉢が並んでいる場所がある。歩道を挟んで商店兼住居があり、その住人が育てているようである。いつもシャッターが下りていて、どうやら開かずの店らしい。商売をしている様子はない。シャッターには「猛犬に注意」というシールが貼ってあるが、犬を飼っている気配はない。植木鉢を置いている場所は公共の歩道であって、明らかに住人の土地ではない。一本の植木にかなり目立つ表示板がぶら下がっていて、そこには「かくしカメラを設置しました 花、木、実を持ってかえらないで下さい」と書かれている。

丁寧に扱われている様子もなく、おそらく置いてはいけない場所に適当に置かれている、さほど美しくもない植木に植木鉢。景観や美化に役立っているとも思えない。それでも、不器用ながらも、いいことをしているつもりなのだろう。ほとんどの住民、通行人はコモンセンスの持ち主である。性善説的に考えるなら、この注意書きはコモンセンスには不要である。コモンセンスを欠く盗人に対しては、そこに何が書いてあろうとも、少々の文言では抑止力にならない。いや、むしろ、「花、木、実を持って帰ってやろう」という愉快犯罪を助長しかねない。隠しカメラなどないことは見え見えである。

注意書きのほとんどは、承知している者には響かず、また、承知していない者または注意に反しようとする者にも響かない。つまり、要らないのである。コモンセンスを欠く少数派のために無意味な公共メッセージを量産してはならない。どうしようもない連中には、言語ではなく別の方法――制裁や抑止力――を用意するしかないのである。

橋のことからふと考えた

フィレンツェのアルノ川に架かる名橋ポンテヴェッキオは、その名もずばり「古い橋」である。架設された時点で「古い」などと形容したとは思えない。新築の旅館にいきなり「旧館」などと名付けないように。ともあれ、ポンテヴェッキオと言えば橋のことであり、そのあたり一帯の地名を指すことはない。

ぼくは大阪で生まれ育った。八百八橋が有名だが、実際はそんな数に達したことはないらしい。名立たる大阪の橋の名は、橋が残存していれば橋そのものを表わすこともあるが、おおむね地域周辺を指す地名として使われる。東京の日本橋もそうだ。あれは橋であるが、地名として意味される頻度のほうが高い。大阪にも日本橋がある。東京では「にほんばし」、大阪では「にっぽんばし」と読む。大阪人が日本橋と言うときはほぼ地名である。ちなみに、「にっぽん」のほうが「にほん」よりも古い時代の発音と言われている。切手などは“NIPPON”

さて、ぼくの徒歩行動圏は橋の地名だらけである。淀屋橋、天神橋、天満橋、京橋、長堀橋、心斎橋、阿倍野橋……。このうち、長堀橋と心斎橋はすでに橋そのものが存在せず、地名としてのみ知られている。他の現存する橋にしても、橋よりも地名としてのアイデンティティが優勢だ。「待ち合わせは淀屋橋にしよう」と提案したら、そのメッセージは橋の上ではなく、その地域での待ち合わせを意味する。淀屋橋と聞くだけで駅を連想する者がたまにいる。京阪と地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅に親しみがあるからだろう。言うまでもなく、「職場は淀屋橋です」と誰かが言っても、橋の上や下で仕事をしているなどと早とちりしてはいけない。


志んさいはし

すでに橋が存在しないから、「心斎橋で働いている」と言えば、勤務地が心斎橋エリアということである。かつて長堀川が流れていたが、東京五輪の頃に埋められて通りになった。すでに半世紀前のこと。当時中学二年だが、川が流れていた記憶がほとんどない。川の時代に架けられた心斎橋が、川がなくなっても架かっていたのはよく覚えている。その下を車や人が行き来していた。

何のコマーシャルか忘れたが、歩道橋時代の心斎橋に田村正和がキザに佇むシーンがあった。石柱には凝った装飾が施されていた。その橋ももう30年以上前に解体・撤去された。石造橋の一部、ガス灯だけが復元されたにとどまる。名残のシルシは交差点に申し訳程度に残っているに過ぎない。この「旧心斎橋」あたりは、中国人を多数派とする観光客のショッピング通路になっている。交差点の南東角のビルの1階スペースは、ツアー客のフリータイム後の集合場所だ。中国語以外の言語を耳にすることは稀である。

高度成長時代、地下鉄工事のために長堀川を埋め、心斎橋を取り壊した。今また、アールデコ建築の傑作と言われる大丸心斎橋店を、味も素っ気もないショッピングモールに変貌させる計画が持ち上がっている。他の46都道府県の実情に不案内なので、敢えて国民性とは言わない。大阪に限定して、経済的発展のためなら後先を考えない、辛抱の足りない府民性、いや、もっと正確に市民性と言っておく。伝統的遺産喪失の対価が単に目新しさだけでは、歴史が継承されることはない。

フィレンツェに現存するポンテヴェッキオの話に戻る。橋は1345年に再建されたとヴァザーリが記録している。再建ということばから、それ以前に存在していたことが窺える。現在、橋の上の両側には宝石店が立ち並び、その建物の上階部に通路がある。その通路が、アルノ川右岸のヴェッキオ宮殿(現フィレンツェ市役所)と左岸のピッティ宮殿をつなぐ回廊の一部を担っている。日本人なら、とうの昔にアルノ川の下に地下鉄を通し、橋を壊して殺風景な地下道を作ったに違いない。江戸末期の長堀風情に匹敵する観光価値は現在の心斎橋には微塵もない。外国人がそこに集まるのは物欲を満たす買物のためだけである。

観光ブームの光と影

観光の専門家でもなければ都市論に精通しているわけではない。それでも、行政で政策形成の研修に何百回と携わり、二千以上の企画案を指導し評価してきた。そのうち、観光をテーマにした企画は少なく見積もっても500事例はあったはずである。きわめて偏った視点かもしれないが、観光について私見を披歴する資格はあると思う。と言うのも、外国人観光客が増えて本格的ブーム到来との声高らかであるが、実際に観光都市に赴くと残念な場面に遭遇するからだ。

観光客のための街づくりという考え方にぼくはくみしない。旅人だけに指向して整備された街はやがて飽きられるし、俄か観光地の振りをするにとどまる。そうではなく、住民がふつうに日常生活を送っていなければならない。彼らの生活と固有の歴史文化がケレン味なく融合して観光資源になっているのがいい。フィレンツェ、ボローニャ、ウィーン、パリ、バルセロナに滞在してみれば、生活空間と観光価値が自然発生してきたことがわかる。もちろん、これらの都市でも観光客を対象にした政策やビジネスは存在する。けれども、その都市ならではの固有の特性までは損なわれていない。土産物通りが出しゃばって主役の歴史を食うなどということがないのである。

わが国はどうか。残念ながら、観光に強いと言われる都市にさえ、観光客向けの強い作意を感じてしまう。観光客のための意匠が歴史地区の持ち味を土足でけがしているのである。魅力ある街のほとんどは、観光地である前に、歴史的文化的キャンバスの上で生活を営んでいるものだ。

日常〉にない〈異種体験ハレ〉を求めるのが旅の本質だろう。ふだん見慣れた光景とは異なる印象を刻み、思い出を振り返る。観光とは「光を観る」。旅人たちは珍しい光を観に来るのである。ここまでは、パッケージツアーでも個人旅行でも変わらない。観光の質に雲泥の差が出るのは、現地での行動の裁量と自在性である。ツアーならどこに行って何を見るか、何を食べてどこで泊まるかに意を払わなくて済む。個人旅行は自由度が高いが、何から何まで自前で調べ決めなければならない。事前知識と現場での情報が食い違っても、自己責任で対応しなければならないのである。


information

個人旅行者は見知らぬ観光地にあって的確な情報を求める。ガイドブック、地図、交通路線図、そして観光案内所は不可欠である。観光案内所が近くになければ住民らしき通行人か店で尋ねることになる。ぼくのヨーロッパの旅のほとんどは、目新しい光を観るばかりでなく、わからぬことを人に尋ねる旅でもあった。国内の出張時でも、下手に邪推などせずに人に聞く。ご当地の人はある意味で権威なのだから。今年の一月、広島の県北で研修を依頼され、初めての地に赴いた。JR広島駅までは何の手引きもいらなかったのは言うまでもない。

大阪を出る前に電話で問い合わせておいた。備北交通の高速バスで美土里バスターミナルへ行きたいと言えば、JR広島駅の南口を出て右手に手前からABCとターミナルがあり、14:05発はCから出発すると説明してくれた。心強い。さて、Cターミナルに行けば、行先が5つほどに分かれていた。何度も行先と時刻表をチェックするが、ぼくの目的地の表示が見当たらない(後でわかったことだが、微熱でぼうっとしていたぼくの見落としだった)。不安になりバス待ち人に尋ねるも、同じ行き先の人はおらず、「知らない」。誰に聞いても「知らない」。最後に尋ねた人は「もしかして北口では」と言う始末。もし北口が正しいなら、もう間に合わない。階段の上り下りがあるし、手ぶらで速足でも7、8分はかかるから。

焦ってもどうにもならない。冷静さを取り戻して、向かいのBに停まっているバスまで行き、運転席の窓ガラスをノックして運転手の注意を引いた。面倒臭そうな顔をして運転手が窓を開ける。行き先を告げCで合っているのか確認した。すると、運転手はこう言ったのである、「これはH電バス。お宅が乗る高速バスは他社だし、その路線はよくわからない」。最終手段である専門家に聞いてもわからないならしかたがない。腹をくくってCで待った。案ずるより産むが易しと言うべきか、ぼくは無事に現地に着いた。

別に怒り心頭などしなかったが、観光ブームの影のほうを目の当たりにして呆れ、がっかりした。広島の良識ある人々がどんなに観光都市宣言をしても、交通や地理についてプロの運転手たちが自社以外に関して「情報鎖国」をしているかぎり、旅人は満たされることはない。観光地に到着する前に、ぼくたちは公共交通を使うのである。そこでの印象が旅全体に、ひいては街の印象に及ぼす影響は少なくない。バス会社間の連携はおろか、情報共有すらできていない状況でどんな観光都市を目指すのか。観光でメシを食っているプロたちが自らの商圏にとどまる。問われても、それ以外のことはわからないで済ませる。ちょっと調べてあげよう、誰かに聞いてみようと思わない。瑣末なことだと言うなかれ。名所旧跡だけが観光ではないのである。

PR、サービス、魅力」が観光立国の3要件であるとはよく知られているが、サービス向上は未だに道険しと言わざるをえない。別に言わなくてもよかったのに、世界に向けて「おもてなし」と有言してしまった。今のところ、理想と実態の格差を浮き彫りにした恰好である。

大人の独学

英国首相だったウィンストン・チャーチルがおもしろいことを言っている。

「私としては、いつでも学ぶ姿勢をとっているつもりだ。ただ、教えられるのが好きじゃないだけなのさ。」

まったく同感である。ぼくの学校時代、生徒に自発的な学ぶ姿勢などはほとんどなく、ただ教えられることだけが習慣化されていた。学生からすれば教えられることが教育のすべてであり、教師からすれば教えることが教育の主眼であった。教え教えられるという単純な構造が教育であった。社会に出てこの構造から解放されたにもかかわらず、大人たちの大半は未だにこの習慣に縛られている。誰かに強制されているのではなく、勝手に自縛状態に陥っている。

独学

学ぶ意欲が横溢し学ぶ姿勢もスタンバイしているのなら、誰かに教えてもらうことなどない。「大人なのだから」というのは説得力のない理由だが、そう言うしかない。大人なのだから、いい加減に受動的・反応的に教えられる態度を改めて、能動的・主体的に学ぶ姿勢に切り替えるべきなのだ。言い換えれば、学びの他力から独力への転換である。独力とは、デカルトが言うように「理性レゾンの力」だ。この一点においてのみ、子どもの学習と大人の学習が峻別されるのである。

学校で解答を間違ってもペーパー上で減点されるだけである。減点、つまり成績が悪いことがその後の人生と無関係であるとは言わない。しかし、一枚の紙ごときで人生の何事が決められるのか、決められてたまるものかと意地を張ることはできる。他方、実社会で誤れば、減点はペーパー上ではなく、生活上や仕事上ひいては人生上に罰としてはねかえる。だからこそ、集団教育内の過ちから得るのとは比較にならないほどの教訓をぼくたちは社会での失敗から学ぶことができる。他力によって教えられる学校よりも、独力によって学ぶ社会のほうが、人生の真理に近いのである。


厳密に言えば、独学と独習は異なるが、ここでは一括りにして独学としておく。学校に通わず先生にもつかず、もっぱら本を頼りにして自分で内容とレベルを想定するのが独学である。自力がすべてであり責任も自己に帰着する。他方、脱権威の自在性があり自由裁量があり、他の誰かと異なる固有の、しかも非体系的・・・・な学習が可能になる。だが、独学は孤独である。その覚悟はしなければならない。社会に出てからのぼくはつねにそうしてきた。生活と仕事の現場と本以外の手段から教わったことは一度もない。だから物事の体系などあまりわからない。いっさいの資格を持たない。学者ではないからそれで困ったことはない。

大人になってからの集団学習は、必要悪とまでは言わないが、教育の創造性欠如による妥協策にほかならない。みんなで学ぶのは一人で学ぶよりも何となくいいのではないかという程度の認識で「集団共学」がおこなわれている。だが、これほど効率が悪いものはない。ある人は教わる事柄の何十分の一しか学ばず、仕事に役立てることもままならない。レベル分けされている資格系の学びを除けば、たいていの実学系講座は受講対象者を問わない。足りているものばかり教わって、足らざるものは依然として不足気味。教師や教材も選べない。強い学びの意欲があれば上位者と席を同じくして伸びる可能性があるが、その可能性が開かれた者は独学もできてしまうはずである。

己に厳しいハードルを課して高みを目指すなら独学に限る。しかも、効率的なのである。みんなと一緒に学ぶという心理的安心感に見切りをつけて独学すれば、教えられる共学などという甘えた精神で学ぶ者たちに負けることはない。彼らのほとんどは知らないことを学ばず、知っていることをただなぞるだけなのだから。朱に交わっても赤く染まらぬ。強い個人として思想を鍛える。本を読み、熟考し、意見を構築し、誰かをつかまえては対話をし、折りに触れて考えるところを書いてみる。このようなやり方で資格を取得するのは難しいが、資格などどうでもいい人間にとっては、独学は個性的な知性を形成する最上の方法であるとぼくは思っている。

「そう言うあんたは私塾や研修で教えているではないか!?」という反論が聞こえてくる。それは誤解である。ぼくは学校の先生のように教えていない。そもそも教えなどしていない。大した人物ではないが、独学してきた一存在として自分の経験と知識を教材として、あるいは語りとして提供しているにすぎない。学び手にとって一つの触媒になれれば本望なのである。

かゆい所におもてなし?

考えを明文化するにあたっていっさい妥協しない主義だが、一つだけ例外がある。ハウツーや作法の明文化、そして文章による指南には疑問を抱いている。想定する以上の効能があるとは思えないのだ。かつて企業の販売最前線ツールとして何十ページものセールストーク集が頻繁に編まれた時代があった。ぼくもQ&Aのコンテンツを考え編集に参画する機会に恵まれた。協力者にとっては「おいしい仕事」であった。しかし、経験の浅い者がハウツーを学んでも、学びは本番ではなく、リハーサルにすぎない。リハーサルと実践の間には気の遠くなるような距離が横たわる。しかも、飲み込みの早い遅いがある。セールストークを磨き上げる大前提には場数と試行錯誤が欠かせないのである。

セールストークに言えることは、昨今はやりの「おもてなし」にも当てはまる。おもてなしというサービスの基本は、マニュアルで規定される要素よりも現場での臨機応変性のほうがものを言う。基本は「目配りと気づき」である。いくら研修でマニュアルを丸暗記しても、ピンと来ない者が脳内を検索できるはずがない。覚えたはずのことを場に応じて起動させるには、場の隅々に目配りし、見えざる困りごとやニーズに気づかねばならない。目配りし気づくから、覚えたハウツーが即座に思い出せるのである。

立ち居振る舞いや諸々のサービスが顧客の期待以上のものであること。これをおもてなしと称したはずである。心を込めて客を応対することを昔から「もてなす」と言い、ほとんどの場合「もの」を主として歓待していた。ものとは酒であり食事であり茶菓であり花などであった。つまり、客も提供する側も暗黙のうちにもてなしの内容を了解していたはずである。但し、決まりきったサービスがあるわけではないから、結局は客の感じ方が質のほどを決定する。十分にもてなしたつもりなのに、客のほうがもてなされたとまったく感じないことがあるわけだ。ものの提供から捉えどころの難しい気持ちやことばに転化してきたのが今日のおもてなしスタイルであり、ブームを形成しつつあると言えるだろう。


全日空グループのANA総合研究所と東京大学が、客室乗務員の接客行動を分析する共同研究を始めると発表した。客の希望を先回りして提供するおもてなしを科学的に分析し、人材育成に生かそうという試みだそうである。そして、今さら? と首を傾げたくなる常識的な「おもてなしとは相手の欲求に気づくこと」との仮説を立てた。機内乗務員の行動パターンを装置的に記録する……いちはやく客の欲求に気づく乗務員に「なぜ気づいたのか」という聞き取りに一年をかける……これらの集積データから「おもてなしができる人材の共通項」を割り出す……という手順らしい。手っ取り早く言えば「気づきの科学的実証」である。

孫の手

この新聞記事を読んで、ぼくは大きく溜息をついた。先に書いたように、どんなに優れた方法で現場情報を集めても、数字や明文化されたものから学ぶことなどはほとんど絶望的だと思うのである。他人の見えざる願望――ことばになる前の思い――を汲み取ったり、何かにつけてよく気づいたりする能力は、長年にわたる場数と習慣形成の賜物であり、分析不能な資質の統合ではないか。客室で気づかない者は、日々の衣食住にまつわる生活行動においてもたぶん気づきが少ない。そんな気づかない人間に視野を広げさせ、感受性のアンテナを立てさせ、臨機応変に状況に処することを指導することはほとんど不可能だろう。

はたして一年後に「あらゆるかゆい所にも届く孫の手」のような共通項が出てくるのだろうか。結局は人の問題として片付けられるような気がする。物理的視野角が広く、かつ心理的洞察力に優れた人材などという結論なら、今すぐにでも下しておけばいい。

もう何十年も前の話を思い出す。生命保険会社か銀行かが倒産についての調査をおこなった。「倒産しやすい企業」の共通項のあぶり出しである。ぼくの記憶が正しければ、その調査の一番の収穫は「創業10年未満の会社に倒産が多い」ということであった。コーヒー1杯をおごってくれたら、誰に聞かずとも、十いくつかの倒産要因を箇条書きにしてあげただろう。この調査には数千万円が費やされた。創業とは赤ん坊がよちよち歩きを始めるのに似て転びやすい。小学生高学年になると転びにくい。当たり前である。企業も同じで、倒産しなかったから10年、20年続いたのである。

手間暇がかかる割には調査や実験というものは、ふつうの人間がすでにわかっている事柄に遠回りしてやっとこさ辿り着くことが多い。おもてなしの実証研究がそうならないことを祈る。だが、ぼくたちが想像もつかない、目からウロコが落ちるようなノウハウが期待できるだろうか。

寡黙なる人々

世代論には当たり外れが多く、あまり信憑性を認めない。「おれたちの世代は今の若者と違って……」という年配者の決まり文句はいつの時代にも聞かれたし、今も「最近の若者は……」という勇み足の一般論が後を絶たない。とりわけ「団塊ジュニア」などと新しい造語で世代を一括りするのは共通項のでっち上げになりかねない。

このような安易で強引な類型化に与しないが、例外的に「現代の若者」に感じている特徴がある。統計も理論的根拠もないが、直観的現象論でもない。まずまずの数の経験的サンプルから帰納したぼくの大雑把な感覚によると、彼らは先行する世代に比べて「寡黙な人たち」なのである。

残念ながら、彼らどうしのお喋りをつぶさに観察しているわけではない。ぼくが経験しているのは、ぼくや年長者と居合わせている時の彼らの寡黙ぶりである。問われたり導かれれば口を開くが、主体的に言を尽くすのは稀である。もし食事中にぼくもだんまりを決め込んだら、おそらく長い沈黙の時間が過ぎるだろう。出された宿題は解くが、自ら問いを発して問題を解こうとしないのに似て、促されなければ平気で黙っている。わずか数秒の沈黙にすら居心地の悪さを感じるぼくからすれば、驚嘆に値する忍耐力と言わざるをえない。

黙

黙る行為の内には功罪の価値が対立する。黙るのは喋ることに比べるとリスクが少ないとよく言われる。たとえばギリシアのシモニデスの「口をつむぐ時、愚か者は賢く、賢者は愚かになる」という格言が示すように、公開の場で愚者が賢者を逆転するには、自分が黙り、自分よりも賢い相手に喋らせればいい。早い話が、賢者のオウンゴール待ちである。公開の場でなくても、一方的に話し相手がただうなずくだけという場面で、もしかしてぼくのほうが愚かなのではないかと思うことがある。喋ると小人物が暴かれるが、黙っていると大物感が漂うから不思議だ。


実際、「心が広くなると口数が少なくなる」(中国の諺)や「口をつむぐ者は魂を守る」(旧約聖書の箴言)のように、寡黙礼賛の教えも少なからず語り継がれてきた。とは言え、ずっと黙り続けている者への教えではない。これらは弁舌を尽くしてもなお語りえない境地に到った賢者の寡黙のことだろう。ぼくは思うのだ。天に召されたら無条件で黙ることになる。永遠の沈黙が確実に保障されている。ならば、生あるうちに口ごもりながらも駄弁を弄しておいてもいいのではないか。

「沈黙は承認のしるし」(エウリピデス)や「無言の拒絶は半ば同意」(ドライデン)というのもある。ノーなのに黙っていればイエスと解釈されても文句は言えない。本心がノーならノーと言えばいいのに、黙っているから後々厄介になるのである。こうした沈黙者に対して一方的に語りかけるのがこれまでのぼくのやり方だった。最近は若い世代が話すまでぼくから口を開かない。意地悪だが、「口を閉ざしている者には、他人もいっさい口を閉ざす。その沈黙へのお返しだ」(ベーコン)に従うようにしている。「ほら、相手に黙られたら困るだろ?」というつもりだが、まったく動じない者もいるから、文字通り「閉口」する。

若い世代に寡黙なる人々が少なくないことは経験的にわかっても、なぜ彼らが寡黙なのかを説明する材料を持ち合わせていない。しかし、ぼくたちが生きているのは、話さなくて済むことよりも話さなければ始まらないことのほうが圧倒的に多い時代である。寡黙はおとなしさや誠実の象徴に見えるが、同時に、交渉時に本性を隠す時の常套手段でもある。つまり、寡黙の仮面を剥いだら危険極まりない人物であったりするのだ。事件後に「まさか、あのおとなしい人が……」と知人友人がテレビで語っているのはこのことである。他方、声高にまくしたてる人間には駆け引き下手が多く、ある意味で素直にホンネを開示しているとも言えるだろう。さて、寡黙なる人々へのぼくの今日この頃の印象はラ・フォンテーヌの思いと同じである――「黙っている奴は物騒だ」。